なにごとも数字(データ)のご時世、作家ごとに読者偏差値を調べてみたらどうなるだろう。
これは絶対的な確信があるため言い切るが、
山田太一氏や宮本輝氏の読者偏差値は低いはずだ。
理由は作者の偏差値がどうのと不穏なことを言いたがるものもいるだろうが、
むろんそうではなく(正確にはわかりませんよ)、人気作家とはそういうものだからである。
多くのファンから愛される作家は、それだけ読者偏差値が分散化され、
平均としては下がってしまうのである。
あまり大きな声では言えないが作者ごとのイメージというものもあろう。
好きな作家が山田太一氏や宮本輝氏だと言うと、あまり知的な印象を持ってもらえない。
作者イメージというのは不思議でなぜか好きな作家が村上春樹氏というとお洒落になるらしい。
とはいえ、村上春樹氏も人気作家だから読者偏差値は相当に低いだろう。
身近に愛読者がいるので書いていいのかわからないが、
山本周五郎の読者偏差値はかなり低いはずである。
東大卒のノーベル賞作家、大江健三郎氏が好きだというとインテリっぽいのではないか。
実際、読者偏差値も高いのだろうと思われる(わたしは大嫌いだが)。
関係ないが太宰治を好きだと言ってもいいのは美少女、美少年だけである(要顔面偏差値)。
そういえば、作家と読者の顔面偏差値はどうなっているのだろう。
わたしは(異論は認めるが)柳美里氏が美人だったからいっときとても愛読した。
うっかり過去形で書いてしまったが、いまでもおきれいなのではないかと思う。
村上龍氏の愛読者は上昇志向の強いあぶらっこい人が多いような気がする。

「もてない男」小谷野敦氏の読者は間違いなくもてない男だろう。
「戦う哲学者」中島義道氏の読者はなぜか戦わない自意識過剰の小心者が多そうだ。
「患者嫌いの精神科医」春日武彦氏の本は
いったいどういう読者層が買っているのかさっぱり読めない。
ちなみに、小谷野敦文学博士、中島義道哲学博士、春日武彦医学博士、
この3人の博士は未成熟三銃士と勝手に命名している。
3博士ともにいいご年齢なのにまったく成熟していないのが感動的である。
「大人にならない(なれない?)」のもひとつの才能なのだと思う。
読者としてのわたしが知るなかでもっとも大人であるのは心理療法家の河合隼雄氏である。
潮出版社と岩波書店から同時に本を出せる人が河合氏のほかにいるのだろうか。
いるかもしれないが、あれほど節操がないのはやはり稀有なのではないか。

作家の知的&顔面偏差値と読者のそれはいったいどういう関係にあるのか。
自分でも信じられないが、
こんなブログにも少数ながらご関心をお持ちの方がいらっしゃるようだ。
学歴マニアの小谷野博士ではないから偏差値はまあどうでもいいが、
どんなお顔をしているのかはちょっぴり興味がある。
もちろん、作者の顔と読者の顔に関連性などないのはわかっているけれどさ。
顔というのは思いのほかその人の情報を伝えるような気がする(少なくとも学歴よりは)。
わたしがメール文通のようなものが苦手で、できたら逢いたがるのもこのためだ。
おなじ内容(文章)でもどんな顔の人が言うかで大違いなのではないか。
侮辱的発言や罵詈雑言でも心が病んでいると思しき貧相な高齢者から言われたのなら、
相手への同情が先立ち怒る気もしないだろう。
年下の美人からならなにを言われてもニコニコしているかもしれないし(これはウソだな)、
逆に美人だから調子に乗るなよと攻撃的になる可能性も高い(……いやなやつやね)。
精神科医は絶対に対面しないと診断できないわけである。
精神科医の偉いところは(ナースはいようが)一対一で面会しているところだ。
新興宗教の勧誘(折伏)のようにひとりを複数で囲んでいるのではない。
逢うのは一対一が好きだ。別に相手の学歴(偏差値)など事前に知らなくてもよい。
考えてみれば、読書とは面談と似たような作者と読者の一対一の勝負である。
こちらの顔を向こうに知られなくてよいのは書籍代を支払っているからだろう。
書評で相手の顔のことを持ち出すのはフェアかアンフェアかはわからない。
こんな過疎ブログをお読みの変人(失礼!)には、
「職業に貴賤はない」なんていう建前はあまり支持されないと思う。
かなしいことに職業のみならず、人間はそれぞれ容姿、家柄、内面によって貴賤がある。
たとえば名家の金持でも心根が賤しいものはいるし、
貧乏人でも人格が貴いとしか言いようがない尊敬したくなる人がいるだろう。
さて、職業の貴賤について思ったことを書きたい。
ふたつの貴賤判断レベルがあるのではないか。
第一は収入であり、これがいちばんわかりやすいと思う。
偽善的な物言いを廃せば、世間的には年収1千万のほうが2百万の人よりも偉い。
しかし、職業観はこれだけではない。金だけではない。ステータスという貴賤がある。
人によっては年収1千万の大企業社員よりも年収百万の芸術家を偉いとみなす。
世の中には大きな誤解あるいは救済があって(しつこいがこれは偉大なる救済だ!)、
なぜか自分を表現している(と思しき)職種は夢のギョーカイとされている。
この錯覚によって、奴隷以下の待遇でも具体例をあげればADやライターは救われている。
もちろん、ADやライターのみなが奴隷ではなく、少数ながら貴族のような身分のものもいる。
たとえばテレビ局正社員のADは、かりそめの奴隷だ。
受賞歴多数で高収入のライターさん(この場合は作家や脚本家という)もいよう。
意外と知られていないが、制作会社の奴隷ADになるのでさえ超高倍率なのである。
下請け編集プロダクションの奴隷ライターになるのも実のところかなりの難関だったりする。
奴隷ADや奴隷ライターがときにおのれをだれよりも幸福に思うことがあるのはこのためだ。
自分は選ばれた、多くの人がかなえられなかった夢を実現した成功者だよ。
こう思えばこそ、他人からは奴隷としか見えなくても、
本人は夢をかなえた果報者でいられる。プライドは傷つくどころか増すばかりだ。
一般人は奴隷さんの「寝てない自慢」にはまあ引くだろうが、
本人は嬉々として誇るのはこういう事情による。
批判したいのではない。とてもいいと思う。
時給2千円の接客業を蹴って時給換算したら百円以下の夢の仕事をするという人生もありだ。
わたしは夢追い人をかなしい自嘲とともに尊敬しよう。
人生で一度だけ競馬をやったことがある。
大学時代のことで、いったいだれにさそわれたのだったか、
年末の有馬記念にコンビニ夜勤のバイト日給半額分5千円を投入した。
学生は競馬をしてはならないらしいが、
こちらは不勉強な文学部生のため法律のことはなにも知らなかった。
むろん賭博に極めて親近性のある文学のことにもさらさら無知だったと思う。
5千円も賭けるのだから競馬新聞を何紙も購入して独学で勉強した。
言うまでもなく、5千円の1点賭けである。
結果は無残にも敗れた。
当時の感想としては息を吐くいとまもなく大枚5千円が紙くずになった。

ところが、いまにして思えばこの敗北もまたよかったのかもしれない
(いやいや、あんがい悪かったのかもしれないけれど)。
さいわいにもおかげさまでギャンブルで身を持ち崩すということからは
いまのところ避けられているような気がする。
むろん、博打で狂った人生もそれなりに悪くはないのではないか、とは想像できるが。
余談だが、酒でも女でも人生は狂ったほどおもしろいのではないか、
という誤解は恥ずかしながらいい歳をしたいまでもどこかに有している。

負けるのもまたいいのである。もしかしたら勝利ほど怖いものはないのかもしれない。
ビギナーズラックで競馬で大勝利したら、
まあ人生は破滅まっしぐらだろう(繰り返すが、それもまた独特の味わいがあるとは思うが)。
とはいえ、やはり勝つのは怖いと言っておきたい。老婆心ながら。
むかし40過ぎのおばさんがわたしに逢いに来たことがある。
なんでもシナリオ・センターの会員で将来は絶対に売れっ子脚本家になるのだという。
根拠は15年以上まえの学生作文コンクールで佳作(?)を取ったことらしい。

過去の勝利が人生を狂わせる。
バツイチのその女性はわたしの作品感想に激怒して青梅警察署に被害届を出したのだから。
なんでも15年まえコンクール佳作を受賞した自分はこちらよりも数段格上らしく、
批判的な物言いはかの女にとっては名誉棄損の重罪に相当するとのことである。
警察からは電話1本来なかったが、
勝利ほど怖いものはないのではないかという思いを新たにした。
一度勝利してしまうと人はその経験に何重にも縛られるから自他が見えなくなるのである。

勝つのはむろんいい。大勝利はさらにいいのだろう。しかし、負けるものまたいいのではないか。
勝利ということを一度も経験したことのない受賞歴ゼロの中年男性の独白である。
勝利もいいが敗北もそれなりの味わいがあるのではないか。
つまり、もしかしたら、間違っているのだろうが、「なんだっていい」のではないか。
もちろん、この考えは一度でも小さな勝利を味わったら変わるかもしれないことを注記しておく。
中年転職者には酷なので、優秀な高学歴の新卒学生さんにお願いしたいことがある。
コネで就職が決まっている世間知らずのお坊ちゃん、お嬢さんの社会勉強には最適だと思う。
「個性あふれる人材を求む」と希望している中小企業の面接に行ってください。
履歴書の長所には「正直」、趣味には「人の悪口」とためしにで結構ですから書いてみて。
貴女貴男と面接官との応答に興味があるのだ。率直に知りたい。
善良そうな面接官たちだって、
面接後はかならずや正直本当、応募者の悪口で盛り上がっているのである。
みながしないことをするのが個性なら、そういう就活生が評価されてもいいのではないか。
そういう就活生とは長所が「正直」、趣味は「人の悪口」――。
あっはっはっ、以上は大人ならぬ子どもの考えることゆえ断じてしてはなりませぬぞ。
たとえば寿司屋で(むろんおごり)目上の人から「食べたことあるか?」なんて言われながら、
ご馳走された高級珍味を口に入れたときが大人試験というものである。
たとえ食べたことがあっても「ない」と答える。
たとえまずくても「おいしーい♪」と感動したふりをする。
ウソが通じにくいと感じたときは、
「ずっと嫌いだったんだけど、ここのはどうしてこんなにおいしいんですか(涙)?」
という手もあるが、これはかなりの上級技であるため万民にはすすめられない。
言うまでもなく、おごったほうは大人である。
相手がほんとうに感動したかどうかなどすぐに見破れる。
しかし、この大人試験で「おいしい」とうまく言えたものを大人はひいきにすることになる。
なぜならば、彼もそうやって出世したからである。大人とはこういうものだ。
これは男同士の関係での話である。
男女関係ならば貧富上下関係なく、
「こんなの経験したことない」は普遍的に使われていることだろう(よくわかりませんが)。
人間が生きていくには欠かせぬウソをなくせと申しているわけではないのだ。
こちらのあたまが悪いから名作小説を誤読している可能性が高いが、
人生という大勝負に大勝利した大作家の某先生が「山盛りのキャビアとシャンパン」を
幸福の象徴としてある現代小説の小道具として用いていた(しつこいが読み間違いかも)。
芥川賞選考委員で紫綬褒章作家であられる尊敬する某先生がお書きになった幸福はこうだ。
おそらく先生のご子息をモデルとしたと思しきアラフォーのエリート会社員が、
小説内で豪勢にキャビアをシャンパンで流し込んでいたのがとても印象的であった。

若き人生の勝利者が美食を美酒で飲み干し盛大に勝ち誇るシーンは、
残酷なまでに落伍者にほかならぬ当方の記憶に刻み込まれた。そう悪夢のようにだ。
ならば、さすが大勝利した大作家ならではの天才的にうまい描写であったというべきだろう。
ちなみに、大勝利者のご令息と同世代のこちらは、
恥ずかしながらキャビアもシャンパンも一度として口にしたことはない。
どうでもいい貧乏舌を自慢するようだが、
フグもマツタケもたとえひとかけらの残飯としても口に入れたことがないのである。

しかし、これでいいと思うのである。
あえて知らないほうがいいこともあるのではないか。
知らないほうが夢が広がるのはある種の真実だと思う。
たぶん鎌倉時代の法然や親鸞、およびマイナーな一遍は実際のインドを知らなかったからこそ、
西方浄土などという絵空事を信じることができたのではないか。
日蓮大聖人さまも法華経は釈迦の真説ではないと知らずに没したから幸いだったのだ。
わからないがキャビアもシャンパンもフグもマツタケも、きっとおそらくたぶんぜったい、
いざ嚥下(えんげ)してしまえばなんてことがないはずである。

天下に認められた大勝利者の紫綬褒章作家がこれしきのことを知らないはずがないのだ。
高額な贅沢食品をみなにならって、むろんのこと大根役者のように目を泳がさずに、
「これは最高にうまい!」といえるようになるのが大人になるということなのだろう。
彼ほど自分の虚偽の発言が社会底辺層に
「夢を与える」(某天才美少女芥川賞作家)ことを知っているものはいまい。
しかし、その夢を信じられなくなった中年男も現代にはこうしている。
キャビア、シャンパン、フグ、マツタケにまったく興味がない。
これはいけない。いけないんだ。人間は大勝利を目指さなければならない(の?)。
もしかしたらこれはわたしの病的妄想かもしれないが、
女性から被愛妄想を抱かれることが多いような気がする。
女性から好意を持たれることが極めて少ない(いわゆる、もてない)のは、
もはやおのれの性格と面相をかなり客観視できるようになったからあきらめている。
顔さえよければなどと甘いことをいうには自分を知りすぎたところがある。
もし顔だけキムタク氏のようになっても、
なにより心が腐っているからすぐに勘の鋭い女性に見破られるだろう。
外面のみならず内面もまた外面同様あるいはそれ以上にひどいものなのである。
さて、被愛妄想だ。繰り返すが、これはこちらの妄想かもしれない。
わたしが自意識過剰で変な思い込みをしているだけという可能性もありうる。
とはいえ、なぜかわたしに恋愛感情を持たれていると思い込む女性とめぐりあうことが多い。
もちろん、レベルを考えたらわたしより下位の女性はまあいないだろうから、
こちらに抗議する資格はないともいえよう。
しかし、とりたてて好きでもない女性から好かれているという態度を取られるのは業腹だ。
知的コンプレックスから業腹などという難しい言葉を使ったが(難しくねえぞ、おい!)、
要はプンプンですよ、プンプンするってことだ。グーパンチしてえってことさ。

被愛妄想は否定したら失礼になってしまうのである。
そんなことをいえるような身分かという自己卑下もある。
「あなたが思っているほど好きじゃないですから」はかなりいいにくいセリフなのである。
「あなたとおなじで、わたしも自分のことが第一なのです」もまたいいにくい。
そうはいっても「(お付き合いできなくて)ごめんなさい」のような物いいをされると、
ただでさえか細いピリピリしたこちらの脆弱なプライドが悲鳴を上げてしまうのである。
被愛妄想を持てる人はどれほど自分に自信があるのだろうとうらやましくて仕方がない。
当方は若い女性が近づいてきたら詐欺ではないかと身構えてしまうようなところがある。

そうだ、思い出した。このまえうれしかったな。
出先の近所にある小学校でまことに牧歌的な盆踊りをやっていたのでひとり見物した。
むろん、片手にはコンビニで買った酒を携えてである。出店の生ビールは高い。
雨が降ってきたので狭いスペースに場所を移し雨宿りする。
かき氷片手の小学生女子ふたりが近づいてきた。
こんなおっさんの横に座るだろうか自信がなかった。
警察に通報されたりする危険を考えると、
こちらから先に逃げ出したほうがいいのかとも迷った。
迷うことなく女児ふたりはわたしとおなじ雨宿りの階段に座った。
救われたと思う。ずいぶん安っぽい救済だが、実際に救われたのだから隠すことはあるまい。
そのうえ、こういう小さな幸せに敏感にならないとこれからの孤独人生を歩んでいけないだろう。

尊敬する高名な精神科医の春日武彦先生ではないが(ご著作を拝読するだけの関係ですよ)、
わたしも人から疎まれているのではないかという被害妄想めいたものをどこかに持っている。
このため、いわば反対の被愛妄想を持っている人がいることに新鮮な驚きを感じるのである。
自分が他人から好かれているなんて、どれほど恵まれていたら信じ込めるのだろう。
自分から相手を好きになるのではなく、
ほかならぬその相手から自分が好かれていると思える楽観的な思考法はなにやら神々しい。
実のところ対人関係ではなく、
神や仏からの被愛妄想を持っている人がいちばん幸福なのだろう。
自分は神仏から愛されていると信じられたらどれだけ心が安らぐことか。
むかしいつだったか、こうして記事にできるのだから、かなりむかしのことだろう。
婚約者が目のまえで飛び降り自殺をしたというアラフォーの女性からメールをいただいた。
いまだからはっきり本当のことをいうが、それはどうしようもないのである。
あなたはあなたの不幸を抱えているでしょうが、それはわたしにはどうしようもない。
わたしは顔も名前も知らないあなたを救うことはできない。
本当のことを書くと年下の異性ならまだ好奇心もわくだろうが、40を過ぎたらおばさんだ。
わたしに名前も顔も知らないあなたを救う義理はまったくない。
しかし、本人はそうは思っていなかったようだ。
その気持はよくわかるので批判も指摘もしなかった。
なぜなら、このわたしも近しい人から目のまえで飛び降り自殺をされた経験があるからである。
当時は自分が世界でいちばん不幸だと錯覚して、
みなが自分を助けて当然だとどこかで誤解していた。繰り返すが、それは誤解である。
たしかに誤解だが誤解だと気づくには10年単位の時間を必要とした。
メールではらちがあかないと思い、携帯電話番号を記したメールを返信した。
いざとなったら精神科という選択肢もあることを助言として記した。
ところが、人生はこういうものなのである。まったく思いもよらない展開を見せるのが人生だ。
そのアラフォー女性は、自分が正常でわたしが異常(精神病)だという物語を作った。
自分はわたしから激烈な恋愛感情を持たれているが、
死んだ恋人への思いからそれには応えることができないそうだ。
ひとつのありがちな物語である。
どうやらそれで顔も名前も知らないアラフォー女性は救われてしまったようなのである。
こういうときに本当のことをいうのは無粋である。わたしが我慢すればいいだけの話だ。
あなたのことなんてどうでもいいと本当のことをいってはいけない。
非常に不愉快だったが、きっと過去にわたしもおなじようなことを他人にしたのだろうから、
これは因果がめぐってきたようなもので仕方がないではないか。
詳細は書かないが、かなりその人はわたしに粘着してきた。
当人は自分がわたしから恋愛感情を抱かれていると信じているのだから仕方がない。
わたしも多くの人のお世話になって生きてこれたのだからと辛抱したものである。
わたしはその人の顔も名前も知らない。
しかし、それでよかったのだといまでは思う。
まさかこんなに長生きするとは思わなかったけれども、ひとつ長寿の功徳がある。
世の中、知らなければいいことにあふれていることに気づいたことだ。
知らなければどんなに幸いなのにと思うことをあえて知ろうとしているのが我われである。
知らなきゃよかったことばかりである、人生は。
具体例は知らないほうがいいので書かないが、まあ異性のこと全般はそうでしょう。
よくわかりませんが。わからないけれども。だから、わかりませんよ。
いやいや、これはデマなので忘れてください。
しかし、にもかかわらず、知っておいたほうがいいと思うこともなくはない。
精神医学の知識は教科書で勉強する価値がある。
わたしの教科書は南山堂の「精神医学入門」(西丸四方・西丸甫夫)だ。
ちなみに5100円プラス税金。むろん定価で買った。その価値はあったと思う。
10年以上まえにこの教科書で独学したことがどれほど役に立ったか。
自己啓発本100冊以上の価値はあると確信している。
精神医学の知識があるかないかで人生はがらりと見方が変わるような気がする。
というのも、なかなか精神科医は我われのためを思って本当のことを教えてくれないからだ。
専門家は知っているがゆえに残酷な本当のことを教えてくれない。
だが、それを知らないといけないこともあるのである。
まあ、精神病ほど怖いものはないのだが、一般人はその危険性をあまり認識していない。
統合失調症や双極性障害の人がどれほど我われの人生を脅かすか。
むかしは精神分裂病や躁鬱病といった。
マスコミは、精神病は怖くないとしきりにアピールしているようだが、それは嘘である。
マジキチな人からは逃げるに限る。
家族が精神病になってしまったら逃げられないから恐ろしいのである。
たまたまいまのんでいる漢方薬で検索をしたら重度の精神病患者のブログが出てきた。
既婚のアラサーの女性で子どもがほしいけれども病気のことがあり悩んでいるようだ。
主治医にも質問している。「子どもがほしいのですけれど?」
これは答えられない質問だと思う。自分で学んで気づくしかない問いである。
最後に書いておくが、この記事は差別意識の表明ではない。
わたしもかつて精神病の人を家族に持っていた。
その人はわたしの目のまえで飛び降り自殺をした。死んだ。しかし、わたしは生きている。
いま生きているということ。

7年後の東京五輪が決まったと聞いて、なにを思ったか。「ふーん」である。「ふーん」
考えてみると、「ふーん」というのはかなり万能的な感想あるいは思考法ではないか。
たぶんわたしだけではなく、どの人もあの人もみなみな人生アンラッキーだらけだと思う。
たまたま遠出する日に人身事故があって電車が遅れるというのがまさしく我われの人生である。
ネットで自分の名前で検索したら、
これでもかと誹謗中傷されているのが悲しくも我われの人生だ。
そのときのための「ふーん」である。
悲喜こもごもの人生は「ふーん」で受け流すのがいちばんよろしい気がする。
なにがあっても「ふーん」で流すことができたら、精神は病まないのではありますまいか。
なにが不幸かといって、心を病むほどの不幸はそうないのである。
大金を稼いでも出世して高い身分を獲得しても心が病んでしまったら人生終了である。
どうしたら心を病まないかという知恵はもっと重んじられてもいいのではないか。
心を健康に維持するために「ふーん」の境地はけっこう重要ではないかと思う。
なにごとも「ふーん」でやり過ごせたらどんなにいいことか。「ふーん」
さあ、ご一緒に。「ふーん」
いま法華経の一部を漢文で読んでいます。
意外なことに大学受験で無理やり詰め込んだ漢文の知識がとても役に立っているのですね。
あのとき漢文を勉強していなかったら、いまのように法華経を読めなかったと思います。
思うに、大学受験は言われているほど無価値ではないのではありませんか。
20歳まえの若い脳みそにいろいろ叩き込んでおくのは、
それはそれでいいのではないでしょうか。
いちばんたいせつな17、18、19歳時に受験勉強なんてくだらない、という意見があります。
それもまた正しいのでしょうが、その貴重な時期に無意味なことをやるのもまた悪くない。
なにかを強制されてはじめて自分がなにをしたいのか気づくという面もございましょう。
あんがい猛烈受験勉強も後年に実りをもたらすような気がします。
だって、30歳を過ぎたら新しいことを一から勉強なんて、まあできないでしょう(できます?)。
若いうちに大学受験というカセのために、
いやいやながら勉強するのも後になったらいいこともあるのではないかと思います。
考えてみれば、あのとき嫌いな数学をやっていたからいま確率の本を読めるわけですね。
後悔するのは、大学受験で世界史を選択しなかったことです(日本史&地理)。
齢を取ってからいくら本を読んでも脳が劣化しているのか、あたまに入ってきませんもの。

役に立たないと思っていたことが役立つ意外な体験はほかにもあります。
大学の第二外国語は中国語でした。
単位さえ取れれば成績なんてどうでもいいという姿勢でいやいや予習をしたものです。
現役女子が多い学部だったせいか、みんなマジメで、予習してこないと悪目立ちするんですよ。
こんなくっだらねえこと、なんでやらなきゃならないんだと当時は思っていました。
30を過ぎてからベトナムを遊びでふらふらしたことがあります。
ふとしたことから日本人学生に中国の「地球の歩き方」をもらいました。
それがきっかけでベトナムから陸路中国に入ったのですが、第二外国語が役立ちましたね。
数字を言える(聞ける)というだけでも個人旅行では大違いですから。
旅行もまた無駄に過ぎないからいいのかもしれません。
釈迦が出家したのとおなじ齢のとき、
やたら高額の海外旅行保険をかけてインドを3ヶ月まわったことがあります。
死んだらいくら支払われるだろうなんて不穏なことを考えながらです。
とにもかくにもインドは不愉快でしたね。
インド人の半数以上は日本の精神医学が言うところの人格障害ではないでしょうか。
しかし、無意味だと思っていたインド旅行体験も役立っています。
お経を読むとき、インドを実地で知っていることがすごい強みになるのですね。
インドの無駄なけばけばしさ、暑苦しさ、ぶっ飛んだ性格の自称聖者ども――。

だから、とは言えません。個人的な経験から、だからなんて結論づけられません。
だから、ではありませんが、もしかしたら役に立たないことにも意味があるのではありませんか。
たとえば、将来の役に立てばいいと資格を取られる方がおられますでしょう。
身もふたもないことを言うようですが、資格なんてほとんど役立たないのではないでしょうか。
いや、これは言い過ぎですね。役に立つ資格もあるでしょう。
しかし、いいですか、たしかに医師の国家資格を取るのはたいへんでしょうけれど、
よしんば苦労して取ったこところで医者なんて日本には腐るほどいるわけですね。
資格のよくないところは、他者(他人)からの承認(評価)であるところです。
たくさん資格を取っている人ほど、自分がなくなってしまうようなところがあります。
自分はこんな資格を所持していると自慢したって、しょせんは他人からの評価に過ぎない。
そのうえ、そんな資格を持っているものはいくらだっているでしょう。
資格というものは、ぜんぜんその人のオリジナル(個性)とは関係ないのですね。
というよりむしろ、個性からもっとも遠いものが資格と言ってもいいのではないでしょうか。

その人がほかの人とは違う点、
つまり個性は役に立たないものが関係しているような気がします。
役に立たないことをどれだけしているかが、その人の個性ではないでしょうか。
役に立つことをしている人はたくさんいるわけですから、みんなおなじになってしまう。
アメリカのカタカナの資格なんて、持っている人は大勢いるわけです。
それに資格は他人からの評価で、自己の内的権威からはもっとも遠いものになります。
ふたたび申しますと、一般的には役に立たないことこそ、
その人がその人であるものを作っているのではありませんか。
だれも知らないような作家の全作品を読んでいるのは、その人の個性でしょう。
バカな女子からはオタクと嫌われても、恐竜のことをだれよりも知っているのは個性です。
恐竜検定(あるのか知らん)何級とか自慢するのではなく、好きというのが個性であります。
骨董を集めるのも個性でしょうが、ありがちの成金趣味でつまらないとも言えましょう。
なんの価値もないカップ酒のラベルを収集しているのは間違いなく個性でしょう。
大半の人が無価値だと思うくだらないものに、
ある人がその人だけの高価値をつける行為がまさしく個性ではないでしょうか。
ベストセラーの本をいくら読んだところで、どこにでもいる凡庸な人間になるだけです。
流行の衣服を身にまとい人気映画を観て食べログ高評価レストランで食事するのはクズです。
いや、クズはもちろん失言でしたが、おもしろみのある人間とは言えないのではありませんか。

なにを申し上げたいのか。役に立たないことがいいんです。
もっと役に立たないことを率先してしませんか。役に立たないものを集めましょうよ。
というのも、わからないぞ、と思うからです。
なぜなら将来のことは決してだれにもわからないからであります。
将来の役に立てようと資格を取っても、資格が使えるのは10%くらいの確率でしょう。
もちろん、この10%という数字はいいかげんですけれど。
そもそも将来のことは絶対にわからないのでパーセンテージでは言えません。
さて、将来のことがわからないのであれば、役に立たないものがどうなるかもわかりません。
もしかしたら役に立たないと思っていたことが身を助けるようなことがあるかもしれない。
その確率は(だれも調べていないのでわかりませんが)資格よりも高いかもしれないわけです。
繰り返しますが、わかりませんけれど。将来のことはわからない。
意味がないこと、価値がないこと、役に立たないこと、というのはあくまでも人間の判断です。
もし神仏がいたとして、神仏の眼から見たら、意味、価値、効能は逆転するのかもしれません。
お経を読むなんてまったくの無意味でしょうが、こういうことに気づく利点もあるわけです。
いままったく現世利益を求めず(これは半分ウソ)法華経を漢文で繰り返し読んでいます。