「生きる悪知恵 正しくないけど役に立つ60のヒント」(西原理恵子/文春新書)

→こんなくだらない人生相談が売れるなんて世も末だと思った。
みなさん、どれほど自分で考える力がないのだろう。
しかし、すぐさま思い直す。ぼくが間違えていたのである。
どうしても人は自分が正しいという錯覚からなかなか抜け出せない。
間違えているのはぼくのほうで、多数派から支持されている本書は正しい。
こういう謙虚な姿勢がなかったから、結局のところぼくは人生でしくじってしまったのだ。

「女の人ってポイントカード制だから、
ずーっと何も言わなくてもポイントは貯まってて、
最後の何気ない一言でカードがいっぱいになって、
激怒して別れたり刺したりするんだから」(P107)


「女の人は一回別れた男にはまったく会いたくないし、どうでもよくなっちゃう。
ホント不思議なんだけど、あんなに好きだった人が、
ある日、急に路傍の石になってしまうという」(P188)


どうして自分の意見ごときが「女の人」全員を代弁していると信じられるのか
鈍感なぼくは何度繰り返し読んでも(ウソで~ちゅ)わからなかったが、
この「女の人」の白痴性とゴリ押しこそ、いまの世の中の正義というものなのでしょう。
星五つ。人生勉強になりました。買って損なし。現代人必読の書。ここに学べ。

「精神のけもの道」(文:春日武彦/漫画:吉野朔実/アスペクト)

→精神科医の春日武彦さんのエッセイはどうしてこうも笑えるのだろう。
いまもチェックしておいたところを読み返して、何度も何度も大笑いした。
腹を抱えて笑うというくらい現実に爆笑しているのである。
もう1時間くらい笑いつづけているのではないか。
笑いというのはどういう仕組みで発生するのだろう。
たとえば人気喜劇作家に三谷幸喜氏やクドカン氏がおられるけれど、
正直に白状すると、両作家のテレビドラマは一般的尺度でおもしろいのはわかるが、
実際に笑うかといったらば笑わない。
「身体は正直だな、グフフ」というようなセリフにうまく笑えないのである。
「あれは高卒の笑いだろう」なんて東大卒の「もてない男」氏のようなことを
当方は口が裂けてもいえないけれど、だれかがいってくれたらこっそりうなずくと思う。
ねじくれてねじくれてねじくれたやつの笑いが春日武彦氏の笑いのような気がする。
底辺は「上から目線」の笑いにひどく反発するが、
その気持に共感するけれど、しかしやはり精神科医の患者を見下す文章は笑える。
こんな文章で大笑いするわたしはよほど下劣な品性を持っているのだろう。
書いたのは春日武彦という精神科医ですので、抗議はそちらへお願いします。

「ところで精神科に通ってくる人たちの中には、≪日記系≫とでも称すべき人々がいる。
おしなべて彼らは話が長い。些細なことまで残らず、くどくど語りたがる。
実際に日記を携えてきたり、覚書のようなノートを持参し、わたしに読めと求める者もいる。
そして彼らの話や書かれたものは、おそろしく退屈である。
詳述される日常生活の中に、不平不満や恨み節や自己憐憫が混ざる。
あなたなりに問題点を絞ったりまとめたり、そういったプロセスこそ大事なのではないか
と指摘しても、彼らは聞き入れない。時間などお構いなしに自分語りをし、
わたしに賛同やコメントを求めることを以て
「ありのままのわたしを受け止めてもらう」と理解しているようなのである。
つまり自分自身を丸投げするということになる。
口調は丁寧で謙(へりくだ)っている。
あれこれ助言を求めたがり、ただし辛口のアドバイスは受け付けない。
結局のところは「人間だもの」的なコメントを喜ぶ。
当方もそういった類のことを心掛けて口にしてみると、
嬉しげにその言葉を雑記帳にボールペンで書き取ったりする。
書き取るけれども、自分自身を変える気はまったくない。
「なるほど!」とボールペン片手に深く頷(うなず)く瞬間が、最高の娯楽なのだろう。
ときおり電車の中で、自己啓発書や宗教関連の本を開きつつ、
アンダーラインを引いている人物を見かけることがある。
ああいった人に近い。彼らはあたかも謙虚で従順なようだが、
実は自分が気に入った言葉を聞くまで引き下がらない。
ただしその「言葉」は抽象的で励ましのトーンを含んでいる必要がある。
そういった意味で、彼らが求める言葉を語ることは至極簡単である。
が、簡単だからといってそれを平然と口にすることには、わたしには抵抗がある」(P110)


こういう箇所に泣くほど笑ってしまうわたしは、
世間知らずでインテリぶっている、庶民の悲哀を知らない最低の野郎なのでしょうね。
本当にごめんなさい。よくよく考えてみれば、
悪いのは笑ったわたしでこの文章を書いた春日武彦医師ではありませんでした。

「狂いの構造」(春日武彦・平山夢明/扶桑社新書)

→精神科医とその元患者だったらしい(いまも?)ホラー作家の対談である。
ファンだから批判めいたことは言いたくないけれど、
春日武彦氏もけっこういいかげんなところがある。
ほかの著作でもこのエピソードを見かけた記憶があるけれど、
いくら精神科医でもテレビで見ただけでだれかを精神病だと診断するのはいかがなものか。
春日医師は、「笑っていいとも!」でジャック事件を起こした
作家の有吉佐和子を躁病だと決めつけている(P138)。
しかし、小谷野敦氏の本によると、あれはすべてテレビ局の「やらせ」だったらしい。
橋本治氏が番組担当者から聞いた裏事情をエッセイに書いているとのこと。
(以上は小谷野敦氏「友達がいないということ」P47による)

とはいえ、本書で繰り広げられる精神科医の本音は楽しい。
精神科医がおすすめするいちばん楽な自殺方法は練炭とのこと。
あまりにしんどい話を聞いたとき、春日医師は飼っている猫に告白するらしい。
精神が健全な証拠は秘密を保てるかどうかだという。
実際、統合失調症の妄想はどれも秘密をめぐってのものとなる。
精神科領域の病気を「治す」ということにも、春日武彦医師はかなり懐疑的である。
いまから紹介するのは身もふたもない意見だけど、
おそらくこのあたりが長年臨床をやった精神科医の本音なのだろう。
この程度に思っていなかったら、精神科の勤務医なんてやってられないのかもしれない。

「だから、俺なんか、人格障害のヤツなんかを扱ってても、
治そうという気もないし、治ると思ってもないし。
じゃあどうするかって、相手が年取るのを待つわけだから。
その間をまあ、そんなに外さないでくれりゃあいいと思ってるんだけど」(P58)


「(前略)この商売を長くやってると、一応「患者の幸福」をゴールと考えるとさ、
その幸福をどの辺に見定めるかっていうのがものすごく難しくて。
やはり、本人だけでなくて家族単位として考えないとダメだから……。
だいたい、狂人なんてさ、単体だと「これは困った」ってことになるけれど、
家の中に狂人が出たから、ほかの家族がそれに対抗するために結束して
仲がよくなりましたというようなこともあるからね。あるいは
「そういう困ったヤツが出たんで、やっと生き甲斐を見つけました」とかさ。
全体として眺めると、少なくとも多数決でいえばさ、
「こいつはおかしいほうが世のため」
みたいなことがいくらでもあったりするからね」(P79)


いやあ、ガチっすね、春日さん。
よくいままで患者に刺されなかったと運のよさに感心する。
そういえば別の著書で医者の才能は運のよさだと語っておられた記憶がある。

「17歳という病 その鬱屈と精神病理 」(春日武彦/文春新書)

→いまから11年まえに書かれた精神科医による若者論である。
春日武彦さんもむかしは社会派論客になろうとしていた時期があったのかな。
キレる若者や援助交際をする女子高生が批判的に論じられている。
思えば、11年まえの若者はいまより元気があったのかしら。
いまの若者に対するこちらの間違った勝手なイメージは、
安定した公務員になるのに必死なマジメな子たちといったところだから。
学生時代に体育が大嫌いだったという春日武彦医師の、
言葉が通じなそうな体育会系若年男子への憎悪が本書からよく理解できた。
しかし、語彙が少ない若者は、そういう劣悪遺伝子を生まれつき持っているんだから、
それはもう努力ではどうしようもないわけで、
当時松沢病院医長だったお偉い春日先生がそこまで怒るのもどうかなと思った。
わたしも中高と体育会系男子だったから、批判されている対象に同情してしまうのだ。
春日先生が体育を嫌いなのも生まれつきで、努力してもどうにもならないのだから、
文学好きの精神科医が語彙の貧弱なものをそこまで差別するのはかわいそうではないか。
実際、あからさまな蔑視がここかしこに見られるのである(読んでいて楽しいが)。
いやいや、精神科医の春日武彦氏の主張は極めて正しいのである。
医師は言葉の重要性を語る。ここはたいへん勉強になった。
ちょっと難しいところもあるので、春日先生の文章を赤字で補足しながら抜粋する。

「言葉の問題は、結局のところ、世の中に対する違和感の問題に行き着くだろう。
あるいは精神の安定だとか自己抑制といった問題に帰着する。
些細な腹立ちも、ちょっとした不満も、
言語化という手続きによって自己の感情を客観視し、
それに応じてきめ細かく状況を整理することで初めて自分の気持ちをなだめたり、
あるいは「ありがちなエピソード」としてメモリーの隅に放り込んでおけるのである」(P159)


「私(立腹・不満→言葉)→世の中」

「ムカつくとかキレるといった言葉が世間に広く流通していれば、
そうした言葉の持つ吸引力によってたちまち頭の悪い連中は
ムカついたりキレる役割に嵌(は)まり込んでしまう。
流行語にはそれなりの心地よさと共に
世間からの「承認」といった性質が備わっているのである」(P160)


「私(……)←世の中(ムカつく・キレる)」

「このことを換言すれば、精神科の外来で出会うノイローゼ・レベルの患者のうち、
語彙の乏しい人はこちらの指導や助言で比較的治療効果が出やすい。
もちろん、胸襟を開いてくれたうえで、といった条件つきではあるが」(P160)


「精神科医(指摘・助言=言葉)→私(……)→世の中」

「逆に、言葉が豊かなのに精神症状に問題をきたしている人は厄介である。
元来、人格構造にかなり歪みがあるか、
語彙こそ豊富だがそれが身についていない人か、
そのどちらかということになってしまう。
そのような人々は、おしなべて「根が深い」のである。
精神科医を容易に信用しないくせに、ちっとも治らないじゃないかと
挑戦的になってくるのも、大概こういった人たちなのである」(P160)


「精神科医(指摘・助言)←私(うるせえバカ!)」

これはあくまでもノイローゼ(神経症)レベルの話だと医師も断っている。
精神病(統合失調症・双極性障害)になってしまうと言葉もへったくれもないのだろう。
わたしもいくつか神経症めいたものを抱えているけれど、
春日先生の言葉が本当ならば、精神科に行ってもあまりよくならないのだろう。
春日医師の嫌いな体育会系バカほど心を病んでも治りやすいというのは皮肉なものである。
体育会系バカは上の言うことには絶対服従だから、
精神科医の指摘や助言を疑いもせずに受け入れて、このため社会適応も早いのだろう。
ということは体育会系バカとは正反対の自らも病んだ精神科医の春日氏は「根が深い」――。

「心の闇に魔物は棲むか」(春日武彦/光文社知恵の森文庫)

→副題は「異常犯罪の解剖学」。
凶悪犯罪を起こしても、精神病と認定されたら、
責任能力なしでほとんど無罪放免になるわけだが、だれがそれを見極めるかといったら、
精神鑑定医つまり精神科医なのである。
どうでもいいことかもしれないが、本書によると精神鑑定医はコネで決まるらしい。
さて、では、ある犯人が精神病かどうかというのは皆目一致の見解があるものなのか?
もしかしたらかなり恣意的(適当)にふるいわけられているだけではないか?
本書で春日武彦氏は自身の臨床体験をもとにして問題提起する。
わたし個人としては、人生は不公平なものでほとんど運であるというあきらめがあるから、
精神病で責任能力なしと判断された犯人は幸運だったのだろうとしか思わない。

春日医師の本のおもしろさは、狂人をコミカルに描くところである。
鋭い論考や社会問題提起よりなにより、春日氏独自の症例報告みたいのが楽しいのだ。
春日先生には「今まで出逢った狂人たち」といった集大成をいつか書いてほしい。
いまくらい偉くなったら、多少人権やらなにやら無視しても、
そういうキャラクターだとすでに認知されているから、
相当に不謹慎な笑えるものが書けるのではないか。本書ではここがいちばん笑えた。

「名刺というものは、なかなか興味深い。
自己紹介の道具として名刺は印刷され配られるわけであるが、
そこに自己顕示欲だとか見栄、表現欲求や世俗的な思惑などが込められて、
ときおり奇妙な名刺が出現する。
発明妄想に取り憑かれた統合失調症患者の自宅を訪ねたときは、氏名と一緒に宋朝体で
「宇宙大ストリップ学」と記された名刺を本人から貰ったのであった。(中略)
自作の小説のタイトル(自費出版)を並べた名刺を配る神経衰弱気味の若者は
うんざりするほど物悲しかったし、
親指の爪よりも大きな活字で自分の名前を名刺へ印刷したジャーナリストには、
どこか精神的に不安定なものを感じずにはいられなかった。
さて、かつて勤めていた病院に、躁病の精神科医がいた。(中略)
その躁病のS医師が、名刺を新しく刷ったからとわたしにくれたことがある。
びっしりと肩書が添えてあって、まこと権威主義的かつ威圧的な名刺だった。
実家が会社を経営していて、その関連の役員だったりするのはともかくとして、
昭和○年医師国家試験合格だの、ナントカ新聞健康欄寄稿だとか、
どうでもいいことまで書いてある。もはやキッチュとしか言いようがない。
苦笑せざるを得なかった」(P206)


名刺ではないが、ブログのプロフィールが異常に長い人も笑える。
自称カウンセラーみたいのが、長々と小学校の思い出から書きつづっていて、
心を病んでいるのはおまえのほうではないかと思わせるものがある。
精神科医の春日武彦氏の本を読んでわかるのは、
狂うというのは自分をこじらせるということなのかもしれない。
そして、春日医師もその愛読者(わたしのこと)も見事に自分をこじらせているのが物悲しい。
そしてそして、ちょっとだけ笑える。この自嘲の笑いが救いなのだろう。

「顔面考」(春日武彦/河出文庫)

→精神科医の書いた古今東西、顔に関するよもやま話である。
むかしいつだったか父と逢う約束をしていて某所で待ち合わせたことがある。
そこで先に来ていた父が興奮して言うのである。
「あそこにおまえそっくりのやつがいるぞ」
興味がないので受け流そうとしたが、父はしつこく「ほら、見てみろ」
と悪趣味にある男を指さすのである。
そこにいたのは自分とは似つかぬ、いかにも野暮そうなずんぐりむっくりした男であった。
自分は人からはあのように見えているのかとひどいショックを受けたものである。
楽しそうに興奮している父に怒りをぶつけたが、
結局なぜわたしが憤っているのか理解してもらえなかった。「おまえはおかしいよ」
まあ、こんなものなのである。いまでは父の指摘のほうが当たっていたのだと思う。
むしろ、あの男のほうがわたしなどよりはいささかましではなかったかと思うくらいだ。

春日武彦医師もパーティー会場でおなじ体験をしたことがあるという。
「きみにそっくりなひとがいる」と言われ、見にいったことがあるそうだ。
ところが、友人の指さす方角を見たら――。
両手をポケットに突っこんだまま年長の人物と談笑する小生意気なやつがいた。
第一印象は、不満と不快感だったという。
「え、あんな不細工なやつとおれとがそっくりだって?」
腹が立つのと同時にさっそく内省的な精神科医は自分の顔を分析していて、
そこがおもしろい。
これを読んで春日武彦医師の顔写真を検索しないものは、
もっと他人に興味を持ったほうがいい、というのは間違えで、
ここが春日先生とわたしに共通する錯誤なのだが、人は他人の顔にそれほど関心を持たない。
春日氏は自分の顔をなるべく客観的に分析しようとする。

「けれども実際のところ、よく観察すると、彼の顔がわたしと似ているという
その根拠らしきものが薄々分かってくる。それはわたしにとって、
自分の顔だちに浮かび出た疎ましさであり、小心さと傲慢さと、
自信欠如と居直りとナルシズムと、まあそういった精神的要素が一定の比率で
ブレンドされた挙げ句に作りだされている一種の雰囲気ないし表情といったものである。
あえて無視したくなるようなまことに「うっとうしい」ものであり、
内面の安っぽさや俗物さをそのまま形象化した顔つきのことなのである。
そういった自己嫌悪を催す要素を友人は目敏く感知し、
まさにそれがわたしという人間の顔の特徴であると看破し、共通したものを持つ
別人を見つけ出して、「そっくり」であると宣言したのである」(P128)


春日医師の顔写真とこの文章を比較すると、よく自分の顔をわかっているなと感心する。
ちょっと笑いがとまらないところがある。
さて、本書のなかば過ぎで、春日武彦氏は自分が醜形恐怖症の傾向を持つことを告白する。
醜形恐怖症とは、自分の顔が異常ではないかと恐怖する神経症の一種だ。
具体的には、春日医師は自分の顔が他人に不快感を与えると信じているようだ。
なんでも、初対面でまだなにも話していないのに、敵意や反感を示されることが多いという。
ほかの本で読んだ記憶があるが、レストランで無視されることも多いそうだ。
顔を見た瞬間に、露骨に小馬鹿にされたこともあるという。嫌悪の表情を浮かべた人もいた。
自分の顔が嫌いで、スナップ写真や集合写真を渡されても見ないでシュレッダーへ放り込む。
鏡を見るときは、自己暗示をかけて感情を麻痺させた状態にする。
自分が精神科医になったのは、醜形恐怖症への対処策のひとつであるとまで白状する。
むろん、ならば本書を書いた理由もそういうところにあるのだろう。

失礼な話だが、たしかに春日医師の顔は、なんだかこちらをムカムカさせるのである。
みなさんも一度、ご覧になっていただきたいが、たしかに殴りたくなるような顔をしている。
このところが春日医師が醜形恐怖症ではなく、
本当の奇面、異面の類ではないかと思われるところで、
「中年以降の男は自分の顔に責任を持て」などという俗言があたまに浮かんでくると、
失礼にも程があるのだろうがクックックと奇妙な笑いが腹からこみあげてくるのである。
ちなみに、この笑いは自分もまた醜形恐怖症の傾向があることに関係していると思う。
わかるよ、春日先生のお気持はわかりますよ、なのである。
わたしも自分の顔が嫌いだから、写真を撮られるのを可能なかぎり避けている。
写真をもらってもさすがに捨てはしないが、見ないで片づけるところはおなじである。
メガネをかけていてよかったと思うのは、床屋で自分の顔がぼやけてよく見えないからである。
さいわいなことに、春日医師ほど醜形恐怖症をこじらせていない。
大して記憶に残らない「よくあるおっさん顔」くらいの自己認識を保つことができている。
春日先生のように、他人に不快感を催させる異常面相という心配はこちらにはない。

繰り返して申し訳ないが、春日氏の問題点は、本当は醜形恐怖症ではなく、
醜形とまではいかないまでも、事実そうなのではないかということである。
とはいえ、春日武彦氏もどうやら最近は醜形恐怖症を克服したようだ。
最新刊の帯にでかでかと自分の顔を宣伝として使っているのを見たことがある。
そこまでよく見ていないが(しつこいが、人はそれほど他人の顔に興味を持たない!)、
そういえば春日医師の顔は少しマイルドになったような気がしなくもない。
まさかとは思うが、整形でもしたのだろうか。
春日武彦氏はたぶん厚手の本書でなにかの賞を取ることを狙っていたのではないか。
それは失敗したけれど、おそらくこの本を書いたことが醜形恐怖症脱出への一歩に
なったのは間違いないので、よかったではありませんか、と届かぬメッセージを送ろう。

「屈折愛」(春日武彦/文春文庫)

→精神科医の春日武彦氏のこの本を読んで、精神医学とは物語なのだとつくづく思った。
変な人がいて周囲が迷惑している。
変な人本人も自分はおかしいのではないかという、うっすらとした自覚はあるものの、
まさにその変な感じを言葉にすることができない。
そこに精神科医が現われ、それは「○○」だと指摘することで、本人も周囲も安心し、
その安心に支えられた正しさをベースにして精神科医が変な人と面談するのである。
古典的なものでは統合失調症(精神分裂病)や双極性障害(躁鬱病)がそうである。

春日医師も精神医学のこの仕組みに本書において自覚的である。
というのも、新しい言葉に関する説明からこの本を始めている。
精神科医がまず指摘するのは「B級」という言葉である。
B級映画、B級グルメ、B級ニュースなどで使われるあれだ。
春日医師は「B級」という言葉が世に出たことによって、ある種の嗜好が明確化され、
その感覚が社会で広く市民権を得るにいたったという。
おなじような言葉に「電波系」があるともいう。
さて、本書の親本(単行本)のタイトルは、
「ザ・ストーカー/愛が狂気に変わるとき」だったという。
書かれた背景には当時(1997年)のストーカーブームがあったとのこと。
たしかに新語「ストーカー」も「B級」や「電波系」といった言葉の同類である。
新語が世に出たことによって、言葉の意味が広がり、ある種の人を説明してしまう。
いまわたしが思いついたのは「中二病」というのもそうである。
ある種の現象や人的タイプを説明する新語を、
管理および操作する役割をたとえば春日武彦氏のような精神科医がになっている。

で、本書はまだ定義すらない新語「ストーカー」の説明、物語を目的にしている。
春日武彦医師は、精神医学に30年ほどまえから登場するようになった、
「ボーダーライン人格障害」をストーカー物語の補強として用いる。
ストーカーのようなことをする変な人たちはボーダーライン人格障害の疑いがある。
春日医師のこの説明で当時の読者たちはそれなりの安心をおぼえたことであろう。
まったくの新しい現象ではなく、かつてからあったという物語が与えられたからである。
自身のストーカー加害者体験を小説に書いた「もてない男」がいるが、
たしかにボーダーライン人格障害はその人物の説明として妥当なように思う。

「ボーダーライン人格障害の人々は、
人間相互の「無条件の信頼感」というものに欠損がある。
疑い深いというよりも、対人関係に根源的な不安感がある。
他人を信頼できぬがゆえに強い「よるべなさ」があり、
常に見捨てられることを恐れている。孤独や孤立を恐怖している」(P91)


はっきりいって、わたしも含め、こういう人はごまんといるのだが、
たぶん春日医師もその傾向があるし、むしろ当てはまらない人のほうが少なそうだが、
それだけに、言葉は悪いけれど学のない人ほど
ボーダーライン人格障害という言葉に救われるのである。
僕のモトカノはボーダーライン人格障害だったのか! 
あの上司は間違いなくボーダーライン人格障害だ!
皮肉なことをいうと、精神科医以外が病名をつけても該当者は病人にはならないのだが、
しかしそれでも嫌いな不愉快なやつが世にたくさんいるボーダーライン人格障害だという
物語を得ることで、(自称)被害者は深い心の安らぎをもたらされるだろう。
ボーダーライン人格障害本人はめったなことでは自分からは病院に行かないと思うけれど、
あまりにも周囲の迷惑になる若者は命令されてボーダーライン人格障害の病名を、
たとえば春日武彦氏のような精神科医から押しいただいてくることだろう。
バカな若者はボーダーライン人格障害という言葉に選民意識を感じることもあろう。
これが精神科医の社会的機能のひとつである。

しかし、本書でも指摘されていたが、どっちが異常(妄想)かというのは難しいのだろう。
たとえば、大学教授が女子生徒にストーカーを仕掛けた場合、
立場においては教授のほうが上だからなかなか真相が露見しないことになる。
本書を読んで思ったが、最強のストーカーは精神科医が行なうものではないか。
とはいえ、こと春日武彦氏にかぎっては、いつも自分が異常ではないかと疑っている面があり、
このため春日先生のような人はめったにストーカーにはならないという法則は見いだせよう。