「歩くアジア」(下川裕治・阿部稔哉/双葉文庫)絶版

→旅とは偶然に身をまかせる行為である。
たとえパック旅行でも予定どおりに行く旅は海外未開発国の場合、
そこまで多くはないのではないか。
しかし、まさにそこがいいのである。旅はハプニングがいい。
予定外に立ち寄った場所で、こんな美しいものがあるのかと驚くのが旅である。
思うようにならないことで逆に収穫があるのが旅とも言いうる。
計画どおりに見たタージマハルやアンコールワットなど、
まったく記憶に残らないと思う(間違えていますか?)。
ならば、旅においてはハプニングやトラブルをもっと歓迎しなければならないのだ。
本書でも旅行者が窮地に追い込まれるところがある。
そのときの作者の思いは美しく正しい。

「正直なところ、もうどうにでもなれ、という心境だった」(P382)

結局は「なんとかなる」のだが、
そこには「どうにでもなれ」というあきらめがプラスに作用しているように見える。
「なるようにしかならない」という真実が本書のような旅行記を読むとよくわかる。
思ったようにはならないということをたしかめるのが旅という行為なのかもしれない。
これは下川裕治氏の複数の著作から教わったことである。

「夢街道アジア」(日比野宏/講談社文庫)絶版

→日比野宏さんのアジア放浪ものは大好きなので、これが最後だと思うとさみしい。
いまは経済発展のせいでどんどんアジアもインドもつまらなくなっていそうだが、
それでも若者には海外無鉄砲ひとり旅をおっさんはおすすめしたいのである。
旅とは人生であるとは偉い人がよく言っているが、
言葉の通じないところをひとりで旅すると
いろいろ人生についてわかったような錯覚が得られるのがいい。
ひとりで未開発の国を旅をするとなにがわかるのか?

1.旅(=人生)は決して思うようにならないがそこにこそ楽しみがあることがわかる。
2.ピンチになっても思いがけないことが起こり「なんとかなる」ことが実感としてわかる。
3.人は見かけによらないことが軽い痛みをともないながらわかる。

インドなんて近づいてくるのは大半が詐欺師だから騙されるいい勉強になる。
騙されてもせいぜい千円くらいのものだから、勉強料としては激安である。
(言うまでもなく、もっと悪質なものもありますが、ほとんどがせこい騙しです)
わたしも世界各地で(というほどの旅はしていませんけれど)いろいろ騙されたが、
結局人は見かけによらないのだ。
思いきり怪しそうな人が困ったときに助けてくれて感動したこともある。
ひとりで旅をしていると旅行者同士で助け合わなければならないことも少なくない。
そういうときに相手を信頼できるかどうか判断する勘も旅で磨くことができよう。

「行きずりの旅行者となんらかのきっかけで話す場合、
まずお互いに名を名乗らない。職業を明かさない。つぎにプライベートな話をしない。
二度と会わないであろう旅行者同士の、自然にそなわった知恵でもある」(P11)


旅行初心者ほど相手の身分を聞いて騙されるようなところがあるのだ。
どうして日本人の甘ちゃんは相手が本当のことを話すと思うのだろう。
ひとり旅では、相手のことをなにも知らずに、信頼できるかどうか賭けなければならない。
名刺交換などいっさいないのである。そこが楽しい。
ひとり旅ほど楽しいものないのではないか。
ひとり旅を描いた本書もとてもよかった。
冷静に考えると共通言語のない現地人と著者がふつうに会話しているのが噓くさいが、
実際に海外ひとり旅をしたことがあるものならば、
言葉が通じなくてもそれなりの会話ができることはみな経験しているはずである。
なにより万事において、日本のやり方が絶対的に正しいわけではないことがわかるところが
海外ひとり旅のよさであり、またこういった旅行記を読む楽しさでもあろう。

「女の好きな10の言葉」(中島義道/新潮社)

→中島義道博士はご専門の哲学書よりも(あったっけ?)ライトエッセイが楽しい。
えんえんと女の悪口を並べた本書もケタケタ笑いながら読ませていただいた。
中島哲学博士はこの本のなかで、女をめちゃくちゃ悪く言っているが、
どうして(わたしも含めて)人は露悪的なことを真実だと思いたがるのだろう。
なぜか露悪的なことを言ったほうが本当(真実)らしく聞こえるのである。
どんな偉人にも裏話というのがついてまわっており、
それを聞いて「ああ、やっぱりね」なんて安心してからようやく
対象を愛せるような浅ましさが我われにはあるような気がする。
女は人間のクズというのが正しい一方で、女は母なる美しさを有しているのだと思う。
どちらも正しいのである。
中島博士やストリンドベリが言うように、女は人間のクズというのは真理である。
同様に女は人間の美しき結晶というのもまた同時に真理なのである。
もちろん、中島哲学博士もこんなことくらいは知っているのだが、偉大なる氏は、
真理なぞは退屈で悪口こそおもしろいという人間の下劣さにも天才的に通じておられる。
さすがは中島博士、あっぱれでありますぞ。

「偏見であり下品であることを覚悟で言いますと、
ひどいブスでも、隣にひどいブサメンの夫がいて、そのあいだに両方に似た
そろいもそろって醜い顔を晒した子供たちをぞろぞろ連れていると、
ほのぼのした気分になってくる。
彼女を選んだ男がいて、彼が彼女を妊娠させたと思うと、
なんだか「安心する」のです」(P16)


中島義道博士の悪口のうまさには舌を巻く。この文章は笑いがとまらなくなった。
小説家よりもある意味、文章がうまいと思う。

「小説家とは、たとえどんな周囲の者が苦しんでも、自殺さえしても、
それでも書いてしまう、という悪魔性を持たねばやっていけないのかもしれません」(P51)


でもさ、博士、本当に吉行淳之介の小説がおもしろかったですか?

「女は自分で評価するということが限りなく苦手であって、
「みんな」の憧れる人が好きであって、「みんな」の無関心な人に無関心であって、
「みんな」の軽蔑する人を軽蔑する。
だから、残酷なことに、「男の偏差値」はほぼ客観的に決まってしまうのです。
それにしても、少女のころから軽薄な有名人に夢中になってキャーキャー騒ぎ、
(大の?)おばさんになっても、韓流スターを追いかける
あの凄まじさは恥も外聞もあったものではない」(P138)


一見もっともらしいですけれど、ここは女を人間に言い換えても文章は成立する。
女だけじゃなくて、人間なんてそんなものとも言える。
男だっていい歳をしたおっさんがAKB48とか、ねえ……。
同様、女を男に言い換えたら「女の偏差値」も客観的に決まることになる。
クラスの男連中でこっそり女の順位とかつけていたよね。
にもかかわらず、あれだけの数の男女がそれぞれの偏差値に応じて
みなさん結婚しているのは心底から立派だと思う。
ブスとブサメンの夫婦、子供連れを見るとなにか和むという、
最初引用した中島博士の下品発言にも通じる当方の感慨であります。
悪口っておもしろいね♪

「人を愛することができない」(中島義道/角川文庫)

→当時の著者は自己愛が強すぎて「人を愛することができない」ことに悩み、
うだうだ長たらしく自分の過去や家族のことをこの本に書き連ねている。
「だれもおまえに興味はないぞ」は言ってはいけないことになっているので、
もう少し発展的なことを書くと、
著者は本書で自問自答をしており悩みへの回答も律儀に書かれている。
「人を愛することができなくても別に構わない」が答えであろう。
だいたい女子供の好きだというテレビドラマが諸悪の根源なんだと思う。
家族は愛し合わなければならない。
子供はかわいく親子愛ほどすばらしいものはない。
男女は結婚したほうがいい。
男女の恋愛ほど美しいものはない。
友人のたくさんいることが良質たる男女の証拠である。
以上のような主にテレビから垂れ流される社会規範こそ我われを苦しめているのである。
夫婦(および家族)は愛し合わなければならないなんて、なにかに洗脳されているから、
愛されないことや愛することができないことに悩まなければならなくなるのではないか。
恋愛なんて別にしなくてもいいし、友人がいなくてもいいし、
家族で憎しみ合うのもまたオツなものである。
それが当たり前なんだよ。悩むこたーない。
しかし、悩む快楽を突き詰めたのが哲学だから、
本書で著者は何度も自慰の絶頂を味わったことだろう。
実のところ愛情や友情といった概念が我われを苦悩に導いているだけなのだが、
哲学者が熟知しているよう苦しみ悩むのもまた人生の味わいだから、
今日も明日も明後日も人は愛についてときにうっとりと、または髪を振り乱して問うのであろう。
愛ってなに? もっと私を愛して! それが愛なの?

「友達がいないということ」(小谷野敦/ちくまプリマー新書)

→友達という言葉に関する最大の恐怖はあれである。
かりにこっちが友達だと思っていても、相手がどう思っているかわからないということだ。
要するに、他人の気持はわからない。
よって、ぼくは自分に友達がいるのかどうかわからない。
なぜなら、たとえぼくが友達だと思っていても、向こうはそうではないかもしれないからだ。
基本的に家族以外の人間関係は(家族も例外ではないとも言えるが)損得が入らざるをえない。
ぼくはプラスマイナスを見たら、あまり相手に与えられるプラスがない。
一緒にいても見栄えするわけでもないし、話もつまらないし、他人に合わすのが苦手だ。
たまに一緒にいてくれる人や話し相手になってくれる人がいると
感謝で胸がいっぱいになる(大げさやね)。

友達は幸福とおなじであまり考えないほうがいいような気がする。
友達ってなんだろうと考え始めると心が病んでくるようなところがないか。
やたら孤独感が強いらしい著者が主張するのは、
顔の見えない名前も知らないネット友達も友達と思っていいのではないか?
これは人それぞれでそう思える人はそう思って孤独をごまかせばいいのだろう。
ぼくは相手のブログを毎日読みに行くような行為をなぜかストレスに感じてしまうので、
ネット友達はできにくいだろう。

著者の分析では、テレビ番組「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングにおける、
「友達の友達は友達だ、みんなで広げよう、友だちの輪!」というキャッチフレーズが
「友達至上主義」の圧力をいっそう強めたということである。
たしかに「友達の友達は友達か?」というのは、かなりおもしろい問題だと思う。
社交的な友達の多い人は「友達の友達」をその後友達にしていることに気づく。
ぼくは友達の友達というのがいまのところどうやら苦手なようだ。
二人でいるのが好きで、三人、四人となると立ち振る舞いがぎこちなくなる。
今後修練を積まなければいけないのかもしれないし、どうにもならないのかもしれない。

ぼくの結論――。
友達はいたらいいのだろうが、しかし作ろうと思って作れるわけでもなく、
友達なんていらないと思っていても気が合うやつはふと現われるもので、
そうはいっても人はいつか離れていくものだから依存せず、
もしかしたら友達がいないことよりも、
友達がいないと見られることを怖れているのではないか、ということに気づいたうえで、
なるべくひとりでもできる好きなことの研鑽を積んでおくべきだろう。

「偽善の医療」(里見清一/新潮新書)

→医者の本音が書かれた本ゆえペンネームだが調べればすぐに本名が出てくる。
国立がんセンターに長らく勤務していた医師である。
本音だから、医師なんて割に合わないと最初からぶちまける。
子どもや身内から医者や看護職に就きたいと相談されたら、即刻やめろと著者は言うそうだ。
なぜなら医者の場合、開業医はそうではないが、勤務医は給料が安い。
そのくせ理不尽な要求にさらされ、感謝もされず、ミスをしたら刑事罰を問われる。
どのみち就いてもモチベーションが長く続かないからやめたほうがいい。
がん専門医としていちばん困るのが、もはや打つ手がないときだという。
このような際、多くの患者はなにもしないよりもなにかしていたほうがいいに決まっている、
という誤った思考におちいりやすいので説得するのに骨が折れる。
ダメでもともとでいいから、なにかしたがる患者や家族が多い。
しかし、金はかかるし、副作用で苦しむのは患者自身なのである。
失うものはないというが、下手をしたら家族と話す時間までなくなってしまうことになる。
それでもなにか治療法があるのではないか、と食ってかかる患者や家族がいる。
あきらめないことが肝腎だ。希望をくじくようなことを言うな。
余命3ヶ月と言われて奇跡的によくなった人もいるではないか。
どうしてあんたはネガティブなことを言うんだ。もっとポジティブな医師がいい。
ネガティブはやめろ! ポジティブが健康にいいんだ! おまえは本当に医者か?
アメリカの科学でもポジティブの正しさは証明されている。もっとポジティブになれよ!
こういう患者や家族が怪しげな民間療法でぼったくられているようだ。

「野暮を承知で、また繰り返しになって恐縮だが、これは覚えていただきたい。
医者にとっては「もう無理だ、やめよう」というよりも、
「駄目でもともとだろう、やってみよう」という方がはるかに楽である」(P167)


しかし、やっても患者の苦しみと医療費が増すだけらしい。
それから著者は病名の告知はすることにしているという。
どうせ隠しても、待合室で別の患者が教えてしまうのだという。
がん患者は自分の体験から、それなら本当はこのレベルよ、と親切(?)をするのが常だ。
患者同士の会話で誤った知識を持つくらいなら(自殺騒動まであったとのこと)、
最初から本当のことを言ったほうがいいと著者は考える。
なお、著者はタバコは吸わないが、
がん病棟にも喫煙室はあってもいいのではないか、と指摘する。
タバコも酒も健康には悪いが、まあいいのではないか。

「健康や生命はそれ自体貴重なものであるが、他のすべてに優先するものか、
これを第一義的に尊重するのが唯一の正義なのか、私には確信がない。
私には、今の禁煙運動の正義は、愛国婦人会の正義と重なるのではないか
という疑念がどうしても拭えない」(P120)