「酒みずく・語る事なし」(山本周五郎/新潮文庫)

→10年以上まえに買ってずっと積ん読していたのだが、このたび読んでとてもおもしろかった。
文豪のエッセイ、青年期の日記、対談を新たに編集しなおしたものだという。
表題にもなった「酒みずく」というエッセイに
61歳のときの山本翁の酒食生活が記録されている。これがすごいのである。紹介したい。
――朝7時まえに起床。シャワー。仕事場でウイスキーのストレートを1杯。
ストレートは最初の1杯のみで次は水割りかソーダ割りに切り替え、
酒をすすりながら原稿用紙と向き合う。バックミュージックは古典的通俗的な曲。
昼食は取らないで水割りをのみつづける。来客があれば酒量増加。
午後4時、夫人が仕事場にやってきて晩飯の支度にかかる。
夕飯時一度ビールに切り替え、しかしまたすぐ水割りに戻る。
食事は晩のみで米は食わず、パン、コーン類、オートミール、ポテト等を食す。
夕食後、1時間ほど仮眠。起きたらまたウイスキーの水割り。
午後10~11時、夫人が自宅へ戻る。睡眠薬を濃い水割りと一緒に服用。
眼があいていられなくなるまで酒をすすり限界が来たら寝床にもぐり込む。

山本周五郎はこの原稿を書いた2年後に没しているが当たり前と言わざるをえない。
しかし、いつからこんな酒びたりの生活をしていたのだろうか。
もしかしたら人間の身体というのはかなり個人差があるのかもしれない。
頑丈な人は頑丈で、たとえ上記のようなめちゃくちゃな酒食生活をしていても
山本周五郎は64歳まで生きているのだから。

本書に山本周五郎の青年時代、修行時代の日記が掲載されている。
山本青年25~26歳時の記録でタイトルは「青べか日記」。
これは作者没後の公開だから、おそらく金の誘惑に遺族がやすやすと負けたのだろう。
それとも、うまいこと担当編集者が遺族を言いくるめたのか。
これは間違いなく山本周五郎本人は公開されたくなかったであろう記録である。
それだけにおもしろいのだが、文豪ともなると悲惨なものとも言えよう。
若き山本周五郎青年はかなりヤバいやつだったことが「青べか日記」から推察される。
あたかも新興宗教教祖の青年時代のような自己愛、選民意識と迫害妄想が見られる。
言い方を換えたら、精神病だったストリンドベリの影響が強く見られる。
よく知られていることだが、ストリンドベリは山本青年が愛読したスウェーデンの作家。
以下引用文中の三十六(さとむ)とは山本周五郎の本名である(清水三十六)。

「しっかりしろ三十六、貴様は挫(くじ)けるのか、
世間の奴等に万歳を叫ばし度(た)いのか、大きな嘘吐きとして嘲笑されたいのか、
元気を出せ、貴様は選ばれた男だぞ、忘れるな、いいか、起(た)て、
起てそして確(しっか)りとその両の足で立上って困苦や窮乏を迎えろ、
貴様にはその力があるぞ。あるんだぞ、忘れるな、自分を尚(たっと)べ大事にしろ。
そして、さあ、笑え、腹の中から声を出して笑え」(P211)


この日記は昭和3年11月6日、夜11時に書かれたものだそうである。
おそらく低学歴(小学校卒)のためだろうが、劣等感の裏返しである選民意識、
および自分は世間から虐げられているという被害妄想めいたものが見られる。
この前月の日記もまたおもしろい。
職を失って無収入であるのに10月6、23、24日と売春宿で娼婦を買っているのである。
「確りとその両の足で立上って困苦や窮乏を迎えろ」――。
日記にあえて宣言して、自分から困苦や窮乏へ向かってひた走っているのである。
まったく計画性もなく(翌月のことも考えず)、
ひと月に三度も買春する山本周五郎25歳はたしかに大物の器と言えよう。
さらに、である。むかしといまでは性的規範が異なるからよくわからないが、
この日記執筆時に山本青年は末子という女性と婚約しているのである(結局婚姻せず)。
10月3日の日記は買春報告のあとに、
「末子よ安らかな眠りと甘い静かな夢が貴女の夜を護るように」などと、
青年の感傷めいたことを書いてあるので気持悪いと言うのか、笑えると言うのか。
山本周五郎青年は相当なタマであったことがうかがえる。

山本青年はなんとか成り上がろうとわずかなツテをたどって、
既成作家の徳田秋声55歳の家に作品を持参して読んでくださいとお願いする。
日記に内心は徳田秋声をバカにしたようなことが書かれているのがおもしろい。
「いまは(徳田秋声)先生と云わねばならぬ」――。
野心あふれる生意気な青年というものは、ときに迷惑なものである。
おそらく、徳田秋声は山本青年の原稿なぞ本気で読まなかったのではないか。
山本周五郎が原稿を返してほしいと3ヶ月後に訪問すると、
徳田秋声は原稿をなくしたという。
それどころか「あんな物を持ち廻ったところで、売れやしないぜ」とバカにされる。
絶望のさなかにある山本周五郎青年は日記に憤懣と悲嘆を書きつける。
ここも被害妄想的でとてもよろしい。
こういう感覚の持ち主が、のちに文豪と呼ばれる作家になるのかと勉強になった。
引用文中の[カッコ]内の記述は当方の書き入れた補足です。

「彼[徳田秋声]如きに大事な原稿を預けたのが予[私]の過失であった。
予は有(あ)らゆるものに信を喪(うしな)った。予は全くの一人だ。
家婦は予に爪を切る鋏(はさみ)を貸すことを断わった。
剃刀(かみそり)を貸すことを断わった。
世の中は如何(いか)に冷酷な無味乾燥な埃(ほこり)まみれな場所だろう。
今予はストリンドベリイの「青巻」を読んでいる。
ストリンドベリイは毎度予にとっては最も大きく且つ尊く良き師であり友である。
予は涙をもって彼の名を口にする」(P223)


どういう因縁か、この青年が当時若者を黙殺した徳田秋声とおなじ年頃になったとき、
山本周五郎の大ブームが起こることになるのである(土岐雄三「わが山本周五郎」)。
青年が世間から大々的に評価されるのは「青べか日記」を書いた約30年後である。
印刷所に廻すまえから編集部員が奪い合って山本周五郎の作品を読んだという。
しかし、山本青年が心酔したストリンドベリが世にかえりみられることはなかった。
最後に、徳田秋声などはるかに超える国民的作家になってからの
山本周五郎の言葉も引いておく。

「わかりきったことだが、小説は作者が「書かずにはいられない主題」があって書きます。
(中略) 作者のつかんだ主題が、歴史の中にみつけられたにせよ、
現実の中からつかんだにせよ、「書かずにはいられない」という情熱を感じたとすれば、
それは現代の読者に呼びかけ訴えたいという欲求に通じているはずです」(P15)


「読書、なかんずく小説を読むよろこびは、もう一つの人生を経験することができる、
という点にある。こちらに積極的な「読み取ろう」とする気持がありさえすれば、
たいていの小説はそれを与えてくれるものだ。
というより、ある場合には現実の生活では得られない情緒や感動を、
現実よりもなまなましく、――ときには肉体的にまで、――経験することができる」(P81)


「青べか物語」(山本周五郎/新潮文庫) *再読

→完全な小説だとは思うけれども、やはり古くさい。
作者の異常なまでの人間嫌いと劣等感が透けて見えて、
いやなやつほどいい小説を書くという定理が真実であることを思い知らされる。
自分は絶対正義とか信じていないとこういう名作は書けないのだろう。
山本周五郎といえば人情作家のように思われているが、
晩年の名作「青べか物語」は底辺が底辺をバカにしまくる楽しい小説である。
ああ、学や金のない底辺の人たちって怖いんですね。
それは同時に人間味豊かであるということなんだけれど、ちょっと濃すぎて、そこがおもしろい。
山本周五郎といえば、忘れられた文豪ストリンドベリを愛したことで知られている。
たまたまわたしもストリンドベリ邦訳作品はほとんど読んでいるので(こんなやついないだろ)、
せめて山本周五郎のストリンドベリ的なところを指摘したい。
これだけ評価の高い作家の作品にいまさらわたしごときが付け加える感想は思いつかない。
ストリンドベリはとにかく人間不信、人間嫌いで、
バカにしあう人間同士や男女を好んで描いた。
人間というものはずるくて汚くて自分のことしか考えず、他人をバカにするのが大好きだ。
これがストリンドベリの人間観であり、また「青べか物語」の人間模様だと思う。

老人の顔の描写である。実にストリンドベリ的でなおかつ日本語としてもうまい。

「眼には非人間的な鈍い冷たい光があり、
殆(ほと)んど唇が無いようにみえる薄い唇には、いつも人を小ばかにしたような、
狡猾な微笑が刻みつけられていた」(P17)


底辺漁師部落の五郎さんは若い妻をめとったけれどもすぐに離婚してしまった。

「町の人たち、ことに五郎さんの友人たちはこの離婚に不審を持った。
友人たちはこの結婚に嫉妬と羨望を感じ、五郎さんとのつきあいも疎遠になっていた。
云うまでもなく、花嫁が縹緻(きりょう)よしで、東京の女学校出身であることが、
かれらの庶民的な生活感情を刺激したのであって、
それが半年と経たないで離婚したとなると、かつての羨望や嫉妬が、
今度は激しい疑惑と詮索欲とに変った」(P59)


人間の本性は嫉妬で、人の幸運は腹立たしく、また人の不運は好奇心をくすぐられるのだ。
それから縹緻は新潮文庫さん、ルビを振ってくださいよ。
文脈から「きりょう」しかないとは思ったけれども、こんな漢字があったとは。
さて、底辺層の被害妄想を山本周五郎文学は心地よく、とろけるような甘さでくすぐる。

「彼は出るところへ出たのだ。県の県警本部までゆき、
金も地位もない者がどんな扱いを受けるかということを、
自分ではっきりと経験した」(P76)


以下は人生を貸借関係と見るストリンドベリ的人物と瓜二つの思考形式でうすら寒くなった。

「これだけ酷(ひど)いめにあわされれば、人は温和な気分を保つことはできないだろう。
自分が払わされただけのものを人にも払わせてやろう、
というような気持になるのが当然かもしれない」(P256)


「涙の数だけ優しくなれる」や「傷ついた人は人の気持がわかる」なんていうのは嘘で、
人生から残酷な仕打ちを受けたものは、おなじかそれ以上のことを人にやり返すのだ。
いじめられっ子が長じて自分がされたよりもはるかにひどいいじめをするのが底辺だ。
先輩からこれでもかと殴られた運動部員は残酷な笑みを浮かべながら後輩を殴ることに酔う。
人を苦しめるのはなんて楽しいのだろう。バカほどバカをバカにする。
山本周五郎の名作「青べか物語」の登場人物はストリンドベリ的でわたしにとても近しい。