やっぱ感動は共有しないとね。
明日17日24:05からNHKで放送される「7年ごとの記録 28歳になりました」はおすすめ。
なんか後日、映像追加版を再放送するらしいから見逃しても大丈夫らしいけれど。
7年まえは21歳だった男女たちは果たしてどうなっているか。
ダメなやつはダメなままなのか。ひとりくらい取材拒否をしていないのか。
こうしてぼくが推薦すると見る人が少なくなるのもいいの。優等生ぶったNHK嫌いだから。

※(予習あるいは復習)「7年ごとの成長記録 21歳~家族、そして私~」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-795.html

最近、携帯に迷惑メールが日に10通くらい来る。
「私のアワビを密漁して」とか。
早くauに電話するかショップに行くかして対策をしなきゃいかんのだが面倒くさい。
ああ、まずネットで検索か。しかし――。
ぼくの携帯メールアドレスなんて日本で10人くらいしか知らないだろうに、どうして?

思いつきで余り物を料理をして成功すると嬉しいよね。
このまえキャベツをベーコンで炒めてカレールーで味付けしたらすごくうまかった。
むかしテレビで知ったけれど、カレールーはかなり万能らしいね。
ルーと水を容器に入れてレンジでチンするとカレーソースができる。
キャベツベーコンにカレーソースを混ぜたら抜群つまみになった。
狙ってやってもそこまでうまくないかもしれない。偶然できたから感動があったのかも。
料理は漫画「クッキングパパ」で学んだ。

このまえ炎天下の日曜日に上野動物園に行ったら、ゾウの看板が笑えた。
なんでもまだお子さまのゾウらしい。
最近少しおとなになって、飼育員をランク付けすることを覚えたって書いてあった。
おとなになると人間をランク付けするようになるのかって同行者と大笑いした。
しかし、ゾウにランクが下と見なされる飼育員って悲しくね?
どういう基準で動物は人間をランク付けしているんだろう。

ぼくは基本的になぜか犬から吠えられる。
たぶんこれがランキング下位ということなんだろう。
犬とか家族を明確にランク付けしてるって聞いたことがある。けっ、畜生め!
まあ、白状すると人間より下位のパンダなのだから仕方がないけれど。
パンダの写真は携帯で撮ったけれど、だれも興味ないだろうから非公開。
上野動物園ってビール売っていたから園内アルコールOKなんだね。
むかしは違ったような気がする。
ちぇっ、冷やした第3のビールを持ち込めばよかったや。

いちばん原価率が低くて割高なのって宅配ピザなんだってね。
宅配ピザを注文する人は本当のお金持って感じがする。
そういえば尊敬する芥川賞作家の西村賢太氏の飲食日記によく出てきたような気が。
くうう、ブルジョアに成り上がったな。いいよ、いいよ、賢太兄貴。そのまま、そのまま。
ネットで「突然死しないために」みたいな特集があった。
ぼくは早く突然死したいから、逆の関心を持って読んでしまったよ。
しんどい闘病のない突然死なんてサイコーの幸福だと思うな。

占いが好きで毎日毎週のようにチェックしているけれど1回も当たったことはない。
それなのに、なんで見ちゃうんだろう。
あれはいいことが書いてあると希望になるよね。
もうこの齢になると絶望だらけだから、そんな希望でもないよりはまし。
ぼく、世間知らずだから、むかしは現実に小説のようなことがあると思っていたもん。
あれは本当に現実にはなにもないから書かれ読まれるものなのかね。
結局、世界はある意味、言葉であるわけだから、
いままでにない新しい言葉で世界を意味づけされたら、
世界が一瞬だけ変わることもなくはないのでしょう。

山田太一ドラマから教わったのは、人間は結局「顔、金、肩書」の3Kであること。
この3Kによく注意して世界を見ていると、裏側が読めたような錯覚におちいることができる。
実際は、本当のところはわからないんでしょうが。
世界には、え? こんな世界があるの? と経験してみないとわからない世界があって、
しかし当人が人生でなにを体験するかはほとんど宿命のようなもので縛られているから、
だからノンフィクションのようなものの価値があるのだけれど、
けれど究極のところ読むのと身をもって味わうのはぜんぜん違うから、
まあ人間は不自由な存在で、バカヤロウ、バカヤロウ、バカヤロウ!
「生き残るヤツの頭の働かせ方」(桜井章一/アスコムBOOKS)

→副題は「20年間無敗の雀鬼が明かした本質洞察力」。
意地悪いことを言うと、自称最強でもう勝負はしない麻雀屋のおっさんが話した人生論。
雀鬼が新興宗教の教祖みたいになっていてクスッと笑ってしまった。かわいい。
編集者と会談中の雀鬼がいきなり道場生(弟子)に命じたらしい。
「この編集者さん、言うことがつまらないんだよ。ちょっと頭をひっぱたいてあげて」
道場生は雀鬼の命令にしたがい、見知らぬ編集者の頭をポカリとやって去って行ったという。
雀鬼はこのシーンを絶賛している。
常識にとらわれず、知らない人の頭をひっぱたくことができた道場生はすばらしい。
それから遊び心をもって非常識な行動を許すことができた編集者も立派である。
え? それはちょっと違うんでないかい? それ、パワハラじゃね?
師匠の命令は絶対服従の道場からは個性ある人材は出てこないような……。
売れ筋の雀鬼さまのお弟子さんから殴られたら、サラリーマンはこらえるしかないような……。
もしわたしがこの編集者だったら、その場の判断でお茶を雀鬼の顔にかけるかもしれない。
そうしたら雀鬼は、ほう、こいつはなかなかおもしろいと認めてくれるのだろうか。
それともおれさまになにをするんだと激怒するだろうか。
前者だったらばホンモノで、このホンモノくささが雀鬼の魅力である。

雀鬼イズムをひと言で要約した個所がある。

――「いいか、悪いか」とか「頑張ったか、頑張らなかったか」とか
「正しいか、正しくないか」など、世の中でいいとされている基準ではなく、
「楽しいか、楽しくないか」を行動の基準にするのだ――(P116)


そりゃあ、高学歴高収入でかしこまった編集者の頭をポカリとやったら楽しいわな。
どんな顔をするのか興味もあって、その場にいたらゲラゲラ笑ってしまいそうである。
「楽しいか、楽しくないか」で行動する雀鬼さまに成功者も権力者もひれ伏すらしい。
これはフカシなのかそれともホントなのか。
事実だとしたら日本経済、ちょっとヤバいんでないかい?
でも、ぶっちゃけ、社長さんが社長で通じるのは社内だけで、外ではただの人だよね。
なんでみんな自分の会社の社長でもない社長さんをあんなにあがめるのだろう。

「前の章でも書いたように、権力者とか、権威のある人というものを私は何人も
見てきたが、その権力、権威が及ぶ組織の中では偉そうにしているが、
一個人になるとほとんどの人が何かに悩み、何かを恐れ、苦しんでいる。
何をそんなに恐れているのかわからないが、私に相談に来る権威ある人たちは、
例外なく、びくびくしていたり、おどおどしたりしている。
私の前では権威など意味がないので、一人の人間として対峙することになる。
そうなったとたんに、自分の弱さをさらけ出してしまう」(P117)


雀鬼さん、悪ガキすぎて、かっちょええよ。好きだぜ。

「金持ちの不幸、貧乏人の幸福」(ひろさちや/三笠書房)

→この本はそうではないのだが、
だれかライターさんはこのタイトル通りの本を書いてくれないだろうか?
きっと売れると思うのである。
どういう本かと言うと、金持にインタビューしに行って、いかに不幸か聞いてくるのだ。
これは直感だが、金持になればなるほど厄介事に巻きこまれると思う。
日本人は(人間は)幸福になるよりも、むしろ人から幸福だと見てもらいたがるから、
本当のことを実名でしゃべってくれる富裕層を探すのがまず難しいかもしれないけれど。
未読だがアメリカには実際「成功して不幸になる人びと」という本があるそうだ。
これは確信に近いが、金持になったらなったでいろいろ災厄が降りかかってくるような気がする。
だいいち考えてみよう。金持になるということは選択肢が増えるということ。
いいじゃないかと言われるかもしれないが、選んだ結果が失敗だったらどうだろう。
最初からひとつの選択肢しかないほうが楽な面もあるのである。
金持は結婚相手候補も多そうだから、迷いに迷うのではないか。
金持ならではの人づきあいも面倒くさいだろう。
借金を申し込まれた瞬間に友人を失うことになる。
金持は常に幸福そうに人に見せつけなければならないから気の休まるときがない。
金持は必然としてたくさんあの忌々しい税金を払わなくてはならないのも悲惨だ。
金持だからと嫉妬されて人間不信になるものも少なくないのではないか。
え? え? ああん? おまえは金持になりたくないのかって?
そ、そ、そんなことは、ど、どうでもいいだろう。や、やせ我慢じゃないやい。
「ひろさちや流の生き方」を実践しているだけだい! 文句あっか、コンニャロ!

「つねに皮肉に考える。反対を考える。裏を考える。
そうしていたら、宣伝にまんまと引っかかることはありません。
ひろさちや流生き方の原点もそこにあります」(P61)


「宗教練習問題」(ひろさちや/新潮文庫)

→選択肢問題形式になっているが、
こちらはひろさんのファンでたくさん読んでいるから正答率が異常に高い。
もちろん、ひろさんもご存じでしょうが、宗教問題に正答なんてないんでしょうけれど。
いや、正答があると思っているのだろうか。
というのも、ひろさんはホンモノ宗教、
インチキ宗教、ニセモノ宗教があると主張するからだ。
まったく勉強が足らないぼくの考えでは、宗教はぜんぶインチキのような気がしている。
インチキ(フィクション)だから救われるのではないか。
究極のインチキ(フィクション)はホンモノとイコールになるという思いがある。
ひろさんのホンモノ宗教論を拝聴しよう。

「ともあれ、いかなる宗教も、その集団性・社会性・教団性が強調されると
ニセモノ宗教になります。だから、このようなニセモノ宗教に対して
ホンモノ宗教のホンモノ性は何かといえば。
――わたしひとり――
ということでしょう。国家や社会、共同体、あるいは教団全体に対して、
「このわたし」が優先されるのがホンモノ宗教のホンモノ性です」(P118)


ああ、これならわかります、ひろ先生! たしかにそれがホンモノ宗教だと思う。
でも、それってどこにも所属しちゃいけないわけだから、
国家に調査されたときに無宗教になってしまうのでは?
つねづね思っているのだが、どこの教団にも所属していないひろさんやぼくは無宗教では?
組織に所属したら絶対に面倒くさいイベントに参加しろとか言われるわけで、
それが「わたしひとり」をたいせつにしたい気持を邪魔する。
よく知らん教祖様をみんなとおなじように拝めと言われるのを、
「わたしひとり」が拒否してしまうのである。

祈らないのが本当の信心だというひろさんの過激な主張はおもしろかった。
まったくそうだと卓見に感動したくらいである。
本当に絶対者の神仏がいるのならば、間違ったことはしないのだから、
起こることはすべて正しく、
こちらから「ああしてくれ」「こうしてくれ」と祈るのはおかしいことになる。

「また、神仏は、自分で考えて、よしと思ったことをされます。
したいようにされるのです。人間の希望を聞いて、あるいは人間と相談して、
そして人間の運命を決めるのではありません。
人間と無関係に、神はご自身の意思でもって決定されます」(P140)


全部神仏がよかれと思って決めているのだから、
我われは起こることをあるがままに受け入れるしかなく、
注文書のような祈りをするのは神仏を信じていないということに理論上はなってしまう。
とすると、我われは偶然を通して神仏のご意思を知ればいいだけになる。

「アナトール・フランス(一八八四-一九二四)というフランスのノーベル賞作家は、
随想集の『エピクロスの園』の中で、
≪偶然――
人生においては、偶然というものを考慮に入れなければならない。
偶然は、つまるところ、神である≫
と言っています。これは、神の本質を言い当てた名言です。
神の本質はデタラメにあるのです。
いや、神の必然はわれわれ人間にとって偶然になるのです。
なぜなら、われわれには神の必然がわからないからです」(P229)


全部最初から決まっている出来レースを我われは走っているということだ。
落馬するのも自分のミスではなく神があらかじめ決めていたこと。
最下位になることになっている騎手がどんなに神に祈ろうが結果は変わらない。
一位になる騎手がたとえ神を信じていなくても結果は変わらない。
神はこちらの言い分などまったく聞かずにすべてを決めており、
にもかかわらず、それはおのおのの人間にとってよかれと思ってのことなのである。
ならば、我われは「オーマイゴッド」あるいは「南無三宝」と叫んでいればいいのだろう。