「対話する家族」(河合隼雄/潮出版社)

→むかしあるところである人から連日のように「前向きになれ」と指導されたことがある。
(たぶん創価学会員だったと思うが、さすがにストレートには聞けなかった。
お読みの方で彼を知っている人がいたら伝えてほしいのだが、いまでは感謝している)
「前向きになれ」とぼくは数歳上の彼から毎日指導された。
カタカナで言えば、ポジティブになれ。ポジティブ、ポジティブ、ポジティブは正しい。
いまだから白状するけれど、え、ぼく、そんなネガティブに見えるの? と驚いた。
もちろん、第三者の目のほうが正しいのだから、
そのときぼくはネガティブだったのは間違いないが、
本人の意識としてはけっこうポジティブにやっているつもりだったのである。
いまでも自分がポジティブなのかネガティブなのかわからない。
こちらポジティブな人、あちらネガティブな人、なんて簡単に区分できるのは、
わかりやすいテレビドラマの世界だけではないかと思う。
テレビドラマは視聴者のためにわかりやすいキャラクター造形が必須だという。
ポジティブな人がいきなりネガティブになったりしたら、視聴者が戸惑うからだ。
しかし、現実はどうだろうか。
ポジティブな人もそう見せているだけで実はネガティブなところもあるのではないか。
ネガティブな人もそうで、ネガティブな言動をできるのは
根がポジティブだからのような気がしてならない。
河合隼雄先生、人間のポジティブとネガティブの関係ってどうなっているんですか?

「ただし、ネガティブ、ポジティブと言いますけども、
このマイナスとプラスというものは、思いのほか一緒の時があります。
大嫌いというのは大好きになりやすいし、大好きは大嫌いになりやすい。
こういうものを越えた所に、何か本当のものがあるというところがありますから
マイナスだからと言って、そうびっくりする必要はないので、
こだわらない方がいいかもしれません。
患者さんに接してると、これはしょっちゅう起こります。
ものすごくポジティブだと思った人が次にネガティブになったり、
ネガティブだなと思ったら、ポジティブになったりする。
それから、よく言うのですが、絶対に何とかはしないといって否定した人は、
大体それをやるんじゃないかと思います(笑)」(P62)


ならば河合隼雄によると「絶対に創価学会に入りません」なんて口にする人は、
危ないのかもしれない(入るのがいいのか悪いのかぼくにはわかりませんが)。
あの人とは絶対に話さないとかわざわざ宣言する人もその絶対を破るらしい。
きっと人間って矛盾のかたまりなんだろうな。
ぼくだって将来、創価学会に入って人間革命しちゃうこともあるかもしれないわけで。
創価学会は好きで嫌いだから。嫌いで好きだから。
ここだけの話、掃除するときYouTubeで「威風堂々の歌」をかけている(秘密にしてね)。
「邪を打ち砕く」のところが「ゴミをやっつけてやる」という気分にマッチするのだ。
くれぐれも秘密厳守でお願いしたいが、
動画で踊ってる名誉会長を見ながら楽しそうだなとか思う。
(創価学会が入れてくれないという可能性もあることをいちおう断っておきます)
自分で自分がわからない。
「出世したい」も「出世はもうあきらめた」もどっちも本気として心のなかにある。
「死にたい」も「生きたい」も嘘じゃない本音である。
考えてみると、どっちも嘘でどっちも本当みたいな矛盾ばかり抱えているけれど、
河合隼雄によるとそれは精神が分裂しているわけではなく、当たり前にそんなものらしい。

「矛盾するものを「私はこのようにかかえているのです」と宣言することによって、
その人の「私」つまり個性がはっきりする。
そこに「物語」が生まれるということも考えているが、その点は今回は触れない。
ともかく、そのような現代の個人の心を示す上で、
仏教が重要な役割を果たすと筆者は考えており、
今後もその方向で研究を続けてゆきたいと思っている」(P22)


最近テレビはめったに見ないのだが、
いつだったかNHKのいかにも秀才といった感じのニュースキャスターが言っていた。
「いかなる場合も体罰は絶対にいけません」――。
もちろん、河合隼雄だっていま生きていたら空気を読んで反対はしないだろうが、
1986年(昭和61年)段階では意外や意外、体罰を肯定しているのである。
さすがに全文転載はできないから、一部引用になるため、
河合隼雄の真意をうまく伝えきれていないかもしれないが、それでも抜き書きしておく。
体罰は絶対にいけないわけではない。
なぜなら体罰は――「身体と身体が触れるというのは一種の一体感があるでしょ」。
「体罰は身体に触れて教育しているということでしょう」。
ちなみに河合隼雄は高校教師から職業履歴をスタートしている。

「だから、私が教師だったら、ひょっとしたら殴るかもしれません。
殴るときは私を全部賭けます。これはどういうことかというと、
例えばそれが教育委員会に知れてクビになったって構わないと、そこまで賭けます。
殴ったことが知れた時に、私は教育的情熱でやったんやから
こらえてくれというんだったら全然話になりません。自分を賭けていないんです。
あとでブツブツ言うんだったら殴らん方がいい
父性原理も何もないし、我関せずで殴らない人にくらべたら、
頑張って殴ってる人の方がちょっと熱心だとは認めますけれど、
殴ったからといって偉いわけではありません」(P78)


いったい河合隼雄さんって、どんな人だったんだろう。
村上春樹によると、どうしようもないオヤジギャグばかりペラペラしゃべるおっさん。
河合隼雄が死んでからの最近の発言だから、これはもう信憑性が非常に高いと思う。
もうお亡くなりになっているから講演会に行こうと思っても無理だ。
河合さんは、なにかを「好き」になることが人を育てると考えていたようだ。
たとえば、問題児は自発的になにかに関心を持つことから変わっていくという。
だったら、河合隼雄本人は果たしてなにが好きだったのか。
本書に村上春樹の証言を裏づけることが記載されている。

「つまり、私の好きなもの、それは「雑談」である。
私はあまり趣味のない人間だが、趣味の第一は雑談ではないか、と思っている。
それに適当にアルコール飲料がある方がいい。
飲みすぎて、泣いたり、わめいたりするのは好きではない」(P328)


「長い時間を何やかにやとしゃべって、大いに楽しんだ後で、
さて何の話をしてたのかと考えると、ほとんど覚えていない。
楽しかったという想いだけが残っている。そんなのが私は好きである。
いったいそれが何の役に、と言われても、
無駄なことに時間と金をかけるのが趣味というものの特徴なのだから、
まさにピタリというわけである」(P329)


運よくぼくもたまに酒をのんでどうでもいい話を一緒にしてくれる人がいるけれど、
なにを話したか覚えていないことがあって、相手の迷惑じゃないかとか、
もう少し実のある話をしたほうがいいのかとか思ったこともなくはないが、
河合隼雄さんの言う通りで、そういう無駄な雑談がいちばん楽しいのかもしれない。
異業種交流会とか行って価値ある情報をやり取りするのもきっと大切なのだろうけれど。
有名人の講演会に行ってどうしたら成功できるのか情報を集めるのもいいのだろうけれど。
創価学会の座談会に行って勝利した人の体験発表を聞いて発奮するのもいいのだろうけれど。

しかし、人生まったくうまくいかない。ぼくの人生全体が病んでいるようなところがある。
どうしたらうまくいくのだろう。どうしたら病んだ人生が治るのだろう。
ぼくも熱心に成功者のセミナーとかに行き散財したほうがいいのかな。
それとも現世利益をうたう新興宗教団体へでもあたまを下げて入れてもらおうか。
どうすればかならずよくなるのだろう? いい方法はないか?

「「――すれば必ず――になる」というようなことを信じることによって、
安易に偽科学が偽宗教の道に迷い込んでしまうのだ。
人間のこころのことは、それほど簡単にわかったり、
「よい方法」によってうまく変えられたりするものではない。
確かに、心から祈ることによって自分の願いが聞きとどけられたと思うときや、
知人の死を「虫の知らせ」によって知ることができる事実があることを私は否定しない。
しかし、そのようなことがあるからと言って、
そこから単純な「理論」や「信心」を導き出すのは、まことに安易なことである。
ましてや、そのようなことを種にして、お金をかせごうとするのには、
どうもついてゆけない」(P28)


「子どもの本の森へ」(河合隼雄・長田弘/岩波書店)

→河合隼雄先生の対談を読んでいて感心するのは、
相手の発言をほとんど絶対と言ってもいいほど否定しないのである。
これは言い方を換えたら、相手にまかせているということだろう。
成り行きにまかせているとも、偶然にまかせているとも言えよう。
これは人それぞれでケースバイケースなのだろうが、
我が強いわたしは最近「相手にまかせる」ことをようやく覚えてきたようなところがある。
よかれと思って自分でなんやかんやはからうよりも、
相手にまかせていたほうが双方ともにうまくいくような経験を何度かしている。
もっとも相手が自分のように我が強すぎる場合は、ついていけなくて破綻するけれど。
そして、詐欺を見抜く目がないと相手にまかせていると大損してしまうこともあろう。
とはいえ、長年交際のある信頼できる相手なら、
相手にまかせるのがいちばんなのかもしれない。
いい歳をしたおっさんがいまさらそんなことに気づくのかと笑われてしまうかもしれないが。
わたしのなかでなぜか河合隼雄先生の比重は高いので、
恥ずかしながら「相手にまかせる」も先生に教わったことのひとつになる。
本書でも河合先生はとにかく会話の主導権を相手に託し、その流れについていっているのだ。

最近、村上春樹が自作の「アンダーグラウンド」を引き合いに出し(既読ですよ)、
河合隼雄くらいの傾聴なら自分もやったことがあると言っていたが(雑誌「考える人」)、
まったく寝言は寝て言え! と言いたくなってしまう。
一度や二度インタビューするのと、河合隼雄のカウンセリングはまったく違っていたはずだ。
この機会に言わせてもらうが、
どうしてか河合隼雄と村上春樹の対談本を過剰に評価する人が多いけれど、
心理療法家の対談を数多く読んできた当方から見ればあれは最低レベルの出来だ。
とにかく村上春樹のガードが固くて、ぜんぜんおもしろい対話になっていなかった。
とはいえ、ノーベル賞確実と言われる作家である。
本人や愛読者がハルキ・ムラカミを神格化するのは仕方がないのかもしれない。
村上春樹はどうでもいいので、河合隼雄の言葉を採録しておこう。
河合隼雄の権利継承者が無断引用禁止のような不穏なことをどこかのHPで書いていたが、
いままで一度も警告のようなものは来ていない。
さすがにわたしの河合隼雄先生へのリスペクトはお読みになればわかるのでしょう。

「昔は漢文の素読あった。それを否定したでしょう。
ところが漢文の素読を否定して、そこから暗誦そのものまで否定したのは間違ってます。
むしろ「二行でもええ。何でもええから、あなたの好きなところを、
音楽をつけてもええし、気持ちを込めて暗誦しなさい」と。
そうして、自分の好きな暗誦の大会というやつをやったら、これは楽しいですよ」(P7)


「ほんとに表現というやつがくるまでは、待っているよりしょうがないんです」(P104)

「大人になってからでは、完全には物語の中に入れないんです、どうしてもね。
子どものときに読んでいたら違ってくる」(P121)


「分かれ道でどっちへ行くのか、本人もわからないんだというところが何度も出てくる。
それがほんとうの旅だと思うんですね。答えがないところへ出ていく。
誰にとっても正しい答えがあるなどというばかなことはないわけです。
人によってぜったい答えが違うんですからね」(P126)


「こころと脳の対話」(河合隼雄・茂木健一郎/新潮文庫)

→河合隼雄は無意識にまかせて生きろ、と言っているわけだが、
むろん、その危険性もよくよく承知している。
社会や世間は意識(善悪、正邪、損得、因果)を絶対のものとして動いているのである。
人気テレビドラマ「半沢直樹」の最初だけちょっと見たけれど、
あきれるくらい善悪、正邪、損得、因果がはっきりしているのである。
「半沢直樹」は人気があるからきっといいドラマなのでしょうが、それはともかく、
多数派というのはどうしようもなく善悪、正邪、損得、因果のみにとらわれている。
正義(善)が悪を打ち破る話が大好きだ。
損をするよりも得をする話が大好きだ。
なにかが原因になって結果が起こるという話しか信じられない(サバ缶で楽々ダイエット)。
本当はひとりの人間のなかに善も悪もあるという考え方は嫌われてしまう。
いま損をすることで将来に得をするという話を詐欺かなにかのように感じてしまう。
なにか事件が起きたらかならずその原因があると思い込み仮想原因を叩くことで満足する。

繰り返すが、社会や世間は意識(善悪、正邪、損得、因果)を絶対視する。
このため、無意識にまかせて生きているようなやつは
変人や勝手者と言われ毛嫌いされてしまう。
河合隼雄は言う。それでも無意識にまかせて生きよう。
危険であることを忘れないで、しかし無意識をもっと活用してみたらどうか。
無意識にまかせて生きるとは、具体的にはどういうことなのか。
以下は全部河合隼雄の発言である(茂木健一郎氏のものはありません)。

「そういう自分のふっとした心の動きに忠実に[行動する]」(P112)

「やっぱり出たとこ勝負の強さをもたないと」(P197)

「僕なんか、いつもそこ[無意識]に注意しているわけですね。
一般的な関係は平気で無視して。
だから、いろんな人がおるなかで、「あっ、あの人」と思った人がいたら、
わりと長くしゃべったりとか。
それから本屋に行っても、なんかパッと見える本があるでしょう。
その本はもう絶対に買うとか」(P105)


「僕なんかは、この非因果的連関のほうをけっこうおもしろがって見てるわけですね。
もちろん因果的にはつながらないんですよ。
ただし、ミーニング(意味)はあるわけだから、
そのミーニングを知ろうというわけですね」(P104)


「やっぱり僕らの知覚というのは、どうも言語に頼りすぎているんですよ。
言語表現に頼りすぎているけれど、本当は僕の経験なんかでいうと、
言語で表現されてるのは一部分でしょう」(P145)


「ちょっというならば、社会を構築している横糸ばかりみんな見てるけれど、
縦糸(たていと)があるのを忘れてるんちゃうかという感じですね。
縦糸と横糸があるから、すごいおもしろいのに。
横糸だけでも模様はできるけれど、やっぱり縦糸が入るとすごく違うでしょう」(P111)


無意識にまかせて生きる――。
下手をすると、その行動は周囲から狂人のように思われてしまうかもしれない。
もちろん、河合隼雄くらいの地位のある人ならば、
多少の奇行はなにか意味があるものとして一目置かれただろうが、
無名の我われはなかなかそう、うまくはいかないことをくれぐれも忘れてはなるまい。

そうそう、話は変わるが河合隼雄ファンは(わたしはなぜか違うけれど)、
カウンセラーさんを過剰に頼るようなところがあるのではないか。
なかには癒しなどを求めて臨床心理士の資格もないようなカウンセラーに
大金をつぎ込むものもいるかもしれない。
まずは心療内科や精神科に行こうと、
カウンセラーのボスたる河合隼雄先生がおっしゃっていることを忘れてはいけない。
カウンセラーの営業妨害になるかもしれないが、まずは心療内科や精神科に行こう。

「クスリで治る人は、早くお医者さんに行ってもらわないといけない。
ほかで治せることはどんどんやってもらって、残る人がおられるわけですね。
そういう人にきていただくといったらいいんじゃないかな」(P165)


これは人気者の河合隼雄だから言えることだろう。
零細個人事業者のカウンセラーは、
たとえクスリひとつで簡単に治ってしまう患者にもクライアントになってほしいのだ。
精神科で1日で治る病気を1年じっくりカウンセリングして料金を取らないと、
経済難でカウンセラー自身の心が病んでしまうことになりかねないからである。
このため、精神科は危険でカウンセリングは自然療法みたいな宣伝をするわけだ。
しかし、河合隼雄先生がおっしゃっている。
まずは心療内科や精神科に行き、おクスリをのんでみましょうってことだ。

「中年クライシス」(河合隼雄/朝日文芸文庫)

→ユングのところに来る患者は中年が多かったそうである。
財産、地位、家族に恵まれたものが、それでもなお不満を感じてユングのもとを訪れた。
日本経済がまだいまのように落ち込んでいなかった本書執筆時(1993年)、
河合隼雄はそろそろ日本の中年にも心理的な問題を抱えるものが増えてきたと感じる。
このため、中年期の問題を文学作品を用いて語ろうというのが「中年クライシス」だ。
河合隼雄が文学作品を例に出して心理問題を説明するのは守秘義務のためである。

正直な感想を述べると「中年クライシス」は贅沢病としか思えなかった。
財産、地位、家族に恵まれた中年の心の問題はあまり共感できないのである。
というのも、こちらがそのようなものに恵まれていないし、
もうあきらめに境地にいたってしまった初期中年だからなのだと思う。
よく知らんが本書によると財産、地位、家族に恵まれた中年は「私とは何か」に迷うらしい。
たしかに「○○会社の部長」「○○の夫」「○○の親」「年収は○○」で説明できるが、
それはほかの人との比較で有効なだけで、根源的な「私とは何か」の答えにはならない。
そこで贅沢にも「私とは何か」に思いをめぐらす悩める中年がいるそうだ。
肩書や年収、家族を追っ払った「私」なるものを河合隼雄はこう説明する。

「たとえば「私」とは、今ここに一人で山小屋の前に座って、高い山々の峰を見ている。
それだけでまったく十分なときがある。これが「私だ」と感じることができるのだ。
そんなとき、その山の空気や、そして自分の体の状況や、
それらすべてが混然一体となり、「私」の感覚を支える。
このような感覚がわからない人は、
自分がそのときに見た山が「海抜何メートル」であるのか、
自分はそこに行くためにどれほどの費用を使ったのか、
その場所は「有名」かどうか、などを強調する。
こうした人は、同じような山を見ている「私」について考えるにしても、
その尺度は先に述べた一般的尺度に頼っている」(P133)


「ふたつよいことさてないものよ」は河合隼雄の名言のひとつだが、
純然たる「私」と世間的に評価された「私」のどちらをも獲得するのは無理ではないか。
わたしは「山と一体化した私」のような感覚はわからなくもないが、
財産、地位、家族とはまったく縁がない。
財産、地位、家族に恵まれた幸運な人は、そちらの「私」はあきめらてもよいのではないか。
幸運で裕福な中年が突然に心を病んだり自殺したりするのは、
純然たる「私」の希薄さが関係しているらしいが、まあザマアミヤガレと思わなくもない。
両方の「私」をどちらとも備えようとするのは欲張りが過ぎるような気がする。
「寝た子を起こすな」とも思う。
一生、財産や地位をがむしゃらに追っていれば、心の病にはかからないのではないか。
河合のような心理学者が「本当の私」などに言及するから、
うっかりその内容を雑誌などで読んでしまった中年の心が病んでしまうのではないか。
いや、河合隼雄に言わせれば、いわゆる社会的成功者は無意識に復讐されて
困難な家族問題や心理問題に直面するということだが、そうだったらどんなにいいことか。
もしそうであるならば、こちらの嫉妬も少しは慰められる。
しかし、果たして本当に河合隼雄の言うようになるのか。
社会的成功者が家族の問題に直面しやすいのは事実だろうが、
ほとんどの成功者は家族を犠牲にして自分の成功を維持するだけで病んではいない気がする。
とはいえ、家族がそれぞれたとえれば星座(コンステレーション)の関係にあるとは、
過去の記憶に照らしてまったく事実だと思う。

「家族というものは不思議なものである。別に示し合わせたわけでもないのに、
それぞれの内的な心のあり方に、見事な対応関係が生まれてくるのである。
コンステレーションというのは、星座の意味である。
家族の関係は星座のように、お互いが適当な距離と引力関係をもち、
全体としてひとつの布置を形成している。
したがって、そのなかのひとつだけが単純に変化することはできない。
その変化は、どれが原因、結果などと言えないままに、全体として生じるのだ」(P125)


これをわかりやすく言うと、たとえば兄弟はなかなか全員は成功しないのだ。
複数の兄弟がいたらひとりだけ出世して、
あとのふたりはぜんぜんダメということがよくあるのではないか。
タレントのゴマキではないが、ひとりが突出した地位や富を得てしまうと家族がダメになる。
しかし、全体としてみたら禍福のバランスが取れている、ということである。
親がずば抜けた成功をおさめると、元東大教授の某氏のように子どもが自殺したりしてしまう。
家族、財産、地位に恵まれた中年さんは贅沢にもエロスと分別の相克に悩むらしい。
これもまた「中年クライシス」なのだろう。

「中年の「分別」という言葉は、ともに「わける」ことを
意味する分と別という字を組み合わせてつくってある。
分別とエロスは敵対関係にある。
分別の強すぎる人は、エロスをおさえこもうとする
(もっとも、そんなことは不可能であることは、後に述べる)。
エロスの強すぎる人は、分別がなくなってしまう。
青年期ならともかく、中年になると、
いかにして自分を超えるものとしてエロスを体験しつつ、
自分という分別をなくしてしまわずにいるか、
という課題に取り組むことになる」(P90)


そうであるならば、会社のお偉いさんが盗撮で捕まったり、
水商売の女に夢中になって会社の金を使い込んだりするのは、
エロスが分別に勝(まさ)ってしまったということなのか。
地位も財産も家族も放り捨ててひとりの女に熱中するとか体験してみたいけれども、
そもそも捨てるべきものがない中年だから、そんな男には女も寄って来はしないだろう。
ああ、捨てるものがほしい。「中年クライシス」を経験してみたい。
そんなことを思ったのであります。

「物語とふしぎ」(河合隼雄/岩波書店)

→考えてみたら、我われはふしぎに取り囲まれていると思えなくもない。
まず「わたし」という存在がふしぎである。
どうしていまの名前、性別、国籍、貧富として生まれてきたのかふしぎとしか言いようがない。
家族もふしぎではないか。
いちおう夫婦のみはそれぞれが選択したと言うこともできなくはないが(しかしこれもふしぎ)、
それ以外の一切の兄弟姉妹、親戚等、家族は運命的と言うほかないふしぎがある。
人はなぜ死ぬのか。死んだらどうなるかというのもふしぎである。
たとえば以上のようなふしぎをおさめるのが物語であると河合隼雄は言うのだ。

小さな子どもと母親の会話を河合隼雄は紹介する。
子ども「お母さん、なぜせみはミンミン鳴いてばかりいるの?」
母親「なぜ鳴いているんでしょうね」
子ども「お母さん、お母さんと言って、せみが鳴いているんだね」
子どもは自分の答えに納得してこれ以上「なぜ?」と聞いてこなくなったという。
おそらくカウンセリングの現場では、この子どもがクライエントで、
「なぜ?」に「なぜ」と聞き返すのが臨床心理士なのだろう。

クライエント「なぜわたしは不幸なんでしょう?」
カウンセラー「なぜなんでしょうね」
クライエント「(自分の物語)」
   ☆
クライエント「子どもが問題児で困っています。なぜうちの子だけ?」
カウンセラー「なぜなんでしょうね」
クライエント「(自分の物語)」
   ☆
クライエント「死ぬのが怖いんです。なぜ人は死ぬのでしょうか?」
カウンセラー「なぜなんでしょうね」
クライエント「(自分の物語)」

物語は「そのときに、その人にとって納得がいく」答えだと河合隼雄は言う。
ならば、みんなおなじ答えでなくてもいいのだろう。
しかし、我われはなかなか自分の物語(答え)を創りだすことができない。
本書で著者は児童文学の名作を例に出して「物語とふしぎ」について語る。
結論は冒頭に書いてあってふしぎ(=なぜ?)が物語を生むのである。
そうだとしたら、まずいろいろなふしぎに気がつくことから物語が生まれるのかもしれない。
ふしぎとは常識的な考え方を疑ってみることで、ふしぎであると認識される。
もしかしたら世界はいま見えているような世界ではないのかもしれない。
もっともっとふしぎがあると考えてみたら少しは豊かな生き方ができるのではないか。
「ふしぎの国のアリス」を例に出して河合隼雄は時間と空間のふしぎについて述べる。

「しかし、われわれは実際、時間も空間もまったく一様な世界に生きているのだろうか。
同じ一時間でも、長く感じるときと短く感じるときがある。
同じ距離も遠かったり近かったりする。
人間の生きている時間と空間はそんなに一様ではない。
そのことを忘れてしまうと、人間は時計や巻尺に縛られるような、
面白みのない生き方をすることになるのではなかろうか。
アリスの行った「ふしぎの国」から、こちらの方を見返すと、
自分の住んでいる世界のほんとうの姿がよりよく見えると思われる。
アリスの体験は「ふしぎ」かも知れないが、
空間も時間も一様な世界があれば、それこそ変なものではなかろうか」(P140)


時間と空間が一様ではない「ふしぎの国」とは、たとえば死後の浄土がそうである。
人間の目には見えないが妖精の国があるとすれば、これも「ふしぎな国」であろう。
もし妖精がいるのだとしたら、いろいろなふしぎ(なぜ?)に説明がつくのではないか。
妖精が見えたら「そのときに、その人にとって納得がいく」答えが得られやすくならないか。
それは豊かな生き方とも言えるのではないか。偶然は妖精の仕業かもしれない。

「たとえば、中年の女性が「不定愁訴」と呼ばれる症状をもって相談に来られる。
医学的には原因は見つからないのだが、
体のあちらが痛くなったり、こちらが痛くなったりして何もできない。
現代の医学では原因が見つからないと、すぐ「心因」などと言われ、
まるで「心がけ」が悪いように言われたりするが、
これはその家に住む妖精にいたずらされているからだ、
などと思ってみた方が事態がよくわかるのではないだろうか」(P170)


「あるいはふしぎな偶然によって大成功したり、大失敗したりすることがある。
そのときに自分は大したものだと威張ったり、身の不幸を嘆いたりするよりは、
そのことにはたらいている超自然的な意図や意志について考えてみる方が、
その後の役に立つのではなかろうか」(P171)


もし大成功や大失敗が自分の意志と努力の結果ではなく妖精の仕業だとしたら、
大成功をしても傲慢にならないし、大失敗をしても過度な自己卑下から逃れられる。
いや、妖精なんかいるはずがないとお怒りになる方もおられるだろう。
物事の現象は、すべて人間の意志や努力の結果なのである。
バカを言っちゃいかんよ。人間の意志や努力のパワーは無限大だ。
願うだけではいけないが、願って努力したら、人間に不可能なことはない。
不可能なのは方法がよくないのだ。
アメリカで発明された科学的な自己啓発法を用いれば人生は思い通りになる。
しかし、本当にそうだろうか。ままならぬふしぎがあるのではないか。
たとえば「時」のふしぎはどうだろう。「時」を人間の意志と努力で動かせるか。
「時」は妖精が運んでくるようなふしぎなものとは思えないか。

「われわれ現代人は自分の意志と努力によって、
自分の人生をつくりあげていくと思っている。
それが時に強くなりすぎると、何でもかんでも可能なように錯覚したりする。
しかし、ひとりの少女はどうしても女にならねばならないし、
その「時」をわれわれはとめることはできない。
大人になることは「少女の死」を意味する。
男であれ女であれ、成長に伴って何らかの死の体験は避けることができない。
何とかしてそれに抗してみても、「時の到来」は情け容赦をしない」(P224)


「時の到来」は人間にとって情け容赦なく残酷だが、
長年の臨床経験からそれはまた救いであると河合隼雄は主張するのである。
問題やトラブルが込み入った家族にも救いの「時」の訪れることがある。
「少女の死」は悲しいけれども「女への成長」は喜ばしいことだ。

「このような大切な「時」が、誰の人生にもある。
時にはそれが人生の方向を決定することにもなる。
そのような「時」はこちらが求めて得られるのではなく、
どこかからやってくる、という感じがすることもある。
ずっと待っていて、時が熟してくると、どこからかその「時」が到来する。
しかし、せっかくのその到来に気づかずにいたり、
受けとめる力がないときは、それは無意味に終わってしまう」(P215)


河合隼雄といえば、怪しげな共時性=シンクロニシティなる概念を
日本に紹介したことでも広く知られている。
ユングの提唱したシンクロニシティを河合ははじめ同時性と訳し、
次に共時性に変えたとファンであるわたしは記憶している。
本書で「述語論理」なるものが紹介されているが、
シンクロニシティはまさしく「述語論理」によっているのである。
「述語論理」は精神病患者の妄想を説明するものとして最初は注目された。
本書にならうならば、こういう論理展開を「述語論理」というらしい。
「私はマリアである」という妄想を持っている患者になぜかと質問する。
1.マリアさまは処女である。
2.私も処女である。
3.ゆえに私はマリアである。

自分で作ってみるとよくわかるだろうから、ひとつ考案してみる。
1.日蓮は法華経を熱愛した。
2.僕も法華経を熱愛する。
3.ゆえに僕は日蓮である。
うーん、下手くそでごめんなさい。じゃあ、ストーカーを「述語論理」で説明する。
1.彼女は歌舞伎が好きだ。
2.僕も歌舞伎が好きだ。
3.ゆえに彼女は僕を好きになるはずだ。好きにならないのはおかしい。
これは結構よくできた狂った「述語論理」ではないか。

要するに「述語論理」とはこういうことだ。
1.AはXである。
2.BはXである。
3.ゆえにA=Bである。
これは当てはまるときもなくはないだろうが、かならずしも正しい論理展開ではない。
さて、シンクロニシティはほぼ「述語論理」によっていると言ってもよいのではないか。
1.Aという現象がX時に起きる。
2.Bという現象がX時に起きる。
3.ゆえにAとBには深い意味がある。
シンクロニシティは「述語論理」に近い「怪しげな論理」である。
このまやかしの「怪しげな論理」にどう付き合えばいいか河合隼雄は説く。

「われわれはものごとを証明するときは正しい論理を使わねばならない。
しかし、ものごとを発見しようとするときは、
敢(あえ)てまやかしのなかにも入りこんでいく態度をもっていなくてはならない。
そんなとき怪しげな論理が発見の手助けをしてくれるのである。
もちろん、発見したことを他人に伝えるときは、
それにふさわしい表現法や論理を考え出さねばならないのだが」(P143)


ものごとを発見するときは、怪しげな論理がむしろ有効になるのであろう。
あえて間違えることで新発見をする。
我われの意識は間違えないよう間違えないよう努めている。
だとしたら、新発見は無意識にまかせてみたときに生じるのかもしれない。