小学生のころ、少年野球チームに入っていたことがあります。
かなり努力しましたが、あとひとりというところでレギュラーにはなれませんでした。
いわゆる補欠というやつであります。
少年野球でさえレギュラーと補欠の差はすごいものがありました。
補欠は雑用係のようなもので、
することはレギュラーの打撃練習で転がってきたボールを拾うだけなのです。
補欠は(楽しそうな)打撃練習をほとんどやらせてもらえません。
かくしてレギュラーはさらに技術が向上して補欠は補欠ゆえに下手なままになります。
このため補欠はしだいに練習に参加しなくなります。

ぼくは努力したらかならず報われると信じて同学年のレギュラーの球拾いを続けました。
後年成人してから父親と酒をのんだときに少年野球の話になりました。
あれは悪かったと父からなぜか謝罪されて驚きました。
父が言うには、自分が仕事一筋でまったく少年野球チームにかかわらなかったせいだと。
自分も少年野球にわずかでもボランティアで参加していたら違っていただろう。
そのとき父はよく世間を知っていると驚きましたね。
たしかに少年野球チームのレギュラーはみな父親が監督やコーチだったのです。
言われてみれば、監督やコーチの息子ばかりがいい思いをしていました。
一度も少年野球の観戦すらしてくれなかった父が見事に裏を見破っているのには驚きました。
世間というものは、よくも悪くもそういうものなのでありましょう。

中学時代は卓球部に所属していました。顧問は数学教師のMという男でした。
Mは同学年の美少年をひいきにしていました。
あるとき、どういう機会だったか、ひとりが選ばれるというシーンがありました。
同学年でひとりだけある試合に出場できる。
ぼくは美少年と試合をすることになりました。
当然その試合に勝ったらば自分のほうが選ばれるだろうと思っていました。
美少年はきれいな卓球しかできないのですね。
ぼくは勝つためにはなんでもしようと思いました。
一対一の勝負ですから心理的ゆさぶりやら汚いこともいろいろしました。
いえ、勝つために相手の弱点を集中的につくのが汚いのかどうかはわかりませんけれど。
結局、勝負には勝ったのです。
しかし、そうです。ご想像の通り顧問の数学教師Mから選ばれたのは美少年でした。

思い返してみたら、ぼくはMから嫌われていたんですね。
中2からは成績優秀になりましたから、先生から殴られるようなことはまったくなかったです。
こちらの思い違いもあるのでしょうけれど、ひとりにだけけっこう理不尽に殴られている。
数学教師のMから、理由もわからずにいきなりビンタされたことがあります。
ふつうの人間ならば、こういう体験を通して中学生あたりで世間というものを知るのでしょう。
そうだとしたらMの体罰は、世間を知れという愛のムチだったのかもしれません。
残念ながら中学生のぼくはMの屈折した愛に気づかなかった。
Mの真意が届かなかったのは、ぼくが未熟だったからでしょう。
世間というものは、上から気に入られるかどうかがほとんどがすべてなんだから、
覚えておけ、忘れるな、いいか、絶対に生意気をするな!
いま思えば数学教師のMは体罰なんてものとは正反対の知的な風貌でした。
M先生が本当はしたくなかったであろう暴力で教えてくれようとした、世間というもの――。

とはいえ、好き嫌いは感情ですから、どうにもならないとも言えます。
上から好かれる努力をしても意味がない。それどころか逆効果になることさえあります。
もしぼくが上司だったらあまりに媚びてくる部下は嫌ってしまうでしょう。
上から好かれるものは、たとえ反発していてもなぜか気に入られる。
嫌われるものは、いくら上に取り入ろうとしても生意気と見られ嫌われてしまう。
山本周五郎賞作家のY氏だって映画監督のK氏からひいきにされているのです。
紫綬褒章作家のM氏もまた上役のI氏や教団トップから目をかけられています。
この記事をお読みのお若い将来有望なみなさんに早く世間というものを知っていただきたい。
よけいな老婆心からくだらぬ過去の思い出を記したしだいであります。
いえいえ、上に媚びろというのがメッセージではありませんよ。
おそらく尊敬するY氏もM氏もご両人ともに、そんなことはなさっていないでしょう。
いくら上に媚びても嫌われるやつはどうしようもなく嫌われるような気がします。
早く世間というものを知って、生意気な若人よ、かなわぬ出世欲などは捨てましょう。
なにもかも捨て去ったものを拾ってくれる物好きが現われるかもしれません。
言うまでもなく、99.9%の確率でそんな恩人は現われませんけれども、
まあ人生はどうしようもなくそんなものなのでしょう。
それを見たおかげで読んだおかげでいろいろ考えさせられるというのは名作なのだろう。
小説でも芝居でも映画でもドラマでもそうである。
しかし、音楽は演奏する(歌う)のも聞くのも酔うためであって考える対象ではない。
音楽は徹底的に思考を排除したひたすら自他の陶酔を求める行為である。
下戸(げこ=酒をのめない人)でもだれでも音楽になら酔うことができよう。
音楽のみならず小説、芝居、映画、ドラマも感動体験は陶酔と言ってよい。
後者が音楽と異なるところは、陶酔したのちに理由を考えるところにあるような気がする。
音楽は「いまここ」の忘我しかなく、またそこに固有の魅力があるのだろう。

生きる楽しみなんて、もしかしたら酔うくらいしかないのかもしれない。
人は陶酔するために生きているのではないか。
酔うとは忘我の境地にいたることだ。
くだらぬ自我を捨て去ることができたらどれほど気分がいいか。
たまたま運よく遺伝子的に下戸でないものが酒をのみ自我意識のレベルを落とし、
それぞれがそれぞれの歌を歌い盛り上がるカラオケは、
世知辛い理詰めの現代社会に残された最後の祭りなのかもしれない。

みんなが強制的におなじ歌を歌わせられる学校教育の合唱などよりよほど健康的だろう。
しかし、教育の起源は軍隊整備だから、音楽教育的合唱はやむをえないのかもしれない。
合唱は教育上必要なのだと思う。
思えば、歌うのが嫌いなわたしが中学生のとき、
音楽の時間の合唱で口パクすればいいことに気づいたのはほとんど悟りに近かった。
口パクすればいいのである。諸君、歌わずに歌え。
君が代斉唱で起立しない左翼教員の世間知らずにはまったくあきれてしまう。
四肢が自由であるならば、立って口パクすればいいだけの話なのである。

話を飛ばすがAKB48が口パクだのどうだのという議論があるそうだ。
なんでも口パクだとよくないということらしい。
意味は違うが、どうしてそんなに全員におなじ歌を強制的に歌わせたいのだろうか。
口パクというのは同調圧力の極めて高い現代日本社会を生きる智恵である。
みんなとおなじ歌を歌っているふりをして口パクすればかなり生きやすくなるのではないか。
もっとも合唱ではごまかせてもカラオケでは意味がないので絶対のテクニックではない。

思い返してみると、最後にカラオケに行ったのは20年近くまえである。
大学時代、イケメンでもてる当時の仲間ふたりのナンパに
一度だけつきあわせてもらったことがある。池袋だった。
イケメンでベシャリ(トーク)もうまい彼らは見事に女子高生ふたりナンパに成功。
カラオケに連れ込んだのであった。
初対面の人に声をかけられてついていく女子高生がいるのかと
(たとえ彼女らの容貌がそれほどでもなくても)当時は驚いたものである。
もちろん、カラオケをしたら料金はこちらが支払い「さようなら」である。
イケメンふたりはポケベル(時代を感じさせるでしょう)番号をゲットしたのだったか。
わたしは一曲も歌えなかった。歌うべき曲を知らなかったからだ。

ここまでこの記事をお読みになってくださったみなさまがいちばん驚かれるのは、
わたしにいくら大学時代とはいえそんな過去があったということではないか。
ちょっと自分でも自分の過去が信じられないところがある。
いまあのイケメンふたりはなにをしているのだろう。
おそらく結婚して子どももいると思う。それぞれの人生だ。
これは真実かはわからないが、わたしのたまたまの人生体験から判断すると、
イケメンはいいやつが多いような気がする。
大学生当時のわたしは青臭くてイケメンに嫉妬するということさえも知らなかった。

他人の作曲した歌、作詞した歌を歌えない人にも生きるすべがあるのではないか。
なーに、自分で作曲も作詞もする必要はない。
みんなで一緒におなじ歌を歌っているときに口パクをすればいいのである。
みんなはそれほど悪いものではないのかもしれない。イケメンと同様にである。
愛されたいと思うことほど人を苦しめる欲望はないのかもしれません。
かく申します理由は、ご自分のことを少しだけ振り返ってみてくださいませ。
そうそう他人の思い通りに動けるものでしょうか。
むしろ、相手の期待の反対のことをしたくなるのではありませんか。
いえいえ、まだ若僧なのでよくわかりませんけれど(メンゴほんとはおっさんだ)。
そこそこによくできたうまい嘘は、愛されたかったら愛そうという妄言であります。
しかし、愛されたからといって愛し返すような気持が本物でありましょうか。
それは単なる義理とは考えられませんか。または人情、礼儀、常識、世間知、社交術。
愛されたいから愛するというのは不潔な人間らしくとてもいい思考法だとは思います。
死ぬまでその幻想を愛すのも一手だとは思います。
これだけ愛しているのに向こうは愛してくれない、
とだれかを恨みながら死んでいった人のいかに多いことか。
はて、現実に見返りを求めない愛や、愛を求められない献身はあるのでしょうか。
これは俗にいうマゾというやつでしょうから、実際にあるのだと思います。
彼(女)は仏教でいえば、
煩悩(ぼんのう)をなくした涅槃(ねはん)の境地に立つ聖人になるのかもしれません。
とはいえ、聖人などつまらぬもの。
愛したぶんだけ愛を取り返したいと思う資本主義的発想は人間味があって素敵です。
とてもいいと思います。
意識のレベルを下げすぎて(なんじゃそれ)感情がめちゃくちゃになっているので、
精神を安定させるためにだらだら酒でものみながら、
山田太一ドラマ「よその歌 わたしの唄」について思ったことを書きたい。
書くことでより深くわかり、また書きたく(わかりたく)なるのかもしれない。
自分のことではなく、国民的人気作家の話を書くのだからいいと思う。

新宿ツタヤのレンタルビデオで借りたドラマ「想い出づくり」で
強烈に記憶に残っているセリフがあって、
佐藤慶が児玉清に「田舎のえせインテリめ!」と言い放つのである。
笑いがとまらなかったものである。
いまなら放送コードに引っかかりそうなヤバいセリフなのかもしれない。
とうとうと正論を吐く世間知らずのえせインテリぶりもおもしろかった。

いまは人を傷つけかねないきついセリフを言える役者さんがいないのかもしれない。
みんなヤワになってしまっているのかもしれない。
悪いことではなく、優しい時代になったということなのだろう。
冷たい本音を相手に真正面からぶつけられるのも俳優(人間)のある種の才能ではないか。
「よその歌 わたしの唄」で登場人物が始終酒をのんでいたのは、
酔っぱらっているという設定にしないとセリフが口から出てこなかったのかもしれない。
奥さんを亡くした人に「おまえはおまえ、おれはおれ」は言いにくいだろうな。
「せいせいしたんじゃないか」とか。

イケメンは好きになれないのでわざわざ調べて名前を書かないけれど、
生意気な若い小僧がいたでしょう。あれ、テレビに出しちゃいけない人よね。
最初、カラオケのモニターに映る歌詞と違う歌をうたっていたでしょう。
キ(略)の人と紙一重じゃん。4回も5回もドラマを見たせいか、
「ツイッターでつぶやくぞ」のセリフを思い出して笑いがとまらない。
携帯を取り出す素早さとかナウすぎるぜ、山田太一さん!
「でかいことにするぞ」とか、なんか最高だよね。マッドでクレイジーでグーよ。
いきなり練習場で大声でうたいはじめるのもテレビに出しちゃいけない人っぽかった。
人の自宅にアポなしで訪問するって、「ゆきゆきて、神軍」の世界かよ!
ほんと人格がまとまってない若者だな。
でも、あのイケメン、最後はうまく歌をうたっている。どういうことなんだろう。

ダメね、おれ。人の気持だけではなく顔もよくわからない。
なにか障害があるのかもしれないけれど、人の顔の区別がよくつかない。
だから、映画やテレビは二度以上観ないとわからないのかもしれない。
シナリオで読んだほうがよほど作者の意図がわかるもん。
もっとも映画監督はシナリオなんか勝手に変えるのが業界の常識らしいけど。
よく知らないけれど。
そうそう、ひとり美人さんがいたでしょう。
昨日、調べて驚いた。おれと年齢がそう変わらない。じゃあ、おばさんじゃん。
20代前半くらいじゃないかと思っていた。
NHKのドラマは字幕で名前を出すけれど、年齢も出してくれないと設定がわからない。
あの子、いったい何歳という設定だったんだろう。
介護のおばさんもよく年齢がわからない。みんな若く見えすぎるんだよね。
十津川警部(渡瀬恒彦)だって、どこから見たって定年老人ではなく、現役バリバリでしょう。

十津川警部といえば、ほんとだれを犯人にしたかったのか。
作者の意図は、インテリが現実を知る、世間を知る、という設定だったのだろう。
元教え子のセリフにあった。「教授の現実体験ですね」
柄本明のセリフで思い出し笑いするのは、「面目(めんぼく)ない」。
どこのシーンだったか「面目ない」。
さらって言っていたけれど、いまの時代にいまのドラマで「面目ない」はなかなか言えない。
「あわよくば」おれも言いたくなってきたな。
面目ない。相手はぎょっとするんじゃないかな。
「面目ない」ってなに? 山田太一ランゲッジがおもしろすぎるぜ。
「手弁当」も新人ライターだったら視聴者が意味がわからないから変えられてしまうのでは。
いや、いくらテレビ局の人でも視聴者をそこまでバカにしてはいないのかな。
バカにしているのに批判が来るのを過剰に恐れるのはいい給料をもらっているやましさなのか。

「教授」「元教授」って声をかける言い方がみなさん優しすぎる。
だって、あれはバカにして言っているわけでしょう。キョージュ♪ とかやってほしかった。
モ・ト・キュージュ♪ って感じで。
人をバカにする楽しさを、日本人はうまく演じられないのかもしれない。
ストリンドベリとかユージン・オニールとか、
自分以外はみんなバカだと思っている人がよく登場するので好きだった。
人をバカにするほどの楽しみってそうないよね、なんて本音は日本人からは出てこない。

最初ドラマを観たとき新興宗教かなにかではないかって思った。
ふつうさ、はじめて声をかけられた人についていくかな。
それほど自己承認を求めている人たちという設定だったのだろうけれど。
それとも孤独な人が孤独な人を見分けたという設定かな。
いやいや、おれが現実を、世間を知らないだけかもしれない。
みなさん、芸能界へのあこがれはすごいのでしょう。
芸能事務所やテレビ関係の名刺を出しただけで、きれいなおねーちゃんが釣り放題なのかな、
現実というやつは、世間というやつは。

十津川警部が「いい」「いい」とみんなをほめまくるのはなんだったのだろう。
山田太一さんの自己イメージかな。
敵を作らない人というのか、人のいいところを見るというのか、
よく山田太一氏推薦みたいな宣伝を見かけるような気がするけれど、わからない。
けれど、教育や指導なんて、ほんとはほめるだけでいいんだろうね。
ひとりだけでもほめてくれる人がいたら、人間は変われるような気がする。
しかし、元教授は歌手でもないのに合唱団をおっぱじめるわけだ。
シナリオを書いたことがないのにシナリオを教えたがる変な人を思い出してしまった。

山田太一ドラマの老人パワーはすごいけれど、あれが現実ってもんなのかな。
だって、考えてみたら「ひとりカラオケ」って自己満足の閉じた心地よい世界でしょ。
いうなれば、うちみたいにだれにも読んでもらえないブログの世界。
まあ本人は楽しいんだからいいじゃん、放っておけば、みたいな。
「放っておく」のセリフは記憶では二度出てきたからドラマのある種のテーマだよね。
「放っておく」のはいいのか悪いのか。もちろん、答えなんかないんだけれど。
相手がだれかにもよるよね。
孤独なクレーン男、あれほんとは美人さんが目当てだったという設定なのかな。
さすがにあいつは元教授に引っかからないような気がするけれど。
性格の正直な、美人さんじゃないほうの女性は十津川警部のツラに参ったのはリアルだ。
あの手の人をドラマに出すのは難しいのだろうね。
芸能界にはおなじ顔の美人ばかりしかいないのに、どうしてみんな飽きないのだろう。
こちら識別不能。

山田太一ドラマはあとから思い返してクスクス変な笑いをできるところがいい。
そうそう、ドラマで難しいのは、現実感覚だよね。
自分の妻を人前でなんて呼んだらリアルかは、よほど世間を知らないと書けない。
年代によってものすごく変わるし。
変な人という設定で、ワイフとかカタカナにしちゃうのがいちばん楽なのかな。
そういえば、いしだあゆみ女史はきれいに「~~わ」の女性語を使っていた。
「ありふれた奇跡」はこのまえ全話酒をのみながら再視聴したのだが、
仲間由紀恵が4話か5話くらいまで「~~わ」をけっこう辛そうに言っていた。
いきなりストップしたから、だれかが指摘してしまったのかな。
いまでも山田太一ドラマベスト1は「ありふれた奇跡」。
自殺未遂者3人がネガティブにネチネチ、ネトネトやりあう最高のドラマだった。
わからないけれど「ひとりカラオケ」をする人って、
ストレス発散がうまそうで、あまり人の目を気にしなさそうで、
ということは心を病まないから、実際はあんまり孤独を感じない人たちなのかもしれない。
わからないけれど、わかりませんよ、現実は、世間は、人のことは。
わからないからわかろうとする。しかし、わからない。あるとすれば、これが答えでしょう。

※毎度ながら誤字脱字失礼。
7月19日、山田太一ドラマスペシャル「よその歌 わたしの唄」を視聴する。
正直、わけがわからないのである。なんじゃこりゃと思った。
失礼ながら山田太一先生、ボケちゃったかなと思ったり。
いや、脚本家の中島丈博氏によると
主役の渡瀬恒彦はセリフを大幅に無断で変えた前科があるそうで(「シナリオ無頼」)、
芸能界喧嘩最強と名高いツネさんがまたやらかしたのではと疑ったり。
根性が腐った悪口大好き人間のため、ひどい批評もあたまに浮かんだものだ。
「よその歌 わたしの唄」は定年退職後の大学教授とおなじく定年になった一流商社マンが、
意味不明の行動で若者を振り回す話と言えなくもないのである。
このドラマのテーマは「小人閑居して不善をなす」ではないか。
正しくは、「老人閑居して不善をなす」になるのだろう。
ありふれた社会批評だが、いま日本社会は大量の老人が若者のお荷物になっている。
多額の借金を残していわゆる「勝ち逃げ」をした老人たちが、
のみならず多数派をたのんでさらに若者をいたぶっているという現代社会の構図を、
カリカチュア(戯画、風刺)したくてこのドラマを書いたのか。
最後のシーンではみんな一緒に合唱するので、
大御所脚本家の先生には失礼極まりないけれど半笑いでいまさら歌声喫茶ですか?
なんてことも思ったような、いや、いくらわたしが無礼でもそこまで思うはずがないではないか。

ひねくれもののため、いつも山田太一ドラマ視聴後は
一切他人の感想を調べないで自分の思ったことを思ったままに書いている。
今回だけは例外でネット検索してみたが、それでもわからなかった。
ちょっと意識のレベルを下げてみるかと、二度目は酒を飲みながら視聴する。
このドラマは酒をのむシーンがなぜか異常なほど多いので、
酒ばかり進んで最後は意識もうろうとして山田太一の意図がわからないことに泣いた。
なにがしたいのかさっぱりわからなかったのである。
これは大人として感想を書くのはやめてスルーしようかと思った。
しかし、自分でもよくわからないが三度目まで観てしまう。
今度はひたすら脳内で活字化しようとスピードアップ(倍速)して観る。

三度目にしてようやく理解する。
ああ、山田太一はこのドラマで「わからない」ということを書きたかったのだ。
どういうことか。本当は人生、なにが起こるかなんて「わからない」わけでしょう。
他人のことなんてたとえ何十年一緒にいる夫婦でさえも「わからない」のが本当だ。
一方でテレビ局の偉い人たちはドラマをとにかくわかりやすくしたがる。
いまは知らないが、むかしは「高卒の主婦にもわかるように書け」と言われていたとか。
ちょっとでもわからない部分があると、成績のよいエリートは間違い探しがうまいから、
何度も何度もだれもがわかるようなシナリオにするためライターに書き直させる。
では、どういうものがわかりやすいかと言うと、
善悪と因果(原因と結果)がはっきりしているものだ。
たとえば善の十津川警部が努力して証拠を見つけ、それゆえに悪の犯人を捕まえる。
テレビは大衆娯楽だから、こういう話がわかりやすいと歓迎される一面がある。
しかし、そうではないドラマがあってもいいのではないか、とたぶん山田太一は考えた。

現代の社会風潮もそうではありませんか。
出版不況とは言われながら、なぜかくだらない自己啓発本だけは売れているらしい。
自己啓発本というのは要するにマニュアルで、こうすればこうなるという屁理屈である。
けれど、人生そんなもんじゃないでしょう。こうしたらこうなるなんて嘘八百。
常識的に考えたら人生でそんなことあるわけがないのに、なぜか自己啓発本は売れる。
対人関係だってそうで、こうしたらこうなるなんて、そんなバカなことはない。
だって、人それぞれなんだから、うまくいく共通の方法なんて絶対にないのね。
とことん他人ってやつはなにがなんだか「わからない」のが本当である。
他人どころか自分のことでさえ自分で「わからない」のが本当かもしれない。
自分の行為は一貫していると思うのは錯覚や思い込みで、
本当はわけもわからず、たとえるなら無意識に動かされているようなものだ。
無意識なんかもあるのかないのか「わからない」最たるものだけれど。

我われは実際のところ思ってもいないことを言ってしまったりする。
相手に言わされるのかもしれないし、やはり無意識かもしれないし、
そもそもなにかの行為に原因があるというのが正しいのかどうかも「わからない」ではないか。
自分でもわけがわからず泣いてしまったり笑ってしまったりするのが人間ではないか。
こう考えてきていま気づいたのだが、
「よその歌 わたしの唄」のクライマックスは視聴中3回とも、
みんな一緒でこれはないだろうとあたまではバカにしながら、
恥ずかしいけれど白状すると3回とも涙があふれてきたのである。
自分でも自分のことが本当に「わからない」ので困っている。
いな、自分のことさえ「わからない」のが本当かもしれない。
すべてのことを言葉で説明なんてできないのかもしれない。
それどころか「わからない」ことは救いかもしれない。
自分はこういう人間だなんて決めつけないほうがいいのかもしれない。
相手のこともこうだなんて思い込まないほうがいいのかもしれない。
もっと無意識にまかせて瞬間的な感情そのままに行動してもいいのかもしれない。
理念なんて信用して、理念なんかに縛られて、
それで自分はご立派な人間だなんて思っているのは、
もしかしたらなにもわかっていないのかもしれない。

泣きたかったら泣けばいいじゃないか。
怒りたかったら怒ってもいいときがあるだろう。
殴ったっていい。暴力絶対反対なんて人間をなにもわかっちゃいない。
殴ることで関係が深まることがないとは言えない。
整合性をつけようなんて考えなくてもいいのではないだろうか。
たとえば、国語の小説問題で、このとき主人公はなにを考えていましたか?
そういう問いに「本人もわからないのでは?」と答えてもいいのかもしれない。
いや、そちらのほうが正しいかどうかは「わからない」が、
少なくとも本当に近いのかもしれない。
わたしなんかは映像が苦手の活字人間だから、すぐに言葉の意味を求めてしまう。
こうしてこのドラマの意図を理解できたのも、
ドラマをあたまでシナリオ化したからである。
活字化すると「わからない」というセリフが頻出するのである。
きっとお年寄りはこのドラマを見てわけもわからず泣くのではないか。
言葉にはうまくできないけれども、なんかいいなという感覚を持つ。
そうそう、人生ってこんなもんだよねという感慨を抱く。
言ってみれば、無意識でわかってしまうのだろう。
言語化できない領域を揺さぶろうとする意図が作者にあったのではないか。

しかし、このシナリオを演じる役者さんは大変だったのではないか。
通常ドラマというものは現実をわかりやすく切り取って受け手に提示するものだ。
実際は本当のところはなにもかも「わからない」人生を生きているため、
どうしようもない根源的な不安を持つ大半の無宗教の人間は、
わかりやすいドラマを見て安心するという面があるのだろう。
俳優もこの人はどうしてこういうことを言うのか考えて演技するだろう。
ところが、その「どうして?」がこのドラマではさっぱりつかめないのである。
実際の人間はそうでしょうと作者に言われても、
それではそう演じましょうとこれまでの流儀をかんたんに崩せるものでもあるまい。
ドラマのなかのどの人物も、
なぜそんな行動をするのか理詰めで考えても理解できないのだから。

「わからない」のは恐怖であり救済である。
たまになんでこんな偉い人がと驚く人が盗撮で逮捕され実名報道されたりする。
この記事をここまでお読みになる山田太一ファンには理解していただけると
誤解を恐れずに書くが、盗撮程度で社会的に抹殺されるのはかわいそうではないか。
きっと本人だって自分がどうして盗撮なんかしたのか「わからない」のだから。
しかし、「わからない」は救済でもあるのだろう。
ずっと嫌いだと思っていた人と「わからない」ままに和解することもあるだろう。
あたまで考えていてはどうにもならないことも、
どうせ「わからない」のだからと開き直るとひょんな解決がもたらされるかもしれない。
「よその歌 わたしの唄」でもカラオケ嫌いの元大学教授と元バイオリニストが、
なんだかわけが「わからない」ままにまるで雪が春になってとけるように、
ラストであまり好きではなかったカラオケ歌謡曲を合唱している。
因果関係を考えると、え? え? どうして? としか言いようがないのだけれど、
(そんなに多いとは思えないが)ある層の視聴者は結末を自然に受容できたかもしれない。
我われは「わからない」ものを「わからない」まま接することができなくなっている。
「わからない」ものを徹底的にわかるように追求してきたのが現代人だ。
しかし、本当はなにも「わからない」のかもしれない。

どうなのだろうか。これも「わからない」のだが、
自称山田太一研究家のわたしが3回も視聴しないと「わからない」ドラマはいいのか。
一発でわかった視聴者もいるのだろうか。
とはいえ、「わからない」をわかるとはどういうことなのかいまいち「わからない」。
「わからない」セリフをドラマから拾ってみよう。
物語は暇を持て余す元大学教授の春川高史(渡瀬恒彦)が、
「ひとりカラオケ」に熱中するひとりが好きそうな孤独な人に声をかけていく。
「貴方の歌はいい」とほめるのである。
ひとり好きで合唱団を結成してコンクールに打って出るというのである。
設定からしてわけが「わからない」が、
観ていると本人も自分がなにをしたいのかわかっていないらしい。
ドラマ冒頭、脚本家は礼儀正しく折り目正しく、
視聴者に向かってこのドラマのテーマを主人公に言わせる。
「春川先生、本当はいったいなにを考えているんですか?」という会話の流れで。

高史「まあ、人生ってそんなもんだ。思い通りいかなくて幸せってこともある。
(……) 私にもわからないんだ。
 何年か経って初めて自分のやったことの意味に気がつくってこともある」


老妻の茜(いしだあゆみ)との会話。
茜は元一流バイオリニストでいまは自宅で子ども向けのバイオリン教室を開く。
クラッシック以外の曲は認めず歌謡曲など論外である。
皿を洗いながら歌をうたっている高史を茜はとがめる。

茜「よく歌なんてうたえる」
高史「無意識だよ」


歌唱コンクール参加メンバーのひとりが元一流商社マンの井形俊也(柄本明)である。
その妻が練習場にやってきて、太陽のような明るさで全員の気持をひとつにする。
この女性のおかげで場がなごみ、一同は初めて心を通わせあい合唱する。
ところが、すぐにこの女性がくも膜下出血で死んでしまうのだ。
ふつうのドラマなら絶対に事前に死亡フラグ(死への伏線)を立てるはずだが、
まったく予期せぬかたちでいきなり死んでしまうのである。
まあ、人生なんかそんなものなのだけれど、新人がやったらPに怒鳴られるかもしれない。
「だって現実はそうじゃないですか?」
「バカヤロウ。おまえの現実なんかより視聴者(本当は広告主)のほうがはるかに大切だ」
そういえば、山田太一さんの大好きなバカヤロウが一度もなかった。
カットされたところにあったのかもしれないけれど。

さて、いきなりメンバーが全員降りてしまうのだが、これも理由が「わからない」。
そのことにひどく高史は落ち込むのだが、その理由もわたしは「わからない」。
妻を亡くした俊也が常識はずれにも三泊も泊めてくれと高史に頼むのも「わからない」。
高史は「親友でもないだろう」と追い出そうとする。茜はなぜか俊也に同情的である。

茜「奥さんが亡くなったばっかりなのよ」
高史「そんなことはわかっている」
茜「寂しい悲しいがわからないの?」
高史「わかるさ」
茜「わからない。(貴方は)そういう人なのよ」


茜の提言で高史はひとりで寂しいという俊也の家に行ってやる。
ふたりとも酒が入っている。本当に酔っているのかどうかは「わからない」が、
高史は「あなたどころじゃない」と冷たい。
さらに「奥さんを亡くしたのは貴方であって私ではない」と本音を言い放つ。

高史「貴方は貴方のショック。私は私のショック。生きるしかない」
俊也「そんなことを言ったら付き合いもなにもありゃしないよ」
高史「そう。元々、人間なんてそんなもんです」
俊也「わかったようなことを」
(……)
高史「大体ね。寂しいだの悲しいだの言い過ぎだよ。
 ひとりカラオケなんて奥さんから逃げてたんじゃないか。
 せいせいした気持もむしろないわけじゃ」
俊也「死なれなきゃ――死なれなきゃ、わかるもんか(と高史に殴りかかる)」


たしかにそうで人は経験しないと「わからない」ことがある。
正直、未婚のわたしは高史と茜の会話が結局最後までどうにも理解できなかった。
他人の気持がわかるなんてことがあるのだろうか。
さて、殴り合いの喧嘩をした高史と俊也である。
その後すぐに仲直りしたのかふたりは昼から合唱練習場で缶ビールをのむ。
俊也は「奥さんとうまくいっていないでしょ」と高史に指摘する。

俊也「二日泊めてもらえばわかるよ」
高史「二日でなーにがわかる?」


山田太一さんはフルチンでテーマを隠さないところがある。
そりゃあ、テレビの視聴者なんか大半が○○だから仕方がないのだろうけれど。
「わかる」「わからない」ばかり繰り返しているのである。

俊也「女房が(生きて)いるのがどんなにいいかあんたにはわかってないんだ」

ごめんなさい。女房がいるとどんなにいいのか未婚のこちらも「わからない」。

高史「大勢の人がひとりがいいってどういうこと。
 それで社会が成り立つわけがない」


ふむふむ、「わからない」地点から山田太一さんはドラマを書くわけだ。
高史は「ひとりカラオケ合唱団」のメンバーだった奥村功之介(阿南健治)逢いに行く。
俊也の亡妻の追悼パーティーに参加してくれないかと頼むためである。
功之介は工事現場で働いている。ふたりは安酒場でコップ酒をのむ(また酒かよ!)。
いかにも低学歴と思しき功之介とインテリの高史はわかりあえるのか。

功之介「俺がやめたのは別に先生のせいじゃない。
 結局、人の歌を聞くのが嫌いなんだな。
 ひとりでいいんだよ。クレーンもひとり。カラオケもひとり。うちに帰ってもひとり」


「人の歌を聞くのが嫌い」ってガチだよな。わかるわかる。
わたしはカラオケも、自分がうたうのも、人の歌を聞くのも嫌いだから。
自己陶酔でうたっている人ってプロでも醜いと思うことがある。
このまえの寺山修司のイベントでは、某歌手の自分に酔った歌声に耳をふさぎたくなった。
しかし「おまえに関心がない」はめったなことでは言っちゃいけないことになっている。
「よその歌 わたしの唄」では高史が無礼な若者に言っていたけれど。
さて、功之介は女房に逃げられたという。
女房は若い男とくっついて子どもふたりを連れて沖縄に行ってしまったという。
ずっとチョンガー(独身)なのとバツイチの
いったいどちらが「寂しい悲しい」なのか「わからない」。

功之介「ひとりはいいね、フフ。うるせえガキはいないし、何時に帰ろうと文句はないし、
 ひとりで酒のんで、ひとりでメシ食って、ひとりでテレビ観て、
 ひとりでカラオケ行って、ひとりで齢とって、
 こうなりゃ、ひとりが好きになんなきゃ、やってらんねえだろ、フフ」
高史「――うん」
功之介「人の歌なんか聞いてらんねえよ」
高史「私、あんたの歌、ほめたよね」
功之介「ああ」
高史「忘れてないよね」
功之介「うん」
高史「あんたを本気でほめたよね」
功之介「教授」
高史「うん?」
功之介「それでなんか言ったつもりかよ」
高史「(苦笑)」
功之介「元教授」
高史「うん?」
功之介「わかんねえよ。なにが言いたいんだよ」
高史「わかれよ」
功之介「わかんねえよ」
高史「――」
功之介「はっきり言えよ。はっきり」
高史「――」
功之介「(厨房に)酒ふたつ」
   二人、どうしようもなく笑ってしまう。


山田太一ドラマは、ふたりシーンの味がいいのである。
三人でも四人でも五人でもなく、ふたりが一緒にいるシーンがいい。
個人的にはみんな一緒のシーンよりもよほどいいと思う。

さて、定年で暇の元一流商社エリートの俊也は茜とふたりで逢う。

茜「おかしくともいまさら別の人間になれない。なりたくないの。
 変な話だけど、死んだ父を裏切るような気もして」
俊也「わかります」
茜「――本当にわかる?」


暇な俊也は暗い雰囲気を持つ岡崎恒人(山崎樹範)に逢いに行く。
彼も「ひとりカラオケ合唱団」のメンバー。影が薄い青年である。
初見では、このシーンで存在に気づいたようなところがある。
俊也は明後日の発表パーティーに来てくれないかと頼む。
ところが恒人(つねと)は明後日のことなのに「たぶん」としか答えない。
俊也がいぶかると、いきなりわけを話すのである。
まったく伏線を張っていないのはこれまた意図的だろう。
ふたりは屋外で紙コップのコーヒーをのんでいる。ミルクも砂糖もふたつずつだ。

恒人「俺、こう見えても長くないんですよ」
俊也「――」
恒人「もうあちこち手の施しようがなくて。気休めにきつい点滴、繰り返して。
 こんな帽子かぶって。でももう点滴もやめたんです」
俊也「――」
恒人「これ以上、言いたくない」
俊也「――(凍りついている)」
恒人「いつドーンと来るかわからないんでたぶんと」
俊也「わかった。失礼した」
恒人「脅かすようなこと言いたくなかった」
俊也「そんなの言わなきゃわかんないよ」
恒人「友達と逢うと自分だけもう半分あの世にいるような気がして、
 情けなくて、ひとりでカラオケに」
俊也「そうか。そうか」
恒人「――」
俊也「――」
恒人「(ミルクの空き容器を手に取り)こういうの見ると懐かしくて、
 なんかこれ(マドラー)も、これ(コーヒーのふた)も、みんな、
 めったにない夕焼けみたいに名残(なごり)惜しくて、参りますよ」
俊也「重いもん抱えて穏やかで大したもんだ。
 そんなにさりげなくされちゃ、どこのだれがどんなんだか、わかんなくなるな」


たしかに言わなきゃ「わからない」。
最近、齢をとってようやくわかったのは幸福な人は本当に少ないということ。
高校生のカップルくらいじゃないかな。それだけに微笑ましいのだが(本当ですって)。
みんないろいろ抱えてるんだろうなと思う。
言わなきゃ「わからない」けれど、
言ったからといって通じるのどうかも「わからない」。
以下は元大学教授の高史と元バイオリニストの茜の一流エリート老夫婦の口喧嘩である。

高史「クラッシックのままでいいんだよ」
茜「勝手なこと言わないでよ」
高史「勝手?」
茜「勝手じゃないの。ひとりでそんなこと考えたって、こっちはわかんないでしょう。
 言わなきゃわかんないでしょう」
高史「いま言おうとしてた」
茜「嘘、嘘! 格好つけて、ブランデーのんで、ひとりでいい気になって」
高史「俺がいつ格好つけた?」
茜「エゴイスト! 貴方はエゴイスト!」
高史「そっちの人生、尊重するのがエゴイストか?」
茜「私の人生、尊重するなら私を置いていくなよ。
 ひとりで決めるなよ。こっちはわけわかんないじゃないの」
高史「――」
茜「――」


エゴイストっていまでは死語のようになっている気がする。
結局ラストはカラオケと歌謡曲が嫌いだった茜が自分をまげて、
みんなと一緒に(クラッシックとは異なり)低俗な歌謡曲を合唱するために、
ピアノ演奏を務めることになるのである。

このドラマをライブで観終わったときにまず思い出したのはネットで知った、
「一人でいると孤独感、二人でいると劣等感、三人でいると疎外感」という名言だ。
たぶんひとりでいる孤独感よりも、
みんなと一緒にいるときの孤独感のほうが強いような気もするが、
それはドラマでは書けないことで、たとえば小説に表現することなのだろう。
孤独感はかなりのケースで自殺願望とセットになると思うのだが、
戦中に芋を食って育った山田太一さんは自殺したい人の気持が「わからない」という。
もちろん、すぐに「わかります」を連発する人よりよほど誠実な「わからない」だ。
こうして文章を書きながらいろいろと考えてみたが、
結局のところ「よその歌 わたしの唄」はよく「わからない」というのが本音だ。
いちおうこちらもそれなりに誠実な「わからない」のつもりである。
いったいどうして「わからない」テレビドラマを3回も視聴して、
こうして長文の感想を書いてしまったのか、
まったく自分でも自分のことが「わからない」ので参る。参っちゃう。

※タイトルで検索したら無料動画がヒットします。
太郎「ああ、自殺したい」
花子「あなた、自殺なんて言ってはいけません」
太郎「どうして?」
花子「そんなこともわからないんですか?」
太郎「もしかして」
花子「そうです」
太郎「ぼくのことを心配してくれているの?(うるっ)」
花子「違います」
太郎「じゃあ、どうして?」
花子「常識でしょう」
太郎「まあ、自殺はしないほうがいいよね」
花子「自殺、ダメ!」
太郎「え?」
花子「人の気持を考えなさい!」
太郎「どういうこと?」
花子「自死遺族の方が自殺という言葉を聞いたらどう思うか考えなさい」
太郎「――」
花子「自死って言うのがマナーよ」
太郎「どうして?」
花子「だから、あなたは人の気持がわからないって言っているの」
太郎「どうして?」
花子「自死遺族が自殺という言葉を聞いたらどう思うかわかる?」
太郎「(少し考えて)うん」
花子「わかってない。わかっていたら自殺なんて言葉は使えない」
太郎「なんで?」
花子「いいかげん人の気持を考えろ!(怒鳴る)」
太郎「あっ、自死遺族なんですか?」
花子「違うけれど、私は人の痛みがわかるの!」
太郎「言ってなかったけれど」
花子「あなたの意見なんか聞いてない。この無神経!」
太郎「ぼく、自死遺族なんだ。家族を自殺で亡くしている」
花子「え?」
太郎「――自死遺族なんだ」
あさって19日金曜日午後9時からフジテレビで、
山田太一ドラマスペシャル「よその歌 わたしの唄」が放送される模様。
みなさんがご存じでしょうことをいちおう告知しておいたのは、
わたしのように一切新聞や雑誌(漫画雑誌は別)を読まない(買わない)層を考えて。
また「本の山」にいやらしいほどにめんどくさいドラマ感想文を書くのかしら。
あんなもん書いたって一文の得にもならないのではあるけれど。

「本の山」の読書感想文はいま一遍(上人)でストップしている。
踊り念仏を始めた一遍の、法然・親鸞以上の深さをどうにも言葉にできないがために格闘中だ。
いやね、だれもわたしの一遍論などにご興味をお持ちにならないのは知っている。
ひとりくらいおられるんじゃないかという妄想で生きている。

そうだ、山田太一ドラマの録画だ。
いまだパソコンでテレビを録画したことがない。
万が一にも失敗があってはならないので明日はパソコンでのテレビ録画を覚えなければ。

山田太一といえば先ほど氏の連載エッセイがある「考える人」を立ち読みしてきた。
河合隼雄賞とやらの発表が掲載されており、わたしと同年代の美男美女が表彰されていた。
どちらもわたしなどとは比較にならぬほど立派なご経歴や顔面偏差値をお持ちだった。
負けたと思う。激しく嫉妬する。立ち読みなどしなければよかったとひどく後悔する。

河合隼雄賞にちなんで現在日本最高峰に位置する作家、村上春樹の寄稿があった。
だいぶ自我肥大がすすんできたようだとニヤニヤする。
芥川賞とは無縁のノーベル賞候補作家、
村上春樹によると初見の河合隼雄は無口で暗い男だったとのこと。
二回目からはくだらないのひと言に尽きる親父ギャグを連発するどうしようもないおっさん。

むろん、これは河合隼雄がもう死んでいるから言えることだろう。
故・河合隼雄の利権メンバーから原稿を依頼された優越感が書かせたものと推測する。
この世の法則として、権力がよりうえのものほど好きなことを書けるのである。
村上春樹が死んでからどのような裏話が出てくるか興味深い。
しかし、わたしは春樹より長生きできる健康上の自信はないので、それはそこそこ残念だ。
しかし、まあ他人のことなど、どうでもいい。
昨日のNHKスペシャルをご覧になって衝撃を受けた方も多いのではないか。
ひと言で要約すると、かなりのところが遺伝子で決まっているということだ。
たとえば、アルコール依存症。
なかにはアル中になってしまったのは自分が弱かったから、
と反省していらっしゃる方もいるのではありませんか。
これは同時に、努力すればアルコールを断つことができるという思想でもある。
しかし、アメリカ発の現代最新医学はこれにNOという。
元からアルコール依存になりやすい遺伝子が存在するというのである。
つまり、遺伝子はどうしようもない。
アルツハイマーにかかりやすい遺伝子も、癌になりやすい遺伝子もすでに発見されている。
いわゆる生活習慣病になるのは、当人の行為(怠慢)が原因ではないと最新医学は主張する。
すべては遺伝子で決まっていることなのらしい。
それは出生前から遺伝子で判断することが可能だ。
すべてではないかもしれないが、8割方努力とは関係ないところで決まっている。
めったにいない天才も、努力の結果ではなく、要するに遺伝子である。
育児や子育てをどううまくやろうが遺伝子のまえではまったくの無力である。

この当面科学(50年後にはどうなるかわからない)が「正しい」と告げることは、
絶望も希望も生み出すと思う。
絶望は、いくら努力をしても意味がない、だ。
希望は、努力しなくても遺伝子のおかげででいい思いができるかもしれないということ。
そのうえ、かなりのところ遺伝子で決まっているならば、他人をうらやまずに済む。
「人は人(の遺伝子)、自分は自分(の遺伝子)」と思えたら、こんな楽なことはない。
当面科学的には遺伝子はほとんど絶対だが、しかし仏教では遺伝子など因に過ぎない。
原因の因だ。因果応報の因だ。ところが、人生は因で決まるわけではない。
いくら因があったとしても縁がなければその因は実を結ばない。
因だけではなにも生じず、因と縁が和合してはじめて果になるのである。
どういうことかというと、いくら因(遺伝子)が悪くても縁しだいでどうにでもなる。
どれほど因がよくても縁が悪ければ交通事故や犯罪被害、業病に遭遇してしまう。
結局、たとえ因(遺伝子)がすべて解明されようと(まあ絶対にそんなことはないでしょうが)、
人生も人間もさらさらわかったことにはならないのである。
遺伝子よりもはるかに「正しい」のは「一寸先は闇」という言葉だ。
「わからない」というのが、おそらくほとんど絶対的に「正しい」ことなのだろう。
それすらもたぶん絶対に「わからない」のだから、
やはり「わからない」は相当に「正しい」人生態度だと思う。
人生も人間も突きつめると「わからない」のだろう。

現代科学が教えられるのは因だけである。縁は科学にはどうしようもなく解明不能である。
ところが、かびくさい仏教には因と縁、つまり因縁を抱合する考え方がある。
遺伝子(因)を超えるもの――それを仏教では宿命というのだろう。

宿命(因縁)>遺伝子(因のみ)
F銀行のグレート・ムラ(過去ログ参照)がプロレスは八百長だとコメント欄で語っていた。
おまえバカか、大学時代に教えてやっただろう、とも。
たしかにプロレスは八百長で最初から勝敗が決まっている。
しかし、完全な八百長というわけでもないと思う。
なかには試合(芝居)中にガチ(リアルファイト)を仕掛けるトンパチがいるからである。
どういうことか説明しよう。
ケツ(結末の勝敗)さえ守っていたら、試合中にガチをちらつかせることができるのだ。
大人だから契約にしたがい勝利は向こうに譲ってやるが、
本当に喧嘩したら自分のほうが強いのだとさりげなく観客に見せてもいいのである。
これはよほど実力に自信がないとできない。
ガチを仕掛けるということは、相手から同様にやり返されても文句を言えないからである。
たいがいの試合は最初から勝負の流れを決めている。
だが、いいプロレスラーほどその場の空気を読んでアドリブで試合を作ることができる。
たとえば、福井県出身、元力士の天龍源一郎はプロレスが抜群にうまい。
会場の空気がだれていると、相手の顔をチョンと蹴ってしまうのである。
いくらプロレスでも顔は攻撃してはいけないとされている。
いや、してもいいのだが、やったら相手から逆に顔を攻撃されても文句は言えない。
相手の技をどれだけ受けられるかという自信が攻めになる。
このため、サラリーマンレスラーは怪我を恐れハードな攻めはしない。
たとえば殴ったふりをして、代わりに相手の技をきれいに受けて大げさに痛がる。
お互いの顔を立て見せ場(セール)を作ってやり最後は負け役が寝る(敗れる)。
いまのサラリーマンレスラーの試合の作り方である。

むかしのプロレスラーはそうではなかった。
だから、見比べたらむかしのほうが動きは単純に見えるかもしれない。
とはいえ、むかしのプロレスは生々しい感情が見(ら)れる。
むかしはいまほどサラリーマン化していなかったのである。
自分を殺して会社の方針に合わせるものばかりではなかった。
むろん相手に怪我をさせてはならないし、会社から干される危険性もある。
けれども、プロレスラーは舐められたら終わりだという自意識があった。
たまにガチめいたものを仕掛けるヤクザもんがいたゆえんだ。
天龍と猪木がやったときもおもしろいのである。
試合中、負け役の猪木は天龍の指をぐちゃっと曲げたそうだ。
言うまでもなく相撲のかわいがりを経験している天龍がこの程度ではひるまなかったけれど。
恥ずかしいことを告白するが、大学卒業後も天龍の試合だけはたまに観戦に行っていた。
本当に天龍源一郎はすごいと思う。やっちゃいけないことをやるからである。
危険ギリギリのことをやっても相手に怪我だけはさせなかったのは、
思い切りがよかったからではないかと思う。躊躇(ちゅうちょ)するから怪我をさせてしまう。
天龍はその場の一瞬に賭けるのがとてもうまいレスラーなのだと思う。
とはいえ、虚弱体質の善人レスラー蝶野(ヤクザキックが得意技)はダメだった。
いつだったか、あれは新日の両国トーナメントではなかったか。
天龍の顔蹴りに蝶野が失神KOされてしまったことがあって大笑いした。
たぶん蝶野が勝つブック(シナリオ)だったと思うのだが、
こういうアクシデントは仕方がないと見なされるのだろう。
ファンである天龍の試合をもうひとつ余分に見(ら)れると嬉しかったものだ。

プロレスのみならず人生もたぶん八百長である。最初から勝敗が決まっている。
生まれつきの国籍、性別、家柄、貧富、頭脳、容姿、性格、能力
――俗に宿命、科学的には遺伝と呼ばれるものはどうしようもない。
名門鳩山家のご子息に勝てる人間なんてそういないでしょう。
二世議員や二世タレントのどれだけ多いことか。
人生でも勝ちが決まっているものと負け役を振られているものにわかれている。
負け役が身の程を知らぬふるまいをすると周囲からボコボコにされることだろう。
グレート・ムラが勤務しているF銀行は同族経営だそうである。
同族経営とは、実力と出世はあまり関係ないということだ。
どれだけ有力な血縁幹部に気に入られるかで出世も左遷も決定する。
たとえ実力が自分のほうが上でもグレート・ムラ銀行員は、ときに汚れ役を演じる必要がある。
相手の顔を立てるためである。将来のために恩を売るとはそういうことだ。
プロレスだけではなく完全な実力社会など、おそらくどこにもないのだろう。
正確にはわかりませんが(うっすらわかっていることも怖くて書けませんが)、
きっと芸術や学問の世界もそれほどいわゆるガチンコ(実力勝負)ではないはずである。
だれかが大勝利するためには大勢が負け役を演じなければならないのだ。
プロレスの世界で言えば、なかなか負けを呑まなかったノアのKが
S学会ではないかと噂されたのはこのためだろう(Kの人気の理由は本当にわからなかった)。

さて、みんなプロレスだろう。人生も社会も学問も芸術もかなりが八百長だ。
たとえば、F銀行のエリート会社員グレート・ムラとこちらでは勝敗が決まっている。
まさか自分が人生の勝負でグレート・ムラに勝つことはできないのだろう。
しかし、ガチを仕掛けることならばできる。
ガチを仕掛けると周囲から危険人物と思われひどく評判が下がるのである。
ムラ社会のルールを知らないのかと白眼視される。
だがそれでも、人はガチを仕掛けることがまったくできないわけではない。
めったにガチなど仕掛けないほうがいいのだろうが、
しかし、それでは負け役は上役(うわやく)に舐められてばかりではないか。
ここぞというときはガチを仕掛けてやると思っていたほうがいいような気がする。
ガチはやってはいけないことだが、それは絶対に絶対というわけではないのではないか。
むろん、勝敗までは動かせない。
人生の負け役はうまく与えられた役柄を演じるのが生き甲斐になるだろう。
勝たなくてもいいのである。というかむしろ大部分の人は勝とうと思っても勝てない。
思えば、天龍源一郎はレスラーの名誉とされるベストバウトの負け役をよくになった。
名勝負にはうまい負け役の存在が必要不可欠なのである。
勝者だけでは人を感動させるプロレスの試合(芝居)はできない。
繰り返すが、あらゆる世界で負け役にも生き甲斐があると思いたい。
そして、ごくたまにならガチを仕掛けてもいいのではないか、とも思いたい。

(追記)プロレスファンだったという過去はなるべく隠しておきたかった。
実名ブログでこんなことを書いてもいいのか迷うが、わたしは非常に気が短い。
せっかちだ。待つのが嫌いだ。
はっきり言うと、行列してまでなにかのメシを食いたい人の気持がからきしわからない。
ぜったいに炎上しないブログだから本音を言うと行列する人をバカじゃないかと思う。
話をかえれば、老後(っていつなの?)まで自分のやりたいことを保留する常識人の敵だ。
しかし一方で、待つ時間もまたいいと思う。いろいろ考えるからだ。真剣に考えるからだ。
自己(自分)について、他者(他人)について、世界(世間)について、
待っているあいだに人はさまざまに考える。
携帯がデートの待ち時間(不安)を奪ったのは、ほとんど精神的心理的な犯罪ではないか。
待たない特急列車を選ぶ人はそのぶん考える時間を失っているとも言えるだろう。
しかしながら、考えるのがいいと主張したいわけではない。
おそらく、考えないほうが人生はいい。
ネットがすすめる最少時間、最短距離、最安価格の
路線を選ぶほうが効率的で合理的で世間受けははるかによろしい。
わたしも待つのは嫌いだ。
にもかかわらず、待つのもまたいいのではないかと思ったりもする。
錯覚かもしれないけれど、長生きするとわかってくるのは、
実のところ幸福な人などこの世に存在しないのではないかということだ。
いくらテレビ、新聞、雑誌、フェイスブック(見たことがないけれど)
で幸福ぶっている人がいようが、
そういう人こそまさに不幸で、だから反面幸福ぶっているところがある。
他人に幸福だと見られたい願望は、自身の不幸から発生しているのではないかと思う。
本当に幸福なら、自分が幸福であることを見せびらかさなくてもいいのである。
むしろ露悪的な私小説作家のようにおのれの不遇、ダメ加減を強調するかもしれない。
たとえネットの「いいね!」なんてひとつももらわなくても人間は幸福になれるはずだ。
だって、結局100の「いいね!」よりも、自己満足のほうが重いわけだから。
100人の見せかけの友だちよりも、ひとりの友人のほうがありがたいのとおなじだ。
世間体や親戚受け、同窓会出席にはいいのだろうが、
朝から終電まで働きがっぽり税金を取られいつ死ぬかわからぬ銀行員のどこが幸福か。
そうだとしたら、たとえば銀行員の出世(さらなる多忙)を
妨害するような行為はもしかしたら善かもしれない。悪ではないのかもしれない。
とはいえ、やっぱり悪だとわかる程度の常識は持ち合わせているけれど。
自死遺族で犯罪加害者家族のタレントさんゴマキの評判はいまよくないらしいが、
ゲーム中毒(廃人)になっているいまが人生でいちばん幸福とは考えられないか。
2年前の被災者遺族の一部がパチンコ依存症になっているという話を某ブログで知ったが、
なにかの中毒にならなければ乗り越えられぬほどの不幸が人生にはあるのだろう。
幸福ぶることでさえあきらめてしまう不幸というものが、きっとあるのだ。
あるいは、そのとき人は本当に幸福になれるのかもしれない。
依存症、中毒はたぶん幸福だ。我を忘れられるからである。
不幸な我をだ。無我だ忘我だ。