ネット情報はデタラメが多いと思う。
自分もうっかりデタラメを書いているかもしれないから、あまり批判できないけれど。
まあ、ネットをソースとして書くのはあまりおすすめできませんぞ。
出版社から新刊を献本されるほどの人気(しかし匿名)読書ブログで、
河合隼雄が精神科医だと書いてあって泡を食った。
おなじ作者ネタだとうちよりも検索順位で上に出る某ブログで、
これまた河合隼雄が仏教徒だというデマが書き込まれていた。
先ほど訪れた泡沫ブログでは、
ネタではなく本気でわれらが「もてない男」(←これも現在は誤記です)
小谷野敦大先生が大阪大学教授だという記述があった。
べつに誤記を訂正しようとは思わない。
第一にはめんどくさいからだ。
そのうえ、人は誤りを指摘されることをひどく嫌う。
自称山田太一研究家の吾輩はネット上にある誤記をかなり指摘できるがやらない。
大衆娯楽のテレビドラマはおのおのの記憶がそれぞれに真実だと思うからだ。
本当は人生全般がそうなのではないかとも思う。
ある人が河合隼雄を精神科医や仏教徒だと思っていても、それはそれでいいのではないか。
正しいことを知ったからといってどうなるというのだろう。
そういえば、恐ろしいので最近はまったくやっていないがわたしの名前で検索したら、
放火魔だの殺人犯だのめちゃくちゃな書き込みがヒットするはずだ(いまはわかりませんが)。
警察に電話したら消せないというからそういうものなのだろう。
相手の罪も問えないらしい。そういうものなのだろう。そんなもんだよ。
これがいまという時代である。
いま本を読まない大部分の人はネットで得た情報を正しいと信じる。
それのどこが悪いかをわたしは指摘することができない。
学歴差別というのが本当によくわかりません。
というのも、ぼくがいわゆるバカだったからでしょう。
複雑な家庭環境のためもあって小学生のときはほとんどビリの成績でした。
もちろん、私立ではなく公立の小学校です。
体罰が大好きな古家眞という先生にさんざんいびられました。しこたま殴られました。
公立中学に入りましたが、バカはバカです。成績も下から数えたほうが早い。
それがどうしたことでしょうか。
中学2年、14歳のときに、なぜかいきなり目覚めたのです。
勉強なんてしょせん覚えるかどうかだろう。
そう気づいた瞬間、どうしてか自分でもわかりませんが成績が上がりました。
公立中学校ならではの話かもしれません。
1年生のころには最低だった成績が、なぜか3年時には内申書でトップになりました。
いまでもなにがなんだかわかりません。
ぼくの自己イメージは底辺ウスノロのガキなんですね。
いまはどこかで校長先生をなさっているお偉い古家眞先生からボコボコに殴られるような。
ところがいきなり中学2年生で覚醒する。
意味は違うのでしょうが、ぼくにとって中二病とはこういうイメージがあります。
いまでもどうして急に成績が伸びたのかさっぱりわかりません。
東大卒の人って逆に不幸じゃないかと思うんです。
なぜかといったらまだハタチにもならないうちから、
「努力は報われる」という誤った人生観を強く抱くからであります。
青年期の思い込みは一生に禍根を残すことでしょう。
一般論を述べたいわけではありません。だれも興味がないわたしの話をしましょう。
東京大学に入りたくて親に頼んで1年河合塾で浪人させてもらいました。
1年間これまでしたことのないほどの努力をしました。
しかし、ダメでした。どれだけ努力しても限界というものがあるのだと理解しました。
河合塾で福島県の男と交友を持つようになりました。
いまは名前が出てこないのですが、本当にあらゆるところで人間ができたいい男でした。
彼との交際で自分を知りました。あたまの出来というものがあるんですね。
福島の彼は河合塾の講義でノートを取らないことも多々ありました。
なんでも聞いてみると、講義を聞いた瞬間に理解してしまうのだとか。
彼はわたしのことなど友人と思っていなかったのかもしれません。
しかし、わたしにとってはたいせつな友人でした。彼からどれほどのことを学んだか。
優秀なやつというのはいるんです。自分を超える秀才はおります。
福島県の彼はさらっと河合塾人気講師の誤りも指摘してしまうのです。
そして、それはすべて正しいのですから。

もちろん、彼は東京大学に入学しました。わたしは早稲田の一文に拾ってもらいました。
いうまでもなく福島の秀才も早稲田に通っていました。
この東大受験体験から学んだのは、人間の能力には限界があるということです。
いくらがんばっても「できる」やつにはかなわないことが人生にはございます。
しかし、そんな人生にも救いがないわけではないということも学びました。
早稲田の一文は過去問をまったくやっていなかったのです。
受験科目は英語、国語、小論文のみ。
わたしは東大に入りたかったので、数学や理科まで勉強していました。
とくに受験直前期は数学ばかり勉強していました。
にもかかわらず、東大に落ちてなぜか早稲田の一文から拾ってもらえる。
ああ、人生って理不尽なんだな。努力は報われないけれど、いいこともあるんだ。
19歳のわたしはそう強く思いました。
これはけっこうな原体験ですね。努力は報われない。人間に能力差はある。
しかし、がんばっていなくてもたまたまラッキーに恵まれることもなくはない。
わたしなどが早稲田の一文に入れるのは幸運だったのだと入学してからつくづく思いました。
まあ周囲は現役の女ばっかりだったのですが、とにかくみなさん優秀でしたから。
中国語演習のときなど自分はバカなんだなと思い知らされました。
とはいえ、自分同様にあたまの回転ののろい好人物もいました。
マーク式の入試だからあらゆる人がたまたまの強運で入ってこれるわけですね。
わたしはそういう人ととても気が合いました。
だれもが理解できる常識を述べると、
どの分野でもひとりの成功者の陰には百人、千人の失敗者がいるのである。
敗者のなかには自殺するものもいるだろう。
過剰飲酒で間接的な自殺を遂げるものも山ほどいるはずである。精神を病むものもいよう。
これはどういうことか。
ひとりの成功者は大勢の犠牲者のおかげで恵まれているということだ。
みんなが社長になれるわけではない。どの店も商売繁盛というわけにはいかないのである。
だとしたら、成功(勝利)したいものは、だれかを不幸にしたいと言ってもよい。
自分の成功(勝利)のためなら、
自分のせいでいかなる犠牲が生まれても構わないと心底から思えるようでなければならない。
自己啓発本を読むとはそういうことだ。抜け駆けをしたいとはそういうことだ。
勝ちたいとはそういうことだ。人間はそういうものだ。かなしいことにそういうものだ。
成功を望むものは、食うか食われるかなら、食ってやろうと覚悟を決めたものである。
いちばん心安らかでいられるのは、たまたま思いがけなく成功することなのだろう。
むろん、成功などしないほうが当人の安心にとってはなによりもいいのかもしれない。
自力ではなく他力で偶然にも恵まれたらこんな幸いはないのではないか。
とはいえ、人間はどうしようもなく努力してしまう。他人を不幸にする努力をだ。
まったく罪なものであるが、いまもむかしも人はいつもそういうものなのだろう。
だれもご興味をお持ちにならない過去ログにいちおう経緯は書いていますが、
わたしは自死遺族だからこういう過激なことを考えるのかもしれない。
人間というのは結局のところ「死ぬか殺すか」ではないかと思うのである。
自分を生かすか相手を生かすか。
自分を助けるか相手を助けるか。
自分を殺すか相手を殺すか。
だれかが生きているというだけでだれかを殺している側面が現実には存在するのではないか。
多くの人が目を背けたいことだろうが最終的には「死ぬか殺すか」になるのではないか。

生きろという。自殺をやめろという。ゲートキーパーになれという。
しかし、自殺を思いとどまったものの面倒をだれが見るのか。
いい気分の善人気取りで自殺をとめるのはいいが、
かの未遂者はどうやって生きていけばいいのか。
だれかが死ぬから別のだれかが生きられるのである。
高齢成功者(ほんといま日本にはびこっていますよね……)が死ぬから、
その空いたポストを後輩が獲得できるのである。
会社員が自殺したら欠員が出て、代わりにひとりが職を得ることだろう。
だれかが出世するということは、その何百倍、何千倍の失意のものを生み出す。
だれかが正しかったら相手は間違えていて、
そうなるとその相手は突き詰めると死ななければならない。
恋敵の親友を死に追いやったことで恋愛を成就するものがいよう。
親を直接的間接的に殺すことで生きる子どももいるだろう。
子どもを社会的に抹殺することで自分が世間的な評価を受け、
いま生き生きしているものもいるはずだ。

極論を言えば、人間はだれかを殺さなくては生きていけない。
そうだとしたら、だれかに「生きろ」と言うことは「殺せ」と命じているに近い。
共生は理想だが、どうしようもなく理念に過ぎず、生々しい現実ではないのである。
だれかが生きるためにはだれかが死ななければならない。だれかが殺されなければならない。
それでも生きるしかない。だれかを殺すしかない。わたしもあなたもみんなだ。
人間の生命は美しいものではなく、かなり残酷なものだと思う。
むしろ生者よりも自殺者のほうがよほど美しい。
わかっている。それでも生きよう。自分の代わりにだれかを殺そう。
家族や親友がなにかの中毒症でお困りの方がいるかもしれない。
まったく罪悪感がなく逆に「自分は偉い(正しい)」と思っているのは仕事中毒、宗教中毒だ。
このため仕事中毒、宗教中毒ほどある意味で家族が困ることはないが、
それはもう宿命だと思ってあきらめるしかない。
ほのかに自責の念のあるのはアルコール中毒、パチンコ中毒、競馬競輪中毒、恋愛中毒だ。
仲間中毒(依存症)くらいは、まあ許してあげようではないか。
ちなみに麻薬中毒は日本では犯罪になるので注意しよう(そうではない国もある)。
中毒とは、不適切な表現をすればきちがいのことである。
仕事きちがい、宗教きちがい、きちがい水(酒)、パチンコきちがい、男狂い、女狂い。

いきなり答えを書く。きちがいは治らない。ならば、どうしたらいいか。
放っておけばいい。というか、どうしようもないので放っておくしかない。
いちばんよくないのは「私と○○(きちがい対象)のどっちが大事なの?」と聞くことだ。
なぜなら逆効果だからだ。事態を悪化させてしまう。
残念ながらきちがいさんはあなたよりもはるかに
仕事、宗教、酒、ニコチン、ゲーム、パチンコ、競馬競輪、覚醒剤のほうが大事なのだ。
中毒症とはそういうことだ。まさに毒に中(あた)っているのである。
当人にとっては、まさにその毒が薬になっているのだから仕方がない。
肝心なのは、相手のことを自分の都合で裁かないことだ。
中毒症の当人は(周囲の迷惑など知らず)最高に幸福なのである。きちがいは幸福なのだ。
だれかのきちがいを治そうと努力してもおそらく治らないだろう(ときに時間が解決する)。

であるならば、どうしたらいいのか。
本来答えはないのだが、こっそりここだけの答えを書く(お願いだから秘密にしてね)。
――あなたもなにかの中毒になればいい。トラキチでも釣りキチでもよろしい。
あなたもきちがいになったら相手のことなどどうでもよくなる。
なにかの中毒やきちがいになるとはどういうことか。
無我夢中になるということだ。我を無くすことだ。夢中になることだ。
現実の我よりもむしろ夢の中を生きることだ。
これはもうあまりにも本当なのでだれも公開できない真実をぼかして書く。
有名人、権力者、成功者の周囲にはかならずと言っていいほど犠牲者がいる。
ある人が成り上がるためには、近親のだれかを犠牲にしなければならない。
有名人、権力者、成功者のたとえば子ども(配偶者、きょうだい)が、
いろいろな意味においてどれほど傷ついているか知っているが、それは公にはできない。
なぜなら偉い人ににらまれたくないからだ。知っているけれど書けない。
しかし、これは世間の裏側を知っている人には、完全なご同意をいただけると確信している。
有名文化人のオフレコをだれよりも耳にした故・河合隼雄氏(この人は秘密厳守だ)なら、
まったくそうだ、あなたの言う通りだと感激して握手してくれるかもしれない。
どういうことか。いわゆる偉い人のほとんどが、仕事に逃げているとも言いうる。
なにか問題が起きても、「俺には仕事がある」
と逃亡できる人しか社会的成功はおさめられないようなところが現実にはある。
彼が逃げたところの問題をだれかが引き受けなければならないのだ。

たとえを言うならば、親が出世するためには子どもが犠牲にならなければならない。
ある有名作家の元妻が精神病で息子が自殺したというのは、
成功者が引き受けなければならない「犠牲」を明確に示していよう。
かりになにか重大問題があっても
「俺には仕事がある(=自分は仕事をしているから偉い、俺は間違っていない)」
という逃げ道を人は選択できるが、
だれかが逃げた問題はかならず周辺のだれかに降りかかる。
成功者の血縁には精神を病んだものや、
極端には自殺者が現われざるをえないのはこのためだ。
いくら反省や懺悔(ざんげ)をしたふりをして、
たとえば「犠牲」という本を書いてベストセラーにしても贖罪(しょくざい)にはならない。
まさしく彼のために家族の一員は死ぬほど苦しまなくてはならなかったのである。
彼が(世間的に)正しかったそのぶんだけ、血を分けたものが地獄を見るはめにおちいる。
いまでは知る人も少ない「親の因果が子に報いる」という言葉はこういう意味だ。
親がプラスを独占するとマイナスをたとえば子どもが引き受けなければならなくなる。
むろん、そのマイナスが子どもを育てることもあるから、絶対悪だと裁いているわけではない。
むしろ、長い目で見たらそのマイナスは子どもに「本当のこと」を教えるかもしれない。
まさにそのマイナスのおかげでのちのち豊かになるようなこともあるかもしれない。

なにが言いたいのか。断じて親子論でも夫婦論でも家族論でもない。
いまプラス(=俺は正しい)の思いを抱いている方は、
かなりの確率でだれかにマイナスを押しつけた結果だと思ったら、なにかがわかりませんか?
いまマイナス(=俺が悪い)の方も、そこまで自分を責める必要はないのかもしれない。
そのマイナスはどうしようもないことなのかもしれない。
そう思えたら、完全に幸福な人はどこにもいないというあきらめがつくのではないかと思う。
あなたが不幸なのはだれかが幸福だからだ。
あなたが幸福なのはだれかが不幸なせいだから、そこまで思い上がってはならない。

「だれかの幸福はだれかの不幸だ」(ストリンドベリ)

「幸福は不幸によってあがなわれる」(ドストエフスキー)
以下のようなことを言うストーカー男がいたら最強だと思う。
この「もてない男」の職業は大学非常勤講師くらいで(ただし東大卒)。
相手は教え子の三流私大の女学生ということにしておこう。すべてフィクション。

ストーカー男「おまえ(自分が好きな人)はおかしいよ。人の気持になれよ。
おまえは自分が好きな人から無視されたら不愉快じゃないか?
人の気持になれ。おまえは間違っている。どうしておれから逃げるんだ?
もっと他人に興味を持たなければならない。そんなことだと一生を棒に振るぞ。
他人に関心を持つことは正しいんだ。だから、おまえは間違っている。
おれに興味がない? それはおまえが間違っているんだ。何度言ったらわかる?
人の気持になれよ。おまえはなにさまのつもりだ。どうしておれを無視する?
少しはおれの言うことを聞いてもいいんじゃないか。
おれはこれだけおまえに関心があるんだ。もう一度だけ言う。おまえに興味がある。
そんなことはない、そんなことはない。おかしいのはおまえのほうだ。

きさまは卑怯者か、おい逃げるな!

だから、もっと人の気持を考えろよ。おまえだって好きな人からは好かれたいだろう?
ならば、おまえの態度は間違っている。おれの言うことを聞け。
おれとつきあわないおまえはおかしい。いまのおまえは間違っている。
人の気持をわからないやつは最低だ。おまえは最低じゃないか。人の気持を考えろよ。
そんなことはない、そんなことはない。おれは正直者だから正しいことしか言わない。
おまえは間違っている。人に興味を持たないのはおかしい。おれは正しい。
おれとつきあえよ。おれとつきあうのが正しいんだ。
だから、人の気持になれ。おまえは未熟だ。人の気持になれ。人の気持を考えろ」
復興庁幹部が「左翼のクソども」とツイッターで本音をつぶやいたらしい。
たかがこのくらいの発言で社会的に狩られてしまうのだから、いまの世の中は恐ろしい。
わかるよな。復興庁幹部さんの気持もわかる。
(一部の)左翼さんは社会的弱者集団や被害者集団に味方しただけで、
自分のことを「人の気持がわかる人」だと思い上がるなよ。いい子ぶるなってことだ。
本当に人の気持がわかるのならば、エリートさんの気持もわからなくてはならないだろう。
右翼の気持もブルジョア(金持)の気持も、
そして死刑囚と犯罪被害者遺族の気持を同時にわからなくてはならない。
人の気持をわかるってことは、たぶんそういうことだ。
本当に人の気持がわかったら、
軽々しくなにかの思想信条が正しいとは言えないのではないか。
逡巡(しゅんじゅん)するだけで行動に移せないのではないか。ためらうのではないか。
どうやらわたしはどこまでも人の気持がわからない人のようだ。
だから、人(読み手)の気持を考えず、
あなたにはどうでもいい自分のことなどいまこうして書いているわけだが(苦笑)。
本当に自分が人の気持のわからない人だとよくよくこの年になってわかった。
わかるだけじゃいけないとお叱りを受けるかもしれない。
もしそう思うのなら、もっと人の気持をわかるよう努力すべきであると。
しかしまあ、人間にはそれぞれ能力的な限界もまたあるような気がするのだ。
もちろん努力はすべきだが、人間はかならずしも自分が望んだようになれるわけではない。
人の気持がわからない人だとわかっただけでも偉大な一歩だと思いたい。
これからは相手の表情の変化を、
自分が気持を理解していないからだと納得して仕方なく思えるだろう。
少なくとも相手に怒りの矛先を以前よりは向けないはずだ。
わずかだろうが相手のことをあまり悪く思わないで済ませることができるのではないか。
なぜなら自分こそ人の気持がわからない人なのだから。

人の気持がわかる人はたいへんだと思う。
たとえば、道をゆずる。一本道で反対方向からふたりの人が歩いてくる。
どちらも人の気持がわかる人だったら、双方で相手に道をゆずって正面衝突するだろう。
それをも避けようと双方がまたおなじことを思って再度ぶつかる。
これでは両者ともにいつまで経っても前方に進めないことになる。
どちらかが自分の気持に忠実にならなければ事態はそのままである。
車を運転していると、ゆずりあいということがあるだろう。
人の気持がよくわかる人はいったいどれほど遅刻することになるのだろう。
いや、わたしが間違えている。
本当に人の気持がわかる人は、相手がゆずってくれるタイミングまでわかるのだろう。
そこまで読まなければ、人の気持がわかるとは言えないはずである。
二重三重に難しいことだと感心する。まったく人の気持がわからない人なのである。
他人(ひと)に合わせるという言葉の意味がいまごろようやくわかった。
「他人に合わせる」とは、自分を殺すということではないか。
みなさんはもうとっくにご存じでしょうが、ものすごく卑近な説明をすると、
「他人に合わせる」とは自分の嫌いなことをあえて選択することだと思う。
相手(周囲)の好きなことを尊重して自分の嫌いなことを率先して行なう。
そのうえで本当は嫌いなことを好きなようにふるまう。
これが「他人に合わせる」の意味ではないか。

自分を殺せ。嫌いなことをあえてやれ。それをまるで好きなようにふるまえ。
なぜ「他人に合わせる」といいのか。他人が不愉快にならないからである。
しかし、断じて相手にこちらの本心を悟られてはならない。
本当はしたくなかったとばれてはいけない。さらに、である。
ゆめゆめ「どうしたらいい?」などと質問してはいけないのだ。
なぜなら自分の希望を言うのは日本人の美徳に反するからだ。
他人にそんな野蛮なふるまいをさせてはならない。

相手(周囲)の希望を言外にお察しせよ。これが「他人に合わせる」ということだ。
我(自分)が強い人間ほど他人に合わせるのが難しく孤独になるのはどうしようもない。
というのも、繰り返しになるが「他人に合わせる」とは、自分を殺すことゆえ。
自分があまりに強すぎると殺すことはできないだろう。
人が偉くなりたがるのは、偉くなれば他人が自分に合わせてくれると思うからだろう。
しかし、おそらくそれは錯覚だ。
よしんば、偉くなっても我を通そうとすれば、かならずや周囲から足を引っ張られるはずだ。
「あの人は自分勝手」という評判が立ったら、世間ではおしまいである。
やはりなるべく自分を殺したほうが世間受けはいいのだろう。

自分を殺すことを仏教では無我という。
社交的な人間にあこがれるならば、無我無心を目標にしなければならない。
社交などどうでもよく、むしろ自分がないことに悩んでいる人は孤独になればいい。
己事究明(こじきゅうめい)をしたいのなら孤独にかぎる。
はて、なにゆえ仏教では己事究明と無我がどちらも理想になっているのか。
真理とは、そういうものなのだろう。真理は矛盾しているのだろう。
絶対的真理はおそらくないのだろう。理想は、自分を殺しながら、自分を生きる。
理想は現実にはならない(できない)から理想なのだと思う。
とはいえ、少数ながら自分をうまく殺しながら自分をうまく生きている偉人もいよう。

「生(いき)ながら死して、静(しずか)に来迎を待つべし」(一遍)
この3ヶ月以上、踊り念仏の一遍上人とずっと向き合っている。
百遍はさすがに大げさだが、一遍ばかり繰り返し読んでいる。
読めば読むほど発見があるのだ。
少しずつそういうことだったのかと一遍の言いたかったことがわかってくる。
以前には意味不明だったところが、ある日ふと霧が晴れるようにわかる。
2年まえにも一遍のことを読み込んでいるが、そのときの感想とはぜんぜん別物だ。
3ヶ月まえとも違う。一遍のすがたがだいぶ変わったような気がした。
むろん一遍自身はとっくに死んでいるし変わりようがないのである。
ならば、一遍ではなくわたしのほうが変化したのかもしれない。
自分が変わると他人も変化したように思えるのかもしれない。
言うまでもなく、わたくしごときが成長や成熟するわけがないから、
実際はひねくれやゆがみが進行したというだけのことだろう。
変化というより悪化と言ったほうがより正確なのかもしれない。
本当のところは悪化さえしていないのかもしれない(つまり、まったく変化なし)。

事実のみを言うならば、
生きている人はこんなわたくしと3ヶ月以上もこちらの都合でつきあってくれない。
死者がいかにありがたいか、である。おそらく錯覚だろうが、
一遍のおかげで仏教だけではなくほかのことの見方も変わったような気がするのだ。
この3ヶ月のブログ更新の半分以上は一遍に教わったのかもしれない。
もちろん、究極的にだれかになにかを教えることはできないので、
こちらが勝手に教わったつもりになっているだけという可能性も高い。
一遍を理解したのかどうかも怪しい。
ひとりの人間(他者)を理解するというのがどれほど困難か。
自分さえ理解できないで(わたくしを含め)大半の人間が死んでいくのだから。
たぶん、一遍を(いや自分を、かな)都合のいいように解釈し直しただけなのだろう。
もう死んでいる人間は変わりようのないところがいい。
いな、死者でさえこちらの主観で変わるのがおもしろい。
主観は客観とは異なり変化する。主観とは我であり心である。
言葉の意味が人それぞれで異なるから人間はわかりあえないのでしょう。
それぞれ言葉の意味が違うのかもしれない。
たとえば、以下にわたしの意味を書いてみますが、なかには反論したくなる人もいるでしょう。
しかし、いくら議論しても結論は出ないような気がします。
そうだとしたら、なぜ人は議論するのでしょうか? 
きっとさみしいからでしょう。さみしい。
「さみしい」とは(わたしにとって)孤独という意味です。

「もてる人」=多くの異性から興味を持ってもらえる人
「もてない人」=異性から興味を持ってもらえない人
「既婚者」=少なくともひとりの人から興味を持ってもらえ選ばれた人
「好き」=興味がある
「嫌い」=気持が悪い、俗語ではキモイ
「好きでも嫌いでもない」=興味がない
「正しい」=好き(例:橋下さんの言うことは正しい)
「間違い」=嫌い(例:おまえは間違っている)
「おかしい」=少数派(例:あの人っておかしいと思わない?)
「謙虚になれ」=おれはおまえよりも偉いんだぞ
「大人になれ」=おれにとって都合のいい人間になれ
「個性を持とう」=みんなからはみだすなよ
「勝つ」=おれは正しい
「幸福」=無反省な盲目状態
「死ぬ」=苦しみから解放されること
A「何度言ったらわかるんですか! わたしはあなたに興味がないんです」
B「それはおかしい。おまえは間違っている」
A「もう議論はやめましょう」
B「それはいかん。なぜなら、おれはおまえに興味があるからだ」
A「わたしはあなたにいっさい興味がありません」
B「だから、それは間違っている」
A「あなたに興味がない人もいるんです」
B「それは間違っている。おまえはもっと他人に興味を持ったほうがいい」
A「あなた以外の人には興味があります」
B「待て、待て」
A「いやです。手を放してください」
B「おまえに興味がある」
A「言っていいんですか?」
B「おれは間違っていないぞ。きみ大学はどこだ? 高卒か?」
A「関係ないでしょ。本当に言いますよ」
B「ああ、かまわん。おれは正しい。おれは間違っていない」
A「わたしはあなたが嫌いなんです」
B「それは間違っている」
A「大嫌いなんです」
B「それはいい。しかし、おまえの態度は間違っている。おれの意見を聞け」
A「どうしてわからないんですか? あなたが嫌いなんです」
B「そんなことあるわけないだろう。おまえは間違っている」
A「なぜ自分が嫌われていることがわからないんですか?」
B「話し合おう。どちらが正しいか白黒つけようじゃないか」
A「あなたが嫌いなんです」
B「待て、待て。いいか。逃げるなよ。逃げたら、地の果てまで追っていくからな」
A「警察に言いますよ」
B「ああ、裁判しようじゃないか。おれは間違っていない」
A「あたま大丈夫ですか?」
B「だから、どちらが正しいか決着をつけよう」
A「そういう問題じゃないんです」
B「それは違う。おれはおまえに興味がある。だから、おまえもおれに興味を持つべきだ」
A「いやです」
B「おまえ、おれをだれだかわかっているのか」
A「知りません」
B「なら、知ればいいだろう。知識欲がないやつはダメだ」
A「ダメでいいです」
B「それは違う。おまえはなぜ人の意見を聞かない。もっと謙虚になれよ」
A「あなたこそ謙虚になれ」
B「おまえ、おれを舐めるなよ」
A「舐めていません」
B「いや、舐めている。ほら、おまえは間違っているじゃないか」
A「もう話しかけてこないでください」
B「逃げるな。おい、待て。こらっ、卑怯者!」
A「(逃げる)」
B「おい、待たんか。おまえは卑怯者だぞ。卑怯者、待て。へん、逃げやがった。
おれの勝ちだな。よし、勝った。大勝利だ。常勝伝説、不敗伝説、本日更新なり。
しかし、不愉快なやつであった。おれのような正直者は受難者になる宿命があるのだろう」

*世の中には残酷な「興味の不公平」「関心の不平等」が存在します。
講演会の質疑応答で質問者が延々と身の上話を始めると彼がかわいそうで胸が痛みます。
男が高齢者ならなおさら人生の理不尽をまざまざとあからさまに見せつけられたような、
暗澹(あんたん)たる気分になります。これは女よりも男のほうが多い。
なにが壇上の有名人と客席のみじめな質問者にこうまでの差をつけたのでしょうか。
なかには「あなたの意見に興味を持たない人がいる」ことを理解できない人がいるようです。
彼は世界に片想いが存在しないとでも思っているのでしょうか。
くだらないだれからも読まれないブログを書いています。
コメント欄で匿名の人から連続してご意見をいただくことがあります。
どうして「わからない人」がいるのでしょうか。
きっとわからないほうが幸福だからだと思います。わからないほうがいいこともある。

(注)この記事に特定のモデルは存在しません。本当ですって。だから、本当。本当に本当。
いきなり東京大学の入試問題よりも難しい問題を発見してしまったのである。
当方いちおう受験経験はあるので東大の難しさはよく知っているが、
これはあんなものは比較にならぬほどの難問と言えよう。
高卒の人からそんなことも知らなかったの? と笑われてしまうかもしれない。
あんがい現役東大生はこの難問の存在に気づいていないかもしれない。
難しい問題を解いて東京大学に入ったような人ほど気づきにくいということもあろう。
いちばん身近なところにほとんど最大と言っていいほどの問題があるのではないか。
その難問とは他人である。
インテリの学者先生は他者(他者性)なんて言葉をさもありがたがって使うのだろう。
他人の気持はわからない。他人がいったいどう思っているのか。
この問題ほど難しいものはそうそうめったにないのではないのだろうか。
他人のことは考えてみればまったくわからない。
なぜ生まれてきたのか、死んだらどうなるのか、よりもはるかに身近な他人がまずわからない。

なにかをしてあげて「ありがとう」と言われても本心かどうかはわからないのである。
尊敬している人から励まされて感動しても、
それは相手がだれにでも口にしているリップサービスかもしれない。
相手が自分をどう思っているかは究極的に理解できないのである。
それは自分の言動における本音を厳密に追求したらだれでもわかるはずだ。
相手の気持を心底から考えたらこちらの心が病んでしまう、
というようなところもなくはないのではないか。
わたしはいままで運よくかなり自分勝手に厚顔に生きてこられたから(反省してまっす)、
たまたま精神科や心療内科のお世話になっていないのかもしれない。

他人の気持はわからない。

この難問に正面から向き合ったら大変なことになるのではないか。
人間だれしも人生で俳優なみの(以上の)演技はするし、お世辞(ウソ)も言うのである。
そうだとしたら、成功者や権力者ほど人の本当の気持がわからなくなるのではないか。
言い換えれば、成功者や権力者ほど彼(女)が繊細ならば人間不信におちいる。
成功者や権力者になると交際する人間が増えるぶん、それだけ孤独が深まるのだろう。
このとき、相手は自分の成功や権威にのみ表面的に敬意を表しているのではないか、
と考えられない鈍感な人間は幸いだ。

ならば、鈍感なほど人間関係で苦しまないのかもしれない。
自分に対しては繊細なくせに、他人には鈍感な東大卒の「戦う哲学者」のような人もいよう。
権威こそ天と地ほどの差だが、わたしも恥ずかしながらこのタイプの人間だと思う。
そうは言っても、他人の気持に敏感なのがいいのかどうかはわからない。
他人の気持を重んじる、いわゆる優しい人ほど生きにくくなるはずだ。
断っておくが、自分は他人よりも優しいと自分で思っている人は、
わたしの人生体験から一方的に判断すると、そうでない可能性がかなり高いだろう。
さあ、原点に戻ろう。他人の気持はわからない。
相手にいくら質問しても本当のことを教えてくれるとは限らないのである。
相手が優しい人ほど本音を隠すだろう。
相手の気持の正解は知りようがないのである。正しい答えは推測するしかない。
いい年をしていまさら気づいたのかとあきれられるかもしれないけれど、
これは身震いするほど恐ろしいことではないだろうか。
たとえば、高級料亭で接待しても相手は高級料亭を嫌いかもしれない。
キャバクラで接待しても(これ、現実にありますか?)相手は同性愛者かもしれない。
同性愛者でなくてもキャバクラ嫌いの人はいるのである。
わたしはたとえ逆にお金をもらってもよく知らない商売女と酒を酌み交わすのは面倒だ。
だが未経験ゆえ、いざ行ってみたら夢中になって借金までして大金をつぎ込むかもしれない。
わたしのことはどうでもよくて、さて問題は、他人の気持はわからない――。
「ありがとう」の本心は「ありがとう」ではないのかもしれない。
偉い先生につきしたがう多くの取りまきや称賛者、および弟子は、
実のところみなみな内心では舌を出しているのかもしれない。

結論。他人の気持はどうしようもなくわからないものである。
大勢が望む成功とはいえ、したらしたで人間不信に苦しむこともなくはない。
いろいろ考えると、わたしのように鈍感で冷たい人のほうが生きやすいところもあるのだろう。
しかし、このことをよくよく考えてみると、
わたしは人生でいままでなんとありがたくも優しい人に恵まれてきたことか。
ご恩返しとして、これからはなるべく他人の気持を尊重するようになりたい。
とはいえ、精神を病むほど相手の顔色をうかがうものではない。
どのみち人はわかりあえぬのだというタフな諦観(ていかん)も必要だろう。
大げさな話だが、相手が死ぬか自分が死ぬかになることもあるのだから。
そして、相手の気持がわからないことで救われていることも結構あるのではないか。
人生、なかなかうまくできているような気がしてならない。
あまり考えすぎないほうがいい、というのはひとつの真理だろう。
以上、恥知らずのおっさんの幼稚な告白、
長文ながら最後までお読みいただき本当にありがとうございます。
ガキだからいいという面も、むろんなくはないのだろうと思う。
毎日のように大勝利する人たちも日本にはいるようだが、おれは先ほど中坊に負けた。
テレビ雑誌の占い欄を立ち読みしようとセブンイレブンに入ったのである。
入口付近には近所の中坊(中学生)と思しき男子が5、6人座ってだべっている。
といっても、そこまでワルではなさそうなところが、
都会でも田舎でもないおれの住んでいるハンパな場所をある意味で象徴していよう。
たとえばおれが注意したらその場を立ち退きそうなくらいのワル(じゃないかもう)だ。
おっさんは夢見る少女のようにテレビ雑誌の占い欄をタダ読みして店を出ると、
コンビニの陰にひそむ女子中学生二人組を見つける。おそらく、男子の仲間だろう。
男子はだらしなく菓子を食っているだけだったのだが、
女子のほうは、くううマブイぜ、しっかりタバコをふかしていたのである。
背伸びしていやがる、と思った。同時に女子中学生から叱られているような気もした。
女子中学生でさえ見栄をはってふかしているのである。背伸びして喫煙している。
対しておれはどうだ。なんておれはダメなんだ。
中坊の子どもがいてもおかしくない年齢だというのに、
いまだ大人になりきれていないところがあるのだから。
子どもっぽい喫煙女子と目が合った。先に視線をそらしたのはおれのほうだ。
「おっさんもいいかげんに大人になんな」と説教されたような気がしたからである。
今日も大敗北だ、と思った。大勝利する日はいつ来るのだろうか。

どうでもいいことだが、このところ他人の喫煙にかなり寛容になっている。
タバコの煙がくさいから嫌いだったのだが
(ぜん息の問題は最近なぜかよくなったのでもういい)、考えてみたら飲兵衛も酒くさい。
ならば、お互いさまじゃないかという結論に酒飲みのおれは達したのだ。
喫煙者には防波堤になってほしいという本音もある。
タバコが狩られたら次はかならず酒に健康病の患者たちは矛先を向けるはずである
酒会社や居酒屋がいくらがんばろうとも、
健康病の患者は自身を絶対正義と信じて疑わないから始末が悪いことこの上ない。
喫煙者にがんばってもらわないと明日はわが身になってしまうのである。
このため、十代の喫煙少女もおれは応援している。
背伸びをしながらどうか立派な大人になってほしいと思う。
しかし、どうして子どもは背伸びして大人になりたがるのだろうか。
相当数の大人が子どものころに戻りたいと思っているだろうに。
おれのようになかなか大人になれないおっさんには喫煙少女がたいそうハクイものに思えた。
がんばれと激励したくなった。がんばろうとおのれを叱咤した。
絶対に炎上しないほどの過疎ブログなので、
本当に思ったことを酔ったいきおいで書いてみよう。
あとあと残す価値など他のブログ記事といっしょでまったくないので、そのうち消す。
元モーニング娘の矢口真里メンバーが浮気をしたとかで叩かれているらしい。
そんなに矢口元メンバーは悪いのだろうか。甲斐性なしの夫の面倒を見ていたわけだよね。
多少の火遊びくらい許すのがダメ男の義務じゃないか。
矢口元メンバーの魅力は審美眼の欠如ゆえよくわからないが、
腐っても(失礼!)元アイドルならかわいいという一般認識があるに違いない。
そういう身分が上の異性に結婚してもらえたのなら、おい、男、もっと謙虚になれよ!
そんなことを不謹慎にも思ってしまうのである。

時事ネタはなるべく書かないと決めていたが、
いつだったかのいじめ自殺事件もよくわからない。
まあ、いじめは楽しいからみんなやるのではないかしら。
いじめは悪いなんていうのは偽善くさくてたまらんね。
人をいじめて楽しいと思う心が自分にもあるから、あれほど注目を集めたのではないかと思う。
こちらは自分がいじめをしたことがあるかどうかはわからない。
いじめられたことがあるのかないのかもわからない。
いじめとはそういうものなのだ。
自分はいじめたつもりがなくても(善意や好意でも)、
相手がいじめられたと申告したらそれが通ってしまうところがなくもないのではありませんか。
これは自分が被害者としても当てはまること。
死なれちゃったら、詳細はだれにもわからなくなるのである。
生きていても正しい解釈はなく、意見がわかれることだろう。

そんなもんじゃないか、と思うのである。
そんなに悪いやつも正しいやつも、もしかしたらいないとは考えられないだろうか。
だれも悪くないのかもしれない。だれも正しくないのかもしれない。
そんなもんじゃないか。
苦々しくもそんなもんじゃないか。やりきれないことにそんなもんじゃないか。
いろいろ矛盾しているからおもしろいんでしょうね。
「ゆったり生きよう」としきりに主張している宗教評論家の先生が、
実は分刻みのスケジュールを組んでいるワーカーホリック(仕事中毒)だったりします。
偉そうな人が嫌いな、しかし自分はものすごく偉そうな説教好きの作家もいますでしょう。
「もてない男」が裏ではもてていたりして、大した「正直者」がいたもんだと。
絶望しきったような「戦う哲学者」がにこやかな社交家というのはもう有名な話です。
いまにも自殺しそうなことばかり書いていた私小説家が、
実際はめっぽう明るかったりするのです。
自分勝手なワルをアピールしていた作家が、
震災時に被災者をあたたかく励ましたりすることもあります。
「相手の気持を考えよう」とあちこちで説教しているおばさんがいますが、
あはっ、ぼくが人生で出逢った多くの方たちのなかで、
もっとも人の気持を理解できていないなと思ったのが当人なのですから。
もちろん、ぼくもたくさん矛盾しているし(人に指摘されて気づく)、社会もそうです。
個性を伸ばす教育なんて、
言葉の意味が矛盾していますよね(近代教育の起源は国民皆兵化=国民均一化)。
企業が個性的な人材を求めているというのも、
なかなか手の込んだブラックユーモアだとは思いませんか。
みんながみんなとおなじように「人と違う自分」を求めているのは笑劇かなにかですか。
幸福なんて言葉も矛盾しきっていますよね。
幸福について考えないことが、本当は幸福へのいちばんの近道だったりするのですから。
なんでこうもなにもかも矛盾しているのでしょうか。
あれあれ。そうだとしたら、ぼくは自分のことをかなり厚顔な最低なやつだと思っていますが、
もしかしたら謙虚で最高な人間だったりするのでしょうか。
いや、それだけは断じてない。ない。

(注)この記事でモザイクをかけた著述業者はみなみな矛盾ゆえに大好きであります。
きっと矛盾が人にものを書かせるのでしょうね。
ちなみに、ひとり著述業とは関係のない人がまじっていますから。
そうそう、モザイクというのも大した矛盾です。
よく知りませんけれど、あれは男のいちばん見たいものを隠すのでしょう?
自己啓発書の古典のなかでも真の古典と言えるのは、
カーネギーの「道は開ける」「人を動かす」ではないかと思います。
わたしも13年まえの人生最大のピンチのとき赤線を引きながらこの本を読みました。
単細胞なため新年を迎えるにあたって今年こそはカーネギー流に生きようなどと、
いかにも青年らしい目標を立てたことさえありました。
いちばん最近読み返したのは5年まえでしたか。
わらにもすがる思いで繰り返し読んだものです。たしかに効き目はあります。
なんだかんだ言って、お好きな方も少なくないのではないでしょうか。
先ほどふと思い立って久しぶりに赤線部分のみ読み返してみました。
まるで13年まえの若かりし自分と再会したようなこそばゆい感覚がございました。

一度も人生で成功や勝利を味わうことがなかったいい年をしたおっさんが
いまさらカーネギーに再度触れたわけですが、かなり新鮮な驚きがありました。
カーネギーはいまの自己啓発書とは相当おもむきが異なります。
というのも、とにかくネガティブなんですね。
ニヒリズムやペシミズムに満ちている。
ま、人生なんざ、人間なんぞにあまり期待しなさんな、という醒めた言葉ばかりなのです。
「あきらめなければ夢がかなう」なんてどこにも書いていません。
自己啓発書の根本思想である「正しい努力はかならず報われる」さえないのです。
著者のカーネギーは皮肉屋で悲観主義、そのうえ人間不信が非常に強い。
このため、(理想ならぬ、いや理想からは程遠い)薄情な現実にどう対応したらいいか、
かなり普遍的とも言えるマニュアルを書けたのだといまさらながら気づきました。
人生や他人に向き合うにあたっては期待しない、というのがおそらくいちばんなのでしょう。
カーネギーだって、本当は芸術家(文学者)にあこがれていたのではないでしょうか。
こんな安っぽい(ごめんなさい)自己啓発書を書いて売れようなどとは、
きっとまったく思っていなかったはずです。
人生や他人への絶望に満ちたカーネギーの好んだ言葉は、たとえば以下のようなものです。

「あきらめを十分に用意することが、
人生の旅支度をする際に何よりも重要だ」(「道は開ける」P131)

「人間は朝も昼も、そして夜中の十二時過ぎまで、絶えず自分のことだけを考えている。
他人が死んだというニュースよりも、
自分の軽い頭痛に対して千倍も気をつかうのである」(「道は開ける」P301)

「私が今日これから会おうとしているのは、おしゃべりで、利己的で自己中心的で、
恩知らずの人間どもだ。だが私は別に驚きもせず、困ってもいない。
そんな連中のいない世界など想像できないのだから」(「道は開ける」P202)


しかし、それでもカーネギーは甘い。
人間を知っちゃいない、と生意気にも思ったところがあります。それは違いやしませんか。

「われわれは、自分に関心を寄せてくれる人々に関心を寄せる」(「人を動かす」P88)

カーネギーの書き出した処世マニュアルはかなり現実に沿っていると思いますが、
上記のものはそれほど広く通用するものでしょうか。
いくらこちらが関心を寄せても、
向こうはしがにもかけてくれないことはいっぱいありませんか。
大げさなたとえを持ち出せば、
アイドルをどれだけ追っかけても向こうはせいぜい握手をしてくれるくらいではないでしょうか。
ファンの大勢いる人気作家が愛読者のひとりひとりに関心を寄せていたら身が持ちません。
関心を寄せられるのが気持悪いということもあるでしょう。
カーネギーの法則なんぞを真に受けるからストーカーが生まれるとも言えるわけですね。
自分がこれだけ関心を寄せているんだから、おまえもおれに関心を持て。
ストーカーの行動原理はこの誤った思い込みに尽きるのではないでしょうか。
自分が相手にいくら関心を寄せても、
かならずしも相手はこちらに関心を持ってくれるわけではない。
この残酷な現実に見て見ぬふりをしているのは、人としてどうなんでしょうか。
自信満々で「おまえに興味がある」と言っても、
相手は自分のことなどどうでもいいと思っているかもしれない。
どうしていやらしいほど世間知に敏感だったカーネギーが、
あのようなことをいわば真理のひとつとして著作に書いたのか理解に苦しみます。

自分を棚に上げてはいけません。自分の話をしましょう。
わたしは好きな作家が幾人かおりますけれど、身分が自分よりはるかに上の
高名な先生がこちらにご関心を抱いてくださることはないとあきらめています。
というのも、自分がそうだからです。
くだらぬ不人気ブログを長年やっていますと、
「おまえのブログを読んでやったんだから自分のも読め」という注文が何度かありました。
どうしようもなく知らない人の日記ブログを5年分拝読したことまで実はあるのです。
そういう経験からカーネギーの言葉でさえ、絶対的真理ではないと思うのであります。
もちろん、ダメ人間でおよそ最低のわたしなぞに
ご関心を持ってくださった方には最大限の敬意を表しています。
ゆえに10時間以上かけてまったく知らない人のブログを気合で読むこともあるわけです。
しかし、それは自発的ではなく、なんというかその、やむをえずでありまして……。
「われわれは、自分に関心を寄せてくれる人々に関心を寄せる」
これは事実ではなく、そうだったらどんなにいいかという理想(夢)のような気もしますが、
まさか世間知らずのわたしが
多くの成功者から愛されているカーネギーを批判できるわけがありません。

ピンチのときにはどうしたらいいのでしょうか。
「ピンチはチャンス」という言葉が広く知られていますが、これはどういうことなのか。
みなさまは一部の成功者が「ピンチはチャンス」と言っているから正しいと思われますか。
もしかしたら、それはたまたま彼が成功したからそう言えるのではないか、
とも考えることができるわけです。
数知れない失敗者が「ピンチはチャンス」という言葉によって生まれたのかもしれません。
ところが、失敗者の意見はだれも重んじません。
このため、「ピンチはチャンス」という言葉だけがひとり歩きしている可能性はないでしょうか。
身もふたもないことを申します。「ピンチはチャンス」の意味です。これは――。
他人のピンチは自分のチャンス。自分のピンチは他人のチャンス。
そういう意味ではないかと考えることもできるのではないでしょうか。
まさか自分のピンチが100%自分のチャンスになるとは思いませんよね。

ビジネス的にはどう考えても、他人のピンチは自分のチャンスではありませんか。
ライバル会社が経営危機におちいったら、そのときこそ自社のチャンスでしょう。
このタイミングを逃がさずに相手の息の根をとめようしない経営者はバカです。
相手の立場を思いやってライバル企業に資金や情報を提供する会社がありますか。
これは企業間のみならず、
利益を共有すると一般的には思われている同僚とのあいだでも言えることです。
かなしいことにライバルのピンチは自分が出世する最大のチャンスですよね。
フリーター同士ならともかく一流のビジネスパーソンの世界はそう甘くありません。
甘いことを言っていたらすぐに寝首をかかれるのではないでしょうか。
競争が極めて激しいフリーランスの世界でも、
だれかが体調を崩して仕事を降りたときが待ちに待ったチャンスです。
仕事を独占していた大御所が亡くなったとき、
どれほどのフリーランスが陰で喜ぶことでしょうか。
「ピンチはチャンス」とは、そういう意味であります。
ノルウェーのイプセンと並ぶスウェーデンの文豪、
わがストリンドベリは「だれかの幸福はだれかの不幸」と見事に真実を言い当てています。

さあ、本題に入りましょう。ピンチのときにはどうしたらいいのか。
これから書くことはかなり正しいと思っています。
なにゆえ正しいのかと申しますと、たくさん本を読んだ結果だからです。
暇に任せていっぱい本を読んだら、
一般的に通用する正しいとされることくらいはわかります(わかったような気になります)。
しかし、ならどうしてわたしが1回たりとも
成功体験がないのか疑問に思う方がおられるでしょう。
答えはかんたんで、正しいことを知っていっても実行できないからです。
概して正しいことは、そういうものであります。
いやいや、賢明なみなさまなら正しいことを実践できるのかもしれませんけれど。
恥ずかしながら、わたしは正しいことをいくら知っても行動に移せません。
具体例をあげましょう。酒やタバコをお好きな人、完全に一生やめられますか?
酒やタバコでは説得力がないかもしれません。ギャンブルや性行為も一般的ではない。
なら、さあどうだ。あなたは健康によくないからといって、
美食(好きなものを食う)をやめられますか?
……はあ、きっとやめられる意志堅固な人もおられるのでしょうから、まったく人間は偉い。
そんなの生きていて楽しいのかなとも思いますが、じゃあ、これならどうですか?
嫌いな人を好きになれますか? みんな仲良くするのが正しいと知っていても、
あなたを嫌っていやがらせをしてくる人を心底から好きになることが果たしてできますか?

以上、正しい答えに意味はないということ申し上げたかったのであります。
正しいことを知っていても人間というものはなかなか実行できるものではありません。
そこのところをよくよくご理解いただいたうえで、
ピンチのときにはどうしたらいいかわたしの正しいと思うことを書きます。
しつこいようですが、わたしはこの正しいことを自分ではできないと思います。
さてさて、他人ではなく自分がピンチのときには――。

1.原因を考えない
どうしてこのようなピンチにおちいったかなどといっさい原因を考えてはいけません。
あいつのせいだ、あいつが悪かったからこうなったんだ、あいつがいなければ。
いくら他人を批判しても憎んでも呪っても過去は絶対に変わりません。
善人ぶって自分が悪かったのだとどれほど反省しても過去は過去のままであります。
自己卑下や自己嫌悪ばかりしていると、かならず心や身体に悪影響が出るでしょう。
ピンチの度合はさらに深まること必定です。
そもそもわれわれ人間に本当の原因などわかるものでしょうか。
原因は考えれば考えるほど答えが思いつき、そのたびに苦しみが増すことになります。
ピンチのときにはピンチの原因を考えないに尽きる。
もちろん、わたしはいくらそれが正しいと理解していても、
まさかそんな聖人君子めいたことはできませんよ。
常にうじうじ不幸の原因を考えては、他人への憎しみや自己嫌悪をこじらせています。

2.泣き言を言う(弱音を吐く)
ピンチになったときは、自分以外のだれかに話を聞いてもらうといいでしょう。
泣き言をいっぱい言ったほうがいいのです。思いつくかぎりの弱音を吐きましょう。
どうしてこうするのいいのか。ピンチの実態がわかるからです。
ピンチのときに「ピンチはチャンス」などと思うのが間違えているのです。
「ピンチはチャンス」は、他人のピンチに有効な考え方であります。
自分がピンチのときにそんなことを思ったら、ハイエナに食い散らかされるだけです。
かならずや善人面をしたハイエナにいいように身ぐるみはがされることでしょう。
なぜならピンチはピンチで、断じてチャンスではないからです。ピンチはピンチです。
どうしたらピンチはピンチだとわかるのか。泣き言、弱音を口にしましょう。
とはいえ、これは聞いてくれる人がいないとできません。泣き言や弱音を聞いてくれる人。
一見すると友人や知人が多そうな社交家も、こういうときに困ってしまいます。
しょせんは損得や利害でのつきあいなので、弱音を吐けないからです。
日ごろ友人知人の多さを誇っているものほど、ピンチのときにおのれの孤独を知るでしょう。
自分の弱みを見せられるのが友人という定義も完全な間違いではないような気がします。
そして、同性の友人にはプライドが働くため、なかなか弱みを見せられません。
とくに男は男同士で自分の弱点をさらせないようです。
(無関係ですが、だからドラマ「ふぞろいの林檎たち」の男同士の友情がひときわ美しいのです)
弱音を吐ける女性がいたら、男にとってどれほどありがたいことでしょうか。
女も女同士ではなかなか本当の辛さを言えないのではありませんか(わかりませんが)。
ところが、女性の場合、男に弱みを話すと肉体関係を迫られることが多々あるので危険です。
とはいえ、結局のところ男のほうがはるかに強がりのため(泣き言を言えないので)、
「ピンチはチャンス」などと最後までプライドにこだわり自滅する確率が高くなります。
男女の自殺率の相違がこの事実を証明しているとも言えましょう。
おかしなプライドに一生こだわりつづけるのが男というものなのかもしれません。
話は飛びますが、弱みは口にしても秘密までは話さないほうがいいでしょう。
秘密はピンチのときに他人に話すものではありません。
秘密はときに人と人との奇跡的な交流に結びつきますが、
同時に墓場まで持っていく秘密を持っていたほうが人としての深みが出るような気がします。

3.天に任せる
ピンチのときには、これはチャンスなどと思わず天に任せるのもいいでしょう。
お天道(てんと)さまが信じられなかったら、自然や運命に任せるのもいいと思います。
天(自然、運命)に任せるとはどういうことか。
最悪の事態を想定して、かりにそうなってしまっても仕方がないと断念することであります。
このピンチは最悪の場合どうなるかを考えましょう。
無一文になるならば、それも仕方がないと受け入れる。
刑務所に入ることになるのならば、やむをえない。
東京湾に浮かぶことになるのならば、そういう人生だったのだと思いましょう。
ピンチの顛末(てんまつ)が破産、罪人、死亡――もしそうなるならば、それが天の配剤なのだ。
それがほかならぬ自分の運命というものなのだろうと達観しましょう。
なかなかできるものではありませんが、死を受け入れるとかなり楽になります。
たとえば、いざとなったら自殺するしかないと思うことです。
自殺は絶対にいけないなどと思わないほうがピンチへの対策としてはいいと思います。
最悪の場合は死んでもいいか、と思うとかなりの冒険が可能になります。
相当なピンチをピンチとしてそのまま見ることができるようになるでしょう。
ここだけの話、自殺の成功率はかなり低いのではないのでしょうか。
こっそり申しますと、人間はそうそう死にませんよ。自殺はたいがい未遂に終わります。
死のうと思って死ねるほど、人生はちっぽけな人間ごときの支配下にはないのであります。
ひとたび自殺をしたことで周囲の理解を得られ、事態が好転することもありましょう。
心理療法家の河合隼雄氏によると、自殺未遂が最終的には功を奏したことも多いらしいです。
しかし、最初から同情目的で自殺未遂をしようと思ってはいけません。
自殺未遂をしようと思ったら、
あっけなく死んでしまうのが人間というものではないでしょうか。
なるべくなら自殺はしないほうがいいとはもちろん思います。
一度未遂をするとどんどん自殺の敷居(しきい)が低くなると聞きます。
だとしたら、できるだけ一度目をも避けたほうがいいでしょう。
そうは言いながらも、どうしようもなくなったらしてもいいような気がします。
わたしは度胸がないので一度も自殺未遂をしたことがありません。
とはいえ、自分の死を考えない生き方はだらしないとも傲慢にも思っております。

おさらいをしましょう。ピンチのときにはどうしたらいいか。
「ピンチはチャンス」などと思わないことです。
「ピンチはピンチ」とありのままに見ましょう。
ピンチをあるがままに受容しようではありませんか。
そのうえで、どうすべきなのか。
1.原因を考えない
2.泣き言を言う(弱音を吐く)
3.天に任せる
繰り返し書いていますが、かなりこの答えは正しいだろうとは思いながらも、
わたし自身はぜんぜんできていません。
いつもピンチのときは原因を考えて七転八倒しております(きっと、これからも、ずっと)。
天に任せるという境地からは程遠く、ぶざまにもあがいているのが現状です。
ああ、そうですね、泣き言や弱音を口にするのは、けっこうしているような気がします。
このため、人様にだいぶご迷惑をかけていることでしょう。
この自責の念をどうしているかと言うと、来世でご恩を返そうと思っています。
そう思い込むことでごまかしているのだと思います。ごまかす。自分を騙す。
ならば、「ピンチはチャンス」とごまかすのもきっといいのでしょうけれど、
「ピンチはピンチ」とあるがままにそのまま、たとえば宿命として引き受けるのも同様に、
あるいはもしかしたら前者よりもだいぶマシな生き方ではないか、とわたしは思っています。
「ピンチはチャンス」という言葉は、実際にピンチの人が言うことではありません。
どこから見てもピンチな人が、かん高い声で「ピンチはチャンス」と言い始めたら、
かなりの末期症状と思っていいのではないでしょうか。
ならば、どのような人が「ピンチはチャンス」を口にするかいっしょに考えてみましょう。
まずわかりやすい例を挙げますと詐欺師が言いますね。オレオレ詐欺。振り込め詐欺。
電話で息子を自称する男が「お母さんたいへんなんだ」と大ピンチを訴えます。
犯罪者になってしまうかもしれない、なんていうのが典型的だと聞きます。
息子が犯罪者になってしまったら世間体は最悪です。
本当に息子を愛していたら世間体よりも大事なものがあるのでしょうが、
いきなりお腹を痛めた子どもからピンチを報告されたら動揺するのは当たり前です。
そこに電話口にピンチを救ってやると恩着せがましく自称権威者が登場します。
「これはめったにないチャンスだ」と相手に思わせるわけですね。
地獄に仏。ピンチはチャンス! 急がなければなりません。チャンスを逃すな。いまだけだ。
このようにして「ピンチはチャンス」と思い込み、被害者は大金を騙し取られてしまうのです。

ほかに「ピンチはチャンス」はどのようなときに使われるでしょうか。
これは詐欺いかんを問わず投資の説明会でもひんぱんに使われるのではないかと思います。
高級なスーツを身にまとった壇上の説明者がピンチを何度もあおることでしょう。
このままでは老後が危ない。いまあなたたちはピンチなんです。大ピンチと言ってもいい。
しかし、これはめったにないラッキーです。チャンスなんです。
いまピンチであることを先がけて知ることができたみなさんはとてもラッキーだ。
なぜなら「ピンチはチャンス」だからです。ピンチだが、チャンスはある。
チャンスをつかむかどうかはみなさんしだいです。大ピンチですが、チャンスはここにある。
詐欺グループのみならず信用がある(らしい)大手銀行もこの手を使っています。
大銀行もこの手法を使っているのです(否定できる銀行員はいらっしゃいますか?)。
しつこいようですが、そのテクニックとは「ピンチはチャンス」であります。
ご覧になりたかったら説明会もいいでしょうが、
もしあなたが富裕層ならば個別相談でも見事なお手並みを披露してくれるはずです。

実のところ、いろんなところで「ピンチはチャンス」は用いられています。
知っているかぎり具体例を提示してみましょう。
世間知らずなわたしでさえこのくらいわかるのですから、
この記事をお読みの賢明なみなさまはほかにもいろいろ思いつかれるのではないでしょうか。
さて、新興宗教はそうでしょう。
不幸な人、いきなり人生の大ピンチに不運にも遭遇した人にメンバーは接近します。
それはたしかにピンチだが、チャンスがないわけではないと勧誘するわけです。
むしろこれしかチャンスはないんですよ! ピンチになったのはチャンスのためです!
資格スクールも似たような手口を使っています。
一寸先は闇の社会ではいつリストラされるかわかりませんぞ。そのとき再就職できますか。
このようにピンチをあおりながら、チャンスをエサとして差し出すのです。
創作スクールもそうでありましょう。
あなたの人生はいまのままでいいんですか。子どものころの夢を思い出してください。
夢がない人生は最低だ。夢のない人間は価値がない。
しかし、夢をかなえるいいチャンスがあるのだと集客に励みます。
少子化で競争が激しい進学塾の社員でこの方法を使わないものはいないでしょう。
キーワードは、たいへんな時代になりました。
いまはピンチもピンチ、有史以来最大のピンチなんです。

思いつくままに書きますと、経営コンサルタントも「ピンチはチャンス」が大好きです。
経営不振のピンチにおちいっている中小企業が彼らの絶好のカモとなります。
たとえば彼は、「ピンチはチャンス」を連発してツイッターやフェイスブックといった
(どうせすぐに古くなる)最新ツールをいまが最大のチャンスだとすすめます。
老いてますます自信過剰な経営者ほど流行コンプレックスが強いのでこの手に引っかかります。
メジャーなところでは、いまの若い人は買わなくなったという雑誌もおなじです。
いわゆるオヤジ雑誌ほどいまはピンチだ、こんなピンチはかつてなかったと大騒ぎします。
若者向けぶった「週刊SPA!」もしきりにこれをやりますから、
あれの購読者連中は実のところオヤジ層なのかもしれません(実名を出してごめんなさい)。
いま儲かって笑いがとまらない婚活業者はうまく波に乗っていると言えましょう。
各メディアと連動して、
結婚できない(正しくは、結婚しない)のは未曽有(みぞう)のピンチだと絶叫しています。

ほかにもたくさんあるでしょうが、営業妨害はほどほどにしておきます。
あ、最後に小声でみなさまのお耳に入らないように申し上げますと、
保険ビジネスは「ピンチはチャンス」を最大限に活用した、見ようによっては
かなり悪らつな商売とも言えます(健康食品ほどあからさまではありませんが)。
しかしまあ、商売なんてみんなそんなもんじゃないかという意見も正しいと思います。
読み手のみなさまがとっくのとうにお気づきの結論を押しつけがましく書きますと、
「ピンチはチャンス」とはピンチの人が口にする言葉ではないということです。
ならば、なにか。「ピンチはチャンス」はハイエナの言葉であります。
長くなりましたので、ピンチのときにどうしたらいいかは次の記事に書きます。