どう考えたってピンチはピンチでしょう。ピンチがチャンスなんかであるわけがない。
日本には、貧すれば鈍するという立派なことわざがあるわけだから。
たいがいはピンチになればなるほど、思考が凝り固まって自由を失うものだ。
だからこそ、ピンチがピンチに見えず浅はかにもチャンスに思えてしまうのだが。
しかし、人間は結局のところ最後の最後まで
ピンチはチャンスと言いながら死んでいくものなのかもしれない。
ピンチはチャンスだ、この試練を与えてくれた神に感謝しよう、なんてごまかしながら。
みんながみんなピンチはチャンスと言っていたら、ピンチはピンチには見えない。
記憶があやふやだが、どこかの国ではむかし神風が吹くことを信じていた人民がいたらしい。
わが国でもアベノミクス(ってなに?)で実際に景気がよくなってしまうこともあるのである。
そうだとしたら、ピンチはピンチと本当のことを言ってしまうのは大人げないのだろう。

ピンチはチャンスを最初に聞いたのは大学生のときの就職説明会だったか。
え、はあ? ピンチはピンチじゃないんですか?
なんてひねくれたことを考える大学生ではなかった。
いい言葉を聞いたとピンチはチャンスと手帳に大きく書き込んだものである。
小さな個人会社の社長さんが、変なハイテンションで叫ぶように言っていた。
いまこの業界はピンチなんです。ですが、ピンチはチャンスなんです!
たぶん、その会社はもう倒産しているはずだが、
つぶれる直前までピンチはチャンスだと思えていたのなら、
経営者にとっても従業員にとってもそれなりに有意義だったのではないか。
ピンチがピンチに見えずにチャンスに見えてしまう、
ピンチをチャンスと思いたいのが人間なのだ。

とはいえ、あながちピンチがチャンスではないとも言い切れない。
なぜなら、おそらく人はピンチにならないとリスクを負わないからである。
ピンチがチャンスになるようなときも少数ながらあるのだと思いたい。
ピンチにならないと思い切った賭けをすることができない。そのうえ、だ。
ピンチになるとけっこう思わぬところから救いが来ることもなくはないのだろう。
火事場の馬鹿力で思いもよらぬ才能が花開くこともあろう。
もちろん絶対ではないから、ピンチはピンチであることに変わりはないのだが、
ピンチはチャンスだと最後まで信じよう(=自分を騙そう)とするところに、
人間の愚かしさと輝かしさが結晶していると言えなくもない。
そして、客観的にはまったくピンチでないときに、
おのれをピンチだと思ってしまうのもまた人間である。
大半の自殺者がもしかしたらそうかもしれないし、そうでないかもしれない。
わからない。人の自殺の理由はわからない。本人にもわかっていないのかもしれない。
あるいは自殺などこの世になく、避けられぬ寿命が来ただけなのかもしれないが、
それは人間にはわからない。
これを書いたら多数派を敵に回してしまうかなという恐怖もなくはないのですが、
ボランティアがあまり好きではないんですよ。だって、善意の押し売りみたいでしょ。
自称善人の自己満足全開といったドヤ顔(得意顔)を見ると、どうしても好きになれません。
もっともボランティアでもしてみたらとたまに人から言われることがあって、
実際にやってみたらあっさり人間が変わってしまうのかもしれませんけれどね。
ふとやる気になって本当にやる日が来たりするのが人生のおもしろいところです。

他人のためになにかをやるというのがどうも苦手なようです。
これはふたつの意味があります。
ひとつは、他人のためにやったことって本当にその人のためになっていますか。
底の浅い人間の善意は、傷ついた人の傷をさらに深めるようなところがないでしょうか。
善意って思ったよりも通じないことが多いような気がします。
これはぼくがひねくれているだけかもしれませんが。
ふたつ目の理由は、他人のためにしたことでよく失敗したからです。
他人のためになにかをして、相手は「ありがとう」と言ってくれたけれど、
ああ、かえって向こうの負担や迷惑になってしまったと後々気づくことが多い。
大げさですが、ときに自分ほど他人の気持が理解できないのもめずらしいのではないか、
とさえ思います。他人の気持がまったく読めないですね。
とはいえ、他人の気持を完全に理解できる人などいないというのもまた明白な事実です。

自分がしてもらって嬉しいことを相手にすればいいという一般法則があるでしょう。
しかし、ぼくがこれをやると大概失敗します。
たしかに多数派はそれでいいのでしょう。
ぼくはどうやら少数派らしく、快感原則が他人と違っていることが多いみたいです。
よかれと思ってやったことが相手に通じません。
言うまでもなく、これはこちらが悪いからです。
ぼくは本当に空気が読めないところがあります。
自分の善意で反対に相手を困らせてしまったことが多々ありました。
みなさん大人なのでしょう。
ご迷惑でも「ありがとう」って言ってくださいますから、気づくのがだいぶ遅れました。

そういう事情でぼくがボランティアをすると失敗するという確信めいたものがあります。
自分はあまり他人のためを思わないほうがいいのではないか。
これは厚顔な自慢に思われるかもしれませんが、
ぼくもけっこう人の役に立っているとも思うのです。
アクセス解析の検索ワードを見ますでしょう。
明らかに学生さんのレポート(宿題)目当てや、
ライターさんやリサーチャーさんの下調べと思われるものが多いのです。
うちのブログの多くの記事は書籍情報を元にしていますから、かなり正確です。
ネットは原則無料文化ですから、感謝されることはほぼありません。
ぼくも他のネット無料文化をありがたく享受していますからそれは全然構いません。
ぼくも「ありがとう」なんてネット無料文化提供者に感謝したことはないですし。

それでもごくたま~に感謝のお言葉をいただくと恐縮してしまいます。
メールやブログの鍵コメントでまれに感謝してもらえるんです。
あまり大声では言えませんが、このブログは自分のために書いている割合が大きいです。
自分のためにしたことが、どうしてか他人のため(利得)にもなる。
もしかしたらこれが最高のボランティアではないかと思います。
他人のためにするというのは、どこか偽善的だと思う根性が腐った自分がいます。
自分のためにしたことが結果として他人のためになるならどんなにいいことでしょうか。

ぼくの場合、他人のためを思ってやるとかならずと言っていいほど失敗するんですね。
他人のためと思うと、なんだか恩着せがましくなるようです。
しかし、最近は意外と好意もうまくいくことが多いと思いを改めています。
といっても、うまくいっているのは自分の好意ではなく他人のそれです。
このところ人からの好意に素直に感謝できるようになりました。
たまたまタイミングがよかっただけかもしれませんが、
他人っていいものだなと相手の好意がどんぴしゃりで伝わる経験を連続してしました。
かといって、ぼくが他人のために行動したらうまくいくかはわかりません。
やはり自分のために行動するのが合っているかなという思いもあります。

考えようによっては、貧乏人の偽善ボランティアよりも、
自分の損得しか考えないがつがつした自営業者のほうが他人のためになっているわけです。
というのも、それだけ多くの税金もろもろを払っているのですから。
その税金がめぐりめぐって貧困者をどれほど助けているか、救っているか。
もちろん、「ありがとう」という言葉はもらえませんが、善行であることには変わりありません。
考えてみれば、なんで高額納税者に感謝する人がいないのでしょう。
あんがい自分のためを思ってしたことが他人のためになるケースもあるのかもしれない。
他人のためを思ってしたことが裏目に出ることが多いぼくのような人は、
ストレートに自分のためだけを考えたほうが下手に他人のためを思って右往左往するよりは、
よほどあちこちにご迷惑をおかけしないのかもしれない。
もっと過激な発言をすれば、自分のためになにをしたらいいかわからない人が、
他人のためを思って災厄を振りまいているケースもそこまでめずらしくないのかもしれない。
経験したことは一度もありませんが、
宗教の勧誘なんて他人のためを思っての迷惑行為の典型であります。
そう考えますと、他人のためを思うより自分のためを思ったほうが
結果的に双方に幸いをもたらすこともそれほど少なくはないのでしょう。
いや、実際はわかりませんが、そうであってほしいと思いました。
ポジティブが最強だということに異論はありません。
完全なポジティブになったら本当に最強で無敵ではないかと思います。
ポジティブの定義はかんたんに前向きで明るいこととしましょう。
どうしたらいつも前向きで明るく上機嫌でいられるか。
マイナスのことはいっさい見なければいいのです。マイナスから目を背ける。
いちばん重要なのはたとえいっときでも自分を疑わないことです。
最強ポジティブにいたる魔法の言葉は以下の3つであります。
「俺は間違っちゃいない」
「俺は悪くないね」
「おまえはおかしいよ」
この3つの言葉を常用していたら常にポジティブでいられます。
なにかミスをしても「俺は間違っちゃいない」とすぐに忘れましょう。
人からそういう態度を批判されたら「俺は悪くないね」で撥ね返します。
それでもしつこく言ってきたら「おまえはおかしいよ」とあきれたらいい。

最強のポジティブとは、こういう態度を言うのでありましょう。
自営業者ならば、公私にわたって最強ポジティブをつらぬくことができます。
しかし、周囲はたいへんですよ。家族に最強ポジティブがひとりいたら、
メンバーのだれかがおかしくなるかもしれません。なぜなら――。
「俺は間違っちゃいない=おまえが間違っている」
「俺は悪くないね=おまえが悪い」
「おまえはおかしいよ=精神科に行ったらどうだ?」
毎日のように最強ポジティブの人と接していたら精神を病むかもしれません。
家族が精神病になっても、たとえ自殺をしても最強ポジティブは揺るぎません。
やはり「俺は間違っちゃいない」からです。
どう考えても「俺は悪くない」からです。
むしろ自殺した人に「おまえはおかしいよ」
と以前から指摘していた自分は正しかったとさらにポジティブの度合を高めるでしょう。
そうです、
最強ポジティブとは過剰な自己愛、他人への無思慮、徹底的な無反省の別名です。

ポジティブは、ネガティブな人がなろうとしているくらいがちょうどいいのでしょう。
毎日努力してポジティブたらんとしている程度のポジティブがいちばんいい。
うつ病の人が抗うつ剤で躁転してしまったようなポジティブは、本人は最強だが迷惑です。
最強ポジティブの人にもっとも近距離にいる人が最大の被害をこうむることでしょう。
繰り返しますが、最強ポジティブは本人にとったらいつも上機嫌でいられるため最高です。
1.人間は自分が間違っているかもしれないと考えることから苦しみが始まります。
2.自分のほうが悪かったのではないかと悩むから心を病んだりするのです。
3.他人からの批判を深刻に受けとめ生き方を迷うがために苦悩の連鎖が発生します。
ポジティブの敵は自己批判(1)、罪悪感(2)、無力感(3)と言えましょう。
ちなみにこの3つはうつ病患者がおちいる症状として広く知られています。
逆に言えば、この3つを完全に遠ざけたからこそ彼は最強ポジティブなのです。

もう一度最強ポジティブになる魔法の言葉をおさらいしましょう。
「俺は間違っちゃいない(1.自己批判ゼロ)」
「俺は悪くないね(2.罪悪感ゼロ)」
「おまえはおかしいよ(3.自己絶対視の万能感)」
もし最強ポジティブになることができたら、あなたは常時幸福を味わっていられるでしょう。
しかし、身近な人をうつ病にさせる確率は非常に高くなるのではないでしょうか。
もし家族が自殺してしまったらどうしたらいいのか。
最強ポジティブの姿勢を崩さなければいいのです。
というのも自死遺族の苦しみは主に以下の3つだからであります。
「自分は間違っていたのではないか(助けられたのではないか)」
「自分が悪かったのではないか(あんなひどいことを言わなければよかった)」
「(自殺されるなんて)自分のほうがおかしかったのではないか」
このネガティブ思想は当人をじわじわと自殺の連鎖に誘い込むことでありましょう。

「俺は間違っちゃいない」
「俺は悪くないね」
「おまえはおかしいよ」
この最強ポジティブ思想は個人のみならず集団も選択することができます。
みなさんも最強ポジティブを高らかにうたう、
ある巨大新興宗教団体に心当たりがあるのではありませんか。
その団体に入信してしまえば、当人はこんな幸福なことはないのではないでしょうか。
当人は、です。当人は多幸感に包まれることでしょう。当人はいいのです。しかし――。
破邪顕正(はじゃけんしょう)は怖い言葉とは思いませんか。
邪説を打ち破り、正しきことを顕(あら)わす。
個人や集団はまずなにを正しいと思うか、を考えると破邪顕正は恐ろしい言葉です。
書いてみてわかるということがあります。
以前ポジティブとネガティブの相違を書き出して思ったのは、
自分はつくづくどうしようもなくネガティブな人間だということです。
自分でもいやになるほどくよくよ悩むことがひんぱんにあります。
むかしの失敗を忘れられません。
3、4年まえのしくじりをいまさらワーっと大声を出しそうな勢いで思い出します。
バカバカとあたまをかきむしりたくなります。
ひとりのときならいいですけれど、だれかいたら狂人と思われても仕方ありません。
異常なほど自己嫌悪が強いんです。
文面をご覧いただけたらおわかりになろうかと思いますが、
基本的に偉そうで自己愛が強いにもかかわらず、
どうしてか自己嫌悪のほうも強烈なんです。
謙虚ぶって自己嫌悪が強いなどとうそぶいているわけではありません。
自分が偉そうでプライドも高く自己愛が強いことはわかっています。
それなのにどうして自己嫌悪までこうも強いのかがわからないのです。
自己愛が強いのはポジティブな人もおなじでしょう。
しかし、ポジティブな人は自己嫌悪をあまり感じないはずです。
自己嫌悪が少ないから前向きで明るくいられるのだと思います。
こちらは自己愛があまりに強すぎるから過度の自己嫌悪に行ってしまうのでしょうか。

とにかくネガティブな人間であります。
一方でいまの日本社会はポジティブ一色のような気がします。
常に明るくて前向きな人材のみが是とされる圧力めいたものがあるのではないでしょうか。
ポジティブたれという脅迫のようなものがあります。
就職面接でネガティブなことをわずかでも口走ったら一発で落ちますよね。
実名のツイッターやフェイスブックでネガティブなことを書く人はきっと少ないでしょう。
仕事に関連する実名ブログ(たとえば社長ブログ)
でも気味が悪いほどポジティブ発言ばかりです。
自分は前向きで明るく「できる」人間なのだというアピールがやたら目につきます。
匿名ブログになると一気に愚痴不満悪口が増えるのはポジティブ社会の影でしょうね。
ポジティブ社会の象徴は、作家の乙武くんではないでしょうか。
乙武洋匡とは同年齢で大学の同期でもあるので乙武くんと親しみを込めて呼びます。
(もちろん、あんな偉い先生とはまったく面識がありませんけれど)
「五体不満足」の乙武くんでもポジティブなのだから、ネガティブは人間のクズ。
そういった社会風潮がすっかりできあがっているような気がします。
こういうポジティブ圧力が強い社会において、
ネガティブなものがうまく世間を渡っていくのはかなり難しいのではないでしょうか。
そのように考えるのがネガティブなんだとお叱りを受けてしまうでしょうけれど。

ポジティブ社会が悪いと言いたいわけではありません。
自分もどちらが好きかと問われたらポジティブな人と答えますから。
ネガティブな人といっしょにいるとこちらまでいやな気分になりますよね。
このため、ネガティブな自分から人が離れていく気持もよくわかるんです。
自分もネガティブな人が苦手だから、
人から疎(うと)まれる理由が自分でわかってしまいます。
ネガティブな人は概して嫌われますので、
人に好意を持つのは相手の迷惑になるのではないかと逡巡してしまいます。
要するに自分に自信がない。努力しても道が切り開けるとは思えない。
常にくよくよ悩んでいる。
そのくせ自分勝手でポジティブな人からの忠告や助言を聞き入れないのですから。
「前向きになれ、ポジティブになれ」という極めて正しい、
そのうえ親身なアドバイスに対して「もういい年齢だし無理ですよ」
とネガティブに応じてしまいます。
「どうせネガティブだからポジティブになれない」というのはまさに自縄自縛であります。

言い換えたらネガティブの無間地獄。
ポジティブにバリバリ交友や仕事に励んでいる人に「どうせ死んでしまうんだよ」
なんて空気の読めないことを言ってさらに嫌われることになります。
ポジティブな人から嫌われることでネガティブな人はよりいっそうネガティブになる。
もう怖いものなしのネガティブになった彼は、
明るく前向きに努力している人に「どうせ努力は報われないよ」と声をかけてしまう。
ポジティブな人は耳をふさぐでしょう。聞きたくない。
ネガティブ野郎はネガティブゆえに意地悪な笑みを浮かべ追い打ちをかけます。
「現実から逃げるな。人生は不条理、理不尽、不公平に尽きるだろう!」
あまりのしつこさに怒ったポジティブな善人はネガティブ野郎に言い放ちます。
「おまえは人間のクズだ。もう近くに寄って来るな!」
ネガティブな人はこの言葉に深く傷つき、何度も何度も言葉を反芻(はんすう)して、
傷にかさぶたができたらはがすを延々と繰り返し、
血を見ては怨恨や自己嫌悪を募らせてさらにネガティブに突き進みます。
いやあ、我ながらネガティブな人って救いがなくて笑えますね、あはっ。
実のところ、この自嘲の笑いこそ
ネガティブ重症患者の救いではないかという気が最近しています。救いはあります。
「本の山」のような陰々滅々としたブログをお読みの方は、
きっとネガティブな方が多いのではないかと思います。
ネガティブな人はポジティブになろうとするのもいいですが(むしろベストですが)、
ネガティブを極めるという別の道ももしかしたらないわけではないのかもしれません。
「正しい」という言葉は魔ではないかと思うんです。悪魔の魔。魔性の魔。
たとえば「正しい」は「偉い」と等号(イコール)で結ばれます。
どうして「正しい」と「偉い」ことになるのか。
一般的に東大は「偉い」ことになっているからです。医者も弁護士も「偉い」。
難しい問題に「正しい」答えを多く書いたものほど「偉い」ポストに就くわけです。
このため「正しい」ことは「偉い」ことになります。
地位が「偉い」人は自分を「正しい」から「偉い」と思い「正しい」説教をすることでしょう。

また「正しい」は「おかしい」を作ります。
なにもないところから「おかしい」は出てこないのです。
「おかしい」から「おかしい」ということにはなりません。
なにか「正しい」とされるものがあるがために「おかしい」ものが出現します。
これも東大が「偉い」とされるに至ったのと同様に学校教育が関係しています。
選択肢の問題がありますでしょう。次の中から「正しい」答えをひとつ選びなさい。
このとき「正しい」選択肢以外は間違い、すなわち「おかしい」とされます。
先生が「偉い」とされるのは「正しい」答えを知っているからです。
答えを間違えたものは「おかしい」から、
したがって「正しい」答えを出すまで勉強(努力)を強制されます。
「おかしい」ものは「偉い」人から「正しい」答えを何度も教わることでしょう。
「おかしい」人を「正しい」人に変えることは善行、つまり「偉い」行為と見なされます。

「正しい」ことをたくさん知っている人は「偉い」と一般的に思われます。
ひっくり返すと「偉い」人の言っていることは「正しい」と信用されやすい。
「おかしい」人は「偉い」の反対になります。「偉い」の反対とはなんでしょうか。
偉くない、です。言い換えたら、未熟、下等、下賤、野蛮くらいになると思います。
我われは「偉い」人を尊敬します。
ということは必然的に「おかしい」人を軽蔑することになります。
ときに「おかしい」から嫌い、ときに「おかしい」から憎む。
話が飛躍するようですが、戦争が起こる原理はまさにこれであります。
我が国は「正しい」から我われよりも劣る「おかしい」国を攻撃してもよい。
少なくとも我が国は「正しい」から他国よりも「偉い」はずだと考えます。
こう考えると「正しい」という観念が戦争を引き起こしているとも言えるわけです。
自国が「正しい」なら相手国も同様に「正しい」とは思わない。
自分が自分を「正しい」と思うまさにそのように、
相手も相手を「正しい」と思うだろうとは想像できない。
どうしても祖国が「正しい」のなら敵国は「おかしい」と判断してしまいます

どっちも「正しい」と考えられたら戦争は起こらないのです。
対人関係の戦争、つまり言い争いや喧嘩は起こらない。
そうだとしたら、あらゆる不和は「正しい」がもたらすものなのかもしれません。
自分を「正しい」と思うとき、かならず付随して「おかしい」ものが出現してしまう。
「正しい」は「偉い」から、自分は「偉い」のだと思い上がる。
相手は「おかしい」のだから正されなければならないことになる。
もし「正しい」ことがないのだとしたら「おかしい」ものもなくなります。
みんな「正しい」と思えたら「おかしい」人はいなくなります。
同様、みんな「おかしい」と思えたら「正しい」人はいなくなります。
みんな「正しい」、みんな「おかしい」世界ではだれが「偉い」のでしょうか。
しかし、そんな世界は実現しないでしょう。
ひとりが「正しい」ものなどないと思ったところで意味はありません。
相手および周囲が自分(たち)は「正しい」と襲いかかってきたらどうしようもない。
よく自己啓発本には自分が折れたら相手も折れるなどと書いてありますが、
あれは理想論ではないでしょうか。
こちらが「おかしい」ことを認めてしまったら、
相手は徹底的に「正しい」攻撃を加えてくるのが現実というものです。
勝った、勝った、大勝利、大勝利と相手は喝采を上げることでしょう。
自分(たち)も「おかしい」と謙虚に認めることはまずない。
それどころかおまえは「おかしい」のだから謙虚になれと言ってくるかもしれません。

1.「正しい」=「偉い」→「おかしい」
2.「正義感」=「自己愛」→「大勝利」
3.「正義」=「高貴」→「被差別者」


上記の1は納得できても2、3のご同意はなかなか得られないかもしれません。
あるいは頭脳優秀な方は1から数多くの同型パターンを発見なさるかもしれません。
みんな「正しい」、みんな「おかしい」、
したがってみんながみんな「偉い」ような世界はおそらく今生には出現しないのでしょう。
このため、むかしの仏教者は極楽浄土を考え出したのかもしれません。
娑婆(しゃば)では、ほとんどだれもが他人よりも「偉い」立場にあこがれる。
「おれは間違っちゃいない」「おまえはおかしい」の怒号が飛び交う。
すべての元凶は「正しい」にあるのでしょうが、そうとわかってもどうしようもない。
「正しい」というのは人間が持って生まれた業(ごう)のようなものなのでしょう。
ぼくは努力嫌いなようなことを書いていますが、もちろん努力はたいせつなんです。
よしんば絶対的真理がないのだとしたら、
努力の価値も無価値も同様に重んじられるべきではないかと思います。
「がんばれ」も「がんばらなくていい」も、どちらも正しく、そしてどちらもおかしい。
ぼくが生意気なことを言っていられるのは、
たぶんチョンガー(独身)で子どもがいないからしょう。
もし自分の子どもがいたら、大学卒業くらいまでは、どうしようもなく、
なかば嘘とは知りながらも「がんばれ」と言わずにはいられないでしょうから。
そうだとしたら、ぼくが努力を嫌いなのは、
社会的責任(結婚、子づくり)を果たしていないからなのかもしれません。
しかし、別に結婚しなくてもいい、子づくりは義務ではない、
という考えもかならずしも間違っているわけではないような気がします。
自分を「正しい」と信じるのも、誰かを「間違い」だと批判するのも、
この世にたまたま人として生を享(う)けたものの
かけがえのない一回きりの喜びと悲しみからどこか遠ざかっているのではありませんか。
生きるということは(わかりませんが)、
もしかしたらそういう正誤にはないのかもしれませんね。誤ってもいいのかもしれない。
完全なポジティブがいないようにネガティブだけの人もいないような気がします。
みなみなポジティブ、ネガティブどちらの要素もお持ちではないでしょうか。
わたしもネガティブなことばかり書いているような印象をお持ちの方がおられるでしょうが、
生半可なポジティブをはるかに凌駕(りょうが)するスーパーポジティブなところがごさいます。
恥ずかしながら仏教的いんちき自己欺瞞で、
将来の不安を無理矢理に消し去っているようなところがあります。

実のところネガティブなやつが嫌いというのもよくわかります。
これは書いていいのかどうかわかりませんが、思い切って公開します。
さてさて――。
かの御仁がもういまさら「本の山」なんかお読みでないという前提で書いてしまいますが、
むかしむかし不愉快極まりないネガティブな同世代男性と
(あちらのめったにないご厚意で)お逢いしていただいたことがあります。
なんでもその方のお時間は時給換算すると非常に高いらしいです。
いまさらながら高価なお時間をご提供いただき、本当にありがとうございます。
有名大学卒、一流企業勤務、親は不動産業を営む資産家、
そのくせネガティブな男はいまから老後の計画を立てておられました。

まあ、わたしの百倍、いや千倍は恵まれていると言ってもいいのではありませんか。
ところが、老後の計画まで財テク(株)で決めている同年齢男性は、
どういう文脈からでも愚痴不満しか言わないのです。
いかに自分が不遇かという話ばかりなさいます。
いっしょにいて非常に不愉快でしたね。
なんでもいちばんの悩みは友人がひとりもいないことだとか。
結婚式に呼ぶ(見かけだけの)友人がひとりもいないことを非常に苦にしておられました。

こちらはそれだけ恵まれていたら「友人なんかいなくてもいいじゃないか」と思うわけです。
しかし、当人はブログでも実際逢ったときも愚痴ばかり。
正直あまりおおやけに発言できることではありませんが、
「おまえはネガティブだからダメなんだ」と思いましたね。
高学歴、高収入、一流企業、資産家の彼の腐った根性を叩き直してやりたいとまで思いました。
なんて傲慢でありましょうか。最低ですね。しかし、事実であります。

このため正直、ネガティブなやつが嫌いという方のお気持はとてもよくわかります。
なんだかんだ言ってもこちら中学高校は体育会系(……卓球部、あはっ)で、
先輩の言うことには絶対服従、根性や気合が勝負を決めると浅はかにも思っていましたから。
ネガティブなやつが嫌いという考え方はとてもよくわかるのです。
一般的に、根源的不安が強いものほど、さらには自信のない人ほど、
ポジティブ信仰に邁進(まいしん)するような気がします。
ネガティブなやつを狩りたいお気持、本当によくわかりますですね。
自分が嫌いなものほど自分のことをよく理解できるのかもしれません。
以下、思いつくまま――。

ポジティブ:おれは偉い⇔ネガティブ:ぼくは生きている価値があるのか
ポジティブ:おまえはおかしい⇔ネガティブ:ぼくはおかしいのではないか
ポジティブ:すぐに忘れる⇔ネガティブ:くよくよ悩む
ポジティブ:おれは間違っちゃいない⇔ネガティブ:あれは自分が間違えていたのではないか
ポジティブ:説教が好き⇔ネガティブ:よく反省する
ポジティブ:自己愛、自我肥大⇔ネガティブ:自己批判、自己嫌悪
ポジティブ:悩まない⇔ポジティブ:悩む
ポジティブ:苦悩者を叱咤する⇔ネガティブ:苦悩者に同情する
ポジティブ:もっとがんばれよ⇔ネガティブ:それは大変でしたね
ポジティブ:おれってなんてすごいんだろう⇔ネガティブ:ぼくはどうしてこうもダメなのか
ポジティブ:自分は人生の勝利者⇔ネガティブ:自分は人生の敗北者
ポジティブ:ネガティブなやつは正す必要がある⇔ネガティブ:ポジティブな人が怖い
ポジティブ:躁状態⇔ネガティブ:鬱状態
ポジティブ:努力すればできないことはない⇔ネガティブ:人間は無力ではないか
ポジティブ:自力礼賛⇔ネガティブ:他力にすがる
ポジティブ:おれは強い⇔ネガティブ:ぼくは弱い
ポジティブ:みんなポジティブになれ⇔ネガティブ:ぼくは生きていていいのか
ポジティブ:人生の達人⇔ネガティブ:人生がわからん
ポジティブ:おれの言うことを聞け⇔ネガティブ:ぼくはどうしたらいいのだろうか
ポジティブ:能天気、無思慮、無反省⇔ネガティブ:後悔、自虐、自責の念
ポジティブ:生きているのが楽しい⇔ネガティブ:生きているのが苦しい
ポジティブ:笑う笑う笑う⇔ネガティブ:泣く泣く泣く
ポジティブ:マイナスのことは見ない⇔ネガティブ:マイナスのことばかり見る
ポジティブ:南無妙法蓮華経⇔ネガティブ:南無阿弥陀仏
ポジティブ:友人知人が多い社交家⇔ネガティブ:孤独
ポジティブ:妥協⇔ネガティブ:徹底
ポジティブ:バリバリ、ゴーゴー⇔ネガティブ:やれやれ、シクシク
ポジティブ:長寿、健康、快活⇔ネガティブ:短命、病気、陰気
ポジティブ:現実逃避⇔ネガティブ:現実直視
ポジティブ:人生は努力しだい⇔ネガティブ:人生は不条理、理不尽、不公平
ポジティブ:ネガティブなやつが嫌い⇔ネガティブ:ポジティブなやつが嫌い
ポジティブ:幸福⇔ネガティブ:不幸
ポジティブ:新興宗教⇔ネガティブ:精神科
ポジティブ:多数派⇔ネガティブ:少数派
ポジティブ:自信家、自己満足⇔ネガティブ:自己卑下、自殺志願者
ポジティブ:裕福、名誉、地位、称賛⇔ネガティブ:貧困、無名、下位、批判
ポジティブ:いじめっ子⇔ネガティブ:いじめられっ子
ポジティブ:思いやり、助け合い、絆⇔ネガティブ:人間不信、無関心、孤立
ポジティブ:光、太陽、バラ色⇔ネガティブ:闇、月、灰色
ポジティブ:みんなといっしょ⇔ネガティブ:はぐれてしまう
ポジティブ:なんとでもなる⇔ネガティブ:どうしようもない
ポジティブ:大勝利⇔ネガティブ:地獄

あはは、書き手はどれだけネガティブなんだという話ですよね。
だらだらと意味不明なことを書き連ねましたが、やはりポジティブは正しいのでしょう。
ネガティブなぼくは間違っていると思いました。
ああ、こういう思考法を好むところがネガティブなんでしょう、おそらく。
しっかし、ぼくは正しいなんてポジティブなことはどうにも言えなくて……。
ネガティブな愚者の妄言を最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
……ふうう、はあ、人間そんなもんじゃないかと言われたらたしかにそうなんですけれど、
どうして人は「好き」と「正しい」をどうしようもなく混同してしまうんでしょうかね。
努力が「好き」なのは、それはそれでとてもいいことだと思います(たぶん多数派でしょうし)。
ポジティブが「好き」なのも、まったく責められるいわれはないと思います。
ネガティブのかたまりのようなぼくも、どちらが「好き」かと問われたらポジティブな人です。
実際にお逢いしたらおわかりいただけるでしょうが、ぼくは明るいネガティブですからね。
(違うかもしれませんが、少なくともそうでありたいと強く願っております)
ネガティブの極みのようなことをケラケラ笑いながら言うようなところがございます。
努力が「好き」なのも、ポジティブが「好き」なのもいいと思います。
生まれつきか人生体験ゆえか、
いじけたぼくは小声でこっそり白状するとそれらが嫌いと思うこともままありますけれど。
とはいえ、努力やポジティブが間違っているとはまったく思っていません。

何度でも言いたいのですが努力が「好き」なのもポジティブが「好き」なのもいい。
しかし、努力やポジティブが「正しい」わけではないのではないでしょうか。
年長の方はご存じでしょうが、人生は理不尽、不条理、理解不能ですから、
努力が逆に問題をこじらせることはいくらだってあります。
ポジティブな姿勢ゆえに身近なうつ病の人を自殺にいたらしめることも少なくありません。
努力やポジティブが絶対的に「正しい」わけではないのです。
努力信仰やポジティブ信仰によって苦しめられている人がいくらでもいます。
「好き」なのはいいのです。あなたが努力やポジティブを「好き」なのは構いません。
けれども、断じて努力やポジティブが「正しい」わけではない。
どうしてそうまで(個人的な)「好き」を(全人類的な)「正しい」にしたいのでしょうか。
都合のいいデータだけを集めた科学的知見(らしきもの)を根拠として、
自分の「好き」な考えを「正しい」ものとして思い込む。
自分の「好き」な考えが「正しい」と主張することは、
ほかの考えを誤りと否定断罪する直前まで来ていることになります。

なにゆえ「好き」なだけで満足しないのでしょうか。
自分が「好き」なものを「正しい」ことにしなければ気が済みませんか。
ぼくは「好き」な作家がいますが、しかし彼が絶対的に「正しい」とは思っていません。
仏教の話をしますと踊り念仏の一遍上人が「好き」で、
この2ヶ月以上どっぷり浸かっていますが、
一遍の言うことだけが「正しい」とはさらさら思っていないのです。
どちらかと言えば嫌いですが、日蓮もまた一遍同様「正しい」のではないかと思っています。
すなわち、ぼくの「好き」な一遍が間違っているように日蓮も間違えている。
(くだらない具体例をあげれば、法華経も浄土三部経も釈迦の教えではありませんよね)
あなたが「好き」な対象もぼくの「好き」なものも、どちらとも「正しい」わけではない。
村上春樹を「好き」な人がいくらいても構いませんが、
かの作家が「正しい」と思うのはピントが外れているのではないでしょうか。
どの政治家を「好き」でもいいと思いますが、果たして絶対的に「正しい」ものでしょうか。
あまりに俗なことを申し上げますと視聴率がよかったドラマは「正しい」のでしょうか。

自分を「正しい」と思いたい。これは普遍的なことでありましょう。
しかし、自分の「好き」なものまで「正しい」と言ってしまっていいのか。
たぶん、いくら文字を書き連ねても「好き」=「正しい」と信じている人には通じないのでしょう。
母国をどれほど「好き」でもいいが、故国は絶対的に「正しい」わけではない。
このことにみながみな気づいたら、決して戦争など起こらないのです。
ひるがえって、世界史を振り返ってみますと――。
人生というものは選択の連続であるといえましょう。
就職や離職、結婚や離婚のみならず、毎日の小さな行為でさえ選択の結果であります。
いったい我われはどういう選択基準で行動を決めているのでしょうか。
1.損か得か?
2.苦か楽か?
3.いいか悪いか?
おおよそ、この3つが選択基準になっているのではないかと思います。

たとえば、就職(転職)の場合、こうなります。
1.給料はいくらか?(損得)
2.残業はどの程度か? 有給は取れるのか? ストレス具合は?(苦楽)
3.その会社は有名か? 大企業か、中小企業か?(善悪=世間体)

いま流行っているらしい婚活も同様のようです(女子目線)。
1.相手の年収はいくらか? 貯金はあるのか?(損得)
2.親と同居か? 家族におかしいのはいないか?(苦楽)
3.相手の顔・性格の善し悪しはどうか? 職業はなにか?(善悪=世間体)

ランチの飲食店を決めるのもおなじでしょうね。
1.安いか高いか?(損得)
2.行列するのか? 混み具合は? 待ち時間は?(苦楽)
3.その店の評判はどうか? ガイドブックに載っているか?(善悪=世間体)

世の中そんなものだろう、とみなさんはおっしゃるかもしれません。
さらにこうお怒りになるかもしれません。
なら、いったいほかにどのような選択基準があるというのだ?
損得(自我)、苦楽(自我)、善悪(世間体)を超える基準などあるのか?
「おもしろそうか/つまらなそうか」という選択基準があるではありませんか!
損得、苦楽、善悪(世間体)にとらわれず、おもしろそうだからやってみよう!
就職:給料は安いし、きつそうだし、人にいえない仕事でもおもしろそうだから。
結婚:相手はフリーターで借金があり、顔もよくなく友人には自慢できないけれども。
飲食店:ネットの評判が悪く、メニューもなくガラガラだけど、なぜか気になるから。

はい、わかります。なかなかこういう選択はできません。
どうしても「おもしろそうかどうか?」
よりも損得、苦楽、善悪(評判)のほうが選択基準として勝ってしまいます。
本当は長い目で見たら損得、苦楽、善悪はわからないのですが、
我われはどうしても「おもしろそうかどうか?」では決められません。

大企業に入社後うつ病になったり、あるいはリストラされることもある。
金持でイケメンの次男と結婚しても、相手が破産、病気発症で介護生活になることもある。
評判の高い有名レストランに行っても一見さんは後回しにされることもないとはいえない。
しかし、そうとわかっていても、どれほどあたまで理解していたとしても、
哀しいかな、我われは見かけの損得、苦楽、善悪からなかなか逃れることができません。
「おもしろそうかどうか?」で選択することがどうにもできない。

これはどうしてなのでしょうか?
たぶん我われは自分が「なにをおもしろいと思うか?」をよく知っていないからです。
自分を知らないから、世間のいう損得、苦楽、善悪に振り回されてしまう。
「おもしろいかどうか?」は多少飛躍すると「好きか嫌いか」ではないでしょうか?
損得よりも苦楽よりも善悪(世間体)よりも自分の「好き嫌い」にこだわれるか?
かんたんにはできないことだと思います。
まず己事究明(こじきゅうめい)――自分をよく知らなければなりません。
それから無我(むが)――我(損得、苦楽、善悪)をある程度無くす覚悟が必要です。

このため、恋愛はすばらしいのではないでしょうか?
損得、苦楽、善悪(世間体)を振り捨てて、相手のために尽くしたいと思う(無我)。
朴念仁の野暮天なのでよくわかりませんが、「愛されたい」は恋愛ではないような気がします。
もしかしたら究極の恋愛は片想いではないでしょうか?
さて、恋愛のみならず見返りを求めず対象をどれほど好きになれるか?
もし人が損得、苦楽、善悪(世間体)を超えられるとしたら、
それは「好き」しかないように思うのであります。
反対は比較的理解されやすいのではないでしょうか?
得だけれど嫌いだからやらない。楽そうだけどあれは嫌い。顔がよくてもあいつは嫌い。
いやいや、やはり得・楽・善(世間体)を選んでしまうのが我われかもしれません。

いったいどのくらい「好き=これを自分はおもしろいと思う」に忠実になれるか?
これがありきたりではない自分だけの人生を送るために重要な選択基準だと思います。
もっともよくよく知っておく必要があることは「好き嫌い」などにこだわっていると、
人生で大きな損失を出し、毎日苦しいことばかりで、評判も最悪になる可能性が高いです。
しかし、それでもそれはほかにないあなただけの人生であることでしょう。
さらにいえば、人生では損が得になること、苦が楽になること、悪が善になること、
以上の3つはまったく起こらないというわけでもないような気がなにやらします。
なぜなら、世間も自分も時間経過とともに変化していくからでしょう。
人間は相対的存在(絶対ではない)で世の中は無常であります。
このため損得、苦楽、善悪(評価)はがらりと変わることがなくはないのです。
もちろん、自分の「好き嫌い」も変わっていくことでしょう。

そうなるといったいなにを人生の選択基準にしたらいいのでしょうかね。
「わからない」というのが本当の答えなのかもしれません。
よしんば選択基準がさっぱり我われ人間には知りえないのだとしたら、
どうしたらいいのでしょうか?
まず、あいまいなまま自然に任すという方法があるでしょう。
しかし、ときに最終的な選択を迫られることがあります。
最終的選択とは「賭ける」ことに等しい。「賭ける」しかなくなる。
そのときなにに「賭ける」かです。損得、苦楽、善悪(世間体)、好き嫌い――。
賢明なみなさんはおわかりでしょうが、このとき正解はありません。
表現を換えますと、どの選択肢も正解ということになるでしょう。
どの選択肢を選んでも正解で、同時に不正解なのが人生の「賭け」であります。

とはいえ得・楽・善を選択するのは、あまり「賭け」にはなりません。
どうしてかというとみんな(多数派)がそちらを選ぶからです。
そうなると「賭ける」のが好きか嫌いかという、
「好き嫌い」の問題に結局のところ帰着してしまうのかもしれません。
怖いところは人生のいっときの選択が成功だったか失敗だったかは(かりにあるとして)、
最後まで(死ぬまで)人間にはわからないことです。
死んだあとに結論が出ることもありますから、こうなると本当にわかりません。
ならば、「人生はわからない」ことを心底わかるのが、本物の賢者ということでしょうか?
人に向かって「謙虚になれ」という人は果たして謙虚なのか?
人に対して「あんたは厚顔ね」という人こそ、もしかしたら厚顔ではないか?
人に「相手の立場を考えろ」という人は、いままさにその相手の立場を考えているのか?
人と人の関係ではよくこのようなブーメラン現象が起こるような気がするのだ。
まさしく自分の持っている欠点を相手から敏感に察知してしまうようなところがある。
自分を振り返ってみたら他人になんやかんや言える聖人はそう多くないのではないか?
まったく優等生ぶるようだが、自分を省みるとこの自分こそ、
相手の持っていると思う欠点をむしろ相手よりも多く有しているのである。
自分にその欠点があることを認めたくないから、
相手のおなじ欠点を拡大視してしまうようなところがある。

どういうことか恥ずかしながら説明しましょう。
わたしが偉そうな人間を嫌いなのは、まさにわたしが偉そうだからである。
いまとても偉そうにしている作家先生が、
若いころのエッセイに自分は偉そうにしているやつは大嫌いだと書いている。
その作家と自分がまさしくおなじタイプの人間なんだなとつくづく思うのだ。
大人になりきれていないものほど「もっと大人になれよ」なんていうのである。
彼がまことに子どもっぽく「大人ぶっている」と思うとかわいらしくないこともない。
だから「おまえは世間を知らない」などと人に説教するものは、
まさに自分が世間のなんたるかを知らないのかもしれない(わかりませんがね)。
あるいは、もしかしたら、だれも正しい世間なんて知らないのかもしれないけれど。

これは正確ではないかもしれないが、
自分のコンプレックス(劣等感)を相手に照射するとでもいうのだろうか。
こういうブーメラン現象(鏡面現象)が人間関係のおもしろいところである。
見ず知らずのものに向かって「きみは精神病じゃないか?」とよくいう人が(失礼だよな)、
実のところ長年精神科に通っていたことを最近ご著作を拝読して知った。
また優等生ぶって自己批判をすると、
おそらくわたしが相手の失礼を気にするのは自分自身が失礼な人間だからである。

相手のことを「おかしい」と思ったら、
まず自分が「おかしい」のではないかと疑ったほうがいい。
とはいえ、人間は「自分のほうがおかしい」ということに極限までは耐えられない。
きまじめに「どちらがおかしいのか?」を考えると気が狂ってしまう。
ちなみに精神病患者が長年診てもらっている主治医を「おかしい」と思ったときは、
たいがい病状が相当に悪化しているとき(のよう)だ。
(初診ならば相性がとびきり悪いだけかもしれないのでわかりません)

我われは精神の健康のために、
なるべく「どちらがおかしいのか?」を考えないほうがいいような気がする。
このときの魔法の言葉は「人間はみんなおかしい」である。
「みんなおかしい」のならば、きっと「どちらもおかしい」――。
「どちらもおかしい」のならば、たぶん「どちらも正しい」――。
「どちらも正しい」のならば、ひょっとしたら「絶対的真理はない」のかもしれない。

どうしても納得がいかないときがある。
わたしなぞは半人前、いや半々人前だからひんぱんに生じる(いい子ぶってるなァ)。
そういうときはどうしたらいいか。
「まあ、人間なんて、そんなもの」という言葉はかなりの効き目があるのではないか。
相手が「おかしい」と思ったときは、
少しだけ優等生ぶって「人間、そんなものだよな」と苦笑いしてあきらめるのがいい。
しかし、これがどれほど難しいかは実体験としてよく知っている。
このため、何度も何度も自分に言い聞かせなければなるまい。

「どちらがおかしいのか?」
→「人間はみんなおかしい」
→「どちらもおかしい」
→「どちらも正しい」
→「絶対的真理はない」


いちおう説明しておくと、これは反対方向からも行くことができる。
「絶対的真理がない」ならば「どちらも正しい」――。
「どちらも正しい」ならば「どちらもおかしい」――。
「どちらもおかしい」ならば「どちらがおかしいのか?」という問い自体が成立しない。
よくわからなくなりましたか?
もしこの文章をここまでお読みになって意味がわからなかったら、
「おかしい」のは書き手のわたしのほうだということですな。
いや、本当はペロッとかわいく舌を出すと「どちらもおかしい」のだが。
「まあ、人間なんて、そんなもの」じゃありませんか。
人と人がわかりあうなんてめったにないのだから(そのときも錯覚かもしれない)、
「どちらがおかしいのか?」などと長期間にわたって考えるのはやめましょうや。
ほとんど毎日のように歩いていた道があったのである。
昨年のあれはいつごろだっただろう。11月くらいではなかったかと思う。
いきなり工事が始まって通行止めになってしまったのである。
名目は護岸工事ということらしい。歩行者は迂回(うかい)をしなければならない。
毎日歩いていたから生意気に知ったようなことを言わせていただくが、
たぶん本当は工事をする必要などなかったと思う。
翌年度の予算確保と雇用対策のどちらが目的だったのかはわからない。
どちらにしても「いい」とお役所のお偉いさんは判断したのかもしれない。
工事が終了するのは翌年の3月末日だという。
いつもの道を桜が咲くころまで歩けなくなるのかと突然のことに驚いた。

とはいえ、世の中はこんなものだろう。思いどおりになると思っちゃいけない。
この道路工事でいろいろ金銭が動き、なかには助かったと思う人もいるはずだ。
いちいち不満に思ったところでなにも始まらない。気長に春が来るのを待とうと思った。
ところが、なのである。もうとっくに桜が満開になった3月の終わり、
まだ一部道路の工事は続いていたのである。
立て看板によると最終的に工事が終了するのは5月末日だという。
さすがにがっくりきたが、しかしお上(かみ)に文句を言っても詮ないこと。
こんなものか、いや、こんなものなのだと自分に言い聞かせた。
なにごとも思いどおりになると思ってはいけない。
世の中も人生も他人も、きっと思うようにならないのが当たり前なのである。

その通行止めがようやく本日5月17日解除されたのである。工事終了。
ということは、予定よりも2週間早かったことになる。
以前の道とまったく変わっていないではないか、などと嫌味を言うものではない。
影響を受けたニーチェの言葉にこういうものがある。
「少しいいことがあっただけでも、いっぱい喜ぼう」――。
思っていたより2週間も早く道が通行可能になったのだから、いっぱい喜ぼうではないか。
どのみち人生なんてろくなことがないんだから、
こういう小さな喜びをたいせつにしなかったらすぐに精神を病んでしまう。
道が開けてよかったと歩を進めながらおおいに満足したものである。

がらりと話を変えて人生の道について思ったことを書いてみたい。
よく成功者は「自分は新しい道を切り開いた」と誇るが、あれは実際どうなのだろうか。
というのも、道はまったくのひとりで造ることができるものではない。
成功者は複数のだれかが造ってくれていた道を、
たまたま新しく発見したというだけではないだろうか。
決してひとりで道を切り開いたわけではない。
もちろん、新しい道を発見するのに努力や才能が必要ないとまでは言わないけれども。
たとえばよく知らないが、IT産業の成り上がり者というのがいるらしい。
たしかに立派な人たちなのだろうが、
そもそもITのインフラが整っていなかったら彼らもうまくいかなかったのではないか。

大規模チェーン店の成功も流通のインフラ整備に依存していると言えなくもない。
これはいくらか無関係だが、
田舎に豪邸が多いのは高速道路建設の立退料が高額だったからという話を聞く。
少し話を変えて、たとえば漫画の世界の成功もおなじで、
先人が積み上げた結果を利用して新人は自分の世界を創造しているのである。
努力も才能もあるだろうけれど、断じてひとりのちからだけではない。
映画の世界もそうだろう。
先人のみならずスタッフの犠牲もあって映画監督ひとりが大きな顔をしているのである。
話を元に戻して経済界のことはまったく無知だが、
佐川急便躍進の背景には他の多くのものが成熟していなければならなかったはずだ。
逆も言えて、いまビジネスで成功するためには佐川急便は不可欠だろう。
とはいえ、もし高速道路が建設されていなかったら果たして佐川急便はうまくいったか。
そう考えると、土地成金の農家も佐川急便成功にひと役買っているのではないか。
佐川急便を例に出したのは、
たまたまうちの地区担当のおねえさんとよく挨拶を交わすからいま思い出しただけで、
他意はないと考えてください(だが、ほとんど利用しないのにあの人は偉い)。

いまなんの話をしているかと言うと、成功者さんへのお願いである。
どうか自分は新しく道を切り開いたなどとあまり偉ぶらないでください。
おそらくある成功の裏側には捨て石がたくさんあったのではないかと思うのである。
彼ら成功者のためを(いささか偽善的に)思っても、
成金はおのれを驕って声高に説教などしないほうがいいような気がする。
実証できない怪しげなことを言うが、説教をすると運が落ちるのではないか。
これは具体例でもなんでもないけれど、
10年以上むかし「マネーの虎」というテレビ番組があったそうだ。
不勉強なため(え?)視聴していないが、
なんでも成功者が新参のビジネス挑戦者に資金提供するという番組だったとか。
その代わりに成り上がり者の社長がこれでもかと上から目線の説教をしたという。
さて、「マネーの虎」に登場した社長のほとんどが
この10年で会社をつぶしているというではないか。
むろん、ここから成功者は説教をしないほうがいい、
という結論を導き出すのはひどく強引が過ぎるのは承知している。
おそらく、わたしが偉そうな説教を垂れ流す成功者が苦手なだけなのだろう。
たしかに成功者は説教をする権利があるのかもしれない。たとえば――。
こちらはまだつぶれていないが、某新興ステーキ屋の若手社長さんがおっしゃるよう、
成功者は高額納税をしているのだから発言の権利があるという言い分もわかる。
年少の成功者さんの言葉にはわたしもなるほどと思ったものだ。

そういえばむかしあるところのお偉いさんから「謙虚になれ」「あんたは厚顔だ」
とずいぶん一方的な説教をされた記憶があるけれど(執念深くてごめんなさい)、
あの企業は運を落としていないか心配している。
もっとも「マネーの虎」に出演していたという
国民的女性歌手の息子さん(実際は養子)はかなりの説教好きとお見受けしたが、
いまのところちっとも運が落ちている気配がない。
いわゆる二代目成功者はよほどの強い運を持っているのかもしれない。
最後にいかにも(成功者ならぬ)しもじもの人間らしいひがみを書いておくと、
元イケメン俳優の三田次男氏はとっくに結婚していることを最近知った。
あれだけの黒々としたご立派な経歴をお持ちの三田次男氏だが、
やはり家柄やイケメンは強く、年若い美人さんから愛されているようだ。
さらに女々しいことを書くと、ふたりのあいだには子どもも産まれたという。
元イケメン俳優の三田次男氏を嫌っているわけではなく、ただただうらやましい。
好きか嫌いかを問われたら、どちらかと言えば好きなほうかもしれない。
なぜなら、さすがに三田次男氏は人様に偉そうな説教をしないと思うからである。
最後に繰り返すが、道は自分だけで造ることができるものではないのではないか。
ほとんどだれもが人に造ってもらった道を歩いているようなところがある。
もちろん、海外に移民して開拓に成功したとか、
そういう話になると恐れ多くてわたしごときが絶対に物申せませんけれど。
たとえば寺山修司と山田太一さんの作品が対照的なのは世間知の有無です。
ちなみに当方はこのところ世間をわずかながら知ったので、
基本的に故人はどんなに偉かった者でも容赦なく敬称なしの呼びつけで、
まだ存命の方にはできるだけ氏や「さん」をつけるようにしています。
さて、寺山修司の作品の大半は、世間知らずと片づけられなくもないのです。
だからこそ、当時の若者の熱狂的な支持を受けたわけです。
寺山修司とおなじ競馬文化人と言えなくもない山口瞳(男性作家)のご子息、
山口正介氏は寺山のアングラ芝居の大ファンだったそうです。
このためもあって庶民派作家の山口瞳は寺山の死後、
息子が好きだった作家の痛烈な批判を人気連載エッセイ「男性自身」に書いています。
具体的には、寺山は著作とは異なり大本命の馬券を手堅く買うような男だった。
死人に口なしだから、これに寺山は絶対に反論できないんですね。
それを知った上での山口瞳の暴露は、真偽もわかりませんし相当な意地悪です。
山口瞳は、寺山もしょせんは生活者だったのだとまとめています。
口ではロマンあふれるようなことを言っていたが、実はそうではなかった。
考えてみたらそれは当たり前で、
寺山だって世渡りをうまくやったからあそこまで出世できたわけです。
実際はそれほど世間知らずではなかったのではないでしょうか。

山口瞳は山田太一さんに自著をすべて送っていたそうです(「考える人」)。
まさか子分にしようという気ではなかったのでしょう。
しかし、それでも同族意識はあったのではないかと思います。
山田太一作品のどこがおもしろいかと言ったら世間をよく知っているところです。
つまり、人間はなんだかんだ言っても「肩書、金、顔」だ。
我われは日常から飛び立つことも、世間から逃れることもできない。
山田太一作品は、世間バンザイをやっているわけではありません。
世間をよくよく知った上で、そのおかしみ哀しさを書いていると言えましょう。
ということは、山田太一さんの側にも寺山的な反体制意識があるわけです。
世間というのは体制、もっと極論すれば多数派のことです。
どうしたら世間から叩かれないか。多数派の真似をすればいいのです。
わたしがどうして山田太一ドラマを好きなのかと言えば、
おそらくよほどの世間知らずだからではないかと思います。
山田さんがわかりやすく世間を描いてくれたおかげで、
ようやく多数派の考え方を(おもしろおかしく)知ったようなところがあります。
繰り返しますが、人間なんてしょせん「肩書、金、顔」だよ。
世間とはかなりのところまで、そういうものだと。
これをとやかく言うものは世間を知らない。

ところが、世間を知ればいいのかどうかはわかりません。
寺山はやはり世間知らずだったから、
うまくいったようなところもあるのではないでしょうか。
傍若無人な世間知らずはともすると自信家に見られ、世間の注目を集めるものです。
寺山があれだけ若くしてすいすい各方面で世に出た背景には、
圧倒的な才能のほかに世間知らずが功を奏したようなところもあるような気がします。
とはいえ、なにが「うまくいく」ことなのかはわかりません。
はっきり言えば、寺山のせいで人生の道を踏み外したような人もいたはずです。
寺山の子分のだれもが大学教授になれるわけではありませんから。
ラッキーな成功者と言えなくもない寺山のアジテーション(扇動)を真に受けて、
世間知らずな蛮行をして人生を棒に振ったような当時の青年もいたのではないでしょうか。
むろん、それが悪いことかどうかもわかりません。
きっと失敗者にしか味わえないような人生の触感もあるのでしょうから。
そう考えると、これまた世間知らずが悪いとばかりも言えなくなります。
山田太一ドラマに見られる通俗性がもし批判されるとするならば、
それは作者が事の良し悪しはともかく世間をよく知ってしまったからにほかなりません。
それにこんなことを言ったら怒られるかもしれませんが、
人生の辛酸をたっぷり舐めた苦労人の言うことなんて、
どれもみんな世間体を気にしたものばかりでつまらないんですよね。
そう考えると、もう青年とは言えない年齢ながら、
それでもうまく時流に乗り出世したからこそ(大変な努力もあったのでしょうが)、
山田太一さんの作品の独創が伸びたという可能性も否定できないと思います。

結論は、どっちでもいんでしょうね。どちらも正しいのでしょう。
寺山修司が好きでも、山田太一さんが好きでもどちらでもいい。
両者とも古臭いから嫌い、というのでももちろん一向に構わない。
世間知まみれの常識人も世間知らずの馬鹿者もどちらもいいところがある。
ということは、どちらにも欠点があるということになります。
わたしは相当な世間知らずだから、
山田太一ドラマのおもしろさが人一倍理解できるのでしょう。
かの脚本家も世間知らずの時期があったから、
厳しい自己批判を経て自作を深められたということもなくはないと思います。
わたしが寺山を嫌いなのは、自分と似た世間知らずの悪臭が鼻に突くからです。
まっとうな常識人はかえって寺山の破天荒ぶりに惹かれるのかもしれません。
そして、だれもが寺山修司や山田太一さんのように出世できるわけではない。
そしてそして、きっとそれでも一向に差しさわりはないのでしょう。
というよりも、人生はそんなものだと言い換えたほうがいいのかもしれません。
少しずつ世間を知っているのでしょう。
しつこいですが、世間知を増していくのがいいのか悪いのかはわかりませんけれど。
いや、やはり世間とうまく付き合っていくためにはいいことのはずです。
最後にひとつ嫌味を書いておくと、人にチップを上げるのが大好きだった山口瞳は、
自分が思っているほどに世間をよく知っていたのでしょうか。
そこには人間なんてどうせ金(チップ)だろうという、
逆に世間を舐めたところがあるような気がします。
あるいは、こういうことを書いてしまうのが世間知らずなのかもしれませんね。
5月12日、早稲田大学の大隈講堂におもむく。
目的は、映画上映とトークイベント「帰って来た寺山修司」である。
なんでも全学共通副専攻「映画・映像」特別講義らしい。
入場無料。一般来場可。事前申込不要。
直前までいまさら寺山でもないだろうと行く気はなかった。
ところがイベント前日、ふと思い立って長いこと積ん読していた
「ジオノ・飛ばなかった男 寺山修司ドラマシナリオ集」(山田太一編)を一気に読む。
1日で寺山のテレビドラマシナリオ、ラジオドラマシナリオを計14本、読んだことになる。
(どうでもいいことですけれど、合間に歯医者に行きました)
戯曲よりもさらに一般には読むという習慣がないドラマシナリオゆえ、
おそらくこの本を最初から最後まで読み通したのは日本で千人もいないのではないか。
その千人のうちに山田太一さんと自分がいると思うとなんだかとても嬉しい。

実のところ、恥ずかしながら10年以上まえ寺山修司にはまっていたことがある。
しつこいようだが、恥ずかしながらだ。
相当数の著作(戯曲含)を読み込み、複数の評伝や評論にまで目を通したものである。
ある日、気づいてしまった。
寺山はなにからなにまでインチキの飾りだけで実質というものがさらさらない。
本物からは程遠い偽物だ。
ひとたび覚醒してからは、ほとんど隠したい読書経歴になった。
寺山修司に夢中になった過去をいまでは自分の恥部のように思っている。
過去を作り変えられたらどんなにいいことか。

礼儀正しく開始時間30分まえに大隈講堂に到着する。
なかに入るのは卒業式以来13年ぶりになるはずだが、
あれからずいぶん落ちぶれたもんだとささやかながらみずからを憐れむ。
寺山修司の実験映画(苦笑)「二頭女―影の映画」および「ローラ」は、
まったく期待していなかった。
それどころか、どれほど苦痛なのかと恐れをいだいていたくらいである。
しかし、実際に観たら15分と12分ゆえ、まあ許せなくもないのである。
「ローラ」で客席の男がスクリーンに入っていくところでは
あまりにバカバカしいので不覚にも大笑いした。
笑っていたのはほとんどわたしだけだったから、
もしかしたらみなさん最初からいわゆるネタを知っていたのだろうか。
たしかに過去にいちど観ていたらアホらしいとしか思えないのだろう。

寺山修司の長編映画「田園に死す」は10年以上まえにも観たが相変わらずひどかった。
早く終われと大隈講堂の時計を百回近く見たような気がする。
以前にレンタルビデオでこの映画を観たときも、
あまりにもつまらないので何度も休憩(停止)しながら、しかし、
これは傑作なんだと自分に言い聞かせ忍耐の結果として最後まで行き着いた記憶がある。
正直に感想を言うと、これは客から金を取るなんて論外の作品で、
製作者側が謝礼金を出しても、それでさえも人様に見せるものではないと思う。
繰り返しあくびをしていたら、
まえの中年眼鏡女性がとがめるように何度もわたしを振り返った。
仲良くつるんでいる中年女性三人組のひとりである。
過激な前衛(苦笑)で知られる寺山の作品だから客もその流儀でいいだろうと思い、
十度目くらいに振り返られたときに相手をにらみつけ小声で「なんすか?」と恫喝して、
まえの座席を軽く蹴ったら以後何度あくびをしてもこちらを見なくなった。
(いまでは社会人としてあるまじき行為だったとひどく反省しております。
ごめんなさいです。でも本当の寺山修司のファンなら許してくれるのではないでしょうか)

休憩時間にくだんの眼鏡太目女性からなにか言われるかと思ったら、それもなし。
わたしもいい大人なので、(寺山のように)自分から仕掛けたりはもうできない。
ちなみに上映中、わたしの右横の若い女性はぐっすりお昼寝なさっていた。
正直な反応に嬉しくなり周囲を見回すと、かなりの客が寝ていた。
感想をまとめると、映画「田園に死す」の作者寺山よ「田園で死ね」とでも言うほかない。
まあ、ご存じのようにもうとっくのとうに死んでいるのだが。
天才と一部で言われる寺山の天与の才能がもしあるとすれば47歳で死んだことではないか。
この点だけ、アングラ演劇出身で、
そのくせいまだに自殺もできずにだらだらと長生きして、
古株ゆえの権力を各方面に発揮している長老先生よりよほどよろしい。

トークイベントに脚本家で小説家の山田太一先生が登場したので驚く。
こちらは非常に腰が重く、そのうえ大学教授といったインテリ先生は大の苦手なので、
このような文化行事に参加することはめったにないのだが、
どうしてかそういうイベントにはわたしの好きな山田太一さんが高確率で登場する。
まったく不思議である(あはっ)。
以下、山田太一さんの言葉をわずかながら採録する。
これはわたしがいままで氏の著作からは知りえなかったこと、
および、いまのわたしの問題意識に関係していることのみ。
とはいえ、録音やメモは取っていないので正確かはわからない。
ご存知かもしれませんが、寺山修司と山田太一は大学時代の同期で親友であります。

・スクリーンに寺山と山田さんが書いた大学時代の同人誌が映る。
なんでも早稲田大学の演劇博物館に寄贈されたもののようだ。
言っちゃあいけないのでしょうが、寺山と山田、どちらの字もまあ悪筆である。
わたしは山田太一氏が大好きなので素早く字面を追ったら複雑なのだ。
直後、山田太一先生が自分から言う。
面倒くさそうなことを書いていますね。面倒くさそうな人ですね、だったか。
大笑いさせていただきました。
たしかタイトルは「愛について」(?)。
なんでも武田泰淳についての文章らしいです。
まったく本当に若き山田太一氏は観念語だらけの面倒くさそうな文章を書いていました。

・寺山修司の活躍した一時期に政治の季節があった。
みんなが政治に興味を持っていた時期だ。
しかし、僕(山田太一)は政治は文学と相容れないものだと思う。
というのも、政治は基本、自分は正しい、相手は間違っている、とやる。
自分は正しくて、おまえは間違っている。
それは文学ではないのではないだろうか。

・政治の季節というのは、サルトルの言い出した
「アンガージュマン(社会参加くらいの意?)」の影響が大きかったと思う。
(申し訳ありませんがアンガージュマンと聞いたとき、
あまりの古くささに笑ってしまいました。
恥ずかしい言葉ですよねアンガージュマン! ごめんなさいです)
僕も寺山も政治にあまり深く関わろうとはしなかった。
その点、映画監督の大島渚さんとは正反対である。
もとより、大島渚は文学など目指していなかったのだろうが。
これは最近知ったのだが、
○○(異人さん)が「内面にアンガージュ(参加)する」ということを言っていた。
当時、この言葉を知っていたらずいぶん楽だったのにと思った。
「どうしておまえたちはアンガージュマンに興味がないんだ?」
という問いに「いや、僕たちは内面にアンガージュしている」と答えられていたから。
内面にアンガージュしたい。内面にアンガージュしているのだからいいではないか。
内面にアンガージュする、という方向性が当時(政治の季節)は支持されなかった。

・寺山作品といえばお母さまの影響が大きい。
よく寺山は「過去などいくらでも作り変えられる」と
作品で言っていたが、果たしてどうだろうか。過去は作り変えられるのか。
そう思うのは、過去は、やはり、どうしようもないものだからだ。
「他人は思うようにならない」のとおなじである。
過去とおなじで「他人は思うようにならない」――。
寺山は強烈な母親がいたから、つまり、思うようにならない他人がいたから、
結果として作品に重みが生まれたのではないのだろうか。
過去は作り変えられない。他人は思うようにならない。
しかし、いや、だから、このため寺山の作品にある種の重みがあるのではないか。

・寺山の映画「田園に死す」は最初観たとき「みすぼらしい」と思った。
というのも、俳優が白塗りの顔で出てくるからだ。
演劇だったらいいのだろうが、映画でそれをやったら「みすぼらしい」。
背景の田園風景がリアルなだけに、よけいに「みすぼらしい」と思った。
しかし、あとで見直したら「みすぼらしい」からいいのだと思いを改めた。
「みすぼらしい」からいいのではないか。感動した。
(たぶんいたらないこちらの誤解でしょうが、大人の社交術を学んだような気がしました)

・寺山が死の直前、旧友の山田太一さんに逢いに行ったのは、まあ有名な話だ。
質疑応答で「そのときなにを話したんですか?」という問いが出た。
それこそまさにわたしの聞きたかったことなので嬉しかった。
なんでも寺山は山田さんのお嬢さんのために、何冊かサインした本を持ってきたという。
それから、ふたりで書庫に行ったという。
おふたりとも本が大好きだった。
本のタイトルを見ながらいろいろむかしのことを話したそうだ。
最後に続けて3回逢ったとのこと。
最後は寺山の家にご夫人(山田さんは女房と言う)と招待され食事をご馳走になった。
帰りにはタクシーを呼んでもらった。それが最後だった。

・ほかにもその場にいた人しか知りえないことがあるけれど、わたしは書かない。
大げさでしょうが、究極的には、突き詰められたら、
わたしはオフレコ(そんな大それたものではないのでしょうが)は書かない。
ああ、そうだったのかといろいろ思った。今日ここに来てよかったと思った。

さてさて、話は戻りまして、
最後の質疑応答でわたしも聞きたいことがあったが、手を挙げられなかった。
こちらはもう希望に満ちた学生ではなく、絶望だらけの人生の落伍者ゆえ。
せめて無念を晴らすため、質問したかったことを書いておく。
――自作への批判について、どう対応したらいいか。
今日「田園に死す」を10年ぶりに観てやっぱり下らないと思いました。
寝ている人も大勢いました。
寺山さんはこういう自作批判にどう応対していたのでしょうか。
一方で山田さんは自作批判に対して謙虚に向き合っているような気がします。
しかし、それでは創作ができなくならないのではないでしょうか。

もうひとつ意地悪な質問をしたかった。もちろん、大人だからしなかったけれど。
この文化行事の主催者は元・天井桟敷(寺山設立の過激アングラ演劇集団)で、
現在は早稲田大学教授の安藤紘平氏である。
このイベントのタイトルは「帰って来た寺山修司」だ。
もし寺山が30年後のご自身を見たら、どう言ったと思いますか?
人を人とも思わぬ表現活動で名を馳せた寺山のお弟子さんが
そんなに偉くなっていいんですか?
トークイベントの参加者に、
おなじくむかし寺山の子分で美少年だった(らしい)萩原朔美氏がおられた。
スクリーンの肩書は「萩原朔美(演出家・作家)」となっていた。
安藤紘平氏が萩原朔美氏をこう紹介したのである。
「この方は『演出家・作家』となっていますが、
多摩美術大学教授でもあり、とても偉い人なんですよ」
あろうことか寺山修司のお弟子さんが、こういう発言をするとは信じられなかった。

しかし、といまは寺山が大嫌いで山田太一ファンのわたしは思う。
生きていくとは、そういうことだ。世間とは、こういうものだ。
大学教授のお偉いおふたかた、インテリ先生のおすがたを拝見して、
寺山修司と山田太一の人生をかけての勝負は後者に軍配が上がるのではないかと思った。
むかし寺山の子分(お弟子さん)だった安藤紘平氏と萩原朔美氏が嫌いかといったら、
とんでもない。まったくそんなことはない。
大学教授の安藤紘平氏、萩原朔美氏、どちらも本当に好人物に思われたのである。
かりにわたしが(まさかやりませんが)壇上に上がって唾(つば)を吐きかけても、
いやいや、たとえ小便(おしっこ)を引っかけても、
決してご両人は笑顔を崩さないと思われるほどの人格者とお見受けした。
ならば「帰って来るな寺山修司」ではいけない。
「帰って来た寺山修司」でなければならない。
なぜなら、どうしてご両人が偉いのかと言えば寺山の権威があるからである。
帰って来い寺山修司! 寺山修司を忘れるな!

寺山の奥さんだった九条今日子さんの肩書がプロデューサーだったのはあんまりだ。
どうして日本社会はそんなにまで肩書にこだわるのだろう。
寺山は九条さんを「肩書が女優だったから」愛したとでも言うのだろうか。
ご著作でイメージしていたものと実物の九条今日子さんはまるで違った。
こんな女性から愛された寺山は本当に幸福な人だったのだろう。
最後に書いておく。イベント前日に読了した
「ジオノ・飛ばなかった男 寺山修司ドラマシナリオ集」(山田太一編/筑摩書房)
はかなりおもしろかったのだ。このため、翌日の行動を決めた。感想は後日書きます。
特別講義「帰って来た寺山修司」主催のみなさん、本当にお疲れ様でした。
いろいろ勉強になり、行ってよかったと心底から思いました。
おなじ早稲田大学出身者として偉くなるべくもっと努力しなければと改心しました。
「嘘は本当で、本当は嘘」――これは寺山修司と山田太一に共通する世界観でしょう。
もっとも、こちらが勝手に思い込んでいるだけかもしれませんけれど。