(1)やればできる編
問「どうして人生うまくいかないんでしょう?」
答「努力が足らないんだよ。がんばれ!」
問「やっぱりうまくいきません。どうしてですか?」
答「成功者はもっと努力しているんだ。がんばれ、がんばれ!」
問「うまくいきません(泣く)」
答「みんな努力しているんだ。がんばれ、がんばれ、がんばれ!」
問「――」
答「がんばれ、がんばれ、もっとがんばれ、もっともっとがんばれ!」
問「――」
答「死ぬ気で努力すれば人間にできないことはない。死ぬ気でがんばれ!」
問「やる気が出ない、眠れない、死にたい(=うつ病)」

(2)あなたは特別だ編
問「どうして人生うまくいかないんでしょう?」
答「方法がよくない。成功者がみんなしている秘密の方法が実はある」
問「なんですか、それ?」
答「これは意識の高い人にしか教えられない。本当に知りたい?」
問「はい」
答「特別に教えてあげるけれど情報は無料ではない。コーチング料金は十万円だ」
問「はい、払います」
答「教えてもらうんだから、ありがとう、だろう? きみは感謝の心がないからダメなんだ」
問「ありがとうございます」
答「声が小さい(と叱りつける)」
問「(大声で)ありがとうございます!」
答「よろしい。これでうまくいくから、がんばれ!」
問「やっぱりうまくいきません」
答「方法は正しいんだ。きみの努力が足りないんじゃないか。もっとがんばれ!」
問「ごめんなさい。どうしてもうまくいきません」
答「よし、ならきみにだけ特別に他の人には教えていない方法を教えよう」
問「ありがとうございます。いくらですか? いくらでも払います。ありがとうございます」
答「しかし、結局は努力しだいだよ。がんばれるかい?」
問「はい、がんばりまっす(おめめキラキラ)!」

(3)自分で考える編
問「どうして人生うまくいかないんでしょう?」
答「わかりません」
問「どうしてこうもうまくいかないのだろう(泣く)」
答「お辛いでしょう」
問「どうしてですか?」
答「わかりません」
問「努力が足らないんでしょうか?」
答「わかりません」
問「方法がよくないんでしょうか?」
答「わかりません」
問「いったいどうしたらいいんですか(号泣)?」
答「わかりません」
問「そればっかりじゃないですか(怒る)」
答「(動じず)いっしょに考えましょう」
問「――」
答「――」
問「どうして人生うまくいかないんでしょう?」
答「わかりません」
問「――」
答「――」
問「そっか! 人生、うまくいかないのが当たり前なのか!」
答「(ニコニコ)」
問「そうか、そうだったのか!」
答「自分の答えが見つかったようですね」
問「ありがとうございます」
話すのは苦手だから聞き上手になるしか道はないのだが、
このところマスターしたいと狙っているのは説教や助言を聞き流すテクニックだ。
おそらく人よりよほど人間ができていないためだろう(ま、パンダなんだけどさ)。
最近はむかしほどではないけれど、説教や助言をされるとイラッとくることがある。
いやいや、相手は自分のためを思って言ってくれているのはわかる。
このため、近頃はかなり耐性がついてきたとは思う。
しかし、それでもコンディションが悪いとつい生意気な口答えしてしまう。
概して説教や助言はするほうが圧倒的に(理論上は)正しい。
正しいことを言われるからむかつくのだが、反論したら向こうの思うがままである。
相手はかさにかかって自説をたたみかけてくることだろう。
「そうっすね」「がんばりまっす」くらいに受け流すのがいちばんいいのである。
もちろん、目上の人に「っ」はいけません。「そうですね」「がんばります」――。

結局はこれが双方にとってもっともいいのではないか。
説教や助言はするほうが(高みに立てるから)気分がいいのである。
どうせ「他人は思うようにならない」のだから説教や助言をしないで、
と伝えても通じるわけがない。
繰り返すが、相手は説教や助言をするのが楽しいのである。
だれが自分の楽しいことを人から言われてやめるだろうか。
「はいはい」(はい、は一度でいい!)と聞くしかない。口答えをするな。
そうして黙って聞いていると、もしかしたら相手は気づくかもしれないではないか。
あれ? 説教や助言をしても意味がないのではないか?
こうなったらあらゆる意味で儲けものである。
まず、うざい説教から解放される。そのうえ、だ。
相手がいつもの説教や助言をしなくなったら、今度はなぜかさみしく思うものなのである。
そうすると、ふたたびなにかの折に説教をしてくれたとき、ありがたく聞くことができる。

本当にもう二度と説教をしてくれなくなったら、
そのときはじめて相手の言葉がこちらの心に届くのかもしれない。
とはいえ、そうはいっても、なかなか人は正しいことをできないのだが。
頭ではそれが正しいとわかっていても、人はなかなか行動に移せないのである。
酒をやめられない。煙草をやめられない。自炊できない。掃除できない。
貯金できない。減量できない。嫌いな人を好きになれない。許せない。優しくなれない。
なぜ説教や助言に腹が立つかといったら(これは不出来なわたしだけでしょうが)、
自分でも相手の言うことは正しいとわかっているからではないか。
だから、本当にいいのは、相手がいつもの説教や助言を始めたら、
こちらから、つまり自分から反省の弁を口にしてしまうことなのだろう。
そうしたら相手は言うこと(説教、助言)がなくなってしまう。
しかし、これは諸刃の剣で、後日相手に逆上される恐れがある。
「おまえ、あのとき自分の口から言っただろう」と正しいことを強制されてしまう。
やりたくない正しいことをせざるをえない立場に追い込まれてしまう。

このため、説教や助言はやはり聞き流すのがいちばん双方にとっていいのだろう。
なぜなら説教は、自分が偉くなったような気がして楽しいからだ。
なぜなら助言は、自分が善人になったような気がして心地いいからだ。
しかし、「他人は思うようにならない」から説教や助言をしてもあまり効果はない。
本当は、「他人は」ではなく「人は」思うようにならない、が正しいのだろう。
実のところ「自分も思うようにならない」。
ゆえに何度正しい説教や助言をされても品行は改まらない。
つくづく人(=他人、自分)は思うようにならない。
したがって、ときに説教や助言をうまく聞き流せなくても、
それはそれで仕方がないのだろう。まあ、人間なんてそんなもんさ。
これに関してはいろいろな考えがあるだろうし、
それぞれがそれぞれに正しいとも思うのだが、
わたし個人としては人生に目標などなくてもいいのではないかという立場だ。
まあ、生きていたらいいのではないか。
さらには、どうしようもなくなったら死んでもいいのではないかとさえ思っている。
こちらは未熟な人生体験しか持っていないけれど、もしかしたら「死んじゃいけない」
なんて訳知り顔で言う人は本当の不幸を知らないだけなのかもしれない。
自殺否定者はたまたまいま恵まれているから、そう言えるだけなのかもしれない。
もちろん、違うかもしれないし、それはわからない。
しかし、たとえば自殺したノーベル賞作家の川端康成は、
過去に「自殺は格好悪い」というような文章を書いていることを最近知った。

人生は目標を設定して、その目標をかなえるために努力するのが幸福だ、
と考える人がいる。むろん、間違っていない。
ただし、絶対の唯一解というわけでもない。
人生に目標なんか設定するから不幸になる、という見方も可能である。
出世や成功を目標にすると、目標がかなっていない毎日を不満に思うことだろう。
そのうえ長生きすれば大半の人がわかるはずだが(一生この真実から目を覆うのもいいが)、
努力すれば絶対に出世や成功ができるというほど人生は甘くない。
かりそめ出世したとしても上には上がいるのである。
さらに上を目標に設定するのもいいが、そうすると心休まるときがないではないか。
いったん成功してもまだ人生は続くのである。
成功を維持するのがどれほど大変か、成功とは縁のない大多数は思いが至らない。
そして、ひとたび落ち目になったらどれほど世間は過去の成功者に冷たいか、もである。

目標に到達すればいいのかどうかも実のところわからない。
究極の目標がかなってしまったら、
あとは死ぬしかないというようなところが人生にはある。
目標を低めに設定したらどうか。たとえば、独身者は結婚を目標にしたらどうか。
まあ、結婚はするまでが華のような気もするが、一理ある考え方である。
しかし、求めれば求めるほど目標は遠ざかっていくというところが人生にはないか。
がつがつ婚活をしていると、かえってご縁は遠ざかっていくものである。
どんどん気持はささくれ立ち、豊かになるのは婚活業者の懐だけ、というのが実際では?
努力して異性に気に入られるよう変身しても、どうせ結婚したら化けの皮が剥がれるぞ。

NHKで「ご縁ハンター」というテレビドラマが放送されていたが、
ご縁は捕まえるものではなく、
むしろ反対に、ご縁とは人間が捕まってしまうものなのかもしれない。
あんがい「結婚なんてどうでもいい」と思っていたほうが、
ご縁に恵まれるという可能性は考えられないだろうか。
まあ、思うようにならないのが人生なのである。
結婚しても、つぎは子づくり。
そのつぎは幼児教育、受験、有名私学、成績優秀……と一流企業就職まで目標に切りがない。
息つく暇もないではないか。
かりに子どもがドロップアウトしてしまったら、不幸のどん底になってしまう。
もとから目標が元気に生きていていくれたらいい、ならどんなに気が楽か。
そして、子どもが健康でいるというだけでも実はたいそう恵まれたことなのである。

さて、我われの人生は「目標→達成」の無限ループを課せられてきた、とも言いうる。
目標を持て。その目標をかなえるための努力をせよ。
目標がかなわないのは努力が足らないせいだから、もっと努力せよ。
ひとたび目標に到達したら、もっと上の目標を設定して、
いいか、さらなる高みを目指して努力せよ。もっと、もっとだ。もっと上へ行け。
しかし、どこまで高みに登ろうが結局は死ぬのである。
そんな努力ばかりしていて、果たして一回きりの人生を楽しんだと言えるだろうか。
だがしかし、人生の楽しみ方を知らない人が大勢いるのである。
努力するのが楽しいという優良納税者がわが国には思いのほか多いような気がする。
彼(女)らは目標がなくなってしまったら、
なにをしたらいいかわからなくなってしまうのではないか。
たしかに目標はあったほうがいいのだろう。
結婚や子育て、長生きなどは、なにをしたらいいかわからない人たちのための、
なかなかうまくできた目標ではないかと思う。
とはいえ、だれもが結婚できるわけではない。長生きに興味がない変わり者もいるだろう。

いまわたしは人生の目標のようなものがない。
たしかに人並み(以上?)の欲はあるけれど、それは欲望であって目標ではない。
しかし、人生に目標があるのもまたいいではないか、と最近考えを改めたのである。
そうはいっても、出世や成功を目標にしたら、
人一倍(本当は百倍かな)嫉妬深いわたしは苦しみが増すだけのような気がする。
ならば、人生の目標をこうしたらいいのではないかと思いついたのである。
「身の程を知る」を人生の目標にしたらどうだろうか。
「身の程を知る」ために生きる。「身の程を知る」ためにときには努力しよう。
なかなか悪くないと思うのである。
なによりいいのは、この目標は死ぬまで掲げることが可能だ。
身の程や身の丈はいくら鏡を見ても見えず、結局は生きていくしか知りようがない。
だから、「身の程を知るために生きる」は「生きるために生きる」とほぼ同義である。
いままでの記事からわたしがうつ病に対して偏見を持っていると思われる方が
おられるかもしれませんが、むろんそんなことはありません。
自分だってわからないぞと思うからです。みなさまだってわかりませんぞ。
かぎりなく百%に近い確率で、精神科や心療内科に行き、
最近「やる気が出ない」「眠れない」「死にたい」と訴えたら、
だれでもうつ病になれるような気がします。というか、もうあれは国民病でしょう。
これは笑い話だけど、区でやってくれる35歳検診というのがあります(ありがたや)。
うつ病チェックシートというのがあるのです。
「死にたい」だの「生きる希望が見つからない」だの不穏なことがたくさん書いてあります。
で、なんか自分の心の声を正直に聞いたらぜんぶにチェックを入れたくなりましてね。
結局、どうしたか。ひとつもチェックを入れませんでした。
そんな完全健康な精神状態なんかこの世に存在するはずがないんですけれど。
宮本輝氏の「五千回の生死」ではありませんが、
「死にたい」と「生きたい」はほとんどおなじ意味だとは思いませんか。
死にたい人でも生きたい。生き生きしている人でもどこかで終わり(死)を求めている。
人間とはそういうものではないかとわたしは思っております。

しかし、うつ病だからといって偉いわけではありません。
うつ病は個性でもなんでもない。むしろ、個性からもっとも遠いものかもしれません。
というのも、うつ病患者とは、
精神科医がそう診断した対象というだけのことだからです。ただそれだけ。
ある人がなにかおかしな、いままでとは異なる精神状態になる。
このとき人は病院に行ってうつ病と診断されることで安心する、とも言えるわけです。
沈みがちな人は精神科医からうつ病という出来合いの物語をもらって安心する。
言い換えれば、もやもやしたその人だけの精神状態が、
定型の「うつ病物語」に固定され社会的に認知される。
こうして人は安心して「うつ病物語」を生きることができるようになるわけであります。
我われはわけがわからない自身の状態ほど怖いものはないのです。
このため、病院に行き「説明(物語)」をもらうことで落ち着きを取り戻します。
ネットのどこかでうつ病10周年を自慢している方を見かけましたが、どうなんでしょうか。
さぞお苦しいことかとは思いますが、
言ってしまえば他人の作った「うつ病物語」を10年生きているということです。
もう少し自分の物語を作ろうとしてもいいのかもしれません。
もちろん、20年でも30年でも「うつ病物語」を生きても一向に構いませんけれど。
なぜなら、我われ全員がそれぞれの物語を生きているからです。
だれも「うつ病物語」をバカにすることなどできやしません。
うつ病の方はうつ病のままでいいのだと思います。
たまたま治ってしまうのもいいでしょう。

あんがい「成功物語」や「出世物語」、「肩書競争物語」よりも、
「うつ病物語」を生きている人のほうが幸福かもしれません。
とはいえ、幸福もまた「幸福物語」と物語に還元されてしまうので簡単ではありません。
べつに「不幸物語」や「負け犬物語」を嬉々として生きてもいいのです。
もちろん、「勝利物語」でもいいですし、「大勝利物語」はもっといいのかもしれません。
出来合いの物語をどこかからもらって(買って)きてもいいでしょうし、
反対に苦労して自分だけの物語を作るのも、
たとえるならほかにない「おふくろ料理」のような豊かな味わいがあると思います。
そうはいっても、よほど能力のある人しか自分だけの物語は作れません。
出来合いの物語を生きるのもいい人生ではないでしょうか。
しかし、出来合いが好きな人は自分にこだわる人を攻撃しがちなので注意が必要です。
多数派はどうしても少数派を嫌いますから仕方がありませんけれど。
むろん、出来合いの「大勝利物語」の範囲内で自分の物語を作るのもいいでしょう。
たぶん、どんな物語を生きてもいいのでしょう。きっと、なんだっていい。

最後にみなさまにはどうでもいい自分の話(物語)をします。
いまカレンダーを見て気づいたのですが、もう20日近く咳(せき)が出ます。
おそらく、風邪でしょう。病院には行っていません。
なぜかと言うと、病院に行ったら風邪と診断されてつまらないからです。
えへへ、いま「結核ごっこ」をしております。
知らない人も多いでしょうが、むかし結核は文学病というあつかいだったんです。
繊細で感性豊かな文学の才能のあるものが結核にかかるという見方があったそうです。
当時は治療法がなかった結核の患者は死を強く意識せざるをえませんから、
かならずしも偏見とばかりは決めつけられないでしょう。
これは卒論担当教授の三島賞作家から大学の授業で聞いた話だったと思います。
あれは太宰だったかだれだったか、
ある無頼派作家が結核にあこがれてわざと排水溝の水を飲んだと聞きました。
結核といえば堀辰雄とか、いかにも文学って感じですよね。
ちなみに宮本輝先生も元結核で、このため、ゆえに、氏の作品は純文学なんです。
どこかで読みましたが、いま宮本先生は85歳まで生きることを予定しているとか。
むかしはインチキ文学青年で、いまはゴロツキ文学中年のわたしが、
ゴホゴホ咳込みながらそれでも病院に行かないわけをご理解いただけましたでしょうか。
それにしても咳がとまらない。そろそろ病院へ行くかもしれません。
世間知らずもいいところだけれど、スマホは月5千円も通信料がかかるとか。
外でネットをやるつもりがないのなら、
貧乏人にスマホはお金の無駄ですよって店員さんから言われた(一部被害妄想)。
もちろん、助言にしたがいむかしながらの携帯電話をそのまま利用している。
しかし、いまはスマホがあれば、なんでもその場で解決してしまうのか。
わからないことがあっても、家に帰ってパソコンで検索するまで待つ必要がない。
疑問はいだいた瞬間にスマホで検索したら答えが出てきてしまう。
本当は答えではなく、答えらしき(!)ものなんだけど、
じゃあ、本物の答えはなにかという話になると複雑だからここでは深入りしない。
むかしは疑問が生じたら、人に聞いていたのである(豊かなコミュニケーション!)。
友人が少ない(いない)人や家族と不仲な人は、
自分で書物をひもといて時間をかけて調べるしかなかった。
かつて孤独な人はいろいろあれこれ面倒くさくても自分で考えるしかなかったのである。

いまは友人が多い人も孤独な人もスマホがあれば、ほとんど考えないで済む。
なぜなら考えるというのは、まず疑問を持つことだから。
なんちゃって文化人のように、だからいまの人はいけない、なんて言うつもりはない。
いまの人は自分で考えなくなっているからよくない、なんて言う人の顔を見てみたい。
どうしてかと言ったら、どの面(つら)を下げて言っているのかという話になるため。
本当に自分だけでいろいろ考え始めたら、たぶん発狂してしまう。
それだけ考えるということは(よくわかりませんが)きっと苦しいことなのである。
なるべくなら考えないほうがいい。
考えることは、人を幸福ではなく、大概は不幸にするのではないか。
このため、わたしはスマホも非常にいいものではないかと思う。

とにかく考えちゃいけないんだ!
いままで多忙にしていた人が、
たとえばの話だが、ぎっくり腰で休まざるをえなくなったときなどいちばん危険だ。
それまで考えずに済ましてきたことを、いろいろ考えざるをえなくなるからだ。
人間というのはろくなことを考えないようにできているのである。
これは自己啓発書の古典的ベストセラー、カーネギー「道は開ける」にも書いてある。
人はなるべく考えずに多忙にしているのがもっともいい。
考え始めると、すぐに人生への疑問や不安、恐怖にとりつかれる。
だから、うつ病になりたかったら、じっくり人生について考えてみるにかぎる。
読み手のみなさま、どうか一瞬だけ
くれぐれも用心深くご自分の人生について真剣に考えてみてください。
ほうら、ほうら、すぐにこれまでの人生への無念、後悔、怨恨、
いまの世の中の矛盾や理不尽への憤り、
および将来への不安が駆け足でやってくるのではありませんか。

何度でも強調したいが、人生はとにかくあれこれ考えないほうがよろしい。
ならば、考えないためにはどうしたらいいか。
まずスマホはいい。スマホはすぐに「みんなの答え」を教えてくれるからである。
間違ってもスマホから手を放して「自分の答え」なんて考えてはいけない。
スマホのない貧乏人は家のパソコンでネットサーフィンをしましょう。
それからテレビもいいのではないか。
大人になってもまだできるのであればゲームなんか最高にいいと思う。
映画は、いまはレンタルが激安だ(なるべく芸術映画はやめておこう)。
活字が苦手でなければ、娯楽小説や新聞を活用するのもいい手である。
以下は本当に人それぞれだが、無駄話、噂話、飲酒、賭博、性行為も悪くないのだろう。
日本固有の賭博、パチンコはたいそう評判がよくないのでおすすめはしないが、
それでもよけいなことを考えてうつ病になるよりはよほどましのような気がする。
寝るのもいい。眠れないのなら、いまは内科でもよく効く睡眠薬を出してくれる(らしい)。

ことによったらパチンコよりも危ないかもしれないが、実は宗教もいいとわたしは思う。
ご本尊に向かって1時間でも2時間でもお題目(南無妙法蓮華経)をあげる、
なんていうのは実際かなり健康的な思考停止方法なのではないか(経験はなし)。
新興宗教はいったん入るとなかなか抜けられなくなるが、
いまどき伝統宗教の効くほうがめずらしいような気もする。
浅い勉強の結果だが、宗教は最後の最後で思考停止の一点に到達するのである。
たぶん、どの宗教もそうだ。
最後の一点とは、要するに信じるか、信じないか、である。

考えているふりをするのは知的でいいけれど、本当にあれこれ考えてはいけない。
たとえば読書をするのはいいが、しかし、じっくり時間をかけて感想を書くのはよくない。
古典を読んで自分で考えるなどもってのほかで、
そんなものはいくらでも解説書があるのだから読まないで済ませたほうが健康にいい。
健康にいいとは、精神的健康のことである。
うつ病のなにが苦しいかといったら(経験がないのでうっすらしかわかりませんが)、
たぶん身体が動かないためあれこれ考えざるをえないがゆえの不安や混乱だと思う。
大半の人間の頭脳は考え始めると、
どうしようもない不安や混乱におちいるように設計されているのだ。
身もふたもないことを言うと、
我われのような凡人は(例外的に優秀な自信家さんには失礼!)
考えるといってもどうせ似たり寄ったりのマイナス思考しかできないのである。
だとしたら、最初から考えないほうがいいではないか。
考えることなど深刻ぶった人間嫌いの暇人に任せて(苦しめ苦しめ、考えてもっと苦しめ!)、
我われはなるべく忙しくしていようではないか。
仕事や勉強、趣味娯楽遊興、資格取得、お稽古事、人交わり等に忙しいのは、
よけいなことをうだうだ考えるよりよほどいいとわたしは考える。
いや、そうわたしは思う。あるいは信じる。
これは書かないでおこうと思っていましたが、やはり書くべきなのでしょう。
故障した携帯電話が修理されて、実のところもうとっくのとうに戻っているのです。
1週間以上まえに戻ってきています。
驚いたのは、データがまったく消えていなかったことであります。
9割方データは消えると思っていてください、
とショップの店員さんからは言われていましたが、にもかかわらず。
そりゃあないだろう、なんて思っちゃいました。
すっかりデータは消えていると思って、たいへんいい気分の甘い感傷に酔ったのです。
これでひとつの季節が終わったのだの、すべては移ろいゆくだの。
さようなら、さようなら、むかしの人たち、なんて。

おいおい、ちょっと待てよ。データが消えていないって、どういうことだよエーユー。
かといって、いまさらデータを消してくださいとも、
消去法を教えてほしいとも……う~ん、思っちゃいけないのでしょう。
わが人生観は「(人生は)絶対に思うようにならない」ですが、
まさしくこれがプラスの意味で証明されたわけで。
しかし、どうしてデータが消えていないとプラスになるのかはわかりません。
あまりにマイナスの美をわたしが好みすぎるのかもしれません。
そういう事情なので旧友知人のみなさん、データが消えなかったので、
いきなりわたしからの連絡があるかもしれませんからご用心ください。
いやあ、できませんけれどね、実際は。

最近ふと気づいたことがあります。
近所に花見スポットがあるので花見客をよく目にします。
嫌いじゃないんです。
屋外で人様がお酒をのんでいい気分になっているのを見るのは悪くありません。
しかし、自分がそこに入りたいとは、いまはもう思わないのです。
それどころか、こうさえ思います。
もしわたしが他人だったら絶対に自分なんかと花見をしたがらないだろうなと。
自分が少しばかり見えてきたのでしょう。
我われは体験というものをそのままでは味わえないようにできているのかもしれない。
体験を物語らないと体験の中身どころか輪郭さえ把握できない。
とはいえ、体験と物語はそのまま等号で結ばれるものではないから困るのである。
「体験=物語」ではなく「体験→物語」という関係にある。
このため、ある集団がひとつの体験を共有したとしても物語はさまざまとなる。
わかりやすい例をあげれば、離婚調停のとき、
長年ともに歩んできたはずの夫婦の言い分(物語)はまったく相容れないものとなる。
これはこうだと絶対的に定義できる体験などもしかしたらないのではないか。
しかし、我われの多くが過去の辛い体験に苦しめられている。
トラウマと言うほど大きなものでなくても、
あの体験さえなければと思っているものは多いと思う。

実のところ、それは体験に苦しめられているのではなく物語に苦しめられているのだ。
「あの体験さえなければ」という苦しみは、
実際はかなりのところ自分で創った物語に我ながら痛めつけられているのである。
物語という以上は、絶対的な真実ではない。
ところが、不幸な人は、あれ(体験)は絶対的な真実だとだれもが強調するだろう。
その体験の実相がたぶん物語にしかすぎないことになかなか思いがいたらない。
そうはいっても人はみな物語を生きているから、
その物語を喪失したら生きる張りがなくなって無気力におちいる危険性もある。
最悪の場合は自殺さえ起こりうると思う。
不幸な「体験→物語」が生きる支えとなっているものも、
愚かな自分を省みて少なくないような気がする。

物語はたいがいどれもが陳腐なのである。
いや、陳腐ではなく普遍的であるという見方もできるだろう。
果たして水戸黄門の物語は陳腐なのか普遍的なのかはわからない。
このときの物語とは、自分が善でだれかが悪だというお話のことだ。
「親が悪い」「教師が悪い」「周囲が悪い」「世の中(社会)が悪い」「運が悪い」――。
要するに被害者意識のことである。
かなりの人格者でも「あいつだけは許せない」というお話を持っているのではないか。
人生は教科書通りにはいかないから、
本来持つべきではないとされる恨みがガソリンとなって人を成功へ導くことも多い。
かといって、これまた教科書通りとはいかず成功が本当に幸福かはわからないのだが。

我われの多くが過去の体験に苦しめられている。
嬉々とした苦悩というものもあるのだろうからいちがいに是非を決められない。
というのも、愚痴をだれかに語る(物語!)喜びを知らないような聖人は少ないだろう。
人生には苦悩が絶対と言っていいほど必要なのである。
いくら健康によくても塩がまったく入っていない料理は食べられたものではない。
とはいえ、あまりに塩辛い人生というのもよくない。
不幸な「体験→物語」に苦しんでいるものに果たして救いはあるのか。
わたしはあると思う。救いはある。なぜなら生きていたら未来があるからである。
物語に未来を入れると、そのお話の毒々しさはかなり消えるのではないか。
いわゆるポジティブ・シンキング(前向きになれよ!)である。
ところが、このインチキくさい前傾姿勢を嫌うものもいる。
はっきり言えば、このわたし自身が嫌いだ。ならば、もう救いはないのか。
いや、まだ救いはあると思うのである。これまた未来が関係する。

未来は文字通り未だ来ぬものである。これはどういう意味か。
未来とは、なにが起こるかわからないということである。
もちろん、禍福のいずれが起こるかはわからない。
しかし、マイナスのことばかり来ると決まっているわけではない。
マイナスが来るかプラスが来るかわからない。人はそれを知りえない。
未来において我われは新たな体験をすることだろう。
こう考えたとき、人は物語を変えるチャンスを与えられているのではないか。
未来においてではなく、いま物語を変えることができる。
わかりやすく書くと以下のようになる。

「過去の体験→物語」→「過去の体験+未来の体験(=わからない)→新しい物語」

俗な言い方をすれば、人はほとんどかならず変わるということだ。
この将来における変節に肯定的になってみたらどうかと思うのである。
変節漢は悪人だと言うならば、我われのほとんどが悪人なのである。
悪人であるがために希望がある、とも言いうる。
人生における先行き不明は、
あるいは不安要素ではなく、むしろ安心要素になるのではないか。
かならず変わるのだとしたら、いまどれだけ苦しんでいてもいいことになる。
安心して苦しめばいい、という考え方もできるのではないか。
人を恨みたかったらたっぷり存分に心行くまで憎んで不幸になればいい。
どうせその不幸も10年、20年は続かないのだから率先してトラウマにこだわろう。
被害者意識を満面にさらけだし、常に悪口と愚痴を絶え間なく吐きだそうではないか。
善人ぶりたがるから苦しみが増すという面もあるのではないか。
いや、あなたは常に絶対的善で悪いのはあなた以外のものに決まっている。
それでよろしい。しかし、そのままで希望がある。
だから、そのまんまでいいのである、きっと。
いまから4年まえのテレビドラマに山田太一脚本の「ありふれた奇跡」がある。
若輩無名のわたしなぞが
山田太一先生のドラマを語ってはいけないという声も多く耳にする(幻聴?)。
しかし、同年代同世代にもかの脚本家のドラマを好むものがいるのだ。
いつだったか(記憶をたどると3年まえでした)、
山田太一ファンクラブのようなものに誘われ(ありがとうございます)、
参加させていただいたことがある。
そのとき、まあ同世代と言ってよい北海道在住の女性と意見が一致したのである。
あまりおおやけに表明できることではないが、
山田太一さんのドラマでいちばん好きなのは「ありふれた奇跡」。
「ふぞろいの林檎たち」や「男たちの旅路」もいいが「ありふれた奇跡」はもっといい。
これは我われがいま(当時!)を生きる若者(?)だったからだと思う。
そのとき(=いま)を生きるものしか理解できないドラマがあるのかもしれない。

こっそり告白すると、わたしがいちばんと思う山田太一ドラマは「ありふれた奇跡」だ。
むろん、これは当時の生活環境が大きく影響しているので断じて絶対的なものではない。
「ありふれた奇跡」放送時は、まさかいまこうなっているとは思いもよらなかった。
あらゆる面においてである。映像状況もふくめてだ。
だからだから、「ありふれた奇跡」はすべてVHSビデオに録画した(DVDではない)。
ところが、である。
さっき調べたら「ありふれた奇跡」はいますべて無料でだれでも見られるようだ。
「ありふれた奇跡 動画」で検索したら実際に視聴できた。
いま第一話を見ているが、見ているのはドラマではなく当時の自分なのかもしれない。
あのころのことを見ているような感興がまざまざとあった。
いまさら気づいたのだが仲間由紀恵がこういっている。「聞こえているかもしれないわ」
祖母を演じる八千草薫との会話においてである。
芥川賞作家で紫綬褒章作家の宮本輝氏のみならず、
山本周五郎賞作家の山田太一さんもまた、
いまの物語において、若い女性のセリフの末尾に「わ」をつけていたのである。

まったく本当に女性が発言の最後につける「わ」はいいと思う。
そういう人といつか逢えたらと思う。むろん、老女と逢いたいわけではない。
思えば「ありふれた奇跡」放送時が、いまのところわが人生でもっとも幸福であった。
調べてみたら、わたくしがはじめてくだらぬ読書感想文をネット上に公開したのは
10年前の7月末日だったようです。
ということは、もうすぐ10年になるわけであります。
10年間にもおよび読書を繰り返し、だれにも読んでもらえない感想文を書いてきました。
ならば、もうそろそろ真実を語ってもいいのではないでしょうか。
10年ものあいだ本ばかり読んできたものが、やけくそで真実をいってしまおう。

読書は人生の役に立たない!

証拠はおれを見ろ、であります。
この失敗続きのおよそ成功とは縁のない人生をどうかご覧ください。
人格向上なし。対人関係向上なし。
わかりやすくいえば、さっぱり女からもてないし、金もさらさら儲かっていない。
完全敗北者のわたくしが他人様と異なるところなど、読書が好きかどうかくらいです。
「本の山」などにこだわってしまったから、かくも人生に負けたのでしょう。

今日は4月1日。キラキラした新社会人を多く見ました。
人生失敗者のわたくしが若者にいいたいことがあるとすれば、本を読むな、であります。
悪い大人にだまされて読書などしてはいけませんぞ。
しつこく若い人に申し上げたいのは、本など読むなかれ。
証拠はわたくしであります♪ こうなってはいけません、いけません、いけませんぞ♪