3月19日、銀座と並んで嫌いな街である渋谷に山田太一さんの講演を聞きに行く。
会場はさくらホールで後援は婦人之友社、お題は「いま生きているということ」。
以下に講演を再現するが、テープを取っていないので正確かはわかりません。
参考にするのは走り書きしたメモのみ。
もしかしたら話者が語っていないことまで聞き取っているかもしれません。
しかし、それも山田太一先生のお言葉ということでかなりの価値を持ってしまう。
この危険性をよくよくご了承のうえ、どうか記事をお読みください。

――(壇上に立って)僕は今年もう79歳になりますので(後ろの椅子を指し)、
もし倒れたらあれに座ろうと思って、置いてもらっています(場内笑い)。
婦人之友さんにはまえからお世話になっているため、この講演を引き受けました。
童話を書かせていただきました。
童話なんて書いたことがなかったんですけれども、
3人の子どもを育てたんだから書けるでしょうと言われまして、
そう言われたら書けるような気もいたしまして。
童話というのは難しいのですね。何歳の子どもを対象にするかということがあります。
3歳か6歳か、それとも小2から小3かでまったく違ってしまいます。
で、自分の子どもを育てたむかしのことを思い出そうとするんですが、
忘れているんですね(場内笑い)。いろいろなことを忘れてしまう。
いまは自分に自信がないときで、果たしてみなさんのためになることを話せるか。
ちょっと自信がありません。

ふたつ、若いときの体験を話そうかと思います。
戦争中、食べ物がなくて疎開していました。
疎開には縁故がいるところに行く場合と、そうではないものがあります。
僕のうちの疎開は近隣に知り合いがいません。
そうすると食べ物がないんですね。
高校のころ、よほど顔色が悪かったんでしょう。
後年の同窓会で「おまえ栄養失調みたいだったぞ」と言われましたですね。
母の実家が栃木にありました。お正月だけはお米を食べたい。
そういうことでお米を姉と僕とでもらいに行ったんです。9歳のときでした。
お米をもらって帰りの途中の駅で警官による闇米の取り締まりに遭いました。
みんなどうせ取られるからと思って、
網棚にあるものを、あれは私のもんだと言わないんですね。
姉が警官に、こういう事情があるんだと説明しました。
これは闇米ではありませんと。
すると、警官が逃げろと言うんです。ここからこうして逃げろ。
姉と僕は言われた通りに逃げました。
壁に隠れて見ていると、捕まった人はそのまま米の配給所に行列して行きます。
いちいち回収するのは面倒だからそうするんでしょう。

僕は長いこと、この体験に縛られていたようなところがありました。
はみ出さない人はダメだ。組織のなかからはみ出すような人がいいんだ。
この体験が自己形成におけるかなり重要な役割を果たしました。
組織からはみ出さないやつはダメだ、なんてほとんど固定観念でしたね。
ところが、あれは50代のころだったでしょうか。ある本を読んだんです。
それは警官のマニュアルのようなもので、書いてあるんです。
取り締まりのときでも、あまりにみじめな子どもは許しなさい(場内笑い)。
ちゃんと上から通達が出ていたんです。
あの警官が親切だから逃がしてくれたわけではない。
考えてみたら、ほかにも警官はたくさんいましたから、そんなことできないんですね。
あれはひとりの警官がはみ出したわけではなく、そういうシステムだった。
現実ってやっぱりそんなもんなんだな。
体験なんてあてにならないものだとえらいショックを受けましたですね。
長いこと頼りにしていた体験が、実はそうではなかったわけですから。

もうひとつの体験は、むかし身障者からインタビューをさせてほしいと言われました。
身障者のミニコミ誌からです。
これは失礼な話なのでしょうが、
いままで縁がなかったので僕のほうも身障者に好奇心がありまして、
いいですよと答えました。
渋谷の喫茶店で逢ったんですが、車椅子がふたつもみっつも入るとなると、
ほかの椅子をぜんぶどかさないといけないんです。そうしないと車椅子が入らない。
写真は脳性マヒの人がぶるぶる震える手でカメラを構えて撮っていました。
指がぶるぶる震えるから、なかなかシャッターが押せないんですね。
自分がいかに身障者のことを知らないか思い知らされました。
インタビューが終わってからお願いしたんです。
駅まで一緒に歩いていいか。後ろから車椅子を押させてもらいました。
すると危なっかしくてしょうがないって、さんざん車椅子の人に叱られました。
段差があるとき車椅子を持ち上げなければならないでしょう。
それが僕は下手だって(場内笑い)。

これをきっかけにして身障者の人たちと3年つきあいました。
当時はいまとは違って、身障者は外に出ると迷惑と言われていたんですね。
うちにいるしかない。家に閉じこもっているしかない。
いまは違うんでしょうが、人気のある映画に行っても、車椅子が入ってくると迷惑だ。
もっと空いているときに来い。こんなことが当たり前に言われていました。
その前提にあるのは、世間の考え方でした。人に迷惑をかけてはいけない。
世間ではこれが正しいことになっていました。しかし、本当にそうなのだろうか。
身障者の人たちから、ドラマでやってくれないかと言われました。
身障者の人が、人に迷惑をかけてもいいんではないか、と主張する話です。
しかし、僕はそれは違うと思いました。
身障者の人が世間に向かって、人に迷惑をかけてもいいと言ったらドラマにならない。
自分で言うなって話ですからね。
だから、僕は健常者が言うことにしました(「男たちの旅路」の鶴田浩二のこと)。
健常者が言う。迷惑をかけてもいいんじゃないか。
そのドラマの最後でこういうシーンを書きました。
駅で車椅子の少女がひとりで上に行こうとする。
いまと違ってエレベータやスロープはありません。
「どなたか上にあげてください」と車椅子の少女が知らない人にお願いする。
それを母親やおなじ車椅子の仲間が隠れて見ているんですね。
少女の声がだんだん大きくなっていく。どなたか私を上にあげてください。
すると、あげてくれる人が現われます。
いまと違ってテレビドラマにまだ影響力があったのでしょう。
このドラマが放送されてしばらくは実際にそういうことがあったと聞きます。
僕は、このドラマは成功した、なんて思っていました。

その後、身障者の運動が盛り上がりました。
大阪の地下鉄にエレベータができたという話を聞きました。
すると、車椅子の人は「あげてください」なんて言う必要がなくなるんですね。
エレベータに乗れよって話で。いまはホームでも駅員さんがあれこれやってくれます。
時代の変化がすごいなとつくづく思います。

むかし九州を舞台にしたドラマを書いたことがあります。
気の弱い青年が自分の弱さを克服するという話を書きたいと思いました。
どもりの人を主人公にしました。
どもりの人はカ行が言いにくいらしいのですね。カッカッカとなってしまう。
そこで九州でいい駅名はないかと探して春日原を見つけました。
むかしは自動券売機なんてないから駅員に春日原までください、と言わなければならない。
最初は春日原が言えないで歩いて家まで帰ってくる。
ドラマの最後で自分の問題を克服した青年が、
駅員にどもらずに春日原まで一枚と言って話が終わります。
しかし、いまは券売機があるから、このドラマはできません。

時代の変化がいい方向にとても激しいですよね。
商業主義もあるのでしょうが、
どんどん際限なく便利さや豊かさを追求するようになっています。
早ければ早いほどいいだろうということになる。
早いほうがいいなら、人と人の交流なんて時間がかかるからないほうがいい。
さっきのドラマの話ですが、
いまのどもりの人はなかなか気持を克服できないのではないでしょうか。
便利だと、心を育てられないところがあります。
心のひだがどんどんなくなってしまうと言いましょうか。
いつだったか、急行のとまらない駅に座っている人ってかっこいいなと思ったんです。
そういうドラマを書きたいと思いました。
小さな駅で急行がとまらないために、だれかとだれかが出逢う。
まだ書いていませんから、だれでもいいんですよ(場内笑い)。老人でも若者でもいい。
で、ドラマの最後におなじ駅で、ふたりが急行がとまらないでよかったねと話す。
その横を急行が、こう、びゅーっと通り過ぎていく(場内笑い)。

NHKのアーカイブスでショパンの特集を見ました。
ピアニストの仲道郁代さんがこういうことを言っていました。
ショパンが弱く弾けと書いてあるところを、
時代とともにどんどん強く弾くようになっていく。
弱く弾くところをみんな強く弾くようになっている。なぜなのか。
ショパンは、すごい不自然な弾き方を要求しています。
なんか指をこうやって、人差し指のつぎに中指をこうして(身ぶり)。
その弱い音はショパンの時代のようなサロンなら聞こえますが、
いまのようなホールだと音が小さすぎて聞こえないんですね。
だから、だんだん強く弾くようになったのではないか。
こういうショパンの話をテレビで知って僕はおもしろいと思いましたですね。
風鈴の音なんかもそうではないでしょうか。
5、6人なら小さな音も聞こえます。
しかし、大勢をまえにしたら小さな音のよさ、余韻は消えてしまいます。
小さな音を大きくすると音の質が違ってしまう。
ショパンのニュアンスが消えてしまう。本来の目的が変わってしまう。

新聞で読みましたが、渋谷の駅も新しくなりましたでしょう。
(このへんは聞き手がまったく無知無関心で調べるのも面倒なので多少はしょります失礼)
なんでも湘南新宿ライン(?)だと池袋から横浜まで35分。
東横線(?)だとだとおなじ池袋から横浜までが38分というんです。
わずか3分の違いなんですね(場内笑い)。
3分なんかどうでもいいじゃないですか。そこまで速さを追及することはない。
たしか金額が違って東横線のほうが安いのでしたか。
ならこの話に関しては、我われは安いほうに乗ればいいのでしょうが(場内笑い)。
少し不便なほうがいい、ということはないでしょうか。
せっかく横浜まで行くのだからゆっくり行ったほうが楽しいというような。
そう考えて行くと、横浜のほうがちょっと時間の流れが違う、
なんていうことにも気づきやすくなるのではないでしょうか。
いまは日本全国ほとんどどこに行っても駅前にあるのはチェーン店ですよね。
どこもぜんぶおなじになっています。
もちろん、チェーン店は安くて味だって変わらないからいい面もあります。
しかし、どこに行ってもうちの近所と変わらないのではやはりつまらない。
社会が成熟すると、不便を指向するようにならないか。
そんなことを僕は思いますですね。
30分で行けるところに、あえて1時間かけて行くのもまたいいじゃないですか。
ゆっくりすることのよさがもっと見直されなければならないと思います。
そんなことを言っても、
僕もせっかちだから半蔵門線ではもちろん急行に乗りますけれど(場内笑い)。

都会に住んでいるとそうなりますよね。
僕はハワイに住んでいる友人から教わりましたですね。
ハワイである日、公園に連れて行かれたんです。
友人は葉っぱを一枚ちぎって、これを嗅いでみろと言います。
顔を近づけると、葉のにおいがムッと迫ってきます。僕は友人にこう言われました。
「草のにおいなんてもう10年も嗅いだことはないでしょう」
本当にまったくそうだと思いましたですね。
都会に住んでいると、本当の生活から離れてしまっている。
こんなんじゃいけないんではないか。
もし無人島に流されたら僕なんかすぐに死んでしまうんじゃないか(場内笑い)。
ジャングルでひとり取り残されたら果たして生きていけるか。
都会に住んでいるとどんどんダメになっていくような気がしました。
しかし、実際に無人島に流れ着くことがあるかといったら、
そんな機会はまあないんですね(場内笑い)。
ジャングルに取り残されるような機会もないだろう。

現代の流通経済では、
木を切ったことのない人が家を買うということがいくらでも起こります。
なんでもかんでも自分でできるわけじゃない。分業しているわけです。
田舎がいいという単純な話ではありません。
田舎へ行って自分で家を建てて自給自足することばかりがいいわけではない。
都会はダメだ、田舎はいい、なんて言うけれどもそう簡単ではありません。
森や田舎の大変さを忘れてはなりません。
ノミやシラミがいます。むかしはノミやシラミがたくさんいて、
僕なんか寝ながら殺していましたが、いまはそうはいかないでしょう。
だから、田舎がいいばかりではない。
やはり都会もいいものである。スイッチを押したら電気がつく。
暑いときにはエアコンがあります。郵送物もすぐに届く。
自分でやる代わりにだれかがやってくれているから、この豊かさがあるわけです。
田舎がいいというのも間違っていませんが、
しかし都会の豊かさ素晴らしさにも、もっともっと意識的になるべきではないでしょうか。
コンビニに行けばなんでもあるし、都会に住んでいるのはいいことです。
電車が時間通りに来るのも考えてみればすごいことです。
いまは2分遅れたくらいで、とても謝罪しますよね。遅れて申し訳ありませんとか。
たかが2分遅れたくらいでそんなに謝る必要はないと思いますが(場内笑い)。

実際に渋谷に住んだらまた意見が変わるのでしょうが、
渋谷に住んだら劇場、映画館、デパートがそこらじゅうにあるわけでしょう。
そういうものが隣にあったら日常になってしまってつまらないのではありませんか。
これは住んでいないから言えるのでしょうが。
しかし、僕は川崎ですが、少し不便なところに住んでいるのもいいと思いますね。
川を越えて渋谷に来るのがいい。
僕よりもっと不便なところに住んでいる音楽家の家を訪問したことがあります。
駅のホームでその人がのんびり僕を待っているんです。麦わら帽子をかぶって。
その麦わら帽子を見てかっこいいなと僕は思った(場内笑い)。
僕も麦わら帽子を買おうかと思いましたもの(場内笑い)。
渋谷はいまビルがすごい建っています。
ビルのなかのテナントもお客が来ないとなると、すぐに変わってしまう。
そういうものなのでしょうが、それで本当にいいのかとも思いますですね。

この10年の大きな変化といったら老人が長生きしだしたことではないでしょうか。
僕なんか50代の終わりのころには、
そろそろこのへんで死ぬのかな、なんて思ったりしましたが(場内笑い)。
老人がどう死ぬか、というのがいま問題になっているような気がします。
お金があるならば、それはそれでいいのかもしれないけれど。
このまえNHKでお年寄りの特集を見ていたのですが、胃ろう。
胃ろうってわかりますか? 胃にこうして管を通すやつです。
僕なんかは胃ろうをしてまで生きたいとは思いません。
しかし、テレビで胃ろうをしている老人に質問するんです。
すると患者はなんと答えたか。「もっと生きたい」と言うんです(場内どよめき)。
驚きましたね。
僕は他人事だから、胃ろうをしてまで生きたくないと言うのかもしれない。
人間ってわかんない。わかんないから困っちゃう(場内笑い)。

ドラマのよさは、人間はこうだと言わなくていいところです。
そこが論文と違うところです。ドラマは結論がなくてもいい。
(なかばやけくそのように)この講演だって、僕はなにを言いたいんでしょうかね。
不便はいいけれど便利もいい。田舎もいいが都会もいい。
渋谷もいい。川崎もいい。古いものもいいし、新しいものもいい。
みんないいって言っているようなもんです。結論なんてない。みんないい。
みんないいで終わるとみんないい(場内一瞬混乱後すぐに爆笑する)。

僕が老人だからですけれど老人に関心があり取材をしました。
いまの認知症老人がどうなっているのかデイサービスなど取材させてもらいました。
芝居をひとつ書こうと思ったんです。
1月に俳優座ですることになりました(「心細い日のサングラス」のこと)。
お正月だから陰々滅々(いんいんめつめつ)だと困ると思いました。
未来のない老人にそれでもなにか救いのようなものはないか、という話です。
11月が締切だったんです。一幕目はとんとんと書けました。
ところが、終わりの15分前くらいで行き詰ってしまう。
いったい老人にどういう救いがあるのか。
まず自分が慰められなきゃいけないでしょう。
しかし、どう考えてもALSという難病を抱えた老人に救いがないんですね。
どうにかしてある種の普遍性を持つ、老人を励ます話を書けないか。
書けないんですね。本当に書けなくなりました。こんなのははじめてです。
もう年なのかなとさすがに思いました。寝ても夜中に目が覚めて起きてしまう。
1週間だけ締切を延ばしてもらいました。
お正月といってもすぐにやるのではなく9日からなので、
なら1ヶ月の稽古期間を考えても1週間はいいんだと思ったりして。
それでも一幕目だけ先に稽古に入ってもらったのでしたか。
(以下、山田太一先生のお話が多少混乱してきます。
いくぶんこちらで整理することをどうかお許しください)

文字で書いたものというものがあります。
その反対に歌というものがあるのではないかと思ったんです。
僕なんかは古い人間だから、
文字で書かれたものしか信じられないようなところがあります。
難病で未来のない老人に救いはあるのか。なくはないと思います。
モンテーニュ、ラッセル、アランなどは老人向けです。
哲学者というのは、体系を描きますでしょう。
しかし、世界というものは体系ではとらえられないと思うんです。
世界はこうなっていると理路整然と説明することはできないのではないか。
哲学とおなじく世界を描くとされる芝居は一時的な慰めです。嘘と言ってもいい。
だって、(芝居ならぬ)人生は完結しませんもの。
実人生というのはありきたりの繰り返しで、
昨日とおなじような今日がだらだらと続いていきます。
(芝居のように)完結しない。みんな途中でわけもわからぬまま死んでいく。
こういう世界を、ヘーゲルのように説明できるでしょうか。
僕はたとえばニーチェのアフォリズム(金言)のようなもののほうが、
よほど人生の機微をよくとらえていると思う。
アフォリズムは相互に矛盾しています。だから、いいのではないか。
僕はニーチェの矛盾しているところを素敵だなと思う。
(しばらく無言が続き)ですから――(とまた少し考え)、
ですからって、なにが「ですから」なんですかね(聞き手大爆笑)。
ぜんぜん「ですから」じゃないですよね(場内笑い)。

(注:文脈は依然として難病の老人に救いはあるか、です)
文字に対して、それ以外のメディアがあるのではないかと思ったんです。
若い人は文字よりも、それ以外のメディアに目が向いておりますでしょう。
むかし武道館のある九段下によく行ったことがありました。
音楽会のあった日には行列していて切符がなかなか買えないんですね。
新幹線に乗っていたときに、ある駅から若い人が大量に乗車してくることがありました。
なにがあったのかと聞くと、あるコンサートの帰りなのだそうです。
こういうことから、僕は思いました。
もしかしたら文字ではとらえられない優しさや愛というものがあるのではないか。
歌でしかすくえないような優しさや愛があるのかもしれない。
文字の世界は歌よりも冷たくて、まあ恋なんてないんだ、愛なんてない、となってしまう。
しかし、たとえ嘘でも恋があると思っていたほうがいいじゃないですか。
ないのかもしれないけれど、あったほうがいい。
文字で言えば、恋なんかエゴイズムの一種となってしまう。
しかし、若いときの恋はいいものです。これが永遠に続くと思っちゃいます。
なら、あると思ってもいいのではないか。
というのも、人は現実だけでは生きていけないじゃないですか。
現実は味気ない、どこまでもやりきれないものです。
この味気ない現実の反対にあるのがアートです。

(注:文脈は変わらず難病の老人に救いはあるかですが、芝居の話からは飛ぶ)
むかしどこかで読んだのですが、
どんな人にも死ぬ瞬間には恍惚感、満足感を得られるというんです。
どこで読んだのでしたか。
証拠のないことを言うなよ、とも思いましたが(場内笑い)。
しかし、そういうのもいいなと思ったんです。
死ぬ瞬間にいままで味わったことのない恍惚感、満足感をだれもが得られる。
だれの言葉だったか。自分でこう言っているだけですかね(場内笑い)。
でも、いい考え方でしょう。
証明できないから信じるしかないのですが。
欺瞞(ぎまん)も救いになることがあると思います。

(注:ここから話は男女論に大きく飛ぶ)
欺瞞は男性のものというような気がします。
対して女性にはもっとリアリズムがあるのではないでしょうか。
これを僕は、女性がメインで子どもを育てているからだと思います。
もちろん、ここにはお子さんのいらっしゃらない方もおられるでしょうが。
(婦人之友によるこの講演会の客席は裕福な身なりをした高齢女性ばかり)
僕は育ててみて思ったのですが、子どもは威張っているんですね。
3歳くらいの子どもは本当に威張っています。そこがかわいいのですが。
僕のような定収入のない男の子どもとして生まれて、
この子は不安じゃないのか、心配じゃないのか、なんて思いましたが(場内笑い)。
結婚して、人ってこうも違うんだなとそれはもう思いましたですね。
当時はのぼせている部分があって、それにだいぶ助けられましたが。
男は逃れることができる幻想がほしい、と思うものなのでしょう。
子どもが夜泣きをする。あれは朝だから朝泣きなんでしょうか。
子どもをあやしながら、早朝、顔なじみの牛乳屋が来て、
ああ、(人生って)こういうものなのだなと思いました。

生活の中心は女性のリアリズムにあるような気がします。
一方で男性は、変なものを集めるんですね(場内笑い)。
たとえば、骨董とか。
「なんでも鑑定団」に骨董を持って出てくるのはたいがい男性ですよね。
これには何百万円の価値があるとか、真剣な顔をして。
男性は現実から逃れよう、逃れようとするところがあるのではないでしょうか
むかし男女共同参画のとき、ある女性と対談して口がすべったんです。
うちの娘は人形が好きだから、やっぱり女の子はそういうのが好きなんだなって。
そうしたら相手の女性は怒りだすんです。
それは与えるから人形を好きになっているだけだって(場内笑い)。
うちの娘は機関車が好きです、なんて(場内笑い)。
仕事や職業においては男女は平等でなければならないのでしょうが、
好みまで平等でしょうかね。
うちは娘がふたり生まれて、しばらくしてから息子が生まれました。
すると息子はぜんぜん違う(場内笑い)。
冬山に登ろうとかバカなことを考えるのはたいてい男でしょう。
冬山なんていうのは女性のリアリズムの対極にあるものではないでしょうか。
しかし、全体としていまはファンタジーが貧しくなっているような気がします。
東海道を歩くぞ、なんて張り切ってもすぐに挫折してしまう。
カルチャーセンターでなにかを始めてもどうにも続かない。

(注:以下は男女差のみならず年齢差を問題にしたのでしょう)
小学校1年生でわかる範囲は非常に狭く決められています。
けっこうみんながみんなおなじものを好きになったりするものです。
一方で70歳の老人だとかなり差が出てきます。
老境はそれぞれ相当に違ってきます。
(注:このため骨董やロシアの絵画を好きになるものもいるということでしょうか?)

本当はどうなのか? いったい本当はどうなっているのか?
僕は、本当はどうなのかを描くのが、
テレビドラマもふくめた広い意味での文学の役割ではないかと思っています。
本当は果たしてどのようなものか?
社会科学のようなものでは本当のことはとらえきれないのではないでしょうか。
それはもう文学でしか扱えないものではないかと思います。
しかし、いまのテレビドラマは本当のことなんてどうでもいいようです。
本当のことよりも「犯人はだれか?」ばかりで(場内笑い)。
テレビドラマはもっと細かな味を描けるものだと思いますですね。
いまは映画のほうが小さな話をしきりにやるようになっています。
お金がないせいかもしれませんが。
フィクションは、どんなことでも書けてしまうのですね。
ドキュメンタリーだと人を傷つけちゃいけないから、
どうしても立ち入ると言っても限界がありますでしょう。
本当の夫婦喧嘩はなかなか撮影させてくれませんもの(場内笑い)。
どうしても喧嘩をやってくださいとお願いして撮ることになってしまいます。
しかし、フィクションでならどこまでも立ち入っていくことができます。
フィクションは、しょせん気晴らしだろうという文脈で語られることが多いです。
僕はそうではない、それだけではないと思いますですね。
どんな幻想を抱いているのか。どんな夢を抱いているのか。
現実はどういうものだと思っているのか。
こういうことがすべてフィクションにあらわれるのではないでしょうか。

(質疑応答)
こういう問答の大半は、質問者の長々とした身の上話が続くものばかりで
益することが少ないため、いままでは採録しませんでした。
しかし、今回は鋭い質問をする女性がいました。
「老人の救いの話はどうなりましたか?」と質問したのです。
わたしも会場では気づかなかったが、
いまメモをたどるとたしかに途中から話が大きく飛んでいます。
芝居(「心細い日のサングラス」)における難病の老人の話はどうなったのか?

――実は僕の小学校からの親友にALSにかかった人がいました。
お見舞いに行くたびに、本当にどんどん話せなくなっていくんですね。
また話すこともなくなってきました。
僕は黙って一緒にいるだけでした。
この場合、僕とその友人の関係性において、個人的なことは言えるんです。
だれかがこう言っていたという言葉を救いとして差し出すことはできます。
しかし、普遍的なことは言えません。
友人になら言えても、いろんな人が見に来てくださる芝居では言えない。
ですから、最後にみんなで歌わせたらいいんじゃないかと思いました。
芝居で、難病の老人は気づかずにいつも小声で歌をうたっているんですね。
それを周囲から指摘される。歌は僕の好きな「悲しくてやりきれない」です。
この「悲しくてやりきれない」を最後みんなで明るく大声でうたうことにしました。
成功したかはわかりませんが。
でも、観客席にはおいおい泣いている人もいたんです。

(編集後記)
質疑応答で知ったあれ(難病ALS)が実体験だったというのは驚きで、
なにやら創作の裏側を垣間見たような気がしました。
芝居「心細い日のサングラス」最後のいささか不自然な流れが、
作者の体験をもとにすると理解できるようになります。
でしたらドラマ「旅立つ人と」や
「ふぞろいの林檎たち4」の手塚理美の相手のエピソードも、
ある程度は実体験からの連想があるのでしょうか。
いや、体験前に書いた作品という可能性のほうが高いと思います。
なぜなら、この作家は体験からは書かない(書けない)ところがありますから。
山田太一さんがいつか書きたいとお話になった急行列車が過ぎ去るシーンは、
実は「小さな駅で降りる」のラストで書いているような気もしますが、
わたしなどよりはるかに山田太一ドラマに詳しい先輩諸氏、いかがでしょうか?

聞き手:土屋顕史(Yonda?)

(参考)過去の山田太一講演会↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2830.html
よくブログで「ここをクリックしてください」とか書いてある。
なんでもだれかがそこをクリックするとランキングが上がるらしい。
ふたつの誤りがあるような気がする。ランキングなんてどうでもいいじゃない。
「本の山」がお世話になっているFC2ブログにもランキングがあるそうだが、
自分で驚くほど興味がないのでまったく見ていない。
それからだれが「クリックしてください」と言われてするかって。
人は(わたしだけかもしれないが)言われたことに逆らうものなのである。
ほとんどだれも読んでいないのでしょうが、
うちのブログには「はじめに」という説明文があって、
「過去ログなどお読みいただかなくて結構です」と書いている。
これは人間はそういうものだと自分をかんがみて得た結論をもとにしているのだ。
経験がないのでよくわからないが、宗教評論家のひろさちやさんの本によると、
不登校の問題でも親が子どもを学校に行かせたいと思っているうちは行かず、
まあ学校になんか行かなくてもいいかと親が思い始めると行くこともあるらしい。

数日まえ、名も知らぬ人から迷惑メールを連続して送られたことを書いた。
この記事はそのうち消すつもりで、実際最後にそのことを断っている。
にもかかわらず、当人から記事を削除してくれという匿名メールがきたので困っている。
これで記事を削除できなくなってしまったが、いったいどうしてくれる?
神さまや仏さまがもしいたら、あるいはおなじように天邪鬼なのかもしれない。
どういうことかと言うと、こうしてほしいと思ったことはまずしてくれない。
むしろ、反対の願いをかなえるようなところがある。
金持になんかならなくてもいいやと思った人に、
まさにその諦観を理由に神仏は大金を与えるようなところがあるのではないか。
かといって、金がほしいから、わざわざいらないと思うのとはむろん異なる。
神仏(運命)は思うようにならない。他人は思うようにはならない。
この思うようにならないものにどう対処したらいいかで人は一生迷い続けるのである。
思うようにならないことを徹底的に見極めることで開けてくる世界もあるのだろう。
なんであんなにみんな本を出したがったり、雑誌に寄稿したがったりするのかね。
まあ、そのみんなのうちに、言うまでもなくわたしも入るのだけれど。
なかには損をしてまで(自費出版)だれにも読んでもらえない本を出す人がいるわけでしょ。
編集者につながる縁故を必死で涙ながらに求めて、
どうせすぐに忘れ去られる雑誌に自分の名前を刻み込みたいという人も多い。
しかしさ、正論を言うならば、
本当に書きたいことがあるのならばブログやネット掲示板に書けばいいじゃない。
まあ、だれも読んでくれないのは自費出版と大差ないけれど、
無料だからまだ読んでもらえる可能性は高いのではないか。
自戒を込めて、書きたいことがあるならネットに書けよ、なのである。
本を出したいから書く、売名や名誉欲のために書くというのはおかしい。
正しいのは書きたいから書く、書かずにはいられないから書く、
だれかになにかを伝えたいから書く、ではありませんか。
書きたいことがなかったら書かなければよろしい。
求められたから書く、というのはごく一部の恵まれた人たちだけの世界なので、
そこをあまりがむしゃらに目指さないほうがいい。
書くことや話すこと(物語!)がもっぱら創作だと一般的には思われているが、
聞くこともまた創作なのではないか。
そのことがよくわかるのは宗教書の「歎異抄」である。
あれは親鸞が話したことを弟子の唯円が聞いて記したものとされている。
親鸞の書く能力はそれほど高くはなかったとわたしは思う。
親鸞の話す能力がどれほどだったのかはわからない。
しかし、唯円の聞く能力の高さだけは「歎異抄」からよくわかるのである。

当たり前だが、話し言葉と書き言葉はかなり違う。
話し言葉はそれほど順序だっていなくてもいいのである。
話がポンポン飛んでも声色や身振りでカバーできるから聞き手はついていける。
ところが、書き言葉はいちおうの一貫性を求められる。
だから、話し言葉はそのまま書き言葉にはならないのである。
だれかが聞いて再構成しなければならない。
これが聞くことも創作という意味のひとつである。

それからうまく聞いてもらえると話しやすいのである。
わたしは吃音症(どもり)だが、だれと話すかによってまったく症状が異なる。
うまく話せる相手と、そうではない人がいる。
これはそのときの気分なども大きく影響するだろうが、
相手の聞く能力の高低にもかなり依存しているところがある。
だとしたら、そのときわたしが話したことは、
わたしの創作ではなく聞き手との合作ということにはならないだろうか。

うまく聞いてもらえるとうまく話せるのである。
井上靖が40歳を過ぎてから作家として大成できた理由のひとつは、
おそらく聞き上手の愛人女性ができたからである。
作家は小説を書くまえに筋を愛人女性に話していたという。
初期の物語作家はかなり愛人の耳に助けられていたはずである。
これが聞くこともまた創作だというふたつめの理由である。

心理療法家の河合隼雄もまた聞く能力が高かった。
難しい問題を抱えたクライアントは河合隼雄にうまく話を聞いてもらう、
すなわち自分の物語を創ることで症状を改善させていったわけである。
この場合、愛人とは違い(愛ではなく!)金銭を媒介とした契約になる。
そうはいっても、とても金銭に見合わない骨折りだったことは想像がつく。
家族や友人が心理療法家の代わりの耳になることもあるだろう。

わたしはまったく知らない人から名前も記載されていないメールで
個人的な打ち明け話をされることがよくあるが、それは無理なのである。
なぜなら異性愛や家族愛、友情、金銭(契約)でつながっていないからである。
旅先でたまたま知り合った人から身の上話をされることも多い。
そういうときに聞いた話は旅の味わいを深めるのでなかなか悪くない。
うまい物語小説は読者を感動させる。
もし聞くこともまた創作ならば、
作家のみならず読者もまた創作していることになるだろう。
そうだとしたら、演劇や映画に感動するのもまた創作なのである。
たとえばある作家の講演会に行ったとして、
その内容をブログに書いていいものなのだろうか。
わたしならば話した内容を知らない他人にネット上に書かれ永遠に残るのはいやだ。
自分が話したと思っていない内容が自分の発言になってしまう危険性も大いにありうる。
心理療法家の河合隼雄さんなんかは、
一時期はっきりと講演会で話した内容は公開してもらいたくないと表明している。
(晩年は湯水のごとく講演録を出したが)
大学の授業でも(教授でもあったのだ!)集中講義のあと、
学生さんにノートを出させてすべて回収したことがあったという。
クライアントの秘密に関係することを話したから記録に残されてはいけない。
ただし記憶に残るのならばいい、という判断があったのだろう。
河合さんは別のところで講演会で話した内容を「その場の真実」だと言っている。
そのときその場にいた聴衆とのあいだで成立した真実ではあるが、
「普遍的な真実」ではないので公開してもらっては困る。

たまにある作家の講演会の内容をブログに書くことがある。
なぜそんなことをするのか。ボランティアなどではなく、自分のためである。
聞いた内容は書いてみないとわからない。
書いてみてはじめてなにを聞いたのか理解できるということがある。
書きながら、ああ、そういうことだったのかという発見があり、それが楽しいのだ。
あとで読み返して、はあはあと自分の書いた言葉から教わることもなくもない。
もちろん、自分のためだけではない。かといって、善意ではない。
被害妄想的で苦笑なさる方もおられるでしょうが、
むかしある女性からわたしの講演会採録などぜんぜん大したことがないと言われたからだ。
なんの価値もない。あんなものはだれでもできる。
まあ、それは絶対に間違いで、できるわけがないのである。
ある男性がやっているのを見たことがあるけれど、
ほとんど作家の話した内容を聞き取れておらず、
本当にファンなのだろうかと失礼なことさえ考えたものである。
しかし、感謝するならば相手はその女性だろう。
そういうことを言われた怨念が講演会の記録にひと役買っているのである。
なかにはうちのブログはその人気作家の講演録しか読まない人もいるそうだから。

昨日、有名作家の講演会にしつこく行ったけれど、内容を書いていいのか迷う。
かなりおもしろかったのである。疑問点がいくつも解けた。
とはいえ、かなり作家の個人的な領域のことも話している。
(このため、おもしろかったとも言えるのだが)
それを公開してしまっていいのかわからないのである。
みなさんもそうだと思うが、わたしも人に公開されては困ることがいろいろある。
友人には話すけれども広く公開してほしくない。広められたら絶交する可能性もある。
そうはいっても、しょせんは講演会で話された内容である。
わたしは作家と面識がないし友人どころか知人でさえない。
講演会で話したことはないが、話した内容ならばいいような気もする。
ノートは取っているので、しばらく寝かせてみようと思う。
実は話すことのみならず聞くこともまた創作なのだが、
寝かせばそれだけわたしの創作であるという点が強まるだろう。
才能ある作家とはあまり近づきすぎてはいけないので(自分がなくなってしまう)、
この面からも寝かせるのはいいはずである。
寝かせてそれから考える。
万が一、期待されていた方がいらしたら、そういう事情なのでごめんなさい。
3日まえに壊れた携帯を持って先ほどようやくエーユーショップに行ったら、
修理に出すことになり、代用の同型の電話を貸してくれた。
いい機会だから機種変更をしようと思ったが、
たまったポイントを使ってもあと2万円以上かかるとのことで断念。
ショックだったのは、おそらく携帯内のデータはぜんぶ消えるということ。
ショップのおにいさんの体験だと、この壊れ方だとデータは九割方残らないらしい。
ああ、電話帳がすべて消えてしまう。
いまの携帯を使い始めてから約5年のうちに出逢った人たちの情報がみな消滅する。
むろん、バックアップも取っていないし、紙に書き写してもいない。
電話帳を見ないともう名前が出てこない人もいるから、
そういう人は永遠にわたしのなかから消えてしまうということか。
5、6年まえに大学時代の名簿等をすべて廃棄したときはいい気分だった。
これでみんな夢になったとほくそ笑んだものである。
しかし、思いがけず今度はこの5年間のことがすべて夢となってしまうとは――。

いまでも連絡を取れる人は、こちらの不手際でまことに図々しい話でしょうが、
電話が戻ってきた2週間後を目安に近居報告もかねてメールで再度うかがいます。
だが、相手のご迷惑を考えるとこちらからは連絡を取れない、
しかしわたしにとってはとてもたいせつな幾人かの旧友がいるのである。
その人の名が電話帳に入っていることで精神安定剤のような役割を果たす恩人たち。
はかなくも、かなしくも、みんな夢になってしまったか。
これがひとつの季節が終わるということなのだろうか。
ともあれ、こちらの電話番号はまえから変わっていませんからね。
さて、携帯電話が復活したからあれができるのか。
むかしから変な長文メールを匿名で送ってくる人には(危険性がないと判断したうえで)、
勇気があるならどうかおかけくださいといきなりこちらの携帯番号をさらしたものである。
(なぜか相手のほうがそれは失礼だと怒ることもありました)
そのくらいメールでちまちま、かけ引きのようなことをするのが苦手なのだ。
メールよりも相手の声を聞きたいと思ってしまう。
お忙しい方は無理でしょうが、電話よりも直接逢ってお話しするのが好きだ。

*死ぬまでにもう一度だけお声を聞きたい人の電話番号、携帯メールアドレスは
(といっても相手のご迷惑になるからそう思うだけで二度とかけないでしょうが)、
いま狂ったようにむかしのメールを漁って判明しました。
そういう人がひとりいたというだけでも悪くない人生なのだといまは思うようになっています。
まったく自慢にはならないが、どうやらわたしには人を狂わせる力があるとしか思えない。
ほかのところでは正常で社会にもうまく適応している人が、
なぜかわたしのくだらぬ文章や実際のすがたを見ると瞬間的に狂ったようになる。
このところ続いて送られてきた狂ったようなメールの書き手も、
こう考えると、たぶん正体はかなりふつうの人のような気がする。
たまたま「本の山」などお読みになったから一瞬だけおかしくなってしまったのではないか。
まあ、いろいろあったわけである。
いつだったかどこぞの大学講師から呼び出されて、
「おまえ舐めるなよ!」と恫喝されたことがある。
相手はがくがく震えてアイスコーヒーをテーブルにこぼしながら、
「おまえおまえ、おれをおれをおれを舐めるなよ!」
大声で繰り返すといきなり出ていってしまったのである。
明らかに違う世界に逝ってしまったとしか思えない狂気を宿したまなざしであった。
当時はわけがわからなかったが、思えばこういうことが多い。
ひと言でいえば生意気なのだろうが、それだけではないと思いたい。
ある種の人に強く思い込まれてしまうようなところがあるのではないか。
それはとにもかくにもプラス(好意)ではあるのだろうが、
どうやら高確率でマイナス(悪意)に反転するもののようだ。
最近のわたしは明るいふつうの節度ある人が好きなのだが、
どうしてかそういう常識人をも豹変させてしまうような不愉快さがこちらにあるのかもしれない。
答えを早々と書いてしまうと、まあ宿業(宿命)のようなものなのだろう。
狂ったようなメールが舞い込むのも逢った人からいきなり怒鳴られたりするのも、
わたしが持って生まれたものに強く関係するような気がする。
期待されてがっかりされて、こちらはそれに敏感に反応して(するなよ!)、
その態度がお行儀悪くひどくお嫌いになる方が多い、といったところではないか。
くだらない自分語り、失礼しやした。
人はついついだれも自分なんかに興味がないという、ほとんど絶対的な真実を忘れてしまう。
愚かなわたしなど頻繁である。
自分で決めているルールがあって、心をひどく患っている方からは逃げる。
明らかにメンタルに重い問題を抱えている方とは申し訳ないが新しくは関わらない。
それがお互いのためだからである(相手のためでもある!)。
「類は友を呼ぶ」なのか、むかしからおかしなメールがけっこうくる。
なかには「自分の妻を殺してくれ」というメールをよこしたアホもおった。
その人もそうだったが、心を病んでいる人とはなかなか難しい。
差別ではないが、精神科や心療内科に通院している方と接するのはかなりの注意が必要だ。
医療従事者でもないものが、なにかをしてあげられることは少ないだろう。
まあ、可能なのは刺激を与えずそっとしておくくらいではないかと思う。

今月のはじめに背筋が寒くなるような気持の悪いメールが舞い込んだのである。
一読しただけでゾゾッとしたから相当なものである。
文面からして相手が重い精神疾患を抱えているとしか思えなかった(わかりませんが)。
こういうメールの常で名前が記載されていない。
50近い既婚女性だという。
「あなたが私の名前をつけてください」とか震えあがるようなことが延々と記述されている。
あえて名前は書きませんなどと、重要人物ぶっているのが怖かった。
自分は重大事件の被害者だとか、
社会の暗部をのぞいたため追われている(?)だの、アレとしかいいようがないのである。
わたしがその方に好意を持っていると決めてかかっているのもブルブルっときた。
その女性の話をわたしは聞きたがるだろうが、まだ話せないというのである。
「人は他人に関心を持たない」ことをさらさら理解していないのもげんなりした。
セックスがどうのと書いてあって50近いおばさんが色仕掛け? と厳寒の思いを味わった。
波乱万丈の人生を送ったとか自慢するやつって、
大半は自己愛が強いだけのインチキなんだよなと白々と思う。

コンプレックスが強いからいろいろ考えるわけである。
よくないのだろうが、すぐに「舐められている」とか思ってしまうのである。
このおばさんだって山田太一先生や宮本輝先生のような偉い方に
手紙を出すときには名乗るはずである。
わたしは舐められているから、あんな不気味なメールを匿名で送りつけてくるのだ。
とにかく気持が悪いのである。
人間の精神の奥深くにある見てはならない、
自己愛ほとばしる暗い泉の存在を目のまえにまざまざと突きつけられたとでもいおうか。
「おまえのメールは被害妄想じゃないか」
「おまえは思っているほど重要人物ではないぞ」
「おれはおまえに関心がない」
こういうネガティブな黒々とした思いがあたまをかけめぐるわけである。
なんで自分がこんな目に遭わなければならないのかわからない。

しかし、最近ちょっとばかし人格がこなれてきたような気もするのである。
わたしも多くの人のご厄介になったのだから、せめて人に親切にしよう。
迷惑はお互い様じゃないか。
なにをしたらこのクルクルパーな女性のためになるだろうか。
気持悪すぎでさすがに返信を書くのは無理だろう。
もし書いたとしても相手の非礼を責めるものにならざるをえない。
本当はこういう異常なメールがきたとブログに書いてすっきりしたい。
だが、そんなことをしたら相手はこころよく思わないだろう。
我慢するしかない、という結論に行き着いた。
これもなにかの宿業、宿縁だと思ってあきらめよう。
人に親切にしようじゃないか。
この方もいつかわたしの真意がわかる日が来るかもしれない。
わからなくても、まあ人間はそんなもんだ。

こうしてぐっとこらえたのである。辛抱したわけだ。
1週間経過した時点でかなり忘れていたから、改めてこれでよかったと思う。
我慢がいちばん、辛抱がかんじんである。
ところが、なのである。
この50近いおばさんは9日後にまたおかしなメールを送ってくるのである。
また名乗らない。年齢を考えない絵文字や顔文字があって気味が悪い。
しかも、自分のことをだれだか認識しているのが当たり前といったような驕った内容だ。
さらには逢ってもいないわたしのことをさもよく理解したような口ぶりである。
前回、変なメールを送って悪かったというのである。
少々は病識があるのかと思ったが、ならメールをもう送ってくるなよとため息をつく。
せっかく不愉快な記憶が消えかけたころにまたこうして無神経なメールをよこしてくる。
しかし、人生は忍耐だ。ストリンドベリではないが修行だ、巡礼だ。辛抱しよう。
どうして医療機関に行ってくれないのだろうかと思わなくもないが仕方がない。
こちらは無料なのである。
いまではネットのメール占い相談でも有料だが、こちらは無料だ。
もうすぐ50になるアレなおばさんも経済感覚だけはまともに機能しているのだろう。
わたしもいろいろな人にお世話になっているから、これも多生の縁とあきらめよう。
名も知らぬ異常者の精神と接したことから生じる不快感も、
どうせまた1週間も経てば消えるだろう。忘れるにかぎる。人には親切にしよう。
「なにもしない」ことが親切になることもきっとあるのではないか。
むろん、自己防衛の気持もあった。危ない人とは関わっちゃいけない。
わたしがそっとしておいてあげたら他の人のところに行くだろう。
あまり大声ではいえないが、
親切ばかりではなく、標的を代えてくれないかという願いもあった。

つくづく名乗らないというのは卑怯だなと思う。
ふつうの神経なら実名であんな気持悪い内容のメールを人様には出せないだろう。
匿名ならばいいのか。よくないだろう。
やはり相手はふつうの神経の持ち主ではないと思わざるをえない。
刺激してはならない。こういう人は一転して攻撃にまわるのである。
不人気ブログではあるが、いちおう実名を公開しているのである。
危ないおばさんをうっかり刺激したら、なにをされるかわかったものではない。
ここは我慢のしどころでうまく相手に忘れてもらってお引き取り願おう。
ブログの愛読者なんていっても、所詮はみんな1ヶ月程度で飽きるのである。
わたしはリアルで逢った人しか信用しない。
そして、心を患った方と新たに関係するのは細心の注意を払おうと決めている。
わたしはアレな人を引き寄せてしまうオーラでもあるのか、
とうんざりしながらまた辛抱することにした。そのうち忘れるさ。

ところが、またである。
6日後の本日早朝、またまた名乗らないおばさんが不気味なメールを送ってきた。
おわかりだとは思うが、こちらからはいっさいメールを送信していない。
せめて名前でも書いてあったら対応も変わろうが、
あたまはぶっ飛んでいるくせにかんじんなところで勇気がないのだろう。
そのメールのタイトルを読んで笑いそうになったが、すぐに顔が硬直した。
件名は「灰色の世界」である。
ご自分のメールがわたしの世界を灰色に変えているというご自覚が果たしてあるのか。
この名乗らないおばさんが「灰色の世界」に住んでいるのはわかるが、
どうしてまったく関係のないわたしまでその世界に巻き込もうとするのだろうか。
「灰色の世界」というメールの内容もうすら寒かった。
真実がどうのという、あれはまあポエムになるのだろう。たいそう気味の悪いポエムだ。
なんで知らない人にこんな不気味なポエムを送りつけることができるのだろう。
表面上は名乗っていないから、内面的には深く病んでいるから、というのが理由になろう。
どうしてこの人はよりによってわたしに目をつけたのだろう。
自分とおなじ「灰色の世界」の住人だと思ったからだろうか。
いままでこのおばさんからこうむった精神的苦痛はけっこうなものなのである。
精神科医やカウンセラーなら高い金を取っているだろうし、なにより専門職だ。
病院へ行ってくれよ、と泣きたくなる。
しかし、病院では金を払うばかりではなく、患者は名乗るだろう。
名乗るというのは人間世界の常識なのである。
どうやら「灰色の世界」に住んでいると50近くなっても常識を知らないようだが。
おそらく作家先生はこういう得体の知れない手紙をもらうことが多いだろう。
だが、狂人からのファンレターもかならず名乗っているはずだ。

さあ、こういうことをブログに書いたら相手はなにを仕掛けてくるのか。
いままでさんざんメールに震えあがったけれども(ボックスを開くのも怖い)、
本当に震えあがる思いをするのはもしかしたらこれからなのかもしれない。
長文の最後でどうせだれも読んでいないだろうとヤバいことを書かせてもらうと、
あるいは犯罪被害者というのは加害者と過去世の因縁があるのかもしれない。
無差別殺人も「灰色の世界」では加害者と被害者がつながっているのかもしれない。
犯人にも見えないが断じて無差別ではなく、
殺人者はしっかりだれかを選んで凶行におよんでいるという可能性はないだろうか。
そんなことを考えたくなるほどの震えあがる体験をした(まだ終わっていないかも)。
刃物を持たせてはいけない人にはなるべくならメールもご遠慮願いたい。

*いろいろ問題がある内容をふくんでいるので、この記事はたぶんそのうち削除します。
今年のはじめにパソコンが異常をきたしたときにはたいそう慌てたけれども、
今朝目覚めて携帯電話が作動しないくらいではもうまったく驚かないのである。
むしろ携帯電話などなくても一向に構わないことを自慢したいくらいの心境だ。
まあ近日中にエーユーショップに顔を出せばいいだけの話だろう。
この機会に通信会社を換えていま大人気のスマホとやらにするのも一興だ。
かといって外出時にネット閲覧する気はないけれども。
これは自慢だが、電話番号変更を伝えたい通信相手はわずか一桁である。

いまはおかしな自慢が一般的だ。
みなさんとは違って(おなじ?)吝嗇(りんしょく)だから収入自慢はわからなくもない。
しかし、多忙自慢と仲間自慢は本当に理解できない。
忙しいからなにが偉いというのか。仲間や友人の数を誇ってどうする?
しかし、とはいえ、忙しいほど偉い、仲間(コネ)が多いほど偉いというのもまた真実だ。
新しい携帯に代えたあかつきにはぜひとも電話帳を増やしたいものである。

パソコンを買い替えるのには1ヶ月近くかかったが、さて携帯電話はいかほどか。
しばらく携帯電話のない生活を経験したいとも一瞬は思ったが、
なんのことはない、それはむかしから変わらぬ日常の生活であった。
むかしから携帯電話のほとんど必要がない孤独な生活をしていたのである。
そして、その孤独をそれほど嫌っていなかった。
長い目で見ると損のほうがいまの得になっているのである。
たとえば、むかしある新興宗教団体の集まりに誘われ非常に不愉快な経験をした。
よく覚えていないが5千円~1万円払った記憶がある。
しかし、いまになってみると、その体験のおかげで世間を知ったということがある。
なにより日本最強の宗教団体ともいえる組織の空気をじかに触れられたのは財産だ。
当時は大損をしたと思ったが、いまになってみると大儲けなのである。
プラスはよくてプラス、通常は時間経過とともにマイナスになる。
しかし、マイナスはいつしかプラスになるものなのかもしれない。
いくら損をしても生きていればその損が得のタネになることもあるのである。
みなさんがお嫌いな非科学的なことを申しますと、
この世では損でもあの世や来世では得になることも少なくないのではありますまいか。
損をするということはもっと歓迎してもいいのかもしれない。
たとえば、大枚をはたいて行ったお芝居がおもしろくなかったとする。
だが、それは本当に損をしたのだろうか。
お金を払ってつまらなかったら、どうしてかをいろいろ自他にわたり考える。
結果として後日に金銭には代えられない収穫を得るともかぎらないではないか。
損をしてもそれほど悔いることはない。
みなさんとは違って毎日のように損得のことばかり考えているわたしの発言であります。
このだれも読んでくださらないブログで、
ある巨大新興宗教団体のことをたびたび書いている。
その団体について大きな誤解があると思う。
悪口を書いたら嫌がらせをされるともっぱらの噂だが、
わたしにかぎってはまったくそんなことはない(だから真実だとは言いませんけれど)。
むろん、わたしはその団体について嫌いというばかりではない。
好き嫌いをふくめておもしろい宗教のありかただな、と興味深く思っている。
その宗教団体がすごいと思うのは、
いまのマスメディアがすべてその思想によっているからだ。
あるいは、いま正しいとされている考え方を教義に取り入れているだけかもしれないが。
いわく、前向きになれ。忙しいのはいいことだ。
友人(仲間)がたくさんいて、たとえばバーベキューは幸福の象徴だ。
自分たちは絶対正義で、犯罪者のような悪は完膚なきまでに叩こう。
政治家や権力者も悪だが、自分たちのメンバーならば善だ。
金持になりたい。なにより重要なのは勝つこと。勝利、勝利、大勝利!
これはいままさに世を支配する思考法ではないか。
信者さんの多忙自慢を拝見拝聴するたびに
機関紙連載漫画のバリバリ君をイメージして微苦笑してしまう。
苦笑だけではなく微笑もある。
自称善人の集まりでもあるその組織をどこかで好んでもいるのである。
たぶん世の中でいちばん迷惑な人は真実一路を歩む御仁ではないか。
真実は人それぞれを理解せず、おのれの道を突き進む。
障害物は目につくかぎりなぎ倒す。
「おれは間違っていない」「あたしは正しい」という主張はみな持っているものだが、
その声が大きいものは迷惑なのである。
だが、大工の息子のイエスのようにごくたまに賢者として称されることもあるから、
自己正当化が絶対的過誤というわけでもないのだろう。
しかし、やっぱり真実一路を大行進するみなさんは迷惑だ。
けれども、迷惑をこうむってはじめて自分というものがわかることもあるから、
かならずしも真実一路も悪いばかりではないのだろう。
かりにもしよしんば、世の中が真実一路ではなく、真実多路だったらどんなにいいことか。
いや、そんなにたくさんなくてもいいのである。
真実二路でも構わない。真実三路だったらもっといい。
「次の中から正しいものをひとつ選べ」の学校教育からは決して出てこない思考法である。
新興宗教団体ライフスペース信者がよく口にした「これが世界の定説です」
はまったくもって意味深い発言だと思う。
たとえば、学問の世界ではだれが流行らしたのか、
新興宗教を新宗教というのが決まりのようである。
新興宗教ではなく新宗教というとインテリと思われる。
ある庶民派作家も新興宗教を新宗教といっていたのでがっかりしたものである。
いまだ庶民になじみのある言葉は新宗教ではなく新興宗教ではないかと思う。
だから、わたしはこのブログでかたくなに新興宗教という言葉を使っている。
要はインテリぶりたくないのである。
新しい言葉を知ったら即座に使いたがるのは恥ずかしいことではないか。
しかし、おそらく真実とは新宗教のようなものなのだろう。
新宗教という言葉を使ったくらいで人間はなにかしらの真実に近づけたと錯覚するものだ。
あらゆる真実らしきものは、だれかが「これが世界の定説です」といったことから始まる。
新興宗教ではなく新宗教というのが世界の定説です。
この意見が多数派になるかどうかが勝敗の分かれ目だ。
わたしのようなひねくれ者がいっぱいの多数派を攻略して、
真実なるかりそめの栄冠を得るのはかくにも難しいのであります。
いま思いつくありとあらゆる真理らしきものを検証してみたが、
どれもこれも「多数派の合意」に過ぎないではないかと指摘されたら否定できない。
かなりの真実ではないかと思っていた「人は絶対に死ぬ」も、
あるいは真理ではないという可能性もありうる。
なにゆえ他人が死んだから自分もかならず死ぬと信じるのだろう。
「わたし」は死なないかもしれない。
たとえば、交通事故で一瞬にして命を失う(と外見的には判断される)人がいる。
彼(女)らは本当に死んでいるのだろうか。
死亡者とて我われとおなじ意識を持っていたはずである。
いまという一瞬にしかこの自意識はない。
だとしたら、それが寸断されたに過ぎぬ交通事故被害者は本当に死んでいるのだろうか。
このあたりはオカルト寸前なので、これ以上分け入るのは避けたい。
しかし、本当に「わたしの死」などあるのだろうか。
この世に絶対的な真理などあるのだろうか。
「真実は多数派の合意」に過ぎないという可能性も絶対にないとはいえないのではないか。
万が一、この考えに多少なりともご同意くださった方は、
みな(多数派)と違うからおかしいということになるのでご注意ください。
みんなが本当には思っていることを平々凡々ありきたりにさらっと書いてしまおう。
数字なんか本当はどうでもいいよね。
たとえば、テレビの視聴率。あんなもん、どうでもいいんじゃねえですか。
質問。テレビのコマーシャルを見て商品を買いたくなった人は挙手をお願いします。
人は自身の経験からしか判断できない哀しさは重々承知だが、
しかし、人はそれほど宣伝広告放送ごときに購買意欲を左右されるものだろうか。
無意識だのなんだのという物語はあるだろうが、それは絶対的真理ではない。
もし宣伝や広告がそれほど受け手に影響しないとしたらどうだろう。
売れたものは宣伝がよかったからではなく、たまたま時流に乗っていたのかもしれない。
たまたまなのかもしれない。
とはいえ、「人は真実に耐えられない」からいろいろ物語を考える。
そのひとつが宣伝や広告であったというだけではないのだろうか。
日本人が好きな横文字でいうならばマーケティングもそうである。
視聴率がよいとは、多くの人に見てもらえたということ。
しかし、宣伝放送を見た人が果たして商品を買ったかはからきしわからないではないか。
どうしてたかが視聴率の高低ごときを大のおとなが無邪気に喜べるのかふしぎである。
この答えはわかっている。
みんな(=多数派)が視聴率の価値を信じているからであろう。
繰り返すが、なぜかみんなが視聴率(=多数派)の価値を信じている。
もし真実というものがあるとしたら――絶対的真理はない、
なんにもない、どこにもなにもない、善悪も貴賤も高低もありはしない――
というところに落ち着くのではないか。
「だったらおまえのいまの発言も真実ではないだろう?」
いまこう思われた方には、よくぞわたしの思いをご理解くださったと感謝したい。
まさにそれが真実ではないでしょうか。
たぶん、たぶん、なーんにもないのである。「絶対」ではなく「たぶん」。
たとえば、急にぎっくり腰になったとする。
どうでもいいことだが、これは周辺でけっこう見聞きするので書き手の年齢がわかろう。
さあ、ぎっくり腰になったとする。
絶対的真理がないとは、これをどう解釈してもいいということだ。
仏罰だと(多少非科学的に)思って、行ないを改めるのもいいだろう。
身体が休みを欲しているというふうに当面科学的な判決をくだしてもよろしい。
(いまの科学は絶対的真理ではなく、かなりが50年後には否定される当面真理です)
解釈が自由とは、人はいかようにも物語れるということである。
物語るとは、人に話すということだ。
飛躍するが、物語が好きである。お話が好きだ。
人は話すことで現実に折り合いをつける。
現実を自分なりに解釈する。現実を嘘でゆがめる。
ひるがえって現実なるものは本当にあるのかと考えてみると、さあどうだろう?
もしかしたら、本当はなーんにもなく、すべてがお話(物語)なのかもしれない。
よく言うではありませんか。
むかしは貧乏人だった作家がコンプレックス丸出しで言うではありませんか。
貧しさの苦しみを知らない人には自作はわからないだろう、うんぬん。
この発言は話者が成功者だから成り立っているわけである。
リアル貧困者が「おれの話を聞け」と街角で騒いでも、
まあお巡りさんを呼ばれるだけだろう(これでさえかなり大声を張り上げないと無理だ)。
もとは失敗者だったがしかし、いまは成功者の言葉だからみんなに聞いてもらえる。
貧乏の苦しみを知らない人になにがわかるもんか!
そして、この意見は非常に大衆に受け入れられやすい
(おそらくわたしもその支持者の一員だ)。
しかし、逆も言えるじゃないか。
おまえら貧民に金持の苦労、権力者の悲哀がわかるか、というのもまた正しいのではないか。
どうして(元!)貧乏人の意見だけが
正しいとみな受けとめるのだろう(しつこいが、現ではなく元貧乏人だ)。
「多数派は正しい」とは「貧乏人は正しい」ということではないか。
深々と自戒を込めて「わたしは正しい」というのはかなりのところ誤りだと認めよう。
久しぶりに朝のワイドショーを見たら、
東大卒の菊川怜氏と長嶋茂雄先生のご長男の長嶋一茂氏がたいそうな出世をしていらした。
おふたかたともまっとうなご意見を述べられる優秀な識者だと思う。
ご両人とも正しいということにまったく異論はない。
しかし、正しい意見ならばだれでも言えるのである。
あなたでもわたしでも(一般的に通用する)正しい考えくらいならだれでも発言可能だ。
問題はなにを言うかではない。そうだ。だれが言うかだ。
なにを言うか、ではなく、だれが言うか。
このとき、家柄や学歴が重要なポイントとなってくる。
整形技術の発達したいま、芸能界では美男美女ばかりだから、
むかしのように顔だけではコメントの正しさを証明できない。
むろん、いまでもけっこうそこそこ通用するのが顔なのだが。
とはいえ、おなじ顔の人がいたら家柄や学歴を重んじるのが大衆、庶民、多数派である。
家柄、学歴、顔に共通するのは我われの目に見えるということではないか。
朝から酒を飲む文豪の山本周五郎先生によると(不勉強ではありますが)、
おそらくいつの時代も虐げられてきた庶民は常に正しいのだから(視聴率=庶民様のご意向)、
ということは目に見えるものしか信じてはいけないのだろう(しつこいが家柄、学歴、顔!)。
菊川怜さんと長嶋一茂さんが対談したらおもしろいような気がする。
わたしも庶民のひとりとしてたいへん興味があるので、
まさかお読みではないでしょうが雑誌編集者さんはぜひぜひご一考くださいませ。
あるきっかけで山本周五郎の「青べか物語」を読み直した。
たぶん10年ぶりくらいではないかと思う。
感想がまるっきり変わっているのである。詳細は機会があったら後日書きます。
最近むかしの自分は間違えていたなと思うことが多い。
年をとったためかもしれない。あのときのあれはよくなかった。
しかし、そのときはどうしようもなくそれを正しいと思っていたのである。
そして、そういうわたしだからこそ。
もしかしたら他人はわたくしごときにあんなに親切にしてくれたのかもしれない。
ならば、正誤はないということだ。
おそらくいまのこの考えも10年後の自分は(もし生きていたら)否定するだろう。
正しいものはない。しかし、正しいものはある。
いまこのときの真実だけが瞬間的に正しいのだと思う。
これほどかなしいことはないという真実に、
人はなかなかおのれの経験からしか意見をつむげないということがあります。
人はだれもが自分の人生しか知りえません。
しかし、その人生からしかものを述べようがないのです。ものを知りようがない。
「おれがこうだったからこうだ」としか言いようのないところが人生にはございます。
「おれが成功できたんだからおまえもがんばればできるだろう」
「あたしが犯罪をしていないんだから人殺しは最低」
「わたしはあのメンタルクリニックに行ってうつ病が治ったのだからあなたも」
「自分が酒(タバコ等の悪癖)をやめられたんだからだれでもできる」

毎日、各メディアで流れる多種多様な情報(意見、メッセージ)はすべて正しいと思います。
なぜなら、それぞれがそれぞれ固有の一回かぎりの人生経験を基盤としているからです。
どの論説も根本には自分の一回だけの体験を根に持っているから正しいのです。
けれども、体験はかなり個人の秘密の領域に属します。
重い体験ほど公言できないことが多いのであります。
まったくほんとうに、このことを知らない人は人生の幸運児でありましょう。
人生の重大体験はおもてざたにできません。いわゆる秘密になります。
とはいえ、人の意見をかたちづくるのは九割方体験であります。

古今東西、意見がさまざまなのは体験が人それぞれだからです。
そして、その体験なるものの源流をたどると、どうしようもなく秘密に行き着きます。
しかしけれども、その秘密を隠して、
たとえばデータ(数字)のようなものを根拠として人は意見を物語る。
あたかも自分の実体験とは関係のない客観的な事実のような物言いをします。
なぜなら、秘密はどうしようもなく言えないからであります。
人は、一見すると客観的な情報に託しておのれの秘密を語っているのかもしれません。
そう考えると、こうまで多様な意見がなにゆえ流れているのか少しわかったような気になります。
この世のほとんどのことは突き詰めて考えたら、「どっちも正しい」のだろう。
一般的に多数派の意見は正しいとされるが、少数派も正しい。
少数派も正しいことがある、ではなく、少数派もまた正しいのである。
かといって、少数派がかならずしも正しいというわけではなく、
「どっちも正しい」=「どっちも正しくない」だから、
多数派が正しくないように少数派もまた正しくない。
みなさんもわたしとおなじで難しい話は苦手でしょうから具体例を出します。
科学的思考(多数派)がかならずしも正しいわけではなく、
非科学的思考(少数派)もまた正しい。
少数派はこういうときに勘違いして、だから科学的思考は間違いだと主張するが、
言うまでもなく少数派もまた絶対に正しくはないのである。
それどころか、むしろ一般的には常識的には、多数派が正しいことになっている。
多数派についておけば、まずたいがいの場合、大失敗することはない。
もっと言えば、少数派の存在が許されているのは多数派の寛容によるところが大きい。
多数派が本気になったら少数派などひとたまりもなくつぶされてしまう。

たとえば、成功者や権力者が恵まれているというのは多数派の考え方である。
なぜなら大半の人間は成功者や権力者にはなれないからだ。
しかし、実際のところ少数派(成功者・権力者)はどう思っているか。
おそらくは成功しても権力を持っても苦労が増えるばかりなのではないだろうか。
権力者とはいえ、好き勝手なことはよほどのことがないとできない。
むしろ権力を行使することで人から恨まれることも少なくないだろう。
また成功者ほど人のいやな部分を目にすることが多いのではないか。
というのも、人間はどうしようもなく嫉妬する生き物だからである。
ひとたび成功したら、数かぎりなく足を引っ張られることだろう。
いついまの地位から引きずり落とされるか不安でおちおちする暇もないはずだ。
そのうえ、いったん落ち目になったら世間(多数派)からの嘲笑が待っている。
さらに、一生成功しているものなど、まあいないといってよい。
それほど多数派(成功できなかった人、権力のない人)の恨みや嫉妬は強いのである。
芸術系の成功なら10年持てばいいほうではないか。
たいがいは数年で消えていく。
ビジネスの世界でも20年成功を維持するものはほとんどいないのではないか。
もしいたとしても20年間、毎日のように気を張り巡らせている生活がそんなにいいか。
長年成功していると周囲はイエスマンばかりになり、
だんだん自分が見えなくなってくることもあるだろう。
まさにその部分を衆愚(多数派)に突かれ失墜することになるのである。

けれども、成功者や権力者は少数派だから多数派に向かって、こういう事実は言えない。
いま「どっちも正しい」=「どっちも正しくない」の話をしている。
もてる人はいい、なんて言うのも眉唾ではないかと思う。
多数派がもてないから、もてることが過剰に肯定されているに過ぎない。
実際はもててもあまりろくなことはないような気がする。
人を傷つけても平気なタフな人ならいいが、
もてるということは必然的にそれだけ多く他人を傷つけなければならないのである。
どうしようもなく交際をお断りしたら逆恨みされることもあるだろう。
あいつは顔がいいだけだ、
ともてない男女(多数派)から中傷されることも少なくないはずだ。
いくらもてても人間はかならず好意の見返りを求めるから、
好きでもない人にいろいろな面でお返しをしなければならないから面倒である。
はっきり言えば、もてる男にはバレンタインデーなど地獄だろう。
しかし、そんな本音を口にしようものなら、
贅沢な悩みだなと多数派の性格がねじくれたもてない男女から袋叩きにされるのだ。

とことんまで「どっちも正しい」=「どっちも正しくない」、
さらに言えば「正しいことはなにもない」を追及するとこうも言える。
よく成功者の息子や娘は恵まれていると言われるが本当にそうか。
あれは我われ多数派が無名人を親に持っているがゆえのひがみなのではないか。
たしかに周囲はちやほやしてくれるだろうが、
いくら成功者の甘やかされた(と多数派から見られがちの)息子、娘とはいえ、
それを自分の実力と思うものはさすがにいないだろう。
どれだけ成功しても親のおかげではないかという思いをぬぐいきれないのは辛いはずだ。
成功者の息子や娘は自身が成功してもそれほど喜べないのである。
おなじような有名人の子どもにしか心を開けなくなることもあるだろう。
続けざまに述べるが、金持もそうだ。
多数派は金持ではないから、セレブがことさらよく見えるのである。
いざ少数派の金持になってみたらぜんぜん楽しくないかもしれない。
たまに贅沢をするから楽しいのである。
毎日のように美食を食べていたら飽きるだけだろう。
たくさんブランド品を持てば持つほど、新しいものを購入したときの喜びは減少するはずだ。
楽をしてばかりだと小さな苦をひどく不満に思うような性格になるかもしれない。
なにより周囲(多数派)の恨みや嫉妬が恐ろしいのは金持もおなじだ。
このためうつ病になったとき、たとえ1億円払っても病気は治るとはかぎらない。
金持であるがために心を病んだら、せっかくの恵まれた環境も楽しめないのである。
繰り返すが、いくら名医に金を積んでも心の病気は治らないことがある。

なにが言いたいのか。
こうして考えてみると、自分は少数派のつもりだったが、
かなりのところで多数派の論理を使用して思考しているのである。
多数派の論理を正しいものと主張して少数派をいじめている、と言い換えてもよい。
しかし、多数派と少数派は「どっちも正しい」=「どっちも正しくない」のである。
「友人がたくさんいたほうがいい」と「群れるな」はどちらも正しい。
問題なのは、かなりは生まれつきに支配されるところだ。
友人が少ない(いない)人は、
あまり「友人がたくさんいたほうがいい」と考えないほうがいい。
なぜなら「どっちも正しくない」からである。
「どっちも正しい」のならば、「群れるな」も正しいのだ。
かといって「群れるな」が絶対的に正しいわけではないことにも注意したい。
引き続きますと、「人生は努力しだいだ」と「人生は運だ」はどっちも正しい。
「人生は努力しだいだ」と「人生は運だ」はどっちも正しくない。
たぶん「人生は努力しだいだ」が多数派だろう。
がために一般的には「人生は努力しだいだ」が正しいとされる。
けれども、少数派の「人生は運だ」もまた正しいのである。
ここでさらに一歩踏み込もう。
「どっちも正しくない」のだとしたら、
なぜ「人生は努力しだいだ」と主張する人が多いのか。
なにゆえ「がんばれ、もっとがんばれ、がんばればかならずよくなる」とみんな言うのか。
表面上は多数派が「人生は努力しだいだ」を正しいと思っているからである。
しかし、「どっちも正しくない」のならば――。人はなにを正しいと思うのか。

答えは、人は自分の好きな考え方を正しいと思うのである。
「人生は努力しだいだ」と考えるのが好きな人が多いから正しいとされている。
この考え方を自分は正しいと思う、というのはおそらく誤りだ。
実際は、単にその人がその考え方を好きなだけなのである。
具体例を出しましょう。
「成功者は恵まれている」というのは正しいわけではなく、
(わたしを含めた)多数派がそう考えるのが好きなだけなのである。
「権力者はいい思いをしている」というのは正しいわけではなく、
(わたしを含めた)多数派がそう考えるのが好きなだけなのである。
「金持はよいことだ」というのは正しいわけではなく、
(わたしを含めた)多数派がそう考えるのが好きなだけなのである。
「もてるのはいい」というのは正しいわけではなく、
(わたしを含めた)多数派がそう考えるのが好きなだけなのである。
「地道にがんばっていればいつか報われる」というのは正しいわけではなく、
(わたしは違うけれど)多数派がそう考えるのが好きなだけなのである。
「どの人生もプラスマイナスすると平等だ」というのは正しいわけではなく、
(わたしは違うけれど)多数派がそう考えるのが好きなだけなのである。
「人はわかりあえる」というのは正しいわけではなく、
(わたしは違うけれど)多数派がそう考えるのが好きなだけなのである。

「どっちも正しい」=「どっちも正しくない」
→「人は自分の好きなものや考えを正しいと思う」


民主主義が正しいと思っている人は、民主主義が好きなだけなのかもしれない。
人間平等思想が正しいと思っている人は、
もしかしたらその思想を好いているだけとは考えられないか。
新興宗教団体の信者さんは教祖の言うことを正しいと信じておられるが、
あるいはご自身がその教祖さんをお好きなだけではないでしょうか。

「正しいことはない」→「あるのは好き嫌いだけ」

ならば、もっと自分の好き嫌いにこだわろうではないかというのがこの記事の主張だ。
我われはなぜか正しいことにこだわる。だが、それは正しくないのかもしれない。
本当は嫌いなものを多数派に流されて正しいと思っている人も多いのではないでしょうか。
正しいから離れて、もっともっと自分の好きにこだわってみたらいかがでしょうか。
むろん、この主張も正しいわけではない。
なぜなら、好き嫌いを声高に公言できるのは、ある種の恵まれた人だけだからだ。
たとえば、接客業ならば嫌いな客でも愛想よく対応しなければならない。
人からシャンパンをごちそうになったら、
あまり好きではなくても「おいしい」と言わなければならない。
贈答品として高級なものをいただいたら、
(自分が知っている)相手の好きな安物ではなく同額程度のお返しをするのが是とされる。
世間をうまく渡っていくためにはかなり自分の好き嫌いにふたをしなくてはならない。
そうしているうちに、自分が本当になにを好きなのかわからなくなってくる。
多数派の考えにしがたっておくのが結局はいちばんと考えるようになる。
多数派といっしょの正しい発言をするのはいい気分だ。
たしかにそうなのだろう。まったく実際そうだ。しかし、本当にそれでいいのだろうか。
ありきたりなことを言うが、
せっかく世界にただひとりの存在としてこの世に生まれてきたのだから、
世渡りもあるだろうが、いくぶんかは自分の好き嫌いにこだわってもいいのではないか。
こだわりすぎるのも、むろんよくはないが、しかし――。

*多忙にしていると、こんなうだうだ考えずに楽なのはわかっています。
考えちゃいけないんだ。さあ、テレビでも見るか。
わたしのくだらない悩みに最後までお付き合いくださり本当にありがとうございます。
いきなり突拍子もない真実を言い放つと、
500年後にもしわが国があったら毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい創価学会の池田大作氏は、
日本史で浄土真宗の蓮如のような扱いになっている可能性もあるわけだよ。
いまは学校で教えられなくて黒く塗りつぶされているけれど(戦前の教科書みたい!)、
戦後の折伏大行進は日本復興になくてはならなかったもののはずである。
AKB48だって10~15年後には懐メロってことだ。
個人的には、AKB48は今日懐メロになってしまったような気がする。
だって、時代遅れのわたしなんかに目をつけられたんだから。
さっきブックオフで流れていた音楽で耳を離れないメロディがあって、
YouTubeで人気メドレーをいくつか早送りしながら聞いてみたら「beginner」という曲だった。
この曲のはじめの30秒は(ロシアのt.A.T.u.の最初の曲のようで)とてもいい。
このメロディを何度も繰り返せばいいのに最初だけで、
あとは残念なことに夢や未来を歌うまったく違う曲になってしまった。

人気メドレーを聞いているうちに発見した「桜の栞」もいい。
恥ずかしながらこの曲を聞いたのも今日がはじめて。
やっぱりテレビの視聴時間があまりに短いとおかしくなるのかな。
去年のいまごろ「ヘビーローテーション」をはじめて耳にしていいなと思ったけれど、
この旧文化好きのわたしに目をつけられたらAKB48もすでに懐メロと言ってよいのではないか。
「北斗の拳」は読んだことがないけれど、おまえはもう死んでいる、である。
いまの若い人はこういうのが「わたしの歌」になるのかと感じ入った。
というのも、もうおっさんだからいくらAKB48も悪くないと(いまさら!)思っても、
いまの時代で春を生きている若い人ほど曲に深くは入り込めない。
先日、大学時代の知り合いを自称なさる方からありがたいコメントをいただいたけれど、
「わたしの歌」と言ったら今井美樹の「pride」になるのだろう。
たぶん曲自体はいまのAKB48と比べてそう高低はないのだろうが(わかりませんよ)、
「むかしはよかった補正」が入っているため「pride」のほうがよく思えてしまう。
なにが影響しているかと言ったら時間である。
極悪人(ゆえに善人・偉人でもあった)蓮如を教科書に載せたのとおなじちからが、
ある曲を「よその歌」か「わたしの歌」かに分けるのである。
むろん、個人の好き嫌いも大きく影響するのだろうが、時間もまた偉大である。

そういえば30年という時間がテーマのひとつだった宮本輝氏の小説
「三千枚の金貨」がショックなことにさきほどブックオフに105円で落ちていた。
文庫最新刊1300円ではなく上下210円で買っていたらまた感想も違っていたはずである。
もしいまわたしが宮本輝氏のデビュー時を知っている50代、60代だったらば、
また思い出によって感想が変わっていただろう。
いまものを知らない大学生であの小説を読んでいたらまた感想が異なっていたと思う。
いまの大学生が宮本輝氏の名作青春小説「青が散る」の感想を
時代が違うのでわからないとどこかのブログに書いていた。
わたしの大学生時代だったらば、まだ理解されていたと思う。
だとしたら、わたしが好きな小説ベスト10に入れたい「青が散る」もまた、
絶対的な価値は持っておらず、
個人的嗜好と時代的影響に左右されているだけなのかもしれない。
しかし、AKB48の「桜の栞」を聞くと、
いまの若い人も「青が散る」がわかるような気もしないではない。
おなじ切ないひと時だけの情緒を描いているからだ。
とはいえ、時代は変わっていく。
なにしろわたしは宮本輝さんが作家デビューした年の1年前にこの世に生まれ落ちたのである。
あなたの時代、あなたの感想と異なるのは仕方がない。
そして、あなたの歌とわたしの歌がおなじかどうかはわからない。

3月4日に思ったことを書く。
まえに影がある薄幸っぽい女性がいいなどと、身の程を知らないふざけた好みを書いたのは、
まあだれも興味はないでしょうし読んでもいないと思いますが(アクセス少ないっすよ!)、
あれは映画女優や女流作家ならばの話である。
ふだんいっしょにいるのならば、男女問わず明るい人がいいのはみなさんとおなじだ。
愚痴っぽい人や脳内を被害妄想が扇風機のように猛回転している人は、
それなりの味があるのかもしれないが、わたしもみなさんとおなじでちょっと……。
やっぱり明るい人がいいよね。

山田太一さんの劇作「心細い日のサングラス」の感想として、
笑わない人もいてもいいのではないか、
なんて生意気なことを書いてたけれども、
いざ自分がまったく笑えない人といっしょにいたらどうかと想像するといやでたまらない。
だから、あの感想は間違えていたのだろう。
笑わないやつは笑ったほうがいいと思う。
うつうつとした人にも味があるのだろうが、我われ凡人には対処しきれぬところがある。
なるべくなら、明るい人のほうがやはりいいような気がする。

どこでも明るい人というのが実際いて彼(女)は引っ張りダコの人気者だろう。
どのくらいの比率でどこでも明るい人がいるのかわからない。
けれども、多くはだれといるかで明るくなったり、そうでなくなったりするように思う。
いっしょにいて明るくなれる人というのはたぶん相性がいいのである。
相性だから、ある意味で、それは人間にはどうにもならないことだ。
相性がいい人とひとりでも人生でめぐりあえるのはとても幸運なことである。
たとえ、わずかの期間だけだとしても、それはもう神や仏に感謝してもいいことだと思う。

だとしたら、そうか! 嫌われ者の男女ふたりでもいいことになる。
そのふたりがいっしょにいるときだけでも明るくなれるのであれば。
とはいえ、そういうケースはめったにないような気がする。
片方が暗いならば、相方がとびきり明るくないと釣り合いが取れないような気がする。
わたしもみなさんとおなじで、いっしょにいるならば男女問わず明るい人が好きだ。
(自分と無関係な作家先生や俳優さんならば、
いや、だからこそ、いまにも自殺しそうな顔をしていてもOK! 大好き、大歓迎!)
最近はおかげさまでかなり明るくなったような気もしますが相性しだいかもしれない。
「脳は「歩いて」鍛えなさい」(大島清/新潮社)

→著者は「京都大学名誉教授・脳科学者・医学博士」の大島清先生。
歩くことがいかにいいことか、科学的に解きほぐす。
わたしは著者の考え方が好きだから正しいと思う(科学的に正しいかは知らん)。
なによりも歩くのが大好きだ。趣味は歩くくらいしかない。
さて、今現在、最高峰に位置する科学者である先生いわく、アドバイスに意味はない――。

「わたしはよほど必要なとき以外、アドバイスはしないことにしている。
歩きながらその人が話したいことを話したいだけすればいいと思っている。(中略)
むずかしい人間関係に、適切なアドバイスなどできないと思っていることもある。
それよりも、悩みを抱えている人は。
どうすればいいかという答えをちゃんと知っているのだ。
黙って話を聞いているだけで、自然に自分で答えを見つけ出す。
わたしはこれも歩く効用ではないかと思う。
歩いていると意識があちこちに移り、思い悩んでいることの焦点が拡散してしまう。
それだけ客観的になって考えられるという効果がある」(P43)


ふーん、そうなんですか(ニコニコ)♪

「アジア亜細亜 夢のあとさき」(日比野宏/講談社文庫)絶版

→このシリーズは著者が女にだまされるシーンを書くことが多い。
うまいライターである。読者は自慢話など読みたくはないことをよく知っている。
本書を読んで気づいたのだが、だまされるのもまた才能ではないだろうか。
というのも、もし本書を事実そのままだとしたら著者は大損をしていたことになる。
しかし、どうしてか文章を読むとそうは思えない。
損をしたと表面上は書いていながら、実は違うという声が文面の奥底から聞こえてくる。
著者の味わった旅は、かりにいま作者がどういう生活をしていようが、
ただそれだけであるがままにいまの現実、収支、ありかたを肯定できるものだと思う。
どうしたらそういう旅(人生)を送れるのか。その秘訣は――。

「このさいなりゆきに任せてみよう」(P307)


「アジア亜細亜 無限回廊」(日比野宏/講談社文庫)絶版

→いい本だよな。ほんとにいい本だ。
続刊をネット通販で買ってしまったほどいい本である。
25年前のアジアはこれほど怪しさがあったのかとうらやましくなる。
というのも、どんどんアジア各国も日本化してつまらなくなっているのを
経験から知っているからだ。怪しいものはいい。不可解なものはいい。
著者は写真家でもあるのだが、
175ページに掲載されたベトナムの少女の写真は本当によかった。
憂(うれ)いがあるからである。笑顔にもかかわらず瞳に闇が宿っているからである。
怪しさのよろしさ、闇のよろしさ、不健康のよろしさを美しく切なく描いた本書は名著だ。
朝から酒をのむ貧民地域のボス、自称ランボーとの交友を描いた章は最高だった。
きっとなんだっていいのである。生きていたらなんだっていい。
旅をするとそのことがわかるのだろう。日本以外を旅すると――。

「はぐれ雲 山頭火」(種田山頭火・写真:間島満秀・小学館編集部編/小学館文庫) *再読

→多数の著書を世に出し、なにより医師の国家資格をお持ちの春日武彦氏が、
存命時はまったく世間から認められていなかった山頭火を評して、
あれは負け犬じゃないか、とおっしゃっていたが(「待つ力」)、
いかにも精神科医らしいこの指摘を無視してはならないと思う。
みんなちょっと山頭火をほめすぎだ。
むかし若きころの宮本輝氏は、まるで権威にすがるように山頭火を称賛していたが、
勝利を人生の目標とするこの紫綬褒章作家は、
いまは負け犬の山頭火なんてまったく評価していないような気がする(わかりませんが)。
いまの宮本輝氏は、山頭火なんかよりもはるかに名高い人のつくった骨董品を、
あたかも自分を愛するように評価しているような気配がある。
もし山頭火が精神科医の春日武彦氏のもとを訪れたら、
たぶん先生は(かなり優秀そうだから)適当な薬を処方してこの自称俳人を
まっとうな多数派の道に戻すことができるのではないだろうか。
国家(医師資格)や世間(著書多数)に裏打ちされたその自信が春日武彦医師をして、
(いまは国語便覧に載っているが実際は乞食俳人にすぎない)山頭火を
見たままその通りの負け犬と言わせたのだと思う。
現代のように精神医学が発達していたら、
山頭火もまっとうな社会人になっていたのかもしれない。
負け犬から、まあふつうの駄目犬くらいには格上げしてもらえたかもしれない。

いまはなぜか偉い人になっている山頭火など、負け犬にすぎないというのは卓見だ。
そうだ、みんな負け犬にすぎないのである。
山頭火が負け犬にすぎないように、どいつもこいつも実際は負け犬なのだ。
老いてある意味で怖いものがなくなった梅原猛氏が、
源氏物語など庶民の苦悩を描いていないから、
能よりもはるかにレベルが落ちると言っていたが(「仏の発見」)まったくそうである。
紫式部も負け犬だ。
存命時、紫式部がどれほど評価されていたというのだ?
いまの評価がすべてなのである。
宮沢賢治やゴッホをもてはやす世間のほうがおかしいのである。
わたしが愚かゆえまったく理解できない(しかし世評は高い)内田樹氏を、
対談相手に指名してもらった格下(?)の春日武彦医師は素直にほめていたが、
こういう態度を(山頭火のような)負け犬ではない勝ち組というのである。
後世の評価がなんであろうか? すべてはいまだ!
いま認められていないものは悩み苦しみ、限界まで達したら精神科を受診せよ。

「酔えばいろいろの声が聞こえる冬雨」(山頭火)

いまこんな声が聞こえてきたら、だれもが精神科に行くだろう。それは正しい。

「山頭火――句と版画」(画:小崎侃・編:村上護/グラフィック社)絶版

→「蛍の母」「風の旅人」「雑草風景」の全3巻。
いつ山頭火が嫌いになるかというおびえもあるが、まだ好きなようである。
ちなみに水上勉氏は、
はじめは山頭火を生活者の貧苦を理解していないと否定気味だったが、
晩年には考えが変わったようでかなりの絶賛に近い評価を与えている。
山田太一氏は「ふぞろいの林檎たち3」で山頭火の名を出している。
決して評価していないわけではないが、
講演会で聞いた話によると、もっと上質な俳句がいくらでもあるというお考えのようだ。
むろん、人間はいくらでも変わるから、今後だれがどう評価するかはまったくわからない。

表現とは内部の矛盾から生まれるのだと思う。
山頭火の矛盾でもっともわかりやすいのは以下のものだろう。
「やつぱり一人がよろしい雑草」
「やつぱり一人はさみしい枯草」
周囲(自然)が雑草であるときは、ひとりもまたよろしいと思う。
周囲(自然)が枯草であるときは、ひとりほどさみしいものはないと思う。
どうしてこの矛盾が生まれるかといったら人間もまた自然の一部だからである。
山頭火は自然を愛したのだろう。
変化を愛した。矛盾する自分を愛した。なぜならそれが自然であるからだ。

「ブッダ展 大いなる旅路」

→展覧会の図録である。
日本を含めたアジア各地の仏像や仏画が丁寧な解説とともに掲載されている。
なにしろナマでも仏像や仏画を見て感動したことがないわけで。
あれさ、仏像や仏画を見て感動できる人というのは、
どういう感受性を持っているのだろう。すごいなと尊敬してしまう。
亀井勝一郎によると、仏像は見るものではなく、向こうから見られるものとのこと。
この鑑賞方法を知って謎が解けたような気がしたが、本書は図録である。
タイの仏像は中性的でエロいなとか、そんなことしか考えない。
韓国の仏像は柳美里氏みたいだな、とか。
でも、あれ本当なのかな。
美術展とかでさ、訳知り顔で鑑賞している人とか、本当にわかっているの?
高尚ぶりたくてお澄まし顔をしてるんじゃな~い?
こんなゲスなことを思うやつは一生、美術品の価値がわからないのかもしれない。
しかし、わからんぞ。偉くなったら自分も!
宮本輝先生なんかむかしは下品なことばっかり書いていたのに(そこがよかった)、
偉くなったら「40歳になったら骨董がわかる」みたいなことを書いてるもんね。
山田太一先生もいまはロシアの絵画にご興味がおありなんでしょう?
偉くなると偉いものがわかってくるようになるのかもしれない。
絵画とか彫刻で胸を震わしている人を見ると、その繊細さに惚れてしまうぜ!
上品なものだけわからないのではなく、下品なもの、
たとえばヌードなんかでもどれが好きとか嫌いとかあまり感じたことがない。
結局のところ、視覚が弱いのかもしれない。
絵画とか彫刻を見て、わかったようなことをいつか言ってみたいぜ。
で、古美術商に「お目が高い」なんて言われて偽物を高値で買わされたい。

話を図録に戻す。
しかし、ブッダがパンチパーマのおっさんにしか見えないというのも重症だよな。
絵の意味なら理解できるのである。
阿弥陀如来の絵と地獄絵が相補的になっているのは言語レベルでわかる。
二河白道図は自力、つまりこっちから彼岸に向かうイメージ。
反対に阿弥陀如来の来迎図は他力、つまり彼岸からこっちに来てくれるイメージ。
しかし、基本はこちら岸と彼岸をわける考え方で同一といってもよいこと。
うん、これくらいだな、うん。
もしかしたら無意識レベルでいろいろ学習しているのかもしれないから、
うん、このくらいでよしとしよう。