「他力本願のすすめ」(水月昭道/朝日新書)

→ショックだったのは、自分がこのくらいの人にもひどく嫉妬してしまったこと。
ベストセラー「高学歴ワーキングプア」作者、定職と妻あり。浄土真宗僧侶。
ああ、いまWikipediaを見たら、
「学校法人筑紫女学園で事務員として勤務。水月昭道は筑紫女学園の創設者の孫である」
しっかりコネであることをばらされている。
結局、他力本願というのは人生は運ということなんだよね。
本書を読んで作者は親鸞思想をまったくわかっていないと(たぶん嫉妬もあり)
憤ったけれども、それでも朝日新書から本を出せるわけだから。
わたしと著者の意見が食い違ったら、肩書負けして相手が正しいことになる。
水月昭道氏の本や経歴を見るとつくづく人生は運だということがわかる。
これほど親鸞を理解していない人でもお坊さんで関係書を出せるわけで。

なーんか、うさんくさい美談が書かれていてね。
難病ALSにかかった人が人工呼吸器をつけるかどうか選択に迫られたらしい。
一度つけたら気管切開されるから二度と話せない。そして、もう外せなくなる。
で、患者さんは生に執着して人工呼吸器をつけたそうだ。
それでも、生きているってありがたいと全国を講演して回っているらしい。
これを美談として浄土真宗僧侶の著者は紹介している。
しかし、親鸞だったら早く浄土にお往きなさいと言うんじゃないかな。
そんな生きてるばかりが人生じゃないと思うけど。
このエピソードでいまの真宗の坊さんは、
念仏したら浄土に往けるなんてまったく信じていないのがよくわかった。
それにしてもなんだかな~。
弱点を武器にしろ(P120)とか、成功者はみんなこうしている(P164)とか、
まるで自己啓発本なんだよね。
きっと著者も「他力本願のすすめ」とか言いながら、
内心では自力で成功(?)したと思っているのだろう。
なんにせよ、うらやましいっす。ちぇっ。嫉妬深くてごめんよ……。

「決断なんて「1秒」あればいい」(桜井章一/ソフトバンク文庫)

→本書ではじめて知ったが、雀鬼の桜井章一氏の奥様はもしかして精神病では?
知り合いの女性に氏の奥様がおかしな電話をするらしい。
その内容が「1億円をあげる」なのだという(P42)
まあ、稼ぎに稼いでいる雀鬼だから、
そのくらい持っているだろうが、問題はそこではない。
なんとなーく、最近わかったのだけれど、どんな成功者にも弱点のようなものがある。
言い換えたらば、その弱点(不運)ゆえに運を引き寄せているようなところがある。
このへんの詳細はうまく言葉にできないのだけれど。
万事がうまくいっている人など、たぶんいないのだろう。
悩みがないと自分で悩みをつくりだしてしまうようなところが人間にはある。
さて、どうすれば運がよくなるのかいまノリノリの雀鬼に聞いてみよう。

「言い換えれば、「運」を招くには
自分の心をなるべく気分のいい状態にしておくことが大切だ。
これは君が何かを「決断」しなければならない時に確実に役立つ。
たとえば、嫌な人に遭ったりすると不快になる。
こんな時は気分が悪いから何も決めない方がいい。
逆に好きな人に会っていたり、好きなことをしていれば気分がよくなり、
いいことも起こりやすいということだ」(P161)


ほんとに好きなことをしているだけでいいのかにゃ~。

「阿佐田哲也勝負語録」(さいふうめい/サンマーク文庫)

→言葉は肩書だから、この本の出版当時みな阿佐田哲也の言葉は重んじただろうが、
さいふうめい氏の言葉には目も向けなかったはずである。
ところが、さいふうめいとは仮の名、
著者は後に大ベストセラー「人は見た目が9割」を出し、
その勢いでとんとん拍子に大学教授にまで成り上がった成功者の竹内一郎先生だ。
こうなったいまとなっては、成功者の言葉ゆえ、
さいふうめい氏の発言にも価値があるものとなる。
常勝団体、創価学会のメンバーではないが、
人生は勝つか負けるかの勝負という面を強く持っている。
負け続きの人生を送っているこちらとしてはわらにでもすがる気分で本書を読んだ。
ヒモの身から大学教授にまで成り上がったさいふうめい氏にいろいろ学びたい。
しかし、ヒモになれることさえすごい才能である。
このときは敗者だったさいふうめい氏(それでも著書を出せるのは勝利者だが)は、
おのれのことを大器晩成だと思っていたふしがうかがえる。
これは高齢失敗者がみなおちいる落とし穴でもある。
だが、氏は実際に大成功したわけだから本物の大器晩成だったわけである。

「人の運は有限、どこで使うかがポイントになる。
「大器晩成」とは、それまで運を使わなかった人のことである。
さて、物事は〝交換”によって成り立っている。
何かを得れば、得たものに見合う何かを失う。
同様に何かを失えば、代わりに何かを得ているはずだ――。
これが阿佐田哲也理論の要諦に当たる」(P27)


ああ、これまでの失敗でいったいなにを得ていると言うのだろう。
勝つ、勝つ、大きく勝つ。
なんかほんと学会員みたいだが(笑)、どうしたら大きく勝てるのか。
さいふうめい氏よりも大きく勝ちたい(しかし、勝つってなにさ?)。
ならば阿佐田哲也の言葉を参考にするべきだろう。

「大きく勝つには、大きくバランスを崩すことだ。その勇気がなかなか出ない。
どうやって、大きくダイヴィングして、破滅の穴を飛びこえるか」(P102)


冷静に考えると、大半の人間にとって大器晩成などという言葉ほど、
人生における大きな破滅の穴はないのではないか。
大器晩成とか信じるから、大きく道を踏み外してしまうのだろう。
いや、違う。飛べ、飛べ、大きく飛べ。あの大空に向かって(笑)。

「聞く力」(阿川佐和子/文春新書)

→昨年もっとも売れた本がブックオフに落ちていたので、
ネタにでもならないかと読んでみたら、いやはや参った。
世の中にはすれていない人がいるんだな~。
こういうのをひねくれていない人と好意的にと見るべきなのか、
浅い人生観に泡を食ったと正直に書くべきなのか。
世の中っていまさらながら不平等きわまりないですね。
自慢話がやたら多いけれど、読者の読みたいのは失敗話だという想像力がないのかな。
やはり単に人の悪意とあまり触れてこなかったのだろう。
相手の話を聞くこつの30に「相手のテンポを大事にする」というのがあるのだが、
「相手のチンポを大事にする」と読み間違え、間違えに気づいてひとり虚しく笑った。
これが売れに売れたってことは、世の中の人ってあんがいひねくれていないのかな。
もし本は中身よりも著者の顔や血筋のほうがたいせつだとみんなが考えているとしたら、
それはみんなのほうがおれよりもはるかにすれているぞ。

「待つ力」(春日武彦/扶桑社新書)

→ファンである精神科医の春日武彦先生の最新刊をさっそく読む。
驚いたのは、春日武彦医師がさらさら自分の人生に満足していないところだ。
あれだけ大量の著作を世に出して、経歴を見ると肩書でも出世もしている。
最近は推理小説も天下の新潮社から出版したようである。
子どもはつくらない方針らしいが、むろん奥さんはいてナースをしている。
むかし読んだ本によると休日に公園で夫婦仲良く缶ビールをのんだり幸福そうだ。
わたしなんかと比べたら百倍、千倍は恵まれているだろうに、
しかし人生にさっぱり満足していないようなのである。
いったいどれほど多くのものを人生に期待しているのだろう。
かえって成功すればするほど、もっともっとと欲が増えるものなのだろうか。
妻がいて定期収入があるくらいを人生の目標にしているものが、
きっといまは大勢いるはずだ。
もちろん、春日武彦医師もそういうことを知らないはずはないのだろうが、
人生に不満がいっぱいのようなのである。
もしかしたら、なんにもないわたしのほうがこの医師よりも幸福なのではないか、
とさえ思ってしまったくらいだ。
もしかしたら、春日武彦医師は直木賞でもほしいのだろうか。
国がくれるなんたら章を狙っているのだろうか。
老いてなお野心たっぷりの精神科医である。
春日武彦医師はなにかもっと大きな成功、名声、栄誉を待っているようなのだ。
あまりに衝撃だったので、長いが引用をお許しください。
あれほど出世した医師でもまだなにか大きな幸いを待っているのか。
つくづく人間は度し難い。

「で、わたしは運命とか偶然とか機運、巡り合わせといった
「人の力だけではどうにもならないもの」を相手に「待つ」ことを
続けねばならない場合、キューブラー・ロスの五段階に準じて
心も移り変わっていくのではないかと考えたくなる。
第一段階の《否認》は、これだけ努力したんだからきっと上手くいくさとか、
まだ機が熟していないのかもしれない等で
穏当に「不本意な気持ち」を否定して希望をつなごうとする。
第二段階の《怒り》となると、このオレが報われないなんておかしいじゃないか!
あいつばかりがいい目を見て、どうしてオレばかりが不遇なんだと
不条理感に怒りが湧いてくる。ヤケ酒を飲みつつ悪態をつきたくなる。
第三段階の《取引》となると、慢心を改めて精進しますから
少しは努力の甲斐を与えて下さいと祈りたくなってくる。
日々の生活態度を改めれば、
人生の風向きも変わってくるだろうなんて考えてみたりする。
さらに第四段階の《抑うつ》になると、気落ちして仏門にでも入りたくなる。
諦めの境地に達することもありましょう。誰にも会いたくないし、
あらゆる情報をシャットアウトして自己憐憫に耽りたくなる。
第五段階の《受容》となると、それこそ「ま、こんなもんさ」
と嘯(うそぶ)きながら手酌で酒を飲めるような境地に達するのでしょうか。
山頭火みたいな句を詠めるようになるのかもしれない
(山頭火の句がいいとはまったく思っていませんが)。
自分を顧みますと、
おおむね第二段階から第四段階の間を行きつ戻りつしていますね。
日によっていろいろですが、第二段階にあることがいちばん多い気がする。
だからいまだに中指を突き立てながら、
いい年をして轟音(ごうおん)でパンクを聴いているのでしょう。
それにしてもわたしとしては、
第五段階に達したら人生は楽になるだろうけれど、
負け犬じゃないかといった思いを拭い去れません。
平穏さを装いつつも、どこか無理をしていると見透かされるに違いない――
救われない人間とは、
そんなことをつい想像してしまう人物のことを指すのでしょう」(P139)


まとめてみる。幸福や成功を待つ五段階。
第一段階《否認》:希望をつなぐ。努力したんだから。
第二段階《怒り》:畜生、どうしてオレばかり不遇なんだ?
第三段階《取引》:お願いしますと謙虚に祈る。
第四段階《抑うつ》;だれとも逢わず自己憐憫に耽る。
第五段階《受容》:「ま、こんなもんさ」と嘯きながら手酌で酒をのむ。

やべえな。わたしはどうやら第五段階に入っている。
「ま、人生なんか、こんなもんさ」と明るく手酌で酒をのむような境地にいる。
しかし、この年までまったくプラスのことに縁がないと自然にそうなるぞ。
たしかに負け犬なんだろうが、ま、そんなもんじゃん、
あ、そっか。春日武彦医師のようになまじ出世と縁があると、
努力が報われたとか勘違いして、さらに努力を重ねて不満が募っていくだけなのか。
むしろ、一回も出世なんてもんと縁がないほうがいさぎよくあきらめることができる。
まあ、春日さん、せいぜいもがいてくださいな。

「母子寮前」(小谷野敦/文藝春秋)

→こんな小説を芥川賞候補に入れられる著者の黒い権力に思いをはせると、
本当の感想は書かないほうがいいのかもしれない。いや、書かないでおこう。
なにをされるかわからないのだから。
しかし少しだけ書くと、自分にとっての一大事を、
みんなもそう思ってくれると無邪気に信じるような幼児性は
著者とわたしの共通するところかもしれない。
自分勝手で自己正当化ばかりしているところも、
あんがい似通っているのだろう。
唯一異なるのは著者はわたしとは違って成功しているところだ。
ベストセラー出版のみならず、なんだかんだと友人も多いらしいし、
編集者にも気を遣ってもらっているようだ。
それに若い美人を嫁さんにしてしまうのだから、
著者の運のよさはいったいなんに由来するんだろう。
著者の自己中心的なところがまるで自分を見るようでムカムカしながら読了したのだが、
(たとえばむかしの女との情事は詳細に記すが、新妻との秘め事は書かない)
つくづくこの世には善因善果や悪因悪果など存在しないのだと思い知った。
本書を読んで不愉快のあまり自殺まで考えたが(あいつばかりいい思いをしやがって!)、
いま思い直したらあんな人にも幸運が舞い込むのだから、
こちらも生きていたらなにが起こるのかわからないのだろう。
次は著者自身のガン闘病記をぜひ読みたいものだ。

「黒髪の匂う女」(小谷野敦/幻冬舎)

→なーんだ「もてない男」なんてキャッチフレーズで世に出たくせに、
ずいぶんいい思いをしていやがるじゃないか。
不遇の時代にもかかわらず、
当時すでに人気学者だった有名女性文化人とあつ~くチョメチョメしたよ、
という自慢話である。
著者の私小説論からしたら、これはまあ事実らしきものになると思われる。
もちろん、書かれた相手側の女からしたらまったく事実ではないだろう。
こういうときに狂騒的な自己主張で自分の主観を事実にしてしまうのは、
どうやら著者が長い人生で身に着けてきた人生作法なのだろう。
他人にもまた事実(主観)があることを理解できない人でも、
こんないい思いをできるのかと驚いた。
いや、そういう自分勝手な男のほうが「押しが強い」とみなされ、
あんがいもてるのかもしれない。読んでいて実にいやな気分になった。

「私小説のすすめ」(小谷野敦/平凡社新書)

→私小説に対する批判はひと言で終わり、「おまえに興味がない!」に尽きる。
タレントの暴露本ならまだしも、一般人の日記みたいのをだれが読みたがるか。
ブログとかも、これを勘違いしている人が多いので本当に困る。
どうして(わたしも含め)みんなさ、
他人が自分に関心を持ってくれるとか期待しちゃうんだろう。
私小説は売れないって、そりゃあ、だれもあんたなんかに興味がないからだよ。
と言いつつも、わたしは柳美里氏の私エッセイや西村賢氏太の私小説は大好きだ。
なぜかと考えるに、あれらは嘘を書いているからである。
このことは後に再度触れるが、そのまえにまずプロフィールが重要だ。
柳さんの若いときは、ものすごい美人だと思う。
たぶん、こちらの趣味が悪いのかもしれないが(これも柳さんに失礼な物言いだ)、
あの手の暗い顔の美少女は好きなものにはたまらなくいいのである。
在日コリアンで家族に虐待されたという悲劇性もまた美少女ぶりを輝かす。
柳美里さんが林真理子女史の顔をしていたら、まず読まなかっただろう。
西村賢太兄貴も、父親が強姦で捕まっているという経歴がおもしろいのだ。
それにあの全身いんちきといった風貌もわたしの好むところである。
話は戻って、柳美里姉貴も西村賢太兄貴も嘘を書くからおもしろいのである。
かの作家たちの作品を読んで事実そのままだと思うものは、
ちょっと世間を知らないのではないか。
いや、あれらを事実起こった通りだとだまされていたほうが楽しめる、
というのも私小説のメカニズムとしてあるのではあるが。
私小説というのは本当にあったこととして嘘を書くもの。
物語小説というのは嘘だと断っておいて本当のことをこっそり書いてしまうもの。
わたしはそういう小説観を持っているけれど、
どうやら元大阪大学助教授の小谷野敦博士は異なるようである。

「あと、私小説であるからには事実に基づいているわけで、
その事柄が起こった日付などの時間的経過を、まずきちんと把握する必要がある、
人間の記憶というのはあてにならないもので、
実際には同じ日に起きた出来事を別の日のことだと思っていたり、
僅か三日の出来事を一週間くらいかかったものと思っていたりするものだ」(P151)


だから、私小説がおもしろくなるのである。
「人間の記憶というのはあてにならないもの」だから、
たとえたいしたことのない現実でも私小説ではおもしろく書けてしまうことがあるのだ。
事実をそのまま書くのならルポになってしまうわけだから。
本当の洪水のなかにちょろっと嘘を入れる、このあんばいが私小説のうまいへたを分ける。
私小説を読む楽しみは、どこが嘘かを探ることだと思う。
反対に物語小説を読みながら、どこが本当かを探るのもまた楽しい。

「だが、私小説には私小説なりの論理がある。
私小説を書く際には、他人のことを、事実を曲げて悪く書くのはいけない。
それはむろん小説に限らない、当然の論理である。
逆に、自分のことを、事実を曲げてよく書こうとするのも良くない」(P178)


たぶん著者は一生このことを理解できないのだろうが、事実などないのである。
ある事件が起こったとする。AとBがいたとする。

A(主観)←(事実)→B(主観)

あるのはAの主観とBの主観だけで客観的事実というものは存在しない。
もしかりに、このときにCという人間がいたとする。
このときCもまた主観を持つのだが、それがABと完全一致することはありえない。
まあ、Aの主観あるいはBの主観、どちらかに似ているということはあるだろう。
このとき「多数派は正義」の論理が働いて、
AあるいはBが事実を言っていると世間は判断するが、しかし、
もしDという人がいたら違うほうの肩を持つかもしれないわけで、
もし二対二になってしまったら、今度は肩書が勝負になるようなこともあるだろう。

私小説を書く喜びは現実をゆがめることにあるのではないかと思う。
俗に女流作家は被害妄想の強いほうがよろしい、と言われるのも、
たぶんこういう事情による。
西村賢太氏の私小説など、嬉々として自己を悪く飾っているではないか。
柳美里氏は家族をなんと悪人のように書いていることか(あれは家族だから許される)。
私小説を書くことで、現実を改変する喜びが得られるのである。
一般に辛いことも私小説に書いたら落とし前が着く、というのは、
言葉にしてしまうとすべてが嘘になってしまうからだと思う。
最後に断っておくが、この主張は正しいものではない。
なぜならば著者は元大阪大学助教授のベストセラー作家、
つまりわたしよりも肩書が上だからである。
ほとんどの場合、肩書の上のものの意見が正しいこととして通用する。
これを批判する気もなく、世間とはそういうものなのである。
このため、万が一拙文が著者のお目に触れても、
どうかお気を悪くなさらないでいただきたい。
なぜなら読み手の大半は小谷野博士のご意見のほうが正しいと思ってくれるでしょうから。
変にあわてると、肩書の安定感が揺らいでしまうのでご注意あれ。
格下は相手にしないのが大物の証なのである。

「三千枚の金貨(上)(下)」(宮本輝/光文社文庫)

→なんでいま980円の靴を履いている人間が、
1300円も払ってこんな小説を読ませられなきゃならないのか、
本当にもう人生というものがいやになった。
どういう話かというと、40過ぎのエリートサラリーマン3人が、
3000枚の金貨がどこかの木の下に埋まっているという話を聞きつけ見つける話だ。
金貨は1億円相当らしく、
金のために動くというのがいかにも創価学会員のようで笑おうとしたが笑えなかった。
結局、見つけるのだが、掘り出すのは20年待とうなどと
成熟した大人ぶるところが、いかにも善人ぶりたい学会員のようでうんざりした。
金が目当てで動いたくせに、いざ金が見つかったらきれいごとを言うなよ。
主人公が銀座のバーで山盛りのキャビアをシャンパンで流し込むシーンがあるのだが、
980円の靴を履いているこちらはキャビアもシャンパンも
人生で一度として口にしたことがないので(別に食べたくも飲みたくもないがね)、
そういう舌の肥えた富裕層にしかこの小説のよさはわからないのかもしれない。
こちらとそう年齢が変わらないにもかかわらず、美しい妻のいるエリートサラリーマンが、
400万も若い水商売の女に金をつぎ込むところで泣きたくなった。
こちらはもう妻をめとるのでさえあきらめているのに、
なかにはちゃんとした奥さんもいるのに若い愛人までつくる果報者がいるのか。
40歳を過ぎると骨董がわかる、なんて話もどこの世界の話ですか? と悲しくなった。
貧乏人が売れっ子作家に成り上がると、
キャビアだのシャンパンだのゴルフだの愛人だの骨董だのと
自慢たらしく小説に書きたくなる気持はわからなくもないが、
毎日のように健康にもいい美食を召し上がっていらっしゃると、
そうでない読者がいることに想像が及ばなくなってしまうのだろうか。
いま思いついたが宮本輝氏の優秀なご子息ふたりは、
この小説に出てくるエリートサラリーマンのような恵まれた生活を送っているのだろう。
ちなみにご子息ふたりとこの文章を書いているものはそう年齢が変わらない。
どうしてあちらばかり恵まれているのか。
夫を若い小娘に寝取られたエリートサラリーマンの妻の発言にヒントがあろう。

「自分は宗教というものを持っていないが、
仏教には宿命とか宿業という言葉があるそうだ。
これまでその言葉について考えるというようなことはなかったのに、
いざ自分の身に夫の浮気という事態が生じて、
しかもその女が家にまで押しかけてくるなどという屈辱を味わってみて、
自分はこれこそが、柏木家の女たちの宿命、
もしくは宿業というものなのかもしれないと考えた。
もしそうであるならば、どこかでそれを完全に断ち切らねばならない。
だが、どうやったら断ち切れるのか……」(上巻P265)


やっぱり創価学会に入って宿命転換するしかないのかな。
宿命転換したらキャビアの山盛りをシャンパンで流し込めたり、
ゴルフ練習をしながら若い愛人を囲ったり、
50万もする美術骨董品を購入できるのだろうか? でも、そんなの幸福?
おそらく、創価学会にとっての幸福はそうなのだろう。

「損か得かで物事を決めることも大事でっせ」(下巻P124)

「忘れることが勝つことだ。傷をひきずらないことが勝つことなのだ」(下巻P128)


損より得を取れ。負けるな。勝て、勝て。創価学会精神をまるで隠さない作家である。

「何事にも表と裏がある。表が正、裏が邪というわけではない。
表と裏で一枚なのだ」(下巻P133)


社会や政治、芸能界の裏側でもしかして学会が暗躍していたりするのですか?
そういう表舞台には一生縁がなさそうなので、もうどうでもいいのだけれどさ。

小説を読みながらまったく笑いも泣きも生じなかったので、
細かなアラをチェックする意地悪おっちゃんになってしまったよ。
30歳そこそこのいまの女性が会話の語尾に「わ」をつけるのはありえないわ。
他人の海外旅行話ほどつまらないものはないのだが、
日ごろ周囲からちやほやされていると現実認識が鈍るのでしょうか。
知らない中年男の旅行話を楽しそうに聞いてくれる女子高生なんていないわ。
40過ぎのサラリーマンでメールの送信ができないやつもいないと思うわ。
それとこれは校正者のミスでもあるのだろうが、
4、50年前の会話に「真逆」という言葉が使われているのはおかしいわ(下巻P155)。
「真逆」は2000年ごろから使われ始めた最近の言葉だわ。

登場する芹沢由郎が池田大作氏、セリザワ・ファイナンスが創価学会の暗喩とも
読めなくはないので、ここだけは関心があって、どう描くのか期待していたら、
なんだか尻すぼみに終わってしまったので、これがもっとも残念だったわ。
池田大作氏が死なないうちはまだ書けないことがあるのかもしれないわね。
しかし、1300円を投入してなんでこんな悲しい気分にならなければならないのでしょう。
しつこいようだが、キャビアとかシャンパンとかフォアグラとか、なんだかな。
そういう高級食品って1300円で買えますか?
もちろん、わたしのこのつたない感想が正しいわけでは断じてない。
紫綬褒章作家の小説を正しく理解できないのは読み手が到らないからだと思う。
たぶん「三千枚の金貨」(金、金、金のすごいタイトルだよな……)は、
キャビアやシャンパンのようなものなのである。
わたしなんか下手をしたらいざキャビアを食べてもまずいと思うかもしれない。
シャンパンを飲んでもそうと知らなかったら焼酎のほうがうまいとも言いかねない。
だから「三千枚の金貨」は味のわかる、違いのわかる大人のための傑作小説なのである。
おもしろさを理解できないのは幼いせいと考えてまず間違いないだろう。
この小説は読者が果たして大人かどうかが残酷にもわかってしまう試金石と言えよう。
ぜひご一読をおすすめしたい。