「仏教が好き!」(河合隼雄・中沢新一/朝日新聞社)

→宗教学者の中沢新一氏が河合隼雄に実に鋭い質問をしていたので感動した。
結局、心を病んでいる人というのは少数派なのである。
多数派とは異なるという理由で病んでいると診断され(あるいは自覚して)
精神科医や、それでもよくならないものは健康保険のきかない、
たとえば河合隼雄氏のような心理療法家のもとを訪ねてくるわけである。
河合さんもときおりにおわせてはいるが、そういう病はまあ贅沢病なのである。
というのも、本当に金がなかったら、心理療法など受けられないのだから。
つまり、そのまんま放っておくしかない。
(あまり大きな声では言えないが、それでも、ときに? かなり? 治るのであろう)
これは偏見かもしれないが、額に汗して大地に向かって格闘しているものの大半は、
よほどのことがないかぎり心を病んだりはしないのではないか。
とはいえ、全員がお百姓さんや土木作業員になるわけにもいかないし、
ミミズや砂利と格闘しているばかりでは文化や芸術も生まれようがない。

このため、心を病むことにもきっと意味があるのだろうと河合隼雄は考える。
そして、心を病むとはどういうことか突き詰めて考えると、
前述のようにやはり意図せずして望まぬ少数派になることなのである。
繰り返すが心を病むとは、少数派になること。
よしんば、うつ傾向があっても社会全体がどんよりとうつならば異常ではないのである。
たとえ不登校でも学校に行かない学童が5割を超えていたら、
両親も当人もわざわざ思い悩んでカウンセラーになど逢いに行く必要はない。
出社拒否症でも、周囲がみんなだらだらと遊び暮らしていたら問題にはならない。
みんなと違う(=少数派)から病んでいることになり、そうなると、
そのことにことさらこだわり問題を悪化させてよけい苦しむようになるのだ。
たとえ幻聴が聞こえていても、その幻聴と折り合う仕事(もしくは資産)があり、
幻聴と楽しく会話できるようになれば少数派でも一向に構わないことになる。
漁村などで雨の日は朝から酒をのむ風習があればアル中にはならない(アル中ではない)。
心理療法対象のいわゆる病は、少数派ということに過ぎないのかもしれない。
たとえばわたしは吃音症だが、みんながどもっていたら異常ではない。
むしろ今度はどもらないほうが異常となり心理療法の対象になるかもしれない。
わたしに関してはもうどもりは完全にあきらめているから、
いまさら高い金を払って心理療法や訓練道場といったものに通う気はさらさらない。
これは果たして治ったのか、治っていないのか、考えてみるとよくわからない。

幸福についてもよくわからない。
ひねくれた目でものごとを見ると、たとえば安っぽいテレビドラマに感動して、
新聞や雑誌で聞きかじったような政治への不満を周囲に訴えてすっきりできる人が
もしかしたら本当に幸福な人なのかもしれない。
ともかく、多数派の一員であることはおのれを幸福と錯覚させる要因のひとつだろう。
ベストセラーを読んでみんなとおなじように感動して、
評判の高いレストランでものを食い満足して、みんなとおなじように老いて病気にかかり、
平均寿命前後で死んでいければ、まあ幸福とも言えないことはないのである。
幸福かどうかはさすがにわからないが、そこそこ正常な人だったということになろう。
みんなが無気力で退廃的だったら、今度は前向きなやつが病気ということになる。
「おまえはいつ死ぬかわからないことを少しは考えろ」と説教する人がいてもいい。
とどのつまり、なにが病か、なにが正常か、なにが幸福かはわからない。
多数派に戻ることが治癒なのか、多数派に従うことが幸福なのか、わからない。
このことを河合隼雄氏ほど理解していたものはいなかったことが以下の引用からよくわかる。
もちろん、問いを発した中沢新一氏も立派なのである。
多少長い引用になりますが、どうかご勘弁ください。

「中沢――これは僕の疑問に関わってくるんですが、
心理療法家というのはいったい何をする人なのかということですね。
つまり、陳腐であろうが何であろうが、人びとは安心感を欲している。
陳腐なことが好きだからテレビを見るわけですし、それをみんなもとめてしまう。
けれども、陳腐な理解では安定できない人、安住できない人たちがいる。
で、河合先生の前に行く。
河合先生には二つ可能性があるわけでしょう。
一つはクライアントに対して、
「陳腐なところへお帰り。そうすればみんなといっしょになれるじゃないか」
という可能性ですが、河合先生の場合、そこで「もう絶対戻れませんよ。
それぐらいなら陳腐な結合をやめて、もうちょっと深いところへ行ってみなさい」
って言う人なのかなあと思うわけです。
河合――その判断がいつもむずかしいと思いながらやっています。
陳腐なほうへ戻るためにいっしょになってみたり、
深く降りるほうをやってみたり、両方いろいろですね。
もう一つ思っているのは、不安なほうへ向かわせるのだから、
それを超えた安心感みたいなものを相手に与える人間でないとだめだと思っています。
そうでないと、その人は不安でしようがないわけです。
だから大きい意味の安心感はあるようにしておかないと。
中沢――それは親鸞が言う阿弥陀如来みたいなものかもしれません。
とにかく絶対的な安心感がある。
河合――僕は、絶対的とまではいかへんけど、
そういう点では相当の安心感を与えられると思います。
それは僕が持っているというよりは、それこそ阿弥陀如来じゃないかもしらんけど、
何か自分を超えたもの、そういうものがあると。
中沢――それは河合先生がずうっと追及されていることですよね。
河合――そうです。
中沢――「阿弥陀如来」と言ってしまってもいいし、言わなくてもいい。
「グレートマザー」でも「自然」でもいいけれども、
そう言ってしまってもいいし、言わなくてもいいわけですね。
ただ何かさっき言った「絶対肯定」……。
河合――みたいなものはある。
ただ、それに名前をつけて存在を確かめたり、名前をつけることによって
「こういうのがあるのです」という言い方は、僕はまだしません。
してないというか、それはできない。
自分の体験としてできないんだからやっていないだけですが」(P151)


長い引用を最後までお読みいただき本当にありがとうございます。
実のところ、この2週間のブログ更新は、
上記の河合隼雄先生のご発言に勇気をもらったものかもしれません。
名前をつけられないけれども(一切空)、
絶対的なもの(自分を超えたもの)があると、あの河合隼雄先生がおっしゃっている。
ならば、なにが正常か異常かも、なにが幸福か不幸かも実のところわからないのだろう。
このことを心底からわかっていた人がいたというだけで安心できるところがあるのだと思う。

「生きるとは、自分の物語をつくること」(小川洋子・河合隼雄/新潮社)

→物語はどうやってつくるのだろう?
対談で作家の小川洋子さんが河合隼雄に質問する。

「結局「人間はどうして死ぬのか」とか「死んだらどうなるんだろう」
という恐怖が、物語を生み出しているということでしょうか」(P82)


この問いに河合隼雄は「もう絶対にそうですね」と答えている。
つまり、小川洋子さんの発言が正解だと言っているようなものである。
しかし、そうなのかな? いや、河合隼雄が言うんだから、そうなの?
小川さんは金光教の家に生まれている。
宗教というのが、物語と大きく関係しているのはなんとなくわかる。
で、宗教とはなにかといったら、死をどう扱うかに尽きる。
死の説明の仕方で宗教の種類がわかれているようなところがある。
うーん、だから、やはり小川洋子さんの言うとおりなのか。
けれど、物語が出てこないんだよな。どこか宗教に入ろうかな。
小川さんは元から金光教の家に生まれたわけである。
そういう形でないといまどき自分から宗教なんて入れないよな。
だれかから誘われて入るのは落とされたような敗北感が生じる。
もう人生行き詰ったから、新興宗教でも入って自己洗脳しないとダメかな。
でも、そんな都合のいい宗教なんてないよね。
よくさ、成功者の話とかで、都合のいい偶然が起こるけれど、あれ本当なの?
~~会に入ったらいいことがいっぱいありました、とかさ。
また河合隼雄も新興宗教めいたことを言うんだ。

「都合のいい偶然が起こりそうな時に、
そんなこと絶対起こらんと先に否定している人には起こらない。
道に物なんか落ちていないと思ってる人は、前ばっかり見て歩いているから、
いい物がいっぱい落ちとっても拾えないわけでしょ。
ところが、落ちてるかもわからんと思って歩いている人は、
見つけるわけですね」(P53)


そういえばむかしある新興宗教のメンバーと思しき人から
毎日のように「前向きになれ」と指導されたことがあったな。
結局、その人からも見切られて新興宗教にさえ勧誘してもらえなかったけれど。
後ろ向きな思考法であるという自覚はある。
そっか、河合先生! 下を向いて歩けばいいんですね!
そうだよな。1千万くらい道に落ちているかもしれないもんな!
落ちてるかもわからんと思って歩いていたらいいのか!
ようし、明日から下を向いて歩くぞ!

「猫だましい」(河合隼雄/新潮文庫)

→文学を教える日本最高峰でいまや大盛況の私塾、
猫猫塾の総裁が大嫌いな河合隼雄さんの本をうっかりまた読んでしまう。
猫にまつわる物語から河合さんは生きるいろいろな味わいを紹介する。
きっとこの心理療法家は、
臨床の過程でふつうの人は決して見ることのできぬ人生の深層を何度も見たのだろう。
しかし、職業上おのれに課した守秘義務のため事例は公開できない。
がためにこうして自分が見たことをフィクションの物語に託して語るしかない。
猫は仏教でいえば畜生界を生きるものだが、
本書で著者は畜生界を生きるのもまたひとつの生き方だと主張しているような気がした。
だいぶまえに読んだ本だが、
きっかけは宮本輝氏の「避暑地の猫」を読了したそのつながりである。
「避暑地の猫」はまさに畜生界を生きる人間たちの欲望にまみれた物語であった。
河合先生の本はかなり積ん読しているが、
せっかくだから猫つながりでこれを読んでみようと思ったのだった。
こういう方法はまさに河合隼雄氏から教わったものである。

私事を語ればどうも動物は苦手で、考えてみたら猫にさわったこともないかもしれない。
猫を愛撫するのはなかなかいいものらしい。
では、異性と猫のように愛撫しあうのはどうか。

「愛撫は人の心をとろかしてしまう。疲れやわだかまりが溶け、
人と人と、人と世界とが融合してしまう、至福の状態と言うことができる。
こんなことを知らない人は不幸な人だ。とは言うものの、
このようなことを経験する人は幸福だとも言えないのが、
人生の面白いところである。
もっとも、現在では金もうけをしたり、
地位が上がったりすることが幸福と考える人が多いようだから、
とろける世界の見事さを知ることが必要と思われる」(P196)


どっちなんだよ、と突っ込みたくなるが、
どっちも正しいことが実はたくさんあることをわたしは河合氏から学んだのだった。
たしかに猫は金もうけにも地位にも頓着しない。
近所に夜中、野良猫にエサをあげている人がいるが、あれも幸せなのだろう。
いや、猫には幸せなどないのだろう。畜生にはなにもない。
ほんとうは人間にもなにもないのだろう。
著者は谷崎潤一郎の「猫と庄造とふたりの女」を読み、次のような感想をいだく。

「悪とか闇とか破壊などと呼ばれることにこそ、
名状し難い美や味わいのあることを、
作者は示したかったのだろうと思う」(P212)


猫のように畜生界を生きる女性と愛撫しながら破滅するのもまた悪くない。
こう言っているのだろうが、これを心理療法家が言うとは。
クライエントを正しい生き方に導くのが心理療法家ではないのである。
美しい悪、闇、破壊にいたる道筋を猫のような存在が教えてくれる。
河合隼雄氏は思春期の少女は猫のようなものだと言う。
氏は思春期の少女が苦手で、クライエントとして来てもほかにお願いするらしい。
それにしても思春期の少女は猫だとはぎりぎりのことを言っているわけだ。
少女を人間よりいちだん低いものと見ているわけだから。
いや、そうではない。猫ははたして人よりも下等なのか。
思春期の少女たちは、自分を猫のように「異種」であると感じているという。
なぜなら人間(大人たち)とは言葉が通じないからだ。
自分たちが優位に立っていると思うことも(大人はダサイ)、
そのうち自分たちも人間(大人)になるがいまは猫なのだと感じている場合もある。

「強い「異種」感を味わっている少女に、
「あなたは人間と異なる動物だとすると、何ですか」
と質問してみるのも面白いだろう。
「猫」と答える子は多いのではなかろうか、猫の持っている、
独立性、不可解さ、優しさ、残酷さ、
などピッタリのところが多くあると思われる」(P217)


独立性を持った、不可解だが、優しさと残酷さを併せ持つ美少女とかいいよな。
まさに悪や闇、破壊に通じているような気がする。
期間限定でそのうち人間になってしまうというのもいい。
人間にならないで猫のまま生をまっとうするものなどいたらどれほど美しいか。
いまの美少女アイドルとか明るすぎてつまらないんだ。
不可解で残酷な美少女をなぜマスメディアは売り出さないのだろう。
美というのは悪、闇、破壊に通じていないと本物ではないと思う。
猫にひっかかれるのもまたいいのだろう。
今度、勇気を出して野良猫にでも触れてみようと思う。逃げられちゃうかな。

うちにいる猫と大熊猫↓
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「仏の発見」(梅原猛・五木寛之/学研M文庫)

→2年前の対談だけど、両先生ともお元気だよな~。
この人たちの業ってなんなのだろう。
やはり変な言い方になるが戦争を経験している世代は強い。
なまのいのちのありかたを身をもって実体験しているわけだから。
五木さんも満州から引き揚げてくるときに、まあ悲惨なものを見たようだ。
ロシア兵が女を要求してきて、だれを出すとかの悶着とか修羅場だよな。
女学生はやめよう、子持ちの母親はやめよう、とか。
で、泣きながらいやがる同胞の女をロシア兵に引き渡すわけである。
なかには帰ってこない女性もいたとか。
だれかを犠牲にしなければ生きられないのが戦争なのだろう。
いのちは地球より重いわけではなく、優劣があることをまざまざと知らされる。
やはり実体験ほど強いものはないのだと思う。五木さんいわく――。

「まあ、後世に名が残るような文学者、宗教家が、押しなべて、
人生の悲哀を心底味わうような経験をしている。
法然、親鸞や夏目漱石などに比べると、
私の悲哀などたいしたものではないけれど、その体験があったからこそ、
こうして、仏とは何ぞや、仏教とは、と考えさせられ、
いまこうして梅原さんに教えを乞うチャンスを恵まれているような気がします。
これも親鸞の言う「わがはからいにあらず」。
自然法爾、他力の計(はか)らいといってもいいんでしょうか。
何か、そんなふうに、これまでの悲哀を肯定したい気持ちになりますね」(P67)


知的興味から仏教に関心を持ったわけではないと主張しているわけだ。
さて、老人の対談は語られる内容よりもゴシップがおもしろいわけだ。
本書でもいろいろ楽しいよもやま話が出てくる。
井上靖が梅原猛さんの本を読んで、あれは小説だと言ったとか。
まったくそうだよな。梅原さんは学者じゃなくて作家だと思う。
というのも、恨みが強すぎるからだ。
本書でも梅原さんはまたまた三島由紀夫の悪口を言い放っている。
これは本当かどうか、わたしは嘘ではないかと疑っているが、
なんでも三島が「豊饒の海」を読んでくれと頼んできたとか。
この小説を仏教思想と読めるかどうか三島は梅原さんに質問してきたというのだ。
梅原さんは、これは仏教ではないと否定したという。
そのうえで、自分は三島に唯識仏教を教えてやればよかった、とかなり上から目線だ。
三島は自分に悪口を言われてかなりショックだった、
と人づてに聞いたとおかしな自慢までしている。
晩成の梅原さんは三島由紀夫のように若くして世に出たやつを許せないのだ。
その気持はほんとよくわかるが、それにしてもしつこいぜ!
いや、嫌いなだけではないのだろう。どこか好いているところもある。
いまや大学者となった梅原猛氏は告白する。

「まあ、太宰にしても、三島にしても、川端にしても、
やっぱり異常な人だったと私は思いますよ。
そういう異常な人がいなくなって、日本の文学は寂しくなった」(P173)


かくいう梅原猛もまた「異常な人」である。
「隠された十字架」を執筆していた時期など1日に80枚とか書いていたという。
異常ということは、狂っているということになるのだろう。
五木寛之さんもまた狂わないとものを書けないことを知っているようだ。

「まさに作家の仕事というのはミディアム、巫女とか霊媒だと思いますね。
ある意味では、イタコのような依代(よりしろ)になって、
お前はこれを語れ、という声が聞こえてきて、その声に揺り動かされて、
憑(つ)かれたように物を書いていくというふうな」(P93)


この本で知ったが梅原猛氏が仏教の勉強をはじめたのは40になったときとか。
いったいどんな声が聞こえてきたのだろう。
そこで狂ってしまう人と、梅原さんのように大成する人にわかれるのかと思われる。
とはいえ、わたしは梅原猛さんほど権力志向の強い人をちょっと知らない。
五木さんは自然に世に出てきたが、
梅原さんは力尽くで成り上がったようなところがある。
つぶされた人も多いのだろうが、それが歴史なのだろう。
わたしも梅原猛とおなじで「異常な人」が大好きである。

「日本人・いのちの風光 梅原猛vs.ひろさちや対談集」(主婦の友社)絶版

→「本の山」の仏教思想は8割方ひろさちや氏と梅原猛氏によっているから、
両先生の対談本を見つけたら読まずにはいられないわけである。
この対談を読んで改めて思ったのだが、梅原猛氏はむろんのこと、
いまやチープな過激書を濫造するだけになってしまった(失礼!)
ひろさちや氏が実によく勉強しているのである。
勉強に勉強を重ねて、学問のくだらなさに見切りをつけて、
いまのようないささか怪しげな宗教ライターになってしまったのだろうか。
お亡くなりになるまで書くのはやめようと思っていたが、ひろさんは偉いよ。
うちのブログもバカに見られるのがいやだから、
「カテゴリーひろさちや」を作っていないけれど、亡くなったら作る。
もしかしたらひろ先生、死んだらかなり偉くなるんじゃないかな。
あたまの働き方がわたしなんかとまるで違うし、やはり東大卒はすごいと思う。

東大といえば日本史の過去問に難題が出たことがあるのである。
「どうして鎌倉時代の一時期にしか優秀な坊さんは出てこなかったか?」
対談で梅原猛さんが指摘するのも似たようなことで、
「日本で偉い坊主が出たのは平安の初めと鎌倉の初めの二回だけで、
その後はどうもパッとしない」――。
そのうえで「これはどういうことなんでしょうかね」とひろさんに質問している。
その答えがおもしろい。

「一つは如来蔵思想の系統からいくと、凡夫が如来を蔵しているという形ですね。
自分の中にある如来性を磨き出すという哲学を完成させたのが道元で、
それから親鸞は、
如来の中に包まれている凡夫だという思想をぎりぎりまで推し進めていった。
それと、如来と凡夫がイコールなんだというのが空海の思想であるわけです。
仏教はこの三つのパターンでもう尽きるのではないかと思うんですが」(P148)


これを梅原猛氏は、
「仏教そのものが理論的に全部追及されてしまったということですね」と引き取る。
ひろさちや氏は自分の考えた自分の言葉でうまいことを言うよな~。
わたしの言葉にしたら、きっと自然とのパターンも3つなのである。
自分のなかに自然を形作っている根本があることに気づく仏教。
大きな自然のなかに生かされていることに気づく仏教。
自分がそのまま自然であることに身体全体で気づく仏教。
このほかにも両先生の斬新な指摘には学んだところが多い。
ひろさちや氏や梅原猛氏の言葉を読んでなにがわかるかといったら、
だれかから知識を教わるのもいいが、
自分自身でものを発見してもいいのだということである。
むしろ、そのほうがものを教わるよりも何倍も楽しい。学ぶのは喜びだ。

「わが家の仏教 浄土真宗」(四季社)

→あんまりこういう本音は書いちゃいけないのだろうが、
本書の序文で立派な肩書をお持ちの偉い先生が文章をご披露なさっているのだが、
それがもう本当に意味不明で、そのくせ偉そうで不愉快な、
あたかも自分はすごい真理を知っているかのようなことを書いているのである。
浄土真宗内部で出世するのは、むしろ浮世以上にいろいろ大人の事情があるのだろう。
かならずしも能力と出世が比例しないのは、もしかしたら実社会以上なのかもしれない。
こういう不穏なことは考えてはいけないのである。
肩書がご立派な人がおっしゃることは、正しいに決まっているからである。
しかし、いまの坊さんの言葉は、まるで校長先生の朝礼訓話みたいだと思う。
あれは偽善くさいものの子供向けのためまだ意味が理解できるのでよいが、
お坊さんになるとくだらぬ知識を誇るようになるから本当に始末が悪い。

本書を読んでいまの浄土真宗は死のにおいを消そう、消そうとしていることに気づく。
「正信偈」本文の「正定」なんて、
どう考えたって「死んでから浄土に往生すること」なのに、
解説では現世の話になっていて「真実に生きて往く道が定まる」ことだそうだ。
同様、「生死輪転」は生まれ変わり、つまり六道輪廻のことなのだが、
本書の現代的解説では「生に愛着して死を恐れて堂々巡り」することになっている。
親鸞の教えは死が中心にあって、ひと言で言えば死んだら往生できるに尽きるのだが、
いまの真宗は現代の風潮に同化して死の無視にひた走っている。
いまでも坊さんになりたい気持はあるのだが、
もし真宗に入ったら即破門されるような気がする。

「浄土真宗の仏事」の紹介では、とにかく金、金、金が透けて見えてうんざりする。
お坊さんを尊敬しましょうとか自分たちで書いてしまう坊主ってなんなの?
お金の包み方を自分たちで書くのはいかがなもんかい?
お車代を忘れないようにしましょうとか、どれだけ坊さんってやつは守銭奴なんだ?
儀式もいろいろあるようだが、どうしても金儲けにしか見えない。
いろいろな儀式を決めたのは、たぶん蓮如なのだろう。
親鸞は「お布施など不用」と言っていたことになっているのだが。
「なんでもOK! 女体もOK! 悪もOK!」の浄土真宗の坊さんは、
いちばん世の中でおいしいポジションのような気がする。
むかしの真宗が宿業なんたら言っていたのは、
自分たちの恵まれすぎたポジションは前世の功徳としか説明できないほど
うまうまとしたものだったからではないか。
ああ、生まれ変わったら真宗の坊さんの家で育ち、
長じてはうまいものをたらふく食い大酒を飲み、門徒からの尊敬を一手に集め、
しまいには愛人の2、3人は囲ってみたいものである。
そのためには現世で功徳を積まなければなるまい。
やはり今年の目標「人に親切にする」は間違っていなかったと再確認する。

「正信偈」(親鸞/「わが家の仏教 浄土真宗」四季社)

→正信偈(しょうしんげ)は正しくは正信念仏偈といい、
浄土真宗の門徒さんが毎日のおつとめとして読み上げることになっている。
内容は親鸞の大著「教行信証」の一部で、
ここに全体の要約がなされていると本願寺8世の蓮如が判断して、
いまのように毎日の勤行に取り入れられた。
怪しい呪文めいたものは嫌いではないので、
もしかして偉大な真理が説かれてるかもしれないと思い、
たいせつに何度も精読したのだが、三度目の熟読で気がついてしまった。
正信偈は漢文の羅列で、この入門書には読み下し文が解説とともについている。
なにを気がついたかというと、親鸞の漢文がおかしいのである。
いちおう大学受験で漢文を選択しているし、第二外国語は中国語である。
しかし、長いことあの偉い親鸞の言葉だからという先入観があったのだと思う。
3回目の丹念な読みの過程で、やはり親鸞のほうがおかしいとわかった。
どう考えても親鸞の漢文は文法構造上、読み下し文のようには意味が取れないのである。
言っちゃいけないことかもしれないが、親鸞はちとばかしおバカさんなのね。

あーあ、知らなければよかったことをまた知ってしまったかと後悔する。
知らないでありがたいものだと思い込んでいるのもまた幸いなのだ。
この段階でしばらく放置して最近また読み直した。
すると、なんだか心が落ち着かなくもないのである。
むかしは意味を考えながら読んでいたので、意味が成立していないことに不満を感じた。
ところが、その意味がよくわからないところがそこそこありがたいのではないか。
要するに、さらに思いを改めたわけである。
「正信偈」の内容は、肩書の大合唱である。

「正信偈=肩書大合唱♪」

相対の人間世界の言葉をどうつなげてもなかなか絶対にはたどり着けない。
このため、親鸞は偉い仏僧の名前を延々と並べるわけである。
具体的には以下である。
無量寿如来→法蔵菩薩→弥陀本願(仏典)→
→釈迦→龍樹→天親(インド)→→曇鸞→道綽→善導(シナ)→源信→法然(日本)
自分の信心は、上記の偉人たちに支えられているという主張だ。
細かく読んでいくと、本当は親鸞が独自に編み出した思想も、
ほかの高僧が説いていることにしているのがなんとも印象的だ。
しかし、信心というのは、元来そういうものなのである。
法然もおなじことをしているし、源信もシナ高僧の教えをねじ曲げているところがある。
偉い人がこう言っているから正しいという論法である。
仏教思想を見ていくと、本当にまったく言葉は肩書でしかないことが理解される。
だれかの言葉を信じて賭けるのがおそらく信仰の内実なのだろう。
ぶっちゃけ、信仰は人それぞれで、おなじ浄土真宗門徒でも信じているものは違うと思う。
いけないと批判しているのではなく、信心とはそういうものなのである。
親鸞なら親鸞のどの言葉を信じるかは各自の自由なはずである。
ところが、新興宗教の場合、かなり信者の自由は狭められ、
よくも悪くも盲目的に同一内容を信じることを強制される。
我われが親鸞から学ぶことがあるとすれば、
自分の信心(お話)を作っていいということである。
親鸞はあまたの高僧や仏典の言葉から、
都合のいいところだけ選択して自己の信心を決定した。
それから自分の主張は高僧も言っているから正しいとひっくり返したのである。

さらに重大なことが「正信偈」からわかるのではないかと思う。
親鸞は自分の考えをほかの高僧が言っていたと偽装(信仰)していると書いた。
たとえば、親鸞は「報化二土」の教えを説いている。
我われが念仏を唱えて往く浄土には、
報土(本物)と化土(仮物)の二種類があるというのである。
「正信偈」では源信がこれを説いたとされているが、実は親鸞のオリジナルである。
しかし、自分の考えと言ってしまったら教えの正しさが証明できない。
このため、「往生要集」で有名な源信の名義を借りたわけである。
さあ、もっとも主張したいことに入ろう。
師匠の親鸞がしたこととまったくおなじことを弟子の唯円もやったのではあるまいか。
何度も書いてきているが、
唯円の「歎異抄」は実はかなりのところ唯円自身の信心(思想)ではないか。
学者、坊主、門徒、一般読者の99%が
「歎異抄」は親鸞の信心が弟子によって説明されていると思い込んでいる。
しかし、それは大きな勘違いをしているのではないか、と繰り返し言いたいのである。
「歎異抄」は「正信偈」とおなじように、
自身の思想を高僧の名義を借りて語ったものではないだろうか。
根拠は「教行信証」の一部である「正信偈」である。
親鸞の偉大さは、かつては子孫である蓮如の巧みな情報操作で成立していた。
明治以降、秘伝の「歎異抄」が公開されてからは、
今度はこの書物によって親鸞が再度神格化された。
むろん、唯円の師であったくらいだから親鸞が偉くないとまでは言わない。
だが、唯円はもっと偉大だったのではないかとわたしは言いたいのである。
なぜなら繰り返し読んでみると「正信偈」「三帖和讃」「末燈鈔」よりもはるかに
唯円の「歎異抄」のほうが深い内容を持っているからだ。
ともあれ、親鸞の「正信偈」の感想であまり唯円を論じるものでもあるまい。
わたしは唯円が親鸞の言葉を信じたように、唯円の言葉に賭けてみたいと思う。
「正信偈」は師匠のそのまた師匠の言葉だから、
月に一度くらい読み返すのもまた悪くはないかもしれないと思う。