「仏説無量寿経」(康僧鎧訳/「浄土三部経」本願寺出版社) *再読

→浄土三部経は、浄土宗、浄土真宗が根本経典とするもので、
大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の3つのことをいう。
それぞれ説く内容を簡潔にまとめるならば、
本願(大無量寿経)、念仏(観無量寿経)、浄土(阿弥陀経)となるだろう。

さて、本願を説いたのが浄土三部でもっとも長い大無量寿経である。
この仏典のキモは以下であろう。

「わたしは誓う、仏になるときは、必ずこの願(がん)を果しとげ、
生死(しょうじ)の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう」


もちろん、大無量寿経は釈迦の真説ではなく、後世の人が創作したものである。
言うなれば、フィクションである。
このフィクションの核になったのは、ここである。
だから、この誓いは文意では法蔵菩薩のものなのだが、
「わたしは誓う」と宣言したこの「わたし」は、
まさにみなさんやわたしとまったくおなじ人間だと思うとき、
虚構(嘘)や真実(本当)といった区別を超えて人間を揺り動かすものがあるのだと思う。
人間は汚らしいもんで悪念や邪念のとりこだが、
しかし同時に「仏になる」などという大きな目標を持つものなのである。
大無量寿経では多くの「願(がん)」が説かれているが、
ひとつに要約したらこうなるだろう。

「わたしは哀れみの心をもって、すべての人々を救いたい。
さまざまな国からわたしの国に生れたいと思うものは、
みな喜びに満ちた清らかな心となり、
わたしの国に生れたら、みな快く安らかにさせよう」(P20)


すべての人々を救いたい! みなに喜びを与えたい!
そんなわたしの国を作りたい!
法然も親鸞も、この心をもってして、念仏というものを考えついたのである。
そして、どんなに悪ぶった人の心中にもおなじような気持があるのではないか。
仏典なんてものは絵空事だが、核となる願いは普遍なのだろう。
この願いを信じようというのが、浄土教全般に通底する基本姿勢だ。
人間の救いたい、救われたいという願いを重んじるのが浄土教なのである。

「この世(願い)→仏の国(救い)」

仏になりたいと誓ったわたし=法蔵菩薩はどうなったか?
釈迦が弟子の阿難に仰せになるところでは――。

「法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏になって、現に西方においでになる。
その仏の国はここから十万奥の国々を過ぎたところにあって、
名を安楽という」(P47)


大無量寿経は1/3で結論が出てしまうのである。
たぶん内容としてはここで終わってもいっさい問題はなかったはずである。
内容は、仏になると誓った人間がいて、この世ならぬ「仏の国」ができた。
人間がいま生きているところの世界を完全に否定しえた瞬間である。
釈迦でもできなかったことを、釈迦の名において大無量寿経作者はしたのである。
釈迦の教えでは修行が必要なため、残念ながらすべての人々を救うことはできない。
だから、別の人が仏になって、さらに「仏の国」を作ったのである。
どんなにいまここで生きているのが辛くても、いまここを超越した「仏の国」がある!
人間はこの世で苦しむ存在というだけではない。
人はこの世ならぬ世界、つまり「仏の国」を思うことができる。
いまここにありはしない「仏の国」を思うこと、それが救いである。
これが大無量寿経に込められた、
すべての苦しむ人間を救いたいという願いの実現である。

「いまここ(苦)→(願い=嘘=妄想)→仏の国(楽)」

以下、この世における苦しみの詳細が延々と書き綴られている。
この世の苦しみを強調すればするほど、
「仏の国」を願う気持が強まるからこれでいいのだろう。
三世因果説をしつこいほど繰り返しているのが、宿命思想が好きなわたしには心地いい。
逐一、紹介したいと思う。
これは仏典に書いてある真実だから、批判は受けつけない(笑)。

☆(過去世)悪い行い→(現世)貧乏人
☆(過去世)強欲、ケチ、人に施さない→(現世)貧乏人
☆(過去世)功徳を積む→(現世)王様
☆(過去世)慈悲、人助け、人と争わない→(現世)王様
☆(過去世)善い行い→(現世)美人、イケメン、尊敬される
☆(過去世)功徳を積む(現世)美しい衣服、すばらしい食事(以上P64~66)
☆(過去世)五逆十悪→(現世)貧乏人、被差別者、孤児、友人ゼロ、孤独死
☆(過去世)五逆十悪→(現世)不具、片輪、きちがい、白痴、低学歴
☆(過去世)人を慈しむ、親孝行→(現世)高い身分、裕福、高学歴(以上P112~113)


みんな過去世のせい!

まだわからない方がいそうなので本文を読んでもらおう。

「あるものはこの世で難病をわずらい、死にたいと思っても死ぬことができず、
生きたいと思っても生きることができないで、
罪の報いを世の人々の前にさらすのである」(P130)


本願寺教団の現代語訳は穏便で不満だったから、ここが痛快だった!
罪の報いを世の人々の前にさらすのである!
罪の報いを世の人々の前にさらすのである!
罪の報いを世の人々の前にさらすのである!
重要なところなので3回繰り返したが、まだ足らないかもしれない。
もしあなたが不幸だとしたら、それは罪の報いを世の人々の前にさらしているのだ。
ならば、あなたがかりに不幸だとしても、いっさいいまのあなたに責任はない。
あなたが低学歴なのはいまのあなたのせいではない。
あなたが貧乏なのはいまのあなたのせいではない。
あなたがブスやブサイクなのはいまのあなたのせいではない。
あなたが出世(成功)できないのはいまのあなたのせいではない。
これは究極の救いではないかと思う。
さらに大無量寿経は我われを救ってくださるのである。
法然や親鸞が注目したのも内容的にはここになろう。
以下の引用文が大無量寿経の救済の根本である。
おっと、そのまえに苦しみの正体を明かしておこう。まずは苦しみの実相からだ。

「人は世間の情にとらわれて生活しているが、
結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。
すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていく」(P99)


☆(過去世)→独り生れ(善い行い)独り死ぬ→(未来世)楽しい世界
☆(過去世)→独り生れ(悪い行い)独り死ぬ→(未来世)苦しい世界


善悪と苦楽にもてあそばれる人間の救いはどこにあるのか?
大無量寿経および浄土信仰の急所はここだ!

「一生涯、努め励み苦しんだとしても、それもほんのしばらくの間であって、
後には無量寿仏の国に生れてきわまりない楽しみを受けるのである」(P109)


どんなに現世が苦しくとも、後には無量寿仏の国で永遠に楽しめる!
GWや夏休みに海外旅行の予約をしていたら、どんな辛い仕事も耐えられる。
むしろ、海外でどんな楽しいことがあるのか想像したら、
率先して骨折りな仕事をやりたくなってこないか。
人が嫌がる仕事でも長期休暇のことを考えたら、まあやってみるかとなる。
そして、「仏の国」はどこのレジャー地よりもはるかに楽しいのである。
しかも、この長期休暇には終わりがない。
もうこの辛抱だらけの娑婆(しゃば)に帰ってくる必要がないのである。
もちろん、どうしてももう一度苦しみたかったら帰してくれると思う。
この長期海外旅行(「仏の国」)は永遠というほどの期間である。
ならば、この世のわずか長くても百年くらい大したことがないではないか。
以上が親鸞の愛した大無量寿経の内容だ。

「大無量寿経=無期限極楽旅行の予約券!」

*赤字が多いため書き手が狂ったかのように見えるかもしれませんね。すんません。

「改邪鈔」(覚如/石田瑞麿訳/平凡社東洋文庫)

→「口伝鈔」を書いたもののまったく世間から認められなかった覚如が、
「口伝鈔」から6年後に書いたのが「改邪鈔」である。
邪を改めるって、おまえ、親鸞の曾孫ってだけで、どうしてそんな偉そうなんだよ?
しかも、このとき覚如は68歳だとか。
とにかく出世欲、名誉欲、金銭欲のかたまりで、
にもかかわらずまったく報われなかった老人が憤怒の形相で邪を改めるのである(笑)。
他宗の悪口がこれでもかと書かれている。
おれが悪いんじゃない、悪いのはおまえらだ! と覚如68歳はシャウトしている。
親鸞の血統はやばすぎるんじゃないのか、おい。

のっけから当時大流行していた踊り念仏の一遍の悪口である。
根拠も書かずに、あいつらは後世者(ごせしゃ)ぶりをしているのが
気に食わんと覚如老人はたいへんなご立腹である。
覚如にとっては親鸞に逆らうものはみんな邪宗なのである。
そして、だれがいちばん親鸞を知っているかといったら曾孫の自分のほかにいようか!
おれがダメというものは、親鸞聖人がダメ出ししたのとおなじことだと知れ!
売れているもの(一遍の時宗)への嫉妬をまるで隠さないところがすばらしい。
史実を書くと、たしかにこの時代は一遍踊り念仏の大勝利だったが、
8世の蓮如がまさに覚如の恨みを晴らすべく時宗をほぼ壊滅状態に追い込んでいる。
すなわち、時宗メンバーのほとんどを浄土真宗に改宗させている。

禅の悪口も書いている。禅は当時、仏心宗とも呼ばれていた。
心のなかに浄土があるというのが禅の考え方らしく、
一休禅師も「自心の外に浄土なし」と書いている。
まあ、わたしなんかどっちでもいいと思うけれど、
お偉い親鸞の曾孫さんは自分の考え以外はひとつとして許せないようだ。
このへんの批判は読んでみればわかるが、もうめちゃくちゃである。
「わが心の中の浄土」などあるのは聖人で、
浄土門は愚かな人のための教えだから、わが身に阿弥陀仏はない。
その後いきなり竜樹を引用して、
「竜樹菩薩の判定にどうしてあやまりのあるはずがあろうか」と恫喝する。
ほとんどヤクザの親分のような物言いなのである。
おそらく、覚如は人の身でありながら自分を絶対者かなにかと錯覚したのであろう。

そうそう、禅の話をしたついでに覚如の説く「自力、他力」を紹介する。
これは「口伝鈔」に書いてあった話だが、まあ許してくだされ。
自力は、夜が明けてから太陽が出ること。
他力は、太陽が出てから夜が明けること。
禅のバカどもは夜の闇をなんとかしようと迷っているが、愚かなことよ。
うちら他力の浄土門は、太陽(阿弥陀仏)が出るから夜が明けるんだ。
いくら自力で夜の闇をどうにかしようと思っても禅のみなさん、難しいでしょ?
――最初はなんだかすごい真理を教えられたような気がしたものである。
しかし、太陽が出る理由を覚如から聞いてずっこけた。
前世での善根があるから太陽が出て夜が明けるというというのである。
あれ? 自力の人たちも修行していたら、いつか太陽が出るんじゃない?
他力でも自力でも、待っていたら太陽(阿弥陀仏)が出るわけだから、
だとしたら前世はあまり関係ないような気がするのだが。

「改邪鈔」最後は恨み節の爆発だ。
うちが正統なんだ。なぜならうちの寺には親鸞の墓があるからだ。
おまえらは恩知らずだぞ。だれのおかげでいま念仏をしてるんだ?
それは慢心というのだよ。おまえらは悪魔みたいなもんだ。
思い上がるのもいいかげんにしろよ!
――とどう見ても慢心の極みで思い上がった覚如が、
まるで悪魔のような呪いの文句を吐き散らすのである。
いやあ、人間って黒いもんですな~と微苦笑したものである。
最後に本書の内容を一行でまとめておこう。

「親鸞の曾孫であるおれは絶対正義だから、
おまえら邪をなんとしてでも打ち砕く!」


「口伝鈔」(覚如/石田瑞麿訳/平凡社東洋文庫)

→「執持鈔」を書いて5年後、覚如の黒い野心は燃え盛るばかりである。
偉くなりたくて仕方がない覚如の悪だくみの結果がこの「口伝鈔」である。
自分は親鸞から正しい教えを口伝されたなどと言い放っている。
むろん、覚如が生まれたのは親鸞没後だから口伝などありえない。
このため、腹黒い覚如は次のようなお話を創作したのである。
親鸞は如信(善鸞の子)に教えを口伝している(これもさあどうだかという話である)。
その如信から自分は親鸞の教えを口伝されたと宣言するのである。
(ちなみにその如信は勉強嫌いのバカだったと解説で指摘されている)

「親鸞→如信→覚如」!
このため、全国にいる親鸞の弟子のなかで自分、覚如はいちばん偉いという理屈である。
学者の石田瑞麿氏も覚如はよほど好きになれなかったようで、
解説でさらに虚構を暴いている。
なんでも覚如が如信と面会したのは「口伝鈔」を書く40年以上むかしだったという。
そのとき覚如は18歳である。
こんな年若い青年に親鸞の教えが理解できるものだろうか。
まあ真実は前著とおなじで本書も「歎異抄」や「末燈鈔」からのパクリが多い。
かりに東国の弟子筋から聞いた話も入っていたとしたら、そこには価値がある。
それにしても口伝などされていないのにもかかわらず、
「口伝鈔」などをでっちあげる親鸞の曾孫の腹黒さはどうだろう。
善鸞といい覚如といい親鸞の血統は、どうしてか悪いやつが多いのである。

とはいえ、覚如の悪さは人間臭いと評価することもできよう。
聖人ぶったやつよりも俗臭ぷんぷんの愚人になぜか好感を持ってしまう。
それにしても覚如は腹黒い。
よほど「歎異抄」が好きだったようで、同内容を自分が口伝された話として書くのだ。
あの「往生のためなら人を千人殺せるか?」という親鸞のエピソードである。
ほとんどそのまま書き写したあと、
弟子のひとりが「とても自分の器量ではできません」と答えたと記す。
ここは「歎異抄」を読めば、唯円が答えているとわかるのである。
しかし、ずるがしこい覚如は唯円の名前を書かず弟子のひとりとぼかす(P111)。
曽祖父と血縁関係もないような唯円ごときに手柄を持っていかれてたまるか!
おそらく覚如はこう考えたのだろう。
「歎異抄」のすごさはだれよりもわかっていた覚如だが、
その名誉を受けるのは血統である親鸞一族でなければならぬと思ったに違いない。

浄土宗の悪口も公然と書いてあっておもしろい。
むかしから宗教というのは、近い関係を攻撃するのだとわかる。
(たとえば創価学会と日蓮正宗、親鸞会と浄土真宗)
親鸞はいまでは子孫の情報操作のおかげでだいぶ偉くなっているが、
もとは法然のあまたいる弟子のひとりに過ぎなかったのである。
浄土宗鎮西派の弁長という坊さんがいて、彼もまた法然の弟子のひとりであった。
この弁長のことを覚如が意地悪くおとしめるのである(P127)。
いわく、弁長を法然に引き合わせてあげたのは親鸞の親切であった。
弁長というのは、なんだか生意気なやつだった。
法然のもとで修行を終えたのちに弁長は師のもとを去るのだが、
そのとき法然が弁長の悪口を言っていたと覚如は嬉々として書くのである。
この性格の悪さ、陰湿さ、卑怯ぶりは人間臭いというほかなくほれぼれする。
法然上人が「弁長はまだダメだ」とどやしつけたと親鸞の曾孫が書くのである。
弁長は名聞(評判)や利養(金儲け)の欲がまだあるのでいかん!
弁長は反省して帰っていったが、まだ欲を捨てきれなかったため、
法然の教えとは異なることを主張するようになったと文章をまとめる。
名誉欲がいちばん強いのは実のところ、これを書いている覚如なのである。
偉くなりたくて尊敬されたくて仕方がなくライバルの悪評を広めようとする。
うんざりする向きもあろうが、まあ、人間こんなものだと思うと親しみがわかぬでもない。

まったくの悪人というのもいないわけである。
野心が強い人間というのは、やはりそれなりに優秀なのだろう。
本書で覚如がいくつかおもしろい説を出していたので紹介する。
しつこいと嫌気が差す読者もおられようが、また過去世の話である。

「いまこの世の有様によって過去において善行があったか無かったか
明らかに知ることができるだろう」(P104)


これは経典にある言葉だと覚如は言う。
「過去における因を知ろうと欲するならば」で始まる文だという。
解説者によると、いろんな書に引用されている言葉だが、出典はわからないとのこと。
正確には「欲知過去因。以現在果知。欲知未来果。以現在因知」――。
「過去における因を知ろうと欲するならば、現在の果を以って知るべし。
「未来における果を知ろうと欲するならば、現在の因を以って知るべし」
と勝手に読み下してみたが、まあ、それほどの間違いではないだろう。
結局、死ぬまで大した出世をできなかった覚如だが、本人の著書にしたがうならば、
残念ながら過去世であまり功徳を積まなかったのだろう(笑)。お気の毒さま♪

桁外れの野望を持っていた覚如はあまり常識にとらわれないほうだったのではないか。
本書で「阿弥陀仏=観世音菩薩(観音菩薩、観自在菩薩)」という説を紹介している。
博識な解説者によると、これは実際に不空訳の「理趣釈」に記載ありとのこと。
また源信も「自行念仏問答」でこのことを論じているという(P138)。
たしかに「阿弥陀仏=観音菩薩」というのは、感覚的に理解できる。
基本、どちらも民衆を救済してくださる絶対者なのだから。
両者ともに庶民の祈りの対象である。
もし「阿弥陀仏=観自在菩薩」ならば、「浄土三部経=般若心経」になってしまい、
わたしなどはそれでも十分に通用する見方だろうと思うけれども、
さすがに覚如もそこまで飛躍したことは書いていない。
まあ、覚如レベルの言葉がどれほど価値を持つのか知らないが。

また覚如レベルの言葉で申し訳ないが、この腹黒い坊さんは、
「浄土三部経=法華経」というかなり異端な信仰を説いている(P144)。
いわく、法華経の説かれた8年のあいだに王舎城の悲劇が起こったため、
仏は霊鷲山での説法を中座して王舎城にすがたを現わし、
他力の教え(観無量寿経)を説いたという。
ちなみにこの妄想、いや信仰の出典はほかにはないようだ。
おなじく覚如が著書「出世元意」で「法華念仏同体異名事」と記している。
こういう新たな説を出すところはおもしろいと思う。
出世はかなわなかったが、本物の野心家であったのは疑いえない。
ちなみに「念仏=題目」は「改邪鈔」で覚如が激しく否定している
踊り念仏の一遍が主張していたことである。

どうやら野心家でありながら失意の人生を送った覚如は酒好きだったようだ。
親鸞の話として、仏法は酒のようなものだと語られている。
「酒は憂いを忘れるという名がある」が、
愛するものと死別して悲嘆に暮れる遺族には、
死者はかならず安養の浄土に往生していると教えさとし慰めよ、と書いてある。
酒のように、悲しみを忘れさせてあげるのが仏法である。

最後に、腹黒い野心家にもかかわらず人生に失敗した覚如の教えをまとめておく。
書いているうちになんだか同情の念が芽生えてきたからだ。

【嫌われもの覚如上人の「口伝鈔」での教え】
1「おれは親鸞の曾孫だから偉い。みんな従えよ」
2「唯円は偉いが、名誉はおれがもらったぞ」
3「ライバルは悪評を流してつぶそう」
4「いまのあなたを見れば過去世で善人だったか悪人だったかわかる」
5「阿弥陀仏=観音菩薩」
6「浄土三部経=法華経」
7「仏法は酒のように悲嘆を忘れさせるもの」


「執持鈔」(覚如/石田瑞麿訳/平凡社東洋文庫)

→なんで有名人の子孫とかって自分も偉いとか勘違いしちゃうわけ?
こちら両親ともにまったく無名のクソ庶民だったからぜんぜんわからん。
どれほど系譜をさかのぼってもひとりとして偉人はいない。
まあ、どうやら犯罪者もいないようだから、そこは引け目を感じないけれど。
親鸞の息子の善鸞とやらは、自分は父から秘伝を教わったなどと主張して
東国で偉ぶった罰としてパパから勘当されたわけである。
本書の著者、覚如は親鸞の曾孫で、こいつにも悪い血がふんだんに受け継がれたのだろう。
親鸞のただの墓守に過ぎなかったのだが(それも訴訟をして勝ち取るえげつなさ!)、
自分こそ全国にいる親鸞の弟子を統率する最高権威者だとか妄想しちゃったわけ。
むかしから著書を出すと威張れたのだろう。
ただ偉い人の曾孫というだけで聖者ぶりやがって、いっぱしに本を出したわけである。
それが「執持鈔」である。

まあ、中身はこいつの書くものはみんなそうなのだが、
「末燈鈔」(親鸞の手紙)や「歎異抄」(親鸞の弟子唯円の著書)からのパクリ。
ほとんどオリジナリティというものがない。
ああ、あれは「末燈鈔」のあそこに書いてあったなとすぐにわかってしまう。
ついでだから解説しておこう。
我われは子どもだというのである。
で、名号(南無阿弥陀仏)は父、阿弥陀仏(不可思議光如来)からの光は母である
言い方を換えると、光は往生の間接的原因で名号は直接的原因だという。
それから臨終念仏を否定しているのも曽祖父ゆずり。
死ぬ直前に念仏しないと往生できないよ、というのは誤りだと言っている。

唯一、覚如に好感を持ったのは「歎異抄」の強い影響を受けているところ。
実際の親鸞はどうやらあまり宿業思想を積極的には説いていなかったようである。
宿業絶対主義は唯円「歎異抄」の特徴だと思う。
覚如もわたし同様、唯円の宿業思想にシビレたのだろう。
以下のようなことを力強く言い切っており、なかなかのものである。
現代の真宗の坊さんはこれを確信を持って言えますか?

「一切の生を享けたものの有様をみると、
その現在を決定した過去の行為はまちまちである。
また死に様も、数知れない。病におかされて死ぬものあり、
刀にふれて死ぬものあり、水に溺れて死ぬものあり、火に焼けて死ぬものあり、
ないしは床に臥して死ぬものあり、酒に狂って死ぬたぐいもある。
これらはすべて前世の行為が原因となってはたらいたものである。
けっしてこれから逃げることはできない」(P93)


ならば、モチをのどに詰まらせて死ぬのも、トラックに轢かれて死ぬのも、
まだ若いのに遠い異国で強姦されて死ぬのも前世の行為が原因なのである。
いまこれを信心込めて恐れず言える坊さんがいたら、その方は本物だと思う。
まがいものではない真実の絶対他力信仰を持っておられる方とお見受けする。
とはいえ、覚如のこの発言は遠いむかしのものだから、
これをもってして親鸞の曾孫がなにものかであったという証拠にはならない。
本人はあんがい過去世で善業をなしたから、
こうして親鸞の曾孫として生まれたと信じていたのかもしれない。

さて、かりに死に様が覚如の言うように前世の行為の結果だとしたら、
我われはもっと明るく生きることができるだろう。
ガンになるかどうかはもう前世で決まっているのだから心配しても無駄だ。
いくら酒をのんでも煙草を吸っても、死に方は前世の行為の結果なのである。
この信心が定まっていさえしたら、
戦場カメラマンにも躊躇(ちゅうちょ)なくなれるだろう。
いまの日本はもう戦争をしないそうだが、
たとえ徴兵されてもこの信心があればいさぎよく突撃することができる。
もし死に方が前世の行為で決まっているとしたら、である。
真宗の坊さんで健康マニアなどいたら、こつんと小突いてやるのがよろしい。