「春日原まで一枚」(山田太一/「月刊ドラマ」83年6月号/映人社)絶版 *再読

→テレビドラマシナリオ。昭和49年放送作品。東芝日曜劇場。
ほんといいドラマだよな。自分が吃音持ちということを差し引いてもいい。
わたしが生まれる2年前のドラマか。
この時代には吃音青年のうじうじした悩みにもテレビドラマから光が当てられたのか。
現代にも割合においては一定数どもりの人はいると思うのだけれど、
まさかいまのテレビドラマがそんな暗いテーマを取り扱うはずがない。
万が一あってもかならず障害者=絶対善のような扱いになるはずだ。
山田太一ドラマの魅力は語り尽くされるものではないと思うが、
そのひとつは激しさにあると思う。
むろん、激しさを描くためには静けさも必要だ。
会社で上司のミスをかぶり(定年後のことを考え)「それが世渡りってもんだよ」
とあきらめヒラに降格された父親(利夫)と、
最近またどもりがひどくなった時計職人の息子(邦男)が屋台で酒を酌み交わしている。
といっても安いコップ酒だ。

邦男「お父さん」
利夫「――」
邦男「お母さんから、くわしく聞いたよ」
利夫「ああ(とうなずく、目は伏せている)」
邦男「濡れ衣(ぎぬ)着ちゃったんだってね」
利夫「お母さんは、会社というものを知らないからな」
邦男「ぼくも知らないけど、ぼくはお父さんの立場分るよ」
利夫「そうか?」
邦男「お母さんの言うように、単純にはいかないよね。
 理屈に合わなくたって我慢してなきゃならない時だってあるよね」
利夫「お前も、そういう思いをしたことあるのか?」
邦男「そうそう自分を通してばかりはいられないさ」
利夫「そうか――」
邦男「ぼくはお母さんが、ひどいと思ったよ。
 我慢してるの見たくないなんてそんな言い草ないよ。
 誰だって我慢したくて我慢してるわけじゃないんだ」
利夫「お前は、なにを我慢してるんだ?」
邦男「大したことじゃないよ」(P57)


我慢しろよ。大人になるということはそういうことだ。
家にいる女は世間の厳しさをわかっちゃいねえ。
言いたいことを言ったら途端に食い詰めてしまうのが世間ってもんだ。
どうしようもないことは我慢するしかない。
上の人の言うことにゃ逆らっちゃいけない。
正論がまかり通ると思うなよ。人生、そんなもんだ。我慢、我慢だ。
ところがしかし、これは現実ではない。ドラマだ。山田太一が描く激しいドラマだ。
我慢のたいせつさも正論の重みも熟知した脚本家の書いたドラマだ。
ある日、父親は決起して社長に直談判する。
クビになるかもしれないが本当のことを言う。
息子の邦男もなにか我慢をしていた。
父親の社会人としてはあるまじき蛮行を知って息子も立ち上がる。
両親には「終電までには帰るよ」と言う。
「お父さんの真似だよ、ぼくも。言うだけは言ってみるよ」
いったいどもりの邦男はなにを我慢していたのか。
邦男はある家を訪問する。床の間に結納の品が積まれている。
この家の娘はもうすぐ結婚するようだ。邦男はこの娘に逢いに来たのである。
「いらっしゃい」と裕子という娘は言う。

裕子「(明るくしようとして)なに、そんな所にいて。
 どうぞ(上座)こっちへ来て下さい。おかしいわ、お客さんが」
邦男「(うなずき、上座まで行かず、しかし近づきながら)結納すませたんだね」
裕子「ええ――」
邦男「あ、あ、あの――」
裕子「おめでとうって言って下さるの」
邦男「(激しく首を横に振る)」
裕子「(ハッとして)どういうこと?」
邦男「お、お、おそすぎることは分ってるんだ」
裕子「――」
邦男「ぼ、ぼくの、う、うちは金持じゃないし、ぼくは、時計屋のつとめ人だし、
 じょ、じょ、常識から言って、
 ぼくが、君、とつ、つり合うとは、どうしても思えなかった」
裕子「――」
邦男「ぼ、ぼくが、き、きみを欲しいと言っても、反対されて、
 とてもうまく行くわけがない、と思った」
裕子「――(目を伏せる)」
邦男「ぼ、ぼくは、じ、じ、自信がなかった」
裕子「私は待ったのよ」
邦男「(うなずく)」
裕子「あなたは、とうとうなにも言わなかったのよ」
邦男「け、結婚するの、やめてくれないか」
裕子「(見つめる)」
邦男「(激しく見つめ返す)やめてくれ。ぼ、ぼくが御両親に話す。
 おそすぎたのは、わ、わるいが、ぼくは、やっぱり、
 君が他の奴と結婚するのは、いやだ」
裕子「――」
邦男「うんと言ってくれ、うんと言ってくれ」
裕子「(見つめている)」
邦男「ぼ、ぼくは、ぼくなんかって、すぐ思って、すぐ劣等感が湧いて、
 すぐ諦めることばかり考えて――それが、ぼくの欠点だ。
 ぼくは、そのために、き、きみを、に、にがすところだった。
 ぼ、ぼくは、ぼくの欠点を、克服する。
 ぼ、ぼくは、絶対に、君をは、はなさない。 (それは異常なくらいの激しさで、
 吃(ども)り、吃り、その吃りを一つ一つ克服する強さで言う)」
裕子「(見つめている)」
邦男「あ、あらためて、御両親には話す。今日は、き、きみの返事が欲しい。
 ゆ結納を、と、とり消す、と言ってくれ。
 ぼ、ぼくの、ぼくの、ぼくの――お、お嫁になる、と言ってくれ。お嫁に、なるって」
裕子「(涙が溢れる)」
邦男「いいね? いいね?」
裕子「(涙を溢れさせたまま邦男を見ている)」
邦男「ど、どうなんだ、ぼ、ぼくについてくるのか? ついて、くるのか?」
裕子「(うなずく)」
邦男「(嬉しく、激しく、うなずく)」
裕子「(顔をおおってしまう)」
邦男「(嬉しく、しかも、疲れて、ハァハァ息をし、
 涙が出て来て、顔が歪んだり、いろいろになってしまう)」(P61)


ほんといいシーンだよな。涙があふれてくるじゃないか。
こんなことはたぶん人生にはないだろうけれど、あったらどんなにいいことか。
こういうシーンを見るだけで、どれだけ我われの気持が救われるか。
わが36年の人生をかえりみるに、これはどう考えてもフィクションである。
こんなうまいこといくわけがない。
夜中にこんなバカなことをしたら結納を済ませた相手の家族に笑われるのが現実だ。
世間知らずと嘲笑され野良犬のように追い出されるのが現実だ。
それがわたしの知っている現実だ。現実は甘かない。
期待したらかならずと言っていいほど裏切られるのが現実だ。
しかし、現実だけではやりきれないじゃないか。
こういうこともときにはあると信じたいじゃないか。
現実がそうじゃないからこそ、こういう嘘にすがりつきたくはならないか。
激しくもだえるような思いで山田太一ドラマの嘘にしがみつきたくなってしまう。
どうして山田太一さんはこんなにも人をとりこにする嘘がうまいのだろう。
表面上は温厚な脚本家の激しさはどこから出てくるのだろう。
だれにだってきっとその激しさはあるのである。
このため、大勢の山田太一ファンがいるのだと思う。

*いちおう以前読んだときの感想↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-980.html
「悲しくてやりきれない」(山田太一/「月刊ドラマ」92年12月号/映人社)絶版 *再読

→テレビドラマシナリオ。平成4年放送作品。TBS系。単発ドラマ。
山田太一ドラマのどこがおもしろいかといったら下司(げす)なところである。
きれいごとの裏にはかならず金(利得)がからんでいるという、
いかにも底辺庶民らしい俗に言うところの下司の勘繰り満載なところがいい。
このドラマでも美人(名取裕子)が顔に似つかわしいきれいごとを言う。
容貌も美しく、かつ大会社に勤めているがために多少現実を知らないという設定だ。
スナックで知り合った中年男と小さな絵本書店を共同経営するつもりである。
ほんとにそんな話があるかよ?

「そりゃあ人間はいやらしくて、薄汚いもんかもしれないけど、
たまにはこういう関係だってあるんです」(P137)


この建前に対する本音のせりふの庶民くささがいい。こりゃほんとんど詩だよ。
山田太一ドラマは下司が演じる詩劇という面がある。下司にも詩があるのだ。
女房と子どもに逃げられたファミレスの店長(役所広司)のせりふがいい。

「だまされてるんじゃないの?」(P136)
「世間を知らないんじゃない?」(P137)
「そういうタマかな?」(同)
「頭のいい女(ひと)ほど、そういうきれい事に欺される」(同)
「ためたんだなあ」(P139)
「女房と娘に払ってたんだ。金なんか、たまるかよ」(P141)」


「ためたんだなあ」とか下司すぎて爆笑してしまう。
なぜ庶民は下司と知りつつ人間を「金、肩書、顔」で判断するのかといったら、
それが大損をしないためのいちばんの方策だからである。
とりあえず金と肩書と顔は目に見えるから信じられる。
正義、慈善、非営利、利益度外視、夢、志といったふわふわしたものは信じられない。
そんなものをうっかり信じたら痛い目を見ることを下司な人たちはよく知っている。
しかし、我われ庶民は自分が下司であると思われたくない。
ちっとばかし高尚な人間だと見てもらいたい。
ときには西洋の絵画がどうだのとわかったようなことを語りたくなってしまう。
そこがまた下司なのだが、山田太一さんはどうして下司な人間を描くのがこうもうまいのか。
もしかしたら作者自身が――。いやいや、そんなことはないはずだ。
とはいえ、人は人間を知るためにまず自分をよすがとするしかないわけで。
山田太一さんのイベントに顔を出すと、
学者先生にまじった作家が反抗するようにぽろっと下司なことを言うのである。
それがおもしろくて、いくつも記憶に残っている下司なせりふがあるけれど、
なかなかネット上でこちらの実名をさらして公開できることではない。

*どうでもいいが前回の感想↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-987.html
「季節が変わる日」(山田太一/大和書房)絶版 *再読

→テレビドラマシナリオ。昭和57年放送作品。日本テレビ。全2回。
ドラマというのは矛盾で書くものだとよくわかる。
山田太一先生の才能は処世術やら物腰の柔らかさやらもあるとは思うが、
なんといっても人一倍矛盾を内部にかかえこんでいるところではないか。
本音と建前、現実と理想といった双極を心中にお持ちだ。
どちらも徹底しているからすごいのである。
極悪人のような冷たい現実認識と、
いつの時代の書生だというような青臭い理想をどちらも持っている。
さらにすごいのは矛盾に結論を出さずに、
矛盾を矛盾そのままに愛するちからがある。
どちらかに偏ってしまえれば精神的には楽になれるのである。
現実なんてこんなもんだ、と割り切るのも手だろう。
どこぞの新興宗教信者のように「努力すればかならず夢はかなう」
と信じ込めれば世の理不尽や不公平に悩まないで済む。
だが、山田太一さんは矛盾のただなかでたたずむ。
世界には「どちらも正しいこと」のあることをよく知っている。
言い方を変えれば、絶対的真理はない(かもしれない)ことをご存じだ。
正論だけでは社会は動かないが、しかし正論にも多大な価値がある。

最近、年をとって思うのは、山田太一さんの理想を失わない凄味である。
たいがいの人間は年をとると、人生や社会に見切りをつけていくものだ。
どうしても悪いほうばかり、汚いほうばかりを見るようになり、
「どうせ」「結局」などと口元をゆがめながら、
自分があたかも大人になったかのような錯覚を持つものである。
しかし、脚本家はそうではない。
「どうせ人間は」「結局社会なんてさ」という醒めた視点のみならず、
「しかし人間は」「社会を見切るなよ」という熱いまなざしを持っている。

ドラマ「季節が変わる日」では八千草薫がバツイチ子持ちという設定だ。
息子が学校に行かなくなり、田舎にあるおかしな施設に通わせることにする。
その塾で知り合った父親(こちらもバツイチ子持ち)に言い寄られる。
子どもがこんなときにと思いながら、ついラブホテルについていってしまう。
事後、八千草薫(行子)は泣くのである。
うまうまと八千草薫の熟れた肉体をものにしたのは岡田真澄(忠雄)だ。
ダブルベッドのうえで――。

行子「(目に涙がたまっていて、独り言のように)なんてこと――
(苦笑して)なんて簡単――」
忠雄「――」
行子「駄目ね――(目を指でちょっとおさえ)
もっと強いつもりだったのに(とカラリといおうとつとめる)」
忠雄「(その行子を見ている)」
行子「(その視線を感じ、忠雄をチラと見て)フフ、いやだわ、泣いてるの。
はずかしい(と涙を拭く)」(P71)


ため息をついてしまうくらいウブだよな~。
ラブホテルで女学生のように泣き出す年増女も、このシーンを書いてしまう作者も!
こういう女性がいたらいいと作者が強く思っているのはわかる。
やはり女性に夢を持たなければいけないのだろう。
なぜなら女性に夢を持ったほうが男は人生を楽しめるからだ。
しかし、どうしたら夢をいだけるのだろう。
「こんな女がいたらいい」と非現実的な希望を持つのは、
一般的には世間知らずのものがすることだとされている(よね?)。
世間はそうじゃない。現実はそうじゃない。
にもかかわらず、夢をいだく。味気ない現実を拒絶する。
それはほとんど精神病患者の妄想のようなものなのだろう。
なぜなら精神障害者の妄想はどんな現実をも跳ね返すほどにたくましいからだ。
だとしたら、天才脚本家の山田太一さんは深く深く心を病んでいるのだろう。
おそらく、すすんで心を病ませようと思っても無理なはずである。
だから、山田太一氏はすごいのだろう。

「岸辺のアルバム」(山田太一/大和書房)絶版 *再読

→昨年のあれはいつごろだっただろうか。
例によってあいどん氏のドラマ・ファン掲示板で教えられて、
川崎のほうまで行ったことがある。
なんでも昭和52年放送のテレビドラマ「岸辺のアルバム」最終回が上映され、
その後に山田太一さんと演出家のトークイベントがあるとのことだった。
どうせ暇だしせっかくだからとドラマの14回分をシナリオで再読してから
最終回(第15話)上映におもむいたものである。
「岸辺のアルバム」はある中流家庭の崩壊を描いたドラマとされている。

さて、最終回の上映を観てどんな感想をいだいたか。
正直に言うと、がっかりしたのである。
シナリオで読んでいると、どうしても頭のなかで勝手に人物像を作り上げてしまう。
そのイメージと実際に演じる役者が違いすぎるのでがっかりしたのだ。
勝気な娘の律子などシナリオで読むとぞくぞくするほどよかった。
レズシーンや初体験シーンでは、さんざん劣情をそそられたものである。
身もふたもない言い方をすると、エロい妄想に心地よく遊ぶことができた。
わたしの律子像がすっかりできあがっていたのである。
ところが、実際の映像によって、いままでの豊かな妄想を台無しにされた。
こんな娘ではない。わたしのイメージではもっと鋭いところがなくてはいけない。
最後にこの律子とくっつく冴えない高校教師の堀先生もひどかった。
公務員ながら34にもなって結婚できないほどの
もてない堀先生を演じるのが津川雅彦なのだから。
あんな甘いイケメンが冴えない高校教師の役をやるには無理がありすぎる。
しかし、そんなことを言えば、哀愁という少女もぜんぜんイメージが違った。
そういうわけで実際の上映などむしろ見ないほうがよかったくらいである。

あえて見ないことで妄想がふくらみ楽しめる。
実のところ、これは山田太一さんのドラマ作法のような気がする。
近作「心細い日のサングラス」にもこれに類する老人の長ぜりふがあったが、
見ないほうがいろいろ楽しめるのである。
見たらそれっきりで終わりになってしまう。
最近の作品は不勉強だからこちらの間違いかもしれないけれど、
いまのテレビドラマにおける妄想の質がいくぶん薄く感じられるのは(わかりませんが)、
もちろん作者たる山田太一さんの圧倒的な才能によるところが大きいのだろうが、
なにもかも見えてしまう時代がよくないという部分もあるのだろう。
いまはネットを使えば無料でアダルト無修正動画がいくらでも視聴できるらしいが、
あんなものを見れば見るほど妄想のちからは衰えていくに決まっているではないか。
女性に夢がいだけなくなるということだ。
2ちゃんねるを見たら、人間の汚い部分がこれでもかとあからさまになっている。
あんなものを見たら人間に夢がいだけなくなるばかりである。
表面を知ったくらいで高をくくったようになるのがいけないのだろう。
そのくらいならむしろぜんぜん知らないほうがいい。

ドラマで専業主婦の則子に言い寄ってきた北川が言う。

北川「秘密にしておきたかったな」
則子「どうして?」
北川「人間の底が浅いんで、秘密があった方がいいんです」
則子「御家族もお住いも伺ってないわ」
北川「せめて、それを秘密にしましょう」(P74)


秘密があったほうがいいのである。裏は見ないほうがいい。秘所は隠しておけ。
隠されたほうが我われは深く対象を愛せるのだろう。
鉄壁のガードもいいが、ときどきちらりと見せてくれたらより妄想がふくらむ。
ならば、深く人生を愛するためにはどうしたらいいのか。
人生のわからなさ、社会の裏側や暗部の底知れなさ、人間の悪意のすさまじさを
どこまでも限りなく信じるしかないのだろう。
もっと人生の不合理、社会の理不尽、人間の汚さを肯定的に信じよう。
自分が目にしているよりもはるかにひどいのだと思い込もう。
逆説的だが、そのときに人生は愛しうるものになるのかもしれない。

話はがらりと変わるが、トークイベント後に質疑応答というのがあった。
わたしはこの手のもので一度も挙手したことがない。
みんながいるところでのいわば公開状態での質疑応答は、
質問者も回答者もそれぞれの公的な役割期待から逃れることができないからだ。
ぶっちゃけ、公開の質疑応答で聞けないことを本当はみんな知りたいのである。
「岸辺のアルバム全15回」の脚本料はいくらくらいでしたか?
山田太一さんは不倫や浮気をしたことがありますか?
この手のことはどうしても聞けないのである。
このくらいだったら聞いてもいいかなと思ったことがある(シャイなので挙手しなかったが)。
「山田太一さんは、どうしてそんなに性格が悪くなったんですか?
というのも、『岸辺のアルバム』を読み返したら、
登場人物がとにかく金、肩書、顔の3つにこだわっているのがわかるからです。
どういう人生を送ったら、そんなひねくれた性格になれるんですか?
これはどうしたらこんな名作ドラマを書けるのかという質問とおなじです」

しかし、こんな質問をされても作者は困るだけだろう。
とはいえ、本当に「岸辺のアルバム」は金、肩書、顔の3つのKにこだわっている。

山田太一ドラマ→「人間=金、肩書、顔」

父「(ガラス破損の)損害の実費プラス二割くらいとってやればいい。(……)
金が一番懲りるんだ」(P5)

弟「(姉に)上智くらいで、あんまりのぼせるなよな!」(P13)

父「たまに帰ってくれば、出前の寿司頼んで無駄づかいしてやがる」(P79)

少女「あんた(と見すかすような横目でニヤリと笑う)もてる? (……)
あんまりもてないんでしょ?」(P85)

色男「(笑って)考えてよ。あんな肥ったおばさんと、
本気で俺がなにするわけないじゃない。なあ、マスター」(P100)

女子大生「(友人に)あなたは時々、とても不機嫌になるけど、セックスと関係あり?」(P126)

父「(息子を殴り)東大や京都を落ちたというならともかく、
三流大学をバラバラ落ちた奴に、慰さめるようなことが言えるか!」(P205)

生徒「でも先生外語出てるし、いろんな人知ってるだろうと思って」(P210)

先生「(ぼくは)やさしくも、親切でもない。そんな顔をしているがそうではない。
君をはじめて見た時、綺麗な人だと思った。
しかし、三十すぎて独りものの、薄汚い高校教師を、
君が相手にするわけもないと思った。諦めていた。
ところが、君がおりて来た。妊娠して困っているという。
そうなれば、雲の上の存在じゃあない。ぼくにも手のとどく女になった」(P218)

浪人生「(母の不倫相手に)手前になんか、おごられたかないや!」(P244)

先生「いい年をして、親を困らせるような奴は、殴った方がいい」(P255)

部下の女性「(バーで上司に向かい)誘われた時から、私、感じてたの。(……)
なにがあったか知らないけど、今夜部長さん、私をそういう所へ誘うなって。
いついい出すかと思ってたわ。なかなかいい出さないで、
お酒あおったりして、可愛いとこあるんだなって思ってたわ」(P282)

父(娘の交際相手を見て)「(失望を半ばかくさず)そうですか。繁がお世話になったんですか」

父「(娘に)お前はまさか、自分に見切りをつけたんじゃないだろうな?」(P309)

父「(娘に)誰が見たってお前が夢中になるような相手じゃない」(P309)

父「(息子の恋人を評して)なにがいい子だ。礼儀も知らん。蓮っ葉で、頭も悪そうだ」(P323)


以上のようなせりふを書く作家はどれほど性格が悪いのだろうと空恐ろしくなる(笑)。
人間というのは学歴だ。どこの大学を出ているかで世間の見方はまるで違う。
社会に出たら、どこの会社に勤めているかだ。社会の信用は所属会社で決まる。
恋愛なんてものは、所詮、顔や年齢が釣り合っているかどうかだ。
なにより肝心なのは金だ。いくらしたか。借りは作るな。借りはかならず返せ。
山田太一さんを見ていると、性格が悪くても明るくなれることに気づく。
明るいニヒリズムを「岸辺のアルバム」作者は持っているのである。
本当に性格が悪くなると、その悪さが悪さを隠して、一見温厚な人格者に見せる。
性格が悪いことを見破られるようではまだ本当には腐っていないということだ。
山田太一さんくらい性格が悪くなると、
180度ではなく360度回転して善人のようになってしまうのだろう。
わたしも性格の悪さには多少の自信はあるが、とてもこの脚本家にはかなわない。
どうしたらもっと性格が悪くなれるか山田太一ドラマから学びたい。
根性が腐るのでも山田太一先生くらい腐れば最高級のチーズのような味わいが出るのだ。

山田太一ドラマ「岸辺のアルバム」では少年少女からしてほどよく腐っている。
繁=三流大学にも入れなかった浪人生。哀愁=高卒フリーター少女。

哀愁「親の浮気を、もう一人の親にいうなんて最低よ」
繁「ほっとけばいいのかよ」
哀愁「当り前じゃない」
繁「くさいものに蓋して和気あいあいかよ」
哀愁「ぶちこわしてなにになるのよ」
繁「インチキじゃなくなるさ。俺ンちなんか、インチキで一杯なんだ」
哀愁「人間なんて、そんなもんよ」(P263)


☆「人間なんて、そんなもんよ」→「人間=金(損得)、肩書(見栄)、顔(性欲)」

具体的には性格が悪くなるとはどういうことか? たとえばバレンタインのチョコ。
わたしならもらって嬉しいが、人気作家は違うはずだ。
そのうえ老作家なら健康にも留意しなくてはならないだろう。
しかし、思慮の浅いファンは善意からバレンタインのチョコをくれるのである。
こういうときに満面の笑みで「ありがとう」とチョコをもらえるのが、
何重にも性格がねじくれた作家なのだと思う。
もちろん、この作家を人格者と見る人がいてもいいと思う。
しかし、そういう底の浅い善人のファンは、果たして自分とおなじような善人が
たとえば「岸辺のアルバム」のような名作ドラマを書けると思うのだろうか。

(参考)過去の感想「岸辺のアルバム」↓(どうでもいいですが)
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1052.html