「一休さんの般若心経」(西村惠信・佐藤健三/小学館文庫)

→いい本で絶対におすすめ。人生の1冊になりうる本。読むべし。
と言いたくなってしまうのが、宗教の本たるゆえんなのであろう。
たしかにわたしにとっては名著で、巻末の一休宗純著「般若心経提唱」など
百回以上繰り返し読んだけれども、あなたに向いているかはわからない。
たしかにわたしは本書に掲載されている一休さんの道歌を完全に記憶して
いまやすべてを暗唱できるけれども、あなたの心には響かないかもしれない。
こんな本を読んでも一銭にもならないじゃないかと逆にお叱りを受ける可能性もある。
そんな道歌を覚えるよりも、お題目を1回でも多く唱えたほうが金が儲かるでェ。
そういうご意見もあることだろう。
わたしもそれは一理あると思う(え、ほんまでっか?)。
一休禅師のことを好きなのは、そこを理解した数少ない宗教家だからである。
自分が絶対正義で教えに盲目的に従えと脅迫的に訴えかけてくるところがない。
まあ、人それぞれだよね、ということをよくわかっている。
臨済宗の一休宗純禅師は念仏(南無阿弥陀仏)も題目(南無妙法蓮華経)も、
それほど強くは否定しなかったのではないか、という気がする。

「万法の行はよろずの事なれば こころごころに道をつとめよ」

人それぞれいろんな道があっていいんじゃないの、という姿勢である。
たとえ道は一見すると違うように見えるかもしれないけれども――。

「分け登る麓(ふもと)の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」

個人的な考えでは、念仏も題目も禅も、
名前をつけるのならたとえば「自然」というような大きなものを認めるという点で
おなじものを信仰しているのではないかという思いがある。
だからまあ、形式はなんだっていいじゃないか。
なんで念仏と題目が犬猿の仲で争わなきゃならないのかさっぱりわからん。
おなじ大きなものを信じているのにもかかわらず。
人間を超えるものの例として自然と言ったが自然とはなにか?

「雨あられ雪や氷とへだつれど とくればおなじ谷川の水」
「悪しくともただ一筋に捨つるなよ 渋柿を見よ甘干(あまぼし)となる」


自然とは人間がなにかを変えるのではなく、大きなものが変えるという見方だ。
自然に変化していく。
禅僧、妙好人、法華者はそれぞれあられ、雪、氷のようなものかもしれない。
人生が好転するときは努力の結果ではなく自然の変化なのかもしれない。
渋柿もそのまんま放っておけば甘味が出てくるのだから。
もしかしたら人間も変わる必要はなく、そのまんま(自然)でいいのかもしれない。

「そのままに生まれながらの心こそ 願わずとても仏なるべし」
「わが心そのままほとけ生きぼとけ 波を離れて水のあらばや」
「おおかたは学者の知恵は付け焼刃 生まれの智慧をみがきたまえや」


しかし、人間はなかなか生まれたときの無垢の心そのまんまというわけにはいかない。
本来はそのまんまがいちばんいいと言っても、そのまんまではいられない。
迷ってしまう。なにが迷うのか。心が迷うのである。

「おしなべて心一つと知りぬれば 浮世に巡る道も迷わず」
「一切の衆生と仏へだてなし 隔つるものは迷い一念」
「物ごとに執着せざる心こそ 無相無心の無住なりけり」
「極楽も地獄も我にあるなれば 悪念起こるこころ制せよ」
「本来の無心無相の仏をも 五欲にひかれ凡夫とぞなる」
「聞くことと見る事にだに迷わずば 何か菩提の障りなるべき」


どうしたらこの厄介な心を律することができるのか?
彼岸に渡ってしまえば、此岸の火宅など対岸の火事に過ぎなくなるのである。
此岸では色にこだわるしかないが、彼岸に渡ればすべてが空(くう)になる。

「楽々と心からにて彼の岸に 渡るもやすき法の船人」
「あら楽や虚空を家と住みなして 心にかかる造作もなし」


空(くう)とはいったいどういうことか?

「桜木をくだきてみれば花もなし 華をば春の空ぞ持ち来る」

むかしの人は空(くう)と空(そら)を同一視したと作家の水上勉氏は指摘する。
空(そら)はいつも変わらないけれども、地上は春夏秋冬を繰り返す。
桜の木をくだいたところで花の実質は見えない。
なぜ桜が咲くのか? それは春になったからとしか答えようがない。
四季おりおり天上の空(そら)は変わることがない。まさに不生不滅である。
もしかしたら無常の此岸とは地上で、絶対の彼岸とは空(そら)なのかもしれない。
美しい桜の花が空(くう)だというとき、
春の空(そら)が花を降らしたという見方も悪くないのだろう。

さて、我われはどう生きたらばいいのだろう。
一休宗純は自然に生きよという。空を生きろという。
それはいったいどういうことなのか?

「心をば墨の衣(ころも)に染めなして 身をば浮世のあるにまかせて」
「我ありと思う心を捨てよただ 身のうき雲の風にまかせて」
「有漏路(うろじ)から無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨降らば降れ風吹かば吹け」


これは親鸞の言う他力のようなものだろう。
わたしからしたら一休も親鸞もおなじことを言っているのである。
ちなみに有漏路の漏とは煩悩(ぼんのう)のこと。
まあ、人生なんて一休みのようなもんだ。雨降らば降れ風吹かば吹け、だ。
この「どうにでもなりやがれ」という無鉄砲な絶対他力信仰が好きだ。
身をば浮世のあるにまかせて。身のうき雲の風にまかせて。
風まかせで空(そら)を雲のように渡っていけばいいのかと気が楽になる。
先のことを心配しても無駄なんだ。

「夢の世の先を深くもいとうこそ 安楽国を知らぬ人なれ」

現世なんてどうせ夢のようなもんなのに、先ゆきの心配ばかりしてもしょうがない。
死ぬのが怖いというのは錯覚なのである。
なぜなら心を考えてみよう。心がいつ始まったかだれも覚えていないでしょう?
いつしか物心がついていた。
ならば死ぬときも同様で、どのみち死の瞬間を心が意識することはないのである。
交通事故なんて典型ではないか。
交通事故の即死者は死の寸前まで自分が死ぬことをわかっていなかったはずである。
死なんて、まあそんなもんだ。

「はじめなく終わりもなきにわが心 生まれ死すると思うべからず」

一休宗純のひねくれきったものの見方もいい。
なにがいちばん嫌いかといったら、職業坊主のインチキ悟りめいた余裕のある言動だ。
はっきり言うと職業坊主のブログを読むとむかむかしてしようがない。
おまえらの自己卑下はうそくせえにもほどがある。
柔和ぶるんじゃねえぞクソ坊主どもが。

「嘘の皮むいて捨てたるそのあとは 釈迦も凡夫も同じ味わい」
「悟らぬも悟りも同じ迷いなり 悟らぬ先を悟りとぞいう」


まあ、釈迦なんてインチキ野郎だよね、と言っているようなものである。
悟ったようなポーズをするなよクソ坊主ども。
悟りなんかないんだ。悟れなくて悟れなくて悟れないその迷いが悟りなんだ。
憎いやつが死んだら大笑いしてもいいのである。早く死ね、と思ってもよい。
出世欲が消えないのは仕方がなく、
悟ったふりをして豪華な袈裟(けさ)を身にまとう高僧なんかみんなインチキなんだ。

そういえばどうしていまの坊主は過去世を説かないのだろう。
仏教学者も、仏教ライターも、仏教系の人気作家も過去世を無視する(初期の宮本輝以外)。
こちらが無知なだけなのかもしれないが、みな過去世なんてないような口ぶりである。
おそらく、みなが現世で出世しているからであろう。
成功したものは、自力でこの栄冠を勝ち得たと信じたいのだろう。
ゆめゆめ過去世の功徳のおかげなどとは考えない。
しかし、本当に苦しみと向き合ったら過去世を考えるしかないのである。
どうして自分は苦しまなければならないのか?
この問いに科学は答えを出せないのである。
そういう不幸は何パーセントの確率でだれかが遭遇しなければならないのです。
こんなご託宣を科学からもらっても、どうして他人ではなく
よりによって自分が苦しまなければならないのかはさっぱりわからない。
たいせつに思う人がああも苦しまなければならないのかもわからない。
一休宗純よ、苦しみとはいったいなんだ? 「般若心経提唱」より抜粋。

「先づ今この世界へ生れ、色々の苦を受くるは、いかなる因縁ぞといふに、
過去にて悪業煩悩をあつめてもちらるゆゑに、その因をもつて、
今この苦をうくる身をまねき得たるなり」(P155)

「過去の無明の業縁によりて、今現在に苦を受くる身とうまれ、
又今この現在にて作る業縁によりて、未来世にて又生をうけ、
死してはうまれ、生まれては死し、三世の因果たえず、三界に流転して、
無量の苦を受けて、終にやむことなし」(P155)


こう言い切ってもらうと楽になる。
現代の坊主でも口先でだけならば、たぶんこのセリフを言えるのである。
しかし、体験をともなう確信を持って過去世を語れる坊主がいまいるか?
おそらく、それを言えるのはいまでは新興宗教のトップくらいなのだろう。
口先で文言をなぞるだけではダメなのだ。
全身で過去世(未来世)の存在を確信していなければならない。
生存はこの世だけではないと信じていなければならない。
きっと現世で成功してしまったものは現世以外のものを信じられなくなるのだろう。

さて、過去世によって生まれた苦しみはどうしたらいいと一休宗純は言うのか。
すべてが顛倒夢想(てんどうむそう)なのだとあきらめよと言う。

「顛倒夢想とは、一切の有為の法は、夢の如くまぼろしの如くにして、
実にあることなし。しかるを、凡夫は迷ひて実に有りとおもへるは、
あだなる夢まことゝおもへるが如し。是顛倒夢想なり」(P154)


苦しみは顛倒夢想なんだと自分を騙(だま)すしかないのだろう。
おそらく究極の真実はうそで、うそを真実だと信じるとき人は救われるのだろう。
釈迦と我われの違いがうその皮一枚だと一休が言うのは、そういうことなのではないか。
究極の真実がうそならば、きっとすべてがうそなのだろう。
だとしたら、すべてが真実だということになる。なにを信じてもいいことになる。

「うそ=空(くう)=真実」