ここ3ヶ月ほど、ほとんど毎日のように般若心経をよんでいた。
ときどき、うむ? もしや悟ったのではないかと錯覚したこともあったけれど、
結局のところわが心は悪念邪念のとりこらしく、人格の向上は皆無。
般若心経を開運の呪文として見るむきもあるようだが、とくに幸運もなし。
それでも3ヶ月も向き合っていたらわたしなりの解釈のようなものが生まれる。
もちろん、いろんな人の解釈を参考にさせていただいた。
いちばん影響が大きかったのは一休宗純(一休さん)である。
解説本でお世話になったのは宗教評論家のひろさちや先生。
最近は過激すぎる発言で知られるひろさちや先生はまさしく現代の一休さんだと思う。

で、ここで問題になるのがわたしの般若心経解釈が正しいのかどうかということ。
かなり独自な解釈をしたところもある。
しかし、そもそも絶対的に正しい般若心経解釈が存在するのかどうかは疑問である。
仏教学が専門の大学院では、とりあえず担当教授の解釈が正しいとなる。
寺院の世界では、上司たる高僧の解釈が正しいということになるのではないか。
人気作家の般若心経解説が絶対的に正しいと思う読者もいることだろう。
わたしはだれの般若心経解釈が間違っているとも、絶対的に正しいとも思わない。
それぞれに絶対的に正しい般若心経理解があるのではないかと思っている。
そんなことを言ったら出世できなくなるが(だれの下につくかが出世のコツ!)、
般若心経は現世利益のためのお経ではないのだから別に構わないのではないか。
(もちろん般若心経を現世利益目的で唱える人がいてもよろしい)

以下にわたしの般若心経理解を書くが、
少しでもみなさんの解釈の足しにでもなれば幸いである。
いままでまったく興味がなかった人も、
こんな自分の騙(だま)し方もあるのかと知っていただけたら嬉しい。
とりあえず、わたしは自分の解釈を絶対的に正しいと思って書くが(それが信仰ゆえ)、
みなさんにはみなさんの数だけ絶対的に正しい般若心経信仰があるはずである。
法華経や正信念仏偈、聖書やコーランを絶対的真理と思われている方がいてもいい。
こっそり白状すると、そもそも自身に信仰があるのかどうかも正直疑わしい。
本当に般若心経を絶対的真理かと思っているのかと難詰されたら、
たぶん否定してしまうような無宗教な精神状態をわたしは有している。

お忙しい読者諸賢のために最初に結論を書いておく。般若心経とはなにか。
わたしが思うに、般若心経は法華経とおなじく絶対を説いた教えである。
般若心経の価値は、たたかだか人間ごときが絶対を創作したところにある。
以前、法華経をこう説明した(参照:「法華経現代語訳」)。

「嘘×百→真実(=絶対)」

創価学会の池田大作さんの名言、
「ウソも百遍繰り返せば真実になる」をたぶんに参考にした解釈である。
おなじように般若心経をまとめると次のようになる。

「無×百→空(=絶対)」

(全文)

摩訶般若波羅蜜多心経
(まかはんにゃはらみつたしんぎょう)

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみつたじ しょうけんごうんかいくう どいっさいくやく)

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是
(しゃりし しきふいくう  くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき じゅうそうぎょうしき やくぶにょぜ)

舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
(しゃりし ぜしょうほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)

是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界
(ぜこくうちゅうむしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜつしんい むしきしょうこうみそくほう むげんかいないしむいしきかい)

無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 
(むむみょう やくむむみょうじん ないしむろうし やくむろうしじん)

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
(むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ)

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
(ぼだいさつた えはんにゃはらみつたこ しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう くきょうねはん)

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
(さんぜしょぶつ えはんにゃはらみつたこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)

故知般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒 能除一切苦 真実不虚
(こちはんにゃはらみつた ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ のうじょいっさいく しんじつふこ)

故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰
(こせつはんにゃはらみつたしゅ そくせつしゅわつ)

掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶
(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか)

般若心経
(はんにゃしんぎょう)



漢字の読み方はいろいろ異なる場合もあるらしいけれど、
我われは学者ではないのだから細かいところはどうでもいいでしょう。
さて、いちばんかなめのところから入ろう。
般若心経はなにを教えているのか。般若心経を唱えるとなにがわかるのか。
3ヶ月のあいだ一休宗純に習いながら般若心経をよみあげたわたしの結論は、
般若心経は苦しみについての教えである。
どうしたら苦が消えるのか。完全には消滅はしなくてもごまかすことができるか。
みなさんも人生で苦しんでおられるでしょう。
人生が思い通りになる人はいないのだから、これは絶対的真理かもしれない。
人間は絶対に苦しむ。
般若心経は、人生には不可欠の苦にどう対処したらいいかを説いている。
このため、読む価値があるのである。
なんにも役に立たない教えだったら、我われ庶民はこれほど愛さなかっただろう。
なお初期大乗仏典の般若心経は法華経や観音経と並んで、
もっともポピュラーな仏典のひとつである。
以下、みなさんに寄り添いながら少しずつ般若心経をよんでいきたい。
お時間がございましたら、どうかお付き合いくださいませ。
決して損はさせませんとは約束できないが、
もしかしたら損が損に見えなくなるようなことならばあるかもしれない。

「般若心経=苦しみを消す教え」

・摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみったしんぎょう)

このタイトルにすべての内容が込められているのかもしれない。
摩訶(まか)は大きいという意味。
般若(はんにゃ)は、パーリ語(古代インド語サンスクリット語の俗語)
パンニャーの音訳で智慧という意味。
これは大きな智慧だと宣言しているわけである。
で、波羅蜜多(はらみった)の意味に入るわけだが、
この解釈に般若心経のみならず大乗仏教すべての基礎があるような気がする。
もちろん、サンスクリット語(パーリ語)は読めないので、
現代の一休さんこと博識なひろさちや先生からの受け売りだが、波羅蜜多とは――。
波羅蜜多とは、サンスクリット語パーラムイターの音訳とのこと。
よって波羅蜜多の意味は、パーラム(彼岸)+イター(渡る)。
繰り返すが、波羅蜜多の意味は、彼岸に渡れ! 到彼岸(とうひがん)せよ!
大きな川をイメージしてください。さて、我われはこちらの岸にいる。
大きな川を彼岸まで渡れというのが大乗仏教の教えなのだ。
ちなみに、此岸(しがん=こちら岸)はサンスクリット語でサハーという。
サハーには耐え忍ぶという意味もあるから、
此岸は忍耐する世界という意味で忍土とも言い換えられる。
このサハーを音訳したものが娑婆(しゃば)とのことである。
まとめると、苦しみ多き娑婆から彼岸に渡れ、というのが波羅蜜多の意味だ。

☆波羅蜜多=パーラム(彼岸に)+イター(渡れ)
☆波羅蜜多=此岸(忍土、娑婆)から大河を超えて彼岸へ渡れ!

いままでのところを丁寧に整理する。
摩訶(大きな)般若(智慧)波羅蜜多(到彼岸=彼岸に渡れ)心経――。
心経は一休さんの解釈に従い、心のお経だということにしておこう。
実際、般若心経は心の御し方(律し方)を説いているわけだから。
さて、摩訶般若波羅蜜多心経とはなにか。
「心中において彼岸に渡れという大きな智慧」と言うことができよう。
内容に分け入っていく。

・観自在菩薩(かんじざいぼさつ)

これは庶民に慕われている観音さまとおなじ菩薩である。
菩薩とは、すでに悟りを開いたけれど、
我われを救うために娑婆にいてくださる仏さま。
古代インド語の原語を観自在菩薩と漢訳したのが玄奘(げんじょう)で、
観音菩薩と訳したのが鳩摩羅什(くまらじゅう)とのこと。
まあ、お釈迦さまが偉くなりすぎたので、
観自在菩薩(観音菩薩)のような存在が考案されたと見るのが一般的である。
さて、観自在菩薩がどうしたというのか。

・行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃはらみったじ)

観自在菩薩が深い般若波羅蜜多の修行をしたときに――。
観自在菩薩が到彼岸(彼岸に渡れ)という深い智慧を修し終えたときに――。

・照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)

観自在菩薩は五蘊は空であると照見なされて――。

・度一切苦厄(どいっさいくやく)

観自在菩薩はあらゆる苦しみから解放されたとさ!
え? どうやって苦しみから逃れられたのか聞きてえじゃないか。
この世は苦しいことばかり♪
よく知るために原文を繰り返そう。
かならずやここに苦しみから脱する方法が書かれているはずである。

・観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

この菩薩さんは、彼岸に渡る智慧を修して、五蘊を空であると看破された。
結果として、あらゆるすべての苦しみが消えたというのである。
じゃあ、五蘊ってなんだろう。五蘊とは、全世界のことである。
ならば、全世界とはなにか。仏教は世界をどう見ているのか。
五蘊とは、色受想行識という5つの集まりのことである。
仏教では、世界は色受想行識の5つ(五蘊)から成立していると見る。
おいおい、色受想行識っていったいなんのこったい?
いまの言葉でいえば、物質と精神のことである。

☆世界=物質(客観)+精神(主観)
☆世界=五蘊=物質(色)+精神(受想行識)


だから、五蘊皆空とは色受想行識がみな空(くう)ということである。
空とはなにか? なんてわたしに聞かないで!
この空の思想をめぐって一生かけても読みきれないほどの論文があるわけだから。
まあ、乱暴に言うなら空っぽくらいでいいんじゃないかな。
色受想行識(物質と精神)はみんな空っぽである! 実体がない!
いったいどうしたら世界(物質と精神)が空っぽに見えるのか。
彼岸に渡ればよろしいと般若心経は説いているのである。
ここで先ほど考えついたものすごくわかりやすいたとえ話をしようじゃないか。
いま自宅が火事であるとする(法華経では火宅なんていう)。
自宅が火災に見舞われたら大騒ぎである。
ところが、この火宅を川向こうの彼岸から見たらどうなるか。
まさしく「対岸の火事」のように見えるのではないだろうか。
むしろ盛大な花火のようで美しいとさえ感じるかもしれない。
煩悩の炎が燃え盛る私(火宅)も彼岸から見たら「対岸の火事」に過ぎない。
これが般若心経の教える苦しみの消滅方法である。

「般若心経=火宅→対岸の火事」

さあ、ここまでの内容を俗っぽくまとめるとこうなる。
観自在菩薩は彼岸に渡る修行をしたら、世界が空っぽに見え、苦しみから解放された。

・舎利子(しゃりし)

さあ、舎利子よ、と呼びかけているのである。
舎利子は仏弟子のひとりで人間である。
こう言っちゃ悪いけれど、観自在菩薩よりは格下だろう。
ここで、だれが舎利子よ、と呼びかけているのか。
仏典はみな釈迦の教えというのが建前だから、釈迦と考えるのが穏当なのだろうが、
この語り手は観自在菩薩よりも偉くなければいけないわけだから、
やはり人間・釈迦と考えるとつじつまの合わないところがあるような気がする。
そう考えると、法華経だけではなく、
般若心経も久遠実成(永遠仏、宇宙仏)を前提としているのかもしれない。
いささか専門的な話になるが、
法華経は般若心経から久遠実成(=絶対)の考え方を盗んだのかもしれない。
要は、人間・釈迦がどんどん偉くなって、ついに人間を超えてしまったということだ。
釈迦が大河を渡って、我われ人間にはとても見えないような彼岸に到達してしまった。
みなさんにはどうでもいいことを失礼しました。
しかし、研究者は般若心経の語り手はだれかを考えてみるとおもしろいかもしれません。

さて、偉い人が我われ人間の代表たる舎利子に声をかけてくれたわけである。

・色不異空 空不異色 色即是空 空即是色(しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき)

色は空に異ならず、空は色に異ならず、
色は即(すなわ)ち是(こ)れ空、空は即ちこれ色なり、とか読むらしいぜ。
要するに、「色=空=色、色→空→色」ってことだ。
もしかしたら「色=空」の1回でいいのかもね。 
色というのは物質である。まあ、形あるものだ。
それが実は空だという。空っぽである。実体がない。
一休さんなんかがどう説明しているのかというと、
波と水はふたつ名前はあるけれども、実質はおなじでしょ?
雨とか霰(あられ)とか雪とか氷とかいろいろ名前はあるけれど、
本当のところはみんなおなじものだよね?
「色=空」とは「雨=霰=雪=氷=水=波=海=川→空(くう)」。
こんな説明をしているけれど、ううん、なんか詭弁(きべん)くさくないですか?
いちおう、これで空の説明ができなくもないのはわかる。
たとえばテーブルにリンゴがあるする。
これはデザートでも食材でも果物でも、人によってはボールでもあるわけだ。
矢を射るための的にする人もいるかもしれない。
色によって青いもの(青リンゴ)、赤いもの(赤リンゴ)と識別する人がいてもいい。
腐っていたら生ゴミと判断する人がいても誤りではない。
しかし、空腹のどん底だったら腐りかけのリンゴがご馳走に見えるかもしれない。
「空=実体がない」をひろさちや先生は、こんな感じの説明をたしかしている。
もっと生々しい話をすると、百万円があったとする。
これは貧乏人からみたら大金だけど、金持から見たらはした金である。
だから、百万円というお金には実体がない、つまり空なんだよという。
もしかして奇跡が起こってこれで空がわかっちゃったりした人がいらっしゃいますか?
ちなみに書いているわたしはまだ空のなんたるかを理解しておりませんよ!
まあ、よろしい。まだ般若心経は続くのだからそのうちわかるかもしれない。

・受想行識 亦復如是(じゅうそうぎょうしき やくぶにょぜ)

このあたりから般若心経は一気に小乗仏教思想の否定に入る。
小乗仏教の考え方を「無~~~~」=「~~~~はない」と否定しつづける。
だから、ここは重要ではないんだというひろさちや先生の説明も一理あるが、
わたしはこの小乗仏教否定にもそれなりの価値があると思う。
というのも、小乗仏教がなかったら大乗仏教は出てこなかったのだから。
小乗仏教という踏み台がなければ、大乗仏教の思想も生まれてはこなかった。
まったくの無からは新しい教えは出てきようがない。
広い目で見たら、弟子から否定される師も
それなりの役割を果たしているのではないだろうか。

さて、般若心経に戻ると、受想行識もまたかくのごとしであるという。
色が空であるように受想行識もまた空である(=実体がない)。
繰り返しになるが、色とは目に見えるもの。
受想行識は目に見えない心の中の作用のことである。
ここから仏教がいかに心を重視していたかがわかるだろう。
物体はただ色とだけひとくくりにされているのに、
こと心的作用にいたっては受想行識と4つの分類をされている。
この受想行識はいままでどんな解説本を読んでもよくわからなかったが、
一休さんの説明でなんとなくわかったような気がした。
わがつたなき理解の範囲内で述べると――。
まず「<受→想→行>←識」というイメージをご理解ください。

☆心=「<受→想→行>←識」

色→受(最初に苦楽を受け入れるところ=眼耳鼻舌身意)
色受→想(その苦楽についてあれこれ考えるところ=色声香味触法)
色受想→行(苦楽にまつわる善と悪を定めるところ=ここから業<行為>が生じる)
色受想行←識(心の親分。最初の苦楽を識別する元締め。五蘊の中でいちばん偉い)
「眼耳鼻舌身意」や「色声香味触法」はあとでまた出てくるのでそのときに。
さて、色(物体)のみならず心(受想行識)もまた空である。

・舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減(しゃりし ぜしょうほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)

個人的にはこの部分が般若心経の隠れたキモではないかと思っている。
まず舎利子よ、と仏弟子に呼びかけてから――。
この諸法というのは空相なんだよ、とおなじことを繰り返している。
諸法とは、五蘊(=色受想行識=物と心=全世界)のこと。
諸法=五蘊は実のところ空である。ならば、空相とはどういうことか?
空相とは「不生不滅 不垢不浄 不増不減」のことだ。
生まれることも死ぬこともない。きれいでもきたなくもない。増えも減りもしない。
空とは、不生不滅かつ不垢不浄かつ不増不減なり。
死んだように見えていても実のところ死んではいない。
美少女コンテストの1位も醜い老女も変わりはない。
貯金1億円も借金10万円もなんら意味のないことだ。
わかりやすく言ったら、これはランキングを超えるものに言及している。
1位とかビリとか、そういうランキングは無意味だ。
生滅や美醜、増減というのは、言うなれば相対の世界の問題である。
般若心経は、世界は空だと主張している。
世界は実のところ「不生不滅 不垢不浄 不増不減」、
つまり「ランキング=相対」を超えるものがあるというのだ。
相対を超えるものとは、絶対のことである。
般若心経が絶対を説いているのは、この部分においてである。
般若心経は相対(生滅・美醜・増減)を否定して絶対に到達している。

「般若心経=相対否定→絶対」

しかし、人が死ぬのは悲しいだろう? 愛するものの死は人を絶望に追い込む。
自分の子どもが産まれたら嬉しいだろう? わが子の誕生が空なものか。
美人やイケメンばかりちやほやされる世界では空思想などまさに空理空論ではないか。
ウンコはきたないだろう? ゴッホの絵は高値がつくだろう?
年収1千万と年収2百万がおなじであるわけがない。
津波でなにもかも奪われ悲嘆に暮れる人に世界は空だと言ったら怒るのではないか。
どうしてこの不平等、不合理きわまりない世界を空などと般若心経は言えるのか。
なにをもってして摩訶般若波羅蜜多心経は世界を空だと言い切るのか。
摩訶般若波羅蜜多心経の意味は「心中において彼岸に渡れという大きな智慧」――。
要点を繰り返す。

☆波羅蜜多=此岸(忍土、娑婆)から大河を超えて彼岸へ渡れ!

もしや生滅・美醜・増減というのは此岸(しがん)における話なのではないか。
かりに彼岸からこちらを見たら、そのときなにがきれいでなにがきたないのか。
わかりやすいたとえを用いるのなら、死は彼岸に属する。
死の世界から娑婆(しゃば)を見たら、その目にどのようなものが映るか。
余命1ヶ月と宣告された患者がいるとする。
この患者にとって10億円の貯金がいったいなんになろうか?
よしんば、1千万円の借金があったとしても死ねば帳消しになるのである。
死にゆくものに美少女アイドルがなにほどの価値を持つものか。
アイドルなぞよりも早世のため遺していく老母のほうがよほど美しく見えやしないか。
余命わずかの患者にとって死者は生者よりもはるかに近しい存在かもしれない。
死者は悼(いた)むべき存在ではなくなっているかもしれない。
なぜなら、もうすぐ早死にした近親者と逢えるのかもしれないのだから。
死期が迫っていると、名もなき雑草までもが美しい輝きを放つのではないか。
一方で歓楽街の華やかなネオンなどむしろ醜悪に思えるのかもしれない。
たいせつにしていた骨董のコレクションを手放したくなることもあるだろう。
いままで気づかなかった人の小さな親切への感謝が生まれてくるかもしれない。
大嫌いなやつこそ人生の恩人であったと気づくこともないとは言えまい。
人を蹴落として出世したあげくがこれかとむなしくなることもあるはずだ。
「不生不滅 不垢不浄 不増不減」とは、そういうことなのではないか。
此岸(この世)ではマイナスでしかなかったものが彼岸から見るとプラスになる。
反対にプラスだと思っていたものが彼岸から見るとマイナスになってしまう。

「般若心経=彼岸に渡れ!」

此岸から大河を渡って彼岸に到れ!
さあ、此岸と彼岸をはっきりさせよう。
我われはいまどこにいるのか。そして、いったいどこへ渡ればいいのか。

☆「此岸→(大河)→彼岸」
☆「相対→(大河)→絶対」
☆「迷い→(大河)→悟り」
☆「無常→(大河)→常住」
☆「我→(大河)→無我」
☆「苦楽→(大河)→涅槃(ねはん)」
☆「色(煩悩)→(大河)→空(涅槃)」
☆「生(=苦)→(大河)→死(=浄土)」<浄土真宗の場合>
☆「人間(釈迦)→(大河)→久遠実成(宇宙仏、永遠仏)」


こう見てくると、人間がどのようにして絶対を考案したか推し量ることができよう。
死というものが絶対を仮構するうえで大きな役割を果たしたのはほぼ間違いない。
人はかならず死ぬ。このことほどこの世の無常を強く意識することはないだろう。
はかないこの世の無常を深くまで凝視しえたものがある日、
願いのようなものを込めて無常ならぬもの(=絶対)に思いをはせたのではないか。
それはほとんど熱烈な祈りのようなものだったのかもしれない。
この世が無常ならば、きっとどこかに無常ならぬものがあるのではないか。
無常ならぬものがあってほしい。それがなければこの世に救いがないではないか。
そういえば、ひとつだけこの世にも無常とは思えぬことがあるではないか。
死である。生者はいつか没するが、死者は永遠に死んでいると見ることも可能だ。
この永遠から絶対へつながる道を過去の賢人は見出したのかもしれない。

さて、そろそろまた般若心経原文に戻ろう。
最重要部分はもう過ぎたので、あとはおまけという見方もできなくはない。
いままでなにを見てきたのか。
諸法(五蘊=色受想行識=物と心=全世界)は空相である。
それはどういうことかというと、
彼岸から見たら世界は実のところ「不生不滅 不垢不浄 不増不減」である。
般若心経は以上のことをさらにわかりやすく説明しようとする。
言い方を変えれば、おなじことをクドクド繰り返すということである。
相変わらず、空(くう)の説明を延々とするのである。
だが、どうやら空というものは、かくかくしかじかだ、とは言い切れないようだ。
般若心経で空は否定でしか表現されていないのである。
「~~はない。~~もない。~~もないのだよ」と否定ばかりしている。
原文では「無~~。無~~。無~~」の繰り返しである。

・是故空中無色 無受想行識(ぜこくうちゅうむしき むじゅそうぎょうしき)

これゆえに空の中に色なく、受想行識もない。
仏教では世界を5つの集まり、すなわち五蘊(色受想行識)と見てきたが、
諸法は空なのだから色もなければ受想行識もないのである。

・無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)

(これゆえに空の中に)眼耳鼻舌身意はない。
これまた否定によって空を説明しようとしているわけである。
苦楽はどこから入ってくるのかを仏教では眼耳鼻舌身意と考える。
これは六根などと言われている。
眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根という6つの根から苦楽が生じる。
これは独自の解釈だが、六根は受想行識の受に当たると思う。

・無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう)

(これゆえ空の中に)色声香味触法はない。
悟りの反意語は迷いだが、人はどのようにして迷うのか。
たとえば、色に迷うという言葉ある。
これを眼根から生じた色の塵(ちり)だと仏教は分類する。
苦楽は六根から入ってくるが、この苦楽についていろいろ思うゆえに迷い(塵)が生じる。
仏教では六根に対応する6つの迷い、すなわち六塵(ろくじん)があると考える。
六塵とは色声香味触法である。六根とは以下のような関係がある。
眼根→色塵、耳根→声塵、鼻根→香塵、舌根→味塵、身根→触塵、意根→法塵。
これまた独自解釈だが、六塵は受想行識の想に相当すると思う。
六根で受けた苦楽についてあれこれ想うから六塵が発生するという考え方だ。

・無眼界乃至無意識界(むげんかいないしむいしきかい)

(これゆえ空の中に)まず眼界がなければ、意識界に到るまでない。なにもない。
まえに仏教では世界を五蘊(色受想行識)と見るということを書いた。
同時に別の見方では世界は十八界に分けられるという。
こちらの考え方では、世界に客観をまったく認めず主観だけであると見る。
十八界はまず六根(眼耳鼻舌身意)、それから六塵(色声香味触法)である。
さて六塵(ブス、騒音、悪臭、苦味、鳥肌、悪意)を考えてみよう。
六塵を六塵であると認識するおおもとの心的作用があるのではないか。
ある音を騒音ととらえたり美声と思ったりするのは、この認識作用による。
五蘊の色受想行識で言えば、心の親分である識がいろいろ分別しているのではないか。
こう考えて六根や六塵に相当する六識があるとする。
六識とは眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の6つの心的作用である。
仏教には、世界を十八界として把握する見方がある。十八界とは――。
眼界、耳界、鼻界、舌界、身界、意界(=六根)<五蘊の受>、
色界、声界、香界、味界、触界、法界(=六塵)<五蘊の想>、
眼識界、耳識界、鼻識界、舌識界、身識界、意識界(=六識)<五蘊の識>。
まあ、なんと言うか、その、わかりにくいよね~。
わたしもこうして書いて見てはじめてどういうことかわかったような気がする。
いや、どうせ無なんだから、わかったからといって大したことはない。
原文の「無眼界乃至無意識界」は「眼界~意識界すべてない」という意味。
十八界すべてが空と言うのである。
すべてない。彼岸から見たら、なーんにもない。

・無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽(むむみょう やくむむみょうじん ないしむろうし やくむろうしじん)

延々と空の説明をしているわけである。
空の中には無明もなく、無明が尽きることもない。
および空の中には老死もなく、老死が尽きることもない。
これはどういうことかと言うと、人間・釈迦が悟った真理であるところの、
いわゆる十二因縁を否定しているわけである。
十二因縁は苦しみについての考察で、三世に渡る苦の連鎖を物語る。
わかりやすく言えば、現世で苦しむのは過去世の業(行為)ゆえということだ。
そして、現世でつくる業のために死してもまた未来世に生まれ変わるという。
十二因縁の解釈はいろいろあるらしいが、
一般的にはこのような三世因果説として教えられることが多い。
この釈迦が悟った真理もまた無というのだから知らなくてもいいのかもしれないが、
自分の理解のためにいちおう一休さんの解釈を参考にして述べる。
十二の因縁によって人間は苦しんでいると釈迦は言うのである。

無明(根本原因、無知)→行(善悪の業)<過去世の因>
→識(父母の妄念)→名色(心)→六処(六根)→触(六塵)→受(←苦楽)<現世の果>
→愛(楽に愛着すること)→取(さらに執着すること)→有(人生)<現世の因>
→生(有の因縁によって誕生すること)→老死(老いて死ぬこと)<未来世の果>

これが釈迦の悟った真理とされる十二因縁である。苦しみの連鎖だ。
このため釈迦は無明を尽くせ(消せ)と教える。
無明がなくなれば(無明尽)行もなくなり(行尽)、
以下次々とドミノ倒しのように因縁が尽きて最後には老死も尽きる(老死尽)。
ところが、般若心経はあろうことか釈迦の悟った真理を否定するのである。
無明がなければ、無明尽もない。老死がなければ、老死尽もない。
十二因縁のどれひとつとしてないし、十二因縁が尽きることもない。
さらに般若心経は爆弾発言をするのである!

・無苦集滅道(むくしゅうめつどう)

これはものすごい過激な主張なのだ。
おいおい、般若心経は四諦(したい)の教えまで否定してしまうのか!
いままでも五蘊、十八界、十二因縁と否定に否定を重ねてきた般若心経だが、
とうとう釈迦の悟りの根本である四諦(苦集滅道)まで否定してしまう。
四諦とは釈迦の悟った真理で、苦諦、集諦、滅諦、道諦のこと。意味は――。
苦諦(人生は苦しみだ)。
集諦(苦しみの原因は欲望だ)。
滅諦(ならば欲望をなくせばいい)。
道諦(そのための正しい道がある)。
般若心経は人間・釈迦の没後約4百年を経て創作された大乗仏教の教えである。
いくら4百年が経過していたとはいえ、
四諦は当時の仏教徒にとって間違いなく絶対的真理であったはずだ。
没後約2千5百年が経ち教えがあやふやになった現代でさえ、
四諦は釈迦の真説として実証科学的に認められている。
絶対的真理といえば、四諦のみならず五蘊、十八界、十二因縁も当時の真理なのである。
いまで言うならば、科学のようなものだと思えばよい。
つまり、ほとんど絶対的に正しいと多数派が思っている(信じている)説明原理である。
なかでも究極の真理が四諦なのだ。
この真理を般若心経は「無苦集滅道=四諦なんてない」と否定する。
「無苦集滅道」は「不生不滅 不垢不浄 不増不減」と双璧をなす般若心経の要所だ。
たしかに「不生不滅 不垢不浄 不増不減」ならば、四諦なんてないことになる。
なぜなら、欲望は生まれも滅しもしない。
そして、欲望は不浄でも清浄でもないし、増えも減りもしないことになるのだから。
こうして般若心経は釈迦の説いた絶対的真理まで否定してしまうのだ。
実のところ、般若心経は抹香くさい枯れた教えなどではない。
ロックである。全否定の革命宣言と言ってもよい。「無、無、無、無」だ。
般若心経で観自在菩薩は、中指を立てて全世界にファックユーしているのである。

「般若心経=全世界にFUCK YOU!」

あっはっは、本当はなーんにもないんだぜ!
五蘊や十八界なんてあるわけないだろうが、バッカヤロ!
十二因縁や四諦を信じてセコセコ修行するなんてバッカじゃねえの! ぜーんぶ嘘だ!
ならば、なにゆえ般若心経は釈迦の説いた真理を否定できるのか?
五蘊、十八界、十二因縁、四諦なぞ所詮は人の説いた教えに過ぎないからだ。
一見すると絶対的真理のように思えるが、実は絶対ではないからだ。
人間が此岸(この世)で悟る内容など、いくら釈迦の教えであろうが相対でしかない。
大河を渡った彼岸から見たら、
どの教説も人間が説いたものであるかぎり相対的にならざるをえない。
十二因縁や四諦は絶対の保証を持っていないではないか。
どうしてひとりの人間がたった一回の人生で悟った内容が絶対的真理たりえようか。
言われてみれば、四諦なんて真に受けたら(欲望を消したら)人類が滅亡してしまう。
四諦は一部の人には有効な教えなのだろうが絶対的真理ではない。
なぜなら、うつせみを生きる人間の知恵などたかが知れているからだ。
であるからして、いま現代を心底から般若心経の精神で生きるのならば、
たとえば平等、人権、平和、博愛、民主主義、夢、幸福、成功――
といった砂糖菓子のように甘いだけの徳目を白けた目で否定することだろう。
賢人たる釈迦の悟った四諦ですら絶対的真理ではないのに(無苦集滅道!)、
どこぞの毛唐が最近になって編み出した紅毛思想が真理であるものか。
少なくとも絶対的真理ではないことになる。

・無智亦無得 以無所得故(むちやくむとく いむしょとくこ)

智もなくまた得もなし。得るところなきをもってのゆえに。
人間の知りうるところなど限界がある。なにを得たつもりになっているのか。
長くてもたかだか百年程度しか生きられぬ人間がどんな智慧を得たというのだ?
永遠にも等しい時間の流れる彼岸から見たら、人の一生など一瞬のようなものだろう。
彼岸があるのかどうかはわからないが、あるとしたらそういうことになる。
そして、般若心経は彼岸に渡れと説く相対ならぬ絶対の教えなのである。
ここまで般若心経は、空とはなにか(=なんでないか)を語ってきた。
では、結局のところ般若波羅蜜多(般若心経)の教えとはいかなるものなのか。

・菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃(ぼだいさった えはんにゃはらみったこ しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう くきょうねはん)

菩提薩埵とは菩薩(ぼさつ)のことである。ここでは観自在菩薩を示している。
菩薩とはすでに悟りを開いているのに、我われを救うためにこの世にいてくださる存在だ。
つまり、菩薩は我われ凡夫とはいささか異なる。
三世(過去世・現世・未来世)の諸仏には、菩薩と如来(にょらい)がいる。
菩薩の例としては、観自在菩薩、地蔵菩薩、弥勒(みろく)菩薩などがいる。
如来は阿弥陀如来、薬師如来、大日如来がよく知られている。
釈迦自身も釈迦牟尼如来となっている。
要するに、人間・釈迦が拡大解釈されて、
釈迦の持ついろいろな役割が菩薩や如来に託されていったわけだ。
多くの人間の願いの具現化を嘘と決めつけるのはどうかとは思うが、
フィクションじゃないかと言われたら、そうだと答えるしかないだろう。
三世諸仏たる菩薩と如来の違いは、此岸と彼岸で説明するとわかりやすい。

☆此岸→菩薩→修行→(大河)→彼岸
☆此岸←(大河)←救済←如来←彼岸


菩薩は我われの身近なところにまだいるのである。
一方で如来は彼岸の世界の住人で我われを救うために向こうから来てくださる。
(如来は真如から来たるものという意味)
我われ凡夫は如来にはなれないが、菩薩にならなれるという仏教解釈が一般的だ。
このため般若心経における観自在菩薩は我われの努力目標という面がある。
この大衆に人気のある短い仏典はこう言っているのである。
我われもまた観自在菩薩のように般若波羅蜜多(到彼岸の智慧)を修しようではないか。

原文に戻ると、観自在菩薩は般若波羅蜜多によったがゆえに――。
「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖」の状態になったというのである。
罣礙(けいげ)とは、わだかまりのこと。
観自在菩薩は般若波羅蜜によったがゆえに、
心にわだかまりがなく、わだかまりがないがために、恐怖を感じることもない。
これが般若心経を唱える功徳(効能)である。
相対世界を生きる我われは般若心経を唱えることで絶対的安心を得ることができる。
「度一切苦厄」とは「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖」=絶対的安心のことだ。
なぜ絶対的安心を得られるのかというと般若心経が絶対につながっているからである。
もっと言えば、このあとに般若心経が絶対的真理を説くからである。
相対の世界ではいくら成功をしていてもなかなか安心することができない。
1億円貯金を持っていてもまだ足らないと不安になる人もいるのだから。
考えてみたら、10億円持っていてもハイパーインフレが起きたら終わりである。
金(ゴールド)や外貨、不動産に分散していたとしても人間の不安は尽きることがない。
あんがいお金を持っていればいるほど失う不安がふくらむものなのかもしれない。
ところが、たとえ貯金ゼロの貧乏人でも般若心経を信心を込めて唱えたら、
絶対的安心を得られるのだから、
こうなると金持と貧乏人のどちらが幸福かわからなくなる。

般若心経の原文に戻ろう。観自在菩薩は般若波羅蜜多によって絶対的安心を得た。
さらに、である。観自在菩薩は「遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃」だ。
この箇所は通常「一切顛倒夢想(妄念)を遠離して涅槃を究竟す」と読む。
意味は、妄念から離れて涅槃(煩悩が滅した理想状態)に入った、となる。
だが、一休宗純の読み方は異なり、これもまたおもしろいので紹介する。
一休禅師はここを「遠離して一切は顛倒夢想なり」と読む。
一切のこの世の出来事は夢のごとくまぼろしのごとくにして実体はない。
しかしながら、我われはこの世の事象を実際にあると考え迷うのである。
本当はたわいもない夢まぼろしのようなものを真実であると思い込むから迷う。
これはかなり一切空の解説として優れていると思う。
もしかしたら我われの実人生など彼岸で見た夢に過ぎないのかもしれない。
永遠にも等しいほどの長い時間が流れる彼岸で我われは80年程度の夢を見ている。
五蘊(全世界)が空であるとは、そういうことなのかもしれない。

・三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提(さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)

三世諸仏もまた般若波羅蜜多によるがゆえに阿耨多羅三藐三菩提を得られた。
一代の釈迦は十二因縁や四諦の悟りを得たが、それらは所詮相対的なものでしかなかった。
十二因縁や四諦は絶対の教えではない。
しかし、三世の諸仏は般若波羅蜜多によったので阿耨多羅三藐三菩提を得る。
阿耨多羅三藐三菩提は古代インド語の音写で、意味は無上正等正覚。
阿耨多羅三藐三菩提とは、このうえもない完全な悟り、絶対の悟りのことである。

☆此岸:釈迦(十二因縁、四諦)<(大河)<彼岸:三世諸仏(無上正等正覚)

・故知般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒 能除一切苦 真実不虚(こちはんにゃはらみった ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ のうじょいっさいく しんじつふこ)

いよいよ絶対的真理が語られるときが来たのである。
ゆえに知れ、般若波羅蜜多が絶対的真理であることを!
般若心経は「無、無、無、無」の全否定で始まり「是、是、是、是」の全肯定で結ばれる。

「般若心経=無無無無→是是是是」

般若波羅蜜多は「是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒」である。
咒は諸仏の密語、まあ呪文と考えてよい。
般若波羅蜜多は測り知れない呪文であり、すばらしい智慧の呪文でもあり、
並ぶもののない絶対至高の呪文である。
このため「能除一切苦 真実不虚」である。
よく一切の苦を除き、絶対的な真実にして虚(嘘)ならず。

般若心経(般若波羅蜜多)は「度一切苦厄」と「能除一切苦」のための呪文なのだ。
まず観自在菩薩のように彼岸に渡って「度一切苦厄」を目指す努力目標である。
自力修行の呪文という一面がある。
のみならず、どうしようもない苦しみを絶対者たる観音菩薩(観自在菩薩の異名)に訴え、
「能除一切苦」してもらうための呪文でもある。
これは他力救済を願う呪文でもあるということだ。
人は絶対者に苦悩を訴えるだけでかなりの慰めを得られるものなのである。
日本全国に広がる観音信仰は、「能除一切苦」を求めてのものだろう。
さて、どうして絶対的真理を説く般若心経で人の苦しみはなくなるのか。
観自在菩薩とはよくいったもので、苦しみを自在に観ずることができるようになるからだ。
人間は苦悩をどのようにして空(くう)と観ずるに到るのか。
いまの悩みが10年後にどうなっているか考えてみようという話なのである。
果たして10年前の悩みをいま覚えているだろうか。
同様に期間を20年、30年と延ばしていく。
いまの苦しみが30年後にどうなっているかを思うとき、
ある種の安らぎがもたらされるのではないか。
30年でもこうなのだから、もし永遠という時間を考えたら、いまの苦悩はどうなるか。
そして、般若心経は、永遠の時間が流れる彼岸に渡れという教えなのである。
もし永遠の時間の中にいまの苦悩を置いたらば、どれもがちっぽけなものに思えないか。
これが般若波羅蜜多によって「度一切苦厄」に到達するということなのだと思う。
もちろん、これはあくまでも努力目標で、いくら30年後や永遠を考えたところで
どうにもならないほど切実な苦悩というのは人生にいくらでもある。
そういうときはせめて般若心経を唱えることで絶対者の観自在菩薩におすがりするしかない。
「能除一切苦」という現世利益を求めて祈るしかないということだ。
地獄のような不幸のただなかでは、ただ祈ることができるというだけでも、
かなりの精神的な救いになるはずである。

此岸(この世)の大半の問題が相対的なものなのである。
損か得か。幸福か不幸か。金持か貧乏か。成功か失敗か。
欲望とて、相対的なものである。というのも、欲望には際限がないからである。
どこまで行ってもキリがなく、絶対の壁にぶつかることはない。
お金をいくら稼いでも自分よりも持っている人はいるのである。
このとき、彼岸に渡れという般若心経の教えが役に立つのだと思う。
なぜなら相対(人と比べる!)ならぬ絶対の視座を持つことができるからである。
つまり、違った視点から問題を眺められるようになる。
凡庸な処世訓にしてしまえば、万事がものの見方しだいなのだが、
そうはいっても我われは般若心経でも唱えないと、
なかなか世間の価値観から離れることができないようだ。

☆此岸(損得)←(大河)←彼岸(絶対、永遠)=損は長い目で見たら本当に損か?
☆此岸(プラスマイナス)←(大河)←彼岸(絶対、永遠)=マイナスはマイナスか?
☆此岸(結婚できない)←(大河)←彼岸(絶対、永遠)=結婚すればいいのか?
☆此岸(出世できない)←(大河)←彼岸(絶対、永遠)=出世すればいいのか?
☆此岸(問題)←(大河)←彼岸(絶対、永遠)=問題は解決すればいいのか?
☆此岸(苦しみ)←(大河)←彼岸(絶対、永遠)=苦しみは苦しみなのか?
☆此岸(無常)←(大河)←彼岸(絶対、永遠)=人も問題も苦悩もすべて変化する!


・故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰(こせつはんにゃはらみったしゅ そくせつしゅわつ)

ゆえに般若波羅蜜多の咒(呪文)を説く。すなわち咒を説いていわく――。
さあ、最後の最後で絶対的真理が説かれるようだが、それはなにか?

・掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか)

絶対的真理は「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか」。
これはどういう意味か一休宗純に聞いてみよう。

「この十三文字は咒なり。是(これ)を密語の般若ともいふなり。
咒は諸佛の密語なるがゆゑなり。たゞ佛のみ、能(よく)是を知り給ふなり。
余人はしることあたはず」(「一休さんの般若心経」P158)


絶対的真理は仏さまのみがご存じで、我われは知ることができない。
人間ごときが絶対的真理を知ることは不可能だが、にもかかわらず、ではなく、
おそらく我われが理解できないということを神秘性の保証として、
絶対的真理は間違いなく存在しているのである。
絶対的真理を知りえないことは、絶対的真理の存在を否定するものではない。
むしろ、我われ人間には知りえないからこそ、その絶対的真理は存在するとも言いうる。
我われがわかってしまった時点でそれは絶対的真理ではなくなってしまう。
般若心経いわく、我われには理解できない絶対的真理がかならずある。
人はそれを具体的には知ることはできないが、人間を超えるものはかならずある。
それは自然かもしれないし宿命や運命といったものかもしれないが、
あえて名づけるのはやめよう。
我われは人の目には決して見えぬものでも、それを信じることはできるのである。
般若心経は、人が断じて知りえない絶対的真理を説いている。
人間にはわからないことがある、というのが絶対的真理なのかもしれない。
他人の死はわかっても、自分の死は絶対にわからない。
将来なにが起こるかも人間には絶対にわからない。
ともあれ、般若心経を通して人間は絶対とつながれるのだから不安になることはない。
2千年もむかしから多くの人が般若心経を唱えてきたのである。
このお経をよめば、おそらく絶対のみならず全体ともつながることができるのではないか。

・般若心経(はんにゃしんぎょう)

般若心経は、初期大乗仏典「大般若経」の要点をまとめたものである。
このたび熟読して、法華経や浄土三部経は
かならずやこの般若心経の子孫であるとの確信を持つ。
般若心経があらかじめ釈迦仏教を完膚なきまでにつぶしておいてくれていたから、
当時の仏教者は法華経や浄土三部経といった仏典を創作できたのだと思う。
このためなのだろう。
大衆にたいへん人気のある般若心経だが、日蓮宗と浄土真宗は取り入れていない。
おそらく根本の経典(法華経、浄土三部経)にさらにそのうえの親がいるという事実は、
あまり信者に知らせたくはないからだろう。
個人的には般若心経を法華経や浄土三部経とあわせて読誦しても一向に構わないと思う。
どちらが上だの下だのとこだわるものは空(くう)を理解していないのである。

般若心経は空について説かれた、苦しみをなくすための教えである。
根本思想たる空を、現段階で理解できたところまで、最後のまとめとして記しておこう。
空とは「無無無無」の全否定である。世界には「なんにもない」ということだ。
一見すると、すばらしい価値を持っているようなものでも、実のところ空である。
しかし、同時に空は「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の全肯定でもある。
死は終わりではないし、どんな卑怯な人間も美しい心を持っているし、百円の酒でもうまい。
空というのは、だから「すべてある」ということでもある。

☆「無無無無」=「なんにもない」=空=「すべてある」=「不生不滅 不垢不浄 不増不減」

「なんにもない」けれど「すべてある」のが空である。
これはどういうことか?
「なんにもない」と見るのも「すべてある」と見るのも自由であるということだ。
あるものをどのような見方で観ても構わないということだ。
心細い日に華やいだ若いカップルを見るのが辛いのならサングラスをかければいい。
諸君、観自在菩薩のように自在に観ぜよ!
大金を手に入れたときに自分には「なんにもない」と観ずるのもよろしい。
なにもかも失ったときに自分には「すべてある」と観ずるのもよろしい。
観自在とは、空とは、名前をつけるのは自由だということなのである。
空とは、まだ名前のついていない状態を言う。
物事、出来事にはあらかじめ名前がついているような気がするが、実のところは空だ。
あることを損と名づけても得と名づけてもいい。
みんなが失敗と言っていることを成功と名づけてもいい。
だれからも不幸と同情されるような境遇にいるときに自分は幸福だと宣言してもいい。
世界のすべてのものが実はまだ名前がついていない(「なんにもない」=空)。
このためどんな名前をつけるかは我われの自由である(「すべてある」=空)。
3ヶ月以上かけて般若心経を深く深く繰り返し読み込んだ。
まったく成長も変化もしなかったが(「なんにもない」)、
同時に大きく悟った部分もあるのだろう(「すべてある」)。

*こんな無駄に長い意味不明の文章を最後までお読みくださりありがとうございます。
まさかおられないとは思いますが、
ひとりくらいはいらっしゃるかもしれないと期待しながらこれを書きました。
誤字脱字失礼! 少しずつ直していきます。