「人生の読本」(山口瞳・選/集英社文庫)絶版

→サラリーマン小説を集めたもの。裏表紙によると――。
「個人と組織の狭間で歪み苦悩する生活者の文学をテーマに、
傑作アンソロジー十三本を収録」。昭和56年刊。
だらだら感想を書き連ねると、
この機会にはじめて庄野潤三の「プールサイド小景」を読んだけれど、
むかしはこれで芥川賞なのかといろいろな意味でうなった。
開高健の「パニック」だけあまりにもつまらないので最後まで読めなかった。
芸術院賞を受賞した永井龍男の「一個」は、
こんなものをだれが褒めるのだろうと
作者の持っていたであろう黒い権力に恐れをなす。
いまはすっかり忘れ去られたけれど源氏鶏太の小説はうまい。この人いいな。
かといってさすがに全集を買うほど、この大衆作家に賭けられないけれど。
城山三郎もサラリーマンの悲哀を実にうまく描いている。筋運びもすばらしい。
阿部牧郎さん(まだご存命らしいので)の小説はエロくていい。
こういう官能性はいいな。ご縁があったらこの人のエロ短編をもっと読みたい。
なんといっても井上靖がいちばんいい。
解説の対談で山口瞳が「社長、重役らのトップ層が書ける」のは井上靖だけ、
みたいなことを言っていたが、まったくそうである。
井上靖の小説「満月」から印象に残った一文を引く。

「人間金ができると、権力や地位が欲しくなり、その次が女で、
女にも不自由しなくなると最後は名誉と勲章だな。
大高社長ぐらいの人でもやたらに勲章をほしがったからな」(P157)


選者・山口瞳の「シバザクラ」も意地が悪くてトラウマになりそうな小説だ。
山口瞳という人は本当に意地が悪い、つまりいい小説家だったのだろう。
「シバザクラ」のモデルはだれなんだろう?
会社勤めの経験がない人の世間知らずぶりをさんざん先輩社会人気取りで揶揄(やゆ)する。
この意地の悪さにはただならぬものがある。
山口瞳は会社員時代にいじめられた経験を執念深くずっと忘れなかったのだろう。
たぶん、作家になってからその仕返しに同業者をいびったことも多々あったのではないか。
だから、いまもって石原慎太郎のような人からぼろくそに言われるのである。
いまはもう山口瞳が男か女かも知らぬ人ばかりだろうから、
女嫌いの作家の短編小説「シバザクラ」から一部を抜粋する。

「私も世間知らずだった。
気質的には西藤と私はそっくり同じだったといってもよい。
しかし、私は十九歳のときからサラリーマン生活を続けていた。
私も西藤に似た失敗を重ねてきたのだ。
叱られてイジメられて唇を噛んで暮してきたのだ。
生意気だといわれ、思いあがりといわれた。
いつのまにか、二人の間の距離が広がっていったのである。
家のこと、育ちのこともあるだろう。
西藤は学生のときから小説家としての名が出てしまった」(P230)


いろいろな方面への深い怨念がじっとりしみ込んだ文章である。
かつての上司への恨み、家や育ちへの恨み、
学生のときに早々と作家デビューしたものへの恨み。
コンプレックスが強い作家ほど、うまくいくと多数派の支持を得るのだろう。
なんだかんだいって、みんなが持っているのがコンプレックスなのだから。
容貌へのコンプレックス、学歴コンプレックス、収入コンプレックス。
幸福になりたかったら人と自分を比べないのがいちばんいいのだが、
他人と自分を丹念に比較して恨みを育てていくと時にそこから花が咲くのだろう。

「脚本を書こう!」(原田佳夏/青弓社)

→どうして脚本ってほとんど実績のないような人ほど教えたがるの?
どうして脚本家(志望)ってみんな文章がよろしくないの?
どうして高卒の人ほど人にものを教えるポジションに立ちたがるの?
どうして? どうして? ねえねえ、どうして?
まあ、脚本家なんてものは
芸能界に強く惹かれるけれどもとても入れないような容貌の人が、
スイーツな脳でピッカピカの世界を妄想しながらあこがれる最底辺の文筆業なのだろう。
脚本家志望は、芸能界という夜の光(誘蛾灯)に吸い寄せられてくる虫のようなもの。
おかしなスクールの宣伝にだまされて「飛んで火に入る夏の虫」にならぬよう、
みなさまもご注意ください。
しかし、ろくな実績もないのに先生になりたがる人って、なんでこんなに多いんだろう。

「ノッティングヒルの恋人」(リチャード・カーティス/照井しずか・荒川良訳/愛育社)

→映画シナリオ。映画というのは大衆の夢を描くものだというのはわかるけれど、
これほどまあ、あからさまにやられてしまうとけなすこともできないじゃないか。
冒頭に脚本家の序文があるが、実に通俗的な男だよね。
いつか有名美人映画女優と会食したいという夢から始まったと書いている。
この映画のストーリーは、しがない書店主人とハリウッド映画スターが恋をする。
会食のみならず「寝る(sleep with)」わけである。
男の願望そのままと言ってよいが、
自分にはどこかだれにも負けない魅力があると錯覚しているのが女らしいから、
女の観客も美人女優に自身を同化させて無名人とのラブストーリーに酔うのであろう。
これはもう視覚によるところが圧倒的に大きいため、
字面でこの映画のよさはあまりわからないのだろう。
とはいえ、セリフもなかなかのものなのである。
どうやら西洋では店員は日本のようにマニュアル通りには話さないみたいだ。
ホテルの職員が、変な電話にとんちを利かせた返答をするところなどとてもいい。
日本のシナリオでやったら不自然になってしまうのだろうが。
余裕を持った西洋人のユーモアは(シナリオでも実生活でも)我われ日本人は真似できない。
女優の下半身の噂話でゲスな男どもが盛り上がっているところに、
当の美人女優が登場して啖呵(たんか)を切るシーンも実にいい。

"I'm sure your dicks are all the size of peanuts."(P106)

「あなたの息子がピーナッツくらいのサイズだってこともわかっているわ」(P107)


もちろんハッピーエンドなのだが、そのまえに人生はうまくいかないということを
象徴させるように、仲間のレストランが閉店したり、
仲間が失職したりする現実を描いているのもよくできている。
このときレストラン経営に失敗したトニーにかける仲間の言葉がいい。
我われ日本人なら励ますところだろうが、向こうではそうではないのである。
実際に見てみよう。このセリフがいちばんよかった。
女性は失敗したトニーに声をかける。

"I just want to say to Tony ――― don't take it personally.
The more I think about things, the more I see no rhyme or reason in life
――― no one knows why some things work out, and some things don't
――― why some of us get lucky ――― and some of us..."(P164)

「私はトニーに言いたいわ――気を悪くしないでね。
物事について考えれば考えるほど、人生は不合理だということが分かるわ――
うまくいくこともあれば、いかないこともあるけど、その理由は誰も分からない
――私たちの誰かが幸運に恵まれ、また誰かは……」(P165)


失敗した人に「もっとがんばれ!」とか励まさない文化っていいよな。
さて、ラストはまえにも書いたが、
平凡な書店主人とハリウッド美人女優が結ばれるわけである。
普遍的な男の夢を描いていると言うことができよう。
最後にどうでもいいわたしの話をすると、この夢にうまく乗っかれなかった。
正直、いまの日本の女優さんでそういう夢をいだける人がいないような気がして。
そりゃあ、みんな信じられないくらい美人ばかりだけど。
美人すぎるんだよな。変なことを言うと、
重い宿業を背負ったような薄幸っぽい女優が好きなのかもしれない(苦笑)。
くだらないボクばなし失礼しました!

「わたしの川口物語」(永瀬洋治/求龍堂)

→埼玉県の川口を舞台にした映画「キューポラのある街」への偏愛から、
ご近所さんでもある川口市に興味を持ち本書を読む。
著者は長年川口市長を務めた人だそうだ。
リタイア後の暇つぶしに書かれたものだろう。
著者にもう権力はなさそうだから本音を書いてしまうと、
たくさん配っただろうけれども、日本中に読んだ人は百人もいないのではないか。
しろうとの書いた本の読みにくさは読むまえから覚悟していたので、
あえて強調するようなことはしません。
やはりどんな本でも人の胸を打つところがあり、
著者が姉を20歳で、妹を13歳で亡くした記憶を書いた箇所はずしんとこたえた。
戦後すぐの時代は成人するかしないかで死ぬ人も大勢いたのである。
また、そういう時代だから、映画も文学も活気があったのだろう。
トンカツ程度が最大級のご馳走だった時代があるとは、いまからは信じられない。

話は飛ぶが、どうして選挙に出るときは、
みんなから推薦されるので仕方なくというポーズを我われは好むのだろう。
名誉欲や権力欲ではなく、自分はそのつもりではなかったが、
周囲があまりにも強く推薦するのでやむをえず出馬したんだ、みたいな(笑)。
政治には裏があるから著者もいろいろ川口の黒さを知っているのだろうが、
権力者のまま引退したためか、暴露はいっさいなかった。
読むまえに「どうせ」と思っていたよりもはるかに自慢話が少ないのはよかった。
川口は最近好きになってよく行く。
元市長さんのご苦労に敬意を表して(いらないでしょうが)星五つの評価を差し上げます。

「キューポラのある街」(浦山桐郎・今村昌平/雑誌「シナリオ」1969年10月号) *再読

→映画シナリオ。なんでこんなにこの作品が好きなのだろう。
とにかく好きなのである。
プラスというものは、マイナスがあふれていないと描けないのだと思う。
この作品の背景にあるのは、貧乏、アル中の親父、朝鮮戦争、悪ガキ、牛乳泥棒。
マイナスの豊かさにあふれているのである。
またマイナスがないと美しいプラスも描けないことがよくわかる。
しかし、時代はどんどんプラスを指向していくわけで、現代もこの先も、
たぶんもう絶対に「キューポラのある街」のような名作を作り出せないのである。
もちろん、マイナスの時代を舞台したアニメ「コクリコ坂から」のような傑作は、
可能性としてこれからもありうるのだけれども。
しかし、あれはアニメだからできたわけで実写では嘘くさくてできない。
だから、もう「キューポラのある街」のような名作は出てこないのではないか。

いや、そんなことはない。新たな物語の可能性もきっとあるのだと思いたいけれど。
たとえば、小説の話をすると、マイナスの時代の美しさを描いたのは宮本輝氏だ。
いくら天才の氏でも、近作「三千枚の金貨」では現代を舞台にしていないのである。
マイナスの時代を語り起こすという形式になっている。
エリートサラリーマンがむかしの苦労人の物語を知るという話だ。
いまはプラスばかりだから美しい話が描けないような気がするのだが。
もう可能性はアニメや時代劇にしか残っていないのではないかとさえ思う。
まあ、マイナスの豊かさをかえりみる、なんちゅうのは贅沢の極みなのである。
この映画が上映された時代に、「あなたたちは恵まれている」
なんて貧乏人の観客に言ったら殴り飛ばされてもおかしくないわけで。

姉弟の会話を抜粋する。姉は中3、悪ガキの弟は小5である。

弟「姉ちゃんも苦労するよな、こんな弟もってさ」
姉「何いってんの」
弟「そう思うよ俺、それに高校だって行けやしないだろ、
 赤ン坊は生まれるし父ちゃんは臨時の仕事ばっかりだしさ」
姉「あたし高校行くよ、どんなことがあっても、
 父ちゃんもそのうち何かあるわよ、希望もっていかなきゃ」(P109)


この姉弟のアル中の(たぶん中卒)親父がいいのである。
高校まで行きたいという小学生の息子に向かって名ゼリフを吐くのだ。

父「いいか、ダボハゼの子はダボハゼだ、
 中学出たらみんな働くんだ、鋳物屋で」(P115)


希望というのはマイナスにあふれていると出てくるものなのかもしれない。
いま貧乏は貧困と呼ばれ、貧乏は希望を生み出したけれど、
貧困は笑いの対象にしかならないような気がする(「苦役列車」)。
もう上昇の物語は描き尽くされてしまった感がある。
時代としては下降の物語が必要とされているのかもしれないが、
そんなものが多数派の支持を受けるかどうか世に問われるまえに、
いまは事前マーケティングでつぶされてしまう時代だから。
そっか、いま求められているのは下降の物語なのかもしれない。
もう少子高齢化でこの先、
日本がよくなるなんて本心ではほとんどだれも思っていないのだから。

「あらすじとイラストでわかる 道をひらき、幸せを導く ニーチェの言葉」(イースト・プレス)

→チープな本だか、思いのほか、というか、
思った以上にニーチェの言葉がよかった。
ページ右にニーチェの言葉、左にその名言を解説したつもりの、
まったくニーチェの発言とは関係ないくだらぬ処世訓や成功哲学がつづられている。
人生にまあ外見上は失敗したと言ってもよいニーチェの言葉を習って、
いったいだれが成功できる、あるいは幸福になれるなどと愚かにも考えるのか。
ニーチェの言葉なんか参考にしたら人生が狂う人のほうがはるかに多いはずだ。
このための左の解説なのだろう。とにかくありきたりな処世訓にまとめている。
左はひどかったが、右のニーチェの言葉は本当によかった。
とはいえ、この年になって全集を買い込んだりする気はないけれど。
これを読んだころ、毎日般若心経を唱えていたのだが、
ニーチェは実のところ般若心経とおなじことを言っていると思ったものである。
こんなチープな本を読んだくらいで、ニーチェがどうのと語るのは恥ずかしいのだが。
それ以前に、いまどきニーチェもないだろう。
いい年のおっさんがニーチェもないだろう、
というこそばゆさも当たり前のようにあるのではあるが。
ニーチェの教えを簡潔にまとめると以下のようになると思う。

ニーチェ「神は死んだ」
1「絶対的真理はない」
2「物事は解釈しだい」
3「(解釈する主体の)自分を愛そう」
4「群れるのはやめよう」
5「しかし、人はいいものだ」


以下、だらだら引用するが本当に心に響いたいい言葉ばかりなのである。
折りにふれて自分で読み返すために引用したいのだ。

1「絶対的真理はない」

「これが真理だということを、情熱の熱さで測ってはいけない。
情熱が大きいからといって、それが真理だという証拠にはならない。
しかし、そう感じる人は多い。
また、歴史や伝統がどこよりも長いからということもまた、
真理が真理であることの論拠には決してならない。
そのようなことを強く主張する人は、
場合によっては歴史を偽造したりすることがあるから要注意だ」(P98)


一般に真理とみなされていることは、ふたつの理由によるところが大きい。
ひとつは、声が大きいことである。
何度も大声で繰り返されたことが、かなりの場合、当面の真理として通用している。
言い争いになったとき、正しい(真理)とされるのは声の大きなやつだ。
ほとんど狂気にも近い情熱をもって訴えられたものが真理になってしまう。
それから歴史や伝統もまた(本当は存在せぬ)真理を偽装する。
偉い人の発言は一般に真理と思われるが、その根拠は歴史や伝統でしかない。
歴史と伝統のある○○大学教授の言うことだから正しい(真理)とみなされる。
親が有名人(=歴史・伝統)の子の言うことも正しいとされることが多い。
しかし、声の大きさ(情熱)や歴史伝統は見せかけの真理を演出しているだけで、
実のところ絶対的真理はこの世には存在しない。
繰り返しになるが、絶対的真理はない。ならば――。

「若い頃に心ひかれるものは、
目新しいもの、面白いもの、風変わりなものが多い。
そしてそれが本物か偽物かなど気にしないのがふつうだ。
人がもう少し成熟してくると、本物や真理の興味深い点を愛するようになる。
さらに円熟してくると、若い頃に単純だとか退屈だとか思って
興味のわかなかった深みを、好むようになる。
真理が最高のそっけなさで語っていることを気づくようになるからだ」(P102)


「絶対的真理はない」が絶対的真理なのかもしれない。

「これこそ真実だと思っていたものが、今では間違いだったと感じるものだ。
それを自分は若かったとか、浅かったとか、世間知らずだったと
断じて葬らないほうがいい。
当時の自分にとっては、それが真実だったのだ。
人間は常に脱皮していく。常に新しくなっていく。
いつも新しい生に向かっている。以前は必要だったものが、今では必要ではない。
ただそれだけのことなのだ」(P116)


真実は唯一絶対のものではなく、自分のなかでも変わっていくものなのだろう。
欲しいものも変わっていく。
たしかにむかし欲しかったものを、いまはさして欲していないということは多い。
子どものころに欲しかったものなど、いまではすべて不必要になっている。
しかし、子どものころ欲しかったというのは真実なのである。
さて、「絶対的真理がない」とはどういうことか。
あらゆる物事はどう解釈してもいいということだ。

2「物事は解釈しだい」

「もっと喜ぼう。少しいいことがあっただけでも、いっぱい喜ぼう。
喜ぶことは気持ちいいし、体の免疫力も上昇する。
恥ずかしがることなく、我慢せず、遠慮せず、喜ぼう。
にこにこしよう。子どもみたいに喜ぼう。
そうすれば、どうでもいいことを忘れることができる。
他人への憎悪も薄くなっていく。
周りの人々も嬉しくなるほどに喜ぼう」(P158)


これがいちばん影響を受けたニーチェの言葉になる。
物事はどう解釈してもいいのなら、小さな喜びでもいっぱい喜んだほうがいい。
昨夜、買い物に出かけたとき、たまたま下で佐川急便のおねえさんに逢った。
うちに宅配便なんてめったに来ないけれども挨拶する程度の関係にはなっている。
「こんばんは」と挨拶をしたら、「土屋さん、ありますよ」と声をかけてくれた。
そこで荷物を手渡しでもらったのだが、えらく嬉しかったな。
ああ、自分のことなんか覚えてくれていたのかと。
ほんと宅配便なんてほとんど来ないのだけれども。
こういう小さな喜びを、ヤッターと全身で喜ぶくらいしか、
つまらぬ人生をそれでも多少は意味あるものとして生きていく方法はないんじゃないか。
「小さな喜びをいっぱい喜ぼう」というのは「騙し騙し生きる」ということだと思う。
物事は解釈しだいだから、どこにライトを浴びせてもいい。
たとえば小さな喜びに大きなスポットライトを当ててもよろしい。

「「知る」という言葉がある限り、世界は知ることができる。
しかし、また別の解釈で世界を見ることもできる。
世界全体に意味はないが、意味づけは無数に可能である。
これが「遠近的思考法」だ」(P206)


物事はたしかにおのおのの解釈しだいだが、
にもかかわらず我われは既存の解釈にどうしようもなく縛られている。
物事を自由に解釈することができない。
すぐに出来合いの思考法に毒されてしまう。
安易に悪者を作ってそれでよしとする。

「この原因からこの結果が生まれたという考え方は多い。
しかし、その原因と結果は私たちが勝手に名付けたものにすぎない。
どんな物事でも、見えていない他の要素がたくさんあるかもしれないからだ。
それを無視して、これが原因、これが結果と
結びつきを決めつけるのはあまりにも愚かだ」(P192)


だから、独創とは奇抜な行為ではない。
我われは既存の物事の解釈に縛られているが、本当に独創的な人物は――。

「奇抜なことをして注目を集めるのが、独創的な人物ではない。
それはただの目立ちたがり屋だ。
独創的とは、すでに世間のなかにあるものなのに、
まだ気づかれていないようなものに気づき、それに名前を付けてみんなに
あらためて認識してもらうことができるような人間のことだ」(P212)


どうしたら独創的な世界の解釈をすることができるようになるのか。独創――。

「読書は実り多いものだ。
なかでも古典は栄養分を豊富にたたえた果実だ。
古典を読むことで、現代から大きく遠ざかり、
また、見知らぬ世界へと誘われる。
そして現実に戻ってきたとき何が起こるかというと、
現代の全体像が、今までよりも鮮明に見えてくるのだ。
古典によって私たちは、新しい視点を得ることができ、
新しい仕方で現代にアプローチできるようになる」(P76)


独創的たれ。ニーチェは愛もまた独創であると言う。

「他人から見れば、どうしてあんな人を愛しているのだろうと思う。
特別すぐれているわけでもないし、見た目もよくないし、
性格も別によくないのに、と思うのだ。
しかし、愛する人の眼は、まったく異なるところに焦点をあてる。
愛は他の人にはまったく見えていない、
その人の美しく気高いものを見い出し、見続けているのだ(P114)


「物事は解釈しだい」なら解釈をする主体、つまり自分が重要である。
だとしたら、よき解釈のためには自分を重んじたほうがいいとなる。

3「(解釈する主体の)自分を愛そう」

「愛とは、自分とは異なる生き方をし、
自分とは異なる感性を持っている人を、理解することだ。
自分自身のなかでも同じこと。自分を愛するとは、
自分のなかにある絶対に交わらない対立や矛盾を、
対立や矛盾ゆえに楽しむということなのだ」(P180)


自分の内部においてさえ、絶対的真理のようなものはなく、
常に考えの対立や矛盾を持っているのが人間なのだというニーチェの見方だ。
内部の対立や矛盾に耐えられなくなると我われは他人まかせになってしまう。
自分でなく他人に真理のようなものを求めてしまう。
どうして自分をもっと見ようとしないのだろうか。

「多くの方法論の本を読んでも、
成功者や有名人のやり方を学んだところで、
自分のやり方がわからないのは当然のことだ。
薬一つとっても体質に合う合わないがある。
人のやり方が自分にもあてはまることのほうが少ない。
問題は、なぜ自分がそれを望むのか、それをやりたいのか、
その道を歩みたいのかについて深く考えていないことに尽きる。
そこをしっかりつかんでいないのだ」(P52)


自分を見つめるのが辛くなった人は、有名人の講演会に行って
みんなと一緒に他人の方法論を知り満足して賢くなったような気分で帰宅する。
どうしてもっと自分を愛さないのだろう?
自分などだれも愛してくれないこと気づいたら、
せめて自分くらい自分を愛してあげなければならないことを悟るのだろうけれど。
なぜ自分を愛するのかと言ったら、だれも自分なんて愛してくれないからだ。
以下のニーチェの言葉はまったく本当にそうだなと深々と納得した。

「最大のうぬぼれとは何か。
愛されたいという欲求だ。
そこには自分は愛される価値があるという主張がある。
そういう人は、自分を特別な存在だと思い込み過ぎている。
自分だけは特別に評価される資格があると思っているのだ」(P106)


ニヒリズムの極地のようだが、しかしこれは真実としか言いようがない。
自分は愛される価値があると思うのは、最大の錯誤だと思う。
このことに深々と気づいたときに、せめて自分くらいは愛してやろうと思うのだろう。
だとしたら、自己愛はほとんど諦観(ていかん)である。
しかし、自己の愛し方をわからぬ人はどうするか。

4「群れるのはやめよう」

「いつも誰か仲間と一緒にいないと不安なのは、
自分が危険な状態になっているという証拠だ。
本当の自分を探すために、誰かを求める。なぜそうなるのか。
孤独だからだ。なぜ孤独なのだろうか。
自分自身を愛することが上手にできていないからだ」(P128)


自分自身をうまく愛せないから孤独なのだ……。
うまく自分を愛せたら、誰かを求めなくてもよい。仲間と群れなくてよい。

「自分の人生を安易に、安楽に過ごしていきたいのなら、
常に群れてやまない人々の中に混じるがいい。
そして、いつも群衆のなかにまぎれ込んで、
自分というものを忘れ去って生きていくがいい」(P136)


ものすごい皮肉にこちらも皮肉で返すと、
わたしも含めて大半の人がニーチェのような超人ではないのだから、
なるべく自己を滅して多数派についたほうがいいのかもしれない。
この部分を読んで若者は、自分は群れないぞと思うのだろうが、
人はそんなに強くはない。
自分が強いと勘違いできるのは若いうちだけである。
果たしてニーチェその人もそれほど強かったのだろうか?

5「しかし、人はいいものだ」

「一緒に黙っていられることは素敵だ。
そして、一緒に笑っていられるのはもっといい。
一緒にいて、同じ体験をし、ともに感動し、泣いて、笑って、
同じ時間を生きていくのは、とても素晴らしい」(P160)


これは山田太一ドラマの世界である。
かの作家のシナリオには「二人、笑ってしまう」のト書きが頻出する。
「二人、泣いてしまう」も「――、――(=両者、黙ったままでいる)」もそうだ。
孤独なのは自分の愛し方が下手なのだとわかっていながら、
それでもだれかと一緒にいるのはいい。二人で笑えたらもっといい。

最後にもう一度要点を整理する。

ニーチェ「神は死んだ」
1「絶対的真理はない」=真理は情熱や歴史・伝統の偽装だ!
2「物事は解釈しだい」=いろいろなサングラスで世界を見よう!
3「(解釈する主体の)自分を愛そう」=他人は自分を愛してくれないぞ!
4「群れるのはやめよう」=孤独なのは自分の愛し方が下手だからだ!
5「しかし、人はいいものだ」=だれかと一緒にいるのはいい!

「愛する言葉」(岡本太郎・岡本敏子/イースト・プレス)

→結局、男は女しだいで、女は男しだいなんだろうな。
皮肉屋だから岡本夫婦をバカップルと評したい気持がなくもないが、
それでもしかし、この男女は本物だったのだと思う。
男はこういう女を欲する。

「僕が秘書の平野君(岡本敏子)にもっているのは絶対的な信頼だな。
相手がすべてを捨てて、こっちに全身でぶつかってくると、
それにやはり全身でこたえる」(P52)


全身でぶつかってきてくれる女性ほどありがたいものはない。
そのとき、女のほうはどう思っていたのか。

「男が自分を縛って、いじいじと小さくなってしまうくらいなら、
女が半分背負いたい。少々無鉄砲で、先の見えないことに飛び込む男でも、
世間では無視して認めてくれないようなことに熱中する男でも、
やりたいことがあって、眼の光っている男の方がいい」(P73)


いまで言えば漫画家サイバラとカモちゃんはこのような夫婦だったのだろう。
どうしたらこういう男女がめぐりあえるんだろうか。
悪くないなと思う。
かつて岡本太郎・敏子のような夫婦がいたことを知るのは悪くない。
サイバラとカモちゃんのような夫婦がいたことに思いをはせるのはいいものだ。

「バカの正体」(テリー伊藤/角川oneテーマ21)

→当たり障りのない程度の毒舌めいたエッセイだが、これをどう評すべきなのか。
もし同内容をパンピー(一般人)が言っていたらだれも耳を傾けないと思う。
しかし、もしこの著書がビートたけしの名で出されていたら、
もしかしたら大ベストセラーになっていたかもしれないわけだから。
毎度のように結局は肩書という結論にいたるのは、お読みくださる方に失礼と反省。

さてさて、ほんと最近は基本どの本もほめようと思って読んでいるのである。
わがくだらぬ人生を思い返しても、けなされて育ったことなどありませんから。
この書籍をどうほめようかいま考えている。

「相手を否定してばかりいたって、そこには何も生まれない。
あるときから日本人は一億評論家になった。だれもが批判の達人になった。
しかし、もはやそんなところからは何も生まれない。
人の良さを引き出すこと。人の才能を見出してあげること。
そして、人を成長させてあげること。
それをできる人間こそが、カッコいいのである」(P77)


うん、ここがとてもよかった。見習いたい。見習ったつもりです。

「美酒礼賛」(山口瞳/グルメ文庫/角川春樹事務所)

→いつだったか石原慎太郎と兄事する西村賢太の対談をユーチューブで見ていたら、
元都知事がいまさらながら山口瞳(男性作家)のことをぼろくそに言っているのである。
テレビを見ているものの大半はもう山口瞳など知らぬだろうに。
逆宣伝になってしまうかもしれないのに、どうしようもなく恨みを晴らす。
死人に口なしだから、石原慎太郎はめちゃくちゃ言っていた。
業界の先輩である山口瞳が自分に謝りに来たというのである。
それもひとりで来るのを怖がっておともをつけていたと、さんざんコケにしている。
わたしはむろん山口瞳派だが、しかし石原慎太郎の恨みもわからないでもない。
きっと山口瞳から一生忘れられないことをされたのだろう。
そういうことをやらかすのがむかしの文士であった。
怨念の果し合いを執念深く師弟にわたって繰り返す。
果たして西村賢太兄貴はどのくらいそういうことをできるか。
あの石原慎太郎が認めたわけだから、まあ好き勝手にやってほしいと思う。
山口瞳は、本書で色川武大(阿佐田哲也)を「コワイ作家」だと評している。
いわく――。

「僕は小説家の条件として、次の三点を考えている。
第一に悪人。第二に奇病の持ち主。第三に容貌魁偉(ようぼうかいい)。
しかるがゆえに色川武大は尊敬すべき小説家なのである」(P202)


もちろん、この三つの条件に山口瞳自身も十分に当てはまる。
おそらく石原慎太郎も当てはまったから山口瞳が多少かわいがったのだろう。
石原慎太郎が西村賢太兄貴をこちらは言葉の意味通りかわいがるのも、
まずこのためと見て間違いあるまい。
悪人であること。奇病の持ち主。容貌魁偉。
こういうものがあちこちの世界で多数出没して世の常識派など蹴散らしてほしいものだ。
石原慎太郎がいまになって山口瞳をおとしめるのは、
むろん嫌いで恨みがあったからなのだろうが、絶対にそれだけではないはずである。

「日本人の良識」(ひろさちや/アスキー新書)

→水月昭道氏が著書でひろ氏のことをおちょくっていたけれども(むかっ)、
やはりおなじみのひろ先生の本を読むと落ち着くな~。
でも、講演会に行きたいとは思わないんだ。
なんか見ちゃうと聞いちゃうと、いろいろショックを受けそうで。
たぶん見ないほうがいいもの、聞かないほうがいいものってあるよね。
ああ、実はわたしも数少ないブログ読者様に
もしかしたらそう思われているのかもしれないけれど。

いきなり話は変わって、ひろさんの大学院指導教授は中村元博士だとか。
ひろ先生は不肖の弟子なのか、それとも出世頭なのか。
わたしは中村元なんかよりもよほどひろさちやのほうが好きね。
そうそう、本書で仏教者のひろ氏がストリンドベリとおなじことを言っていた。
ちなみにブログ「本の山」のカテゴリーでストリンドベリを上位に置いているのは、
だれも知らない人を出したら権威になって、
もしかしたらブログ主はすごい人なのかもと勘違いしてもらうためだから(笑)。
おなじ理由で「ひろさちや」をカテゴリーに入れていない。
だって、バカに見られちゃうじゃん(笑)。
さて、スウェーデンの作家ストリンドベリとおなじことをひろ氏は言う。

「日本の社会は激烈なる競争社会になっており、
したがって地獄の様相を呈している。
誰も彼もが損得計算ばかりをし、
損をしたくない、得をしたい、という気持ちでいる。
でもね、この世の中では、誰かが得をすれば、誰かが損をするでしょう。
全員が得をするなんてことはあり得ない。
そうすると、得をしたいと思うことは、
誰かに損をさせてやりたいと思っていることなんだ」(P163)


要するに、万民の幸福なんてないってことだ。
どんないい政治をしてもかならずだれかが損をする。
どんな悪い政治がなされていても、たまたま得をする人はいる。
だからほんと政治とかに夢中になる庶民がわからない(暇つぶし?)。
政治を語る庶民というのは、かなり自分を棚に上げているわけでしょう。
景気がよくなれば、とか。
どうして自分が得をしたいと言わないで、みんながよくなればなんて顔をするのさ。
みんなが幸福になる日なんて未来永劫来ないんだぜ。
だれかが得をしたらかならずだれかが損をする。
政治方針に善悪なんてなく、ただ自分にとって得か損かという問題に帰結するだけ。
このため、なるべく家族が多いほうが、損得が分散されるからいいのかもしれない。
自分が損をしても家族が得をするなら、まあ許せなくもないからね。

「他力本願のすすめ」(水月昭道/朝日新書)

→ショックだったのは、自分がこのくらいの人にもひどく嫉妬してしまったこと。
ベストセラー「高学歴ワーキングプア」作者、定職と妻あり。浄土真宗僧侶。
ああ、いまWikipediaを見たら、
「学校法人筑紫女学園で事務員として勤務。水月昭道は筑紫女学園の創設者の孫である」
しっかりコネであることをばらされている。
結局、他力本願というのは人生は運ということなんだよね。
本書を読んで作者は親鸞思想をまったくわかっていないと(たぶん嫉妬もあり)
憤ったけれども、それでも朝日新書から本を出せるわけだから。
わたしと著者の意見が食い違ったら、肩書負けして相手が正しいことになる。
水月昭道氏の本や経歴を見るとつくづく人生は運だということがわかる。
これほど親鸞を理解していない人でもお坊さんで関係書を出せるわけで。

なーんか、うさんくさい美談が書かれていてね。
難病ALSにかかった人が人工呼吸器をつけるかどうか選択に迫られたらしい。
一度つけたら気管切開されるから二度と話せない。そして、もう外せなくなる。
で、患者さんは生に執着して人工呼吸器をつけたそうだ。
それでも、生きているってありがたいと全国を講演して回っているらしい。
これを美談として浄土真宗僧侶の著者は紹介している。
しかし、親鸞だったら早く浄土にお往きなさいと言うんじゃないかな。
そんな生きてるばかりが人生じゃないと思うけど。
このエピソードでいまの真宗の坊さんは、
念仏したら浄土に往けるなんてまったく信じていないのがよくわかった。
それにしてもなんだかな~。
弱点を武器にしろ(P120)とか、成功者はみんなこうしている(P164)とか、
まるで自己啓発本なんだよね。
きっと著者も「他力本願のすすめ」とか言いながら、
内心では自力で成功(?)したと思っているのだろう。
なんにせよ、うらやましいっす。ちぇっ。嫉妬深くてごめんよ……。

「決断なんて「1秒」あればいい」(桜井章一/ソフトバンク文庫)

→本書ではじめて知ったが、雀鬼の桜井章一氏の奥様はもしかして精神病では?
知り合いの女性に氏の奥様がおかしな電話をするらしい。
その内容が「1億円をあげる」なのだという(P42)
まあ、稼ぎに稼いでいる雀鬼だから、
そのくらい持っているだろうが、問題はそこではない。
なんとなーく、最近わかったのだけれど、どんな成功者にも弱点のようなものがある。
言い換えたらば、その弱点(不運)ゆえに運を引き寄せているようなところがある。
このへんの詳細はうまく言葉にできないのだけれど。
万事がうまくいっている人など、たぶんいないのだろう。
悩みがないと自分で悩みをつくりだしてしまうようなところが人間にはある。
さて、どうすれば運がよくなるのかいまノリノリの雀鬼に聞いてみよう。

「言い換えれば、「運」を招くには
自分の心をなるべく気分のいい状態にしておくことが大切だ。
これは君が何かを「決断」しなければならない時に確実に役立つ。
たとえば、嫌な人に遭ったりすると不快になる。
こんな時は気分が悪いから何も決めない方がいい。
逆に好きな人に会っていたり、好きなことをしていれば気分がよくなり、
いいことも起こりやすいということだ」(P161)


ほんとに好きなことをしているだけでいいのかにゃ~。

「阿佐田哲也勝負語録」(さいふうめい/サンマーク文庫)

→言葉は肩書だから、この本の出版当時みな阿佐田哲也の言葉は重んじただろうが、
さいふうめい氏の言葉には目も向けなかったはずである。
ところが、さいふうめいとは仮の名、
著者は後に大ベストセラー「人は見た目が9割」を出し、
その勢いでとんとん拍子に大学教授にまで成り上がった成功者の竹内一郎先生だ。
こうなったいまとなっては、成功者の言葉ゆえ、
さいふうめい氏の発言にも価値があるものとなる。
常勝団体、創価学会のメンバーではないが、
人生は勝つか負けるかの勝負という面を強く持っている。
負け続きの人生を送っているこちらとしてはわらにでもすがる気分で本書を読んだ。
ヒモの身から大学教授にまで成り上がったさいふうめい氏にいろいろ学びたい。
しかし、ヒモになれることさえすごい才能である。
このときは敗者だったさいふうめい氏(それでも著書を出せるのは勝利者だが)は、
おのれのことを大器晩成だと思っていたふしがうかがえる。
これは高齢失敗者がみなおちいる落とし穴でもある。
だが、氏は実際に大成功したわけだから本物の大器晩成だったわけである。

「人の運は有限、どこで使うかがポイントになる。
「大器晩成」とは、それまで運を使わなかった人のことである。
さて、物事は〝交換”によって成り立っている。
何かを得れば、得たものに見合う何かを失う。
同様に何かを失えば、代わりに何かを得ているはずだ――。
これが阿佐田哲也理論の要諦に当たる」(P27)


ああ、これまでの失敗でいったいなにを得ていると言うのだろう。
勝つ、勝つ、大きく勝つ。
なんかほんと学会員みたいだが(笑)、どうしたら大きく勝てるのか。
さいふうめい氏よりも大きく勝ちたい(しかし、勝つってなにさ?)。
ならば阿佐田哲也の言葉を参考にするべきだろう。

「大きく勝つには、大きくバランスを崩すことだ。その勇気がなかなか出ない。
どうやって、大きくダイヴィングして、破滅の穴を飛びこえるか」(P102)


冷静に考えると、大半の人間にとって大器晩成などという言葉ほど、
人生における大きな破滅の穴はないのではないか。
大器晩成とか信じるから、大きく道を踏み外してしまうのだろう。
いや、違う。飛べ、飛べ、大きく飛べ。あの大空に向かって(笑)。

「聞く力」(阿川佐和子/文春新書)

→昨年もっとも売れた本がブックオフに落ちていたので、
ネタにでもならないかと読んでみたら、いやはや参った。
世の中にはすれていない人がいるんだな~。
こういうのをひねくれていない人と好意的にと見るべきなのか、
浅い人生観に泡を食ったと正直に書くべきなのか。
世の中っていまさらながら不平等きわまりないですね。
自慢話がやたら多いけれど、読者の読みたいのは失敗話だという想像力がないのかな。
やはり単に人の悪意とあまり触れてこなかったのだろう。
相手の話を聞くこつの30に「相手のテンポを大事にする」というのがあるのだが、
「相手のチンポを大事にする」と読み間違え、間違えに気づいてひとり虚しく笑った。
これが売れに売れたってことは、世の中の人ってあんがいひねくれていないのかな。
もし本は中身よりも著者の顔や血筋のほうがたいせつだとみんなが考えているとしたら、
それはみんなのほうがおれよりもはるかにすれているぞ。

「待つ力」(春日武彦/扶桑社新書)

→ファンである精神科医の春日武彦先生の最新刊をさっそく読む。
驚いたのは、春日武彦医師がさらさら自分の人生に満足していないところだ。
あれだけ大量の著作を世に出して、経歴を見ると肩書でも出世もしている。
最近は推理小説も天下の新潮社から出版したようである。
子どもはつくらない方針らしいが、むろん奥さんはいてナースをしている。
むかし読んだ本によると休日に公園で夫婦仲良く缶ビールをのんだり幸福そうだ。
わたしなんかと比べたら百倍、千倍は恵まれているだろうに、
しかし人生にさっぱり満足していないようなのである。
いったいどれほど多くのものを人生に期待しているのだろう。
かえって成功すればするほど、もっともっとと欲が増えるものなのだろうか。
妻がいて定期収入があるくらいを人生の目標にしているものが、
きっといまは大勢いるはずだ。
もちろん、春日武彦医師もそういうことを知らないはずはないのだろうが、
人生に不満がいっぱいのようなのである。
もしかしたら、なんにもないわたしのほうがこの医師よりも幸福なのではないか、
とさえ思ってしまったくらいだ。
もしかしたら、春日武彦医師は直木賞でもほしいのだろうか。
国がくれるなんたら章を狙っているのだろうか。
老いてなお野心たっぷりの精神科医である。
春日武彦医師はなにかもっと大きな成功、名声、栄誉を待っているようなのだ。
あまりに衝撃だったので、長いが引用をお許しください。
あれほど出世した医師でもまだなにか大きな幸いを待っているのか。
つくづく人間は度し難い。

「で、わたしは運命とか偶然とか機運、巡り合わせといった
「人の力だけではどうにもならないもの」を相手に「待つ」ことを
続けねばならない場合、キューブラー・ロスの五段階に準じて
心も移り変わっていくのではないかと考えたくなる。
第一段階の《否認》は、これだけ努力したんだからきっと上手くいくさとか、
まだ機が熟していないのかもしれない等で
穏当に「不本意な気持ち」を否定して希望をつなごうとする。
第二段階の《怒り》となると、このオレが報われないなんておかしいじゃないか!
あいつばかりがいい目を見て、どうしてオレばかりが不遇なんだと
不条理感に怒りが湧いてくる。ヤケ酒を飲みつつ悪態をつきたくなる。
第三段階の《取引》となると、慢心を改めて精進しますから
少しは努力の甲斐を与えて下さいと祈りたくなってくる。
日々の生活態度を改めれば、
人生の風向きも変わってくるだろうなんて考えてみたりする。
さらに第四段階の《抑うつ》になると、気落ちして仏門にでも入りたくなる。
諦めの境地に達することもありましょう。誰にも会いたくないし、
あらゆる情報をシャットアウトして自己憐憫に耽りたくなる。
第五段階の《受容》となると、それこそ「ま、こんなもんさ」
と嘯(うそぶ)きながら手酌で酒を飲めるような境地に達するのでしょうか。
山頭火みたいな句を詠めるようになるのかもしれない
(山頭火の句がいいとはまったく思っていませんが)。
自分を顧みますと、
おおむね第二段階から第四段階の間を行きつ戻りつしていますね。
日によっていろいろですが、第二段階にあることがいちばん多い気がする。
だからいまだに中指を突き立てながら、
いい年をして轟音(ごうおん)でパンクを聴いているのでしょう。
それにしてもわたしとしては、
第五段階に達したら人生は楽になるだろうけれど、
負け犬じゃないかといった思いを拭い去れません。
平穏さを装いつつも、どこか無理をしていると見透かされるに違いない――
救われない人間とは、
そんなことをつい想像してしまう人物のことを指すのでしょう」(P139)


まとめてみる。幸福や成功を待つ五段階。
第一段階《否認》:希望をつなぐ。努力したんだから。
第二段階《怒り》:畜生、どうしてオレばかり不遇なんだ?
第三段階《取引》:お願いしますと謙虚に祈る。
第四段階《抑うつ》;だれとも逢わず自己憐憫に耽る。
第五段階《受容》:「ま、こんなもんさ」と嘯きながら手酌で酒をのむ。

やべえな。わたしはどうやら第五段階に入っている。
「ま、人生なんか、こんなもんさ」と明るく手酌で酒をのむような境地にいる。
しかし、この年までまったくプラスのことに縁がないと自然にそうなるぞ。
たしかに負け犬なんだろうが、ま、そんなもんじゃん、
あ、そっか。春日武彦医師のようになまじ出世と縁があると、
努力が報われたとか勘違いして、さらに努力を重ねて不満が募っていくだけなのか。
むしろ、一回も出世なんてもんと縁がないほうがいさぎよくあきらめることができる。
まあ、春日さん、せいぜいもがいてくださいな。

「母子寮前」(小谷野敦/文藝春秋)

→こんな小説を芥川賞候補に入れられる著者の黒い権力に思いをはせると、
本当の感想は書かないほうがいいのかもしれない。いや、書かないでおこう。
なにをされるかわからないのだから。
しかし少しだけ書くと、自分にとっての一大事を、
みんなもそう思ってくれると無邪気に信じるような幼児性は
著者とわたしの共通するところかもしれない。
自分勝手で自己正当化ばかりしているところも、
あんがい似通っているのだろう。
唯一異なるのは著者はわたしとは違って成功しているところだ。
ベストセラー出版のみならず、なんだかんだと友人も多いらしいし、
編集者にも気を遣ってもらっているようだ。
それに若い美人を嫁さんにしてしまうのだから、
著者の運のよさはいったいなんに由来するんだろう。
著者の自己中心的なところがまるで自分を見るようでムカムカしながら読了したのだが、
(たとえばむかしの女との情事は詳細に記すが、新妻との秘め事は書かない)
つくづくこの世には善因善果や悪因悪果など存在しないのだと思い知った。
本書を読んで不愉快のあまり自殺まで考えたが(あいつばかりいい思いをしやがって!)、
いま思い直したらあんな人にも幸運が舞い込むのだから、
こちらも生きていたらなにが起こるのかわからないのだろう。
次は著者自身のガン闘病記をぜひ読みたいものだ。

「黒髪の匂う女」(小谷野敦/幻冬舎)

→なーんだ「もてない男」なんてキャッチフレーズで世に出たくせに、
ずいぶんいい思いをしていやがるじゃないか。
不遇の時代にもかかわらず、
当時すでに人気学者だった有名女性文化人とあつ~くチョメチョメしたよ、
という自慢話である。
著者の私小説論からしたら、これはまあ事実らしきものになると思われる。
もちろん、書かれた相手側の女からしたらまったく事実ではないだろう。
こういうときに狂騒的な自己主張で自分の主観を事実にしてしまうのは、
どうやら著者が長い人生で身に着けてきた人生作法なのだろう。
他人にもまた事実(主観)があることを理解できない人でも、
こんないい思いをできるのかと驚いた。
いや、そういう自分勝手な男のほうが「押しが強い」とみなされ、
あんがいもてるのかもしれない。読んでいて実にいやな気分になった。

「私小説のすすめ」(小谷野敦/平凡社新書)

→私小説に対する批判はひと言で終わり、「おまえに興味がない!」に尽きる。
タレントの暴露本ならまだしも、一般人の日記みたいのをだれが読みたがるか。
ブログとかも、これを勘違いしている人が多いので本当に困る。
どうして(わたしも含め)みんなさ、
他人が自分に関心を持ってくれるとか期待しちゃうんだろう。
私小説は売れないって、そりゃあ、だれもあんたなんかに興味がないからだよ。
と言いつつも、わたしは柳美里氏の私エッセイや西村賢氏太の私小説は大好きだ。
なぜかと考えるに、あれらは嘘を書いているからである。
このことは後に再度触れるが、そのまえにまずプロフィールが重要だ。
柳さんの若いときは、ものすごい美人だと思う。
たぶん、こちらの趣味が悪いのかもしれないが(これも柳さんに失礼な物言いだ)、
あの手の暗い顔の美少女は好きなものにはたまらなくいいのである。
在日コリアンで家族に虐待されたという悲劇性もまた美少女ぶりを輝かす。
柳美里さんが林真理子女史の顔をしていたら、まず読まなかっただろう。
西村賢太兄貴も、父親が強姦で捕まっているという経歴がおもしろいのだ。
それにあの全身いんちきといった風貌もわたしの好むところである。
話は戻って、柳美里姉貴も西村賢太兄貴も嘘を書くからおもしろいのである。
かの作家たちの作品を読んで事実そのままだと思うものは、
ちょっと世間を知らないのではないか。
いや、あれらを事実起こった通りだとだまされていたほうが楽しめる、
というのも私小説のメカニズムとしてあるのではあるが。
私小説というのは本当にあったこととして嘘を書くもの。
物語小説というのは嘘だと断っておいて本当のことをこっそり書いてしまうもの。
わたしはそういう小説観を持っているけれど、
どうやら元大阪大学助教授の小谷野敦博士は異なるようである。

「あと、私小説であるからには事実に基づいているわけで、
その事柄が起こった日付などの時間的経過を、まずきちんと把握する必要がある、
人間の記憶というのはあてにならないもので、
実際には同じ日に起きた出来事を別の日のことだと思っていたり、
僅か三日の出来事を一週間くらいかかったものと思っていたりするものだ」(P151)


だから、私小説がおもしろくなるのである。
「人間の記憶というのはあてにならないもの」だから、
たとえたいしたことのない現実でも私小説ではおもしろく書けてしまうことがあるのだ。
事実をそのまま書くのならルポになってしまうわけだから。
本当の洪水のなかにちょろっと嘘を入れる、このあんばいが私小説のうまいへたを分ける。
私小説を読む楽しみは、どこが嘘かを探ることだと思う。
反対に物語小説を読みながら、どこが本当かを探るのもまた楽しい。

「だが、私小説には私小説なりの論理がある。
私小説を書く際には、他人のことを、事実を曲げて悪く書くのはいけない。
それはむろん小説に限らない、当然の論理である。
逆に、自分のことを、事実を曲げてよく書こうとするのも良くない」(P178)


たぶん著者は一生このことを理解できないのだろうが、事実などないのである。
ある事件が起こったとする。AとBがいたとする。

A(主観)←(事実)→B(主観)

あるのはAの主観とBの主観だけで客観的事実というものは存在しない。
もしかりに、このときにCという人間がいたとする。
このときCもまた主観を持つのだが、それがABと完全一致することはありえない。
まあ、Aの主観あるいはBの主観、どちらかに似ているということはあるだろう。
このとき「多数派は正義」の論理が働いて、
AあるいはBが事実を言っていると世間は判断するが、しかし、
もしDという人がいたら違うほうの肩を持つかもしれないわけで、
もし二対二になってしまったら、今度は肩書が勝負になるようなこともあるだろう。

私小説を書く喜びは現実をゆがめることにあるのではないかと思う。
俗に女流作家は被害妄想の強いほうがよろしい、と言われるのも、
たぶんこういう事情による。
西村賢太氏の私小説など、嬉々として自己を悪く飾っているではないか。
柳美里氏は家族をなんと悪人のように書いていることか(あれは家族だから許される)。
私小説を書くことで、現実を改変する喜びが得られるのである。
一般に辛いことも私小説に書いたら落とし前が着く、というのは、
言葉にしてしまうとすべてが嘘になってしまうからだと思う。
最後に断っておくが、この主張は正しいものではない。
なぜならば著者は元大阪大学助教授のベストセラー作家、
つまりわたしよりも肩書が上だからである。
ほとんどの場合、肩書の上のものの意見が正しいこととして通用する。
これを批判する気もなく、世間とはそういうものなのである。
このため、万が一拙文が著者のお目に触れても、
どうかお気を悪くなさらないでいただきたい。
なぜなら読み手の大半は小谷野博士のご意見のほうが正しいと思ってくれるでしょうから。
変にあわてると、肩書の安定感が揺らいでしまうのでご注意あれ。
格下は相手にしないのが大物の証なのである。

「三千枚の金貨(上)(下)」(宮本輝/光文社文庫)

→なんでいま980円の靴を履いている人間が、
1300円も払ってこんな小説を読ませられなきゃならないのか、
本当にもう人生というものがいやになった。
どういう話かというと、40過ぎのエリートサラリーマン3人が、
3000枚の金貨がどこかの木の下に埋まっているという話を聞きつけ見つける話だ。
金貨は1億円相当らしく、
金のために動くというのがいかにも創価学会員のようで笑おうとしたが笑えなかった。
結局、見つけるのだが、掘り出すのは20年待とうなどと
成熟した大人ぶるところが、いかにも善人ぶりたい学会員のようでうんざりした。
金が目当てで動いたくせに、いざ金が見つかったらきれいごとを言うなよ。
主人公が銀座のバーで山盛りのキャビアをシャンパンで流し込むシーンがあるのだが、
980円の靴を履いているこちらはキャビアもシャンパンも
人生で一度として口にしたことがないので(別に食べたくも飲みたくもないがね)、
そういう舌の肥えた富裕層にしかこの小説のよさはわからないのかもしれない。
こちらとそう年齢が変わらないにもかかわらず、美しい妻のいるエリートサラリーマンが、
400万も若い水商売の女に金をつぎ込むところで泣きたくなった。
こちらはもう妻をめとるのでさえあきらめているのに、
なかにはちゃんとした奥さんもいるのに若い愛人までつくる果報者がいるのか。
40歳を過ぎると骨董がわかる、なんて話もどこの世界の話ですか? と悲しくなった。
貧乏人が売れっ子作家に成り上がると、
キャビアだのシャンパンだのゴルフだの愛人だの骨董だのと
自慢たらしく小説に書きたくなる気持はわからなくもないが、
毎日のように健康にもいい美食を召し上がっていらっしゃると、
そうでない読者がいることに想像が及ばなくなってしまうのだろうか。
いま思いついたが宮本輝氏の優秀なご子息ふたりは、
この小説に出てくるエリートサラリーマンのような恵まれた生活を送っているのだろう。
ちなみにご子息ふたりとこの文章を書いているものはそう年齢が変わらない。
どうしてあちらばかり恵まれているのか。
夫を若い小娘に寝取られたエリートサラリーマンの妻の発言にヒントがあろう。

「自分は宗教というものを持っていないが、
仏教には宿命とか宿業という言葉があるそうだ。
これまでその言葉について考えるというようなことはなかったのに、
いざ自分の身に夫の浮気という事態が生じて、
しかもその女が家にまで押しかけてくるなどという屈辱を味わってみて、
自分はこれこそが、柏木家の女たちの宿命、
もしくは宿業というものなのかもしれないと考えた。
もしそうであるならば、どこかでそれを完全に断ち切らねばならない。
だが、どうやったら断ち切れるのか……」(上巻P265)


やっぱり創価学会に入って宿命転換するしかないのかな。
宿命転換したらキャビアの山盛りをシャンパンで流し込めたり、
ゴルフ練習をしながら若い愛人を囲ったり、
50万もする美術骨董品を購入できるのだろうか? でも、そんなの幸福?
おそらく、創価学会にとっての幸福はそうなのだろう。

「損か得かで物事を決めることも大事でっせ」(下巻P124)

「忘れることが勝つことだ。傷をひきずらないことが勝つことなのだ」(下巻P128)


損より得を取れ。負けるな。勝て、勝て。創価学会精神をまるで隠さない作家である。

「何事にも表と裏がある。表が正、裏が邪というわけではない。
表と裏で一枚なのだ」(下巻P133)


社会や政治、芸能界の裏側でもしかして学会が暗躍していたりするのですか?
そういう表舞台には一生縁がなさそうなので、もうどうでもいいのだけれどさ。

小説を読みながらまったく笑いも泣きも生じなかったので、
細かなアラをチェックする意地悪おっちゃんになってしまったよ。
30歳そこそこのいまの女性が会話の語尾に「わ」をつけるのはありえないわ。
他人の海外旅行話ほどつまらないものはないのだが、
日ごろ周囲からちやほやされていると現実認識が鈍るのでしょうか。
知らない中年男の旅行話を楽しそうに聞いてくれる女子高生なんていないわ。
40過ぎのサラリーマンでメールの送信ができないやつもいないと思うわ。
それとこれは校正者のミスでもあるのだろうが、
4、50年前の会話に「真逆」という言葉が使われているのはおかしいわ(下巻P155)。
「真逆」は2000年ごろから使われ始めた最近の言葉だわ。

登場する芹沢由郎が池田大作氏、セリザワ・ファイナンスが創価学会の暗喩とも
読めなくはないので、ここだけは関心があって、どう描くのか期待していたら、
なんだか尻すぼみに終わってしまったので、これがもっとも残念だったわ。
池田大作氏が死なないうちはまだ書けないことがあるのかもしれないわね。
しかし、1300円を投入してなんでこんな悲しい気分にならなければならないのでしょう。
しつこいようだが、キャビアとかシャンパンとかフォアグラとか、なんだかな。
そういう高級食品って1300円で買えますか?
もちろん、わたしのこのつたない感想が正しいわけでは断じてない。
紫綬褒章作家の小説を正しく理解できないのは読み手が到らないからだと思う。
たぶん「三千枚の金貨」(金、金、金のすごいタイトルだよな……)は、
キャビアやシャンパンのようなものなのである。
わたしなんか下手をしたらいざキャビアを食べてもまずいと思うかもしれない。
シャンパンを飲んでもそうと知らなかったら焼酎のほうがうまいとも言いかねない。
だから「三千枚の金貨」は味のわかる、違いのわかる大人のための傑作小説なのである。
おもしろさを理解できないのは幼いせいと考えてまず間違いないだろう。
この小説は読者が果たして大人かどうかが残酷にもわかってしまう試金石と言えよう。
ぜひご一読をおすすめしたい。

「仏教が好き!」(河合隼雄・中沢新一/朝日新聞社)

→宗教学者の中沢新一氏が河合隼雄に実に鋭い質問をしていたので感動した。
結局、心を病んでいる人というのは少数派なのである。
多数派とは異なるという理由で病んでいると診断され(あるいは自覚して)
精神科医や、それでもよくならないものは健康保険のきかない、
たとえば河合隼雄氏のような心理療法家のもとを訪ねてくるわけである。
河合さんもときおりにおわせてはいるが、そういう病はまあ贅沢病なのである。
というのも、本当に金がなかったら、心理療法など受けられないのだから。
つまり、そのまんま放っておくしかない。
(あまり大きな声では言えないが、それでも、ときに? かなり? 治るのであろう)
これは偏見かもしれないが、額に汗して大地に向かって格闘しているものの大半は、
よほどのことがないかぎり心を病んだりはしないのではないか。
とはいえ、全員がお百姓さんや土木作業員になるわけにもいかないし、
ミミズや砂利と格闘しているばかりでは文化や芸術も生まれようがない。

このため、心を病むことにもきっと意味があるのだろうと河合隼雄は考える。
そして、心を病むとはどういうことか突き詰めて考えると、
前述のようにやはり意図せずして望まぬ少数派になることなのである。
繰り返すが心を病むとは、少数派になること。
よしんば、うつ傾向があっても社会全体がどんよりとうつならば異常ではないのである。
たとえ不登校でも学校に行かない学童が5割を超えていたら、
両親も当人もわざわざ思い悩んでカウンセラーになど逢いに行く必要はない。
出社拒否症でも、周囲がみんなだらだらと遊び暮らしていたら問題にはならない。
みんなと違う(=少数派)から病んでいることになり、そうなると、
そのことにことさらこだわり問題を悪化させてよけい苦しむようになるのだ。
たとえ幻聴が聞こえていても、その幻聴と折り合う仕事(もしくは資産)があり、
幻聴と楽しく会話できるようになれば少数派でも一向に構わないことになる。
漁村などで雨の日は朝から酒をのむ風習があればアル中にはならない(アル中ではない)。
心理療法対象のいわゆる病は、少数派ということに過ぎないのかもしれない。
たとえばわたしは吃音症だが、みんながどもっていたら異常ではない。
むしろ今度はどもらないほうが異常となり心理療法の対象になるかもしれない。
わたしに関してはもうどもりは完全にあきらめているから、
いまさら高い金を払って心理療法や訓練道場といったものに通う気はさらさらない。
これは果たして治ったのか、治っていないのか、考えてみるとよくわからない。

幸福についてもよくわからない。
ひねくれた目でものごとを見ると、たとえば安っぽいテレビドラマに感動して、
新聞や雑誌で聞きかじったような政治への不満を周囲に訴えてすっきりできる人が
もしかしたら本当に幸福な人なのかもしれない。
ともかく、多数派の一員であることはおのれを幸福と錯覚させる要因のひとつだろう。
ベストセラーを読んでみんなとおなじように感動して、
評判の高いレストランでものを食い満足して、みんなとおなじように老いて病気にかかり、
平均寿命前後で死んでいければ、まあ幸福とも言えないことはないのである。
幸福かどうかはさすがにわからないが、そこそこ正常な人だったということになろう。
みんなが無気力で退廃的だったら、今度は前向きなやつが病気ということになる。
「おまえはいつ死ぬかわからないことを少しは考えろ」と説教する人がいてもいい。
とどのつまり、なにが病か、なにが正常か、なにが幸福かはわからない。
多数派に戻ることが治癒なのか、多数派に従うことが幸福なのか、わからない。
このことを河合隼雄氏ほど理解していたものはいなかったことが以下の引用からよくわかる。
もちろん、問いを発した中沢新一氏も立派なのである。
多少長い引用になりますが、どうかご勘弁ください。

「中沢――これは僕の疑問に関わってくるんですが、
心理療法家というのはいったい何をする人なのかということですね。
つまり、陳腐であろうが何であろうが、人びとは安心感を欲している。
陳腐なことが好きだからテレビを見るわけですし、それをみんなもとめてしまう。
けれども、陳腐な理解では安定できない人、安住できない人たちがいる。
で、河合先生の前に行く。
河合先生には二つ可能性があるわけでしょう。
一つはクライアントに対して、
「陳腐なところへお帰り。そうすればみんなといっしょになれるじゃないか」
という可能性ですが、河合先生の場合、そこで「もう絶対戻れませんよ。
それぐらいなら陳腐な結合をやめて、もうちょっと深いところへ行ってみなさい」
って言う人なのかなあと思うわけです。
河合――その判断がいつもむずかしいと思いながらやっています。
陳腐なほうへ戻るためにいっしょになってみたり、
深く降りるほうをやってみたり、両方いろいろですね。
もう一つ思っているのは、不安なほうへ向かわせるのだから、
それを超えた安心感みたいなものを相手に与える人間でないとだめだと思っています。
そうでないと、その人は不安でしようがないわけです。
だから大きい意味の安心感はあるようにしておかないと。
中沢――それは親鸞が言う阿弥陀如来みたいなものかもしれません。
とにかく絶対的な安心感がある。
河合――僕は、絶対的とまではいかへんけど、
そういう点では相当の安心感を与えられると思います。
それは僕が持っているというよりは、それこそ阿弥陀如来じゃないかもしらんけど、
何か自分を超えたもの、そういうものがあると。
中沢――それは河合先生がずうっと追及されていることですよね。
河合――そうです。
中沢――「阿弥陀如来」と言ってしまってもいいし、言わなくてもいい。
「グレートマザー」でも「自然」でもいいけれども、
そう言ってしまってもいいし、言わなくてもいいわけですね。
ただ何かさっき言った「絶対肯定」……。
河合――みたいなものはある。
ただ、それに名前をつけて存在を確かめたり、名前をつけることによって
「こういうのがあるのです」という言い方は、僕はまだしません。
してないというか、それはできない。
自分の体験としてできないんだからやっていないだけですが」(P151)


長い引用を最後までお読みいただき本当にありがとうございます。
実のところ、この2週間のブログ更新は、
上記の河合隼雄先生のご発言に勇気をもらったものかもしれません。
名前をつけられないけれども(一切空)、
絶対的なもの(自分を超えたもの)があると、あの河合隼雄先生がおっしゃっている。
ならば、なにが正常か異常かも、なにが幸福か不幸かも実のところわからないのだろう。
このことを心底からわかっていた人がいたというだけで安心できるところがあるのだと思う。

「生きるとは、自分の物語をつくること」(小川洋子・河合隼雄/新潮社)

→物語はどうやってつくるのだろう?
対談で作家の小川洋子さんが河合隼雄に質問する。

「結局「人間はどうして死ぬのか」とか「死んだらどうなるんだろう」
という恐怖が、物語を生み出しているということでしょうか」(P82)


この問いに河合隼雄は「もう絶対にそうですね」と答えている。
つまり、小川洋子さんの発言が正解だと言っているようなものである。
しかし、そうなのかな? いや、河合隼雄が言うんだから、そうなの?
小川さんは金光教の家に生まれている。
宗教というのが、物語と大きく関係しているのはなんとなくわかる。
で、宗教とはなにかといったら、死をどう扱うかに尽きる。
死の説明の仕方で宗教の種類がわかれているようなところがある。
うーん、だから、やはり小川洋子さんの言うとおりなのか。
けれど、物語が出てこないんだよな。どこか宗教に入ろうかな。
小川さんは元から金光教の家に生まれたわけである。
そういう形でないといまどき自分から宗教なんて入れないよな。
だれかから誘われて入るのは落とされたような敗北感が生じる。
もう人生行き詰ったから、新興宗教でも入って自己洗脳しないとダメかな。
でも、そんな都合のいい宗教なんてないよね。
よくさ、成功者の話とかで、都合のいい偶然が起こるけれど、あれ本当なの?
~~会に入ったらいいことがいっぱいありました、とかさ。
また河合隼雄も新興宗教めいたことを言うんだ。

「都合のいい偶然が起こりそうな時に、
そんなこと絶対起こらんと先に否定している人には起こらない。
道に物なんか落ちていないと思ってる人は、前ばっかり見て歩いているから、
いい物がいっぱい落ちとっても拾えないわけでしょ。
ところが、落ちてるかもわからんと思って歩いている人は、
見つけるわけですね」(P53)


そういえばむかしある新興宗教のメンバーと思しき人から
毎日のように「前向きになれ」と指導されたことがあったな。
結局、その人からも見切られて新興宗教にさえ勧誘してもらえなかったけれど。
後ろ向きな思考法であるという自覚はある。
そっか、河合先生! 下を向いて歩けばいいんですね!
そうだよな。1千万くらい道に落ちているかもしれないもんな!
落ちてるかもわからんと思って歩いていたらいいのか!
ようし、明日から下を向いて歩くぞ!

「猫だましい」(河合隼雄/新潮文庫)

→文学を教える日本最高峰でいまや大盛況の私塾、
猫猫塾の総裁が大嫌いな河合隼雄さんの本をうっかりまた読んでしまう。
猫にまつわる物語から河合さんは生きるいろいろな味わいを紹介する。
きっとこの心理療法家は、
臨床の過程でふつうの人は決して見ることのできぬ人生の深層を何度も見たのだろう。
しかし、職業上おのれに課した守秘義務のため事例は公開できない。
がためにこうして自分が見たことをフィクションの物語に託して語るしかない。
猫は仏教でいえば畜生界を生きるものだが、
本書で著者は畜生界を生きるのもまたひとつの生き方だと主張しているような気がした。
だいぶまえに読んだ本だが、
きっかけは宮本輝氏の「避暑地の猫」を読了したそのつながりである。
「避暑地の猫」はまさに畜生界を生きる人間たちの欲望にまみれた物語であった。
河合先生の本はかなり積ん読しているが、
せっかくだから猫つながりでこれを読んでみようと思ったのだった。
こういう方法はまさに河合隼雄氏から教わったものである。

私事を語ればどうも動物は苦手で、考えてみたら猫にさわったこともないかもしれない。
猫を愛撫するのはなかなかいいものらしい。
では、異性と猫のように愛撫しあうのはどうか。

「愛撫は人の心をとろかしてしまう。疲れやわだかまりが溶け、
人と人と、人と世界とが融合してしまう、至福の状態と言うことができる。
こんなことを知らない人は不幸な人だ。とは言うものの、
このようなことを経験する人は幸福だとも言えないのが、
人生の面白いところである。
もっとも、現在では金もうけをしたり、
地位が上がったりすることが幸福と考える人が多いようだから、
とろける世界の見事さを知ることが必要と思われる」(P196)


どっちなんだよ、と突っ込みたくなるが、
どっちも正しいことが実はたくさんあることをわたしは河合氏から学んだのだった。
たしかに猫は金もうけにも地位にも頓着しない。
近所に夜中、野良猫にエサをあげている人がいるが、あれも幸せなのだろう。
いや、猫には幸せなどないのだろう。畜生にはなにもない。
ほんとうは人間にもなにもないのだろう。
著者は谷崎潤一郎の「猫と庄造とふたりの女」を読み、次のような感想をいだく。

「悪とか闇とか破壊などと呼ばれることにこそ、
名状し難い美や味わいのあることを、
作者は示したかったのだろうと思う」(P212)


猫のように畜生界を生きる女性と愛撫しながら破滅するのもまた悪くない。
こう言っているのだろうが、これを心理療法家が言うとは。
クライエントを正しい生き方に導くのが心理療法家ではないのである。
美しい悪、闇、破壊にいたる道筋を猫のような存在が教えてくれる。
河合隼雄氏は思春期の少女は猫のようなものだと言う。
氏は思春期の少女が苦手で、クライエントとして来てもほかにお願いするらしい。
それにしても思春期の少女は猫だとはぎりぎりのことを言っているわけだ。
少女を人間よりいちだん低いものと見ているわけだから。
いや、そうではない。猫ははたして人よりも下等なのか。
思春期の少女たちは、自分を猫のように「異種」であると感じているという。
なぜなら人間(大人たち)とは言葉が通じないからだ。
自分たちが優位に立っていると思うことも(大人はダサイ)、
そのうち自分たちも人間(大人)になるがいまは猫なのだと感じている場合もある。

「強い「異種」感を味わっている少女に、
「あなたは人間と異なる動物だとすると、何ですか」
と質問してみるのも面白いだろう。
「猫」と答える子は多いのではなかろうか、猫の持っている、
独立性、不可解さ、優しさ、残酷さ、
などピッタリのところが多くあると思われる」(P217)


独立性を持った、不可解だが、優しさと残酷さを併せ持つ美少女とかいいよな。
まさに悪や闇、破壊に通じているような気がする。
期間限定でそのうち人間になってしまうというのもいい。
人間にならないで猫のまま生をまっとうするものなどいたらどれほど美しいか。
いまの美少女アイドルとか明るすぎてつまらないんだ。
不可解で残酷な美少女をなぜマスメディアは売り出さないのだろう。
美というのは悪、闇、破壊に通じていないと本物ではないと思う。
猫にひっかかれるのもまたいいのだろう。
今度、勇気を出して野良猫にでも触れてみようと思う。逃げられちゃうかな。

うちにいる猫と大熊猫↓
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「仏の発見」(梅原猛・五木寛之/学研M文庫)

→2年前の対談だけど、両先生ともお元気だよな~。
この人たちの業ってなんなのだろう。
やはり変な言い方になるが戦争を経験している世代は強い。
なまのいのちのありかたを身をもって実体験しているわけだから。
五木さんも満州から引き揚げてくるときに、まあ悲惨なものを見たようだ。
ロシア兵が女を要求してきて、だれを出すとかの悶着とか修羅場だよな。
女学生はやめよう、子持ちの母親はやめよう、とか。
で、泣きながらいやがる同胞の女をロシア兵に引き渡すわけである。
なかには帰ってこない女性もいたとか。
だれかを犠牲にしなければ生きられないのが戦争なのだろう。
いのちは地球より重いわけではなく、優劣があることをまざまざと知らされる。
やはり実体験ほど強いものはないのだと思う。五木さんいわく――。

「まあ、後世に名が残るような文学者、宗教家が、押しなべて、
人生の悲哀を心底味わうような経験をしている。
法然、親鸞や夏目漱石などに比べると、
私の悲哀などたいしたものではないけれど、その体験があったからこそ、
こうして、仏とは何ぞや、仏教とは、と考えさせられ、
いまこうして梅原さんに教えを乞うチャンスを恵まれているような気がします。
これも親鸞の言う「わがはからいにあらず」。
自然法爾、他力の計(はか)らいといってもいいんでしょうか。
何か、そんなふうに、これまでの悲哀を肯定したい気持ちになりますね」(P67)


知的興味から仏教に関心を持ったわけではないと主張しているわけだ。
さて、老人の対談は語られる内容よりもゴシップがおもしろいわけだ。
本書でもいろいろ楽しいよもやま話が出てくる。
井上靖が梅原猛さんの本を読んで、あれは小説だと言ったとか。
まったくそうだよな。梅原さんは学者じゃなくて作家だと思う。
というのも、恨みが強すぎるからだ。
本書でも梅原さんはまたまた三島由紀夫の悪口を言い放っている。
これは本当かどうか、わたしは嘘ではないかと疑っているが、
なんでも三島が「豊饒の海」を読んでくれと頼んできたとか。
この小説を仏教思想と読めるかどうか三島は梅原さんに質問してきたというのだ。
梅原さんは、これは仏教ではないと否定したという。
そのうえで、自分は三島に唯識仏教を教えてやればよかった、とかなり上から目線だ。
三島は自分に悪口を言われてかなりショックだった、
と人づてに聞いたとおかしな自慢までしている。
晩成の梅原さんは三島由紀夫のように若くして世に出たやつを許せないのだ。
その気持はほんとよくわかるが、それにしてもしつこいぜ!
いや、嫌いなだけではないのだろう。どこか好いているところもある。
いまや大学者となった梅原猛氏は告白する。

「まあ、太宰にしても、三島にしても、川端にしても、
やっぱり異常な人だったと私は思いますよ。
そういう異常な人がいなくなって、日本の文学は寂しくなった」(P173)


かくいう梅原猛もまた「異常な人」である。
「隠された十字架」を執筆していた時期など1日に80枚とか書いていたという。
異常ということは、狂っているということになるのだろう。
五木寛之さんもまた狂わないとものを書けないことを知っているようだ。

「まさに作家の仕事というのはミディアム、巫女とか霊媒だと思いますね。
ある意味では、イタコのような依代(よりしろ)になって、
お前はこれを語れ、という声が聞こえてきて、その声に揺り動かされて、
憑(つ)かれたように物を書いていくというふうな」(P93)


この本で知ったが梅原猛氏が仏教の勉強をはじめたのは40になったときとか。
いったいどんな声が聞こえてきたのだろう。
そこで狂ってしまう人と、梅原さんのように大成する人にわかれるのかと思われる。
とはいえ、わたしは梅原猛さんほど権力志向の強い人をちょっと知らない。
五木さんは自然に世に出てきたが、
梅原さんは力尽くで成り上がったようなところがある。
つぶされた人も多いのだろうが、それが歴史なのだろう。
わたしも梅原猛とおなじで「異常な人」が大好きである。

「日本人・いのちの風光 梅原猛vs.ひろさちや対談集」(主婦の友社)絶版

→「本の山」の仏教思想は8割方ひろさちや氏と梅原猛氏によっているから、
両先生の対談本を見つけたら読まずにはいられないわけである。
この対談を読んで改めて思ったのだが、梅原猛氏はむろんのこと、
いまやチープな過激書を濫造するだけになってしまった(失礼!)
ひろさちや氏が実によく勉強しているのである。
勉強に勉強を重ねて、学問のくだらなさに見切りをつけて、
いまのようないささか怪しげな宗教ライターになってしまったのだろうか。
お亡くなりになるまで書くのはやめようと思っていたが、ひろさんは偉いよ。
うちのブログもバカに見られるのがいやだから、
「カテゴリーひろさちや」を作っていないけれど、亡くなったら作る。
もしかしたらひろ先生、死んだらかなり偉くなるんじゃないかな。
あたまの働き方がわたしなんかとまるで違うし、やはり東大卒はすごいと思う。

東大といえば日本史の過去問に難題が出たことがあるのである。
「どうして鎌倉時代の一時期にしか優秀な坊さんは出てこなかったか?」
対談で梅原猛さんが指摘するのも似たようなことで、
「日本で偉い坊主が出たのは平安の初めと鎌倉の初めの二回だけで、
その後はどうもパッとしない」――。
そのうえで「これはどういうことなんでしょうかね」とひろさんに質問している。
その答えがおもしろい。

「一つは如来蔵思想の系統からいくと、凡夫が如来を蔵しているという形ですね。
自分の中にある如来性を磨き出すという哲学を完成させたのが道元で、
それから親鸞は、
如来の中に包まれている凡夫だという思想をぎりぎりまで推し進めていった。
それと、如来と凡夫がイコールなんだというのが空海の思想であるわけです。
仏教はこの三つのパターンでもう尽きるのではないかと思うんですが」(P148)


これを梅原猛氏は、
「仏教そのものが理論的に全部追及されてしまったということですね」と引き取る。
ひろさちや氏は自分の考えた自分の言葉でうまいことを言うよな~。
わたしの言葉にしたら、きっと自然とのパターンも3つなのである。
自分のなかに自然を形作っている根本があることに気づく仏教。
大きな自然のなかに生かされていることに気づく仏教。
自分がそのまま自然であることに身体全体で気づく仏教。
このほかにも両先生の斬新な指摘には学んだところが多い。
ひろさちや氏や梅原猛氏の言葉を読んでなにがわかるかといったら、
だれかから知識を教わるのもいいが、
自分自身でものを発見してもいいのだということである。
むしろ、そのほうがものを教わるよりも何倍も楽しい。学ぶのは喜びだ。

「わが家の仏教 浄土真宗」(四季社)

→あんまりこういう本音は書いちゃいけないのだろうが、
本書の序文で立派な肩書をお持ちの偉い先生が文章をご披露なさっているのだが、
それがもう本当に意味不明で、そのくせ偉そうで不愉快な、
あたかも自分はすごい真理を知っているかのようなことを書いているのである。
浄土真宗内部で出世するのは、むしろ浮世以上にいろいろ大人の事情があるのだろう。
かならずしも能力と出世が比例しないのは、もしかしたら実社会以上なのかもしれない。
こういう不穏なことは考えてはいけないのである。
肩書がご立派な人がおっしゃることは、正しいに決まっているからである。
しかし、いまの坊さんの言葉は、まるで校長先生の朝礼訓話みたいだと思う。
あれは偽善くさいものの子供向けのためまだ意味が理解できるのでよいが、
お坊さんになるとくだらぬ知識を誇るようになるから本当に始末が悪い。

本書を読んでいまの浄土真宗は死のにおいを消そう、消そうとしていることに気づく。
「正信偈」本文の「正定」なんて、
どう考えたって「死んでから浄土に往生すること」なのに、
解説では現世の話になっていて「真実に生きて往く道が定まる」ことだそうだ。
同様、「生死輪転」は生まれ変わり、つまり六道輪廻のことなのだが、
本書の現代的解説では「生に愛着して死を恐れて堂々巡り」することになっている。
親鸞の教えは死が中心にあって、ひと言で言えば死んだら往生できるに尽きるのだが、
いまの真宗は現代の風潮に同化して死の無視にひた走っている。
いまでも坊さんになりたい気持はあるのだが、
もし真宗に入ったら即破門されるような気がする。

「浄土真宗の仏事」の紹介では、とにかく金、金、金が透けて見えてうんざりする。
お坊さんを尊敬しましょうとか自分たちで書いてしまう坊主ってなんなの?
お金の包み方を自分たちで書くのはいかがなもんかい?
お車代を忘れないようにしましょうとか、どれだけ坊さんってやつは守銭奴なんだ?
儀式もいろいろあるようだが、どうしても金儲けにしか見えない。
いろいろな儀式を決めたのは、たぶん蓮如なのだろう。
親鸞は「お布施など不用」と言っていたことになっているのだが。
「なんでもOK! 女体もOK! 悪もOK!」の浄土真宗の坊さんは、
いちばん世の中でおいしいポジションのような気がする。
むかしの真宗が宿業なんたら言っていたのは、
自分たちの恵まれすぎたポジションは前世の功徳としか説明できないほど
うまうまとしたものだったからではないか。
ああ、生まれ変わったら真宗の坊さんの家で育ち、
長じてはうまいものをたらふく食い大酒を飲み、門徒からの尊敬を一手に集め、
しまいには愛人の2、3人は囲ってみたいものである。
そのためには現世で功徳を積まなければなるまい。
やはり今年の目標「人に親切にする」は間違っていなかったと再確認する。

「正信偈」(親鸞/「わが家の仏教 浄土真宗」四季社)

→正信偈(しょうしんげ)は正しくは正信念仏偈といい、
浄土真宗の門徒さんが毎日のおつとめとして読み上げることになっている。
内容は親鸞の大著「教行信証」の一部で、
ここに全体の要約がなされていると本願寺8世の蓮如が判断して、
いまのように毎日の勤行に取り入れられた。
怪しい呪文めいたものは嫌いではないので、
もしかして偉大な真理が説かれてるかもしれないと思い、
たいせつに何度も精読したのだが、三度目の熟読で気がついてしまった。
正信偈は漢文の羅列で、この入門書には読み下し文が解説とともについている。
なにを気がついたかというと、親鸞の漢文がおかしいのである。
いちおう大学受験で漢文を選択しているし、第二外国語は中国語である。
しかし、長いことあの偉い親鸞の言葉だからという先入観があったのだと思う。
3回目の丹念な読みの過程で、やはり親鸞のほうがおかしいとわかった。
どう考えても親鸞の漢文は文法構造上、読み下し文のようには意味が取れないのである。
言っちゃいけないことかもしれないが、親鸞はちとばかしおバカさんなのね。

あーあ、知らなければよかったことをまた知ってしまったかと後悔する。
知らないでありがたいものだと思い込んでいるのもまた幸いなのだ。
この段階でしばらく放置して最近また読み直した。
すると、なんだか心が落ち着かなくもないのである。
むかしは意味を考えながら読んでいたので、意味が成立していないことに不満を感じた。
ところが、その意味がよくわからないところがそこそこありがたいのではないか。
要するに、さらに思いを改めたわけである。
「正信偈」の内容は、肩書の大合唱である。

「正信偈=肩書大合唱♪」

相対の人間世界の言葉をどうつなげてもなかなか絶対にはたどり着けない。
このため、親鸞は偉い仏僧の名前を延々と並べるわけである。
具体的には以下である。
無量寿如来→法蔵菩薩→弥陀本願(仏典)→
→釈迦→龍樹→天親(インド)→→曇鸞→道綽→善導(シナ)→源信→法然(日本)
自分の信心は、上記の偉人たちに支えられているという主張だ。
細かく読んでいくと、本当は親鸞が独自に編み出した思想も、
ほかの高僧が説いていることにしているのがなんとも印象的だ。
しかし、信心というのは、元来そういうものなのである。
法然もおなじことをしているし、源信もシナ高僧の教えをねじ曲げているところがある。
偉い人がこう言っているから正しいという論法である。
仏教思想を見ていくと、本当にまったく言葉は肩書でしかないことが理解される。
だれかの言葉を信じて賭けるのがおそらく信仰の内実なのだろう。
ぶっちゃけ、信仰は人それぞれで、おなじ浄土真宗門徒でも信じているものは違うと思う。
いけないと批判しているのではなく、信心とはそういうものなのである。
親鸞なら親鸞のどの言葉を信じるかは各自の自由なはずである。
ところが、新興宗教の場合、かなり信者の自由は狭められ、
よくも悪くも盲目的に同一内容を信じることを強制される。
我われが親鸞から学ぶことがあるとすれば、
自分の信心(お話)を作っていいということである。
親鸞はあまたの高僧や仏典の言葉から、
都合のいいところだけ選択して自己の信心を決定した。
それから自分の主張は高僧も言っているから正しいとひっくり返したのである。

さらに重大なことが「正信偈」からわかるのではないかと思う。
親鸞は自分の考えをほかの高僧が言っていたと偽装(信仰)していると書いた。
たとえば、親鸞は「報化二土」の教えを説いている。
我われが念仏を唱えて往く浄土には、
報土(本物)と化土(仮物)の二種類があるというのである。
「正信偈」では源信がこれを説いたとされているが、実は親鸞のオリジナルである。
しかし、自分の考えと言ってしまったら教えの正しさが証明できない。
このため、「往生要集」で有名な源信の名義を借りたわけである。
さあ、もっとも主張したいことに入ろう。
師匠の親鸞がしたこととまったくおなじことを弟子の唯円もやったのではあるまいか。
何度も書いてきているが、
唯円の「歎異抄」は実はかなりのところ唯円自身の信心(思想)ではないか。
学者、坊主、門徒、一般読者の99%が
「歎異抄」は親鸞の信心が弟子によって説明されていると思い込んでいる。
しかし、それは大きな勘違いをしているのではないか、と繰り返し言いたいのである。
「歎異抄」は「正信偈」とおなじように、
自身の思想を高僧の名義を借りて語ったものではないだろうか。
根拠は「教行信証」の一部である「正信偈」である。
親鸞の偉大さは、かつては子孫である蓮如の巧みな情報操作で成立していた。
明治以降、秘伝の「歎異抄」が公開されてからは、
今度はこの書物によって親鸞が再度神格化された。
むろん、唯円の師であったくらいだから親鸞が偉くないとまでは言わない。
だが、唯円はもっと偉大だったのではないかとわたしは言いたいのである。
なぜなら繰り返し読んでみると「正信偈」「三帖和讃」「末燈鈔」よりもはるかに
唯円の「歎異抄」のほうが深い内容を持っているからだ。
ともあれ、親鸞の「正信偈」の感想であまり唯円を論じるものでもあるまい。
わたしは唯円が親鸞の言葉を信じたように、唯円の言葉に賭けてみたいと思う。
「正信偈」は師匠のそのまた師匠の言葉だから、
月に一度くらい読み返すのもまた悪くはないかもしれないと思う。

「仏説阿弥陀経」(鳩摩羅什訳/「浄土三部経」本願寺出版社) *再読

→「本願」を説いた大無量寿経、「念仏」を説いた観無量寿経に引き続き、
本願寺出版社「浄土三部経」が掲載するのは「浄土」を説いた阿弥陀経である。
このきわめて短い仏典には、浄土がいかなるものかが描写されている。
仏典お決まりの会話形式ではなく終始、世尊(釈迦)は説明する。
世尊の講義を受けるのは、般若心経でおなじみの弟子、舎利弗(舎利子)だ。
浄土とはどのような国なのか?

「舎利弗よ、その国をなぜ極楽と名づけるかというと、その国の人々は、
何の苦しみもなく、ただいろいろな楽しみだけを受けているから、
極楽というのである」(P218)


言うまでもなく阿弥陀経もまた仏教の開祖たる世尊が説いた真説ではない。
これもまた書く必要はないくらい常識だが、
ほかの大乗仏典とおなじく世尊が説いた教えというのが売りであるだけだ。
でも、よくよく考えたら、世尊の教え「だから」正しいというのはおかしいわけだ。
なぜなら、どうして世尊の言葉が正しいか証明できないのだから。
ものすごいくだらぬ皮肉を言えば、
世尊は東大を出たわけでもないし(笑)、偏差値も不明だし(笑)、
韓流スター(笑)よりもイケメンだったという証拠も残っていない。
言葉は肩書だから(だれの発言かで価値が大きく変わる)、
とりあえず世尊の言葉にしておけと仏典創作者たちが考えたのは疑いえない。
もちろん、かわいそうなことに法然も親鸞もこういう事実を知らずに、
浄土三部経を世尊が実際にお話になったありがたい説法だとだまされていた。
皮肉にも、我われが法然や親鸞からいまもって学ぶことができる教えに、
知らないことも(だまされているのも)またしあわせだということがある。

どうでもいいことだが、阿弥陀経は古事記よりも制作年度が古いわけである。
繰り返しになるが、阿弥陀経は浄土の詳細を描く。
浄土とは「何の苦しみもなく、ただいろいろな楽しみだけ」がある世界である。
こういう夢の世界を妄想した当時のインド人の生活環境を想像するとぞっとする。
いまのインドでさえ日本人のわたしが旅すると、まあ不愉快な苦ばかりなのである。
2千年近くまえのインドがどれほど苦に満ちていたか想像するとあたまが痛くなる。
だがしかし、そういう苦界であるからこそ阿弥陀経が創作されたのである。
おそらく大無量寿経も観無量寿経もそうだ。
その前提にあるのは人生は苦が99%なのだという現実認識である。
だからこそ、極楽浄土のようなものを妄想して創作するのである。
はっきり言って、いまの日本は阿弥陀経作者が想像もできないような極楽なのだ。
たぶん浄土三部経作者が想像できないほどの極楽世界をいま我われは生きている。
にもかかわらず、やはり仏教に救いを求めるものはいる。
たとえば、わたしのようにだ。いったいこれはどういうことなのだろう。

ひとつ疑いえないことは、
我われ現代の日本人はそうやすやすともう極楽を想像できないことだ。
時代はどんどん便利(楽)になっているから、
いま80歳の老人よりもたとえばいま36歳のわたしは
極楽を妄想するちからがかなり劣っていると考えてよい。
80歳の老人と比べたら妄想するちからがかなり弱くなっている。
もし極楽を空想するのが(できるのが)幸福だとしたら、
楽になったぶんだけ不幸になっているということである。
かといって、時代に逆らって意識的にわざと不便に戻るほどの天邪鬼ではない。
おおむかしのインドにおける浄土を説いた阿弥陀経を読んで、
いまの極楽を思い浮かべるとしたらどのようなものになるかと思った。
もしかしたら反対に苦ばかりの世界を極楽と思うのかもしれない。
なぜなら苦が多いほど楽を意識する回数も多くなるはずだからである。
もしそうならば、いま楽が少ない苦の多い人生を送っているものは、
現代人の想像する極楽浄土を生きているのかもしれない。
もちろん、いまのわたしが極楽浄土を生きている、とはさらさら言っていない。

*6年前にも読んで感想を書いていたようだ↓「浄土三部経」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1359.html

「仏説観無量寿経」(畺良耶舎訳/「浄土三部経」本願寺出版社) *再読

→大無量寿経が「本願」を説いた仏典だとかんたんに要約したら、
観無量寿経は「念仏」を説いた仏典ということになろう。
親鸞の好きだったのが大無量寿経で、
その師匠の法然の愛したのがこちら観無量寿経とのこと。
観無量寿経はフィクションの原型を描いていてとても美しい。
ストーリーがきちんとあるのも嬉しいところだ。
苦悩絶望する夫人のまえに世尊(釈迦)が現われ教えを説く。
夫人は韋提希(いだいけ)という。
なぜ絶望しているかといったら、
息子が悪人の提婆達多(だいばだった)にそそのかされ夫を殺そうとしているからだ。
これほどの不幸、悲劇があろうか。
愛する息子がおなじく愛する夫を幽閉して餓死させようとしているのだから。
いくらいさめても息子は言うことを聞かない。
なんとか食物を隠し持って夫に面会に行っていたが、それも息子にばれてしまった。
報復処置として母たる自分も密室に監禁されるありさまだ。
もう希望はない。だが、まだ夫は死んでいないのである。
こうして時間が1分1秒経過するごとに夫は死に近づいていく。
自分が腹を痛めて産んだ息子がいま父殺しになりつつあるのである。
これほどの絶望が世にあろうか。韋提希夫人は世尊に訴える。

「世尊、わたしはこれまで何の罪があって、
このような悪い子を生んだのでしょうか。
世尊もどういった因縁があって、
あのような提婆達多と親族でいらっしゃるのでしょうか。
どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。
わたしはそのような世界に生れたいと思います。
この濁りきった悪い世界にはもういたいと思いません」(P161)


この悲嘆を愚痴に過ぎないとバカにするものは、どれほど強いのだろうか?
韋提希夫人の嘆きに対し、
もっと強くなれと説教するような手合いとはお付き合いしたくない。
どうしようもないことがあることを認められないのは、
むしろ弱いからではないかとさえ思うくらいだ。現実を見つめる強さがない。
韋提希夫人にたとえば法華経を教えて、
これを唱えたらぜんぶうまくいく、なんていうのは詐欺でしょう?
実際、どうにもならない状況というのはあるわけだから。
なにをどうしても解決しないような問題はあるのである。
このとき世尊は韋提希夫人に法華経を教えたりはしない。
慈悲をもって現実とは異なる仏の世界をいろいろ見せてあげる。
現実に絶望しきった韋提希夫人は、阿弥陀仏の極楽世界のもとに生れたいと願う。
このような過程を経て、
世尊が極楽世界への往生の仕方をあれこれ教えるのが観無量寿経である。

これを現実否定だと見る向きもあるかもしれない。
現実から逃げるな、と叱りつける。
しかし、じゃあ、絶望する苦悩者はどうすればいいのかと逆に問いたい。
どんな困難も自力で切り開けるというのは事実ではなく信仰(嘘)である。
それに現実以外の世界を夢見ることがどうして逃避と決めつけられようか。
韋提希武人は絶望に対してなお、意志を示しているのである。
いわく、現実を超越したい。
どうしようもない現実に対して、
なおも人間はそれを乗り越えることが不可能ではないことを
観無量寿経は説いているのではないか。
なんによってか。想像力である、願いのちからだ。フィクションのちからだ。

極楽世界を見る方法として最初に世尊が教えてくれるのが夕日である。
目が見えるものはまず実際に日没の光景を見るがよろしい。
赤き落日を目に焼きつけよ。この世の美しさを知れ。何度も何度も思い返せ。
世尊はいきなりフィクションに飛んだりはしないのである。
まずは西日を見てみようというのがいい。浄土は西方にあり。
この世からスタートしているのだ。
あたかもこの世界にも割合いいところもあるのではないかと言っているかのようだ。
以下、延々と極楽世界の観想手段が論じられるのだが、
まあよほどの暇人しかできないだろう。
最後に世尊は、人間における上下を持ち出す。
世尊は人間の平等を説いたなどと信じたいものが一部にいるようだが、
観無量寿経を読むかぎり人間はみなおなじではない。
わたしなどは常識だと思うのだが、上等な人間と下等な人間がいると世尊は説く。
その最下等な人間に世尊のすすめている極楽世界への往生方法が口誦念仏である。
とりあえず南無阿弥陀仏と言ってみろ。
実のところ、このあたりはいくばくか
本願寺教団の意訳が入っていそうだが、学者ではないので問題にはしない。
とにかく世尊はこれならばどんな下等でいやしく怠惰な人間でもすることができると説く。
このあたりの記述から、
シナの善導や日本の法然が万民救済を思いついたのは言うまでもない。
万民救済は平等だが、その前提となった考え方はまこと不平等なところに注意したい。
観無量寿経を創作したのは、きわめて差別の激しいインドに生きる仏教者なのである。

こうして見てくると、念仏はフィクションの原初形式だとおわかりいただけよう。
むかしは映画やテレビ、漫画どころか小説もなかったのである。
どうしようもない現実しかなかった。
この現実を乗り越えるには欲望を消すしかない、というのが人間世尊の教えだ。
韋提希夫人だって夫や息子への執着を消せばいいだけの話なのである。
しかし、どうしても愛着(欲望)が消せない人はどうしたらいいのだ?
この問いに正面から向き合ったものが観無量寿経を創作したのだろう。
わたしはその人物を世尊よりも偉大だと思う。
彼はこの世ならぬものを想像(妄想)することで人は救われることを知っていた。
おそらく、彼は(彼女ではないだろう)世尊よりも人生の辛酸を味わっていたはずである。

「仏説無量寿経」(康僧鎧訳/「浄土三部経」本願寺出版社) *再読

→浄土三部経は、浄土宗、浄土真宗が根本経典とするもので、
大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の3つのことをいう。
それぞれ説く内容を簡潔にまとめるならば、
本願(大無量寿経)、念仏(観無量寿経)、浄土(阿弥陀経)となるだろう。

さて、本願を説いたのが浄土三部でもっとも長い大無量寿経である。
この仏典のキモは以下であろう。

「わたしは誓う、仏になるときは、必ずこの願(がん)を果しとげ、
生死(しょうじ)の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう」


もちろん、大無量寿経は釈迦の真説ではなく、後世の人が創作したものである。
言うなれば、フィクションである。
このフィクションの核になったのは、ここである。
だから、この誓いは文意では法蔵菩薩のものなのだが、
「わたしは誓う」と宣言したこの「わたし」は、
まさにみなさんやわたしとまったくおなじ人間だと思うとき、
虚構(嘘)や真実(本当)といった区別を超えて人間を揺り動かすものがあるのだと思う。
人間は汚らしいもんで悪念や邪念のとりこだが、
しかし同時に「仏になる」などという大きな目標を持つものなのである。
大無量寿経では多くの「願(がん)」が説かれているが、
ひとつに要約したらこうなるだろう。

「わたしは哀れみの心をもって、すべての人々を救いたい。
さまざまな国からわたしの国に生れたいと思うものは、
みな喜びに満ちた清らかな心となり、
わたしの国に生れたら、みな快く安らかにさせよう」(P20)


すべての人々を救いたい! みなに喜びを与えたい!
そんなわたしの国を作りたい!
法然も親鸞も、この心をもってして、念仏というものを考えついたのである。
そして、どんなに悪ぶった人の心中にもおなじような気持があるのではないか。
仏典なんてものは絵空事だが、核となる願いは普遍なのだろう。
この願いを信じようというのが、浄土教全般に通底する基本姿勢だ。
人間の救いたい、救われたいという願いを重んじるのが浄土教なのである。

「この世(願い)→仏の国(救い)」

仏になりたいと誓ったわたし=法蔵菩薩はどうなったか?
釈迦が弟子の阿難に仰せになるところでは――。

「法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏になって、現に西方においでになる。
その仏の国はここから十万奥の国々を過ぎたところにあって、
名を安楽という」(P47)


大無量寿経は1/3で結論が出てしまうのである。
たぶん内容としてはここで終わってもいっさい問題はなかったはずである。
内容は、仏になると誓った人間がいて、この世ならぬ「仏の国」ができた。
人間がいま生きているところの世界を完全に否定しえた瞬間である。
釈迦でもできなかったことを、釈迦の名において大無量寿経作者はしたのである。
釈迦の教えでは修行が必要なため、残念ながらすべての人々を救うことはできない。
だから、別の人が仏になって、さらに「仏の国」を作ったのである。
どんなにいまここで生きているのが辛くても、いまここを超越した「仏の国」がある!
人間はこの世で苦しむ存在というだけではない。
人はこの世ならぬ世界、つまり「仏の国」を思うことができる。
いまここにありはしない「仏の国」を思うこと、それが救いである。
これが大無量寿経に込められた、
すべての苦しむ人間を救いたいという願いの実現である。

「いまここ(苦)→(願い=嘘=妄想)→仏の国(楽)」

以下、この世における苦しみの詳細が延々と書き綴られている。
この世の苦しみを強調すればするほど、
「仏の国」を願う気持が強まるからこれでいいのだろう。
三世因果説をしつこいほど繰り返しているのが、宿命思想が好きなわたしには心地いい。
逐一、紹介したいと思う。
これは仏典に書いてある真実だから、批判は受けつけない(笑)。

☆(過去世)悪い行い→(現世)貧乏人
☆(過去世)強欲、ケチ、人に施さない→(現世)貧乏人
☆(過去世)功徳を積む→(現世)王様
☆(過去世)慈悲、人助け、人と争わない→(現世)王様
☆(過去世)善い行い→(現世)美人、イケメン、尊敬される
☆(過去世)功徳を積む(現世)美しい衣服、すばらしい食事(以上P64~66)
☆(過去世)五逆十悪→(現世)貧乏人、被差別者、孤児、友人ゼロ、孤独死
☆(過去世)五逆十悪→(現世)不具、片輪、きちがい、白痴、低学歴
☆(過去世)人を慈しむ、親孝行→(現世)高い身分、裕福、高学歴(以上P112~113)


みんな過去世のせい!

まだわからない方がいそうなので本文を読んでもらおう。

「あるものはこの世で難病をわずらい、死にたいと思っても死ぬことができず、
生きたいと思っても生きることができないで、
罪の報いを世の人々の前にさらすのである」(P130)


本願寺教団の現代語訳は穏便で不満だったから、ここが痛快だった!
罪の報いを世の人々の前にさらすのである!
罪の報いを世の人々の前にさらすのである!
罪の報いを世の人々の前にさらすのである!
重要なところなので3回繰り返したが、まだ足らないかもしれない。
もしあなたが不幸だとしたら、それは罪の報いを世の人々の前にさらしているのだ。
ならば、あなたがかりに不幸だとしても、いっさいいまのあなたに責任はない。
あなたが低学歴なのはいまのあなたのせいではない。
あなたが貧乏なのはいまのあなたのせいではない。
あなたがブスやブサイクなのはいまのあなたのせいではない。
あなたが出世(成功)できないのはいまのあなたのせいではない。
これは究極の救いではないかと思う。
さらに大無量寿経は我われを救ってくださるのである。
法然や親鸞が注目したのも内容的にはここになろう。
以下の引用文が大無量寿経の救済の根本である。
おっと、そのまえに苦しみの正体を明かしておこう。まずは苦しみの実相からだ。

「人は世間の情にとらわれて生活しているが、
結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。
すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていく」(P99)


☆(過去世)→独り生れ(善い行い)独り死ぬ→(未来世)楽しい世界
☆(過去世)→独り生れ(悪い行い)独り死ぬ→(未来世)苦しい世界


善悪と苦楽にもてあそばれる人間の救いはどこにあるのか?
大無量寿経および浄土信仰の急所はここだ!

「一生涯、努め励み苦しんだとしても、それもほんのしばらくの間であって、
後には無量寿仏の国に生れてきわまりない楽しみを受けるのである」(P109)


どんなに現世が苦しくとも、後には無量寿仏の国で永遠に楽しめる!
GWや夏休みに海外旅行の予約をしていたら、どんな辛い仕事も耐えられる。
むしろ、海外でどんな楽しいことがあるのか想像したら、
率先して骨折りな仕事をやりたくなってこないか。
人が嫌がる仕事でも長期休暇のことを考えたら、まあやってみるかとなる。
そして、「仏の国」はどこのレジャー地よりもはるかに楽しいのである。
しかも、この長期休暇には終わりがない。
もうこの辛抱だらけの娑婆(しゃば)に帰ってくる必要がないのである。
もちろん、どうしてももう一度苦しみたかったら帰してくれると思う。
この長期海外旅行(「仏の国」)は永遠というほどの期間である。
ならば、この世のわずか長くても百年くらい大したことがないではないか。
以上が親鸞の愛した大無量寿経の内容だ。

「大無量寿経=無期限極楽旅行の予約券!」

*赤字が多いため書き手が狂ったかのように見えるかもしれませんね。すんません。

「改邪鈔」(覚如/石田瑞麿訳/平凡社東洋文庫)

→「口伝鈔」を書いたもののまったく世間から認められなかった覚如が、
「口伝鈔」から6年後に書いたのが「改邪鈔」である。
邪を改めるって、おまえ、親鸞の曾孫ってだけで、どうしてそんな偉そうなんだよ?
しかも、このとき覚如は68歳だとか。
とにかく出世欲、名誉欲、金銭欲のかたまりで、
にもかかわらずまったく報われなかった老人が憤怒の形相で邪を改めるのである(笑)。
他宗の悪口がこれでもかと書かれている。
おれが悪いんじゃない、悪いのはおまえらだ! と覚如68歳はシャウトしている。
親鸞の血統はやばすぎるんじゃないのか、おい。

のっけから当時大流行していた踊り念仏の一遍の悪口である。
根拠も書かずに、あいつらは後世者(ごせしゃ)ぶりをしているのが
気に食わんと覚如老人はたいへんなご立腹である。
覚如にとっては親鸞に逆らうものはみんな邪宗なのである。
そして、だれがいちばん親鸞を知っているかといったら曾孫の自分のほかにいようか!
おれがダメというものは、親鸞聖人がダメ出ししたのとおなじことだと知れ!
売れているもの(一遍の時宗)への嫉妬をまるで隠さないところがすばらしい。
史実を書くと、たしかにこの時代は一遍踊り念仏の大勝利だったが、
8世の蓮如がまさに覚如の恨みを晴らすべく時宗をほぼ壊滅状態に追い込んでいる。
すなわち、時宗メンバーのほとんどを浄土真宗に改宗させている。

禅の悪口も書いている。禅は当時、仏心宗とも呼ばれていた。
心のなかに浄土があるというのが禅の考え方らしく、
一休禅師も「自心の外に浄土なし」と書いている。
まあ、わたしなんかどっちでもいいと思うけれど、
お偉い親鸞の曾孫さんは自分の考え以外はひとつとして許せないようだ。
このへんの批判は読んでみればわかるが、もうめちゃくちゃである。
「わが心の中の浄土」などあるのは聖人で、
浄土門は愚かな人のための教えだから、わが身に阿弥陀仏はない。
その後いきなり竜樹を引用して、
「竜樹菩薩の判定にどうしてあやまりのあるはずがあろうか」と恫喝する。
ほとんどヤクザの親分のような物言いなのである。
おそらく、覚如は人の身でありながら自分を絶対者かなにかと錯覚したのであろう。

そうそう、禅の話をしたついでに覚如の説く「自力、他力」を紹介する。
これは「口伝鈔」に書いてあった話だが、まあ許してくだされ。
自力は、夜が明けてから太陽が出ること。
他力は、太陽が出てから夜が明けること。
禅のバカどもは夜の闇をなんとかしようと迷っているが、愚かなことよ。
うちら他力の浄土門は、太陽(阿弥陀仏)が出るから夜が明けるんだ。
いくら自力で夜の闇をどうにかしようと思っても禅のみなさん、難しいでしょ?
――最初はなんだかすごい真理を教えられたような気がしたものである。
しかし、太陽が出る理由を覚如から聞いてずっこけた。
前世での善根があるから太陽が出て夜が明けるというというのである。
あれ? 自力の人たちも修行していたら、いつか太陽が出るんじゃない?
他力でも自力でも、待っていたら太陽(阿弥陀仏)が出るわけだから、
だとしたら前世はあまり関係ないような気がするのだが。

「改邪鈔」最後は恨み節の爆発だ。
うちが正統なんだ。なぜならうちの寺には親鸞の墓があるからだ。
おまえらは恩知らずだぞ。だれのおかげでいま念仏をしてるんだ?
それは慢心というのだよ。おまえらは悪魔みたいなもんだ。
思い上がるのもいいかげんにしろよ!
――とどう見ても慢心の極みで思い上がった覚如が、
まるで悪魔のような呪いの文句を吐き散らすのである。
いやあ、人間って黒いもんですな~と微苦笑したものである。
最後に本書の内容を一行でまとめておこう。

「親鸞の曾孫であるおれは絶対正義だから、
おまえら邪をなんとしてでも打ち砕く!」