「人生の読本」(山口瞳・選/集英社文庫)絶版

→サラリーマン小説を集めたもの。裏表紙によると――。
「個人と組織の狭間で歪み苦悩する生活者の文学をテーマに、
傑作アンソロジー十三本を収録」。昭和56年刊。
だらだら感想を書き連ねると、
この機会にはじめて庄野潤三の「プールサイド小景」を読んだけれど、
むかしはこれで芥川賞なのかといろいろな意味でうなった。
開高健の「パニック」だけあまりにもつまらないので最後まで読めなかった。
芸術院賞を受賞した永井龍男の「一個」は、
こんなものをだれが褒めるのだろうと
作者の持っていたであろう黒い権力に恐れをなす。
いまはすっかり忘れ去られたけれど源氏鶏太の小説はうまい。この人いいな。
かといってさすがに全集を買うほど、この大衆作家に賭けられないけれど。
城山三郎もサラリーマンの悲哀を実にうまく描いている。筋運びもすばらしい。
阿部牧郎さん(まだご存命らしいので)の小説はエロくていい。
こういう官能性はいいな。ご縁があったらこの人のエロ短編をもっと読みたい。
なんといっても井上靖がいちばんいい。
解説の対談で山口瞳が「社長、重役らのトップ層が書ける」のは井上靖だけ、
みたいなことを言っていたが、まったくそうである。
井上靖の小説「満月」から印象に残った一文を引く。

「人間金ができると、権力や地位が欲しくなり、その次が女で、
女にも不自由しなくなると最後は名誉と勲章だな。
大高社長ぐらいの人でもやたらに勲章をほしがったからな」(P157)


選者・山口瞳の「シバザクラ」も意地が悪くてトラウマになりそうな小説だ。
山口瞳という人は本当に意地が悪い、つまりいい小説家だったのだろう。
「シバザクラ」のモデルはだれなんだろう?
会社勤めの経験がない人の世間知らずぶりをさんざん先輩社会人気取りで揶揄(やゆ)する。
この意地の悪さにはただならぬものがある。
山口瞳は会社員時代にいじめられた経験を執念深くずっと忘れなかったのだろう。
たぶん、作家になってからその仕返しに同業者をいびったことも多々あったのではないか。
だから、いまもって石原慎太郎のような人からぼろくそに言われるのである。
いまはもう山口瞳が男か女かも知らぬ人ばかりだろうから、
女嫌いの作家の短編小説「シバザクラ」から一部を抜粋する。

「私も世間知らずだった。
気質的には西藤と私はそっくり同じだったといってもよい。
しかし、私は十九歳のときからサラリーマン生活を続けていた。
私も西藤に似た失敗を重ねてきたのだ。
叱られてイジメられて唇を噛んで暮してきたのだ。
生意気だといわれ、思いあがりといわれた。
いつのまにか、二人の間の距離が広がっていったのである。
家のこと、育ちのこともあるだろう。
西藤は学生のときから小説家としての名が出てしまった」(P230)


いろいろな方面への深い怨念がじっとりしみ込んだ文章である。
かつての上司への恨み、家や育ちへの恨み、
学生のときに早々と作家デビューしたものへの恨み。
コンプレックスが強い作家ほど、うまくいくと多数派の支持を得るのだろう。
なんだかんだいって、みんなが持っているのがコンプレックスなのだから。
容貌へのコンプレックス、学歴コンプレックス、収入コンプレックス。
幸福になりたかったら人と自分を比べないのがいちばんいいのだが、
他人と自分を丹念に比較して恨みを育てていくと時にそこから花が咲くのだろう。

「脚本を書こう!」(原田佳夏/青弓社)

→どうして脚本ってほとんど実績のないような人ほど教えたがるの?
どうして脚本家(志望)ってみんな文章がよろしくないの?
どうして高卒の人ほど人にものを教えるポジションに立ちたがるの?
どうして? どうして? ねえねえ、どうして?
まあ、脚本家なんてものは
芸能界に強く惹かれるけれどもとても入れないような容貌の人が、
スイーツな脳でピッカピカの世界を妄想しながらあこがれる最底辺の文筆業なのだろう。
脚本家志望は、芸能界という夜の光(誘蛾灯)に吸い寄せられてくる虫のようなもの。
おかしなスクールの宣伝にだまされて「飛んで火に入る夏の虫」にならぬよう、
みなさまもご注意ください。
しかし、ろくな実績もないのに先生になりたがる人って、なんでこんなに多いんだろう。

「ノッティングヒルの恋人」(リチャード・カーティス/照井しずか・荒川良訳/愛育社)

→映画シナリオ。映画というのは大衆の夢を描くものだというのはわかるけれど、
これほどまあ、あからさまにやられてしまうとけなすこともできないじゃないか。
冒頭に脚本家の序文があるが、実に通俗的な男だよね。
いつか有名美人映画女優と会食したいという夢から始まったと書いている。
この映画のストーリーは、しがない書店主人とハリウッド映画スターが恋をする。
会食のみならず「寝る(sleep with)」わけである。
男の願望そのままと言ってよいが、
自分にはどこかだれにも負けない魅力があると錯覚しているのが女らしいから、
女の観客も美人女優に自身を同化させて無名人とのラブストーリーに酔うのであろう。
これはもう視覚によるところが圧倒的に大きいため、
字面でこの映画のよさはあまりわからないのだろう。
とはいえ、セリフもなかなかのものなのである。
どうやら西洋では店員は日本のようにマニュアル通りには話さないみたいだ。
ホテルの職員が、変な電話にとんちを利かせた返答をするところなどとてもいい。
日本のシナリオでやったら不自然になってしまうのだろうが。
余裕を持った西洋人のユーモアは(シナリオでも実生活でも)我われ日本人は真似できない。
女優の下半身の噂話でゲスな男どもが盛り上がっているところに、
当の美人女優が登場して啖呵(たんか)を切るシーンも実にいい。

"I'm sure your dicks are all the size of peanuts."(P106)

「あなたの息子がピーナッツくらいのサイズだってこともわかっているわ」(P107)


もちろんハッピーエンドなのだが、そのまえに人生はうまくいかないということを
象徴させるように、仲間のレストランが閉店したり、
仲間が失職したりする現実を描いているのもよくできている。
このときレストラン経営に失敗したトニーにかける仲間の言葉がいい。
我われ日本人なら励ますところだろうが、向こうではそうではないのである。
実際に見てみよう。このセリフがいちばんよかった。
女性は失敗したトニーに声をかける。

"I just want to say to Tony ――― don't take it personally.
The more I think about things, the more I see no rhyme or reason in life
――― no one knows why some things work out, and some things don't
――― why some of us get lucky ――― and some of us..."(P164)

「私はトニーに言いたいわ――気を悪くしないでね。
物事について考えれば考えるほど、人生は不合理だということが分かるわ――
うまくいくこともあれば、いかないこともあるけど、その理由は誰も分からない
――私たちの誰かが幸運に恵まれ、また誰かは……」(P165)


失敗した人に「もっとがんばれ!」とか励まさない文化っていいよな。
さて、ラストはまえにも書いたが、
平凡な書店主人とハリウッド美人女優が結ばれるわけである。
普遍的な男の夢を描いていると言うことができよう。
最後にどうでもいいわたしの話をすると、この夢にうまく乗っかれなかった。
正直、いまの日本の女優さんでそういう夢をいだける人がいないような気がして。
そりゃあ、みんな信じられないくらい美人ばかりだけど。
美人すぎるんだよな。変なことを言うと、
重い宿業を背負ったような薄幸っぽい女優が好きなのかもしれない(苦笑)。
くだらないボクばなし失礼しました!

「わたしの川口物語」(永瀬洋治/求龍堂)

→埼玉県の川口を舞台にした映画「キューポラのある街」への偏愛から、
ご近所さんでもある川口市に興味を持ち本書を読む。
著者は長年川口市長を務めた人だそうだ。
リタイア後の暇つぶしに書かれたものだろう。
著者にもう権力はなさそうだから本音を書いてしまうと、
たくさん配っただろうけれども、日本中に読んだ人は百人もいないのではないか。
しろうとの書いた本の読みにくさは読むまえから覚悟していたので、
あえて強調するようなことはしません。
やはりどんな本でも人の胸を打つところがあり、
著者が姉を20歳で、妹を13歳で亡くした記憶を書いた箇所はずしんとこたえた。
戦後すぐの時代は成人するかしないかで死ぬ人も大勢いたのである。
また、そういう時代だから、映画も文学も活気があったのだろう。
トンカツ程度が最大級のご馳走だった時代があるとは、いまからは信じられない。

話は飛ぶが、どうして選挙に出るときは、
みんなから推薦されるので仕方なくというポーズを我われは好むのだろう。
名誉欲や権力欲ではなく、自分はそのつもりではなかったが、
周囲があまりにも強く推薦するのでやむをえず出馬したんだ、みたいな(笑)。
政治には裏があるから著者もいろいろ川口の黒さを知っているのだろうが、
権力者のまま引退したためか、暴露はいっさいなかった。
読むまえに「どうせ」と思っていたよりもはるかに自慢話が少ないのはよかった。
川口は最近好きになってよく行く。
元市長さんのご苦労に敬意を表して(いらないでしょうが)星五つの評価を差し上げます。

「キューポラのある街」(浦山桐郎・今村昌平/雑誌「シナリオ」1969年10月号) *再読

→映画シナリオ。なんでこんなにこの作品が好きなのだろう。
とにかく好きなのである。
プラスというものは、マイナスがあふれていないと描けないのだと思う。
この作品の背景にあるのは、貧乏、アル中の親父、朝鮮戦争、悪ガキ、牛乳泥棒。
マイナスの豊かさにあふれているのである。
またマイナスがないと美しいプラスも描けないことがよくわかる。
しかし、時代はどんどんプラスを指向していくわけで、現代もこの先も、
たぶんもう絶対に「キューポラのある街」のような名作を作り出せないのである。
もちろん、マイナスの時代を舞台したアニメ「コクリコ坂から」のような傑作は、
可能性としてこれからもありうるのだけれども。
しかし、あれはアニメだからできたわけで実写では嘘くさくてできない。
だから、もう「キューポラのある街」のような名作は出てこないのではないか。

いや、そんなことはない。新たな物語の可能性もきっとあるのだと思いたいけれど。
たとえば、小説の話をすると、マイナスの時代の美しさを描いたのは宮本輝氏だ。
いくら天才の氏でも、近作「三千枚の金貨」では現代を舞台にしていないのである。
マイナスの時代を語り起こすという形式になっている。
エリートサラリーマンがむかしの苦労人の物語を知るという話だ。
いまはプラスばかりだから美しい話が描けないような気がするのだが。
もう可能性はアニメや時代劇にしか残っていないのではないかとさえ思う。
まあ、マイナスの豊かさをかえりみる、なんちゅうのは贅沢の極みなのである。
この映画が上映された時代に、「あなたたちは恵まれている」
なんて貧乏人の観客に言ったら殴り飛ばされてもおかしくないわけで。

姉弟の会話を抜粋する。姉は中3、悪ガキの弟は小5である。

弟「姉ちゃんも苦労するよな、こんな弟もってさ」
姉「何いってんの」
弟「そう思うよ俺、それに高校だって行けやしないだろ、
 赤ン坊は生まれるし父ちゃんは臨時の仕事ばっかりだしさ」
姉「あたし高校行くよ、どんなことがあっても、
 父ちゃんもそのうち何かあるわよ、希望もっていかなきゃ」(P109)


この姉弟のアル中の(たぶん中卒)親父がいいのである。
高校まで行きたいという小学生の息子に向かって名ゼリフを吐くのだ。

父「いいか、ダボハゼの子はダボハゼだ、
 中学出たらみんな働くんだ、鋳物屋で」(P115)


希望というのはマイナスにあふれていると出てくるものなのかもしれない。
いま貧乏は貧困と呼ばれ、貧乏は希望を生み出したけれど、
貧困は笑いの対象にしかならないような気がする(「苦役列車」)。
もう上昇の物語は描き尽くされてしまった感がある。
時代としては下降の物語が必要とされているのかもしれないが、
そんなものが多数派の支持を受けるかどうか世に問われるまえに、
いまは事前マーケティングでつぶされてしまう時代だから。
そっか、いま求められているのは下降の物語なのかもしれない。
もう少子高齢化でこの先、
日本がよくなるなんて本心ではほとんどだれも思っていないのだから。

「あらすじとイラストでわかる 道をひらき、幸せを導く ニーチェの言葉」(イースト・プレス)

→チープな本だか、思いのほか、というか、
思った以上にニーチェの言葉がよかった。
ページ右にニーチェの言葉、左にその名言を解説したつもりの、
まったくニーチェの発言とは関係ないくだらぬ処世訓や成功哲学がつづられている。
人生にまあ外見上は失敗したと言ってもよいニーチェの言葉を習って、
いったいだれが成功できる、あるいは幸福になれるなどと愚かにも考えるのか。
ニーチェの言葉なんか参考にしたら人生が狂う人のほうがはるかに多いはずだ。
このための左の解説なのだろう。とにかくありきたりな処世訓にまとめている。
左はひどかったが、右のニーチェの言葉は本当によかった。
とはいえ、この年になって全集を買い込んだりする気はないけれど。
これを読んだころ、毎日般若心経を唱えていたのだが、
ニーチェは実のところ般若心経とおなじことを言っていると思ったものである。
こんなチープな本を読んだくらいで、ニーチェがどうのと語るのは恥ずかしいのだが。
それ以前に、いまどきニーチェもないだろう。
いい年のおっさんがニーチェもないだろう、
というこそばゆさも当たり前のようにあるのではあるが。
ニーチェの教えを簡潔にまとめると以下のようになると思う。

ニーチェ「神は死んだ」
1「絶対的真理はない」
2「物事は解釈しだい」
3「(解釈する主体の)自分を愛そう」
4「群れるのはやめよう」
5「しかし、人はいいものだ」


以下、だらだら引用するが本当に心に響いたいい言葉ばかりなのである。
折りにふれて自分で読み返すために引用したいのだ。

1「絶対的真理はない」

「これが真理だということを、情熱の熱さで測ってはいけない。
情熱が大きいからといって、それが真理だという証拠にはならない。
しかし、そう感じる人は多い。
また、歴史や伝統がどこよりも長いからということもまた、
真理が真理であることの論拠には決してならない。
そのようなことを強く主張する人は、
場合によっては歴史を偽造したりすることがあるから要注意だ」(P98)


一般に真理とみなされていることは、ふたつの理由によるところが大きい。
ひとつは、声が大きいことである。
何度も大声で繰り返されたことが、かなりの場合、当面の真理として通用している。
言い争いになったとき、正しい(真理)とされるのは声の大きなやつだ。
ほとんど狂気にも近い情熱をもって訴えられたものが真理になってしまう。
それから歴史や伝統もまた(本当は存在せぬ)真理を偽装する。
偉い人の発言は一般に真理と思われるが、その根拠は歴史や伝統でしかない。
歴史と伝統のある○○大学教授の言うことだから正しい(真理)とみなされる。
親が有名人(=歴史・伝統)の子の言うことも正しいとされることが多い。
しかし、声の大きさ(情熱)や歴史伝統は見せかけの真理を演出しているだけで、
実のところ絶対的真理はこの世には存在しない。
繰り返しになるが、絶対的真理はない。ならば――。

「若い頃に心ひかれるものは、
目新しいもの、面白いもの、風変わりなものが多い。
そしてそれが本物か偽物かなど気にしないのがふつうだ。
人がもう少し成熟してくると、本物や真理の興味深い点を愛するようになる。
さらに円熟してくると、若い頃に単純だとか退屈だとか思って
興味のわかなかった深みを、好むようになる。
真理が最高のそっけなさで語っていることを気づくようになるからだ」(P102)


「絶対的真理はない」が絶対的真理なのかもしれない。

「これこそ真実だと思っていたものが、今では間違いだったと感じるものだ。
それを自分は若かったとか、浅かったとか、世間知らずだったと
断じて葬らないほうがいい。
当時の自分にとっては、それが真実だったのだ。
人間は常に脱皮していく。常に新しくなっていく。
いつも新しい生に向かっている。以前は必要だったものが、今では必要ではない。
ただそれだけのことなのだ」(P116)


真実は唯一絶対のものではなく、自分のなかでも変わっていくものなのだろう。
欲しいものも変わっていく。
たしかにむかし欲しかったものを、いまはさして欲していないということは多い。
子どものころに欲しかったものなど、いまではすべて不必要になっている。
しかし、子どものころ欲しかったというのは真実なのである。
さて、「絶対的真理がない」とはどういうことか。
あらゆる物事はどう解釈してもいいということだ。

2「物事は解釈しだい」

「もっと喜ぼう。少しいいことがあっただけでも、いっぱい喜ぼう。
喜ぶことは気持ちいいし、体の免疫力も上昇する。
恥ずかしがることなく、我慢せず、遠慮せず、喜ぼう。
にこにこしよう。子どもみたいに喜ぼう。
そうすれば、どうでもいいことを忘れることができる。
他人への憎悪も薄くなっていく。
周りの人々も嬉しくなるほどに喜ぼう」(P158)


これがいちばん影響を受けたニーチェの言葉になる。
物事はどう解釈してもいいのなら、小さな喜びでもいっぱい喜んだほうがいい。
昨夜、買い物に出かけたとき、たまたま下で佐川急便のおねえさんに逢った。
うちに宅配便なんてめったに来ないけれども挨拶する程度の関係にはなっている。
「こんばんは」と挨拶をしたら、「土屋さん、ありますよ」と声をかけてくれた。
そこで荷物を手渡しでもらったのだが、えらく嬉しかったな。
ああ、自分のことなんか覚えてくれていたのかと。
ほんと宅配便なんてほとんど来ないのだけれども。
こういう小さな喜びを、ヤッターと全身で喜ぶくらいしか、
つまらぬ人生をそれでも多少は意味あるものとして生きていく方法はないんじゃないか。
「小さな喜びをいっぱい喜ぼう」というのは「騙し騙し生きる」ということだと思う。
物事は解釈しだいだから、どこにライトを浴びせてもいい。
たとえば小さな喜びに大きなスポットライトを当ててもよろしい。

「「知る」という言葉がある限り、世界は知ることができる。
しかし、また別の解釈で世界を見ることもできる。
世界全体に意味はないが、意味づけは無数に可能である。
これが「遠近的思考法」だ」(P206)


物事はたしかにおのおのの解釈しだいだが、
にもかかわらず我われは既存の解釈にどうしようもなく縛られている。
物事を自由に解釈することができない。
すぐに出来合いの思考法に毒されてしまう。
安易に悪者を作ってそれでよしとする。

「この原因からこの結果が生まれたという考え方は多い。
しかし、その原因と結果は私たちが勝手に名付けたものにすぎない。
どんな物事でも、見えていない他の要素がたくさんあるかもしれないからだ。
それを無視して、これが原因、これが結果と
結びつきを決めつけるのはあまりにも愚かだ」(P192)


だから、独創とは奇抜な行為ではない。
我われは既存の物事の解釈に縛られているが、本当に独創的な人物は――。

「奇抜なことをして注目を集めるのが、独創的な人物ではない。
それはただの目立ちたがり屋だ。
独創的とは、すでに世間のなかにあるものなのに、
まだ気づかれていないようなものに気づき、それに名前を付けてみんなに
あらためて認識してもらうことができるような人間のことだ」(P212)


どうしたら独創的な世界の解釈をすることができるようになるのか。独創――。

「読書は実り多いものだ。
なかでも古典は栄養分を豊富にたたえた果実だ。
古典を読むことで、現代から大きく遠ざかり、
また、見知らぬ世界へと誘われる。
そして現実に戻ってきたとき何が起こるかというと、
現代の全体像が、今までよりも鮮明に見えてくるのだ。
古典によって私たちは、新しい視点を得ることができ、
新しい仕方で現代にアプローチできるようになる」(P76)


独創的たれ。ニーチェは愛もまた独創であると言う。

「他人から見れば、どうしてあんな人を愛しているのだろうと思う。
特別すぐれているわけでもないし、見た目もよくないし、
性格も別によくないのに、と思うのだ。
しかし、愛する人の眼は、まったく異なるところに焦点をあてる。
愛は他の人にはまったく見えていない、
その人の美しく気高いものを見い出し、見続けているのだ(P114)


「物事は解釈しだい」なら解釈をする主体、つまり自分が重要である。
だとしたら、よき解釈のためには自分を重んじたほうがいいとなる。

3「(解釈する主体の)自分を愛そう」

「愛とは、自分とは異なる生き方をし、
自分とは異なる感性を持っている人を、理解することだ。
自分自身のなかでも同じこと。自分を愛するとは、
自分のなかにある絶対に交わらない対立や矛盾を、
対立や矛盾ゆえに楽しむということなのだ」(P180)


自分の内部においてさえ、絶対的真理のようなものはなく、
常に考えの対立や矛盾を持っているのが人間なのだというニーチェの見方だ。
内部の対立や矛盾に耐えられなくなると我われは他人まかせになってしまう。
自分でなく他人に真理のようなものを求めてしまう。
どうして自分をもっと見ようとしないのだろうか。

「多くの方法論の本を読んでも、
成功者や有名人のやり方を学んだところで、
自分のやり方がわからないのは当然のことだ。
薬一つとっても体質に合う合わないがある。
人のやり方が自分にもあてはまることのほうが少ない。
問題は、なぜ自分がそれを望むのか、それをやりたいのか、
その道を歩みたいのかについて深く考えていないことに尽きる。
そこをしっかりつかんでいないのだ」(P52)


自分を見つめるのが辛くなった人は、有名人の講演会に行って
みんなと一緒に他人の方法論を知り満足して賢くなったような気分で帰宅する。
どうしてもっと自分を愛さないのだろう?
自分などだれも愛してくれないこと気づいたら、
せめて自分くらい自分を愛してあげなければならないことを悟るのだろうけれど。
なぜ自分を愛するのかと言ったら、だれも自分なんて愛してくれないからだ。
以下のニーチェの言葉はまったく本当にそうだなと深々と納得した。

「最大のうぬぼれとは何か。
愛されたいという欲求だ。
そこには自分は愛される価値があるという主張がある。
そういう人は、自分を特別な存在だと思い込み過ぎている。
自分だけは特別に評価される資格があると思っているのだ」(P106)


ニヒリズムの極地のようだが、しかしこれは真実としか言いようがない。
自分は愛される価値があると思うのは、最大の錯誤だと思う。
このことに深々と気づいたときに、せめて自分くらいは愛してやろうと思うのだろう。
だとしたら、自己愛はほとんど諦観(ていかん)である。
しかし、自己の愛し方をわからぬ人はどうするか。

4「群れるのはやめよう」

「いつも誰か仲間と一緒にいないと不安なのは、
自分が危険な状態になっているという証拠だ。
本当の自分を探すために、誰かを求める。なぜそうなるのか。
孤独だからだ。なぜ孤独なのだろうか。
自分自身を愛することが上手にできていないからだ」(P128)


自分自身をうまく愛せないから孤独なのだ……。
うまく自分を愛せたら、誰かを求めなくてもよい。仲間と群れなくてよい。

「自分の人生を安易に、安楽に過ごしていきたいのなら、
常に群れてやまない人々の中に混じるがいい。
そして、いつも群衆のなかにまぎれ込んで、
自分というものを忘れ去って生きていくがいい」(P136)


ものすごい皮肉にこちらも皮肉で返すと、
わたしも含めて大半の人がニーチェのような超人ではないのだから、
なるべく自己を滅して多数派についたほうがいいのかもしれない。
この部分を読んで若者は、自分は群れないぞと思うのだろうが、
人はそんなに強くはない。
自分が強いと勘違いできるのは若いうちだけである。
果たしてニーチェその人もそれほど強かったのだろうか?

5「しかし、人はいいものだ」

「一緒に黙っていられることは素敵だ。
そして、一緒に笑っていられるのはもっといい。
一緒にいて、同じ体験をし、ともに感動し、泣いて、笑って、
同じ時間を生きていくのは、とても素晴らしい」(P160)


これは山田太一ドラマの世界である。
かの作家のシナリオには「二人、笑ってしまう」のト書きが頻出する。
「二人、泣いてしまう」も「――、――(=両者、黙ったままでいる)」もそうだ。
孤独なのは自分の愛し方が下手なのだとわかっていながら、
それでもだれかと一緒にいるのはいい。二人で笑えたらもっといい。

最後にもう一度要点を整理する。

ニーチェ「神は死んだ」
1「絶対的真理はない」=真理は情熱や歴史・伝統の偽装だ!
2「物事は解釈しだい」=いろいろなサングラスで世界を見よう!
3「(解釈する主体の)自分を愛そう」=他人は自分を愛してくれないぞ!
4「群れるのはやめよう」=孤独なのは自分の愛し方が下手だからだ!
5「しかし、人はいいものだ」=だれかと一緒にいるのはいい!

「愛する言葉」(岡本太郎・岡本敏子/イースト・プレス)

→結局、男は女しだいで、女は男しだいなんだろうな。
皮肉屋だから岡本夫婦をバカップルと評したい気持がなくもないが、
それでもしかし、この男女は本物だったのだと思う。
男はこういう女を欲する。

「僕が秘書の平野君(岡本敏子)にもっているのは絶対的な信頼だな。
相手がすべてを捨てて、こっちに全身でぶつかってくると、
それにやはり全身でこたえる」(P52)


全身でぶつかってきてくれる女性ほどありがたいものはない。
そのとき、女のほうはどう思っていたのか。

「男が自分を縛って、いじいじと小さくなってしまうくらいなら、
女が半分背負いたい。少々無鉄砲で、先の見えないことに飛び込む男でも、
世間では無視して認めてくれないようなことに熱中する男でも、
やりたいことがあって、眼の光っている男の方がいい」(P73)


いまで言えば漫画家サイバラとカモちゃんはこのような夫婦だったのだろう。
どうしたらこういう男女がめぐりあえるんだろうか。
悪くないなと思う。
かつて岡本太郎・敏子のような夫婦がいたことを知るのは悪くない。
サイバラとカモちゃんのような夫婦がいたことに思いをはせるのはいいものだ。

「バカの正体」(テリー伊藤/角川oneテーマ21)

→当たり障りのない程度の毒舌めいたエッセイだが、これをどう評すべきなのか。
もし同内容をパンピー(一般人)が言っていたらだれも耳を傾けないと思う。
しかし、もしこの著書がビートたけしの名で出されていたら、
もしかしたら大ベストセラーになっていたかもしれないわけだから。
毎度のように結局は肩書という結論にいたるのは、お読みくださる方に失礼と反省。

さてさて、ほんと最近は基本どの本もほめようと思って読んでいるのである。
わがくだらぬ人生を思い返しても、けなされて育ったことなどありませんから。
この書籍をどうほめようかいま考えている。

「相手を否定してばかりいたって、そこには何も生まれない。
あるときから日本人は一億評論家になった。だれもが批判の達人になった。
しかし、もはやそんなところからは何も生まれない。
人の良さを引き出すこと。人の才能を見出してあげること。
そして、人を成長させてあげること。
それをできる人間こそが、カッコいいのである」(P77)


うん、ここがとてもよかった。見習いたい。見習ったつもりです。

「美酒礼賛」(山口瞳/グルメ文庫/角川春樹事務所)

→いつだったか石原慎太郎と兄事する西村賢太の対談をユーチューブで見ていたら、
元都知事がいまさらながら山口瞳(男性作家)のことをぼろくそに言っているのである。
テレビを見ているものの大半はもう山口瞳など知らぬだろうに。
逆宣伝になってしまうかもしれないのに、どうしようもなく恨みを晴らす。
死人に口なしだから、石原慎太郎はめちゃくちゃ言っていた。
業界の先輩である山口瞳が自分に謝りに来たというのである。
それもひとりで来るのを怖がっておともをつけていたと、さんざんコケにしている。
わたしはむろん山口瞳派だが、しかし石原慎太郎の恨みもわからないでもない。
きっと山口瞳から一生忘れられないことをされたのだろう。
そういうことをやらかすのがむかしの文士であった。
怨念の果し合いを執念深く師弟にわたって繰り返す。
果たして西村賢太兄貴はどのくらいそういうことをできるか。
あの石原慎太郎が認めたわけだから、まあ好き勝手にやってほしいと思う。
山口瞳は、本書で色川武大(阿佐田哲也)を「コワイ作家」だと評している。
いわく――。

「僕は小説家の条件として、次の三点を考えている。
第一に悪人。第二に奇病の持ち主。第三に容貌魁偉(ようぼうかいい)。
しかるがゆえに色川武大は尊敬すべき小説家なのである」(P202)


もちろん、この三つの条件に山口瞳自身も十分に当てはまる。
おそらく石原慎太郎も当てはまったから山口瞳が多少かわいがったのだろう。
石原慎太郎が西村賢太兄貴をこちらは言葉の意味通りかわいがるのも、
まずこのためと見て間違いあるまい。
悪人であること。奇病の持ち主。容貌魁偉。
こういうものがあちこちの世界で多数出没して世の常識派など蹴散らしてほしいものだ。
石原慎太郎がいまになって山口瞳をおとしめるのは、
むろん嫌いで恨みがあったからなのだろうが、絶対にそれだけではないはずである。

「日本人の良識」(ひろさちや/アスキー新書)

→水月昭道氏が著書でひろ氏のことをおちょくっていたけれども(むかっ)、
やはりおなじみのひろ先生の本を読むと落ち着くな~。
でも、講演会に行きたいとは思わないんだ。
なんか見ちゃうと聞いちゃうと、いろいろショックを受けそうで。
たぶん見ないほうがいいもの、聞かないほうがいいものってあるよね。
ああ、実はわたしも数少ないブログ読者様に
もしかしたらそう思われているのかもしれないけれど。

いきなり話は変わって、ひろさんの大学院指導教授は中村元博士だとか。
ひろ先生は不肖の弟子なのか、それとも出世頭なのか。
わたしは中村元なんかよりもよほどひろさちやのほうが好きね。
そうそう、本書で仏教者のひろ氏がストリンドベリとおなじことを言っていた。
ちなみにブログ「本の山」のカテゴリーでストリンドベリを上位に置いているのは、
だれも知らない人を出したら権威になって、
もしかしたらブログ主はすごい人なのかもと勘違いしてもらうためだから(笑)。
おなじ理由で「ひろさちや」をカテゴリーに入れていない。
だって、バカに見られちゃうじゃん(笑)。
さて、スウェーデンの作家ストリンドベリとおなじことをひろ氏は言う。

「日本の社会は激烈なる競争社会になっており、
したがって地獄の様相を呈している。
誰も彼もが損得計算ばかりをし、
損をしたくない、得をしたい、という気持ちでいる。
でもね、この世の中では、誰かが得をすれば、誰かが損をするでしょう。
全員が得をするなんてことはあり得ない。
そうすると、得をしたいと思うことは、
誰かに損をさせてやりたいと思っていることなんだ」(P163)


要するに、万民の幸福なんてないってことだ。
どんないい政治をしてもかならずだれかが損をする。
どんな悪い政治がなされていても、たまたま得をする人はいる。
だからほんと政治とかに夢中になる庶民がわからない(暇つぶし?)。
政治を語る庶民というのは、かなり自分を棚に上げているわけでしょう。
景気がよくなれば、とか。
どうして自分が得をしたいと言わないで、みんながよくなればなんて顔をするのさ。
みんなが幸福になる日なんて未来永劫来ないんだぜ。
だれかが得をしたらかならずだれかが損をする。
政治方針に善悪なんてなく、ただ自分にとって得か損かという問題に帰結するだけ。
このため、なるべく家族が多いほうが、損得が分散されるからいいのかもしれない。
自分が損をしても家族が得をするなら、まあ許せなくもないからね。

「他力本願のすすめ」(水月昭道/朝日新書)

→ショックだったのは、自分がこのくらいの人にもひどく嫉妬してしまったこと。
ベストセラー「高学歴ワーキングプア」作者、定職と妻あり。浄土真宗僧侶。
ああ、いまWikipediaを見たら、
「学校法人筑紫女学園で事務員として勤務。水月昭道は筑紫女学園の創設者の孫である」
しっかりコネであることをばらされている。
結局、他力本願というのは人生は運ということなんだよね。
本書を読んで作者は親鸞思想をまったくわかっていないと(たぶん嫉妬もあり)
憤ったけれども、それでも朝日新書から本を出せるわけだから。
わたしと著者の意見が食い違ったら、肩書負けして相手が正しいことになる。
水月昭道氏の本や経歴を見るとつくづく人生は運だということがわかる。
これほど親鸞を理解していない人でもお坊さんで関係書を出せるわけで。

なーんか、うさんくさい美談が書かれていてね。
難病ALSにかかった人が人工呼吸器をつけるかどうか選択に迫られたらしい。
一度つけたら気管切開されるから二度と話せない。そして、もう外せなくなる。
で、患者さんは生に執着して人工呼吸器をつけたそうだ。
それでも、生きているってありがたいと全国を講演して回っているらしい。
これを美談として浄土真宗僧侶の著者は紹介している。
しかし、親鸞だったら早く浄土にお往きなさいと言うんじゃないかな。
そんな生きてるばかりが人生じゃないと思うけど。
このエピソードでいまの真宗の坊さんは、
念仏したら浄土に往けるなんてまったく信じていないのがよくわかった。
それにしてもなんだかな~。
弱点を武器にしろ(P120)とか、成功者はみんなこうしている(P164)とか、
まるで自己啓発本なんだよね。
きっと著者も「他力本願のすすめ」とか言いながら、
内心では自力で成功(?)したと思っているのだろう。
なんにせよ、うらやましいっす。ちぇっ。嫉妬深くてごめんよ……。

「決断なんて「1秒」あればいい」(桜井章一/ソフトバンク文庫)

→本書ではじめて知ったが、雀鬼の桜井章一氏の奥様はもしかして精神病では?
知り合いの女性に氏の奥様がおかしな電話をするらしい。
その内容が「1億円をあげる」なのだという(P42)
まあ、稼ぎに稼いでいる雀鬼だから、
そのくらい持っているだろうが、問題はそこではない。
なんとなーく、最近わかったのだけれど、どんな成功者にも弱点のようなものがある。
言い換えたらば、その弱点(不運)ゆえに運を引き寄せているようなところがある。
このへんの詳細はうまく言葉にできないのだけれど。
万事がうまくいっている人など、たぶんいないのだろう。
悩みがないと自分で悩みをつくりだしてしまうようなところが人間にはある。
さて、どうすれば運がよくなるのかいまノリノリの雀鬼に聞いてみよう。

「言い換えれば、「運」を招くには
自分の心をなるべく気分のいい状態にしておくことが大切だ。
これは君が何かを「決断」しなければならない時に確実に役立つ。
たとえば、嫌な人に遭ったりすると不快になる。
こんな時は気分が悪いから何も決めない方がいい。
逆に好きな人に会っていたり、好きなことをしていれば気分がよくなり、
いいことも起こりやすいということだ」(P161)


ほんとに好きなことをしているだけでいいのかにゃ~。

「阿佐田哲也勝負語録」(さいふうめい/サンマーク文庫)

→言葉は肩書だから、この本の出版当時みな阿佐田哲也の言葉は重んじただろうが、
さいふうめい氏の言葉には目も向けなかったはずである。
ところが、さいふうめいとは仮の名、
著者は後に大ベストセラー「人は見た目が9割」を出し、
その勢いでとんとん拍子に大学教授にまで成り上がった成功者の竹内一郎先生だ。
こうなったいまとなっては、成功者の言葉ゆえ、
さいふうめい氏の発言にも価値があるものとなる。
常勝団体、創価学会のメンバーではないが、
人生は勝つか負けるかの勝負という面を強く持っている。
負け続きの人生を送っているこちらとしてはわらにでもすがる気分で本書を読んだ。
ヒモの身から大学教授にまで成り上がったさいふうめい氏にいろいろ学びたい。
しかし、ヒモになれることさえすごい才能である。
このときは敗者だったさいふうめい氏(それでも著書を出せるのは勝利者だが)は、
おのれのことを大器晩成だと思っていたふしがうかがえる。
これは高齢失敗者がみなおちいる落とし穴でもある。
だが、氏は実際に大成功したわけだから本物の大器晩成だったわけである。

「人の運は有限、どこで使うかがポイントになる。
「大器晩成」とは、それまで運を使わなかった人のことである。
さて、物事は〝交換”によって成り立っている。
何かを得れば、得たものに見合う何かを失う。
同様に何かを失えば、代わりに何かを得ているはずだ――。
これが阿佐田哲也理論の要諦に当たる」(P27)


ああ、これまでの失敗でいったいなにを得ていると言うのだろう。
勝つ、勝つ、大きく勝つ。
なんかほんと学会員みたいだが(笑)、どうしたら大きく勝てるのか。
さいふうめい氏よりも大きく勝ちたい(しかし、勝つってなにさ?)。
ならば阿佐田哲也の言葉を参考にするべきだろう。

「大きく勝つには、大きくバランスを崩すことだ。その勇気がなかなか出ない。
どうやって、大きくダイヴィングして、破滅の穴を飛びこえるか」(P102)


冷静に考えると、大半の人間にとって大器晩成などという言葉ほど、
人生における大きな破滅の穴はないのではないか。
大器晩成とか信じるから、大きく道を踏み外してしまうのだろう。
いや、違う。飛べ、飛べ、大きく飛べ。あの大空に向かって(笑)。

「聞く力」(阿川佐和子/文春新書)

→昨年もっとも売れた本がブックオフに落ちていたので、
ネタにでもならないかと読んでみたら、いやはや参った。
世の中にはすれていない人がいるんだな~。
こういうのをひねくれていない人と好意的にと見るべきなのか、
浅い人生観に泡を食ったと正直に書くべきなのか。
世の中っていまさらながら不平等きわまりないですね。
自慢話がやたら多いけれど、読者の読みたいのは失敗話だという想像力がないのかな。
やはり単に人の悪意とあまり触れてこなかったのだろう。
相手の話を聞くこつの30に「相手のテンポを大事にする」というのがあるのだが、
「相手のチンポを大事にする」と読み間違え、間違えに気づいてひとり虚しく笑った。
これが売れに売れたってことは、世の中の人ってあんがいひねくれていないのかな。
もし本は中身よりも著者の顔や血筋のほうがたいせつだとみんなが考えているとしたら、
それはみんなのほうがおれよりもはるかにすれているぞ。

「待つ力」(春日武彦/扶桑社新書)

→ファンである精神科医の春日武彦先生の最新刊をさっそく読む。
驚いたのは、春日武彦医師がさらさら自分の人生に満足していないところだ。
あれだけ大量の著作を世に出して、経歴を見ると肩書でも出世もしている。
最近は推理小説も天下の新潮社から出版したようである。
子どもはつくらない方針らしいが、むろん奥さんはいてナースをしている。
むかし読んだ本によると休日に公園で夫婦仲良く缶ビールをのんだり幸福そうだ。
わたしなんかと比べたら百倍、千倍は恵まれているだろうに、
しかし人生にさっぱり満足していないようなのである。
いったいどれほど多くのものを人生に期待しているのだろう。
かえって成功すればするほど、もっともっとと欲が増えるものなのだろうか。
妻がいて定期収入があるくらいを人生の目標にしているものが、
きっといまは大勢いるはずだ。
もちろん、春日武彦医師もそういうことを知らないはずはないのだろうが、
人生に不満がいっぱいのようなのである。
もしかしたら、なんにもないわたしのほうがこの医師よりも幸福なのではないか、
とさえ思ってしまったくらいだ。
もしかしたら、春日武彦医師は直木賞でもほしいのだろうか。
国がくれるなんたら章を狙っているのだろうか。
老いてなお野心たっぷりの精神科医である。
春日武彦医師はなにかもっと大きな成功、名声、栄誉を待っているようなのだ。
あまりに衝撃だったので、長いが引用をお許しください。
あれほど出世した医師でもまだなにか大きな幸いを待っているのか。
つくづく人間は度し難い。

「で、わたしは運命とか偶然とか機運、巡り合わせといった
「人の力だけではどうにもならないもの」を相手に「待つ」ことを
続けねばならない場合、キューブラー・ロスの五段階に準じて
心も移り変わっていくのではないかと考えたくなる。
第一段階の《否認》は、これだけ努力したんだからきっと上手くいくさとか、
まだ機が熟していないのかもしれない等で
穏当に「不本意な気持ち」を否定して希望をつなごうとする。
第二段階の《怒り》となると、このオレが報われないなんておかしいじゃないか!
あいつばかりがいい目を見て、どうしてオレばかりが不遇なんだと
不条理感に怒りが湧いてくる。ヤケ酒を飲みつつ悪態をつきたくなる。
第三段階の《取引》となると、慢心を改めて精進しますから
少しは努力の甲斐を与えて下さいと祈りたくなってくる。
日々の生活態度を改めれば、
人生の風向きも変わってくるだろうなんて考えてみたりする。
さらに第四段階の《抑うつ》になると、気落ちして仏門にでも入りたくなる。
諦めの境地に達することもありましょう。誰にも会いたくないし、
あらゆる情報をシャットアウトして自己憐憫に耽りたくなる。
第五段階の《受容》となると、それこそ「ま、こんなもんさ」
と嘯(うそぶ)きながら手酌で酒を飲めるような境地に達するのでしょうか。
山頭火みたいな句を詠めるようになるのかもしれない
(山頭火の句がいいとはまったく思っていませんが)。
自分を顧みますと、
おおむね第二段階から第四段階の間を行きつ戻りつしていますね。
日によっていろいろですが、第二段階にあることがいちばん多い気がする。
だからいまだに中指を突き立てながら、
いい年をして轟音(ごうおん)でパンクを聴いているのでしょう。
それにしてもわたしとしては、
第五段階に達したら人生は楽になるだろうけれど、
負け犬じゃないかといった思いを拭い去れません。
平穏さを装いつつも、どこか無理をしていると見透かされるに違いない――
救われない人間とは、
そんなことをつい想像してしまう人物のことを指すのでしょう」(P139)


まとめてみる。幸福や成功を待つ五段階。
第一段階《否認》:希望をつなぐ。努力したんだから。
第二段階《怒り》:畜生、どうしてオレばかり不遇なんだ?
第三段階《取引》:お願いしますと謙虚に祈る。
第四段階《抑うつ》;だれとも逢わず自己憐憫に耽る。
第五段階《受容》:「ま、こんなもんさ」と嘯きながら手酌で酒をのむ。

やべえな。わたしはどうやら第五段階に入っている。
「ま、人生なんか、こんなもんさ」と明るく手酌で酒をのむような境地にいる。
しかし、この年までまったくプラスのことに縁がないと自然にそうなるぞ。
たしかに負け犬なんだろうが、ま、そんなもんじゃん、
あ、そっか。春日武彦医師のようになまじ出世と縁があると、
努力が報われたとか勘違いして、さらに努力を重ねて不満が募っていくだけなのか。
むしろ、一回も出世なんてもんと縁がないほうがいさぎよくあきらめることができる。
まあ、春日さん、せいぜいもがいてくださいな。

「母子寮前」(小谷野敦/文藝春秋)

→こんな小説を芥川賞候補に入れられる著者の黒い権力に思いをはせると、
本当の感想は書かないほうがいいのかもしれない。いや、書かないでおこう。
なにをされるかわからないのだから。
しかし少しだけ書くと、自分にとっての一大事を、
みんなもそう思ってくれると無邪気に信じるような幼児性は
著者とわたしの共通するところかもしれない。
自分勝手で自己正当化ばかりしているところも、
あんがい似通っているのだろう。
唯一異なるのは著者はわたしとは違って成功しているところだ。
ベストセラー出版のみならず、なんだかんだと友人も多いらしいし、
編集者にも気を遣ってもらっているようだ。
それに若い美人を嫁さんにしてしまうのだから、
著者の運のよさはいったいなんに由来するんだろう。
著者の自己中心的なところがまるで自分を見るようでムカムカしながら読了したのだが、
(たとえばむかしの女との情事は詳細に記すが、新妻との秘め事は書かない)
つくづくこの世には善因善果や悪因悪果など存在しないのだと思い知った。
本書を読んで不愉快のあまり自殺まで考えたが(あいつばかりいい思いをしやがって!)、
いま思い直したらあんな人にも幸運が舞い込むのだから、
こちらも生きていたらなにが起こるのかわからないのだろう。
次は著者自身のガン闘病記をぜひ読みたいものだ。

「黒髪の匂う女」(小谷野敦/幻冬舎)

→なーんだ「もてない男」なんてキャッチフレーズで世に出たくせに、
ずいぶんいい思いをしていやがるじゃないか。
不遇の時代にもかかわらず、
当時すでに人気学者だった有名女性文化人とあつ~くチョメチョメしたよ、
という自慢話である。
著者の私小説論からしたら、これはまあ事実らしきものになると思われる。
もちろん、書かれた相手側の女からしたらまったく事実ではないだろう。
こういうときに狂騒的な自己主張で自分の主観を事実にしてしまうのは、
どうやら著者が長い人生で身に着けてきた人生作法なのだろう。
他人にもまた事実(主観)があることを理解できない人でも、
こんないい思いをできるのかと驚いた。
いや、そういう自分勝手な男のほうが「押しが強い」とみなされ、
あんがいもてるのかもしれない。読んでいて実にいやな気分になった。

「私小説のすすめ」(小谷野敦/平凡社新書)

→私小説に対する批判はひと言で終わり、「おまえに興味がない!」に尽きる。
タレントの暴露本ならまだしも、一般人の日記みたいのをだれが読みたがるか。
ブログとかも、これを勘違いしている人が多いので本当に困る。
どうして(わたしも含め)みんなさ、
他人が自分に関心を持ってくれるとか期待しちゃうんだろう。
私小説は売れないって、そりゃあ、だれもあんたなんかに興味がないからだよ。
と言いつつも、わたしは柳美里氏の私エッセイや西村賢氏太の私小説は大好きだ。
なぜかと考えるに、あれらは嘘を書いているからである。
このことは後に再度触れるが、そのまえにまずプロフィールが重要だ。
柳さんの若いときは、ものすごい美人だと思う。
たぶん、こちらの趣味が悪いのかもしれないが(これも柳さんに失礼な物言いだ)、
あの手の暗い顔の美少女は好きなものにはたまらなくいいのである。
在日コリアンで家族に虐待されたという悲劇性もまた美少女ぶりを輝かす。
柳美里さんが林真理子女史の顔をしていたら、まず読まなかっただろう。
西村賢太兄貴も、父親が強姦で捕まっているという経歴がおもしろいのだ。
それにあの全身いんちきといった風貌もわたしの好むところである。
話は戻って、柳美里姉貴も西村賢太兄貴も嘘を書くからおもしろいのである。
かの作家たちの作品を読んで事実そのままだと思うものは、
ちょっと世間を知らないのではないか。
いや、あれらを事実起こった通りだとだまされていたほうが楽しめる、
というのも私小説のメカニズムとしてあるのではあるが。
私小説というのは本当にあったこととして嘘を書くもの。
物語小説というのは嘘だと断っておいて本当のことをこっそり書いてしまうもの。
わたしはそういう小説観を持っているけれど、
どうやら元大阪大学助教授の小谷野敦博士は異なるようである。

「あと、私小説であるからには事実に基づいているわけで、
その事柄が起こった日付などの時間的経過を、まずきちんと把握する必要がある、
人間の記憶というのはあてにならないもので、
実際には同じ日に起きた出来事を別の日のことだと思っていたり、
僅か三日の出来事を一週間くらいかかったものと思っていたりするものだ」(P151)


だから、私小説がおもしろくなるのである。
「人間の記憶というのはあてにならないもの」だから、
たとえたいしたことのない現実でも私小説ではおもしろく書けてしまうことがあるのだ。
事実をそのまま書くのならルポになってしまうわけだから。
本当の洪水のなかにちょろっと嘘を入れる、このあんばいが私小説のうまいへたを分ける。
私小説を読む楽しみは、どこが嘘かを探ることだと思う。
反対に物語小説を読みながら、どこが本当かを探るのもまた楽しい。

「だが、私小説には私小説なりの論理がある。
私小説を書く際には、他人のことを、事実を曲げて悪く書くのはいけない。
それはむろん小説に限らない、当然の論理である。
逆に、自分のことを、事実を曲げてよく書こうとするのも良くない」(P178)


たぶん著者は一生このことを理解できないのだろうが、事実などないのである。
ある事件が起こったとする。AとBがいたとする。

A(主観)←(事実)→B(主観)

あるのはAの主観とBの主観だけで客観的事実というものは存在しない。
もしかりに、このときにCという人間がいたとする。
このときCもまた主観を持つのだが、それがABと完全一致することはありえない。
まあ、Aの主観あるいはBの主観、どちらかに似ているということはあるだろう。
このとき「多数派は正義」の論理が働いて、
AあるいはBが事実を言っていると世間は判断するが、しかし、
もしDという人がいたら違うほうの肩を持つかもしれないわけで、
もし二対二になってしまったら、今度は肩書が勝負になるようなこともあるだろう。

私小説を書く喜びは現実をゆがめることにあるのではないかと思う。
俗に女流作家は被害妄想の強いほうがよろしい、と言われるのも、
たぶんこういう事情による。
西村賢太氏の私小説など、嬉々として自己を悪く飾っているではないか。
柳美里氏は家族をなんと悪人のように書いていることか(あれは家族だから許される)。
私小説を書くことで、現実を改変する喜びが得られるのである。
一般に辛いことも私小説に書いたら落とし前が着く、というのは、
言葉にしてしまうとすべてが嘘になってしまうからだと思う。
最後に断っておくが、この主張は正しいものではない。
なぜならば著者は元大阪大学助教授のベストセラー作家、
つまりわたしよりも肩書が上だからである。
ほとんどの場合、肩書の上のものの意見が正しいこととして通用する。
これを批判する気もなく、世間とはそういうものなのである。
このため、万が一拙文が著者のお目に触れても、
どうかお気を悪くなさらないでいただきたい。
なぜなら読み手の大半は小谷野博士のご意見のほうが正しいと思ってくれるでしょうから。
変にあわてると、肩書の安定感が揺らいでしまうのでご注意あれ。
格下は相手にしないのが大物の証なのである。

「三千枚の金貨(上)(下)」(宮本輝/光文社文庫)

→なんでいま980円の靴を履いている人間が、
1300円も払ってこんな小説を読ませられなきゃならないのか、
本当にもう人生というものがいやになった。
どういう話かというと、40過ぎのエリートサラリーマン3人が、
3000枚の金貨がどこかの木の下に埋まっているという話を聞きつけ見つける話だ。
金貨は1億円相当らしく、
金のために動くというのがいかにも創価学会員のようで笑おうとしたが笑えなかった。
結局、見つけるのだが、掘り出すのは20年待とうなどと
成熟した大人ぶるところが、いかにも善人ぶりたい学会員のようでうんざりした。
金が目当てで動いたくせに、いざ金が見つかったらきれいごとを言うなよ。
主人公が銀座のバーで山盛りのキャビアをシャンパンで流し込むシーンがあるのだが、
980円の靴を履いているこちらはキャビアもシャンパンも
人生で一度として口にしたことがないので(別に食べたくも飲みたくもないがね)、
そういう舌の肥えた富裕層にしかこの小説のよさはわからないのかもしれない。
こちらとそう年齢が変わらないにもかかわらず、美しい妻のいるエリートサラリーマンが、
400万も若い水商売の女に金をつぎ込むところで泣きたくなった。
こちらはもう妻をめとるのでさえあきらめているのに、
なかにはちゃんとした奥さんもいるのに若い愛人までつくる果報者がいるのか。
40歳を過ぎると骨董がわかる、なんて話もどこの世界の話ですか? と悲しくなった。
貧乏人が売れっ子作家に成り上がると、
キャビアだのシャンパンだのゴルフだの愛人だの骨董だのと
自慢たらしく小説に書きたくなる気持はわからなくもないが、
毎日のように健康にもいい美食を召し上がっていらっしゃると、
そうでない読者がいることに想像が及ばなくなってしまうのだろうか。
いま思いついたが宮本輝氏の優秀なご子息ふたりは、
この小説に出てくるエリートサラリーマンのような恵まれた生活を送っているのだろう。
ちなみにご子息ふたりとこの文章を書いているものはそう年齢が変わらない。
どうしてあちらばかり恵まれているのか。
夫を若い小娘に寝取られたエリートサラリーマンの妻の発言にヒントがあろう。

「自分は宗教というものを持っていないが、
仏教には宿命とか宿業という言葉があるそうだ。
これまでその言葉について考えるというようなことはなかったのに、
いざ自分の身に夫の浮気という事態が生じて、
しかもその女が家にまで押しかけてくるなどという屈辱を味わってみて、
自分はこれこそが、柏木家の女たちの宿命、
もしくは宿業というものなのかもしれないと考えた。
もしそうであるならば、どこかでそれを完全に断ち切らねばならない。
だが、どうやったら断ち切れるのか……」(上巻P265)


やっぱり創価学会に入って宿命転換するしかないのかな。
宿命転換したらキャビアの山盛りをシャンパンで流し込めたり、
ゴルフ練習をしながら若い愛人を囲ったり、
50万もする美術骨董品を購入できるのだろうか? でも、そんなの幸福?
おそらく、創価学会にとっての幸福はそうなのだろう。

「損か得かで物事を決めることも大事でっせ」(下巻P124)

「忘れることが勝つことだ。傷をひきずらないことが勝つことなのだ」(下巻P128)


損より得を取れ。負けるな。勝て、勝て。創価学会精神をまるで隠さない作家である。

「何事にも表と裏がある。表が正、裏が邪というわけではない。
表と裏で一枚なのだ」(下巻P133)


社会や政治、芸能界の裏側でもしかして学会が暗躍していたりするのですか?
そういう表舞台には一生縁がなさそうなので、もうどうでもいいのだけれどさ。

小説を読みながらまったく笑いも泣きも生じなかったので、
細かなアラをチェックする意地悪おっちゃんになってしまったよ。
30歳そこそこのいまの女性が会話の語尾に「わ」をつけるのはありえないわ。
他人の海外旅行話ほどつまらないものはないのだが、
日ごろ周囲からちやほやされていると現実認識が鈍るのでしょうか。
知らない中年男の旅行話を楽しそうに聞いてくれる女子高生なんていないわ。
40過ぎのサラリーマンでメールの送信ができないやつもいないと思うわ。
それとこれは校正者のミスでもあるのだろうが、
4、50年前の会話に「真逆」という言葉が使われているのはおかしいわ(下巻P155)。
「真逆」は2000年ごろから使われ始めた最近の言葉だわ。

登場する芹沢由郎が池田大作氏、セリザワ・ファイナンスが創価学会の暗喩とも
読めなくはないので、ここだけは関心があって、どう描くのか期待していたら、
なんだか尻すぼみに終わってしまったので、これがもっとも残念だったわ。
池田大作氏が死なないうちはまだ書けないことがあるのかもしれないわね。
しかし、1300円を投入してなんでこんな悲しい気分にならなければならないのでしょう。
しつこいようだが、キャビアとかシャンパンとかフォアグラとか、なんだかな。
そういう高級食品って1300円で買えますか?
もちろん、わたしのこのつたない感想が正しいわけでは断じてない。
紫綬褒章作家の小説を正しく理解できないのは読み手が到らないからだと思う。
たぶん「三千枚の金貨」(金、金、金のすごいタイトルだよな……)は、
キャビアやシャンパンのようなものなのである。
わたしなんか下手をしたらいざキャビアを食べてもまずいと思うかもしれない。
シャンパンを飲んでもそうと知らなかったら焼酎のほうがうまいとも言いかねない。
だから「三千枚の金貨」は味のわかる、違いのわかる大人のための傑作小説なのである。
おもしろさを理解できないのは幼いせいと考えてまず間違いないだろう。
この小説は読者が果たして大人かどうかが残酷にもわかってしまう試金石と言えよう。
ぜひご一読をおすすめしたい。

「仏教が好き!」(河合隼雄・中沢新一/朝日新聞社)

→宗教学者の中沢新一氏が河合隼雄に実に鋭い質問をしていたので感動した。
結局、心を病んでいる人というのは少数派なのである。
多数派とは異なるという理由で病んでいると診断され(あるいは自覚して)
精神科医や、それでもよくならないものは健康保険のきかない、
たとえば河合隼雄氏のような心理療法家のもとを訪ねてくるわけである。
河合さんもときおりにおわせてはいるが、そういう病はまあ贅沢病なのである。
というのも、本当に金がなかったら、心理療法など受けられないのだから。
つまり、そのまんま放っておくしかない。
(あまり大きな声では言えないが、それでも、ときに? かなり? 治るのであろう)
これは偏見かもしれないが、額に汗して大地に向かって格闘しているものの大半は、
よほどのことがないかぎり心を病んだりはしないのではないか。
とはいえ、全員がお百姓さんや土木作業員になるわけにもいかないし、
ミミズや砂利と格闘しているばかりでは文化や芸術も生まれようがない。

このため、心を病むことにもきっと意味があるのだろうと河合隼雄は考える。
そして、心を病むとはどういうことか突き詰めて考えると、
前述のようにやはり意図せずして望まぬ少数派になることなのである。
繰り返すが心を病むとは、少数派になること。
よしんば、うつ傾向があっても社会全体がどんよりとうつならば異常ではないのである。
たとえ不登校でも学校に行かない学童が5割を超えていたら、
両親も当人もわざわざ思い悩んでカウンセラーになど逢いに行く必要はない。
出社拒否症でも、周囲がみんなだらだらと遊び暮らしていたら問題にはならない。
みんなと違う(=少数派)から病んでいることになり、そうなると、
そのことにことさらこだわり問題を悪化させてよけい苦しむようになるのだ。
たとえ幻聴が聞こえていても、その幻聴と折り合う仕事(もしくは資産)があり、
幻聴と楽しく会話できるようになれば少数派でも一向に構わないことになる。
漁村などで雨の日は朝から酒をのむ風習があればアル中にはならない(アル中ではない)。
心理療法対象のいわゆる病は、少数派ということに過ぎないのかもしれない。
たとえばわたしは吃音症だが、みんながどもっていたら異常ではない。
むしろ今度はどもらないほうが異常となり心理療法の対象になるかもしれない。
わたしに関してはもうどもりは完全にあきらめているから、
いまさら高い金を払って心理療法や訓練道場といったものに通う気はさらさらない。
これは果たして治ったのか、治っていないのか、考えてみるとよくわからない。

幸福についてもよくわからない。
ひねくれた目でものごとを見ると、たとえば安っぽいテレビドラマに感動して、
新聞や雑誌で聞きかじったような政治への不満を周囲に訴えてすっきりできる人が
もしかしたら本当に幸福な人なのかもしれない。
ともかく、多数派の一員であることはおのれを幸福と錯覚させる要因のひとつだろう。
ベストセラーを読んでみんなとおなじように感動して、
評判の高いレストランでものを食い満足して、みんなとおなじように老いて病気にかかり、
平均寿命前後で死んでいければ、まあ幸福とも言えないことはないのである。
幸福かどうかはさすがにわからないが、そこそこ正常な人だったということになろう。
みんなが無気力で退廃的だったら、今度は前向きなやつが病気ということになる。
「おまえはいつ死ぬかわからないことを少しは考えろ」と説教する人がいてもいい。
とどのつまり、なにが病か、なにが正常か、なにが幸福かはわからない。
多数派に戻ることが治癒なのか、多数派に従うことが幸福なのか、わからない。
このことを河合隼雄氏ほど理解していたものはいなかったことが以下の引用からよくわかる。
もちろん、問いを発した中沢新一氏も立派なのである。
多少長い引用になりますが、どうかご勘弁ください。

「中沢――これは僕の疑問に関わってくるんですが、
心理療法家というのはいったい何をする人なのかということですね。
つまり、陳腐であろうが何であろうが、人びとは安心感を欲している。
陳腐なことが好きだからテレビを見るわけですし、それをみんなもとめてしまう。
けれども、陳腐な理解では安定できない人、安住できない人たちがいる。
で、河合先生の前に行く。
河合先生には二つ可能性があるわけでしょう。
一つはクライアントに対して、
「陳腐なところへお帰り。そうすればみんなといっしょになれるじゃないか」
という可能性ですが、河合先生の場合、そこで「もう絶対戻れませんよ。
それぐらいなら陳腐な結合をやめて、もうちょっと深いところへ行ってみなさい」
って言う人なのかなあと思うわけです。
河合――その判断がいつもむずかしいと思いながらやっています。
陳腐なほうへ戻るためにいっしょになってみたり、
深く降りるほうをやってみたり、両方いろいろですね。
もう一つ思っているのは、不安なほうへ向かわせるのだから、
それを超えた安心感みたいなものを相手に与える人間でないとだめだと思っています。
そうでないと、その人は不安でしようがないわけです。
だから大きい意味の安心感はあるようにしておかないと。
中沢――それは親鸞が言う阿弥陀如来みたいなものかもしれません。
とにかく絶対的な安心感がある。
河合――僕は、絶対的とまではいかへんけど、
そういう点では相当の安心感を与えられると思います。
それは僕が持っているというよりは、それこそ阿弥陀如来じゃないかもしらんけど、
何か自分を超えたもの、そういうものがあると。
中沢――それは河合先生がずうっと追及されていることですよね。
河合――そうです。
中沢――「阿弥陀如来」と言ってしまってもいいし、言わなくてもいい。
「グレートマザー」でも「自然」でもいいけれども、
そう言ってしまってもいいし、言わなくてもいいわけですね。
ただ何かさっき言った「絶対肯定」……。
河合――みたいなものはある。
ただ、それに名前をつけて存在を確かめたり、名前をつけることによって
「こういうのがあるのです」という言い方は、僕はまだしません。
してないというか、それはできない。
自分の体験としてできないんだからやっていないだけですが」(P151)


長い引用を最後までお読みいただき本当にありがとうございます。
実のところ、この2週間のブログ更新は、
上記の河合隼雄先生のご発言に勇気をもらったものかもしれません。
名前をつけられないけれども(一切空)、
絶対的なもの(自分を超えたもの)があると、あの河合隼雄先生がおっしゃっている。
ならば、なにが正常か異常かも、なにが幸福か不幸かも実のところわからないのだろう。
このことを心底からわかっていた人がいたというだけで安心できるところがあるのだと思う。

「生きるとは、自分の物語をつくること」(小川洋子・河合隼雄/新潮社)

→物語はどうやってつくるのだろう?
対談で作家の小川洋子さんが河合隼雄に質問する。

「結局「人間はどうして死ぬのか」とか「死んだらどうなるんだろう」
という恐怖が、物語を生み出しているということでしょうか」(P82)


この問いに河合隼雄は「もう絶対にそうですね」と答えている。
つまり、小川洋子さんの発言が正解だと言っているようなものである。
しかし、そうなのかな? いや、河合隼雄が言うんだから、そうなの?
小川さんは金光教の家に生まれている。
宗教というのが、物語と大きく関係しているのはなんとなくわかる。
で、宗教とはなにかといったら、死をどう扱うかに尽きる。
死の説明の仕方で宗教の種類がわかれているようなところがある。
うーん、だから、やはり小川洋子さんの言うとおりなのか。
けれど、物語が出てこないんだよな。どこか宗教に入ろうかな。
小川さんは元から金光教の家に生まれたわけである。
そういう形でないといまどき自分から宗教なんて入れないよな。
だれかから誘われて入るのは落とされたような敗北感が生じる。
もう人生行き詰ったから、新興宗教でも入って自己洗脳しないとダメかな。
でも、そんな都合のいい宗教なんてないよね。
よくさ、成功者の話とかで、都合のいい偶然が起こるけれど、あれ本当なの?
~~会に入ったらいいことがいっぱいありました、とかさ。
また河合隼雄も新興宗教めいたことを言うんだ。

「都合のいい偶然が起こりそうな時に、
そんなこと絶対起こらんと先に否定している人には起こらない。
道に物なんか落ちていないと思ってる人は、前ばっかり見て歩いているから、
いい物がいっぱい落ちとっても拾えないわけでしょ。
ところが、落ちてるかもわからんと思って歩いている人は、
見つけるわけですね」(P53)


そういえばむかしある新興宗教のメンバーと思しき人から
毎日のように「前向きになれ」と指導されたことがあったな。
結局、その人からも見切られて新興宗教にさえ勧誘してもらえなかったけれど。
後ろ向きな思考法であるという自覚はある。
そっか、河合先生! 下を向いて歩けばいいんですね!
そうだよな。1千万くらい道に落ちているかもしれないもんな!
落ちてるかもわからんと思って歩いていたらいいのか!
ようし、明日から下を向いて歩くぞ!

「猫だましい」(河合隼雄/新潮文庫)

→文学を教える日本最高峰でいまや大盛況の私塾、
猫猫塾の総裁が大嫌いな河合隼雄さんの本をうっかりまた読んでしまう。
猫にまつわる物語から河合さんは生きるいろいろな味わいを紹介する。
きっとこの心理療法家は、
臨床の過程でふつうの人は決して見ることのできぬ人生の深層を何度も見たのだろう。
しかし、職業上おのれに課した守秘義務のため事例は公開できない。
がためにこうして自分が見たことをフィクションの物語に託して語るしかない。
猫は仏教でいえば畜生界を生きるものだが、
本書で著者は畜生界を生きるのもまたひとつの生き方だと主張しているような気がした。
だいぶまえに読んだ本だが、
きっかけは宮本輝氏の「避暑地の猫」を読了したそのつながりである。
「避暑地の猫」はまさに畜生界を生きる人間たちの欲望にまみれた物語であった。
河合先生の本はかなり積ん読しているが、
せっかくだから猫つながりでこれを読んでみようと思ったのだった。
こういう方法はまさに河合隼雄氏から教わったものである。

私事を語ればどうも動物は苦手で、考えてみたら猫にさわったこともないかもしれない。
猫を愛撫するのはなかなかいいものらしい。
では、異性と猫のように愛撫しあうのはどうか。

「愛撫は人の心をとろかしてしまう。疲れやわだかまりが溶け、
人と人と、人と世界とが融合してしまう、至福の状態と言うことができる。
こんなことを知らない人は不幸な人だ。とは言うものの、
このようなことを経験する人は幸福だとも言えないのが、
人生の面白いところである。
もっとも、現在では金もうけをしたり、
地位が上がったりすることが幸福と考える人が多いようだから、
とろける世界の見事さを知ることが必要と思われる」(P196)


どっちなんだよ、と突っ込みたくなるが、
どっちも正しいことが実はたくさんあることをわたしは河合氏から学んだのだった。
たしかに猫は金もうけにも地位にも頓着しない。
近所に夜中、野良猫にエサをあげている人がいるが、あれも幸せなのだろう。
いや、猫には幸せなどないのだろう。畜生にはなにもない。
ほんとうは人間にもなにもないのだろう。
著者は谷崎潤一郎の「猫と庄造とふたりの女」を読み、次のような感想をいだく。

「悪とか闇とか破壊などと呼ばれることにこそ、
名状し難い美や味わいのあることを、
作者は示したかったのだろうと思う」(P212)


猫のように畜生界を生きる女性と愛撫しながら破滅するのもまた悪くない。
こう言っているのだろうが、これを心理療法家が言うとは。
クライエントを正しい生き方に導くのが心理療法家ではないのである。
美しい悪、闇、破壊にいたる道筋を猫のような存在が教えてくれる。
河合隼雄氏は思春期の少女は猫のようなものだと言う。
氏は思春期の少女が苦手で、クライエントとして来てもほかにお願いするらしい。
それにしても思春期の少女は猫だとはぎりぎりのことを言っているわけだ。
少女を人間よりいちだん低いものと見ているわけだから。
いや、そうではない。猫ははたして人よりも下等なのか。
思春期の少女たちは、自分を猫のように「異種」であると感じているという。
なぜなら人間(大人たち)とは言葉が通じないからだ。
自分たちが優位に立っていると思うことも(大人はダサイ)、
そのうち自分たちも人間(大人)になるがいまは猫なのだと感じている場合もある。

「強い「異種」感を味わっている少女に、
「あなたは人間と異なる動物だとすると、何ですか」
と質問してみるのも面白いだろう。
「猫」と答える子は多いのではなかろうか、猫の持っている、
独立性、不可解さ、優しさ、残酷さ、
などピッタリのところが多くあると思われる」(P217)


独立性を持った、不可解だが、優しさと残酷さを併せ持つ美少女とかいいよな。
まさに悪や闇、破壊に通じているような気がする。
期間限定でそのうち人間になってしまうというのもいい。
人間にならないで猫のまま生をまっとうするものなどいたらどれほど美しいか。
いまの美少女アイドルとか明るすぎてつまらないんだ。
不可解で残酷な美少女をなぜマスメディアは売り出さないのだろう。
美というのは悪、闇、破壊に通じていないと本物ではないと思う。
猫にひっかかれるのもまたいいのだろう。
今度、勇気を出して野良猫にでも触れてみようと思う。逃げられちゃうかな。

うちにいる猫と大熊猫↓
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「仏の発見」(梅原猛・五木寛之/学研M文庫)

→2年前の対談だけど、両先生ともお元気だよな~。
この人たちの業ってなんなのだろう。
やはり変な言い方になるが戦争を経験している世代は強い。
なまのいのちのありかたを身をもって実体験しているわけだから。
五木さんも満州から引き揚げてくるときに、まあ悲惨なものを見たようだ。
ロシア兵が女を要求してきて、だれを出すとかの悶着とか修羅場だよな。
女学生はやめよう、子持ちの母親はやめよう、とか。
で、泣きながらいやがる同胞の女をロシア兵に引き渡すわけである。
なかには帰ってこない女性もいたとか。
だれかを犠牲にしなければ生きられないのが戦争なのだろう。
いのちは地球より重いわけではなく、優劣があることをまざまざと知らされる。
やはり実体験ほど強いものはないのだと思う。五木さんいわく――。

「まあ、後世に名が残るような文学者、宗教家が、押しなべて、
人生の悲哀を心底味わうような経験をしている。
法然、親鸞や夏目漱石などに比べると、
私の悲哀などたいしたものではないけれど、その体験があったからこそ、
こうして、仏とは何ぞや、仏教とは、と考えさせられ、
いまこうして梅原さんに教えを乞うチャンスを恵まれているような気がします。
これも親鸞の言う「わがはからいにあらず」。
自然法爾、他力の計(はか)らいといってもいいんでしょうか。
何か、そんなふうに、これまでの悲哀を肯定したい気持ちになりますね」(P67)


知的興味から仏教に関心を持ったわけではないと主張しているわけだ。
さて、老人の対談は語られる内容よりもゴシップがおもしろいわけだ。
本書でもいろいろ楽しいよもやま話が出てくる。
井上靖が梅原猛さんの本を読んで、あれは小説だと言ったとか。
まったくそうだよな。梅原さんは学者じゃなくて作家だと思う。
というのも、恨みが強すぎるからだ。
本書でも梅原さんはまたまた三島由紀夫の悪口を言い放っている。
これは本当かどうか、わたしは嘘ではないかと疑っているが、
なんでも三島が「豊饒の海」を読んでくれと頼んできたとか。
この小説を仏教思想と読めるかどうか三島は梅原さんに質問してきたというのだ。
梅原さんは、これは仏教ではないと否定したという。
そのうえで、自分は三島に唯識仏教を教えてやればよかった、とかなり上から目線だ。
三島は自分に悪口を言われてかなりショックだった、
と人づてに聞いたとおかしな自慢までしている。
晩成の梅原さんは三島由紀夫のように若くして世に出たやつを許せないのだ。
その気持はほんとよくわかるが、それにしてもしつこいぜ!
いや、嫌いなだけではないのだろう。どこか好いているところもある。
いまや大学者となった梅原猛氏は告白する。

「まあ、太宰にしても、三島にしても、川端にしても、
やっぱり異常な人だったと私は思いますよ。
そういう異常な人がいなくなって、日本の文学は寂しくなった」(P173)


かくいう梅原猛もまた「異常な人」である。
「隠された十字架」を執筆していた時期など1日に80枚とか書いていたという。
異常ということは、狂っているということになるのだろう。
五木寛之さんもまた狂わないとものを書けないことを知っているようだ。

「まさに作家の仕事というのはミディアム、巫女とか霊媒だと思いますね。
ある意味では、イタコのような依代(よりしろ)になって、
お前はこれを語れ、という声が聞こえてきて、その声に揺り動かされて、
憑(つ)かれたように物を書いていくというふうな」(P93)


この本で知ったが梅原猛氏が仏教の勉強をはじめたのは40になったときとか。
いったいどんな声が聞こえてきたのだろう。
そこで狂ってしまう人と、梅原さんのように大成する人にわかれるのかと思われる。
とはいえ、わたしは梅原猛さんほど権力志向の強い人をちょっと知らない。
五木さんは自然に世に出てきたが、
梅原さんは力尽くで成り上がったようなところがある。
つぶされた人も多いのだろうが、それが歴史なのだろう。
わたしも梅原猛とおなじで「異常な人」が大好きである。

「日本人・いのちの風光 梅原猛vs.ひろさちや対談集」(主婦の友社)絶版

→「本の山」の仏教思想は8割方ひろさちや氏と梅原猛氏によっているから、
両先生の対談本を見つけたら読まずにはいられないわけである。
この対談を読んで改めて思ったのだが、梅原猛氏はむろんのこと、
いまやチープな過激書を濫造するだけになってしまった(失礼!)
ひろさちや氏が実によく勉強しているのである。
勉強に勉強を重ねて、学問のくだらなさに見切りをつけて、
いまのようないささか怪しげな宗教ライターになってしまったのだろうか。
お亡くなりになるまで書くのはやめようと思っていたが、ひろさんは偉いよ。
うちのブログもバカに見られるのがいやだから、
「カテゴリーひろさちや」を作っていないけれど、亡くなったら作る。
もしかしたらひろ先生、死んだらかなり偉くなるんじゃないかな。
あたまの働き方がわたしなんかとまるで違うし、やはり東大卒はすごいと思う。

東大といえば日本史の過去問に難題が出たことがあるのである。
「どうして鎌倉時代の一時期にしか優秀な坊さんは出てこなかったか?」
対談で梅原猛さんが指摘するのも似たようなことで、
「日本で偉い坊主が出たのは平安の初めと鎌倉の初めの二回だけで、
その後はどうもパッとしない」――。
そのうえで「これはどういうことなんでしょうかね」とひろさんに質問している。
その答えがおもしろい。

「一つは如来蔵思想の系統からいくと、凡夫が如来を蔵しているという形ですね。
自分の中にある如来性を磨き出すという哲学を完成させたのが道元で、
それから親鸞は、
如来の中に包まれている凡夫だという思想をぎりぎりまで推し進めていった。
それと、如来と凡夫がイコールなんだというのが空海の思想であるわけです。
仏教はこの三つのパターンでもう尽きるのではないかと思うんですが」(P148)


これを梅原猛氏は、
「仏教そのものが理論的に全部追及されてしまったということですね」と引き取る。
ひろさちや氏は自分の考えた自分の言葉でうまいことを言うよな~。
わたしの言葉にしたら、きっと自然とのパターンも3つなのである。
自分のなかに自然を形作っている根本があることに気づく仏教。
大きな自然のなかに生かされていることに気づく仏教。
自分がそのまま自然であることに身体全体で気づく仏教。
このほかにも両先生の斬新な指摘には学んだところが多い。
ひろさちや氏や梅原猛氏の言葉を読んでなにがわかるかといったら、
だれかから知識を教わるのもいいが、
自分自身でものを発見してもいいのだということである。
むしろ、そのほうがものを教わるよりも何倍も楽しい。学ぶのは喜びだ。

「わが家の仏教 浄土真宗」(四季社)

→あんまりこういう本音は書いちゃいけないのだろうが、
本書の序文で立派な肩書をお持ちの偉い先生が文章をご披露なさっているのだが、
それがもう本当に意味不明で、そのくせ偉そうで不愉快な、
あたかも自分はすごい真理を知っているかのようなことを書いているのである。
浄土真宗内部で出世するのは、むしろ浮世以上にいろいろ大人の事情があるのだろう。
かならずしも能力と出世が比例しないのは、もしかしたら実社会以上なのかもしれない。
こういう不穏なことは考えてはいけないのである。
肩書がご立派な人がおっしゃることは、正しいに決まっているからである。
しかし、いまの坊さんの言葉は、まるで校長先生の朝礼訓話みたいだと思う。
あれは偽善くさいものの子供向けのためまだ意味が理解できるのでよいが、
お坊さんになるとくだらぬ知識を誇るようになるから本当に始末が悪い。

本書を読んでいまの浄土真宗は死のにおいを消そう、消そうとしていることに気づく。
「正信偈」本文の「正定」なんて、
どう考えたって「死んでから浄土に往生すること」なのに、
解説では現世の話になっていて「真実に生きて往く道が定まる」ことだそうだ。
同様、「生死輪転」は生まれ変わり、つまり六道輪廻のことなのだが、
本書の現代的解説では「生に愛着して死を恐れて堂々巡り」することになっている。
親鸞の教えは死が中心にあって、ひと言で言えば死んだら往生できるに尽きるのだが、
いまの真宗は現代の風潮に同化して死の無視にひた走っている。
いまでも坊さんになりたい気持はあるのだが、
もし真宗に入ったら即破門されるような気がする。

「浄土真宗の仏事」の紹介では、とにかく金、金、金が透けて見えてうんざりする。
お坊さんを尊敬しましょうとか自分たちで書いてしまう坊主ってなんなの?
お金の包み方を自分たちで書くのはいかがなもんかい?
お車代を忘れないようにしましょうとか、どれだけ坊さんってやつは守銭奴なんだ?
儀式もいろいろあるようだが、どうしても金儲けにしか見えない。
いろいろな儀式を決めたのは、たぶん蓮如なのだろう。
親鸞は「お布施など不用」と言っていたことになっているのだが。
「なんでもOK! 女体もOK! 悪もOK!」の浄土真宗の坊さんは、
いちばん世の中でおいしいポジションのような気がする。
むかしの真宗が宿業なんたら言っていたのは、
自分たちの恵まれすぎたポジションは前世の功徳としか説明できないほど
うまうまとしたものだったからではないか。
ああ、生まれ変わったら真宗の坊さんの家で育ち、
長じてはうまいものをたらふく食い大酒を飲み、門徒からの尊敬を一手に集め、
しまいには愛人の2、3人は囲ってみたいものである。
そのためには現世で功徳を積まなければなるまい。
やはり今年の目標「人に親切にする」は間違っていなかったと再確認する。

「正信偈」(親鸞/「わが家の仏教 浄土真宗」四季社)

→正信偈(しょうしんげ)は正しくは正信念仏偈といい、
浄土真宗の門徒さんが毎日のおつとめとして読み上げることになっている。
内容は親鸞の大著「教行信証」の一部で、
ここに全体の要約がなされていると本願寺8世の蓮如が判断して、
いまのように毎日の勤行に取り入れられた。
怪しい呪文めいたものは嫌いではないので、
もしかして偉大な真理が説かれてるかもしれないと思い、
たいせつに何度も精読したのだが、三度目の熟読で気がついてしまった。
正信偈は漢文の羅列で、この入門書には読み下し文が解説とともについている。
なにを気がついたかというと、親鸞の漢文がおかしいのである。
いちおう大学受験で漢文を選択しているし、第二外国語は中国語である。
しかし、長いことあの偉い親鸞の言葉だからという先入観があったのだと思う。
3回目の丹念な読みの過程で、やはり親鸞のほうがおかしいとわかった。
どう考えても親鸞の漢文は文法構造上、読み下し文のようには意味が取れないのである。
言っちゃいけないことかもしれないが、親鸞はちとばかしおバカさんなのね。

あーあ、知らなければよかったことをまた知ってしまったかと後悔する。
知らないでありがたいものだと思い込んでいるのもまた幸いなのだ。
この段階でしばらく放置して最近また読み直した。
すると、なんだか心が落ち着かなくもないのである。
むかしは意味を考えながら読んでいたので、意味が成立していないことに不満を感じた。
ところが、その意味がよくわからないところがそこそこありがたいのではないか。
要するに、さらに思いを改めたわけである。
「正信偈」の内容は、肩書の大合唱である。

「正信偈=肩書大合唱♪」

相対の人間世界の言葉をどうつなげてもなかなか絶対にはたどり着けない。
このため、親鸞は偉い仏僧の名前を延々と並べるわけである。
具体的には以下である。
無量寿如来→法蔵菩薩→弥陀本願(仏典)→
→釈迦→龍樹→天親(インド)→→曇鸞→道綽→善導(シナ)→源信→法然(日本)
自分の信心は、上記の偉人たちに支えられているという主張だ。
細かく読んでいくと、本当は親鸞が独自に編み出した思想も、
ほかの高僧が説いていることにしているのがなんとも印象的だ。
しかし、信心というのは、元来そういうものなのである。
法然もおなじことをしているし、源信もシナ高僧の教えをねじ曲げているところがある。
偉い人がこう言っているから正しいという論法である。
仏教思想を見ていくと、本当にまったく言葉は肩書でしかないことが理解される。
だれかの言葉を信じて賭けるのがおそらく信仰の内実なのだろう。
ぶっちゃけ、信仰は人それぞれで、おなじ浄土真宗門徒でも信じているものは違うと思う。
いけないと批判しているのではなく、信心とはそういうものなのである。
親鸞なら親鸞のどの言葉を信じるかは各自の自由なはずである。
ところが、新興宗教の場合、かなり信者の自由は狭められ、
よくも悪くも盲目的に同一内容を信じることを強制される。
我われが親鸞から学ぶことがあるとすれば、
自分の信心(お話)を作っていいということである。
親鸞はあまたの高僧や仏典の言葉から、
都合のいいところだけ選択して自己の信心を決定した。
それから自分の主張は高僧も言っているから正しいとひっくり返したのである。

さらに重大なことが「正信偈」からわかるのではないかと思う。
親鸞は自分の考えをほかの高僧が言っていたと偽装(信仰)していると書いた。
たとえば、親鸞は「報化二土」の教えを説いている。
我われが念仏を唱えて往く浄土には、
報土(本物)と化土(仮物)の二種類があるというのである。
「正信偈」では源信がこれを説いたとされているが、実は親鸞のオリジナルである。
しかし、自分の考えと言ってしまったら教えの正しさが証明できない。
このため、「往生要集」で有名な源信の名義を借りたわけである。
さあ、もっとも主張したいことに入ろう。
師匠の親鸞がしたこととまったくおなじことを弟子の唯円もやったのではあるまいか。
何度も書いてきているが、
唯円の「歎異抄」は実はかなりのところ唯円自身の信心(思想)ではないか。
学者、坊主、門徒、一般読者の99%が
「歎異抄」は親鸞の信心が弟子によって説明されていると思い込んでいる。
しかし、それは大きな勘違いをしているのではないか、と繰り返し言いたいのである。
「歎異抄」は「正信偈」とおなじように、
自身の思想を高僧の名義を借りて語ったものではないだろうか。
根拠は「教行信証」の一部である「正信偈」である。
親鸞の偉大さは、かつては子孫である蓮如の巧みな情報操作で成立していた。
明治以降、秘伝の「歎異抄」が公開されてからは、
今度はこの書物によって親鸞が再度神格化された。
むろん、唯円の師であったくらいだから親鸞が偉くないとまでは言わない。
だが、唯円はもっと偉大だったのではないかとわたしは言いたいのである。
なぜなら繰り返し読んでみると「正信偈」「三帖和讃」「末燈鈔」よりもはるかに
唯円の「歎異抄」のほうが深い内容を持っているからだ。
ともあれ、親鸞の「正信偈」の感想であまり唯円を論じるものでもあるまい。
わたしは唯円が親鸞の言葉を信じたように、唯円の言葉に賭けてみたいと思う。
「正信偈」は師匠のそのまた師匠の言葉だから、
月に一度くらい読み返すのもまた悪くはないかもしれないと思う。

「仏説阿弥陀経」(鳩摩羅什訳/「浄土三部経」本願寺出版社) *再読

→「本願」を説いた大無量寿経、「念仏」を説いた観無量寿経に引き続き、
本願寺出版社「浄土三部経」が掲載するのは「浄土」を説いた阿弥陀経である。
このきわめて短い仏典には、浄土がいかなるものかが描写されている。
仏典お決まりの会話形式ではなく終始、世尊(釈迦)は説明する。
世尊の講義を受けるのは、般若心経でおなじみの弟子、舎利弗(舎利子)だ。
浄土とはどのような国なのか?

「舎利弗よ、その国をなぜ極楽と名づけるかというと、その国の人々は、
何の苦しみもなく、ただいろいろな楽しみだけを受けているから、
極楽というのである」(P218)


言うまでもなく阿弥陀経もまた仏教の開祖たる世尊が説いた真説ではない。
これもまた書く必要はないくらい常識だが、
ほかの大乗仏典とおなじく世尊が説いた教えというのが売りであるだけだ。
でも、よくよく考えたら、世尊の教え「だから」正しいというのはおかしいわけだ。
なぜなら、どうして世尊の言葉が正しいか証明できないのだから。
ものすごいくだらぬ皮肉を言えば、
世尊は東大を出たわけでもないし(笑)、偏差値も不明だし(笑)、
韓流スター(笑)よりもイケメンだったという証拠も残っていない。
言葉は肩書だから(だれの発言かで価値が大きく変わる)、
とりあえず世尊の言葉にしておけと仏典創作者たちが考えたのは疑いえない。
もちろん、かわいそうなことに法然も親鸞もこういう事実を知らずに、
浄土三部経を世尊が実際にお話になったありがたい説法だとだまされていた。
皮肉にも、我われが法然や親鸞からいまもって学ぶことができる教えに、
知らないことも(だまされているのも)またしあわせだということがある。

どうでもいいことだが、阿弥陀経は古事記よりも制作年度が古いわけである。
繰り返しになるが、阿弥陀経は浄土の詳細を描く。
浄土とは「何の苦しみもなく、ただいろいろな楽しみだけ」がある世界である。
こういう夢の世界を妄想した当時のインド人の生活環境を想像するとぞっとする。
いまのインドでさえ日本人のわたしが旅すると、まあ不愉快な苦ばかりなのである。
2千年近くまえのインドがどれほど苦に満ちていたか想像するとあたまが痛くなる。
だがしかし、そういう苦界であるからこそ阿弥陀経が創作されたのである。
おそらく大無量寿経も観無量寿経もそうだ。
その前提にあるのは人生は苦が99%なのだという現実認識である。
だからこそ、極楽浄土のようなものを妄想して創作するのである。
はっきり言って、いまの日本は阿弥陀経作者が想像もできないような極楽なのだ。
たぶん浄土三部経作者が想像できないほどの極楽世界をいま我われは生きている。
にもかかわらず、やはり仏教に救いを求めるものはいる。
たとえば、わたしのようにだ。いったいこれはどういうことなのだろう。

ひとつ疑いえないことは、
我われ現代の日本人はそうやすやすともう極楽を想像できないことだ。
時代はどんどん便利(楽)になっているから、
いま80歳の老人よりもたとえばいま36歳のわたしは
極楽を妄想するちからがかなり劣っていると考えてよい。
80歳の老人と比べたら妄想するちからがかなり弱くなっている。
もし極楽を空想するのが(できるのが)幸福だとしたら、
楽になったぶんだけ不幸になっているということである。
かといって、時代に逆らって意識的にわざと不便に戻るほどの天邪鬼ではない。
おおむかしのインドにおける浄土を説いた阿弥陀経を読んで、
いまの極楽を思い浮かべるとしたらどのようなものになるかと思った。
もしかしたら反対に苦ばかりの世界を極楽と思うのかもしれない。
なぜなら苦が多いほど楽を意識する回数も多くなるはずだからである。
もしそうならば、いま楽が少ない苦の多い人生を送っているものは、
現代人の想像する極楽浄土を生きているのかもしれない。
もちろん、いまのわたしが極楽浄土を生きている、とはさらさら言っていない。

*6年前にも読んで感想を書いていたようだ↓「浄土三部経」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1359.html

「仏説観無量寿経」(畺良耶舎訳/「浄土三部経」本願寺出版社) *再読

→大無量寿経が「本願」を説いた仏典だとかんたんに要約したら、
観無量寿経は「念仏」を説いた仏典ということになろう。
親鸞の好きだったのが大無量寿経で、
その師匠の法然の愛したのがこちら観無量寿経とのこと。
観無量寿経はフィクションの原型を描いていてとても美しい。
ストーリーがきちんとあるのも嬉しいところだ。
苦悩絶望する夫人のまえに世尊(釈迦)が現われ教えを説く。
夫人は韋提希(いだいけ)という。
なぜ絶望しているかといったら、
息子が悪人の提婆達多(だいばだった)にそそのかされ夫を殺そうとしているからだ。
これほどの不幸、悲劇があろうか。
愛する息子がおなじく愛する夫を幽閉して餓死させようとしているのだから。
いくらいさめても息子は言うことを聞かない。
なんとか食物を隠し持って夫に面会に行っていたが、それも息子にばれてしまった。
報復処置として母たる自分も密室に監禁されるありさまだ。
もう希望はない。だが、まだ夫は死んでいないのである。
こうして時間が1分1秒経過するごとに夫は死に近づいていく。
自分が腹を痛めて産んだ息子がいま父殺しになりつつあるのである。
これほどの絶望が世にあろうか。韋提希夫人は世尊に訴える。

「世尊、わたしはこれまで何の罪があって、
このような悪い子を生んだのでしょうか。
世尊もどういった因縁があって、
あのような提婆達多と親族でいらっしゃるのでしょうか。
どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。
わたしはそのような世界に生れたいと思います。
この濁りきった悪い世界にはもういたいと思いません」(P161)


この悲嘆を愚痴に過ぎないとバカにするものは、どれほど強いのだろうか?
韋提希夫人の嘆きに対し、
もっと強くなれと説教するような手合いとはお付き合いしたくない。
どうしようもないことがあることを認められないのは、
むしろ弱いからではないかとさえ思うくらいだ。現実を見つめる強さがない。
韋提希夫人にたとえば法華経を教えて、
これを唱えたらぜんぶうまくいく、なんていうのは詐欺でしょう?
実際、どうにもならない状況というのはあるわけだから。
なにをどうしても解決しないような問題はあるのである。
このとき世尊は韋提希夫人に法華経を教えたりはしない。
慈悲をもって現実とは異なる仏の世界をいろいろ見せてあげる。
現実に絶望しきった韋提希夫人は、阿弥陀仏の極楽世界のもとに生れたいと願う。
このような過程を経て、
世尊が極楽世界への往生の仕方をあれこれ教えるのが観無量寿経である。

これを現実否定だと見る向きもあるかもしれない。
現実から逃げるな、と叱りつける。
しかし、じゃあ、絶望する苦悩者はどうすればいいのかと逆に問いたい。
どんな困難も自力で切り開けるというのは事実ではなく信仰(嘘)である。
それに現実以外の世界を夢見ることがどうして逃避と決めつけられようか。
韋提希武人は絶望に対してなお、意志を示しているのである。
いわく、現実を超越したい。
どうしようもない現実に対して、
なおも人間はそれを乗り越えることが不可能ではないことを
観無量寿経は説いているのではないか。
なんによってか。想像力である、願いのちからだ。フィクションのちからだ。

極楽世界を見る方法として最初に世尊が教えてくれるのが夕日である。
目が見えるものはまず実際に日没の光景を見るがよろしい。
赤き落日を目に焼きつけよ。この世の美しさを知れ。何度も何度も思い返せ。
世尊はいきなりフィクションに飛んだりはしないのである。
まずは西日を見てみようというのがいい。浄土は西方にあり。
この世からスタートしているのだ。
あたかもこの世界にも割合いいところもあるのではないかと言っているかのようだ。
以下、延々と極楽世界の観想手段が論じられるのだが、
まあよほどの暇人しかできないだろう。
最後に世尊は、人間における上下を持ち出す。
世尊は人間の平等を説いたなどと信じたいものが一部にいるようだが、
観無量寿経を読むかぎり人間はみなおなじではない。
わたしなどは常識だと思うのだが、上等な人間と下等な人間がいると世尊は説く。
その最下等な人間に世尊のすすめている極楽世界への往生方法が口誦念仏である。
とりあえず南無阿弥陀仏と言ってみろ。
実のところ、このあたりはいくばくか
本願寺教団の意訳が入っていそうだが、学者ではないので問題にはしない。
とにかく世尊はこれならばどんな下等でいやしく怠惰な人間でもすることができると説く。
このあたりの記述から、
シナの善導や日本の法然が万民救済を思いついたのは言うまでもない。
万民救済は平等だが、その前提となった考え方はまこと不平等なところに注意したい。
観無量寿経を創作したのは、きわめて差別の激しいインドに生きる仏教者なのである。

こうして見てくると、念仏はフィクションの原初形式だとおわかりいただけよう。
むかしは映画やテレビ、漫画どころか小説もなかったのである。
どうしようもない現実しかなかった。
この現実を乗り越えるには欲望を消すしかない、というのが人間世尊の教えだ。
韋提希夫人だって夫や息子への執着を消せばいいだけの話なのである。
しかし、どうしても愛着(欲望)が消せない人はどうしたらいいのだ?
この問いに正面から向き合ったものが観無量寿経を創作したのだろう。
わたしはその人物を世尊よりも偉大だと思う。
彼はこの世ならぬものを想像(妄想)することで人は救われることを知っていた。
おそらく、彼は(彼女ではないだろう)世尊よりも人生の辛酸を味わっていたはずである。

「仏説無量寿経」(康僧鎧訳/「浄土三部経」本願寺出版社) *再読

→浄土三部経は、浄土宗、浄土真宗が根本経典とするもので、
大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の3つのことをいう。
それぞれ説く内容を簡潔にまとめるならば、
本願(大無量寿経)、念仏(観無量寿経)、浄土(阿弥陀経)となるだろう。

さて、本願を説いたのが浄土三部でもっとも長い大無量寿経である。
この仏典のキモは以下であろう。

「わたしは誓う、仏になるときは、必ずこの願(がん)を果しとげ、
生死(しょうじ)の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう」


もちろん、大無量寿経は釈迦の真説ではなく、後世の人が創作したものである。
言うなれば、フィクションである。
このフィクションの核になったのは、ここである。
だから、この誓いは文意では法蔵菩薩のものなのだが、
「わたしは誓う」と宣言したこの「わたし」は、
まさにみなさんやわたしとまったくおなじ人間だと思うとき、
虚構(嘘)や真実(本当)といった区別を超えて人間を揺り動かすものがあるのだと思う。
人間は汚らしいもんで悪念や邪念のとりこだが、
しかし同時に「仏になる」などという大きな目標を持つものなのである。
大無量寿経では多くの「願(がん)」が説かれているが、
ひとつに要約したらこうなるだろう。

「わたしは哀れみの心をもって、すべての人々を救いたい。
さまざまな国からわたしの国に生れたいと思うものは、
みな喜びに満ちた清らかな心となり、
わたしの国に生れたら、みな快く安らかにさせよう」(P20)


すべての人々を救いたい! みなに喜びを与えたい!
そんなわたしの国を作りたい!
法然も親鸞も、この心をもってして、念仏というものを考えついたのである。
そして、どんなに悪ぶった人の心中にもおなじような気持があるのではないか。
仏典なんてものは絵空事だが、核となる願いは普遍なのだろう。
この願いを信じようというのが、浄土教全般に通底する基本姿勢だ。
人間の救いたい、救われたいという願いを重んじるのが浄土教なのである。

「この世(願い)→仏の国(救い)」

仏になりたいと誓ったわたし=法蔵菩薩はどうなったか?
釈迦が弟子の阿難に仰せになるところでは――。

「法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏になって、現に西方においでになる。
その仏の国はここから十万奥の国々を過ぎたところにあって、
名を安楽という」(P47)


大無量寿経は1/3で結論が出てしまうのである。
たぶん内容としてはここで終わってもいっさい問題はなかったはずである。
内容は、仏になると誓った人間がいて、この世ならぬ「仏の国」ができた。
人間がいま生きているところの世界を完全に否定しえた瞬間である。
釈迦でもできなかったことを、釈迦の名において大無量寿経作者はしたのである。
釈迦の教えでは修行が必要なため、残念ながらすべての人々を救うことはできない。
だから、別の人が仏になって、さらに「仏の国」を作ったのである。
どんなにいまここで生きているのが辛くても、いまここを超越した「仏の国」がある!
人間はこの世で苦しむ存在というだけではない。
人はこの世ならぬ世界、つまり「仏の国」を思うことができる。
いまここにありはしない「仏の国」を思うこと、それが救いである。
これが大無量寿経に込められた、
すべての苦しむ人間を救いたいという願いの実現である。

「いまここ(苦)→(願い=嘘=妄想)→仏の国(楽)」

以下、この世における苦しみの詳細が延々と書き綴られている。
この世の苦しみを強調すればするほど、
「仏の国」を願う気持が強まるからこれでいいのだろう。
三世因果説をしつこいほど繰り返しているのが、宿命思想が好きなわたしには心地いい。
逐一、紹介したいと思う。
これは仏典に書いてある真実だから、批判は受けつけない(笑)。

☆(過去世)悪い行い→(現世)貧乏人
☆(過去世)強欲、ケチ、人に施さない→(現世)貧乏人
☆(過去世)功徳を積む→(現世)王様
☆(過去世)慈悲、人助け、人と争わない→(現世)王様
☆(過去世)善い行い→(現世)美人、イケメン、尊敬される
☆(過去世)功徳を積む(現世)美しい衣服、すばらしい食事(以上P64~66)
☆(過去世)五逆十悪→(現世)貧乏人、被差別者、孤児、友人ゼロ、孤独死
☆(過去世)五逆十悪→(現世)不具、片輪、きちがい、白痴、低学歴
☆(過去世)人を慈しむ、親孝行→(現世)高い身分、裕福、高学歴(以上P112~113)


みんな過去世のせい!

まだわからない方がいそうなので本文を読んでもらおう。

「あるものはこの世で難病をわずらい、死にたいと思っても死ぬことができず、
生きたいと思っても生きることができないで、
罪の報いを世の人々の前にさらすのである」(P130)


本願寺教団の現代語訳は穏便で不満だったから、ここが痛快だった!
罪の報いを世の人々の前にさらすのである!
罪の報いを世の人々の前にさらすのである!
罪の報いを世の人々の前にさらすのである!
重要なところなので3回繰り返したが、まだ足らないかもしれない。
もしあなたが不幸だとしたら、それは罪の報いを世の人々の前にさらしているのだ。
ならば、あなたがかりに不幸だとしても、いっさいいまのあなたに責任はない。
あなたが低学歴なのはいまのあなたのせいではない。
あなたが貧乏なのはいまのあなたのせいではない。
あなたがブスやブサイクなのはいまのあなたのせいではない。
あなたが出世(成功)できないのはいまのあなたのせいではない。
これは究極の救いではないかと思う。
さらに大無量寿経は我われを救ってくださるのである。
法然や親鸞が注目したのも内容的にはここになろう。
以下の引用文が大無量寿経の救済の根本である。
おっと、そのまえに苦しみの正体を明かしておこう。まずは苦しみの実相からだ。

「人は世間の情にとらわれて生活しているが、
結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。
すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていく」(P99)


☆(過去世)→独り生れ(善い行い)独り死ぬ→(未来世)楽しい世界
☆(過去世)→独り生れ(悪い行い)独り死ぬ→(未来世)苦しい世界


善悪と苦楽にもてあそばれる人間の救いはどこにあるのか?
大無量寿経および浄土信仰の急所はここだ!

「一生涯、努め励み苦しんだとしても、それもほんのしばらくの間であって、
後には無量寿仏の国に生れてきわまりない楽しみを受けるのである」(P109)


どんなに現世が苦しくとも、後には無量寿仏の国で永遠に楽しめる!
GWや夏休みに海外旅行の予約をしていたら、どんな辛い仕事も耐えられる。
むしろ、海外でどんな楽しいことがあるのか想像したら、
率先して骨折りな仕事をやりたくなってこないか。
人が嫌がる仕事でも長期休暇のことを考えたら、まあやってみるかとなる。
そして、「仏の国」はどこのレジャー地よりもはるかに楽しいのである。
しかも、この長期休暇には終わりがない。
もうこの辛抱だらけの娑婆(しゃば)に帰ってくる必要がないのである。
もちろん、どうしてももう一度苦しみたかったら帰してくれると思う。
この長期海外旅行(「仏の国」)は永遠というほどの期間である。
ならば、この世のわずか長くても百年くらい大したことがないではないか。
以上が親鸞の愛した大無量寿経の内容だ。

「大無量寿経=無期限極楽旅行の予約券!」

*赤字が多いため書き手が狂ったかのように見えるかもしれませんね。すんません。

「改邪鈔」(覚如/石田瑞麿訳/平凡社東洋文庫)

→「口伝鈔」を書いたもののまったく世間から認められなかった覚如が、
「口伝鈔」から6年後に書いたのが「改邪鈔」である。
邪を改めるって、おまえ、親鸞の曾孫ってだけで、どうしてそんな偉そうなんだよ?
しかも、このとき覚如は68歳だとか。
とにかく出世欲、名誉欲、金銭欲のかたまりで、
にもかかわらずまったく報われなかった老人が憤怒の形相で邪を改めるのである(笑)。
他宗の悪口がこれでもかと書かれている。
おれが悪いんじゃない、悪いのはおまえらだ! と覚如68歳はシャウトしている。
親鸞の血統はやばすぎるんじゃないのか、おい。

のっけから当時大流行していた踊り念仏の一遍の悪口である。
根拠も書かずに、あいつらは後世者(ごせしゃ)ぶりをしているのが
気に食わんと覚如老人はたいへんなご立腹である。
覚如にとっては親鸞に逆らうものはみんな邪宗なのである。
そして、だれがいちばん親鸞を知っているかといったら曾孫の自分のほかにいようか!
おれがダメというものは、親鸞聖人がダメ出ししたのとおなじことだと知れ!
売れているもの(一遍の時宗)への嫉妬をまるで隠さないところがすばらしい。
史実を書くと、たしかにこの時代は一遍踊り念仏の大勝利だったが、
8世の蓮如がまさに覚如の恨みを晴らすべく時宗をほぼ壊滅状態に追い込んでいる。
すなわち、時宗メンバーのほとんどを浄土真宗に改宗させている。

禅の悪口も書いている。禅は当時、仏心宗とも呼ばれていた。
心のなかに浄土があるというのが禅の考え方らしく、
一休禅師も「自心の外に浄土なし」と書いている。
まあ、わたしなんかどっちでもいいと思うけれど、
お偉い親鸞の曾孫さんは自分の考え以外はひとつとして許せないようだ。
このへんの批判は読んでみればわかるが、もうめちゃくちゃである。
「わが心の中の浄土」などあるのは聖人で、
浄土門は愚かな人のための教えだから、わが身に阿弥陀仏はない。
その後いきなり竜樹を引用して、
「竜樹菩薩の判定にどうしてあやまりのあるはずがあろうか」と恫喝する。
ほとんどヤクザの親分のような物言いなのである。
おそらく、覚如は人の身でありながら自分を絶対者かなにかと錯覚したのであろう。

そうそう、禅の話をしたついでに覚如の説く「自力、他力」を紹介する。
これは「口伝鈔」に書いてあった話だが、まあ許してくだされ。
自力は、夜が明けてから太陽が出ること。
他力は、太陽が出てから夜が明けること。
禅のバカどもは夜の闇をなんとかしようと迷っているが、愚かなことよ。
うちら他力の浄土門は、太陽(阿弥陀仏)が出るから夜が明けるんだ。
いくら自力で夜の闇をどうにかしようと思っても禅のみなさん、難しいでしょ?
――最初はなんだかすごい真理を教えられたような気がしたものである。
しかし、太陽が出る理由を覚如から聞いてずっこけた。
前世での善根があるから太陽が出て夜が明けるというというのである。
あれ? 自力の人たちも修行していたら、いつか太陽が出るんじゃない?
他力でも自力でも、待っていたら太陽(阿弥陀仏)が出るわけだから、
だとしたら前世はあまり関係ないような気がするのだが。

「改邪鈔」最後は恨み節の爆発だ。
うちが正統なんだ。なぜならうちの寺には親鸞の墓があるからだ。
おまえらは恩知らずだぞ。だれのおかげでいま念仏をしてるんだ?
それは慢心というのだよ。おまえらは悪魔みたいなもんだ。
思い上がるのもいいかげんにしろよ!
――とどう見ても慢心の極みで思い上がった覚如が、
まるで悪魔のような呪いの文句を吐き散らすのである。
いやあ、人間って黒いもんですな~と微苦笑したものである。
最後に本書の内容を一行でまとめておこう。

「親鸞の曾孫であるおれは絶対正義だから、
おまえら邪をなんとしてでも打ち砕く!」


「口伝鈔」(覚如/石田瑞麿訳/平凡社東洋文庫)

→「執持鈔」を書いて5年後、覚如の黒い野心は燃え盛るばかりである。
偉くなりたくて仕方がない覚如の悪だくみの結果がこの「口伝鈔」である。
自分は親鸞から正しい教えを口伝されたなどと言い放っている。
むろん、覚如が生まれたのは親鸞没後だから口伝などありえない。
このため、腹黒い覚如は次のようなお話を創作したのである。
親鸞は如信(善鸞の子)に教えを口伝している(これもさあどうだかという話である)。
その如信から自分は親鸞の教えを口伝されたと宣言するのである。
(ちなみにその如信は勉強嫌いのバカだったと解説で指摘されている)

「親鸞→如信→覚如」!
このため、全国にいる親鸞の弟子のなかで自分、覚如はいちばん偉いという理屈である。
学者の石田瑞麿氏も覚如はよほど好きになれなかったようで、
解説でさらに虚構を暴いている。
なんでも覚如が如信と面会したのは「口伝鈔」を書く40年以上むかしだったという。
そのとき覚如は18歳である。
こんな年若い青年に親鸞の教えが理解できるものだろうか。
まあ真実は前著とおなじで本書も「歎異抄」や「末燈鈔」からのパクリが多い。
かりに東国の弟子筋から聞いた話も入っていたとしたら、そこには価値がある。
それにしても口伝などされていないのにもかかわらず、
「口伝鈔」などをでっちあげる親鸞の曾孫の腹黒さはどうだろう。
善鸞といい覚如といい親鸞の血統は、どうしてか悪いやつが多いのである。

とはいえ、覚如の悪さは人間臭いと評価することもできよう。
聖人ぶったやつよりも俗臭ぷんぷんの愚人になぜか好感を持ってしまう。
それにしても覚如は腹黒い。
よほど「歎異抄」が好きだったようで、同内容を自分が口伝された話として書くのだ。
あの「往生のためなら人を千人殺せるか?」という親鸞のエピソードである。
ほとんどそのまま書き写したあと、
弟子のひとりが「とても自分の器量ではできません」と答えたと記す。
ここは「歎異抄」を読めば、唯円が答えているとわかるのである。
しかし、ずるがしこい覚如は唯円の名前を書かず弟子のひとりとぼかす(P111)。
曽祖父と血縁関係もないような唯円ごときに手柄を持っていかれてたまるか!
おそらく覚如はこう考えたのだろう。
「歎異抄」のすごさはだれよりもわかっていた覚如だが、
その名誉を受けるのは血統である親鸞一族でなければならぬと思ったに違いない。

浄土宗の悪口も公然と書いてあっておもしろい。
むかしから宗教というのは、近い関係を攻撃するのだとわかる。
(たとえば創価学会と日蓮正宗、親鸞会と浄土真宗)
親鸞はいまでは子孫の情報操作のおかげでだいぶ偉くなっているが、
もとは法然のあまたいる弟子のひとりに過ぎなかったのである。
浄土宗鎮西派の弁長という坊さんがいて、彼もまた法然の弟子のひとりであった。
この弁長のことを覚如が意地悪くおとしめるのである(P127)。
いわく、弁長を法然に引き合わせてあげたのは親鸞の親切であった。
弁長というのは、なんだか生意気なやつだった。
法然のもとで修行を終えたのちに弁長は師のもとを去るのだが、
そのとき法然が弁長の悪口を言っていたと覚如は嬉々として書くのである。
この性格の悪さ、陰湿さ、卑怯ぶりは人間臭いというほかなくほれぼれする。
法然上人が「弁長はまだダメだ」とどやしつけたと親鸞の曾孫が書くのである。
弁長は名聞(評判)や利養(金儲け)の欲がまだあるのでいかん!
弁長は反省して帰っていったが、まだ欲を捨てきれなかったため、
法然の教えとは異なることを主張するようになったと文章をまとめる。
名誉欲がいちばん強いのは実のところ、これを書いている覚如なのである。
偉くなりたくて尊敬されたくて仕方がなくライバルの悪評を広めようとする。
うんざりする向きもあろうが、まあ、人間こんなものだと思うと親しみがわかぬでもない。

まったくの悪人というのもいないわけである。
野心が強い人間というのは、やはりそれなりに優秀なのだろう。
本書で覚如がいくつかおもしろい説を出していたので紹介する。
しつこいと嫌気が差す読者もおられようが、また過去世の話である。

「いまこの世の有様によって過去において善行があったか無かったか
明らかに知ることができるだろう」(P104)


これは経典にある言葉だと覚如は言う。
「過去における因を知ろうと欲するならば」で始まる文だという。
解説者によると、いろんな書に引用されている言葉だが、出典はわからないとのこと。
正確には「欲知過去因。以現在果知。欲知未来果。以現在因知」――。
「過去における因を知ろうと欲するならば、現在の果を以って知るべし。
「未来における果を知ろうと欲するならば、現在の因を以って知るべし」
と勝手に読み下してみたが、まあ、それほどの間違いではないだろう。
結局、死ぬまで大した出世をできなかった覚如だが、本人の著書にしたがうならば、
残念ながら過去世であまり功徳を積まなかったのだろう(笑)。お気の毒さま♪

桁外れの野望を持っていた覚如はあまり常識にとらわれないほうだったのではないか。
本書で「阿弥陀仏=観世音菩薩(観音菩薩、観自在菩薩)」という説を紹介している。
博識な解説者によると、これは実際に不空訳の「理趣釈」に記載ありとのこと。
また源信も「自行念仏問答」でこのことを論じているという(P138)。
たしかに「阿弥陀仏=観音菩薩」というのは、感覚的に理解できる。
基本、どちらも民衆を救済してくださる絶対者なのだから。
両者ともに庶民の祈りの対象である。
もし「阿弥陀仏=観自在菩薩」ならば、「浄土三部経=般若心経」になってしまい、
わたしなどはそれでも十分に通用する見方だろうと思うけれども、
さすがに覚如もそこまで飛躍したことは書いていない。
まあ、覚如レベルの言葉がどれほど価値を持つのか知らないが。

また覚如レベルの言葉で申し訳ないが、この腹黒い坊さんは、
「浄土三部経=法華経」というかなり異端な信仰を説いている(P144)。
いわく、法華経の説かれた8年のあいだに王舎城の悲劇が起こったため、
仏は霊鷲山での説法を中座して王舎城にすがたを現わし、
他力の教え(観無量寿経)を説いたという。
ちなみにこの妄想、いや信仰の出典はほかにはないようだ。
おなじく覚如が著書「出世元意」で「法華念仏同体異名事」と記している。
こういう新たな説を出すところはおもしろいと思う。
出世はかなわなかったが、本物の野心家であったのは疑いえない。
ちなみに「念仏=題目」は「改邪鈔」で覚如が激しく否定している
踊り念仏の一遍が主張していたことである。

どうやら野心家でありながら失意の人生を送った覚如は酒好きだったようだ。
親鸞の話として、仏法は酒のようなものだと語られている。
「酒は憂いを忘れるという名がある」が、
愛するものと死別して悲嘆に暮れる遺族には、
死者はかならず安養の浄土に往生していると教えさとし慰めよ、と書いてある。
酒のように、悲しみを忘れさせてあげるのが仏法である。

最後に、腹黒い野心家にもかかわらず人生に失敗した覚如の教えをまとめておく。
書いているうちになんだか同情の念が芽生えてきたからだ。

【嫌われもの覚如上人の「口伝鈔」での教え】
1「おれは親鸞の曾孫だから偉い。みんな従えよ」
2「唯円は偉いが、名誉はおれがもらったぞ」
3「ライバルは悪評を流してつぶそう」
4「いまのあなたを見れば過去世で善人だったか悪人だったかわかる」
5「阿弥陀仏=観音菩薩」
6「浄土三部経=法華経」
7「仏法は酒のように悲嘆を忘れさせるもの」


「執持鈔」(覚如/石田瑞麿訳/平凡社東洋文庫)

→なんで有名人の子孫とかって自分も偉いとか勘違いしちゃうわけ?
こちら両親ともにまったく無名のクソ庶民だったからぜんぜんわからん。
どれほど系譜をさかのぼってもひとりとして偉人はいない。
まあ、どうやら犯罪者もいないようだから、そこは引け目を感じないけれど。
親鸞の息子の善鸞とやらは、自分は父から秘伝を教わったなどと主張して
東国で偉ぶった罰としてパパから勘当されたわけである。
本書の著者、覚如は親鸞の曾孫で、こいつにも悪い血がふんだんに受け継がれたのだろう。
親鸞のただの墓守に過ぎなかったのだが(それも訴訟をして勝ち取るえげつなさ!)、
自分こそ全国にいる親鸞の弟子を統率する最高権威者だとか妄想しちゃったわけ。
むかしから著書を出すと威張れたのだろう。
ただ偉い人の曾孫というだけで聖者ぶりやがって、いっぱしに本を出したわけである。
それが「執持鈔」である。

まあ、中身はこいつの書くものはみんなそうなのだが、
「末燈鈔」(親鸞の手紙)や「歎異抄」(親鸞の弟子唯円の著書)からのパクリ。
ほとんどオリジナリティというものがない。
ああ、あれは「末燈鈔」のあそこに書いてあったなとすぐにわかってしまう。
ついでだから解説しておこう。
我われは子どもだというのである。
で、名号(南無阿弥陀仏)は父、阿弥陀仏(不可思議光如来)からの光は母である
言い方を換えると、光は往生の間接的原因で名号は直接的原因だという。
それから臨終念仏を否定しているのも曽祖父ゆずり。
死ぬ直前に念仏しないと往生できないよ、というのは誤りだと言っている。

唯一、覚如に好感を持ったのは「歎異抄」の強い影響を受けているところ。
実際の親鸞はどうやらあまり宿業思想を積極的には説いていなかったようである。
宿業絶対主義は唯円「歎異抄」の特徴だと思う。
覚如もわたし同様、唯円の宿業思想にシビレたのだろう。
以下のようなことを力強く言い切っており、なかなかのものである。
現代の真宗の坊さんはこれを確信を持って言えますか?

「一切の生を享けたものの有様をみると、
その現在を決定した過去の行為はまちまちである。
また死に様も、数知れない。病におかされて死ぬものあり、
刀にふれて死ぬものあり、水に溺れて死ぬものあり、火に焼けて死ぬものあり、
ないしは床に臥して死ぬものあり、酒に狂って死ぬたぐいもある。
これらはすべて前世の行為が原因となってはたらいたものである。
けっしてこれから逃げることはできない」(P93)


ならば、モチをのどに詰まらせて死ぬのも、トラックに轢かれて死ぬのも、
まだ若いのに遠い異国で強姦されて死ぬのも前世の行為が原因なのである。
いまこれを信心込めて恐れず言える坊さんがいたら、その方は本物だと思う。
まがいものではない真実の絶対他力信仰を持っておられる方とお見受けする。
とはいえ、覚如のこの発言は遠いむかしのものだから、
これをもってして親鸞の曾孫がなにものかであったという証拠にはならない。
本人はあんがい過去世で善業をなしたから、
こうして親鸞の曾孫として生まれたと信じていたのかもしれない。

さて、かりに死に様が覚如の言うように前世の行為の結果だとしたら、
我われはもっと明るく生きることができるだろう。
ガンになるかどうかはもう前世で決まっているのだから心配しても無駄だ。
いくら酒をのんでも煙草を吸っても、死に方は前世の行為の結果なのである。
この信心が定まっていさえしたら、
戦場カメラマンにも躊躇(ちゅうちょ)なくなれるだろう。
いまの日本はもう戦争をしないそうだが、
たとえ徴兵されてもこの信心があればいさぎよく突撃することができる。
もし死に方が前世の行為で決まっているとしたら、である。
真宗の坊さんで健康マニアなどいたら、こつんと小突いてやるのがよろしい。

「末燈鈔」(親鸞/伊藤博之:校注/「新潮日本古典集成」) *再読

→親鸞が信徒へ送った手紙を集めたもの。
最晩年の親鸞がどうして生活していたかといったら、
このような手紙のお礼として金品をもらっていたようである。
さて、人は唯円の「歎異抄」を読んでから「末燈鈔」を読むがために、
なにかこの手紙にも、いやこちらは親鸞直筆なのだから
むしろ「歎異抄」よりも深い文言が並んでいると思ってしまう。
それほどに唯円の「歎異抄」を読むと親鸞が偉く思えるのである。
しかし、何度も繰り返しているが天才は親鸞ではなく唯円ではなかったか。
「歎異抄」は親鸞の言葉という形にして、
唯円が長い時間をかけて独自に深めたおのれの真理を語ったものだとしたらどうだ。
「歎異抄」は親鸞が没してのち20年も経過してから書かれているのである。
どうしてだれもが「歎異抄」の内容を親鸞の純粋なそのままの言葉だと思うのだろう?
まあ、それは理由があって親鸞子孫の浄土真宗上層部が、
自分たちの地位や名誉、なにより利権を確固たるものとするために情報操作、
さらには洗脳に近いことまでやってきた成果なのだが。
はじめに「歎異抄」ではなく「末燈鈔」を読んでしまったらどうなるだろうか。
きっとこの坊さんはそれほどの傑物ではないとみな思うはずである。

わたしもあの親鸞直筆の手紙だからなのだとずいぶんひいき目に見ていた。
なにやら深遠なことが書かれているのに自分が理解できないだけだと思っていた。
しかし、「歎異抄」を百回以上繰り返し読んだ結論は唯円は親鸞よりも偉い、である。
このことに気づいてしまったら、もう「末燈鈔」にだまされるようなこともない。
はっきり言ってしまうが、「末燈鈔」はぜんぜん大したことがないのである。
「自然法爾」を説いた部分は最高真理が書かれているとむかしは思ったものだ。
だが、あれは単に難解だからそのような勘違いをしていただけだといまではわかる。
難解というよりも、身もふたもないことを言えば、親鸞は文章がへたくそなのだ。
唯円の爪の垢(あか)でも煎じて飲めと怒鳴りつけてやりたくなる。
あるいは自然法爾の思想は、まだ親鸞の段階では完成していなかったのかもしれない。
親鸞からヒントを聞いた唯円が長らく温めて、
「歎異抄」でようやく結実させたというのが正しいのかもしれぬ。
しかしまあ、なんと「末燈鈔」の魅力のないことか。
親鸞の危険思想を真に受けた東国のバカどもが悪さをさんざんにやらかしたのだろう。
何度も「悪いことをしちゃいかん」と親鸞は手紙に書いている。
その書き方がなんとも嫌味なのである。偉そうと言ってしまってもよい。

「いつか、わがこころのわろきにまかせて振舞へとは候ふ。
おほかた、経釈を知らず、如来の御ことをも知らぬ身に、
ゆめゆめその沙汰あるべからず」(P220)


いつ親鸞が悪念のままに行動していいと言いましたか。
どうせあんたらは経典や注釈も知らず、阿弥陀如来のことも知らないのですから、
決してそんなバカなことを言ってはいけませんぞ。
まあ、こういうことを書くのは上から目線のいやなやつだよね。

「聖教の教へもみず、知らぬ、おのおののやうにおはします人人は、
往生にさはりなしとばかりいふを聞きて、
あしざまに御こころえあること、おほく候ひき。
いまもさこそ候はめとおぼえ候ふ」(P230)


いいですか、あんたらはどうせ経典の教えを目で読むこともできないし、
だからといって耳で聞いたところでさらさら理解できないんですよ。
往生に悪が妨げにはならないというさわりだけ耳にして、
頭が悪いからご勘違いなさっているのではありませんか。
なーに、インテリを気取っているんだ親鸞さんよ、と言いたくなってしまう。
てめえだってろくに漢文の読み書きもできないような田舎坊主じゃないか。

「末燈鈔」でいちばんまともな教えなど、わたしが見た限りこの程度である。
もしかしたら無教養な人間には、この程度の教えでいいと親鸞は思ったのかもしれないが。
親鸞がすすめる信仰というのはどのようなものであったか。

「仏智不思議と信じさせ給ひ候ひなば、
別にわづらはしく、とかくの御はからひあるべからず候ふ。
ただ、ひとびとのとかく申し候はんことをば、御不審あるべからず候ふ。
ただ如来の誓願にまかせ参らせ給ふべく候ふ。
とかくの御はからひあるべからず候ふなり」(P201)


こんな短い文章中におなじ文句(とかくの御はからひあるべからず)が
二度も出てくるのはあまり頭のよい書き手とは思えない。
とにかくよけいなことを考えるなよ。不審に思うな。疑っちゃいかん。
あれこれ人から言われても仏智不思議と信じていればいいんだ。
わからなくていいから盲目的に信じろ。よけいなことはするなよ。
まるで「おまえらはバカなんだから」という声が聞こえてきそうなくらいだ。
唯円の描写するあの深みある親鸞とはいささか異なるような気がするのだが。

親鸞の「三帖和讃」から脅迫めいたものを紹介しよう。

「衆生有碍(うげ)のさとりにて
無碍(むげ)の仏智をうたがへば
曾婆羅頻陀羅(そうはらひんだら)地獄にて
多劫衆苦にしづむなり」(P90)


いいか、(おれの言う)仏智を疑ったら地獄に堕ちて永遠に苦しむぞ!

「本願毀滅のともがらは
生盲闡提となづけたり
大地微塵劫をへて
ながく三塗にしづむなり」(P129)


本願を誹謗するものはめくらだから永久に三塗(地獄道・畜生道・餓鬼道)で苦しめ!

「念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中(はちまんごうちゅう)大苦悩
ひまなくうくとぞときたまふ」(P156)


念仏の悪口を言ったら地獄に堕ちて永劫に苦しむと経に書いてあるからな!
おいおい、おまえはヤクザの組長かよ!
ところがしかし、唯円の語る親鸞はこうではないのである。「歎異抄」から――。

「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、
地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもて存知せざるなり。
たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからずそうろう」(第二条)


念仏して浄土に生まれるか、それとも地獄に堕ちるか自分にはわかりません。
よしんば法然上人にだまされて地獄に堕ちてしまっても後悔いたしません。
まこと謙虚な好人物である。
謙虚と言えば、唯円の描く親鸞は「末燈鈔」のようにインテリぶらない。
経釈を知らない人をバカにするどころかその反対である。

「経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。
この条、すこぶる不足言の義といひつべし」(第十二条)


経典や注釈を読んでいない人は往生できないというのは間違いですよ。
いったいどっちの親鸞が本当なのだろう。
極めつけはやはりここであろう。

「このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、
またすてんとも、面々の御はからいなりと云々」(第二条)


念仏を信じろ、とさえ唯円の描く親鸞は主張していないのである。
信じるも信じないもみなさんのご自由ですよ。
「末燈鈔」からうかがえる親鸞像と、「歎異抄」の違いはどこから来るのか。
わたしは「歎異抄」に描かれた親鸞は唯円その人に近かったと見る。
少なくとも「歎異抄」の親鸞が唯円の理想だったことは疑いえないだろう。
実際にまみえたのはたとえ死の直前に逢っていたとしても20年もむかしである。
記憶が美化されるのは当たり前ではないか。
親鸞の教えを独自に深めた唯円は謙虚なため自身の思想だとは言わずに、
師匠の親鸞がこうであったと「歎異抄」に自己の熱い信心を書いたではないか。
念仏して往生できるか地獄に堕ちるかわからないと思っていたのは唯円である。
インテリではない庶民にも親身によりそって教えを説いたのは唯円である。
自分は親鸞を信じているだけで、他人に信仰を強制しなかったのは唯円である。
もしや師匠の親鸞は念仏しないやつなぞ地獄に堕ちろと嘲笑っていたのではないか。
田舎坊主のくせにけっこうそこそこインテリぶっていたのではないか。
「末燈鈔」や「三帖和讃」を読むと、どうしてもそういう気がしてならないのである。
「末燈鈔」「三帖和讃」を冷静に素直に読んだら、
「歎異抄」を書いた唯円こそ天才だとは思わないだろうか。
世間の常識や学校教育、巨大葬式利権に逆らう考え方になるが、わたしはそう思う。

「三帖和讃」(親鸞/伊藤博之:校注/「新潮日本古典集成」) *再読

→「三帖和讃」は親鸞がやさしい和語を用いて教えを説いたもの。
さて、唯円のほうが親鸞よりも深いのではないかと気づいてしまったいま、
意図せずして子孫から浄土真宗開祖にまつりあげられた親鸞をどう見るか。
浄土真宗が法然を見るように親鸞のことを考えたらいいのではないかと思う。
親鸞は師匠法然の教えを、言わば踏み台としておのれの信仰を形作った。
同様、天才の唯円は師である親鸞の教えをおなじく踏み台にしたのである。
法然の教えの煮詰まったものが親鸞思想だとしたら、
絶対他力信仰は名著「歎異抄」を記した唯円にいたって完成したのである。
名誉こそ親鸞の腹黒い子孫に横取りされてしまったが唯円は偉大な人である。
その唯円の師匠なのだから親鸞にもそれなりの敬意を払うべきなのだろう。
言うなれば、唯円の「歎異抄」を中心にして親鸞思想を見ていきたい。

いつだったか仏教にまったく関心のない人から、
「結局、阿弥陀仏ってなんなの? 釈迦とどう違うの?」と聞かれて
恥ずかしながら答えに窮したことがある。
しかし、浄土真宗の門徒さんも不意にこんな質問をされたら困るのではないか。
浄土真宗では釈迦ではなく阿弥陀仏を信仰するが、この仏はいったいいかなる存在か。

「弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫(じゅうごう)とときたれど
塵点久遠劫(じんてんくおんごう)よりも
ひさしき仏とみえたまふ」(P75)


法蔵菩薩が阿弥陀仏になってから十劫(とても長い時間)が経過したと経にはあるが、
本当は永遠といってよいほど計り知れないむかしに成仏されたのだよ。
つまり、計測可能(相対)の仏ではなく測定不能(絶対)の仏である。

「久遠実成(くおんじつじょう)阿弥陀仏
五濁(ごじょぐ)の凡愚をあはれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城(かやじょう)には応現する」(P87)


仏教の開祖と言われている釈迦は、実のところ永遠仏である阿弥陀仏が、
我われのためを思ってはるかむかしインドに現われた仮の存在に過ぎない。

「阿弥陀仏(絶対)>釈迦(相対)」

まあ、わかりやすく言ったらいちおう仏教は名乗りたいけれども、
釈迦の教えはくだらないと思ったインドの不穏な連中が、
しかしそれでも名義上は開祖の釈迦を粗末にはできないと思案した結果、
釈迦は阿弥陀仏の仮のすがたであるという説明に到達したわけだ。
この阿弥陀仏信仰がシナを経由して日本に輸入された。
日本の法然はあまたの仏典を読み比べた結果、
釈迦(相対)よりも阿弥陀仏(絶対)を信仰すべきと考えた。
法然の弟子である親鸞も同様である。

親鸞の仏教思想のひとつの特徴は悪人に目をつけたことである。
悪人は本当に悪なのだろうか。
こういうふうに親鸞が考えるにいたった理由として、
阿弥陀仏の絶対的価値に無意識的だろうが思いが及んでいたのではないか思う。
どういうことかと言うと、善悪というのは、どこかでも相対世界の問題なのだ。
絶対から見たら善悪など、どうでもよくはならないだろうか?
嫌味な言い方をすると、善悪を問題にするのは釈迦レベルなのである。
人間世界を生きた釈迦の説いたのは、所詮は善悪レベルの問題でしかなかった。
しかし、阿弥陀仏の大きさに親鸞は思いをはせたのである。
阿弥陀仏レベルになったら善悪なんていう問題は大したことがないのではないか。

「阿弥陀仏(絶対)>釈迦(相対=善悪)」

この阿弥陀仏の絶対世界から善悪を見るときに、
親鸞の注目したのが浄土三部経のひとつ観無量寿経であった。
観無量寿経は、大無量寿経、阿弥陀経に比べると物語性(娯楽性)が強い。
これはどういうお経かと言うと、
釈迦が絶望した韋提希(いだいけ)夫人に説いた教えだ。
どうして韋提希夫人が絶望したかと言うと、
息子の阿闍世(あじゃせ)が父王の頻婆娑羅(びんばしゃら)を殺害せんがために、
具体的には餓死させようと塔に幽閉してしまったからである。
息子が夫を殺そうとしているのだから、母たる韋提希夫人の絶望は深い。
さて、この不幸を引き起こした原因は過去にあるのである。
(この物語は観無量寿経にはなく、涅槃経や善導の観無量寿経疏(観経疏)による)
むかし頻婆娑羅と韋提希の夫婦には子どもができなかった。
どうしたらいいか易者に問うと、ある山奥の仙人が3年後に死ぬことになっており、
その仙人が生まれ変わって夫婦の息子として誕生するというではないか。
ところが、頻婆娑羅王は3年を待ちきれず仙人を殺してしまう。
いわれもなく殺害された仙人は王をひどく恨みながら死ぬ。
仙人が死んだのち、まもなくして生まれたのが阿闍世である。
この阿闍世が長じて提婆達多(だいばだった)にそそのかされ、
父王の頻婆娑羅を塔に監禁したというわけである。因果がめぐったとも言いうる。
果たして幽閉された頻婆娑羅は餓死したのか。いな、である。
韋提希夫人が身体にこっそり蜜をぬり夫の面会に行っていたからだ。
これを知った阿闍世は父のみならず母も密室に閉じ込めてしまう。
韋提希夫人はもう救いがなく、釈迦に祈るしかなかった。
このとき釈迦が飛んできて、絶望する夫人のために説いたのが観無量寿経である。
この観無量寿経の物語を親鸞はどう解釈したか。
かなり独特の解釈をするのである。

「恩徳広大釈迦如来
韋提夫人に勅してぞ
光台現国のそのなかに
安楽世界をえらばしむ」(P82)


直後に続けて――。

「頻婆娑羅王勅せしめ
宿因その期をまたずして
仙人殺害のむくひには
七重のむろにとぢられき」(同)


ここをどう読むかというのがとても重要なのだと思う。
釈迦如来が韋提希夫人に命令して安楽浄土を選ばせた。
韋提希夫人は釈迦如来によって、いまのような宿命をになわされた。
おかげで安楽浄土の教えが説かれるにいたった。
もし韋提希夫人がこのような絶望に遭遇しなかったら、
釈迦が観無量寿経を説く機会もなかった。
この解釈は学者の伊藤博之氏も支持しているから一般的なのだろう。

その次をどう解釈するか、である。
「頻婆娑羅王勅せしめ」をどう読むかだ。
わたしは学者の解釈とは異なり、
このまえに「恩徳広大釈迦如来」が省略されていると思う。
つまり、「(恩徳広大釈迦如来が)頻婆娑羅王(に)勅せしめ、
宿因その期をまたずして、仙人殺害のむくひには、七重のむろにとぢられき」。
「釈迦如来が頻婆娑羅王に命令して、仙人の本来の寿命を待たないで殺させた。
その報いとして王はいま幽閉されている」と読みたい。
学者は「頻婆娑羅王(が部下に)勅せしめ」と読んでいるけれども、
「恩徳広大釈迦如来(が)頻婆娑羅王(に)勅せしめ」のほうが正しいと思う。
頻婆娑羅王は釈迦如来に仙人を殺すという宿命をになわされた。
その報いとして、息子に監禁されてしまったわけである。
しかし、この反逆事件が起きなかったら観無量寿経は説かれなかったのである。
専門の学者に逆らうのは生意気なのだろうが、こちらの解釈が正しいのではないか。
「勅してぞ」「勅せしめ」はどちらも釈迦如来の意思と読むべきである。
このような辛酸を舐めねばならぬのが韋提希夫人と頻婆娑羅王の宿命だったのである。
阿闍世はどうか? 阿闍世は悪いのだろうか?
そもそも父の頻婆娑羅王が仙人を殺さなかったら、この造反劇は起こらなかった。
とすれば、阿闍世も父殺しを宿命として持っていたことになる。
阿闍世がそうであるならば、
父の頻婆娑羅王もまた明示されていないが仙人を殺さななくてはならぬ因縁を
(まさに息子の阿闍世とおなじように)生まれるまえに持っていたことになる。
わかりやすく説明すると以下のようになる。

1「(?)→子どもを早くほしかった頻婆娑羅が仙人を殺害する」
2「恨みをいだいた仙人が阿闍世に生まれ変わる」
3「阿闍世が父王を幽閉する」
4「母親の韋提希夫人が絶望する」
5「釈迦が夫人に観無量寿経を説く」

3の原因として2があったとしたら、1の原因にもかならずなにかあるはずである。
頻婆娑羅が悪かったから仙人を殺害したわけではないことになる。
なぜなら阿闍世が父を死にいたらしめたのにも過去世における原因があったのだから。
しかし、阿闍世はなにゆえ自分が父を殺そうとするのかはわからない。
ならば、同様に頻婆娑羅にも仙人を殺さなければならない原因が過去世にあったはずだ。
阿闍世も頻婆娑羅も悪くない。
というか、そもそもこの悲劇がなければありがたいお経は説かれなかった。
すべては必要なことだったのである。
頻婆娑羅は仙人を殺さなくてはならなかった。
阿闍世は父王を幽閉して餓死させなければならなかった。
韋提希は頻婆娑羅のもとに嫁し、阿闍世を産まなければならなかった。
三者ともにどうにもならぬ宿業(宿命)を持ち合わせたということだ。
おそらく、仙人も頻婆娑羅に殺されなければならない宿命を持っていたのだろう。

「歎異抄」第十三条の「ひと千人ころしてんや(人を千人殺してみろ)」は、
十中八九、以上のような観無量寿経解釈を経て到達した宿業観である。
親鸞いわく、人を殺してしまうのはかならずや過去世に宿業があるからである。
阿弥陀仏(絶対)から見たら、そういう悪(殺人)にもきっと意味があるはずだ。
頻婆娑羅や阿闍世の悪(殺人)にも意味(=釈迦説法の機縁)があったのだから。
もちろん韋提希夫人は救われなければならないが、
むしろ夫人よりも頻婆娑羅や阿闍世が救われなければならない。
というか、韋提希夫人がなぜ苦しんでいるかと言ったら、理由がわからないからだ。
なにゆえよりによって自分の愛する息子が、おなじく愛する夫を殺そうとするのか。
だが、この悲劇には阿弥陀仏から見たら非常に重要な意味があった。
このことを知ったときに韋提希夫人は救われるのだと思う。
(一見すると)悪人の頻婆娑羅や阿闍世が救われることで、
なりより韋提希夫人自身が救済されるのである。
相対の世界の悪(殺人)は、絶対から見たらそうではないかもしれない。
いや、絶対から見たら間違いなく悪は悪ではないのである。
悪人こそまず救済されるというのは、こういうことなのである。

「この世(善も悪もない)←浄土(阿弥陀仏)」

以上のような思想が和讃ではこう教え説かれる。

「弥陀 釈迦方便して
阿難 目連 富楼那 韋提
達多 闍王 頻婆娑羅
耆婆 月光 行雨等」(P83)


たまには学者先生に敬意を表して、そのまま訳を引いておこう。
「弥陀と釈迦は方便のてだてを以て、王舎城の悲劇を現じ、
阿難以下の人物のかかわりを介して衆生に弥陀の本願を知らしめた」。
悪人と目される提婆達多も阿闍世も頻婆娑羅も尊者だと言うのである。
以下引用文の「大聖」とは悪役もふくめた悲劇の登場人物全員のこと。

「大聖おのおのもろともに
凡愚底下のつみひとを
逆悪もらさぬ誓願に
方便引入せしめけり」(P84)


悪人も救済されると教えるために聖人たちが悲劇を演じてくださったのである。
すべては方便(嘘も方便!)ということだ。

「釈迦韋提(いだい)方便して
浄土の機縁熟すれば
雨行大臣証として
闍王(=阿闍世)逆悪興ぜしむ」(同)


浄土の教えを説く機縁が熟したから、
釈迦や韋提希夫人が嘘も方便のような形でグルになって、
なおかつ雨行大臣の偽証のようなあさましい事件が起こり、
すべての結果として見苦しくも阿闍世が父を殺そうとしたのである。
わかりやすくまとめると以下のようになる。

☆「この世の悲劇=阿弥陀仏のはからい←浄土(絶対)」
☆「この世の不幸=阿弥陀仏のはからい←浄土(絶対)」
☆「悲劇や不幸=意味がある←浄土(絶対)」
☆「相対世界=そのままで価値がある←浄土(絶対)」
☆「マイナス=プラス←浄土(絶対)」
☆「諸事全般=他力=自然(じねん)←浄土(絶対)」


以下少しばかり駆け足で親鸞の他力信仰と自然法爾の思想を見ていく。

「無碍光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩(ぼんのう)のこほりとけ
すなはち菩提(ぼだい)のみづとなる」(P113)


☆【「氷(煩悩)→水(菩提)」←夕日(阿弥陀仏)】=自然(じねん)

これは臨済宗の一休宗純禅師もおなじことを道歌で説いている。

「雨あられ雪や氷とへだつれど とくればおなじ谷川の水」

☆【(太陽→)「あられ=雪=氷」→谷川の水(→大海)】=自然

「罪障功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし」(P114)


☆【「氷↑=水↑」「罪障↑=功徳↑」「苦悩↑=歓喜↑」】←阿弥陀仏(浄土)

「弥陀の智願海水に
他力の信水いりぬれば
真実報土のならひにて
煩悩菩提一味なり」(P150)


☆【相対:川→→(他力)→→絶対:海(煩悩=菩提)】=自然

他力(自然)というのは、川が海に流れ込むことなのだろう。
この自然のイメージは、
人気作家の宮本輝氏(「蛍川・泥の河」)や五木寛之氏(「大河の一滴」)も好む。
井上靖氏も川が好きであったことで知られている。
それぞれ人間は無数の川のようなもので、ときに合流、ときに分流するが、
結局はみなみなどの川も海(死=大きないのち)に帰っていく。

「弥陀智願の広海に
凡夫善悪の心水も
帰入しぬればすなはちに
大悲心とぞ転ずなる」(P156)


☆「善悪の分別(川=人間世界)→→自然→→大悲心(海=阿弥陀仏の世界=浄土)」

川が海へと流れ込むのは自然であって、人力の関与するところではない。
まさしく自力ではなく他力である。
氷(煩悩)はそのまんまにしておけば自然と太陽熱(阿弥陀仏)で水(菩提)になる。
だとしたら、なぜか易行の他力浄土信仰が難行自力の禅の世界に通じてしまうことになる。
臨済宗の一休宗純禅師の以下の道歌もまた自然(じねん)をうたっているのではないか。

「そのままに生まれながらの心こそ 願わずとても仏なるべし」
「わが心そのままほとけ生きぼとけ 波を離れて水のあらばや」


一休=「そのまま=自然=他力=煩悩菩提一味」=親鸞(→唯円)

(参考)4年前の感想「歎異抄 三帖和讃」↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2076.html

「歎異抄」(唯円)

→このたび3ヶ月以上にわたって毎日、般若心経、一休宗純の「般若心経提唱」、
それから唯円が師である親鸞の教えをまとめた「歎異抄」の3冊を読み返した。
このため百回以上「歎異抄」を繰り返し読んだことになるが、
とにかくあきないのである。
そこで思ってしまったのは、もしかしたら天才だったのは親鸞ではなく、
むしろ弟子の唯円のほうが飛びぬけた才能を持っていたのではないか。
というのも、付随して親鸞の直筆とされる「三帖和讃」(和歌)、
「末燈鈔」(手紙)、正信偈(主著「教行信証」の一部で信徒が毎日読む)をも
読み返したが、正直言ってあきるのである。とても毎日は読めない。
もっと言ってしまえば、毎日読んでも発見があるほどの深みははない。
一方で唯円の書いた「歎異抄」は決して汲み尽くせぬ泉のような豊かさがある。
私見では、「歎異抄」は日本人が書いたいちばんの有害図書、危険図書である。
であるからして、その毒性がときに良薬となって深く傷ついた人を癒すのだろう。
子どもを自殺で亡くした作家が没入するのもむべなるかなである(高史明氏)。

百回以上読んだのだから自分の直観を信じて言い切ってしまうが、
唯円が「歎異抄」に書いた内容は親鸞の著述物など比較にならぬほど深い。
表面的な文章においても唯円は、悪文の親鸞が逆に師匠にしてもいいほどうまい。
唯円は感情の乗った実にわかりやすい文章を書いている。
もしかしたら弟子の唯円のほうが、
親鸞よりもすごかったのではないかと思うゆえんだ。
ところが、唯円は不遇な人なのだ。
親鸞の曾孫の覚如(かくにょ)という男は権力志向の強いえらく評判の悪いやつだが、
この程度の坊さんでも親鸞思想を理解できたのは「歎異抄」を読んだためだろう。
あんがい「歎異抄」を読んだがために、
これをうまく使えば出世もでき(偉くなれ)金も儲かると野心をいだいたのかもしれない。
おれは親鸞の曾孫だから偉いと主張した覚如を世間は相手にしなかった(ザマアミロ!)。

ところが、7世のご存じ蓮如(れんにょ)が覚如の野望を実現することに成功する。
蓮如は教団を飛躍的に拡大させ、まんまと最高権威者の地位に就く。
注目したいのは、覚如も蓮如も「歎異抄」を闇に葬ったところである。
自由閲覧を禁じたのだ。
蓮如の御文(手紙)は平明でよくできていると思うが(親鸞以上!)、
種本(パクリもと)は明らかに非公開にした唯円の「歎異抄」である。
教えの系譜を整理すると、「法然→親鸞→唯円」である。
いちばん深く念仏信仰を理解したのは、あるいは唯円かもしれないとさえ思う。
しかし、親鸞の子孫は血統を理由にして甘い汁を吸いたかった(地位、収入)。
「歎異抄」を一度でも読んだら親鸞が教団設立など欲していなかったのがわかる。
つまり、お布施の無意味をはっきりと書いている。
だが、お布施を否定したら儲からないわけだ。
こうして偉大な念仏者である唯円とともに「歎異抄」の存在はなかったことにされた。

考えてみれば、親鸞の子孫というのは悪人ぞろいと言えなくもないわけだ。
親鸞は法然の大勢いる弟子のうちのひとりだったに過ぎない。
にもかかわらず、血を引くものは法然ではなく親鸞のほうを宗祖に仕立て上げ、
そのうえで血統を姑息にも声高に主張して代々最高権威者に就任して、
いまでさえも豪華な法衣を着てしもじもの信徒を見下し、
うまいものをたらふく腹に詰め込みながら得意顔でふんぞり返っているのだから。
さらに教えの勘どころは親鸞ではなくもっぱら弟子の唯円によっている。
そのくせ信徒には長らく唯円の「歎異抄」を読ませず、
正信偈などという悪文をありがたいものだと思い込ませて洗脳している。
こうして考えると唯円という人はたいへんな宗教的才能に恵まれたものの、
親鸞一族のせいで実力に見合う評価をいまでさえ与えられているとは言いがたい。
学者のなかには
唯円なぞなんの教養もない田舎坊主に過ぎなかったと主張するものがいるが、
下司の勘繰りをすれば利権団体の浄土真宗から裏金でももらっているのだろうか。
もしかしたら天才の唯円にほかの著書があったかもしれないのである。
それを親鸞の悪い子孫が歴史から揉み消したという可能性だってないとは言えない。

親鸞がやたら悪人ぶっているのはなんなのか少しわかったような気がする。
親鸞という男はやはりある種の才能があり、
おのれの血の穢(けが)れを自覚していたのではないか。血が穢れている。
息子の善鸞が出張先の東国でやらかしたハレンチな詐欺行為も、
よくよく考えてみればきっと親鸞の悪い血が息子の体内で騒いだのである。
曾孫の覚如の極悪人ぶりはスキャンダル好きの梅原猛氏のみならず、
石田瑞麿氏も東洋文庫の解説でこれでもかと暴き立てている。
室町時代における蓮如の教線拡大は、池田大作氏の折伏大行進のようだ。
5人の女体を欲望のままに犯しはらませ27人の子どもを世に出したのが蓮如だ。
そのどす黒い血を引く実如は率先して戦争を起こしている。
教如、準如兄弟の権力争いにも親鸞一族の血の穢れを見ることができる。
これだけ子孫がやばいということは、あるいは親鸞も悪いやつだったのかもしれない。
親鸞の主著は70歳を超えて書かれたものばかりだが、
若いころはかなりやんちゃをしたのではなかろうか。
「歎異抄」の巻末にわざわざつけたされた附録(過去に流刑された記録)を、
一生この恨みを忘れまいという親鸞の執念深さの現われと見るものもいる(梅原猛氏)。

親鸞が悪いやつなら弟子の唯円はどうだったか?
わたしは唯円もなかなかの悪(わる)だったのではないかと思う。
「歎異抄」には悪(わる)同士が心を通わせあっているような不気味な描写がある。
さて、「歎異抄」は唯円が師匠の親鸞から口頭で伝えられた秘伝と言ってよい。
ここでは公式書面には断じて書けない本音の信心が明らかになっている。
ほかならぬ親鸞だから教えられたという真宗一派の公式見解も間違いではないのだろうが、
才能ある唯円だからこそ引き出すことができた親鸞の言葉という見方も可能だ。
どういうことか。
「歎異抄」から親鸞の偉大さばかり発見するのはおかしいのではないか。
それはたぶんに学校教育および浄土真宗の洗脳結果なのである。
広く見てみれば唯円以外だれひとりとして親鸞思想の怖さをうまく伝えられていないのだ。
親鸞の著作物(「和讃」「末燈鈔」「教行信証」)は、
残念ながらいくら教団上層部がうまく洗脳しようがそれほど人を惹きつけない。
もし秘伝書の「歎異抄」がなかったら、浄土真宗はここまで発展しなかったのではないか。
浄土真宗の歴代トップが教団拡大のために多くの悪事をなせたのは、
あるいは「歎異抄」のおかげではないだろうかとも思う。

唯円の「歎異抄」でしか語られていない親鸞思想はけっこうあるようである(宿業思想等)。
親鸞自身は師匠の法然から教えられた内容を長期間かけて醸成して、
みずからの信心として結晶させた。
このため法然の教えと親鸞のそれは異なるところが少なからずある。
ならば、唯円にもおなじことが起こりうるのではないか。
唯円は親鸞から口づてに聞いた教えを長い時間をかけて血肉化した。
その結果が名文でつづられた「歎異抄」である。
だとしたら、「歎異抄」には親鸞とは異なる唯円独自の思想が入っていることもありうる。
あたかも親鸞が自分は法然の教えを伝えるものだと言いながら、
いつしか師匠とは異なる独自の思想を形成してしまったように、である。
こう考えると、「歎異抄」に救われた多くの人は、親鸞に感謝するのもいいが、
まずそのまえに筆者である唯円その人の価値をもっと認めなければならないことになる。
こんなとっぴなことを考えたのは、わたしが「歎異抄」で心打たれたような内容が、
どう目を凝らして見ても「和讃」や「末燈鈔」(手紙)には収録されていないからである。
もしやそれは親鸞ではなく、いまも不遇な唯円の思想ではないか。
代々威光を借りて甘い汁を吸ってきた親鸞の子孫が開祖を崇拝するのは当たり前なのだ。
だが、唯円はなんら血縁はないにもかかわらず、
親鸞のことをだれよりも愛し、そして深く理解したのである。
さらになんの利権も求めず、ただ親鸞の正しい教えを伝えんがために「歎異抄」を記した。

☆     ☆     ☆

いよいよ内容に入ろう。
「歎異抄」と言えば悪人正機説と丸暗記させられた方もいるだろう。
しかし、わたしが3ヶ月繰り返し読んで理解したところでは、
悪人正機は大した思想でもなんでもない。
そもそも悪だの善だのを問題にしないところに「歎異抄」のすごみがあるのだ。
ここに目をつけている人を解説書で見かけなかったが、
「歎異抄」のかなめは以下の引用部分ではないかと思う。

「聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもて存知せざるなり。
そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
よきをしりたるにてもあらめ、
如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
あしさをしりたるにてもあらめど、
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのことみなもてそらごとたわごと、
まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
とこそおおせはそうらいしか」(後序)


たかだか人間ごときには善や悪はわからないよ、と言っているのである。
一見、善のように見えるものの如来(にょらい)からしたら悪かもしれない。
我われの目には悪のように見えるものも如来は善と判断するかもしれない。
この世のことはすべて、善悪をふくめて「そらごとたわごと」である。
この姿勢はみなさんもどこかでおなじみではないかと思う。そう般若心経である。
「歎異抄」の最後で唯円は親鸞の口を借りて一切空(くう)を説く。
我われもこの娑婆(しゃば)世界もなにもかも、
すべて目に見えるものは「そらごとたわごと(=空)」だと言うのである。
みなみな夢まぼろしのようなものである。
だが、ひとつだけ「まこと」があってそれは念仏である。
ならば、念仏とはなにか? 「歎異抄」は実に明確な定義をしている。

「念仏には無義をもって義とす、不可称不可説不可思議のゆえに、
とおおせそうらいき」(第十条)


念仏は人間には理解できない。
なぜなら称することも説くことも思議することもできないからだ。
我われの分別を超えたものが念仏だというのである。
ここまでを丁寧に整理する。
1「人間には善悪はわからない」
2「この世のすべてがそらごとたわごとゆえ」
3「ただ念仏のみぞまことである」
4「念仏=不可思議(わからない)」
→「善悪にとらわれずに不可思議な念仏を信じなさい」

一般的に仏教徒は悟りを求めるとされているが、
親鸞の教えにおける悟りとはいかなるものか?
この疑問への問いも、実にわかりやすく「歎異抄」に記されている。

「戒行・恵解ともになしといえども、
弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、
煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらわれて、
尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、
さとりにてはそうらえ」(第十五条)


修行や知識は必要なく、だれにでも阿弥陀仏が船を出してくれるから、
それに乗って光でいっぱいの向こう岸に渡りなさい。
そして彼岸で大きな光明のうちに入ったときが悟りなのだよ。

「念仏=彼岸に渡れ!」

この彼岸のことを浄土真宗では浄土と言っているのである。
仏教ではこちらの岸(この世)から向こうへ岸へどう渡るかによって宗派がわかれるのだ。
出家して厳しい修行をしながら渡るのもいいが、
その方法では少数者しか悟れないため、小乗仏教(小さな乗り物の教え)と呼ばれてしまう。
親鸞の教えは大乗仏教である。
念仏を唱えたら彼岸に渡してくれる大きな船が来てくれるという。
和讃でもおなじことを主張している。

「弥陀 観音 大勢至
大願の船に乗じてぞ
生死(しょうじ)の海にうかびつつ
衆生をよばふてのせたまふ」


浄土真宗の世界をわかりやすくまとめておく。

☆「此岸→(大河)→彼岸」(仏教の基本)
☆「相対→(大河)→絶対」
☆「善悪→(大河)→念仏」
☆「娑婆→(大河)→浄土」
☆「無明→(大河)→光明」
☆「自力→(大河)→他力(自然)」
☆「迷い→(大河)→悟り」
☆「法蔵菩薩(人間)→(大河)→阿弥陀仏(永遠仏)」(本願)


たぶんいちばん最後のがわからなかったのではないかと思う。
正直言うと、わたしもこれはなかなかわからなかった。
おのれの「わからない」を徹底的に突き詰めたからわかりやすく説明できると思う。
どうかついてきてくださいませ。

法然や親鸞の浄土教では釈迦ではなく阿弥陀仏という永遠仏を信じる。
何度も生まれ変わりこの世に仮のすがたで登場してくれた阿弥陀仏であるが、
たまたま2千5百年前インドで仮のすがたをもって現われたのが釈迦だという。
さて、この阿弥陀仏というのはなにか?
科学的に見たらむろん人間の創造したフィクションだが、
阿弥陀仏にまつわる物語を書いた大無量寿経というお経があるのである。
そのお経によると――。
おおむかしに法蔵菩薩という人間がたいへん苦しい修行をして阿弥陀仏になった。
このとき誓いを立てたというのである。
もし人間に過ぎぬ自分が仏になることができたら以下の願いもかなうであろう。
原文は、「以下の願いがかなわないならば自分は仏にならない」だが、まあおなじだ。
おおむかしに人間が願ったのである。
まず人間でも仏になれることを願ったのが偉大なのだろう。
人間でありながら人間を超えようとした、言わば超人が法蔵菩薩である。
「このままではいけない」「かくありたい」と願う力が阿弥陀仏信仰の根本だ。
現実を変えようと願うフィクションの力を結晶させたのが念仏と言ってもよい。
さて、法蔵菩薩は四十八の願を立てたが、
そのうちのひとつが、もし自分が仏になったら、
だれでもが念仏するだけで仏の国(浄土)に入れてやろう、というものだ。
いまはもう法蔵菩薩は阿弥陀仏になっている。
だから、みな念仏するだけで浄土へ行けるというのである。

バカらしいおとぎ話のように感じられた方も多いのではないかと思う。
しかし、これを人間が嘘で辛い現実を乗り越えようとした話と見ると物悲しくはないか。
全人類に対するあわれみのようなものを感じはしないか。
現実はむかしもいまもなんにもないのである。救いなんて人間世界にあるはずがない。
しかし、人間はこの苦界を生きていかなければならない。
そのとき人間の武器になるのは嘘しかないのである。嘘で救われるしかないのだ。
おおむかし深く人生に傷ついた人間が、人が仏になるという嘘を考えついた。
つぎに、こんな苦しい世の中ではない仏の国があるという嘘を創る。
よし、人の名前は法蔵菩薩にしよう。
仏さまはあの美しく輝く夕日(無量光)のような存在であってほしいから、
阿弥陀仏(無量光仏)と名づけよう。
法蔵菩薩が阿弥陀仏になるとき誓いを立てたということにしたら、
物語が華やぐから四十八の願いをためしに考えてみよう。
現実は苦しいことばかりでなんの救いもないけれど、
もしこうだったらどんなにいいかと苦悩者が現実ではない世界を強く願う!
その結果として創作されたのが大無量寿経である。
本当は嘘なのだが、嘘であるお経を真実だと言い放ったつわものがいたのである。
この嘘を本当だと信じるときに人間は救われたような思いをいだくのである。
わかりやすく言えば、時代劇で悪が裁かれるのを見て救われるようなものである。
山田太一ドラマを見て感動するのもおなじだ。
宮本輝の小説を読んで感激するのもそうだ。みな嘘に救われているという点では等しい。
宗教がドラマや小説と異なる点は、みんなで一斉に嘘を本当だと信じるところだ。
小説の感動はすぐに薄れるが、宗教はそれを防ぐために儀式を導入する。
毎日のように嘘を本当だと信じたら(自分を騙したら)生きやすくなる。
しかし、嘘は本当に嘘だろうか?
そもそも我われが本当(現実)だと思っているものももしや嘘ではないか。
大乗仏教の般若経典はすべては空(くう)と説く。みんな嘘っぱちだ(一切空)。
これはみんな本当だということでもある。
だとしたら、大無量寿経も真実ということにはならないだろうか?
阿弥陀仏信仰は空(くう)思想と以上のようにからみあって、
絶対的真理の装いを得ることになるのだが、おわかりいただけましたか?
さらにわかりやすく書きますね。

1「人間=苦しい→嘘を考える」
2「妄想=夕日のようにあたたかい仏さまがいたら!」
3「法蔵菩薩→阿弥陀仏」(大無量寿経)←妄想
4「一切は空(くう)だ」(般若経)
5「嘘=空(くう)=本当」
6「大無量寿経は真実」
7「人間←(阿弥陀仏)←浄土」
8「念仏すれば救われる」

とまあ書いてみたが、人は合理的になにかを信じるのではない。
おそらく信じるとは、この人は本物だと思い込んだ人に賭けることではないか。
合理的に正しいから信じるという信仰もあるが、それは弱い。
法を信じるのは弱い。なぜなら所詮は感情の入っていない理念だからである。
おそらく、法然の信仰は法を頼りにしていたから親鸞よりも弱かった。
たしかに善導や源信を信じていたのだろうが、どちらも故人である。
生きた教えを伝えられたわけではない。やはり面授の教えがいちばんだ。
法を合理的に考えるよりも、この人に一か八かで賭けようという信仰がもっとも強い。
このため法然に一か八かの賭けをした親鸞の信仰は強力だ。
まったく同様に面授の弟子であった唯円は親鸞という人に賭けた。
結果、「歎異抄」という宗教文学の最高傑作が生まれたのである。
親鸞は自分のもとを訪ねてきた唯円もふくむ弟子たちにおのれの信仰をこう説明する。
これが本物の信仰なのだろう。

「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
よきひと(=法然)のおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、
地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもて存知せざるなり。
たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからずそうろう」(第二条)


自分は師匠法然の教えに賭けたのだと言っているわけである。
もし法然の教えが誤りなら、地獄に落ちることもいさぎよくよしとする。
いままでどこかで存命の作家の信者にはついていけないものを感じていたが、
いざ山田太一信者や宮本輝信者になったら救われるところがあるのかもしれない。
話はそれるが、創価学会がうたう「師弟不二」は最強の信仰形式なのだろう。
さて、一切空(「火宅無常の世界は、よろずのことみなもてそらごとたわごと」)
ならば、なにかを真理だとして全身で賭けるのが信仰になるのだろう。
真理かどうかはわからないが、真理だと思って賭ける。一か八かで飛び込んでみる。
唯円は親鸞のどのような言葉に自分を賭けたのか。

「よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。
悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。
故聖人のおおせには、
「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、
宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき」(第十三条)


これは究極の危険思想だと思う。
いいことをしようと思うのは、過去世で善を積んでいたからである。
反対に悪いことをしてしまうのも、過去世の悪業の働きだ。
ほんの小さな罪でさえも過去世の行為の結果(=宿業)でないものはない。
さらに親鸞は唯円にぶっ飛んだことを言うのである。
極楽往生のために人を千人殺せと命令されたら実行できるか?
唯円は、とても自分にはひとりとて殺すことはできないと答える。
ほうらわかっただろうと親鸞は宿業の思想を説く。すべては宿業ゆえなのである。
宿業がなかったらば、人を殺そうと思っても殺すことはできない。
反対に殺そうと思わなくても宿業があると人を千人殺してしまうこともある。
善悪のことはみなみな宿業とあきらめ、ただただ念仏を唱えさえしたら、
悪人救済こそ阿弥陀仏の本願なのだから、かならず浄土へ行くことができる。
これを本当に信じてしまうと近代刑法制度がおかしくなってしまう。
無差別殺人をやらかすのは犯人のせいではなく宿業のためとなる。
たとえ逮捕されて死刑になったとしても、
犯人が改心して一回だけでも信心を込めて念仏していたら浄土に往生している。
この親鸞の言葉は真実かどうか。
唯円はこれを絶対的真理だと信じているから「歎異抄」に記しているわけだ。
わたしはどうかと言うと、かなりところまで真理ではないかと思っている。
日によっては、これが絶対的真理ではないかとさえ思うことがある。
しかし、もしこの教えが正しいなら好きなだけ悪いことをしていいことになる。
いくら悪いことをしようと思っても宿業がなければできないわけだから。
たとえ悪いことをしたとしても過去世の悪業のせいだから仕方がなく、
それでも阿弥陀仏の悪人救済の本願を信じて念仏すれば往生できる。
こういう思考法で悪いことをする信者が東国には大勢現われたのだという。
これは「本願ぼこり」と呼ばれていた。
本願をほこってわざと悪いことをすることだ。
さて、面授の弟子たる唯円は、
親鸞が「本願ぼこり」ついてどう言っていたかを書き記す。

「願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。
さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、
ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ」(第十三条)


公式書面たる「末燈鈔」(手紙)ではさんざん悪の禁止を親鸞は訴えているのである。
しかし、唯円は炎のような信念を持って宣言する。
師匠の親鸞いわく、「本願ぼこり」ゆえの悪行もまた宿業のためである。
本願にほこってよい。
善悪というのは過去世における業の報いだから仕方がないと思い切って、
ひたすら阿弥陀仏にすべてをお任せするのが他力なのである。
善悪や禍福は、過去世の業の報いだからもうどうしようもない。
このどうしようもないを認めるのが他力なのだろう。
そして、どうにでもなりやがれと明るくすべてを阿弥陀仏に託すのが他力である。
阿弥陀仏に南無(お任せ)するのが念仏である。
自力を放擲(ほうてき)するとだんだん明るくならないだろうか。
不安や心配も少なくなり、気分がすっと楽になる。たぶんこれが念仏の功徳なのだろう。
俗な言い方をすれば、南無阿弥陀仏とは「心配しても始まらないよね」だ。
または「うじうじ悩んでも仕方がない」もそうである。

他力=「どうしようもない」→「どうにでもなりやがれ」

「すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、
ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。
しかれば念仏ももうされそうろう。
これ自然(じねん)なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。
これすなわち他力にてまします」(第十六条)


念仏しようと思って念仏するのではなく、自然に出てくる念仏がいいと言うのである。
阿弥陀仏の別名は不可思議光如来である。意味は、不可思議な光の仏さまくらいか。
念仏信仰とは、「わからない(不可思議)」を信じるということなのだろう。
将来どうなるか絶対にわからない。死んだらどうなるか絶対にわからない。
しかし、絶対に「わからない(不可思議)」からこそ信じるに値するとも言いうる。
なぜなら不可思議には人間を超える絶対の存在が透けて見えるからである。
不可思議を信じていたら人生でいろいろ不思議なことが起こったりもするのだろう。
よく考えてみたらいまこうして生きているだけでもなにやら不可思議だと思えなくもない。
さまざまな偶然の積み重ねで不可思議にもいまこうして生きているわけである。
この不可思議を信じようというのが南無阿弥陀仏なのだろう。
つまり、人間を超える大きなものを信じる。わからないからこそ信じる。
徹底的になにもかも「わからない」ということだけ理解する。

「今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、
存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし」(第四条)


助け合いもいいが、だれかを助けようとしても思うように助けることはできない。
善意がかえって迷惑になることもある。
そもそも善意が本当に善なる働きをするか人間にはわからない。
いつの時代も人間関係は難しいのだろう。

「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのある」(第六条)

これも他力思想を端的に説明した名文句だと思う。
人間関係は思うようにならない。
いくら努力をしても大枚をはたいて婚活をしても結婚できない人は結婚できない。
友人は作ろうと思ったからといってできるものではない。
なんとか結婚にこぎつけてもすぐに離婚してしまうようなこともあるだろう。
そして、それらはすべて人間の努力とはいっさい関係ない。
そうかと思ったら、もう老年にさしかかった独身男性のもとに
とても相性のいいパートナーが現れることがないとも限らない。
どんなに気を遣って接していても10年来の親友と絶交することもある。
人間関係を動かしている原理をひと言で言えば「わからない」になろう。
縁は人間にはわからない、不可思議だから、
ご縁と「ご」をつけて重んじておいたほうがいいのだろう。

「一紙半銭も、仏法のかたにいれずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、
それこそ願の本意にてそうらわめ」(第十八条)


一銭も坊さんにお金などあげなくても他力を信じていたらそれでよろしい。
親鸞がこう言っていたと弟子の唯円が書き残しているのである。
お賽銭をいくら投げ込んでも、高額のお布施を支払っても、大した意味はない。

「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」(第六条)

親鸞はいまのような巨大教団など作る意図はまったくなかったのである。
逆説的にものごとは思うようにならないことを証明してしまったのかもしれない。
親鸞のまったく意図せぬ浄土真宗の隆盛こそ他力の証拠とも言いうる。
さらにすごいことを親鸞は言っている。

「このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、
またすてんとも、面々の御はからいなりと云々」(第二条)


念仏信仰をするもしないも、みなさんのご自由ですよ。
自分が絶対正義でみな従えというのとは正反対の態度である。
深々と他力を信じていたから、このセリフを言えたのかもしれない。
仏縁があれば信じるだろうし、なければ離れていくだろうから、
それはもう親鸞のはからいを超えた「どうしようもない」ことなので、
「どうにでもなりやがれ」と思ったすえに「面々の御はからいなり」と言う。

他力=「わがはからわざる」=「面々の御はからいなり」

実のところ親鸞は、和讃では念仏を信じないと地獄に落ちるぞ、
と繰り返し言っているのである(「新潮日本古典集成」P90,P129,P156)。
果たして弟子に「歎異抄」を書かせたところの親鸞が偉かったのか。
それとも親鸞の名のもとにおのれの他力信心を「歎異抄」に託した唯円がすごかったのか。
結論はここには書かず、ただそれは「面々の御はからいなり」と書いておこう。
「わがはからわざる」ところである。

「般若心経の本」(学研)

→多くの人の般若心経解釈を集めたもの。
いろいろな解釈があるな~と思う。
なかにはおまえ絶対に般若心経を理解していないだろうというものもあったが、
それなりの肩書の人が言っていることだし、真理は人それぞれと思っているから、
どこぞの新興宗教信者のように破邪顕正、
つまり絶対的真理(=当人の熱い思い)を訴える気にはならない。
全体的に科学に気を遣い過ぎているような気がした。
科学なんて当面真理で、どうせどれも50年後には否定されるものばかりなのに。
おそらくいま最大多数の信者を持つ新興宗教が科学なのだろう。
わたしは般若心経の怪しいところが好きなのだ。
気味の悪いところ、呪術めいたところが好きと言い換えてもよい。
わからないところがいいじゃないか。
実のところ、我われの周囲もわからないことだらけなのだ。
いまどうしてこうなのかはわからない。
なぜいまの両親の子として産まれたのかわからない。
将来、なにが起こるか絶対にわからない。
いつ死ぬのかだれもわからない。死んだらどうなるのかだれもわからない。
いつだれと出逢うのか、だれとも出逢わず死ぬのか、それも死ぬまでわからない。
実際はわからないことだらけなのである。
そのとき意味がよくわからない般若心経を意味のわからぬまま唱えるのは、
かなりすぐれた人生戦術だと思う。

いや、人によっては法華経でも正信偈でもいいのだが。
みなさんが好きな法華経も結局のところ最後まで内容はよくわからないでしょう?
わからなくていいのである。わからないからいいのである。
本書に薬も効かない重いうつ病で苦しんだ弁護士が、
わずか半年座禅をしただけで完治したという話があった。
それからブッダや般若心経に興味を持ったという。
この人は座禅で救われたが、軽いうつ病くらいなら般若心経で治ることもあるだろう。
どうしてうつ病になるのかは究極的にはわからないから、
よく意味がわからない般若心経を唱えることでなぜか元気になってしまうこともあるのである。
しかし、自信たっぷりなやつというのはいやなものである。
本書でも自分の解釈は絶対正義とでも言いたげな偉そうなやつがいた。
肩書を見たら天台寺門宗なんたら布教師となっていたからこのためだろう。
いち集団の真理を自分のものとして疑わない、そこそこ幸せな人がいるのである。
二種類の人間がいる。
真理はだれかから教わるものと勘違いしている人と、
自分の真理は自分で見つけるしかないという意気込みのある人と。
そのだれかから教わった真理を疑いもせず、
他人にも教える人はかなり正しいのだと思う。
たとえば般若心経の空(くう)をこう解釈している。
ほかでも似たようなものを読んだことがあるから多数派の共通認識なのだろう。
「大般若経」にいわく――。

「諸法皆是因縁生 因縁生故無自性 無自性故無去来 無去来故畢竟空」

書き下すと――。

「諸法は皆これ因縁より生ず。因縁より生ずるが故に自性なし。
自性なきが故に去来なし。去来なきが故に畢竟空なり」


みんな因縁によってたまたま存在しているだけだから空(くう)なんだよ。
しかしさ、こう教えられてもぜんぜん役に立たないわけ。
こんな文章の正しい意味を理解しても、ゆめゆめうつ病は治らない。
わけがわからないものとしてお経を唱えるとき、
どうしてかわからないけれど病気がよくなったりすることがあるのだと思う。
真実はわからないのである。
なぜこうなのかも、これからどうすればいいのかも、みーんな、実はわからない。
だから、意味のわからないお経を唱えることで救われることがたまさかあるのである。
もちろん、お経を唱えたらかならず事態が改善するわけではない。
すべては人間にはわからないのである。
般若心経の最後の呪文は、このため、わからないからこそ偉大な価値があるのである。

「山田太一、小此木啓吾、「家族」を語る」(PHP研究所)絶版 *再読

→ねじり鉢巻きをして自己啓発書やビジネス本を血まなこで速読するのもいいけれど、
好きな作家のイージーでチープかつルーズな絶版対談本を
だらだら酒でものみながら亀のようにゆっくり再読するのもまた楽しい。
本書を読んで、もしかしたら個性的な人間とは嫌なやつのことではないかと思った。
こちらはいままでほとんどだれからも褒められたことがないので、
もうやけくそになって人目をはばからず自画自賛をすると(てへへ♪←かわいく!)
わたしのどこがすごいかと言ったら古今東西の戯曲代表作をまあほとんど読んでいるからだ。
たいがいの研究者は専門外国語の枠にこだわるのが流儀らしいので、
これほど国や時代にこだわらず、言わば節操なく劇作を読み漁っているものはいないと思う。
世界万国、時代いっさい問わずに、だ。
万が一おられたとしても、感想をこうしてブログに残しているものはたぶんいないだろう。

いかにも嫌なやつらしく自分を厚顔にも持ち上げたあとに、
ついでだからとあまりにも多くの人間から褒められている現代日本のドラマ作家、
山田太一先生にもいくばくかのあまり意味のない賛辞を差し上げておくと(当方が無名ゆえ)、
どうしてかの先生が偉いかといったら
古今東西の劇作をあらかた読破した当方が(まったく生意気にも←ごめんなさいですm(__)m)
日本最高峰の劇作家であると評しているからである。
物怖じせずはっきり言っておきたいが、
日本のテレビドラマのなかでいちばんだと申し上げているわけでは断じてない。
ギリシア悲劇やシェイクスピア、ノーベル賞劇作家、近松門左衛門等と比較して、
山田太一は日本がほこる最高位のドラマ作家だと主張しているのである。
まだ存命の作家をこのように持ち上げるのはおべっかのように思われるかもしれないが。
所詮は好き嫌いに過ぎない作品感想を大仰に語っているのはおかしいのかもしれないが。

さて、世界各国各時代の劇作を、「ただおもしろいものを読みたいから」
という理由で無意味にも無目的にも読み漁ったわたしが
もっとも好きなのはどこの国のものかと問われたらイギリス演劇になる。
やはりシェイクスピアの伝統があるからかもしれないと思うけれど、
こちらはお偉い学者先生からは程遠い単なる台本マニアに過ぎないので断言は避ける。
無名のこちらの意見など、どうでもいい。
本書に山田太一氏があるイギリスのテレビドラマを見た感想が記録されている。
なんでもイギリスで視聴率50%を取ったテレビドラマがあるそうだ。
タイトルは「傷だらけの報復」で、もちろんわたしは未見だ。
「社会の底辺で生きる女性たちが、
それより優位にいる男たちに対抗して勝ってしまう話」だという。
以下、山田太一氏のお言葉を勝手ながら迷惑をかえりみず引用させていただく。
イギリスのテレビドラマは日本のものと人物の描き方だけはくっきり違うらしい。

「要約して言うと、一人として文句なく愛せるような人物がいないのです。
みんなあまり美しくないし、欠点をたっぷり持っているし、
いやらしいくらいの人たちばかりなのです。
これは日本の若くて綺麗で、
好人物ばかりのテレビドラマを見慣れている私には、異世界でした。
特別、嫌な人間ばかりのドラマを作ったのではなく、
人間はこんなものだよ、という共通の感覚があるのだと思いました。
日本でこんな「醜い」人たちのドラマをやったら、
五〇%はおろか、五%もとれないかもしれない。
日本は「いい人間」になれ、
という社会の欲求のかなりキツイ社会なのだなと意表をつかれた思いでした」(P98)


わたしが英国演劇を好きなのは、嫌なやつが多く出てくるからだと気づく。
思えばわが尊敬するユージン・オニール(アメリカ)や
ストリンドベリ(スウェーデン)の芝居にも嫌なやつが大量に登場する。
考えてみたら、わたしは嫌なやつというのがそう嫌いではないのかもしれない
嫌なやつを見かけると微笑んでしまうところがどこかにある。
嫌なやつもまたいいものだ。おかしいのかもしれないが、嫌なやつもまたよろしい。
山田太一ドラマでとっさに思い出すのは「ふぞろいの林檎たち2」の中井貴一の上司や、
「想い出づくり」の田中裕子を食ったと自慢する上司だ。
どうしてか嫌なやつのことが好きである。
作者は嫌なやつではないと知りつつも、山田太一ドラマが好きだ。

「何が終わり、何が始まっているのか」(山田太一+福田和也/PHP研究所)絶版 *再読

→よほど執念深い性格なのだろう。
いまだ忘れられないのだが、むかしある山田太一ファンに苦言を呈したことがある。
というのも、ファンを名乗るくせに山田太一さんの著作をまったく読んでいなかったからだ。
たぶんこちらがおかしいのだろうが、
わたしは著作を読んでもいない作家の講演会に行く手合いがわからない。
わざわざ手間暇をかけて講演会に行くよりも読書のほうが短時間で豊富な情報を与えてくれる。
当人はわたしとおなじ高校の卒業生だったから、
偏差値的に識字障害という可能性はありえない。
どうしてみなさん講演会に行くまえに
話者の著作を1冊でも2冊でも読まないのだろう。
山田太一さんの本を1冊も読んでいないくせにファンだというのはおかしい!
うっかり世間知らずにもこういう思いをネット掲示板で公開してしまったら、
とある山田太一信者の女性から叩かれまくった。
そのときまで知らなかったが、作家のファンクラブのような世界では、
作家と近い距離にいるものほど(=面会した回数が多いほど)権力を有しているようだ。
こうしてわたしは現実=世間を知った。
いや、教えていただいた(嫌味ではなく本音で感謝してまっす、Eさんに敬礼♪)。
本当にまったく現実=世間というものは、書物とはまるで違うのである。
そして、どうやらたいがいの人は書物を読むのをあまり好まないようだ。

このため、うちのブログのように本に書かれた内容を引用するのは問題なのかもしれない。
なぜなら、著者はお金を払って時間を取って読んでくれた読者のために
貴重なご意見を開陳してくださっているのだから。
書物をネット上に引用してしまうと、だれでも無料で読めてしまう。
本来なら本など嫌いで読まない人にも情報が行きわたってしまうことになる。
著者はわざわざ時間と金をかけて(しつこくてすんません!)
自著を読んでくださる方のために公開した内容かもしれないのに。
この対談本の出版当時(1998年)は、
まさかネットがこんなに盛んになるとはだれも思っていなかったと思う。
うまく世渡りしたかったら、批判めいたことはあまりおおやけにしないほうがいいのである。
作家ならばみんなが聞いている講演会ではあまり本音を述べないほうがいい。
せいぜい売れても1万部くらいの本だから言えることもあるはずだ。
以下の山田太一先生のご発言がそうかどうかはわたしにはわからない。
いまのご年齢とお立場を考えて、まあ大丈夫だろうとこちらが勝手に判断した結果の引用だ。
ともあれ、興味深いご意見である。

「ちょっと飛躍した例かもしれませんが、テレビのプロデューサーなどは、
誰を起用しようかというときに、結局、自分に蓋をしてしまうんですね。
この人には嫌悪感というものがないのかと思うことが時々あります。
とにかく視聴率が取れるのなら誰でもいい。
「視聴率がどうあってもあいつじゃないと嫌だ」というのがないんですね。
冷たい、自我がないというか、
そういうふうな人たちが増えているという気がするんですね」(P126)


むかし山田太一さんの影響でシナリオライターに興味を持ったことがある。
その関係でいつだったかライター志望者向けの某テレビ局プロデューサーの講演会に行った。
どうして詳細を書かないのかと言うと、書くなとなかば脅されたからである。
みなさん、今日自分が話した内容はいっさいツイッター、ミクシィ、ブログ、
つまりネットに書かないでください。
コンクールの選考委員もしている権力者の言葉である。
もうむかしのことなのでよく覚えていないが当時、ある政治家がマスコミに向かって、
このこと(オフレコ)を公開したらその記者はどうなるかわかるね?
という脅迫をしたことがたいへんな話題になっていた。
なーんだ、テレビ局のお偉いさんも政治家とおなじかと思ったものである。
わたしはマスコミ社員のように大企業に守られていないから、
書くなと禁じられたことは断じて公開しない。
おそらく、あの発言が出世に響くだろうと小心にもおびえたのだと即座にわかった。
(わたしから見たらぜんぜん大したことではないんですよ)
とはいえ、権力者に軽々しく逆らうものではない。
このため、そのネタを外して穏便なところだけ、まあフィクションのようなものとして書く。
いつだったかどこかのテレビ局プロデューサーさんは、
やたら保険という言葉を講演会で使っていたような記憶がおぼろげながらある。
うちらはサラリーマンだから絶対に大失敗はできない。
こういうことをライター志望者のみなさんが知ったらショックかもしれないけれど――。
そう前置きをして、テレビドラマの作り方を説明してくださった。
とにかく保険をかけまくるのだという。
人気作家の原作小説、人気俳優、人気脚本家――。保険はかければかけるほどいい。
サラリーマンだから冒険なんてできない。テレビドラマとはそういうものだ。
このお話をうかがって以降、なにやらつきものが落ちたようにシナリオに関心がなくなった。
だから、反発どころか現実を教えていただいて感謝している面もある。

山田太一先生のいわばオフレコだけを公開するのは卑怯かもしれないと勝手に思い違え、
いつのことだかどこのことだかも定かではないうろ覚えのことを生意気にも書いてみました。

「幸福になれない理由」(山田太一・小浜逸郎/PHP研究所)絶版 *再読

→酒をのみながら好きな作家のゆる~い対談本を読むのはいいものだよ。
最近になってようやく気づいたのだが、
どうやらわたしはテレビドラマがとりわけ好きなのではなく、
山田太一ドラマのみ偏愛しているようだ。
このことがわかったのはいつも山田太一情報でお世話になっている
ドラマ・ファン掲示板の管理人、あいどん氏のおかげかもしれない。
あいどん氏はもう……おっと! 
うっかり個人情報である年齢を書きそうになってしまった。
自分が個人情報を公開しているからといって人様のものまで書いていい理由にはならない。
あいどん氏はけっこういいお年なのだが(ぼかしましたからね)、にもかかわらず、
いまやっているテレビドラマまでがんがんご覧になっているというのだから。
もしかしたらあの世代はことさら感覚がヤングなのかもしれないが、それでもすごい。
わたしはテレビドラマを辛抱と思ってみることが多い。
正直、よく理解できないのである(哲学書のようなもんですな)。
もはや自分が正しいという傲慢な感覚は完全に捨て去っている。
テレビドラマはみんな(多数派)のためを思って、
社会上層部にいらっしゃる優秀な方たちが何度も会議をして創ってくださっているのだから、
理解できないとしたらわからないほうが悪いのである。
老いてなおますます人格がゆがんできたわたしのように悩みの多い人間は、
テレビを見るより本を読んだほうがいいのだろう。
大半のテレビドラマは悩みを描くものではないと本書で山田太一先生もおっしゃっている。

「若い人たちの内面の悩みというのは
身の上相談レベルでは出にくいものが多いから、
なんとかそういう深度に手が届くようなドラマを書きたいと思うのですけれど、
ま、多くの観客は、そんな現実はいいよと、むしろ現実を忘れる架空の物語、
当たりさわりのない友情のすれちがいとか、恋のすれちがいとか、
そしてハッピーエンドで終わるドラマを、
いい音楽ときれいな俳優さんといい映像で見ればいいというところでしょう。
それも私はあるリアリティだとは思うけれど」(P49)


まったく本当にそうだと思う。山田太一先生は正しい。
世の中は理不尽なことばかりでいまの若い人はとくに傷ついているのではないかと思う。
そういうたいへんな人たちのためにテレビ局の人たちはドラマを制作なさっている。
しんどい現実なんか見つめさせてどうする?
現実は見つめるものではなく、忘れるものだという見方は意義あるものだと思う。
深みのあるドラマを求めているのはある意味苦労知らずの有閑者だけなのかもしれない。

「春日原まで一枚」(山田太一/「月刊ドラマ」83年6月号/映人社)絶版 *再読

→テレビドラマシナリオ。昭和49年放送作品。東芝日曜劇場。
ほんといいドラマだよな。自分が吃音持ちということを差し引いてもいい。
わたしが生まれる2年前のドラマか。
この時代には吃音青年のうじうじした悩みにもテレビドラマから光が当てられたのか。
現代にも割合においては一定数どもりの人はいると思うのだけれど、
まさかいまのテレビドラマがそんな暗いテーマを取り扱うはずがない。
万が一あってもかならず障害者=絶対善のような扱いになるはずだ。
山田太一ドラマの魅力は語り尽くされるものではないと思うが、
そのひとつは激しさにあると思う。
むろん、激しさを描くためには静けさも必要だ。
会社で上司のミスをかぶり(定年後のことを考え)「それが世渡りってもんだよ」
とあきらめヒラに降格された父親(利夫)と、
最近またどもりがひどくなった時計職人の息子(邦男)が屋台で酒を酌み交わしている。
といっても安いコップ酒だ。

邦男「お父さん」
利夫「――」
邦男「お母さんから、くわしく聞いたよ」
利夫「ああ(とうなずく、目は伏せている)」
邦男「濡れ衣(ぎぬ)着ちゃったんだってね」
利夫「お母さんは、会社というものを知らないからな」
邦男「ぼくも知らないけど、ぼくはお父さんの立場分るよ」
利夫「そうか?」
邦男「お母さんの言うように、単純にはいかないよね。
 理屈に合わなくたって我慢してなきゃならない時だってあるよね」
利夫「お前も、そういう思いをしたことあるのか?」
邦男「そうそう自分を通してばかりはいられないさ」
利夫「そうか――」
邦男「ぼくはお母さんが、ひどいと思ったよ。
 我慢してるの見たくないなんてそんな言い草ないよ。
 誰だって我慢したくて我慢してるわけじゃないんだ」
利夫「お前は、なにを我慢してるんだ?」
邦男「大したことじゃないよ」(P57)


我慢しろよ。大人になるということはそういうことだ。
家にいる女は世間の厳しさをわかっちゃいねえ。
言いたいことを言ったら途端に食い詰めてしまうのが世間ってもんだ。
どうしようもないことは我慢するしかない。
上の人の言うことにゃ逆らっちゃいけない。
正論がまかり通ると思うなよ。人生、そんなもんだ。我慢、我慢だ。
ところがしかし、これは現実ではない。ドラマだ。山田太一が描く激しいドラマだ。
我慢のたいせつさも正論の重みも熟知した脚本家の書いたドラマだ。
ある日、父親は決起して社長に直談判する。
クビになるかもしれないが本当のことを言う。
息子の邦男もなにか我慢をしていた。
父親の社会人としてはあるまじき蛮行を知って息子も立ち上がる。
両親には「終電までには帰るよ」と言う。
「お父さんの真似だよ、ぼくも。言うだけは言ってみるよ」
いったいどもりの邦男はなにを我慢していたのか。
邦男はある家を訪問する。床の間に結納の品が積まれている。
この家の娘はもうすぐ結婚するようだ。邦男はこの娘に逢いに来たのである。
「いらっしゃい」と裕子という娘は言う。

裕子「(明るくしようとして)なに、そんな所にいて。
 どうぞ(上座)こっちへ来て下さい。おかしいわ、お客さんが」
邦男「(うなずき、上座まで行かず、しかし近づきながら)結納すませたんだね」
裕子「ええ――」
邦男「あ、あ、あの――」
裕子「おめでとうって言って下さるの」
邦男「(激しく首を横に振る)」
裕子「(ハッとして)どういうこと?」
邦男「お、お、おそすぎることは分ってるんだ」
裕子「――」
邦男「ぼ、ぼくの、う、うちは金持じゃないし、ぼくは、時計屋のつとめ人だし、
 じょ、じょ、常識から言って、
 ぼくが、君、とつ、つり合うとは、どうしても思えなかった」
裕子「――」
邦男「ぼ、ぼくが、き、きみを欲しいと言っても、反対されて、
 とてもうまく行くわけがない、と思った」
裕子「――(目を伏せる)」
邦男「ぼ、ぼくは、じ、じ、自信がなかった」
裕子「私は待ったのよ」
邦男「(うなずく)」
裕子「あなたは、とうとうなにも言わなかったのよ」
邦男「け、結婚するの、やめてくれないか」
裕子「(見つめる)」
邦男「(激しく見つめ返す)やめてくれ。ぼ、ぼくが御両親に話す。
 おそすぎたのは、わ、わるいが、ぼくは、やっぱり、
 君が他の奴と結婚するのは、いやだ」
裕子「――」
邦男「うんと言ってくれ、うんと言ってくれ」
裕子「(見つめている)」
邦男「ぼ、ぼくは、ぼくなんかって、すぐ思って、すぐ劣等感が湧いて、
 すぐ諦めることばかり考えて――それが、ぼくの欠点だ。
 ぼくは、そのために、き、きみを、に、にがすところだった。
 ぼ、ぼくは、ぼくの欠点を、克服する。
 ぼ、ぼくは、絶対に、君をは、はなさない。 (それは異常なくらいの激しさで、
 吃(ども)り、吃り、その吃りを一つ一つ克服する強さで言う)」
裕子「(見つめている)」
邦男「あ、あらためて、御両親には話す。今日は、き、きみの返事が欲しい。
 ゆ結納を、と、とり消す、と言ってくれ。
 ぼ、ぼくの、ぼくの、ぼくの――お、お嫁になる、と言ってくれ。お嫁に、なるって」
裕子「(涙が溢れる)」
邦男「いいね? いいね?」
裕子「(涙を溢れさせたまま邦男を見ている)」
邦男「ど、どうなんだ、ぼ、ぼくについてくるのか? ついて、くるのか?」
裕子「(うなずく)」
邦男「(嬉しく、激しく、うなずく)」
裕子「(顔をおおってしまう)」
邦男「(嬉しく、しかも、疲れて、ハァハァ息をし、
 涙が出て来て、顔が歪んだり、いろいろになってしまう)」(P61)


ほんといいシーンだよな。涙があふれてくるじゃないか。
こんなことはたぶん人生にはないだろうけれど、あったらどんなにいいことか。
こういうシーンを見るだけで、どれだけ我われの気持が救われるか。
わが36年の人生をかえりみるに、これはどう考えてもフィクションである。
こんなうまいこといくわけがない。
夜中にこんなバカなことをしたら結納を済ませた相手の家族に笑われるのが現実だ。
世間知らずと嘲笑され野良犬のように追い出されるのが現実だ。
それがわたしの知っている現実だ。現実は甘かない。
期待したらかならずと言っていいほど裏切られるのが現実だ。
しかし、現実だけではやりきれないじゃないか。
こういうこともときにはあると信じたいじゃないか。
現実がそうじゃないからこそ、こういう嘘にすがりつきたくはならないか。
激しくもだえるような思いで山田太一ドラマの嘘にしがみつきたくなってしまう。
どうして山田太一さんはこんなにも人をとりこにする嘘がうまいのだろう。
表面上は温厚な脚本家の激しさはどこから出てくるのだろう。
だれにだってきっとその激しさはあるのである。
このため、大勢の山田太一ファンがいるのだと思う。

*いちおう以前読んだときの感想↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-980.html
「悲しくてやりきれない」(山田太一/「月刊ドラマ」92年12月号/映人社)絶版 *再読

→テレビドラマシナリオ。平成4年放送作品。TBS系。単発ドラマ。
山田太一ドラマのどこがおもしろいかといったら下司(げす)なところである。
きれいごとの裏にはかならず金(利得)がからんでいるという、
いかにも底辺庶民らしい俗に言うところの下司の勘繰り満載なところがいい。
このドラマでも美人(名取裕子)が顔に似つかわしいきれいごとを言う。
容貌も美しく、かつ大会社に勤めているがために多少現実を知らないという設定だ。
スナックで知り合った中年男と小さな絵本書店を共同経営するつもりである。
ほんとにそんな話があるかよ?

「そりゃあ人間はいやらしくて、薄汚いもんかもしれないけど、
たまにはこういう関係だってあるんです」(P137)


この建前に対する本音のせりふの庶民くささがいい。こりゃほんとんど詩だよ。
山田太一ドラマは下司が演じる詩劇という面がある。下司にも詩があるのだ。
女房と子どもに逃げられたファミレスの店長(役所広司)のせりふがいい。

「だまされてるんじゃないの?」(P136)
「世間を知らないんじゃない?」(P137)
「そういうタマかな?」(同)
「頭のいい女(ひと)ほど、そういうきれい事に欺される」(同)
「ためたんだなあ」(P139)
「女房と娘に払ってたんだ。金なんか、たまるかよ」(P141)」


「ためたんだなあ」とか下司すぎて爆笑してしまう。
なぜ庶民は下司と知りつつ人間を「金、肩書、顔」で判断するのかといったら、
それが大損をしないためのいちばんの方策だからである。
とりあえず金と肩書と顔は目に見えるから信じられる。
正義、慈善、非営利、利益度外視、夢、志といったふわふわしたものは信じられない。
そんなものをうっかり信じたら痛い目を見ることを下司な人たちはよく知っている。
しかし、我われ庶民は自分が下司であると思われたくない。
ちっとばかし高尚な人間だと見てもらいたい。
ときには西洋の絵画がどうだのとわかったようなことを語りたくなってしまう。
そこがまた下司なのだが、山田太一さんはどうして下司な人間を描くのがこうもうまいのか。
もしかしたら作者自身が――。いやいや、そんなことはないはずだ。
とはいえ、人は人間を知るためにまず自分をよすがとするしかないわけで。
山田太一さんのイベントに顔を出すと、
学者先生にまじった作家が反抗するようにぽろっと下司なことを言うのである。
それがおもしろくて、いくつも記憶に残っている下司なせりふがあるけれど、
なかなかネット上でこちらの実名をさらして公開できることではない。

*どうでもいいが前回の感想↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-987.html
「季節が変わる日」(山田太一/大和書房)絶版 *再読

→テレビドラマシナリオ。昭和57年放送作品。日本テレビ。全2回。
ドラマというのは矛盾で書くものだとよくわかる。
山田太一先生の才能は処世術やら物腰の柔らかさやらもあるとは思うが、
なんといっても人一倍矛盾を内部にかかえこんでいるところではないか。
本音と建前、現実と理想といった双極を心中にお持ちだ。
どちらも徹底しているからすごいのである。
極悪人のような冷たい現実認識と、
いつの時代の書生だというような青臭い理想をどちらも持っている。
さらにすごいのは矛盾に結論を出さずに、
矛盾を矛盾そのままに愛するちからがある。
どちらかに偏ってしまえれば精神的には楽になれるのである。
現実なんてこんなもんだ、と割り切るのも手だろう。
どこぞの新興宗教信者のように「努力すればかならず夢はかなう」
と信じ込めれば世の理不尽や不公平に悩まないで済む。
だが、山田太一さんは矛盾のただなかでたたずむ。
世界には「どちらも正しいこと」のあることをよく知っている。
言い方を変えれば、絶対的真理はない(かもしれない)ことをご存じだ。
正論だけでは社会は動かないが、しかし正論にも多大な価値がある。

最近、年をとって思うのは、山田太一さんの理想を失わない凄味である。
たいがいの人間は年をとると、人生や社会に見切りをつけていくものだ。
どうしても悪いほうばかり、汚いほうばかりを見るようになり、
「どうせ」「結局」などと口元をゆがめながら、
自分があたかも大人になったかのような錯覚を持つものである。
しかし、脚本家はそうではない。
「どうせ人間は」「結局社会なんてさ」という醒めた視点のみならず、
「しかし人間は」「社会を見切るなよ」という熱いまなざしを持っている。

ドラマ「季節が変わる日」では八千草薫がバツイチ子持ちという設定だ。
息子が学校に行かなくなり、田舎にあるおかしな施設に通わせることにする。
その塾で知り合った父親(こちらもバツイチ子持ち)に言い寄られる。
子どもがこんなときにと思いながら、ついラブホテルについていってしまう。
事後、八千草薫(行子)は泣くのである。
うまうまと八千草薫の熟れた肉体をものにしたのは岡田真澄(忠雄)だ。
ダブルベッドのうえで――。

行子「(目に涙がたまっていて、独り言のように)なんてこと――
(苦笑して)なんて簡単――」
忠雄「――」
行子「駄目ね――(目を指でちょっとおさえ)
もっと強いつもりだったのに(とカラリといおうとつとめる)」
忠雄「(その行子を見ている)」
行子「(その視線を感じ、忠雄をチラと見て)フフ、いやだわ、泣いてるの。
はずかしい(と涙を拭く)」(P71)


ため息をついてしまうくらいウブだよな~。
ラブホテルで女学生のように泣き出す年増女も、このシーンを書いてしまう作者も!
こういう女性がいたらいいと作者が強く思っているのはわかる。
やはり女性に夢を持たなければいけないのだろう。
なぜなら女性に夢を持ったほうが男は人生を楽しめるからだ。
しかし、どうしたら夢をいだけるのだろう。
「こんな女がいたらいい」と非現実的な希望を持つのは、
一般的には世間知らずのものがすることだとされている(よね?)。
世間はそうじゃない。現実はそうじゃない。
にもかかわらず、夢をいだく。味気ない現実を拒絶する。
それはほとんど精神病患者の妄想のようなものなのだろう。
なぜなら精神障害者の妄想はどんな現実をも跳ね返すほどにたくましいからだ。
だとしたら、天才脚本家の山田太一さんは深く深く心を病んでいるのだろう。
おそらく、すすんで心を病ませようと思っても無理なはずである。
だから、山田太一氏はすごいのだろう。

「岸辺のアルバム」(山田太一/大和書房)絶版 *再読

→昨年のあれはいつごろだっただろうか。
例によってあいどん氏のドラマ・ファン掲示板で教えられて、
川崎のほうまで行ったことがある。
なんでも昭和52年放送のテレビドラマ「岸辺のアルバム」最終回が上映され、
その後に山田太一さんと演出家のトークイベントがあるとのことだった。
どうせ暇だしせっかくだからとドラマの14回分をシナリオで再読してから
最終回(第15話)上映におもむいたものである。
「岸辺のアルバム」はある中流家庭の崩壊を描いたドラマとされている。

さて、最終回の上映を観てどんな感想をいだいたか。
正直に言うと、がっかりしたのである。
シナリオで読んでいると、どうしても頭のなかで勝手に人物像を作り上げてしまう。
そのイメージと実際に演じる役者が違いすぎるのでがっかりしたのだ。
勝気な娘の律子などシナリオで読むとぞくぞくするほどよかった。
レズシーンや初体験シーンでは、さんざん劣情をそそられたものである。
身もふたもない言い方をすると、エロい妄想に心地よく遊ぶことができた。
わたしの律子像がすっかりできあがっていたのである。
ところが、実際の映像によって、いままでの豊かな妄想を台無しにされた。
こんな娘ではない。わたしのイメージではもっと鋭いところがなくてはいけない。
最後にこの律子とくっつく冴えない高校教師の堀先生もひどかった。
公務員ながら34にもなって結婚できないほどの
もてない堀先生を演じるのが津川雅彦なのだから。
あんな甘いイケメンが冴えない高校教師の役をやるには無理がありすぎる。
しかし、そんなことを言えば、哀愁という少女もぜんぜんイメージが違った。
そういうわけで実際の上映などむしろ見ないほうがよかったくらいである。

あえて見ないことで妄想がふくらみ楽しめる。
実のところ、これは山田太一さんのドラマ作法のような気がする。
近作「心細い日のサングラス」にもこれに類する老人の長ぜりふがあったが、
見ないほうがいろいろ楽しめるのである。
見たらそれっきりで終わりになってしまう。
最近の作品は不勉強だからこちらの間違いかもしれないけれど、
いまのテレビドラマにおける妄想の質がいくぶん薄く感じられるのは(わかりませんが)、
もちろん作者たる山田太一さんの圧倒的な才能によるところが大きいのだろうが、
なにもかも見えてしまう時代がよくないという部分もあるのだろう。
いまはネットを使えば無料でアダルト無修正動画がいくらでも視聴できるらしいが、
あんなものを見れば見るほど妄想のちからは衰えていくに決まっているではないか。
女性に夢がいだけなくなるということだ。
2ちゃんねるを見たら、人間の汚い部分がこれでもかとあからさまになっている。
あんなものを見たら人間に夢がいだけなくなるばかりである。
表面を知ったくらいで高をくくったようになるのがいけないのだろう。
そのくらいならむしろぜんぜん知らないほうがいい。

ドラマで専業主婦の則子に言い寄ってきた北川が言う。

北川「秘密にしておきたかったな」
則子「どうして?」
北川「人間の底が浅いんで、秘密があった方がいいんです」
則子「御家族もお住いも伺ってないわ」
北川「せめて、それを秘密にしましょう」(P74)


秘密があったほうがいいのである。裏は見ないほうがいい。秘所は隠しておけ。
隠されたほうが我われは深く対象を愛せるのだろう。
鉄壁のガードもいいが、ときどきちらりと見せてくれたらより妄想がふくらむ。
ならば、深く人生を愛するためにはどうしたらいいのか。
人生のわからなさ、社会の裏側や暗部の底知れなさ、人間の悪意のすさまじさを
どこまでも限りなく信じるしかないのだろう。
もっと人生の不合理、社会の理不尽、人間の汚さを肯定的に信じよう。
自分が目にしているよりもはるかにひどいのだと思い込もう。
逆説的だが、そのときに人生は愛しうるものになるのかもしれない。

話はがらりと変わるが、トークイベント後に質疑応答というのがあった。
わたしはこの手のもので一度も挙手したことがない。
みんながいるところでのいわば公開状態での質疑応答は、
質問者も回答者もそれぞれの公的な役割期待から逃れることができないからだ。
ぶっちゃけ、公開の質疑応答で聞けないことを本当はみんな知りたいのである。
「岸辺のアルバム全15回」の脚本料はいくらくらいでしたか?
山田太一さんは不倫や浮気をしたことがありますか?
この手のことはどうしても聞けないのである。
このくらいだったら聞いてもいいかなと思ったことがある(シャイなので挙手しなかったが)。
「山田太一さんは、どうしてそんなに性格が悪くなったんですか?
というのも、『岸辺のアルバム』を読み返したら、
登場人物がとにかく金、肩書、顔の3つにこだわっているのがわかるからです。
どういう人生を送ったら、そんなひねくれた性格になれるんですか?
これはどうしたらこんな名作ドラマを書けるのかという質問とおなじです」

しかし、こんな質問をされても作者は困るだけだろう。
とはいえ、本当に「岸辺のアルバム」は金、肩書、顔の3つのKにこだわっている。

山田太一ドラマ→「人間=金、肩書、顔」

父「(ガラス破損の)損害の実費プラス二割くらいとってやればいい。(……)
金が一番懲りるんだ」(P5)

弟「(姉に)上智くらいで、あんまりのぼせるなよな!」(P13)

父「たまに帰ってくれば、出前の寿司頼んで無駄づかいしてやがる」(P79)

少女「あんた(と見すかすような横目でニヤリと笑う)もてる? (……)
あんまりもてないんでしょ?」(P85)

色男「(笑って)考えてよ。あんな肥ったおばさんと、
本気で俺がなにするわけないじゃない。なあ、マスター」(P100)

女子大生「(友人に)あなたは時々、とても不機嫌になるけど、セックスと関係あり?」(P126)

父「(息子を殴り)東大や京都を落ちたというならともかく、
三流大学をバラバラ落ちた奴に、慰さめるようなことが言えるか!」(P205)

生徒「でも先生外語出てるし、いろんな人知ってるだろうと思って」(P210)

先生「(ぼくは)やさしくも、親切でもない。そんな顔をしているがそうではない。
君をはじめて見た時、綺麗な人だと思った。
しかし、三十すぎて独りものの、薄汚い高校教師を、
君が相手にするわけもないと思った。諦めていた。
ところが、君がおりて来た。妊娠して困っているという。
そうなれば、雲の上の存在じゃあない。ぼくにも手のとどく女になった」(P218)

浪人生「(母の不倫相手に)手前になんか、おごられたかないや!」(P244)

先生「いい年をして、親を困らせるような奴は、殴った方がいい」(P255)

部下の女性「(バーで上司に向かい)誘われた時から、私、感じてたの。(……)
なにがあったか知らないけど、今夜部長さん、私をそういう所へ誘うなって。
いついい出すかと思ってたわ。なかなかいい出さないで、
お酒あおったりして、可愛いとこあるんだなって思ってたわ」(P282)

父(娘の交際相手を見て)「(失望を半ばかくさず)そうですか。繁がお世話になったんですか」

父「(娘に)お前はまさか、自分に見切りをつけたんじゃないだろうな?」(P309)

父「(娘に)誰が見たってお前が夢中になるような相手じゃない」(P309)

父「(息子の恋人を評して)なにがいい子だ。礼儀も知らん。蓮っ葉で、頭も悪そうだ」(P323)


以上のようなせりふを書く作家はどれほど性格が悪いのだろうと空恐ろしくなる(笑)。
人間というのは学歴だ。どこの大学を出ているかで世間の見方はまるで違う。
社会に出たら、どこの会社に勤めているかだ。社会の信用は所属会社で決まる。
恋愛なんてものは、所詮、顔や年齢が釣り合っているかどうかだ。
なにより肝心なのは金だ。いくらしたか。借りは作るな。借りはかならず返せ。
山田太一さんを見ていると、性格が悪くても明るくなれることに気づく。
明るいニヒリズムを「岸辺のアルバム」作者は持っているのである。
本当に性格が悪くなると、その悪さが悪さを隠して、一見温厚な人格者に見せる。
性格が悪いことを見破られるようではまだ本当には腐っていないということだ。
山田太一さんくらい性格が悪くなると、
180度ではなく360度回転して善人のようになってしまうのだろう。
わたしも性格の悪さには多少の自信はあるが、とてもこの脚本家にはかなわない。
どうしたらもっと性格が悪くなれるか山田太一ドラマから学びたい。
根性が腐るのでも山田太一先生くらい腐れば最高級のチーズのような味わいが出るのだ。

山田太一ドラマ「岸辺のアルバム」では少年少女からしてほどよく腐っている。
繁=三流大学にも入れなかった浪人生。哀愁=高卒フリーター少女。

哀愁「親の浮気を、もう一人の親にいうなんて最低よ」
繁「ほっとけばいいのかよ」
哀愁「当り前じゃない」
繁「くさいものに蓋して和気あいあいかよ」
哀愁「ぶちこわしてなにになるのよ」
繁「インチキじゃなくなるさ。俺ンちなんか、インチキで一杯なんだ」
哀愁「人間なんて、そんなもんよ」(P263)


☆「人間なんて、そんなもんよ」→「人間=金(損得)、肩書(見栄)、顔(性欲)」

具体的には性格が悪くなるとはどういうことか? たとえばバレンタインのチョコ。
わたしならもらって嬉しいが、人気作家は違うはずだ。
そのうえ老作家なら健康にも留意しなくてはならないだろう。
しかし、思慮の浅いファンは善意からバレンタインのチョコをくれるのである。
こういうときに満面の笑みで「ありがとう」とチョコをもらえるのが、
何重にも性格がねじくれた作家なのだと思う。
もちろん、この作家を人格者と見る人がいてもいいと思う。
しかし、そういう底の浅い善人のファンは、果たして自分とおなじような善人が
たとえば「岸辺のアルバム」のような名作ドラマを書けると思うのだろうか。

(参考)過去の感想「岸辺のアルバム」↓(どうでもいいですが)
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1052.html

「一休さんの般若心経」(西村惠信・佐藤健三/小学館文庫)

→いい本で絶対におすすめ。人生の1冊になりうる本。読むべし。
と言いたくなってしまうのが、宗教の本たるゆえんなのであろう。
たしかにわたしにとっては名著で、巻末の一休宗純著「般若心経提唱」など
百回以上繰り返し読んだけれども、あなたに向いているかはわからない。
たしかにわたしは本書に掲載されている一休さんの道歌を完全に記憶して
いまやすべてを暗唱できるけれども、あなたの心には響かないかもしれない。
こんな本を読んでも一銭にもならないじゃないかと逆にお叱りを受ける可能性もある。
そんな道歌を覚えるよりも、お題目を1回でも多く唱えたほうが金が儲かるでェ。
そういうご意見もあることだろう。
わたしもそれは一理あると思う(え、ほんまでっか?)。
一休禅師のことを好きなのは、そこを理解した数少ない宗教家だからである。
自分が絶対正義で教えに盲目的に従えと脅迫的に訴えかけてくるところがない。
まあ、人それぞれだよね、ということをよくわかっている。
臨済宗の一休宗純禅師は念仏(南無阿弥陀仏)も題目(南無妙法蓮華経)も、
それほど強くは否定しなかったのではないか、という気がする。

「万法の行はよろずの事なれば こころごころに道をつとめよ」

人それぞれいろんな道があっていいんじゃないの、という姿勢である。
たとえ道は一見すると違うように見えるかもしれないけれども――。

「分け登る麓(ふもと)の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」

個人的な考えでは、念仏も題目も禅も、
名前をつけるのならたとえば「自然」というような大きなものを認めるという点で
おなじものを信仰しているのではないかという思いがある。
だからまあ、形式はなんだっていいじゃないか。
なんで念仏と題目が犬猿の仲で争わなきゃならないのかさっぱりわからん。
おなじ大きなものを信じているのにもかかわらず。
人間を超えるものの例として自然と言ったが自然とはなにか?

「雨あられ雪や氷とへだつれど とくればおなじ谷川の水」
「悪しくともただ一筋に捨つるなよ 渋柿を見よ甘干(あまぼし)となる」


自然とは人間がなにかを変えるのではなく、大きなものが変えるという見方だ。
自然に変化していく。
禅僧、妙好人、法華者はそれぞれあられ、雪、氷のようなものかもしれない。
人生が好転するときは努力の結果ではなく自然の変化なのかもしれない。
渋柿もそのまんま放っておけば甘味が出てくるのだから。
もしかしたら人間も変わる必要はなく、そのまんま(自然)でいいのかもしれない。

「そのままに生まれながらの心こそ 願わずとても仏なるべし」
「わが心そのままほとけ生きぼとけ 波を離れて水のあらばや」
「おおかたは学者の知恵は付け焼刃 生まれの智慧をみがきたまえや」


しかし、人間はなかなか生まれたときの無垢の心そのまんまというわけにはいかない。
本来はそのまんまがいちばんいいと言っても、そのまんまではいられない。
迷ってしまう。なにが迷うのか。心が迷うのである。

「おしなべて心一つと知りぬれば 浮世に巡る道も迷わず」
「一切の衆生と仏へだてなし 隔つるものは迷い一念」
「物ごとに執着せざる心こそ 無相無心の無住なりけり」
「極楽も地獄も我にあるなれば 悪念起こるこころ制せよ」
「本来の無心無相の仏をも 五欲にひかれ凡夫とぞなる」
「聞くことと見る事にだに迷わずば 何か菩提の障りなるべき」


どうしたらこの厄介な心を律することができるのか?
彼岸に渡ってしまえば、此岸の火宅など対岸の火事に過ぎなくなるのである。
此岸では色にこだわるしかないが、彼岸に渡ればすべてが空(くう)になる。

「楽々と心からにて彼の岸に 渡るもやすき法の船人」
「あら楽や虚空を家と住みなして 心にかかる造作もなし」


空(くう)とはいったいどういうことか?

「桜木をくだきてみれば花もなし 華をば春の空ぞ持ち来る」

むかしの人は空(くう)と空(そら)を同一視したと作家の水上勉氏は指摘する。
空(そら)はいつも変わらないけれども、地上は春夏秋冬を繰り返す。
桜の木をくだいたところで花の実質は見えない。
なぜ桜が咲くのか? それは春になったからとしか答えようがない。
四季おりおり天上の空(そら)は変わることがない。まさに不生不滅である。
もしかしたら無常の此岸とは地上で、絶対の彼岸とは空(そら)なのかもしれない。
美しい桜の花が空(くう)だというとき、
春の空(そら)が花を降らしたという見方も悪くないのだろう。

さて、我われはどう生きたらばいいのだろう。
一休宗純は自然に生きよという。空を生きろという。
それはいったいどういうことなのか?

「心をば墨の衣(ころも)に染めなして 身をば浮世のあるにまかせて」
「我ありと思う心を捨てよただ 身のうき雲の風にまかせて」
「有漏路(うろじ)から無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨降らば降れ風吹かば吹け」


これは親鸞の言う他力のようなものだろう。
わたしからしたら一休も親鸞もおなじことを言っているのである。
ちなみに有漏路の漏とは煩悩(ぼんのう)のこと。
まあ、人生なんて一休みのようなもんだ。雨降らば降れ風吹かば吹け、だ。
この「どうにでもなりやがれ」という無鉄砲な絶対他力信仰が好きだ。
身をば浮世のあるにまかせて。身のうき雲の風にまかせて。
風まかせで空(そら)を雲のように渡っていけばいいのかと気が楽になる。
先のことを心配しても無駄なんだ。

「夢の世の先を深くもいとうこそ 安楽国を知らぬ人なれ」

現世なんてどうせ夢のようなもんなのに、先ゆきの心配ばかりしてもしょうがない。
死ぬのが怖いというのは錯覚なのである。
なぜなら心を考えてみよう。心がいつ始まったかだれも覚えていないでしょう?
いつしか物心がついていた。
ならば死ぬときも同様で、どのみち死の瞬間を心が意識することはないのである。
交通事故なんて典型ではないか。
交通事故の即死者は死の寸前まで自分が死ぬことをわかっていなかったはずである。
死なんて、まあそんなもんだ。

「はじめなく終わりもなきにわが心 生まれ死すると思うべからず」

一休宗純のひねくれきったものの見方もいい。
なにがいちばん嫌いかといったら、職業坊主のインチキ悟りめいた余裕のある言動だ。
はっきり言うと職業坊主のブログを読むとむかむかしてしようがない。
おまえらの自己卑下はうそくせえにもほどがある。
柔和ぶるんじゃねえぞクソ坊主どもが。

「嘘の皮むいて捨てたるそのあとは 釈迦も凡夫も同じ味わい」
「悟らぬも悟りも同じ迷いなり 悟らぬ先を悟りとぞいう」


まあ、釈迦なんてインチキ野郎だよね、と言っているようなものである。
悟ったようなポーズをするなよクソ坊主ども。
悟りなんかないんだ。悟れなくて悟れなくて悟れないその迷いが悟りなんだ。
憎いやつが死んだら大笑いしてもいいのである。早く死ね、と思ってもよい。
出世欲が消えないのは仕方がなく、
悟ったふりをして豪華な袈裟(けさ)を身にまとう高僧なんかみんなインチキなんだ。

そういえばどうしていまの坊主は過去世を説かないのだろう。
仏教学者も、仏教ライターも、仏教系の人気作家も過去世を無視する(初期の宮本輝以外)。
こちらが無知なだけなのかもしれないが、みな過去世なんてないような口ぶりである。
おそらく、みなが現世で出世しているからであろう。
成功したものは、自力でこの栄冠を勝ち得たと信じたいのだろう。
ゆめゆめ過去世の功徳のおかげなどとは考えない。
しかし、本当に苦しみと向き合ったら過去世を考えるしかないのである。
どうして自分は苦しまなければならないのか?
この問いに科学は答えを出せないのである。
そういう不幸は何パーセントの確率でだれかが遭遇しなければならないのです。
こんなご託宣を科学からもらっても、どうして他人ではなく
よりによって自分が苦しまなければならないのかはさっぱりわからない。
たいせつに思う人がああも苦しまなければならないのかもわからない。
一休宗純よ、苦しみとはいったいなんだ? 「般若心経提唱」より抜粋。

「先づ今この世界へ生れ、色々の苦を受くるは、いかなる因縁ぞといふに、
過去にて悪業煩悩をあつめてもちらるゆゑに、その因をもつて、
今この苦をうくる身をまねき得たるなり」(P155)

「過去の無明の業縁によりて、今現在に苦を受くる身とうまれ、
又今この現在にて作る業縁によりて、未来世にて又生をうけ、
死してはうまれ、生まれては死し、三世の因果たえず、三界に流転して、
無量の苦を受けて、終にやむことなし」(P155)


こう言い切ってもらうと楽になる。
現代の坊主でも口先でだけならば、たぶんこのセリフを言えるのである。
しかし、体験をともなう確信を持って過去世を語れる坊主がいまいるか?
おそらく、それを言えるのはいまでは新興宗教のトップくらいなのだろう。
口先で文言をなぞるだけではダメなのだ。
全身で過去世(未来世)の存在を確信していなければならない。
生存はこの世だけではないと信じていなければならない。
きっと現世で成功してしまったものは現世以外のものを信じられなくなるのだろう。

さて、過去世によって生まれた苦しみはどうしたらいいと一休宗純は言うのか。
すべてが顛倒夢想(てんどうむそう)なのだとあきらめよと言う。

「顛倒夢想とは、一切の有為の法は、夢の如くまぼろしの如くにして、
実にあることなし。しかるを、凡夫は迷ひて実に有りとおもへるは、
あだなる夢まことゝおもへるが如し。是顛倒夢想なり」(P154)


苦しみは顛倒夢想なんだと自分を騙(だま)すしかないのだろう。
おそらく究極の真実はうそで、うそを真実だと信じるとき人は救われるのだろう。
釈迦と我われの違いがうその皮一枚だと一休が言うのは、そういうことなのではないか。
究極の真実がうそならば、きっとすべてがうそなのだろう。
だとしたら、すべてが真実だということになる。なにを信じてもいいことになる。

「うそ=空(くう)=真実」

2月14日、文部科学省で開催された脚本アーカイブズ・シンポジウムに参加。
脚本家で日本脚本アーカイブズ推進コンソーシア代表理事の山田太一氏の講演を聞くため。
いきなり話はがらりと変わますが、
むかし山田太一信者の男性の発言をネット掲示板で目にしたことがあります。
うちのブログは山田太一関連の記事だけ読む価値がある(=他はいっさい読まない)。
さすがあの脚本家の信者らしい、いかにも庶民の飾ることのない本音です。
かなり突き刺さりましたが、まあ、そういうものなのだと現実を教えていただきました。
山田太一先生のお言葉は価値があるけれど、わたしなぞの言葉はどうでもいい。
たしかにそうだ。このため急いで講演で山田太一先生がお話になった内容に入ります。
関係者のご迷惑になっているという自覚は世間知らずのわたしにもございます。
どうかご寛大にお許しください。なお乱雑なメモからの再現ですので聞き間違いもあるかと。
なにとぞご了承ください。

――本の魅力というものは、わりあいみなさんに知れ渡っているのではないでしょうか。
本のよさは世界でもむかしからかなり言われてきたように思います。
我われはこの一回きりの人生で、せいぜい一二歩くらいしか進めないのですね。
しかし、本という死んだ人の知恵があれば五六歩進めるかもしれない。
本は死者からの贈り物という面があるのでしょう。
本によって、我われは死者の知恵、死者の感受性、
死者の発見を共有することができるようになります。
こういうものを踏み台にして、なんとか一二歩ではなく、五六歩まえに進んでいく。
そういうところがあるようにございます。

ところが、テレビはそれを遺すという発想がなかったんですね。
僕はテレビの草創期を知っていますが、それはすごいことだったんです。
こんなことあるのかというくらい。
テレビが映って、全国の人が、それも同時に見ることができる!
これだけでもう文化的な大事件でしたね。
こういうときに、そもそも遺る、遺らないを考える人はいませんでした。
それに「テレビは現在に過ぎない」ということも強く主張されていました。
むしろ、現在だけで生きる、ということにテレビマンが勢いづいていた。
現在だけを描くのがテレビのいいところなんだ。

その後、ビデオができましたが、当時は高価で再利用していました。
録画しても保存しておかないで上書きしちゃうんですね。
こうしていいドラマがあても一回再放送されたくらいですぐ消されちゃいました。
いいドラマもどんどん失われていきました。いまに遺っていません。
フィルムで撮ったのはまだ遺っているんですが、ビデオはほとんど全滅です。
そのとき我われはどう考えていたか。
まあ、そんなものだろう。しょうがないじゃないか。
テレビが白黒からカラーに変わりました。
カラーになったら白黒のものはもう再放送できないだろう。
当時はそういうふうに考えていたんですね。
いまではBSで白黒の映画がひんぱんにやっていて、いいものだと見直されていますが。
当時はだれも将来にこうなることを考えられなかったんです。
白黒のドラマはもう再放送されない。だから、消してしまおう。
僕なんかの作品も放送は消しちゃうから、台本だけはあげるよといわれました。
いまから考えれば、当時の人はバカですよね(場内笑)。
しかし、そういうものである。そのときはそういう価値観だったんです。
どうしても我われは目先のことしか見ないんですね。
いままでと違う価値観にみんなが気づくのは非常にゆっくりです。
こういう事情でテレビが開始してから80年代に入るくらいまでのドラマは、
あらかた消えています。どういう作品だったか知る手がかりがありません。

けれども、脚本だけは遺っているんです。これは手がかりでしょう。
こういうわけで脚本アーカイブズは遺っている脚本の収集を始めました。
とはいえ、集めたものを置いておくところがない。
たまたま足立区さんのご厚意で5万冊の脚本が保管されました。
今回このうちの2万5千冊が国会図書館に入ることが決まりました。
どういう方針かと申しますと、とにかくぜんぶ集めよう。
70年代までの脚本を良し悪しで選別せずに網羅的に集めよう。遺そう。
こういう基本方針のもとに活動しています。
というのも、僕なんかの作品でも、
遺してくれるという機関がありがたいことにいままでありました。
しかし、スペースがないということで、
たとえば連続ドラマなら第一話か最終話しか遺せない。
どちらを遺しましょうか、という連絡が作者の僕のところに来たことがありました。
遺してくれるというだけでありがたいことなんですが、
しかし、第一話か最終話だけだと不完全で、あとから読まれても誤解されてしまうんです。
それはちょっと困るなと思いましたですね。
断っておきますが、脚本がドラマのなかでとりわけ偉いから遺そうというわけではありません。
もちろん、脚本はドラマにとってなければならぬものです。
でも、ドラマはまず脚本があって、演出をしてくださる方がいて、
そのうえで俳優さんが演じてくださってはじめて完成します。
脚本だけが偉いということはありません。
偉いから遺すのではなく、みんな失われてほかに手がかりがないから遺そう。
脚本アーカイブズのやろうとしていることです。

先日、BSでやった「マダムと女房」という映画を見ました。
日本ではじめてトーキーを使ったものです。
笑わせるシーンがいっぱいあります。コメディに分類されるのでしょう。
いまのドラマがやっている笑わせ方の基本のようなものがいっぱいありました。
「マダムと女房」をいわば踏み台にしてドラマというのは育ってきたと思います。
もちろん、いま見ると、洗練されていないなという思いもあります。
こんなことをいっちゃいけないのでしょうが、おもしろくないとも思いました。
しかし、なんです。トーキーだから音にこだわっています。
天井裏をネズミが駆けずり回ってうるさくて眠れないというシーンがありました。
むしろ、そういうところがおもしろい。
いまこの会場にいらっしゃる方で、
天井裏のネズミがうるさかったという経験をお持ちの方はおられますでしょうか。
僕は古い人間だから経験があります。ああ、そういうことがあったなと思う。
いまの人は天井裏のネズミなんて信じられないかもしれませんけれど。
どういうことか。おもしろいのポイントが変わってくるんですね。
時代とともに社会が変わると違うところがおもしろくなってくる。
作品の価値が時代によって変わってくるわけです。
だから、いまの基準で選別をしてはいけないと思いますですね。
僕なんか、大正時代のホームドラマがもしあったら見てみたいですね。
もちろん、あるはずがないのですが。
明治時代のホームドラマなんかあったら本当に見てみたい。
たとえば70年代のドラマは、いま見たらそう大した驚きはないでしょうが、
20年後に70年代のドラマを見たらびっくりするのではないでしょうか。
いまから20年もすれば大きく社会は変わりますから。
「マダムと女房」の舞台は、郊外の中産階級です。
いまとそう変わっていない部分もあるのですね。昭和6年の制作でしたか。
僕は物心がついたときは戦争でしたから、昭和一桁の時代を知りません。
戦争で激変しましたからね。
ところが、「マダムと女房」を見ると、戦前の日常生活の細部がわかります。
ドラマというのは、その時代でしか表現できないことを描いているのですね。
あらためてそういうことを思いました。

話は飛びますが、スタジオジブリが「熱風」という雑誌を出しています。
そこに中日の監督だった落合さんのエッセイが連載されています。
これはもう元スポーツ選手の余技というレベルではなく、
とても丁寧によく書かれていて教えられるところが多いです。
この書き手は、自分の考えをしっかりお持ちなんだと思いました。
そういうわけで落合さんのエッセイを愛読しております。
落合さんがこういうことを書いているのですね。
自分が中日の監督になったとき、マスコミや周囲は、
あの落合がなにを仕掛けるかとたいへん話題になったというんです。
実際、落合さんはほかの球団とは違うことをしました。
なにをしたかというと、一軍と二軍、一緒にキャンプをしました。
それからキャンプ初日に一軍二軍あわせて練習試合をしたそうです。
シーズンが終わって中日は優勝しました。
そうしたらマスコミは、さすが落合だといったというんです。
さすが落合、いままでだれもやっていないことをよくぞやった。
しかし、それは違う、と落合さんはいうんですね。それは違う。
これまでプロ野球にはいろいろな監督がいた。
自分はそういうむかしの監督がどんなことをしたかをすべて調べた。
そのなかで自分と波長の合いそうなものを見つけて真似をした。
なんら独創はない、と落合さんは書いています。
なんら独創はない。ただ真似をしただけだ。
もちろん、落合さんはこういっていますが、
ただ真似をしただけではなく、高みに引き上げたという部分もあると思います。
落合さんだから、過去の戦術をより高みに引き上げることができた。

さらに落合さんはこういうことをいうんです。
いまの人は未来しか見ない。過去の財産を見ない。
みんな勘違いしているが、大半の人間が新発見などはしない。できない。
新しいことなんてほとんどないし、
ましてだれもしなかった新しいことをやる人などいないと思ったほうがいい。
どうしてみんな、たとえば自分が生まれるまえのことに関心を持たないのだろう。
そんな過去には学ぶべきことなどないと決めつけてしまうのか。
この言葉を、僕なんかはもうたいへん教訓的だなと思いましたですね。
実は過去の財産から新しいものが生み出されていく。
過去の集積は財産である。
ですから、脚本アーカイブズでも、楽に検索できるシステムづくりが必要なのだと思います。
そのテクノロジーをどうするか、です。
我われは先人がなにをしたかを踏み台にしないと、なにもできないのではないでしょうか。

これはむかしどこかに書いたことなので、
みなさまのお耳に届いているようなこともあるかもしれませんけれど。
僕がシナリオ作家になりたてのころ、
アメリカのパディ・チャエフスキーという人のテレビドラマ脚本集を読みました。
その序文にこういうことが書いてあったんです。
王様がだれかをやっつけたという話はもういい。
それよりも隣の肉屋の夫婦はなぜ結婚したのかに興味はないか。
あんな毎日喧嘩ばかりしている仲の悪い肉屋夫婦はどうして結婚したのか。
こういうことを書くのがテレビドラマだとチャエフスキーはいうんです。
王様がどうしたという話はシェイクスピアが書いていますよね。
そういう王様の話はテレビドラマでやることではない。
それよりもテレビドラマでは隣の肉屋の話をするほうがおもしろいのではないか。
肉屋夫婦の話なんて舞台ではできません。映画の題材にもならないでしょう。
しかし、テレビドラマならば隣の肉屋がなぜ結婚したかを丁寧に描くことができる。
このチャエフスキーの言葉に僕は興奮して、まったくそうだと思いましたね。
よし、僕はこれをやっていこうと励まされたような気さえしました。
本当に興奮しましたですね。僕はこれで行こう。

チャエフスキーに逢いに行きたいとまで思いました。
しかし、アメリカまで逢いに行くことはできません。
そこでチャエフスキーの本を翻訳された江上輝彦さんに逢ってもらいました。
当時は若かったんでしょうね。すぐにお逢いしてくださいとお願いしました。
新橋で逢ってもらったのを覚えています。
江上輝彦さんは初期のテレビドラマも書いていたんですが、
もうそのときにはテレビの仕事をやめて大学の先生になっていました。
僕は新橋の飲み屋で聞きました。
「先生はどうしてテレビの仕事をおやめになったのですか?」
江上先生はどうお答えになったか。「空しさだよ」とおっしゃるんです。
テレビのドラマでも作者は何ヶ月もかけて書いています。
それが放送された瞬間に消えてしまう。その空しさに耐え切れない。
そのとき江上さんと僕は隣り合って飲んでいました。
江上さんは僕の背中をバンとたたいていうんです。
「きみの未来もこれだ」
そのときはまだ若かったから、自分の書いたものがテレビに映るというだけで嬉しくて、
一瞬で消えてしまう空しさにまで思いが及びませんでした。
しかし、たしかに一瞬で消えてしまう。それは今後すごいダメージになるだろう。
そんな気がしましたですね。
後年のことです。
むかしの脚本はわら半紙でつくっていましたから、1冊が厚いんです。
連続ドラマになるとすごい量になります。するともう家には保管する場所がないんです。
だから、僕もやむなくむかし書いたものを捨てましたね。
もうどこにも僕のむかしの作品は遺っていません。
いまは脚本アーカイブズのようなものがあって遺る。
これは作者にとってかなりの救いになると思いますですね。

戦後、坂口安吾がいいました。過去がなんだ! 古いものがなんだ!
みんな、いや、みんなじゃないかな、若者は安吾の言葉に感動しました。
しかし、あれは戦後でものがないギリギリの時代の言葉なんですね。
桂離宮がなんだ、というのはそのときは正しかったんです。
とはいえ、時間がどんどん動いていきます。
時代の基準も時間とともにどんどん変わっていく。

E.M.フォースターという人がいっています。
人間はしょっちゅう戦争をしている。
戦争のあいだ文化は息をひそめている。
しかし、戦争ばかりしている人間にもあいだあいだ平和な谷間がある。
たまに平和な時代があって、そういうときに文化が育つ。
たしにかにその通りなんですね。
ルノワールなんて、こんなことをいっちゃいけないのでしょうが、
あまり社会性のない、まあ、のんきな絵ばかり書いています。
あれは戦争がないから描ける、ともいえるわけです。
いや、戦争の時代でも隠れてこそこそ描くのが画家なのかもしれませんけれど。
いまの日本は幸いにも戦争がなく少しばかり余裕があります。
こういうときこそ、いざ戦争が起こったら「これなに?」
といわれるようなものを率先してたいせつにしていくべきではないでしょうか?


(後記)前回のシンポジウムでは、
永遠に遺るのではなく消えるのもまたいいとかなり不穏なことを
おっしゃっていたような気もしましたが(たぶんこちらの聞き間違えかと)、
いまの立場ではご発言も自由にならないのでしょう。
しかし、バレンタインデーになにをやってるんだオレ?
山田太一さんのファンですが、信者ではないんですね。
とはいえ、3月19日の有料講演会にも行くからはたから見たら信者なのでしょう。
いつかお亡くなりになったらかならず信者になります。
ここ3ヶ月ほど、ほとんど毎日のように般若心経をよんでいた。
ときどき、うむ? もしや悟ったのではないかと錯覚したこともあったけれど、
結局のところわが心は悪念邪念のとりこらしく、人格の向上は皆無。
般若心経を開運の呪文として見るむきもあるようだが、とくに幸運もなし。
それでも3ヶ月も向き合っていたらわたしなりの解釈のようなものが生まれる。
もちろん、いろんな人の解釈を参考にさせていただいた。
いちばん影響が大きかったのは一休宗純(一休さん)である。
解説本でお世話になったのは宗教評論家のひろさちや先生。
最近は過激すぎる発言で知られるひろさちや先生はまさしく現代の一休さんだと思う。

で、ここで問題になるのがわたしの般若心経解釈が正しいのかどうかということ。
かなり独自な解釈をしたところもある。
しかし、そもそも絶対的に正しい般若心経解釈が存在するのかどうかは疑問である。
仏教学が専門の大学院では、とりあえず担当教授の解釈が正しいとなる。
寺院の世界では、上司たる高僧の解釈が正しいということになるのではないか。
人気作家の般若心経解説が絶対的に正しいと思う読者もいることだろう。
わたしはだれの般若心経解釈が間違っているとも、絶対的に正しいとも思わない。
それぞれに絶対的に正しい般若心経理解があるのではないかと思っている。
そんなことを言ったら出世できなくなるが(だれの下につくかが出世のコツ!)、
般若心経は現世利益のためのお経ではないのだから別に構わないのではないか。
(もちろん般若心経を現世利益目的で唱える人がいてもよろしい)

以下にわたしの般若心経理解を書くが、
少しでもみなさんの解釈の足しにでもなれば幸いである。
いままでまったく興味がなかった人も、
こんな自分の騙(だま)し方もあるのかと知っていただけたら嬉しい。
とりあえず、わたしは自分の解釈を絶対的に正しいと思って書くが(それが信仰ゆえ)、
みなさんにはみなさんの数だけ絶対的に正しい般若心経信仰があるはずである。
法華経や正信念仏偈、聖書やコーランを絶対的真理と思われている方がいてもいい。
こっそり白状すると、そもそも自身に信仰があるのかどうかも正直疑わしい。
本当に般若心経を絶対的真理かと思っているのかと難詰されたら、
たぶん否定してしまうような無宗教な精神状態をわたしは有している。

お忙しい読者諸賢のために最初に結論を書いておく。般若心経とはなにか。
わたしが思うに、般若心経は法華経とおなじく絶対を説いた教えである。
般若心経の価値は、たたかだか人間ごときが絶対を創作したところにある。
以前、法華経をこう説明した(参照:「法華経現代語訳」)。

「嘘×百→真実(=絶対)」

創価学会の池田大作さんの名言、
「ウソも百遍繰り返せば真実になる」をたぶんに参考にした解釈である。
おなじように般若心経をまとめると次のようになる。

「無×百→空(=絶対)」

(全文)

摩訶般若波羅蜜多心経
(まかはんにゃはらみつたしんぎょう)

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみつたじ しょうけんごうんかいくう どいっさいくやく)

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是
(しゃりし しきふいくう  くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき じゅうそうぎょうしき やくぶにょぜ)

舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
(しゃりし ぜしょうほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)

是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界
(ぜこくうちゅうむしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜつしんい むしきしょうこうみそくほう むげんかいないしむいしきかい)

無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 
(むむみょう やくむむみょうじん ないしむろうし やくむろうしじん)

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
(むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ)

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
(ぼだいさつた えはんにゃはらみつたこ しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう くきょうねはん)

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
(さんぜしょぶつ えはんにゃはらみつたこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)

故知般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒 能除一切苦 真実不虚
(こちはんにゃはらみつた ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ のうじょいっさいく しんじつふこ)

故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰
(こせつはんにゃはらみつたしゅ そくせつしゅわつ)

掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶
(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか)

般若心経
(はんにゃしんぎょう)



漢字の読み方はいろいろ異なる場合もあるらしいけれど、
我われは学者ではないのだから細かいところはどうでもいいでしょう。
さて、いちばんかなめのところから入ろう。
般若心経はなにを教えているのか。般若心経を唱えるとなにがわかるのか。
3ヶ月のあいだ一休宗純に習いながら般若心経をよみあげたわたしの結論は、
般若心経は苦しみについての教えである。
どうしたら苦が消えるのか。完全には消滅はしなくてもごまかすことができるか。
みなさんも人生で苦しんでおられるでしょう。
人生が思い通りになる人はいないのだから、これは絶対的真理かもしれない。
人間は絶対に苦しむ。
般若心経は、人生には不可欠の苦にどう対処したらいいかを説いている。
このため、読む価値があるのである。
なんにも役に立たない教えだったら、我われ庶民はこれほど愛さなかっただろう。
なお初期大乗仏典の般若心経は法華経や観音経と並んで、
もっともポピュラーな仏典のひとつである。
以下、みなさんに寄り添いながら少しずつ般若心経をよんでいきたい。
お時間がございましたら、どうかお付き合いくださいませ。
決して損はさせませんとは約束できないが、
もしかしたら損が損に見えなくなるようなことならばあるかもしれない。

「般若心経=苦しみを消す教え」

・摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみったしんぎょう)

このタイトルにすべての内容が込められているのかもしれない。
摩訶(まか)は大きいという意味。
般若(はんにゃ)は、パーリ語(古代インド語サンスクリット語の俗語)
パンニャーの音訳で智慧という意味。
これは大きな智慧だと宣言しているわけである。
で、波羅蜜多(はらみった)の意味に入るわけだが、
この解釈に般若心経のみならず大乗仏教すべての基礎があるような気がする。
もちろん、サンスクリット語(パーリ語)は読めないので、
現代の一休さんこと博識なひろさちや先生からの受け売りだが、波羅蜜多とは――。
波羅蜜多とは、サンスクリット語パーラムイターの音訳とのこと。
よって波羅蜜多の意味は、パーラム(彼岸)+イター(渡る)。
繰り返すが、波羅蜜多の意味は、彼岸に渡れ! 到彼岸(とうひがん)せよ!
大きな川をイメージしてください。さて、我われはこちらの岸にいる。
大きな川を彼岸まで渡れというのが大乗仏教の教えなのだ。
ちなみに、此岸(しがん=こちら岸)はサンスクリット語でサハーという。
サハーには耐え忍ぶという意味もあるから、
此岸は忍耐する世界という意味で忍土とも言い換えられる。
このサハーを音訳したものが娑婆(しゃば)とのことである。
まとめると、苦しみ多き娑婆から彼岸に渡れ、というのが波羅蜜多の意味だ。

☆波羅蜜多=パーラム(彼岸に)+イター(渡れ)
☆波羅蜜多=此岸(忍土、娑婆)から大河を超えて彼岸へ渡れ!

いままでのところを丁寧に整理する。
摩訶(大きな)般若(智慧)波羅蜜多(到彼岸=彼岸に渡れ)心経――。
心経は一休さんの解釈に従い、心のお経だということにしておこう。
実際、般若心経は心の御し方(律し方)を説いているわけだから。
さて、摩訶般若波羅蜜多心経とはなにか。
「心中において彼岸に渡れという大きな智慧」と言うことができよう。
内容に分け入っていく。

・観自在菩薩(かんじざいぼさつ)

これは庶民に慕われている観音さまとおなじ菩薩である。
菩薩とは、すでに悟りを開いたけれど、
我われを救うために娑婆にいてくださる仏さま。
古代インド語の原語を観自在菩薩と漢訳したのが玄奘(げんじょう)で、
観音菩薩と訳したのが鳩摩羅什(くまらじゅう)とのこと。
まあ、お釈迦さまが偉くなりすぎたので、
観自在菩薩(観音菩薩)のような存在が考案されたと見るのが一般的である。
さて、観自在菩薩がどうしたというのか。

・行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃはらみったじ)

観自在菩薩が深い般若波羅蜜多の修行をしたときに――。
観自在菩薩が到彼岸(彼岸に渡れ)という深い智慧を修し終えたときに――。

・照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)

観自在菩薩は五蘊は空であると照見なされて――。

・度一切苦厄(どいっさいくやく)

観自在菩薩はあらゆる苦しみから解放されたとさ!
え? どうやって苦しみから逃れられたのか聞きてえじゃないか。
この世は苦しいことばかり♪
よく知るために原文を繰り返そう。
かならずやここに苦しみから脱する方法が書かれているはずである。

・観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

この菩薩さんは、彼岸に渡る智慧を修して、五蘊を空であると看破された。
結果として、あらゆるすべての苦しみが消えたというのである。
じゃあ、五蘊ってなんだろう。五蘊とは、全世界のことである。
ならば、全世界とはなにか。仏教は世界をどう見ているのか。
五蘊とは、色受想行識という5つの集まりのことである。
仏教では、世界は色受想行識の5つ(五蘊)から成立していると見る。
おいおい、色受想行識っていったいなんのこったい?
いまの言葉でいえば、物質と精神のことである。

☆世界=物質(客観)+精神(主観)
☆世界=五蘊=物質(色)+精神(受想行識)


だから、五蘊皆空とは色受想行識がみな空(くう)ということである。
空とはなにか? なんてわたしに聞かないで!
この空の思想をめぐって一生かけても読みきれないほどの論文があるわけだから。
まあ、乱暴に言うなら空っぽくらいでいいんじゃないかな。
色受想行識(物質と精神)はみんな空っぽである! 実体がない!
いったいどうしたら世界(物質と精神)が空っぽに見えるのか。
彼岸に渡ればよろしいと般若心経は説いているのである。
ここで先ほど考えついたものすごくわかりやすいたとえ話をしようじゃないか。
いま自宅が火事であるとする(法華経では火宅なんていう)。
自宅が火災に見舞われたら大騒ぎである。
ところが、この火宅を川向こうの彼岸から見たらどうなるか。
まさしく「対岸の火事」のように見えるのではないだろうか。
むしろ盛大な花火のようで美しいとさえ感じるかもしれない。
煩悩の炎が燃え盛る私(火宅)も彼岸から見たら「対岸の火事」に過ぎない。
これが般若心経の教える苦しみの消滅方法である。

「般若心経=火宅→対岸の火事」

さあ、ここまでの内容を俗っぽくまとめるとこうなる。
観自在菩薩は彼岸に渡る修行をしたら、世界が空っぽに見え、苦しみから解放された。

・舎利子(しゃりし)

さあ、舎利子よ、と呼びかけているのである。
舎利子は仏弟子のひとりで人間である。
こう言っちゃ悪いけれど、観自在菩薩よりは格下だろう。
ここで、だれが舎利子よ、と呼びかけているのか。
仏典はみな釈迦の教えというのが建前だから、釈迦と考えるのが穏当なのだろうが、
この語り手は観自在菩薩よりも偉くなければいけないわけだから、
やはり人間・釈迦と考えるとつじつまの合わないところがあるような気がする。
そう考えると、法華経だけではなく、
般若心経も久遠実成(永遠仏、宇宙仏)を前提としているのかもしれない。
いささか専門的な話になるが、
法華経は般若心経から久遠実成(=絶対)の考え方を盗んだのかもしれない。
要は、人間・釈迦がどんどん偉くなって、ついに人間を超えてしまったということだ。
釈迦が大河を渡って、我われ人間にはとても見えないような彼岸に到達してしまった。
みなさんにはどうでもいいことを失礼しました。
しかし、研究者は般若心経の語り手はだれかを考えてみるとおもしろいかもしれません。

さて、偉い人が我われ人間の代表たる舎利子に声をかけてくれたわけである。

・色不異空 空不異色 色即是空 空即是色(しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき)

色は空に異ならず、空は色に異ならず、
色は即(すなわ)ち是(こ)れ空、空は即ちこれ色なり、とか読むらしいぜ。
要するに、「色=空=色、色→空→色」ってことだ。
もしかしたら「色=空」の1回でいいのかもね。 
色というのは物質である。まあ、形あるものだ。
それが実は空だという。空っぽである。実体がない。
一休さんなんかがどう説明しているのかというと、
波と水はふたつ名前はあるけれども、実質はおなじでしょ?
雨とか霰(あられ)とか雪とか氷とかいろいろ名前はあるけれど、
本当のところはみんなおなじものだよね?
「色=空」とは「雨=霰=雪=氷=水=波=海=川→空(くう)」。
こんな説明をしているけれど、ううん、なんか詭弁(きべん)くさくないですか?
いちおう、これで空の説明ができなくもないのはわかる。
たとえばテーブルにリンゴがあるする。
これはデザートでも食材でも果物でも、人によってはボールでもあるわけだ。
矢を射るための的にする人もいるかもしれない。
色によって青いもの(青リンゴ)、赤いもの(赤リンゴ)と識別する人がいてもいい。
腐っていたら生ゴミと判断する人がいても誤りではない。
しかし、空腹のどん底だったら腐りかけのリンゴがご馳走に見えるかもしれない。
「空=実体がない」をひろさちや先生は、こんな感じの説明をたしかしている。
もっと生々しい話をすると、百万円があったとする。
これは貧乏人からみたら大金だけど、金持から見たらはした金である。
だから、百万円というお金には実体がない、つまり空なんだよという。
もしかして奇跡が起こってこれで空がわかっちゃったりした人がいらっしゃいますか?
ちなみに書いているわたしはまだ空のなんたるかを理解しておりませんよ!
まあ、よろしい。まだ般若心経は続くのだからそのうちわかるかもしれない。

・受想行識 亦復如是(じゅうそうぎょうしき やくぶにょぜ)

このあたりから般若心経は一気に小乗仏教思想の否定に入る。
小乗仏教の考え方を「無~~~~」=「~~~~はない」と否定しつづける。
だから、ここは重要ではないんだというひろさちや先生の説明も一理あるが、
わたしはこの小乗仏教否定にもそれなりの価値があると思う。
というのも、小乗仏教がなかったら大乗仏教は出てこなかったのだから。
小乗仏教という踏み台がなければ、大乗仏教の思想も生まれてはこなかった。
まったくの無からは新しい教えは出てきようがない。
広い目で見たら、弟子から否定される師も
それなりの役割を果たしているのではないだろうか。

さて、般若心経に戻ると、受想行識もまたかくのごとしであるという。
色が空であるように受想行識もまた空である(=実体がない)。
繰り返しになるが、色とは目に見えるもの。
受想行識は目に見えない心の中の作用のことである。
ここから仏教がいかに心を重視していたかがわかるだろう。
物体はただ色とだけひとくくりにされているのに、
こと心的作用にいたっては受想行識と4つの分類をされている。
この受想行識はいままでどんな解説本を読んでもよくわからなかったが、
一休さんの説明でなんとなくわかったような気がした。
わがつたなき理解の範囲内で述べると――。
まず「<受→想→行>←識」というイメージをご理解ください。

☆心=「<受→想→行>←識」

色→受(最初に苦楽を受け入れるところ=眼耳鼻舌身意)
色受→想(その苦楽についてあれこれ考えるところ=色声香味触法)
色受想→行(苦楽にまつわる善と悪を定めるところ=ここから業<行為>が生じる)
色受想行←識(心の親分。最初の苦楽を識別する元締め。五蘊の中でいちばん偉い)
「眼耳鼻舌身意」や「色声香味触法」はあとでまた出てくるのでそのときに。
さて、色(物体)のみならず心(受想行識)もまた空である。

・舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減(しゃりし ぜしょうほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)

個人的にはこの部分が般若心経の隠れたキモではないかと思っている。
まず舎利子よ、と仏弟子に呼びかけてから――。
この諸法というのは空相なんだよ、とおなじことを繰り返している。
諸法とは、五蘊(=色受想行識=物と心=全世界)のこと。
諸法=五蘊は実のところ空である。ならば、空相とはどういうことか?
空相とは「不生不滅 不垢不浄 不増不減」のことだ。
生まれることも死ぬこともない。きれいでもきたなくもない。増えも減りもしない。
空とは、不生不滅かつ不垢不浄かつ不増不減なり。
死んだように見えていても実のところ死んではいない。
美少女コンテストの1位も醜い老女も変わりはない。
貯金1億円も借金10万円もなんら意味のないことだ。
わかりやすく言ったら、これはランキングを超えるものに言及している。
1位とかビリとか、そういうランキングは無意味だ。
生滅や美醜、増減というのは、言うなれば相対の世界の問題である。
般若心経は、世界は空だと主張している。
世界は実のところ「不生不滅 不垢不浄 不増不減」、
つまり「ランキング=相対」を超えるものがあるというのだ。
相対を超えるものとは、絶対のことである。
般若心経が絶対を説いているのは、この部分においてである。
般若心経は相対(生滅・美醜・増減)を否定して絶対に到達している。

「般若心経=相対否定→絶対」

しかし、人が死ぬのは悲しいだろう? 愛するものの死は人を絶望に追い込む。
自分の子どもが産まれたら嬉しいだろう? わが子の誕生が空なものか。
美人やイケメンばかりちやほやされる世界では空思想などまさに空理空論ではないか。
ウンコはきたないだろう? ゴッホの絵は高値がつくだろう?
年収1千万と年収2百万がおなじであるわけがない。
津波でなにもかも奪われ悲嘆に暮れる人に世界は空だと言ったら怒るのではないか。
どうしてこの不平等、不合理きわまりない世界を空などと般若心経は言えるのか。
なにをもってして摩訶般若波羅蜜多心経は世界を空だと言い切るのか。
摩訶般若波羅蜜多心経の意味は「心中において彼岸に渡れという大きな智慧」――。
要点を繰り返す。

☆波羅蜜多=此岸(忍土、娑婆)から大河を超えて彼岸へ渡れ!

もしや生滅・美醜・増減というのは此岸(しがん)における話なのではないか。
かりに彼岸からこちらを見たら、そのときなにがきれいでなにがきたないのか。
わかりやすいたとえを用いるのなら、死は彼岸に属する。
死の世界から娑婆(しゃば)を見たら、その目にどのようなものが映るか。
余命1ヶ月と宣告された患者がいるとする。
この患者にとって10億円の貯金がいったいなんになろうか?
よしんば、1千万円の借金があったとしても死ねば帳消しになるのである。
死にゆくものに美少女アイドルがなにほどの価値を持つものか。
アイドルなぞよりも早世のため遺していく老母のほうがよほど美しく見えやしないか。
余命わずかの患者にとって死者は生者よりもはるかに近しい存在かもしれない。
死者は悼(いた)むべき存在ではなくなっているかもしれない。
なぜなら、もうすぐ早死にした近親者と逢えるのかもしれないのだから。
死期が迫っていると、名もなき雑草までもが美しい輝きを放つのではないか。
一方で歓楽街の華やかなネオンなどむしろ醜悪に思えるのかもしれない。
たいせつにしていた骨董のコレクションを手放したくなることもあるだろう。
いままで気づかなかった人の小さな親切への感謝が生まれてくるかもしれない。
大嫌いなやつこそ人生の恩人であったと気づくこともないとは言えまい。
人を蹴落として出世したあげくがこれかとむなしくなることもあるはずだ。
「不生不滅 不垢不浄 不増不減」とは、そういうことなのではないか。
此岸(この世)ではマイナスでしかなかったものが彼岸から見るとプラスになる。
反対にプラスだと思っていたものが彼岸から見るとマイナスになってしまう。

「般若心経=彼岸に渡れ!」

此岸から大河を渡って彼岸に到れ!
さあ、此岸と彼岸をはっきりさせよう。
我われはいまどこにいるのか。そして、いったいどこへ渡ればいいのか。

☆「此岸→(大河)→彼岸」
☆「相対→(大河)→絶対」
☆「迷い→(大河)→悟り」
☆「無常→(大河)→常住」
☆「我→(大河)→無我」
☆「苦楽→(大河)→涅槃(ねはん)」
☆「色(煩悩)→(大河)→空(涅槃)」
☆「生(=苦)→(大河)→死(=浄土)」<浄土真宗の場合>
☆「人間(釈迦)→(大河)→久遠実成(宇宙仏、永遠仏)」


こう見てくると、人間がどのようにして絶対を考案したか推し量ることができよう。
死というものが絶対を仮構するうえで大きな役割を果たしたのはほぼ間違いない。
人はかならず死ぬ。このことほどこの世の無常を強く意識することはないだろう。
はかないこの世の無常を深くまで凝視しえたものがある日、
願いのようなものを込めて無常ならぬもの(=絶対)に思いをはせたのではないか。
それはほとんど熱烈な祈りのようなものだったのかもしれない。
この世が無常ならば、きっとどこかに無常ならぬものがあるのではないか。
無常ならぬものがあってほしい。それがなければこの世に救いがないではないか。
そういえば、ひとつだけこの世にも無常とは思えぬことがあるではないか。
死である。生者はいつか没するが、死者は永遠に死んでいると見ることも可能だ。
この永遠から絶対へつながる道を過去の賢人は見出したのかもしれない。

さて、そろそろまた般若心経原文に戻ろう。
最重要部分はもう過ぎたので、あとはおまけという見方もできなくはない。
いままでなにを見てきたのか。
諸法(五蘊=色受想行識=物と心=全世界)は空相である。
それはどういうことかというと、
彼岸から見たら世界は実のところ「不生不滅 不垢不浄 不増不減」である。
般若心経は以上のことをさらにわかりやすく説明しようとする。
言い方を変えれば、おなじことをクドクド繰り返すということである。
相変わらず、空(くう)の説明を延々とするのである。
だが、どうやら空というものは、かくかくしかじかだ、とは言い切れないようだ。
般若心経で空は否定でしか表現されていないのである。
「~~はない。~~もない。~~もないのだよ」と否定ばかりしている。
原文では「無~~。無~~。無~~」の繰り返しである。

・是故空中無色 無受想行識(ぜこくうちゅうむしき むじゅそうぎょうしき)

これゆえに空の中に色なく、受想行識もない。
仏教では世界を5つの集まり、すなわち五蘊(色受想行識)と見てきたが、
諸法は空なのだから色もなければ受想行識もないのである。

・無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)

(これゆえに空の中に)眼耳鼻舌身意はない。
これまた否定によって空を説明しようとしているわけである。
苦楽はどこから入ってくるのかを仏教では眼耳鼻舌身意と考える。
これは六根などと言われている。
眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根という6つの根から苦楽が生じる。
これは独自の解釈だが、六根は受想行識の受に当たると思う。

・無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう)

(これゆえ空の中に)色声香味触法はない。
悟りの反意語は迷いだが、人はどのようにして迷うのか。
たとえば、色に迷うという言葉ある。
これを眼根から生じた色の塵(ちり)だと仏教は分類する。
苦楽は六根から入ってくるが、この苦楽についていろいろ思うゆえに迷い(塵)が生じる。
仏教では六根に対応する6つの迷い、すなわち六塵(ろくじん)があると考える。
六塵とは色声香味触法である。六根とは以下のような関係がある。
眼根→色塵、耳根→声塵、鼻根→香塵、舌根→味塵、身根→触塵、意根→法塵。
これまた独自解釈だが、六塵は受想行識の想に相当すると思う。
六根で受けた苦楽についてあれこれ想うから六塵が発生するという考え方だ。

・無眼界乃至無意識界(むげんかいないしむいしきかい)

(これゆえ空の中に)まず眼界がなければ、意識界に到るまでない。なにもない。
まえに仏教では世界を五蘊(色受想行識)と見るということを書いた。
同時に別の見方では世界は十八界に分けられるという。
こちらの考え方では、世界に客観をまったく認めず主観だけであると見る。
十八界はまず六根(眼耳鼻舌身意)、それから六塵(色声香味触法)である。
さて六塵(ブス、騒音、悪臭、苦味、鳥肌、悪意)を考えてみよう。
六塵を六塵であると認識するおおもとの心的作用があるのではないか。
ある音を騒音ととらえたり美声と思ったりするのは、この認識作用による。
五蘊の色受想行識で言えば、心の親分である識がいろいろ分別しているのではないか。
こう考えて六根や六塵に相当する六識があるとする。
六識とは眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の6つの心的作用である。
仏教には、世界を十八界として把握する見方がある。十八界とは――。
眼界、耳界、鼻界、舌界、身界、意界(=六根)<五蘊の受>、
色界、声界、香界、味界、触界、法界(=六塵)<五蘊の想>、
眼識界、耳識界、鼻識界、舌識界、身識界、意識界(=六識)<五蘊の識>。
まあ、なんと言うか、その、わかりにくいよね~。
わたしもこうして書いて見てはじめてどういうことかわかったような気がする。
いや、どうせ無なんだから、わかったからといって大したことはない。
原文の「無眼界乃至無意識界」は「眼界~意識界すべてない」という意味。
十八界すべてが空と言うのである。
すべてない。彼岸から見たら、なーんにもない。

・無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽(むむみょう やくむむみょうじん ないしむろうし やくむろうしじん)

延々と空の説明をしているわけである。
空の中には無明もなく、無明が尽きることもない。
および空の中には老死もなく、老死が尽きることもない。
これはどういうことかと言うと、人間・釈迦が悟った真理であるところの、
いわゆる十二因縁を否定しているわけである。
十二因縁は苦しみについての考察で、三世に渡る苦の連鎖を物語る。
わかりやすく言えば、現世で苦しむのは過去世の業(行為)ゆえということだ。
そして、現世でつくる業のために死してもまた未来世に生まれ変わるという。
十二因縁の解釈はいろいろあるらしいが、
一般的にはこのような三世因果説として教えられることが多い。
この釈迦が悟った真理もまた無というのだから知らなくてもいいのかもしれないが、
自分の理解のためにいちおう一休さんの解釈を参考にして述べる。
十二の因縁によって人間は苦しんでいると釈迦は言うのである。

無明(根本原因、無知)→行(善悪の業)<過去世の因>
→識(父母の妄念)→名色(心)→六処(六根)→触(六塵)→受(←苦楽)<現世の果>
→愛(楽に愛着すること)→取(さらに執着すること)→有(人生)<現世の因>
→生(有の因縁によって誕生すること)→老死(老いて死ぬこと)<未来世の果>

これが釈迦の悟った真理とされる十二因縁である。苦しみの連鎖だ。
このため釈迦は無明を尽くせ(消せ)と教える。
無明がなくなれば(無明尽)行もなくなり(行尽)、
以下次々とドミノ倒しのように因縁が尽きて最後には老死も尽きる(老死尽)。
ところが、般若心経はあろうことか釈迦の悟った真理を否定するのである。
無明がなければ、無明尽もない。老死がなければ、老死尽もない。
十二因縁のどれひとつとしてないし、十二因縁が尽きることもない。
さらに般若心経は爆弾発言をするのである!

・無苦集滅道(むくしゅうめつどう)

これはものすごい過激な主張なのだ。
おいおい、般若心経は四諦(したい)の教えまで否定してしまうのか!
いままでも五蘊、十八界、十二因縁と否定に否定を重ねてきた般若心経だが、
とうとう釈迦の悟りの根本である四諦(苦集滅道)まで否定してしまう。
四諦とは釈迦の悟った真理で、苦諦、集諦、滅諦、道諦のこと。意味は――。
苦諦(人生は苦しみだ)。
集諦(苦しみの原因は欲望だ)。
滅諦(ならば欲望をなくせばいい)。
道諦(そのための正しい道がある)。
般若心経は人間・釈迦の没後約4百年を経て創作された大乗仏教の教えである。
いくら4百年が経過していたとはいえ、
四諦は当時の仏教徒にとって間違いなく絶対的真理であったはずだ。
没後約2千5百年が経ち教えがあやふやになった現代でさえ、
四諦は釈迦の真説として実証科学的に認められている。
絶対的真理といえば、四諦のみならず五蘊、十八界、十二因縁も当時の真理なのである。
いまで言うならば、科学のようなものだと思えばよい。
つまり、ほとんど絶対的に正しいと多数派が思っている(信じている)説明原理である。
なかでも究極の真理が四諦なのだ。
この真理を般若心経は「無苦集滅道=四諦なんてない」と否定する。
「無苦集滅道」は「不生不滅 不垢不浄 不増不減」と双璧をなす般若心経の要所だ。
たしかに「不生不滅 不垢不浄 不増不減」ならば、四諦なんてないことになる。
なぜなら、欲望は生まれも滅しもしない。
そして、欲望は不浄でも清浄でもないし、増えも減りもしないことになるのだから。
こうして般若心経は釈迦の説いた絶対的真理まで否定してしまうのだ。
実のところ、般若心経は抹香くさい枯れた教えなどではない。
ロックである。全否定の革命宣言と言ってもよい。「無、無、無、無」だ。
般若心経で観自在菩薩は、中指を立てて全世界にファックユーしているのである。

「般若心経=全世界にFUCK YOU!」

あっはっは、本当はなーんにもないんだぜ!
五蘊や十八界なんてあるわけないだろうが、バッカヤロ!
十二因縁や四諦を信じてセコセコ修行するなんてバッカじゃねえの! ぜーんぶ嘘だ!
ならば、なにゆえ般若心経は釈迦の説いた真理を否定できるのか?
五蘊、十八界、十二因縁、四諦なぞ所詮は人の説いた教えに過ぎないからだ。
一見すると絶対的真理のように思えるが、実は絶対ではないからだ。
人間が此岸(この世)で悟る内容など、いくら釈迦の教えであろうが相対でしかない。
大河を渡った彼岸から見たら、
どの教説も人間が説いたものであるかぎり相対的にならざるをえない。
十二因縁や四諦は絶対の保証を持っていないではないか。
どうしてひとりの人間がたった一回の人生で悟った内容が絶対的真理たりえようか。
言われてみれば、四諦なんて真に受けたら(欲望を消したら)人類が滅亡してしまう。
四諦は一部の人には有効な教えなのだろうが絶対的真理ではない。
なぜなら、うつせみを生きる人間の知恵などたかが知れているからだ。
であるからして、いま現代を心底から般若心経の精神で生きるのならば、
たとえば平等、人権、平和、博愛、民主主義、夢、幸福、成功――
といった砂糖菓子のように甘いだけの徳目を白けた目で否定することだろう。
賢人たる釈迦の悟った四諦ですら絶対的真理ではないのに(無苦集滅道!)、
どこぞの毛唐が最近になって編み出した紅毛思想が真理であるものか。
少なくとも絶対的真理ではないことになる。

・無智亦無得 以無所得故(むちやくむとく いむしょとくこ)

智もなくまた得もなし。得るところなきをもってのゆえに。
人間の知りうるところなど限界がある。なにを得たつもりになっているのか。
長くてもたかだか百年程度しか生きられぬ人間がどんな智慧を得たというのだ?
永遠にも等しい時間の流れる彼岸から見たら、人の一生など一瞬のようなものだろう。
彼岸があるのかどうかはわからないが、あるとしたらそういうことになる。
そして、般若心経は彼岸に渡れと説く相対ならぬ絶対の教えなのである。
ここまで般若心経は、空とはなにか(=なんでないか)を語ってきた。
では、結局のところ般若波羅蜜多(般若心経)の教えとはいかなるものなのか。

・菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃(ぼだいさった えはんにゃはらみったこ しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう くきょうねはん)

菩提薩埵とは菩薩(ぼさつ)のことである。ここでは観自在菩薩を示している。
菩薩とはすでに悟りを開いているのに、我われを救うためにこの世にいてくださる存在だ。
つまり、菩薩は我われ凡夫とはいささか異なる。
三世(過去世・現世・未来世)の諸仏には、菩薩と如来(にょらい)がいる。
菩薩の例としては、観自在菩薩、地蔵菩薩、弥勒(みろく)菩薩などがいる。
如来は阿弥陀如来、薬師如来、大日如来がよく知られている。
釈迦自身も釈迦牟尼如来となっている。
要するに、人間・釈迦が拡大解釈されて、
釈迦の持ついろいろな役割が菩薩や如来に託されていったわけだ。
多くの人間の願いの具現化を嘘と決めつけるのはどうかとは思うが、
フィクションじゃないかと言われたら、そうだと答えるしかないだろう。
三世諸仏たる菩薩と如来の違いは、此岸と彼岸で説明するとわかりやすい。

☆此岸→菩薩→修行→(大河)→彼岸
☆此岸←(大河)←救済←如来←彼岸


菩薩は我われの身近なところにまだいるのである。
一方で如来は彼岸の世界の住人で我われを救うために向こうから来てくださる。
(如来は真如から来たるものという意味)
我われ凡夫は如来にはなれないが、菩薩にならなれるという仏教解釈が一般的だ。
このため般若心経における観自在菩薩は我われの努力目標という面がある。
この大衆に人気のある短い仏典はこう言っているのである。
我われもまた観自在菩薩のように般若波羅蜜多(到彼岸の智慧)を修しようではないか。

原文に戻ると、観自在菩薩は般若波羅蜜多によったがゆえに――。
「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖」の状態になったというのである。
罣礙(けいげ)とは、わだかまりのこと。
観自在菩薩は般若波羅蜜によったがゆえに、
心にわだかまりがなく、わだかまりがないがために、恐怖を感じることもない。
これが般若心経を唱える功徳(効能)である。
相対世界を生きる我われは般若心経を唱えることで絶対的安心を得ることができる。
「度一切苦厄」とは「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖」=絶対的安心のことだ。
なぜ絶対的安心を得られるのかというと般若心経が絶対につながっているからである。
もっと言えば、このあとに般若心経が絶対的真理を説くからである。
相対の世界ではいくら成功をしていてもなかなか安心することができない。
1億円貯金を持っていてもまだ足らないと不安になる人もいるのだから。
考えてみたら、10億円持っていてもハイパーインフレが起きたら終わりである。
金(ゴールド)や外貨、不動産に分散していたとしても人間の不安は尽きることがない。
あんがいお金を持っていればいるほど失う不安がふくらむものなのかもしれない。
ところが、たとえ貯金ゼロの貧乏人でも般若心経を信心を込めて唱えたら、
絶対的安心を得られるのだから、
こうなると金持と貧乏人のどちらが幸福かわからなくなる。

般若心経の原文に戻ろう。観自在菩薩は般若波羅蜜多によって絶対的安心を得た。
さらに、である。観自在菩薩は「遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃」だ。
この箇所は通常「一切顛倒夢想(妄念)を遠離して涅槃を究竟す」と読む。
意味は、妄念から離れて涅槃(煩悩が滅した理想状態)に入った、となる。
だが、一休宗純の読み方は異なり、これもまたおもしろいので紹介する。
一休禅師はここを「遠離して一切は顛倒夢想なり」と読む。
一切のこの世の出来事は夢のごとくまぼろしのごとくにして実体はない。
しかしながら、我われはこの世の事象を実際にあると考え迷うのである。
本当はたわいもない夢まぼろしのようなものを真実であると思い込むから迷う。
これはかなり一切空の解説として優れていると思う。
もしかしたら我われの実人生など彼岸で見た夢に過ぎないのかもしれない。
永遠にも等しいほどの長い時間が流れる彼岸で我われは80年程度の夢を見ている。
五蘊(全世界)が空であるとは、そういうことなのかもしれない。

・三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提(さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)

三世諸仏もまた般若波羅蜜多によるがゆえに阿耨多羅三藐三菩提を得られた。
一代の釈迦は十二因縁や四諦の悟りを得たが、それらは所詮相対的なものでしかなかった。
十二因縁や四諦は絶対の教えではない。
しかし、三世の諸仏は般若波羅蜜多によったので阿耨多羅三藐三菩提を得る。
阿耨多羅三藐三菩提は古代インド語の音写で、意味は無上正等正覚。
阿耨多羅三藐三菩提とは、このうえもない完全な悟り、絶対の悟りのことである。

☆此岸:釈迦(十二因縁、四諦)<(大河)<彼岸:三世諸仏(無上正等正覚)

・故知般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒 能除一切苦 真実不虚(こちはんにゃはらみった ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ のうじょいっさいく しんじつふこ)

いよいよ絶対的真理が語られるときが来たのである。
ゆえに知れ、般若波羅蜜多が絶対的真理であることを!
般若心経は「無、無、無、無」の全否定で始まり「是、是、是、是」の全肯定で結ばれる。

「般若心経=無無無無→是是是是」

般若波羅蜜多は「是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒」である。
咒は諸仏の密語、まあ呪文と考えてよい。
般若波羅蜜多は測り知れない呪文であり、すばらしい智慧の呪文でもあり、
並ぶもののない絶対至高の呪文である。
このため「能除一切苦 真実不虚」である。
よく一切の苦を除き、絶対的な真実にして虚(嘘)ならず。

般若心経(般若波羅蜜多)は「度一切苦厄」と「能除一切苦」のための呪文なのだ。
まず観自在菩薩のように彼岸に渡って「度一切苦厄」を目指す努力目標である。
自力修行の呪文という一面がある。
のみならず、どうしようもない苦しみを絶対者たる観音菩薩(観自在菩薩の異名)に訴え、
「能除一切苦」してもらうための呪文でもある。
これは他力救済を願う呪文でもあるということだ。
人は絶対者に苦悩を訴えるだけでかなりの慰めを得られるものなのである。
日本全国に広がる観音信仰は、「能除一切苦」を求めてのものだろう。
さて、どうして絶対的真理を説く般若心経で人の苦しみはなくなるのか。
観自在菩薩とはよくいったもので、苦しみを自在に観ずることができるようになるからだ。
人間は苦悩をどのようにして空(くう)と観ずるに到るのか。
いまの悩みが10年後にどうなっているか考えてみようという話なのである。
果たして10年前の悩みをいま覚えているだろうか。
同様に期間を20年、30年と延ばしていく。
いまの苦しみが30年後にどうなっているかを思うとき、
ある種の安らぎがもたらされるのではないか。
30年でもこうなのだから、もし永遠という時間を考えたら、いまの苦悩はどうなるか。
そして、般若心経は、永遠の時間が流れる彼岸に渡れという教えなのである。
もし永遠の時間の中にいまの苦悩を置いたらば、どれもがちっぽけなものに思えないか。
これが般若波羅蜜多によって「度一切苦厄」に到達するということなのだと思う。
もちろん、これはあくまでも努力目標で、いくら30年後や永遠を考えたところで
どうにもならないほど切実な苦悩というのは人生にいくらでもある。
そういうときはせめて般若心経を唱えることで絶対者の観自在菩薩におすがりするしかない。
「能除一切苦」という現世利益を求めて祈るしかないということだ。
地獄のような不幸のただなかでは、ただ祈ることができるというだけでも、
かなりの精神的な救いになるはずである。

此岸(この世)の大半の問題が相対的なものなのである。
損か得か。幸福か不幸か。金持か貧乏か。成功か失敗か。
欲望とて、相対的なものである。というのも、欲望には際限がないからである。
どこまで行ってもキリがなく、絶対の壁にぶつかることはない。
お金をいくら稼いでも自分よりも持っている人はいるのである。
このとき、彼岸に渡れという般若心経の教えが役に立つのだと思う。
なぜなら相対(人と比べる!)ならぬ絶対の視座を持つことができるからである。
つまり、違った視点から問題を眺められるようになる。
凡庸な処世訓にしてしまえば、万事がものの見方しだいなのだが、
そうはいっても我われは般若心経でも唱えないと、
なかなか世間の価値観から離れることができないようだ。

☆此岸(損得)←(大河)←彼岸(絶対、永遠)=損は長い目で見たら本当に損か?
☆此岸(プラスマイナス)←(大河)←彼岸(絶対、永遠)=マイナスはマイナスか?
☆此岸(結婚できない)←(大河)←彼岸(絶対、永遠)=結婚すればいいのか?
☆此岸(出世できない)←(大河)←彼岸(絶対、永遠)=出世すればいいのか?
☆此岸(問題)←(大河)←彼岸(絶対、永遠)=問題は解決すればいいのか?
☆此岸(苦しみ)←(大河)←彼岸(絶対、永遠)=苦しみは苦しみなのか?
☆此岸(無常)←(大河)←彼岸(絶対、永遠)=人も問題も苦悩もすべて変化する!


・故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰(こせつはんにゃはらみったしゅ そくせつしゅわつ)

ゆえに般若波羅蜜多の咒(呪文)を説く。すなわち咒を説いていわく――。
さあ、最後の最後で絶対的真理が説かれるようだが、それはなにか?

・掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか)

絶対的真理は「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか」。
これはどういう意味か一休宗純に聞いてみよう。

「この十三文字は咒なり。是(これ)を密語の般若ともいふなり。
咒は諸佛の密語なるがゆゑなり。たゞ佛のみ、能(よく)是を知り給ふなり。
余人はしることあたはず」(「一休さんの般若心経」P158)


絶対的真理は仏さまのみがご存じで、我われは知ることができない。
人間ごときが絶対的真理を知ることは不可能だが、にもかかわらず、ではなく、
おそらく我われが理解できないということを神秘性の保証として、
絶対的真理は間違いなく存在しているのである。
絶対的真理を知りえないことは、絶対的真理の存在を否定するものではない。
むしろ、我われ人間には知りえないからこそ、その絶対的真理は存在するとも言いうる。
我われがわかってしまった時点でそれは絶対的真理ではなくなってしまう。
般若心経いわく、我われには理解できない絶対的真理がかならずある。
人はそれを具体的には知ることはできないが、人間を超えるものはかならずある。
それは自然かもしれないし宿命や運命といったものかもしれないが、
あえて名づけるのはやめよう。
我われは人の目には決して見えぬものでも、それを信じることはできるのである。
般若心経は、人が断じて知りえない絶対的真理を説いている。
人間にはわからないことがある、というのが絶対的真理なのかもしれない。
他人の死はわかっても、自分の死は絶対にわからない。
将来なにが起こるかも人間には絶対にわからない。
ともあれ、般若心経を通して人間は絶対とつながれるのだから不安になることはない。
2千年もむかしから多くの人が般若心経を唱えてきたのである。
このお経をよめば、おそらく絶対のみならず全体ともつながることができるのではないか。

・般若心経(はんにゃしんぎょう)

般若心経は、初期大乗仏典「大般若経」の要点をまとめたものである。
このたび熟読して、法華経や浄土三部経は
かならずやこの般若心経の子孫であるとの確信を持つ。
般若心経があらかじめ釈迦仏教を完膚なきまでにつぶしておいてくれていたから、
当時の仏教者は法華経や浄土三部経といった仏典を創作できたのだと思う。
このためなのだろう。
大衆にたいへん人気のある般若心経だが、日蓮宗と浄土真宗は取り入れていない。
おそらく根本の経典(法華経、浄土三部経)にさらにそのうえの親がいるという事実は、
あまり信者に知らせたくはないからだろう。
個人的には般若心経を法華経や浄土三部経とあわせて読誦しても一向に構わないと思う。
どちらが上だの下だのとこだわるものは空(くう)を理解していないのである。

般若心経は空について説かれた、苦しみをなくすための教えである。
根本思想たる空を、現段階で理解できたところまで、最後のまとめとして記しておこう。
空とは「無無無無」の全否定である。世界には「なんにもない」ということだ。
一見すると、すばらしい価値を持っているようなものでも、実のところ空である。
しかし、同時に空は「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の全肯定でもある。
死は終わりではないし、どんな卑怯な人間も美しい心を持っているし、百円の酒でもうまい。
空というのは、だから「すべてある」ということでもある。

☆「無無無無」=「なんにもない」=空=「すべてある」=「不生不滅 不垢不浄 不増不減」

「なんにもない」けれど「すべてある」のが空である。
これはどういうことか?
「なんにもない」と見るのも「すべてある」と見るのも自由であるということだ。
あるものをどのような見方で観ても構わないということだ。
心細い日に華やいだ若いカップルを見るのが辛いのならサングラスをかければいい。
諸君、観自在菩薩のように自在に観ぜよ!
大金を手に入れたときに自分には「なんにもない」と観ずるのもよろしい。
なにもかも失ったときに自分には「すべてある」と観ずるのもよろしい。
観自在とは、空とは、名前をつけるのは自由だということなのである。
空とは、まだ名前のついていない状態を言う。
物事、出来事にはあらかじめ名前がついているような気がするが、実のところは空だ。
あることを損と名づけても得と名づけてもいい。
みんなが失敗と言っていることを成功と名づけてもいい。
だれからも不幸と同情されるような境遇にいるときに自分は幸福だと宣言してもいい。
世界のすべてのものが実はまだ名前がついていない(「なんにもない」=空)。
このためどんな名前をつけるかは我われの自由である(「すべてある」=空)。
3ヶ月以上かけて般若心経を深く深く繰り返し読み込んだ。
まったく成長も変化もしなかったが(「なんにもない」)、
同時に大きく悟った部分もあるのだろう(「すべてある」)。

*こんな無駄に長い意味不明の文章を最後までお読みくださりありがとうございます。
まさかおられないとは思いますが、
ひとりくらいはいらっしゃるかもしれないと期待しながらこれを書きました。
誤字脱字失礼! 少しずつ直していきます。

たぶん喧嘩塾のようなものを経営するのがいちばん儲かるのだろうな。
うちの教室に来ればかならず喧嘩に勝てると宣伝して集客する。
「だれでも強くなれる。喧嘩に絶対に勝つ方法がある」
どう教えたらいいか。なーに、かんたんだ。
基本がたいせつだと強調して、
殴り方、蹴り方からメンチの切り方まで適当に指導すればいい。
生徒のなかにはもとから強いやつがかならずいるから、
そいつにスポットライトを浴びせて、うちのおかげで強くなったと厚顔に主張しよう。
従わない生徒がいたら、「謙虚になれ」と怒鳴りつけてやれ。
講師はときおりむかしの武勇伝を語って、さも自分は最強であるかのように装うべし。
「おれは若いころはやんちゃしていて、ゾクをひとりでつぶしたこともある」とかさ(笑)。

もし生徒からクレームが来たらどうするか。
「教わったとおりにしましたが喧嘩に負けちゃいました……」
喧嘩の勝敗は持って生まれた体格や性格(度胸)、
そのときの運が強く関係するから常勝のものはいないはずである。
どうして先生の指導どおりに喧嘩したのに負けてしまったのだろう?
こういう生徒は叱りつけるにかぎる。
あんたは努力が足りないんだ。努力が足らないから負けたんだ。
うちでは夏に合宿をやっているから、かならず参加しなさい。
お金がもったいない? 
自己投資を惜しんでいるようだと、いつまで経っても強くなれないぞ。
もっと努力をしろ。講師の教えに従え。
理解しろ。負けるのは努力が足らないからだ。もっと努力せよ(=金を払え)。

長く経営していたら講師に喧嘩の実践指導を求めてくる生徒も出てくるはずだ。
「先生、ぼくと喧嘩してみてください」
こういう不穏な注文は断固として受けつけないのがよろしい。
「うちの教室ではそういうことはやっていない!」
威勢よく怒鳴りつけるのがポイントだ。できるだけ大声で怒鳴ろう。
こうすればよほどタフな生徒以外は震えあがるはずだ。
こういう教室に来る生徒なんざバカばっかりだから、
怒鳴りつけてやれば「この先生は偉いんだ」と向こうで勝手に勘違いしてくれる。
間違っても生徒から売られた喧嘩を買ってはいけない。
だって、負けちゃうかもしれないわけだから(笑)。
生徒は喧嘩する相手ではなく、金をしぼりとる対象であることを忘れてはならない。

それでもごくたまにおかしな生徒が来ることがある。
「あれ? 本当は先生、弱いのではないか?」
と気づかれてしまったら、どうしたらいいか。
路上でいきなり喧嘩を仕掛けてこられたら負けてしまう。
さあ、どうしたらいいのだろう? 大人はガキをどうこらしめるべきか?
なるべく大人数の仲間を集めて不意打ちしてやればいいのである。
たとえば月謝を払いに来たときにでも、
あらかじめ仲間を集めておいて「おまえは生意気だ」と集団でボコボコにしてやれ。
このときつゆ温情をかけてはいけない。
一生立ち直れないほど痛めつけてから追い出す。
相手をカタワにするくらいの気持を持とう。
我われは強いのだということをバカな生徒に思い知らせてやれ。

こうしたら経営は安定だ。
従順に金を払い込んでくれる生徒には温容な表情で接する。
重要なのは、「ありがとう」なんて口が裂けてもいわないことだ。
教えてやってるんだ、という強気の姿勢を崩してはならない。
人間というものは、偉そうにしているものを崇め奉るものと知れ。
どうしたら偉ぶれるか? ひんぱんに怒鳴るがよろしい。
人は怒鳴られたら家畜のように従うものなのだ。
絶対に生徒を甘やかしてはならない。それから夢を与えてやれ。
弱い人間ほど非現実的な夢に食いつくものである。
夢を持とう! 喧嘩に強くなったら女にもてるぞ! 
夢を持て。努力せよ。金を払え。先生を尊敬しろ。

――このビジネスモデルは以下の偉人たちを参考にしました。
格闘技大会主催者で元プロレスラー(ガチンコ経験ゼロ!)の前田日明氏。
麻雀道場の総裁で「20年間無敗」の伝説を持つ雀鬼の桜井章一氏。
ナンパマニュアル本「ロビンの恋愛商材」作者で元県立越ケ谷高校教師の某先生。
株式会社シナリオ・センター社長で「今日からシナリオを書くという生き方」作者の小林幸恵氏。