6年もまえに書いた記事にコメントしてくださる方がいらっしゃると、
いろいろ考えさせられる(ありがとうございます)。
コメント欄もろもろからみるに、年末の「火の用心」を迷惑(うるさい!)と思う人が
けっこういらっしゃるので嬉しくなった(らいけないのかもしれませんけれど)。
いまのわたしは「火の用心」に怒りをおぼえているか。
いな、である。
経済上・血縁上の事情からたまたま引越したら、
その地域には「火の用心」をするという偽善臭い風習がなかった。
「火の用心」のおおもととなる騒音過敏症も自然に静まった。
同時に最近たまたま自分に合った耳栓を発見したことも大きい。
この耳栓の発見もたまたまである。
愛用していた2組(約)350円の耳栓がたまたま販売店で発売中止になった。
いろいろ耳栓を調べたらどれも高いので許す(買う)ことができない。
たまたま期待せずにダイソーの3組105円の耳栓を買ったら、
これが革命的効果をおよぼす。たまたま体質に合ったのだろう。
だれもがダイソーの105円耳栓で救われるとは断じて言えない。言えません。
問題が解決(らしきもの)をしめすきっかけはたまたまが多いような気がする。
たまたまとは偶然のことである。
悩むことで人生は豊かになるところがたぶんにあると思うが、
もし苦悩が究極まで行き詰ったら放置しておくのも智慧ではないか。
たまたま解決してしまうことがあるからである。
このごろは1回書いたブログ記事を公開しないで闇に葬ることがけっこうある。
書き上げた長文メールを出さないで寝かせることも最近おぼえた。
この類のメールは、翌日になって読み返すとたいてい出さなくていいメールだ。
人生は、忍耐だ。辛抱が肝心。人間にも人生にも期待しないことがいちばん。
「借りを返す」と思えばいいのかもしれない。

おのれをうまく騙(だま)すことだ。
騙し騙し生きればいいのだ。
胡散(うさん)臭いことを書いてみよう。
わたしはこの年齢になるまで多くの人のお世話になった。
いまそのときの借りを返していると思えば(=自分を騙せば)いいではないか。

わたしは借り(ご恩)を返したい人間がたくさんいるけれど、
立場上、国籍上ままならない。
この年までうっかり生き延びると、
あの人のおかげでいま生きていると深々と思い返すことがある(偽善臭くてスマン)。
といっても、ご恩を返すことはなかなか思うようにならない。

いまの鬱憤はご恩を返していると思えばいいのではないか。
いまになってみたらわかるということがたくさんある。
当時、当人は非常に腹立たしく思っていたのではないか、
と後悔で頭をかきむしりたいような気持になることが少なくない。
老いたのかもしれない。年を取ったのだろう。
そうはいっても、いまはご縁がなくなりご恩を返すことがかなわないので困ってしまう。
いや、困る必要はきっとないのだ。

めぐりめぐってという思想である(これこそご縁ですぞ)。
あのとき、あの人が寛容であったのは、わたしに優しくしてくれたのは、
おそらくだれか第三者の厚意がもとになっているような気がする。
ならば、そのご恩をいま返せるではないか。
いまわたしがぐっとこらえることで、あのときの借りを返すことができやしないか。
なぜといったら、いつかめぐりまわって恩人に感謝が届くかもしれない。

現世では無理でも来世で(そんなもんあるのか知らんが)。
これが「袖すり合うも他生の縁」というやつなのだろう。
まったく老いると分別臭くなるからいけない。
ブログが壊れ始めているのか(作者はまだ壊れていないつもり)。
「本の山」の「Archive」「Category」「Comment」「Profile」をクリックしたら、
該当ページには行かずに「Page not found」と表示されてしまう。
わけがわからない。
しばらく、ほうっておきます。
関係ないけど、仏の意味って「ほっとけ」じゃないかとふと思った。
仏さまにお任せしてみんな「ほっとけ」――。
究極の仏教信仰はこれではないかと思う。ほっとけ!
いやね、お題目を唱えて成功者や勝利者を目指すのもいいのでしょうけれど。
ブログの不調は当面、ほっときます。
もしかしたらそのうち風邪のように自然になおるかもしれませんので。

(追記1)さっぱりまるでなおる気配がありません。
「ほっとけ」じゃダメなのかもしれませんね。
というわけで、自分でいろいろ調べてみましたがどうにもわかりません。
いま図々しくもユーザーフォーラムで悩みを告白してきました。
ほんといったいどうしたらいいのでしょうか。(12/17)


(追記2)いま見たらなおっていました♪(12/18)

(まとめ)やっぱ「ほっとけ」でよかったのか~。問題は、ほっとけ!
昨日いろいろ調べて損をした気分。
しかし、苦労したぶん、こうして回復したとき喜びが増すのだから、
あれは無駄ではなかったと思いたい。
無料で使わせてもらっている身ゆえ、一貫してFC2運営への不満はありません。
毎日のように一休さんの道歌をよんでいるけれども、いまだにおぼえられない。
これが中学生のころだったら1日で暗唱できたのではないかと思う。
さて、一休さんの考えとしては、人はほとけさまとして生まれてきて、
成長するにつれてよけいなことを知り堕落していくらしい。汚れていく。
このためなんにも知らないころに戻れ、という説教が道歌として繰り返される。
言われてみればたしかにそうで、知れば知るほど苦しみが増すようなところがある。
たとえば人権、平等、愛、幸福なんていう観念を教わるからこそ、
被差別者やもてない男女の苦悩、つまり不幸が生まれると言えなくもない。
道徳の時間に「走れメロス」を読んで友情のすばらしさを知ればこそ、
友人がいない人間は悩まなければならないのである。
もしかしたら人権になんか目覚めないほうがよほど仕合せなのかもしれない。
素人の場合(わたしも素人だが)年を取れば取るほど、
書く文章がくどくなる傾向にあるのではないか。
おそらく、よけいな知識を得るがために、それらに縛られてしまうのだろう。
知識に引きずりまわされてしまう。
知れば知るほど不自由になるようなところがたしかに人間にはある。
老いれば老いるほど人は説教くさくなるのかもしれない。
部活動では、中学生でさえ先輩は後輩に説教するのだから。
たった1年の違いくらいなんだって言うんだろう、くすくす。
しかし、そういうものなのだろう。人はそういうものなのだろう。
おまえはなにもわかっていない。おまえね、それじゃいけないよ。
おまえはいつまでもガキだな。大人になれよ大人に!
先ほどある読書感想文コンクールの入選作品を5篇読み比べたが、
たしかに自分が選者でこれに優劣をつけろと言われたら非常に困ると思う。
なるほど、書き手の年齢が上がるごとに、
どこかの作文教室で教わったような飾った(いんちき)美文が多くなり、
最年少者(9歳!)に最優秀賞を与えた選考委員長の気持もわかる。
わたしは、大前提として「つまらなかった」という意見や
作者への批判を書けない読書感想文に優劣はない、
と思うけれども、コンクールならばそうはいかないのだろう。
そのコンクールの入選作を読んで思ったのは、つくづくみなさん優等生だなということ。
けっ、と思った、とは言いません、言いません、言えません。
しかし、なんと申しましょうか、いまは優等生の時代でございますこと。
まあ、優等生的発言が好まれること、みんなこぞってすること。
とくにテレビはひどい。おい、本音は違うだろう、と言いたくなる。
反面、ネットの匿名掲示板には劣等生の本音が吹きだまっている。
やっぱり人間ってそうでしょう、となんだか嬉しくなるのはおかしいのだろうか。

いまおおやけに不良がかったことを言えるのは、
よほど偉くなった元からそういうキャラクターの人だけではないか。
それでも「のりピーは悪くない」はだれも言えない。
自分のお金でクスリを購入して勝手に気持よくなるくらい構わないじゃないか、
とはだれも言わない。もちろん、わたしも言わない(汗、汗)。
でも、このくらいなら言ってもいいかな。「のりピーがうらやましい」
あんな美貌に生まれて、
なおかつわたしが経験したこともない快楽を腹いっぱい味わったのだろうから。
「のりピーかわいいよ、チューしたい」――許される発言はここまでだ!
体験は教えられるのか、わからない。わからないから書く。書くことで考える。
少なくともわたしの場合は、「はじめに結論ありき」ではない。
書くことで考えが変わっていく。これが文章を書く楽しみではないかと思う。

話を戻すと、体験は教えられるのか。
これは少数派の意見なのでしょうが、
たとえば戦争反対の小説を読んで、すぐに戦争反対を唱えるような人が怖い。
そんなかんたんに人の体験に左右されていいのかと思う。
もっと自分をたいせつにしろよと思う。
そういう影響されやすい人にかぎって、いざ戦争となったら、
今度は戦死者の遺族の体験に同情して、
報復のために「一丸となって」戦争へ突き進むような気がする。

戦時中に戦争反対をいうのが困難だったのとおなじように、
いま平和の時代には戦争賛成を口にするほうがたいへんなのではないか。
わたしは戦争についてはわからない。
とりあえずそのほうが安全なので、戦争反対の一派に与(くみ)しているつもりだ。
しかし、生きていればそれだけでいいのかはわからない。
いのちに代わるなにものかを、
それがたとえフィクションでも欲する人間の心情への共感はある。

ふたたび、体験は教えられるのか。
原爆の語り部の話に涙したら、その人の体験をわかったことになるのだろうか。
とはいえ、もし体験が伝えられないとしたら、絶望しかないというのもわかる。
かりに体験が伝えられないならば、読書する意味などなくなってしまうのではないか。
それはそうだとしても、他人の痛みは究極にはわからない。
自称「人の気持がよくわかる人」は、人の痛みがわからない人ではないかと思う。
「人の痛みはわからない」と心底まで理解してはじめて、
人の気持に多少なりとも近づけるようなところがあるのではないだろうか。

体験は教えられるのか。体験は伝えられるのか。
まあ、伝わらないとあきらめながら、
それでもいつか伝わることを信じる、くらいがいいのではないか。
というのも、人のことはわからないでしょう。
わからないよな。わからない。わかりません。
戦争反対の啓蒙小説を読んで、
すぐさまうっとりと戦争反対に共鳴するような読者の気持がわかりません。
そういう読者を高く評価するような世間の物差しもわかりません。
知ることと、わかることは違うのではないか。
わかるにいたる過程を整理すると以下のようになる。

先生・読書→「教わる」→「知る」→「わかる」

知るとわかるの違いはいったいなにか。
だれの言葉であるか、だと思う。
教わって知るのは他人の言葉である。
わかるとは、自分の言葉で説明できなければならない。

「教わる(読む)」→(他人の言葉)→「知る」→「わかる(=自分の言葉)」

本の内容は一回読んだら知ることができるが、
わかるためには何度も繰り返し読まなければならない(よほどの天才以外)。
知識を得るのは楽だが、理解するのは難しい。
知ること(知識)とわかること(理解)は異なる。
では、なにが「知る」を「わかる」に変えるかといえば体験だと思う。
人は体験しないとなかなかわからない。
体験は根本的には教えられないと思う(表面的には可能に見えるでしょうけれど)。
人は体験してはじめてなにかを理解することができるのではないか。

「知る」→(体験)→「わかる」

知識は客観だから伝えられるが、理解は主観だから教えられない。
どんなに知識(客観)を伝達されても、最後に理解するのは自分(主観)である。
自分で理解するしかない。
自分の体験が知識を理解に変化させるのだと思う。
「人は変わる」とよくいうが、なぜ変化するかといえばいろいろ体験するからではないか。
わたしのことを考えても、少しずつ変化したきっかけは体験である。
もっと具体的にいうならば、成功体験ではなく失敗体験である。
わたしは一生秘密にしておきたい失敗体験がいくつもあるが
(思い出すたびに大声を上げたくなるほど恥ずかしい痛恨の記憶です)、
わずかでも変わったとすればそれらが契機となっている(変わっていないかもしれない)。

しかし、体験すればわかるというわけでもないと思う。
やはり最初にある程度は知らなければならない。
いくら知識と体験を積んでも決して理解しない人というのもいるような気がする。
そもそも理解というのも考えてみるとよくわからない。
なにかを理解したというとき、それをだれがどのような基準で判断するのか。
多数派の一般的見解に達することは断じて理解ではないとわたしは思う。
人とは異なる自分だけの答えに行き着くことが理解だとわたしは思う。
「このようにわたしは思う」といえるようになるのが「わかる」ことなのだと思う。
そのためにはまず知ること。それから体験すること。

そうはいっても、人は体験をそう選べるものではない。
(時代的制限、遺伝的制限、宿命的制限)
そもそも、より多く理解すればいいのかどうかもわからない。
しかし、人として生まれたからには「わかる」というのが幸福に関係しているような気がする。
人は幸福を目指す。これは真実か。いな、だとわたしは思う。
正しくは、多くの人は幸福を目指す。
そのときに「わかる」ということが幸福に通じるひとつの道ではないかとわたしは思う。
最近テレビや雑誌、ネットでやたらランキングを目にするような気がする。
人気ランキング1位は「みんな」が好きなもので、
かならずしも「あなた」の好みと合うとは限らないのに、なにゆえか。
ここで単細胞は日本人はランキングが好きなどと決めつけるが、
少なくとも海外移住経験の5年くらいは持ってから、そういうことを言いましょう。
もしかしたら日本人だけではなく、人間はランキングを気にするものなのかもしれない。

もっとランキングを気にしないようにしよう!
自分をたいせつにしよう!
こんな安易な発言をするものもたぶん現実が見えていない。
だって、みんな結婚しているじゃない。
おそらく男女ともに残酷なことにランキングというものがあるわけでしょう。
1位からかなり下までいる(年収、美醜、能力の上下、性格の良し悪し、身分肩書)。
にもかかわらず、あれだけの数が結婚している。
どれだけ意地悪に考えても、まあ、
少なくとも結婚式の1日くらいは愛しあっていると考えていいのでは?
とすると、ランキングに左右されていないことになりませんか。
ランキングを気にしないで、自分がいいと思うものを選んでいる。
いや、あれはそれぞれのランキングを見比べたうえで、
おなじような順位の男女が惚れあっているんだよ――なんて言われたら、
否定できないけれどさ。

そもそもいろいろなランキングって、本当に統計を取っているのかしら。
もっとも打ち出したいものをお偉いさんがランキング上位に設定しているだけかも。
売りたいものをランキング1位にしたら売れるわけだから。
賢い庶民はそろそろ、このことに気づくのではありませんか。
なんだかぼくにも一瞬希望が見えましたが、これは錯覚なのかどうか。
いわゆる相性はランキングを超越するのかもしれません。