むかしはよく夏に山へ行っていたが、いまは秋である。
久しぶりに高山不動尊へ行った。
調べてみたら恩人のひとり、ムー大陸さんと行ったのが最後である。
しかし、あれから5年も経ったのか。
おれはなにをやっているのだろう。彼はいまどうしているでしょうか。
執念深い性格である。
まえ行ったとき、ふたりともおみくじが凶だった。
5年越しのリベンジを果たしてきた。

121016_1243~01121016_1244~01

ちゃんとお金は払っていますからねという証拠を提示しておいて結果は――。

121016_1251~01

おみくじは好きで(たぶん安いから)よく引くが末吉というのは初めての気がする、
末がよくなるというのである。
「時到りて思ふことも次第々々に出来て幸福目のまへに集まるされど(以下略)」
いまはよくないが末によくなるというお告げである。
だいぶいや相当に慰められたが、しかし時が到るまで待つのがどれほど難しいか。

121016_1419~01


頂上のようなところへ行き、ひとり酒をのむ。
ウイスキーのブラックニッカを水筒の烏龍茶で割っていただく。
ローソンで買ったおにぎりがつまみであり昼食である。
まえにムーちゃんと来たときは芋焼酎をお湯割りで楽しんだものだ。
人事みなみなご縁だと思っているが、ムー大陸さんとの宿縁はもう切れてしまったのか。
年賀状を出したら届くのだろうか(=引越していないか。返事はいまさら期待していない)。
まさかいまだお読みだとは思わないが、たいせつな恩人のひとりであるので、
まったくご恩に反する行為をして様子を見ましょうか。情け容赦ない個人情報の公開だ。
実はね、ここだけの話、ムー大陸さん、
わたしが一浪してまで入りたかったあの国立大学の出身なんですよ。
ちなみに、こちらは住所、携帯番号ともに変わっていない。
削除要請はいつでも受け入れる用意がございますってことだ。

5年まえの楽しい思い出↓
ムーちゃんのブログ「逃げたい心」
http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-576.html
http://moocontinent.blog65.fc2.com/blog-entry-577.html
(だれひとりとしてクリックしないのをなかば承知して……)

高尾山にも行ったのでした。もちろん、ひとりで。
人嫌いなので(ちがうかもしれない)、真っ向から高尾山にいどむコースではない。
影信山、小仏城山を経てから高尾山にいたる少々異端のコースを選んだつもりだ。
しっかし、なんだこの界隈はと思った。
わざわざ人を避けて平日に行っているにもかかわらず、人が多すぎるのである。
山でのキモいルールというものがあるでしょう。
すれちがうと「こんにちは」と挨拶する習慣。
あれが嫌いで嫌いで、あえて人の少なそうなコースをいままで選択してきたが、
さすがに高尾山が入っているとダメだったか。
で、どうだったか。どうしたのか。挨拶をしたのか。
もちろん、するに決まっているじゃないですか。
わたし、言っておきますけれど、文面とは異なりかなりヘラヘラした男ですからね。
ニッコニッコしながら「こんちは」の大安売り。
そうして観察していると、おれ以上にダメなやつが多いので笑いました。
やはり挨拶が嫌いな少数派というのがいるのですね。
とても嬉しかった。そういう少数派と向き合ったときはぼくもノー挨拶。
こいつ同類だなと親近感をおぼえながら。

121025_1252~01

上の写真は小仏城山の(たぶん)頂上にある茶屋。
平日なのに営業しているのだから驚いた。そんなにお客さんが多いのか。
夢を見つけた。おれはここで夢を発見した。
というのも、700円もする瓶ビール(大瓶でした)をのんでいるおっさんがいたからだ。
つまみは小汚い茶屋の食い物ではない。
ちゃんと家から持ってきたおにぎりをほおばりながら700円のビールをのんでいる。
かっこいいと思った。おれも将来ああいうおっさんになりてえずら。
小仏城山の茶屋で700円もするビールをのめるおっさんになるのがマイドリーム♪
ダメなおっさんはなにをのむのか。そりゃあ、持ち込みに決まっている。

121025_1355~02

カップ酒の底辺臭をわたしは限りなく愛する。
高尾山は国際的観光地なんだな。
日本人ばかりではなく異人さんもちらほら見られたのでびっくり。
ここもビールは700円だった。いつかここでビールをのめるほど偉くなりたい。
高尾山登頂くらいに、なかなか到達しがたい偉大な壮大な夢でありましょう。ああ、いつか!

去年に引き続き埼玉県の鐘撞堂山にも行きました。
このときに限ってひとりではなく同行者がいたのであります。
同行者がいる。ひとりではない。これがどれほどありがたいか。
おれなんかとさ、一緒に山に登ってくれる人がいるなんて、ああ、神さま、仏さまの世界だ。
山の頂上にはたくさん人がいた。こんな話をしたのだったか。
「どうして人間って高いところが好きなんだろう?」
「基本、上から目線が好きなんじゃないの?」
相手が年上なので質問に質問で答えてみました。
こうして胡散(うさん)臭い幸福自慢をしてお恥ずかしい。
(あ、これはいちおう幸福自慢のつもりですが、
そもそもこんなことが果たして幸福か、と一般の方は思われるのかもしれませんね)。
さてさて、いったん下山して今度は少林寺奥の羅漢山に登る。
またふたたびここに来ることがあろうとは。
同行者から「これヨンダくん(と呼ばれています)に似ている」と言われたのは――。

KC3G0006.jpg

たしかこれだったと思う。おれ、ほんとにこんな顔をしているのかな。
鏡を見るのは大嫌い。写真を撮られるのもおなじく。
ここは五百羅漢で有名で、いっぱい仏さま(お地蔵さん)がいるけれど、
これらは大乗仏教のかなり本質的な問題を問うているのかもしれない。
つまり、人は、人ごときが、いったい仏になれるのかどうか。
ちなみに無駄知識を書いておくと、人は仏になれるとしたのが禅宗で、
人は死後にしか仏になれない(死体=仏さま)と説いているのが浄土宗(浄土真宗)。
密教や法華経集団がこのあたりをどう処理しているかはまだ不勉強なので、
明言を避けます。
とはいえ、こいつら(↓)を見ていると我われも仏さまになれそうな気もするのだが。

KC3G0001.jpgKC3G0002.jpg
KC3G0003.jpgKC3G0005.jpg

去年訪問したときの記事↓
「お山のほとけさま」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2799.html
(どうでもいいことなのでクリックしなくていいですからね)
これはほんとうにおすすめしたい人生作法なのである。
見るな、読むな、聞くな。
つまり、自分にとって都合の悪い情報は意識的に積極的に自覚的に拒否する。
たとえば、一部の公務員さんがどれほど恵まれているかというようなネット情報は見ない。
若年で成功した人の書いた本は読まない。
友人が身近な成功者の話をしたら、「ごめん。やめて。聞きたくないから」とお願いする。
これこそ情報化社会をサバイバルするための賢い智慧だと思う。
なぜなら「人は人、自分は自分」なのだから。人のことはどうだっていい。
嫉妬ほど苦しい感情はそうないのだから、あえて見ない読まない聞かない!
しかし、いま、現代、我われを苦しませる情報ばかり、なんと世間には満ち満ちていることか。
告白がわかりません。「あなたが好きです」「愛してます」というあれ。
自由恋愛の究極的英雄行為である告白が恋愛不自由者のわたしはわからない。
あなたが好きって、それどういう意味?
いきなりだれかに向かってあなたが好きですといえる人に驚異をおぼえます。
むしろ、感動した!
もし、の話をしましょう。そういう妄想がなければ人生はつまらないばかりなので。
もし、もしだ、わたしが「好きです」と告白されたら、百円玉を渡すでしょう。
「ダッシュでビール3本買ってきて。つまみもね。釣りはいらないから」
で、ほんとうにビールを買ってきてくれたら怒鳴る。
「バカヤロウ。第三のビール(雑酒)でいいんだよ。
おまえはおれのことをちっともわかっていない」
350ml缶を差し出されたときも怒る。
「バカヤロウ。ビールとはロング缶のことだ。おれを好きならそのくらいわかれ!」
告白するとは、わたしにとってはそういうことである。
告白したら相手の命令をすべて聞こうと思っています。
告白されたら好き勝手な命令をしたい……。
以上、告白がわからないものは恋愛がわからないという具体例を提示してみました。
いまはみんなそろってもてることに絶対的な価値を置いているような気がする。
もてない男はダメ。もてない女はいけてない。もてることこそが人間最高の幸福。
じゃあ、もてるってなに? 
と突きつめて考えると、多くの異性から支持されるということだと思う。
ポイントは、数字であること。
2人ではなく、5人の異性から好感を持たれた人のほうが偉い、つまり、もてる。
ここでもてないおっさんはやばい真実に気がついてしまったのだ~よ。
べつにもてなくてもいいのでないか。
99人から嫌われてもひとりに好かれたらそれでいいのではないか。
問題はひとりの女で残りの99人はどうでもよろしい。もてなくてもいい。
もちろん、そのひとりを得るのがどれほど難しいかは実体験としてよく理解しているけれども。
もてる男がかっこいいというのは、多数派の論理になるわけでしょう。
多数派の支持しているものがいい=もてる男女はいい。
べつに少数派だっていいじゃないか、ぶおとこ、しこめのみなさん!
――うちのブログの読者は外見不自由者が多いと勝手に妄想して
こんなことを書いてみました。ごめんちょ。
いまはもうまったく流行らなくなった自分探し。
「私」とはなにか?
わたしは「私」とは父と母だと思う。
「私」は父と母である。
父と母を凝視すれば、かなりのところまで自分がわかるのではないでしょうか。
あなたは父と母からできている。
尊敬する人はだれですか?
この問いに、わたしは両親と答えたいと思っている。
両親が偉いからではない。
ぜんぜんまったく偉くないからわたしは両親を尊敬しているのだろう。
尊敬したいのだろう。
しつこいが、繰り返す。「私」は父と母である。
おそらく、仏教の説いている究極の真実とは、このようなありふれたものだと思う。
かつて西洋の偉人さんが「宗教は民衆の阿片(あへん)」といったそうだが、
これほどうまい宗教の定義はいまのところお見かけしたことがない。
ご存じでしょうが、阿片とは麻薬のことである。
わたくしごとだが先日長期断酒をしてやばくなったとき、
ふと思いついて般若心経を唱えたら苦しみが消え楽になったものである。
だから、般若心経がいいとはわたしはいわない。
人それぞれに宗教は効果があるのだと思っている。
般若心経でも念仏でも題目でも禅でも密教でも聖書でもコーランでも、
たぶん宗教ならなんでもいいのだろう。
たしかに宗教には阿片のような効き目ある。
さあ、ここからが問題だ。阿片を摂取するのはいけないことなのか。
酒好きのわたしはいま気持よくなるのであれば、
麻薬でも覚醒剤でもなんでもいいと思っている。
苦しみからいっとき逃れられるのなら酒でも宗教でも阿片でもいいではないか。
きっとわたしは酒が好きなように宗教が好きなのだ。
宗教は阿片と見破ったものは天才だったのではないかと思う。

「ザ・ノンフィクション」という民放のドキュメンタリー番組を見ていたら、
地下アイドルという若者たちが特集されていた。
アイドル志願の二十歳前後の夢見る女性である。
収入はゼロにもかかわらず、持ち出しでアイドルを自称しているものが大勢いるらしい。
いっちゃわるいけれど、なんの輝きもない、AV女優以下の容姿のものが、
自分は将来絶対にAKB48のような人気アイドルになるという
愚かな夢を見て貧乏生活を我慢していた。
どうひいき目に見たところで絶対に無理なのだが、彼女たちは夢を見ていた。
べつにアイドルになんかならなくたって、
それを目指せるほどの美しさを持って生まれたことは幸福なのだよ。
いまのままでいいではないか。
アイドルなんか夢見てわざわざ自分から不幸になるものではない。
一瞬そんなおっさんめいたことをいいたくなったが、それは違うのだろう。
おそらく、夢は宗教とおなじで地下アイドルにとっての阿片なのだ。
宗教が好きで仏教書を繰り返し読んでいるわたしが地下アイドルをバカにしてはいけない。
いまちょっとだけ偽善くさくなったが、まあ、目くそ鼻くそで、おなじ穴のむじなだよね。
阿片でも宗教でも夢でも、好きならいくらでも摂取するのがいいのだろう。
宗教や夢が阿片だという自覚は、あってもなくてもどちらでもいいのだろう。
きっと生きていたらなんだっていいのだ。そう思わなければやっていけないではないか。
この歳までうっかり生き延びてしまうと
若い人からリアクションを求められることがあるわけだ。
正直に白状すると、異性からのものには百%返答するが、
同性からの問いかけには答えられないこともある(返信率は9割以上ですよ)。
答えられないことがある。
どうして答えられないかというと自分で気がつくしかないからである。
わたしは絶対的真理などないという姿勢を好んでいるが、
それでもこれは絶対だと信じていることがある。
もしかしたらそれが結構な救いになっているかもしれないので紹介する。
人は絶対に死ぬ。
これは救済だと思う。どんなに不幸でも苦しくてもいつか死んでしまう。
死んだらとりあえずその人生における苦は無になりそうである(ならないかもしれない)。
これはなかなか凡人には絶対的といっていいほどの救いだと思う。
まあ、少数の成功者や勝利者にとっては
死はたえがたいのでしょうが、あっはっは、ざまあみやがれだ(ごめんなさい)。

「人は死ぬ」は絶対的真理ではないかと思っている。
もうひとつ最近信じたいと思っている絶対は「人は変わる」である。
なーに、とっぽいことをいってるんだ。
友人も恋人もすぐにてのひらを返したように裏切る。
そんなことは常識じゃないか、とお叱りを受けるかもしれない。
たしかにそのとおりだ。他人は変化する。
しかし、ならば、そうだとしたら、自分もまた変わるのではないのだろうか。
人は変わる。自分は変わる。
これもまた「人は死ぬ」同様に、
結構なかなか絶対的と思えなくもない真理ではないか。
どういうことか。ぶれない人間などいないということだ。
ある作家を読み込むことでわかるのは、人はかならず変わるということではないか。
若いときに自殺を否定していたものがみずから死を選ぶことがある。
犯罪者を心底から軽蔑していたものが人を殺(あや)めることがある。
むかしは偉そうに振舞う奴が大嫌いだった人がとんでもなく傲慢な説教好きになる。
一生清貧でいいと思っていた人が金を儲けたことで贅沢に目覚める。

以上のようなことは残念なことではなく、むしろ人間の希望ではなかろうか。
若いころは「歎異抄」を激烈に批判していた作家がいるけれど、
もしかしたらいまはそうではないかもしれない。
なぜなら、その作家の敬慕している文豪が晩年に親鸞に引かれていたのだから。
変わるのはおかしなことではなく、あるいは絶対的なことなのかもしれない。
生涯において矛盾があるのは、不可思議ではなく当然の摂理なのかもしれない。
矛盾のないほうが人間としておかしいのかもしれない。
もし人は絶対的に変わるとすれば、人間を変えるものはなにか。
しいていうならば時間である。時間が人を変える。
いつの間にか自分が変わっている。待っていたら自分は変化するかもしれない。
いまわたしは殺人も自殺もOKではないかと思っているが、
この考えは今後いくらでも変わっていくものなのだろう。それは絶望ではなく希望だ。
書くということは、最後まで書かないということなのかもしれない。
最後の最後まで書けなかったことがあるから、
物故したわたしの好きな作家先生たちは多作できたのではないだろうか。
いつか書く。今度こそ書く。そうして最後まで書けぬこと。
まさにそのものが彼(女)をあれほどすぐれた作家にしたのではないのだろうか。
秘密を最後まで守ることが創作と関係しているとは考えられないだろうか。
すべてを公開しているかのような私小説作家でも最後まで書けないことがある。
それはだれにもわからないことだ。それを才能というのだろう。
ひどい親友がいるのである。こんなことをいうのだから。
「自分は地震のあとフクスマ産の野菜は買わないようにしている」
「なんで、事故でも犯罪でも震災でも被害者はみんな善人ぶるんだろう」
「選挙に行くのはバカ。一票ではなにも変わらない」
「高収入の人ほど高い税金を払わなきゃならないって、あれ不平等じゃない?」
「無職やニート、ナマポが本当に幸福な人だと思う」
「余命宣告された難病の若者でも国民年金は払わなくちゃいけないの?」
「どうして下流の店では不美人ほど接客がひどくて、美人はみんな感じがいいの?」
「なによりのんべんだらりんするのが生きがい」
「あーあ、東京大震災とか起こってこの国がめっちゃくちゃにならないかな~」
わたしはこの親友が大嫌いだが、あちらはそうではないらしく、
たびたび話に来るのだから困ったものである。
しかし、これはわたしだけではないのかもしれない。
みなさんにもこういったひどい親友はおられませんか?
友人がひとりもいないという人にも、こういうひどい親友ならいるのではありませんか?
ならば、その親友と語り合ってみるのもそこそこに味わいがあるかもしれませんぜ。
親友に感化されたのか先日ひどいことをわたしのほうがいってしまう。
「べつに友人なんかいなくても構わない」
そうしたら、わが親友は大いに同意してくれた。
「そうそう。なんだっていい」
「え?」
「結婚しなくてもいい。働かなくてもいい。死んでもいい。なんだっていい」
「バカヤロウ」
「バカヤロウ」
「(笑う)」
「(笑う)」
気づいたら親友のすがたはなく、ひとりで呆けたように笑っておったのです。
生きるのも死ぬのもどちらもそれぞれの味わいがあっていいと思っているが、
こうしておっさんになると、ふとなにかを悟ったような錯覚の生じるときがあり、
ほおほお、とひとり合点がいくというそれなりに悪くない瞬間が
あったりするものなのだよ、若者諸君。だから、長生きしたまえという気はないが。
それはそうとして長らく「空気を読む」ということがわからなかった。
まあ、かなしいほどに空気を読めない中年男である。
ご賢察のとおり、そもそもからして空気を読むという言葉の意味がわからない。
最近、ああ、そうかと思った。
空気を読むとは、顔色をうかがうということではないか!
この言葉ならば意味がわかる。
集団の一員となったとき、そのメンバーの外見、肩書を瞬間的に読み取り、
だれがいちばん上でだれがいちばん下か、
だれの意見に従っておけばいいか、だれをバカにしておけばいいか、
全体のなかで自分は上から何番目、下から何番目に位置するのか、
以上を理解したうえで言動を決めることを、
きっとみんなは「空気を読む」といっているのではなかろうか。
またひとつ大人になった。おっさんになった。老けた。いいことである。
個性というのは、好き嫌いである。もっといえば、好きではなく、嫌いが個性だ。
なにが嫌いか、なにが許せないか、というのがたぶんあなたの個性だと思う。
嫌いなものがないなんていう優等生は、ただ凡庸なだけである。
なにかを嫌ったら、それを好いてる人を敵にまわすわけだから、
もし個性が本当にそのようなものなら、個性的な人は友人知人が少ないだろう。
もし友人がひとりもいない人がいたら、それは特別に個性的ということなのだから、
絶望するのではなく、変わり者の自分をたっぷり愛してほしいと思う。

わたしは言葉には節操がなく、
どんな若者言葉でも流行語でもぜんぜんOK(ふるっ!)なところがある。
しかし、次のふたつの言葉は生理的に許せない。
目のまえで使われたら、手を出すことはないだろうが、
顔をしかめてしまうかもしれない。
わたしは「がっつり」と「ほっこり」が大嫌いである。
たぶん女子くさいからではないかと思う。
わたしは女よりも女々しく、かつ女が腐ったようなやつだという自覚があるから、
女言葉はよろしいでございますなのだが、女子くさい言葉は鳥肌が立つほど嫌いだ。

「今日はがっつりいくぞ」「今日はほっこりしちゃった」
なーに、かまととぶっているんだよ、おばさん! と叱りつけたくなる。
「がっつり」や「ほっこり」は、
自分のことを「うちら女子は~」という厚顔なおばさんを連想させる。
そうそう、先ほど手を出さないと書いたのは女限定である。
「がっつり」や「ほっこり」を使うほど女子化した男をまえにしたら、
いくら女々しく女が腐ったような性格のおれでもやっちゃうぞ。
いい? ホントーなんだからっ! 絶対に絶対にホントーなんだからっ!
どうしてか少数派になってしまうことが多い。
なぜか少数派なのである。多数派になれない。
どこかにいるにちがいない「みんな」と気持をわかちあえない。
ところが、長生きはするもので、最近ようやく多数派になるということがあった。
おかげで多数派がいかに楽か、いかに快く連帯できるか実感した。
なにで多数派かといったら、あれである。
え、あんたみたいな変わり者が多数派になれるわけがないでしょうって?
いやいや、わたしはある分野ではれっきとした多数派である。
喫煙者を迫害するという風潮ではすっかり時代に乗らせていただいた。
むかしからわたしが煙草を嫌いなのは、
煙が臭いから嫌いという単に嗜好の問題だ。
「みんな」はおそらくちがうのだろうが「敵の敵は味方」である。
まあ、煙草の煙をちょっと吸ったくらいで健康にゃ関係しないのだろうが、
「みんな」の誤解はとても嬉しい。
はっきりいえば、煙草の煙は「みんな」(統計)の健康には多少影響するのだろうが、
「あなた」(唯一存在)の健康にはまったく関係しないのだが、
「みんな」を自分だと思っている人には理解できない思考法かもしれない。
しかし、多数派の連帯はよろしい。
喫煙所で固まっている少数派を「みんな」と顔をしかめて見下す優越感はいい。
いままで多数派がこんなに気持のいいものとは知らなかった。
ちなみに民主主義(=多数決主義)のわが国では、ほぼ多数派を正義という。
「みんな」と一緒に正義を気取るのもときには悪くない。
これが最初で最後の体験かもしれないけれどさ、あはっ。

(注)わたしは知らない人の煙がいやなだけで、ひと言お断りいただけたら大丈夫です。
たぶん「わたし」というのが強く関係しているのでしょう。
ただの煙はいやだけれども、わたしの知り合いの煙ならば構わない。
身勝手かもしれないけれど、まあ、人間そんなものじゃないですか。
田舎を舞台にした秋ドラマの初回を見ていろいろ驚いた。
これはあきれられるかもしれないが、出演する俳優さんをひとりも知らなかった。
むかしから芸能界オンチである自覚はあったが、ひとりも知らないとは……。
芸能界の新陳代謝が激しすぎるのか、単にわたしが勉強不足なのか。
みんなどうやってそういう知識を得ているのだろう。
しかし、いまはむかしと比べてイケメンや美人が多くなったような気がする。
購読している雑誌「テレビナビ」の今月号表紙はずっとキムタクだと思っていて、
ああ、違う人だったのかと最近になって気づいた。
イケメンや美人が増えたのか、それとも似たような顔が増えたのか。
男はまだ違いがわかるが、芸能界の女はみんなおなじ顔のような気がする。

その田舎ドラマがおもしろかったかどうかはどうでもいいことなので書かない。
テレビ局の多忙なビジネスパーソンは、
みんなのためにドラマを制作してくださっているのである。
間違っても、わたくしごときのためにドラマを作っているわけではない。
みんなはこういうのが好きなのかと勉強になった。
わたしの場合、読書は娯楽だが、テレビは完全なお勉強である。
しかし、田舎ドラマらしくなかった。
田舎暮らしの経験はないが、
田舎の人は陰湿で「いない人の悪口」が三度の飯より好きなイメージがあるけれど。
また「いない人の悪口」ほどおもしろいものは、人生そうないのである。
おもしろい劇作品はどれも「いない人の悪口」をうまく使用している。

ところが、その田舎ドラマに登場するカッペさんはみな善人なのである。
「田舎へ泊まろう」じゃないんだから、と思う。
最後はイケメンの主人公が優等生的な発言をして次回へ続くとなった。
ふむふむ、こういうものなのかとうなった。
そりゃあ、人気タレントに悪いイメージはつけられないよな。
バカな視聴者はテレビの役柄をその俳優の性格だと誤解するわけだしね。
しかし、「いない人の悪口」はおもしろいと思うけどな。
みんなは実生活でやり過ぎているから、テレビでわざわざ見たくないのかもしれない。
ファンである大御所脚本家の先生が推薦しておられたので、
映画「終の信託」を観にいく。
やはり一流の人が認める作品は一流だと感心する。

「終の信託」の主人公はメンヘルがかった女医である。
色情狂でもあるらしく、神聖な職場で同僚と裸で睦(むつ)みあう。
助兵衛な女はいい。おっぱいがいい。オールドミスでもおっぱいはいい。
おっぱいのある映画はよろしい。
色情狂の女医の相手は既婚の男性医師。
まあ、おフリーですな、女医センセ~。
ところが、男はやっぱり若い女が好きなのね。
おばさん医師は二股をかけられていたことを知る(本妻も入れたら三股か)。
で、この色情狂の女医がなにをするかといったら、仕事中に自殺未遂。
睡眠薬と酒なんて死ねないと医師なら絶対にわかっているはずなのにね。
不倫相手に振られてあてつけに自殺未遂をするオールドミス。
いやあ、安っぽい女だ。

この激安価格の女医さんは傷心のためか、
はたまた恋愛体質なのかまたイケメンに惹かれていく。
今度は患者のダンディーなおじさまである。
妻子あるおじさまはモラルがあって不倫関係にはならない。
あるときの会話で「延命治療は不要」という話を聞く。
なぜかタイミングよくこのイケメンおじさまが危篤の急患として運ばれる。
一命を取りとめたが、ほぼ植物状態になってしまう。
ここで色情狂の女医はやらかすのである。
安っぽい女らしく安っぽい慈善の衝動を抑えきれなくなり、
あろうことか患者を殺してしまう。
このシーンでは大笑いした。
延命の中止ではなく、積極的な殺人行為をしていたからである。
迫力のある実に笑えるシークエンスだった。
患者を殺したあと、
家族がそばにいるのに真っ先に泣き伏す女医の自制心のなさには唖然とした。
繰り返しで恐縮だが、なんと安っぽい女かとあきれたものである。

さあ、このバカ女が裁かれるぞ。
イケメンの検事さまが善人ぶった軽薄な女医を追い詰めるのだからたまらない。
正義は勝つ、である。娯楽映画はこうでなければならない。
なんだかんだいっても、やはり勧善懲悪は見ていてスッキリする。
善人アピールとイケメンと性行為が大好きな女医が冷たく裁かれるのは心地いい。
「やれやれ、もっとやれ」と心中で何度も拍手喝采したものである。
最後は男が女に勝利する。
正義の味方である検事が善人気取りの女医にきちんとオトシマエをつけてくれる。
たいへんな傑作映画であったと思う。
この芸術作品は映画の日に千円で鑑賞させていただいた。
席を立ったら場内には10人も観客がいなかったのは不思議だった。
一流の映画は万民には理解されにくいのかもしれない。
一流になりたかったら、どうしたらいいのか。
そもそも一流の人とは、どういう人物のことをいうのか。
ことはかんたんである。
一流の人は、他の一流の人から一流だと認められているから一流なのだ。
一流を保証するのは一流でしかない。
三流が一流になるとしたら、それは一流に認められたときだ。
意地悪な視線でよく見ていると、
一流と一流はよほどのことがないと(表立っては)喧嘩しない。
これは相手を一流でないといってしまったら、自分の足場も危うくなるからだ。
だれしも完璧な自信など持っていないのである。

一流にへたな喧嘩を売り無視されるのは、たいてい三流だ。
三流は一流を打ち負かせば自分も一流になれると妄想しているのかもしれない。
しかし、その三流は世間を知らないのだ。
一流に喧嘩を吹っかけるような愚行をすると、他の一流からも煙たがられる。
いつ自分に鉾先(ほこさき)が向いてくるかわからないではないか。
身もふたもないことをいえば、絶対的な一流などひとりもいないのである。
どの一流もどこか他の一流の支えなしでは一流たりえない。
一流が揺らぐときがある。それは一流の死だ。
死んだ一流はもう用なしだから三流あつかいすることができる。
反面、一流の師匠が死んだようなときには長年の気遣いから解放される。

いまは少子高齢化でどの分野でも上が詰まっているような気がする。
わかりやすくいえば、老人がなかなか死なないのである。
当然、一流も思うように死んでくれない。
三流の人はさぞ窮屈な思いをしていることだろう。
とはいえ、この三流を支えているのもまたおなじ三流なのだ。
わたしのように三流を目指しているものはいろいろ考えさせられる。
実のところ、三流になるのでさえ相当に難しいことなのである。
やはり一流は一流だと思う。
もう10日経過したからいいだろうと思って書く。
すごいブログを見つけてしまったのである。
実を言うと、自分がやっているくせにブログは嫌いだ。
定期的に閲覧しているブログは五本の指にも満たない。
ブログほどくだらないメディアはないのではないかと思っている。
なぜならプロは無料では本気で書かないし、アマの書くものはつまらない。
(だから、こうしてお読みくださるみなさまが不思議でありがたく、
とてもとても感謝しているのですよ)

夢中になったブログは自殺予告のブログである。
作者は同性で同年齢だった。
なんでもFXで150万を1日で失ったことで世の無常を知り、
残金の200万を使い終わったら死のうと決意したという。
個性的なのはわざわざ死ぬ日を決めてカウントダウンしたことだ。
仕事を辞めてから書くものが俄然おもしろくなっていた。
社会性をなくすと、どんな人でも個性が出てくるのだろう。
あろうことか遊び暮らしているのに毎日が退屈だと書いていた。
よくわからないので推測になるが、
無職やニートはよほどの才能がないと楽しめないのかもしれない。

で、自殺する日までの心境の変化がブログにつづられる。
なにがおもしろいかと言ったら、ちっとも深まらないところである。
死をまえにしてもどうしようもなくチープなのがとてもリアルだった。
いわゆるネタではなく、これは絶対に本物だと確信した。
わたしが見つけたのは、自殺決行2週間まえである。
1年以上の日記を、繰り返し2回も読んでしまった。
拍手機能からコメントを送れるので毎日のようにメッセージを送信した。
自殺をとめるコメントではなく、あなたはおもしろいという賞賛だ。
それから、お疲れ様でした、という労(いた)わり。
人がやらないことをする人は、ただそれだけで偉いと思う。
そして、先月末にあっさり最後の更新をして死んでしまった。
そのころには知る人も多い超人気ブログになっていた。
死んでいないという意見もあるが、わたしは死んでいるのではないかと思う。
ブログでこんなことができるのかと本当に驚いた。
名もなき36歳の男性が死んでから10日になる。
味わうとは、何度も噛むことではないかと思う。
なにごともよく噛まないと味はわからない。
噛まないですぐ飲み込んでしまったら味はわからない。
きっとかたいものほど噛む回数を増やさなくてはならないのだろう。
他人に噛んでもらったものを口に入れるのもときにはいいのかもしれないが、
それではいつまで経っても本当の味はわからない。
なにより他人の吐き出したものを口にするなんて汚いじゃないか。
何度も噛んでいるうちに変わってきた味こそ本物なのだろう。
たぶん味がわかるとはそういうことなのだ。
大量のものをろくに噛まないで飲み込んだやつが偉ぶっているのはおかしい。
彼はさも味がわかったようなそぶりをするだろう。
しかし、それは偽物だ。
大食いチャンピオンは味がわからないで飲み込んでいる。
かといって、美食家が味に詳しいわけではないと思う。
よく噛むものこそが本当の味を知るのである。
ガイドブックに左右されている人はかわいげがあるけれど、
永遠にものの味がわからないだろう。
よく噛むとは、時間をかけて味わうこと。味の変化を感じること。

読書の話をしてみました。
もしかしたら不勉強の言い訳かもしれません。