新刊をつぎつぎに買って読むようなぜいたくな読書もいつかしてみたいが、
いまやっているのはあまり金のかからない貴族的な読書である。
ここ2週間ほど毎日、一休宗純(一休さん!)の「般若心経提唱」を読んでいる。
タイトルどおり内容は般若心経の解説である。
これが毎日読んでもあきないのだ。毎日のように小さな発見がある。
並行してこの1週間毎日「歎異抄」を読んでいる。こちらもあきることがない。
さらに活字のぜいたくを味わおうと、
いままでに読んだ大量の般若心経、歎異抄の入門書をパラ読みしてみることにした。
おかげで実のところ本はぜんぶ読まなくても
一向に構わないというやばい事実に気づきかけた。
ともあれ、1冊の本の参考になるところだけ読むというのはぜいたくだろう。
一度は1冊丸ごと読んでいるのだから著者に失礼を働いてはいないと思う。
こんなことをやっているとさっぱり先に進まないが、
新書を片端から読んでいけば実りがあるかといったら、かならずしもそうではないだろう。
いまは読むべき本が多すぎるのである。
1冊に立ち止まっているということがなかなかできない。
本のない時代のほうが深く書物の内容を味わえたであろうことは疑いえない。

本がなかったといえば、たとえば戦時中である。
関係があるのかないのか、長期禁酒ついでに「戦争ごっこ」というものをやった。
あくまでもダイエットなどではなく「戦争ごっこ」である。
(無頼を気取っている我輩がダイエットなどできるか、バカヤロウ!)
「戦争ごっこ」とは、いま戦時中だと思い込む遊びである。
ご飯と白菜の漬物だけでも、白いご飯が食べられるなんて嬉しいと感謝する。
肉一切れでも、なんてぜいたくなんだろうと拝む。
餃子なんて食べた日には、戦地の兵隊さんに申し訳ないと思ったものである。
粗食を繰り返していると、冷凍ピザだけでどれだけ幸福だったか。
半額セールで買ったので1枚百円もしないピザに、こんなうまいものはあるかと感動した。
お茶漬けばかり食っていると舌が貧しくなるからピザごときで感激を味わえる。
おなじ書物を繰り返し読むのと似たぜいたくが「戦争ごっこ」にはあったように思う。
なにがいいかと言ったら深く食べ物を味わえるのである。こうして10日間、禁酒した。

早くもとの読書に戻りたいという気持もある。
「原始仏典」(筑摩書房)を読み終わったのだから、つぎは「大乗仏典」である。
しかし、「原始仏典」の感想を書くのには疲れきった。
というのも、仏教が専門という大学の准教授先生からメールをいただいたからである。
内容は伏せるが、とにかくこんな過疎ブログをお読みいただいているということであった。
こちらはとても緊張するわけである。
専門の人が(たとえいっときだけだとしても)お読みになっていると思うと、
プレッシャーが強くいいかげんなことは書けない。
かといって、感想を書かないと自分がどこまで理解したかわからない。
知識が少ないのはもうどうしようもないのだから、
結局は自分の感覚を信じるしかないと腹を据えて書いたのがあれら記事である。
ほとんどの人が読まないで飛ばしているのを知らぬわけではないが、
くたくたに疲弊したものである。むろん、楽しかったのも事実だけれど。
あれもまたぜいたくな読書だったような気がする。
いまは金銭的なせいたくばかりが注目され時間のぜいたくは無視されている。
ぜいたくとは浪費である。
お金の浪費はさぞ楽しいのだろうが、時間の浪費もまた悪くないのではないか。
高速道路もいいが、まわり道、遠まわり、道草もまたよろしかろう。
最後に言っておかなければならない。
こんな役に立たない無駄なブログを読んでいる貴殿も相当な浪費家ですな。
正直白状すると、読書がちょっとめんどくさくなっているかもしれない。
ブログに感想を書かなきゃいけないと思うと、なんか楽しめない。
なにをいまさらっていう話だけどさ。
だれも読んでない過疎ブログで、ほんとどうしようもないつぶやきだとは思っている。
そこでパラ読みですよ!
以前に一回読んだ本をパラパラ再読する。これで読書の喜びが復活しないかと。
どうせ本なんざ、一度読んだくらいでは内容を覚えていないのね。
たとえブログに感想文を書いていても、まったく記憶に残っていない。
なら、いったい本ってなんのために読むんだろう。
そこでパラ読みですよ! 
本は楽しむために読むもの。
で、秋の深まりとともに感想文を書かないでいいパラ読みを満喫した。
ついついぜんぶ読んでしまうものもあったけれど、いちいち感想文は書かない。
とはいえ、いい言葉にめぐりあったので残しておきたい。

中島義道と香山リカの対談本「生きてるだけでなぜ悪い?」から。
この本はギドーちゃんが濫造する書籍のなかでもっともいいのではないかしら。
もとより、全著作を読んでいるような信者ではないけれどさ。
しっかし、ギドー先生は本音で生きておられる。

「うまく言えませんが、私は「人生は自由を求める闘い」だと思っていて、
本当の意味において自由なのだから、やりたいことをやればいいのです。
他人の評価や世間体からいかに脱するかが重要です。
ただし本当に脱出してしまうと場合によっては
法を犯すことにもなりかねませんから、それはそれで大変ですが」(P139)


フリー、フリー、スーパーフリー!

そうそう、このところ毎日のように般若心経をよんでいる(むろん再読)。
一休さんによる般若心経の解説本を手に入れたのだけど、これがおもしろくてね。
でさ、結局、般若心経がなにを主張しているかといったら、
「フリー、フリー、スーパーフリー!」なのである。
いまは東大の和田さんが有名だけれど、早稲田の和田さんも忘れちゃいけない。
スーパーフリー! 日本語に訳すなら「なんだっていい」。
スーパーフリーの思想こそ一休禅師が般若心経から学んだことであります(たぶん)。
なんだっていい。やりたいことをやればいい。
しかし、やりたことを見つけるのも実は難しいのかもしれない。
中島義道先生はおっしゃいます。多くの人は――。

「よくよく考えてみると、自分の考えより
他人の考えや他人の欲望に影響されているのではないでしょうか。
他人の欲望から自由になることは重要なことで、
そのためには本当の自分の欲望を知らないといけません」(P140)


テレビをつけると、ほんと他人の欲望であふれているよね。
テレビばっか見ていると、どんどんフリーではなくなってくる。
自由とは、(他人ではなく)自分に由(よ)ること。由るべき自分を知ること。
おそらく「どうしようもないわたし」を愛すること。
大人の自己愛は恥ずかしいものだけれども、しかし、
なんだかんだいって自分ほどおもしろく興味の尽きないものはないのではないか。
スーパーフリー! とっても自由になろう!

「自分はどういう存在で、なにを欲しているか、
どんなものをおもしろいと思っているか、どんなことを嫌悪しているか、
そういうことを深く知るというところから、はじめるしかないのではないでしょうか。
といったって、自分というものも、ちょっと内省すればわかるというものではない。
時代の価値観とか、他人の目、見栄、打算とか、流行とか知識とかで、
何重にもほんとうの自分がかくされていることが多いのですから、
自分のほんとうの欲望に気がつくだけだって、たいへんです。
しかし、それをしなきゃ、自分にたちかえるっていったって、
どこへかえっていいのかわかりゃしません」(P52)


だれの言葉か気になっているあなたはちっともフリーじゃないな(笑)。
しかし、言葉は(発言者の)肩書しだいだから仕方がない。
上に引用したのは山田太一先生のお言葉です(「ふぞろいの林檎たちへ」)。
これもパラ読みしていたらおもしろくてぜんぶ読んでしまった。

とまあ、以上のようなことを最近考えています。
え? なにを考えているの? だから、スーパーフリーについてだって。
「だれもあんたなんかにゃ関心がない」のでしょうから、
せめて自分くらい自分に深い関心を持ってあげなきゃかわいそうじゃない。
このことを禅では己事究明(こじきゅうめい)というそうです。
しかし、一休さんはおもしろかった。一休さんはスーパーフリーだ。
よい子のエブリバディ、スーパーフリーを目指そうぜ!

(参考)スーパーフリー事件(もうみんな忘れちゃった?)
「人間・この劇的なるもの」(福田恆存/新潮文庫) *再読

→福田恆存の代表的評論。
だいぶ本書に入れ込んだ時期もあったけれども、覚えるくらい読み返し、
かつこちらもそれなりに人生体験と読書体験を積んだため、
ようやくこの本の意味がわかったように思う。
「人間・この劇的なるもの」は、福田恆存の書いた日本人向け聖書のようなものだ。
西洋への劣等複合(コンプレックス)が異常なほど強かった著者は、
日本にキリスト教の神がいないことに我慢ならなかった(仏はいるのですがね)。
とんでもないことだと思った。不安で仕方がなかった。
このため書かれた「人間・この劇的なるもの」は著者の信仰告白である。
なかには本書を絶対的真理だと思う人がおられるのは、そういう事情による。
(わたしも一時期そうでした……)
しかし、これは福田恆存の物語である。わかりやすくいったら「おはなし」だ。
小説のみならず評論もまた物語なのである。

以下、引用をいっさいせずに自分の言葉で本書をわかりやすく説明してみよう。
結局のところ、福田恆存はなにを言いたかったのか。
それは「大きなものを信じましょうよ」ということだ。
われわれ人間存在を超える大きなものはかならずやあるはずである。
大きなものの全体像はわれわれ人間には把握することができないが、
だからといってどうしてそれが存在しないと言い切れようか。
大きなものの象徴は死である。
死は人間には理解できないが(死ぬまで死はわからないでしょ?)、
にもかかわらず、たしかに死はあるとしか言いようがない。
大きなものとは、この死のようなものである。
うまく言葉にはならないが、
言葉にならないからこそ大きなものはあるとは考えられないだろうか。

大きなものとは、たとえば春夏秋冬の四季である。
われわれは大きなものに包まれているではないか。
大きなものとは、たとえば芝居の台本である。
われわれは大きなものから役を与えられて、それを演じていると思ったらどうだろうか。
そう思えば、どんな小さな役にも演じる喜びを感じ取れるのではないか。
よしんば、悪役だとしても仕方がないではないか。
なぜなら悪役がいないと、芝居=大きなものは成立しないのだから。
世の中は不平等である。いい思いをするものがいれば、一生不遇のものもいる。
しかし、残念な人生でも、そういう役を与えられていると
大きなものを信じることができたら、そこに生きがいが生じはしないだろうか。
問題は知ることではなく、信じることだ。大きなものを信じることだ。

ならば、どうしたら大きなものを信じられるのか。
われわれがいまのような存在であることに思いをはせればよろしい。
どうしてブサイクなのか。どうしてブスなのか。どうして貧乏なのか。
どうしてバカなのか。どうして出世できないのか。
どうして自分はいまこうであるような自分であるのか。
これはほとんど自分のせいではないでしょう。
だって、人間は親を選んで生まれてくるわけではないのだから。
われわれはなにゆえ現在のこのような状態であるのか突き詰めて考えると、
大きなものが存在するという結論に行き着くほかないではないか。

人生は絶対に思い通りにはならない。
いま絶対という言葉を使ったが、絶対に思い通りにならないならば、
それら不如意をわれわれに与えたもう大きなものが絶対にあるのではないか。
思い通りにならないことを深く味わうことで大きなものを少しでも感得できないか。
人生訓のような物言いをすれば、人生は思い通りにならないからおもしろい。
では、なぜ人生はうまくいかないのか。他人がいるからである。
われわれはお互いを鏡として自分がどういう存在か知ろうとしている。
だが、それではいつまで経っても自分はよくわからない。
大きなものを鏡として自分を見たら、もっと自分が見えてくるのではないか。
大きなものは目に見えないからそんなことは無理だと言うかもしれないが、
われわれは見えないものでも信じることはできるのではないか。
百人の盲人が巨大なゾウのあちこちを触ったというあの仏教説話のように、
われわれには見えていない大きなものがあるとは考えられないか。
いや、考えてはならぬ。大きなものがあると信じられないだろうか。

人間を超える大きなものがあると信じられたらば、生き方が変わるだろう。
なによりも死への恐怖が薄れるではないか。不安が減少するではないか。
たとえわれわれがかりそめ死んだとしても、大きなものがあるならば、
その死は断じて犬死ではない。
ハムレットは劇中なにゆえに死ぬのか。「ハムレット」劇を完成させるためである。
だとしたら、われわれの死もまた大きなものを完成させる前段階ではないか。
われわれの死は無意味ではないということにならないか。
死のみならず、大きなものを信じられたら、すべてが意味を帯びる。
喜びも悲しみも大きなものより生じると信じたとき、
われわれはその悲喜をあたかも名優のように深く味わうことができるのではないか。
喜びのみならず悲しみにもまた固有の一回かぎりの味わいがある。
深く悲喜を味わうということ、それが生きるということではないか。
人生は喜びよりも悲しみのほうがはるかに多いが、しかし、
味わうということを意識したら悲しみにもまた生きがいを感じられないか。
悲しみを味わう、悲しみを演じる、それが生きるということではないか。

われわれは大きなものから生まれ、大きなものへと帰っていく。
われわれが生まれるまえから大きなものがあったと信じられたらば、
われわれの死後もまた大きなものが継続していくと信じられないか。
死は大きなものよりもたらされる。
この大きなものは本書で「全体」「自然」「季節」「小さな花」などと表現されている。
「小さな花」が咲き枯れることならば、きみも信じられやしないか。
それは季節を信じるということだ。自然を信じるということだ。
自然の一部である人間を信じるということだ。
冬が終われば春が来るということだ。死は終わりではないということだ。
ままならぬ生死に挟まれた人間を超える大きなものを信じるとはそういうことだ。

「私の恋愛教室」(福田恆存/ちくま文庫)

→山田太一さんもふくめてみんな「私の幸福論」のほうをほめるけれども、
変わり者のためか「私の恋愛教室」のほうがはるかにおもしろかった。
「私の幸福論」もぱらぱら再読してみたけれども、この考えは変わらない。
「私の恋愛教室」のほうが、
西洋かぶれの辛口コラムニストである著者の本領が発揮されていておもしろい。
二回おなじことを書いたのには意味がある。
わたしは福田恆存が「正しい」という理由で著作を読んでいるのではなく、
ただ単に読み物として「おもしろい」から読み、こうして感想も書いているのである。

簡単に本書の内容を要約してみる。
断っておくが、本当に内容を理解したものにしか要約はできないでしょう。
福田恆存の名前を自己の権威づけに利用する人は多いけれど、
そのうちどのくらいが本当に理解しているのか(わたしもふくめ)疑わしいと思う。

西洋きちがい福田恆存の恋愛教室の根本にあるのはデカルトである。
要するに、精神と肉体をわける考え方だ。このとき恋愛はどうなるか。
「精神=恋愛、肉体=性欲」というように認識される。
一見すると難解な本書も要は「精神=恋愛、肉体=性欲」の繰り返しである。
みなさん恋愛を尊い思想かなにかのようにあがめておられますが、
実際は恋愛なぞ性欲に過ぎませんぜ、としつこく反復しているのである。
なぜ肉体の性欲ごときを精神の恋愛と勘違いしているのか。
それは西洋キリスト教が男女の結合を神の愛をダブらせたからである。
ひるがえってみると日本にキリスト教は根づいていない。
だから、あまり浮ついて恋愛に夢を見るのはいかがなものかと警鐘を鳴らす。
そのうえで、性欲もふくめた男女の結合ほどの生きがいはあるまいと主張する。
恋愛(=男女の精神+肉体の結合)は、
政治活動よりも社会運動よりもはるかに価値のある人間の営為だという。
なぜなら、人間の幸福に直結しているからだ。
社会評論家や政治屋のいう「人間の幸福」など果たしてあるのだろうか。
実際に存在しているのは「人間の幸福」ではなく、
「男の幸福」「女の幸福」ではなかろうか。
ならば、いくら社会を変革しても人間は幸福にならないだろう。
万民に金が等しく行き渡ったからといって人間は幸福になるわけではない。
金で買える「人間の幸福」なら社会運動でどうにかなろうが、
われわれは人間とひとくくりにされる以前に男ではないか。女ではないか。
あるのは「人間の幸福」ではなく「男の幸福」「女の幸福」ではないか。
「男の幸福」「女の幸福」は金で買うことはできまい。
では「男の幸福」「女の幸福」とはいったいなにか。
恋愛(男女の精神+肉体の結合)が男女ともに幸福と強く関係しているのではないか。
もっとわかりやすくいったらどうなるか。恋愛が幸福とはどういうことか。
つまり、男女の幸福とは、いい相手にめぐりあうかどうかということだ。
とはいえ、どうしたらいい相手にめぐりあえるかは本書にいっさい書かれていない。
代わりに説かれているのは、性欲の取り扱い方である。
なぜなら、日本人のいう恋愛とはほとんど性欲だからである。
性欲をどのように見たらいいのか。
科学ごときで性の全貌がわかったと思ってはならない。
性は理解できないからこそ、価値があるのである。
性をすべてあからさまにしてはならないし、また、できるものでもない。
性は非合理なものだが、
非合理なものを非合理のまま理解するという方法もあるのではないか。
闇を光に照らすばかりが理解ではない。
闇を闇のまま理解するという理解の仕方もあるのではないか。
性をそのように見てみたらどうだろうか。
――「私の恋愛教室」全体の要約をする。恋愛とはなにか。
要約の最後くらい作者の言葉を借りよう。

「少々公式的に申しますと、恋愛とは、霊と肉とが一致する場所であります。
人間と自然が一致する場所であります」(P11)


インテリぶった物いいだが、くそ庶民のわたしがわかりやすく換言しましょう。
恋愛すると「精神と肉体」とかどーでもよくなるじゃん!
よく考えたら植物(おしべめしべ)や動物(オスメス)が生きてるって不思議じゃん?
桜の花がきれいに咲き散ってゆくのはすごいって思わない?
恋愛(男性女性)というのは、そういう自然の神秘にも通じているのだよ。

以上で要約は終わり。ほかにもいろいろおもしろいところがある。
福田恆存のおもしろさは、
だれもいえない下品な本音をインテリぶった小難しい文体で書くところだと思う。
劇作家としてより思想家としてより、辛口コラムニストの才能があるのではないか。
本書でも、思わずくすりと笑ってしまうような下世話な本音がいかめしくつづられている。
たとえば――。
どんなに見た目がエロそうでもやってみたらダメという女がいる(P114)。
娘さん、男は教養あるブスよりも無智な美女のほうが何倍も好きなんですよ(P143)。
お嬢さん、婦人雑誌で女性の自由だのなんだのを語る男の評論家なんてものは、
腹の底じゃ座談会の謝礼のことしか考えておらんのですぞ(P199)。
男は巨根(デカマラ)にあこがれるが、男の権威なんてものは肩書きで決まり、
一方で女のほうはインテリぶっても反対にいくら色気を振り向いても無駄で、
結局男なんてみんなマザコンなんだから女の権威は母性で決まるのであーる(P223)。

以下に論客の福田恆存の言葉を少しばかり引用してみたいが、そのまえにである。
どの顔をしていっているかというのが読者はもっとも気になると思う。
いったい福田恆存自身はどんな恋愛をしていたのか。
もちろん、「私の恋愛教室」にはいっさい自身の経験は書かれていない。
しかし、もう死後かなり経っているから暴露する不届きものがいるのである。
瀬戸内寂聴さんが福田恆存の夫婦生活を「奇縁まんだら」でばらしている。
これを立ち読みしたとき、しばらく笑いがとまらなかったものだ。
福田恆存の奥さんは瀬戸内寂聴さんの学校時代の先輩らしい。
ある日、瀬戸内さんが福田家に電話したら、女中が奥さんは入浴中だという。
ならば、旦那さんの福田恆存に取次ぎを頼むと、こちらもお風呂だという。
なんのことはない、夫婦仲良くお風呂に入っていたのである。
毎晩のようにお風呂で奥さんといちゃいちゃ身体の洗いっこをしている助平さんが、
サムライのような顔をして論客を演じていたと思うと
福田恆存が何倍も輝いて見えるのはわたしだけだろうか。
ご承知でしょうが、「私の恋愛教室」も福田恆存先生のご本であります。
嫁はんと風呂場でいちゃつくのが好きな先生がこの本を執筆なさった。

さて、瀬戸内寂聴さんが公開したエピソードでなにがわかるか。
福田恆存さんはいい奥さんとたまたまめぐりあっていたのである。
おそらく、幸福な男であったのだろう。
いや、それとも、どうでもいい社会評論なぞに時間を費やしていたから、
あるいは不幸な人だったのか。
福田恆存は女性の不幸や不満を、社会のせいにする欺瞞(ぎまん)を告発する。
女性の不幸をゆめゆめ社会問題と同一視してはならない。

「女性の不幸や不満ということは、
なにもそうむずかしく考える必要はないとおもう。
ごく平たくいって、それはいい男性にめぐりあわないということではありませんか。
敬愛できる男といっしょに暮せないということではないでしょうか。
男性の不幸や不満も同様、敬愛できる女性にめぐりあわないということでしょう。
男と女との問題は、その点、昔からすこしも変わっておりません。
社会がどう複雑に変化してこようと、男としての幸福、女としての幸福、
それはいずれも、相手によって決るのです。
だから、私は封建時代の女が、
現代の女より不幸だなどとおもいあがってはいけないといったのです。
金持ちの夫婦のほうが貧乏人の夫婦より、
インテリの恋人どうしのほうが、百姓の恋人どうしより、
幸福に近いなどとおもってはならないのです。
男に依存する女としての幸福が得られぬばあい、
ひとびとは他の代用品を考えはじめる。
職業もその代用品であります。
そのほか婦人雑誌で論じられている多くの婦人問題は、ほとんどすべて、
女としての幸福が得られぬときの代償について語っているにすぎません」(P207)


くすくす笑いながら書き写したけれど、こんな本をいま出して大丈夫なのかな。
女がこれを読んだら顔を真っ赤にして怒るのではないかしら。
しかし、福田恆存のラブラブな夫婦生活知ってしまうと、
「おれは女房といっしょに風呂に入っているからサイコーに幸福なのさ」
という開き直りの宣言と理解(誤解?)することもできる。
福田恆存の奥さんの名前を知らないが、男は特定の女を愛したわけではない。
福田恆存はただただ女が好きだったようである。というのも――。

「男は女のなかから花子を選びだしてはならぬ、
花子のなかから女を引き出せ、そう、ロレンスはいいます。
もし男が他の女ではない花子を選ぶとすれば、その花子が相手の男にとって
最も女をひきだしやすい女であるという理由をおいてはない。
そういう恋愛と結婚のみが、真の永続性をかちえる。
精神だの人格だのいっているからいけない。
というより、誰も彼も自分の性慾を、
精神的人格という言葉のかげに、押しやってしまう」(P157)


勘違いする人が出ると困るから断っておくが、これは絶対的真理ではない。
むしろ、フィクションのたぐいだと思う。しかし、なるほどとうなった。
たしかにこのように考えたら(自分をだましたら)、
ブスとブサイクの最低夫婦でも劣等複合(コンプレックス)を感じずに、
それなりに幸福に一穴一竿主義でやっていけるはずである。
全員が前田敦子や武井咲、八千草薫や吉永小百合の旦那にはなれないのだから。
ほどほどのところで手を打とうぜ、という極めて現実的な思考である。
しかし、結局のところいい相手にめぐりあうかどうかは運ではないか。
こちらはせいぜい代償行為に励むしかないのだろう。
だれも読まないこんな長文記事を書いたのも、たぶん代償行為なのである。
先日、福田恆存のシンポジウムに行ったが、
カップルで来ているものなど皆無だったのではないか。
どいつもこいつも男で、そのうえどこか似通った陰鬱な顔をしていたものである。
こういう不遇な男たちから支持されている福田恆存の恋愛生活はこの記事に書いた。
最後に主張しておきたいことがあるとすれば、
たとえあなたがインテリぶって福田恆存の「私の恋愛教室」を読んでも、
まず間違いなくもてるようにはならんぞということだ。わかったか、こらっ!

9月30日紀伊国屋サザンシアターにおもむく。
「福田恆存とその時代」なる催しのなかで山田太一先生の講演があるからである。
以下メモと記憶をもとにして講演をできるだけ忠実に再現するが、正確性に自信がない。
制限時間が短かったからでしょうか、山田先生はいつもよりもかなり早口でした。
このため先生の意図とは違う採録もあるかもしれません。
7割程度しかわが耳は聴き取れていないような気がします。
以上の事情をよろしくご了承のうえ、どうかお目通しくださいませ。

山田太一講演「福田恆存を読む」――。
この歳になりますと、歳相応に周囲の人が死ぬわけです。
友人知人が死んでいきます。
こういうことを言うのもどうでしょうが、こっちの都合も考えずに死ぬわけです。
ぶしつけに死ぬとでも言いましょうか。ぶしつけと言えば、
この場に僕のようなものが出てくるのもぶしつけと思われるかもしれませんが。
生前の福田恆存さんと面識はありません。
福田さんが亡くなったから、僕がこういうところに出てこられるのかもしれません。

大学のとき、横光利一で卒論をやろうかと思っていたんです。
そのときに福田さんの横光利一についての評論を読みました。
正直、ぶっとんだんです。すごいことを書く人だなと思いました。
というのも、福田さんは横光利一を立ち直れなくなるくらいやっつけているんです。
横光利一という人は、一時期まるで神様のように人気がありました。
しかし、急速に人気を失ってしまう。
なぜかが福田さんの論文を読んでわかったような気がしましたね。
もう横光利一の全集を読む気などなくなりました。

福田さんはどういう批判をしていたのか。
当時の文学というのは、ヨーロッパで新しい潮流が起こる。
すると、日本でもおなじような潮流が起こる。おなじようなものが書かれる。
結局は日本の場合、理念だけなんですね。理念だけで実践がない。
しかし、実作や文学というものは、質が問われているのではないか。
その人間の質、生まれてからいままで生きてきたものの積み重ねが重要ではないか。
横光にはそれがない。
横光利一は新時代の旗手のように言われているが内実は空っぽだ。
横光の小説の主人公はよく女からもてる。
いつも女がつきそっている。あれは自分に頼るものがないからではないか。
皮肉を言えば、主人公のそばにいる女が、横光の読者みたいじゃないか。
横光利一は理念だけで文学的達成がない。

横光利一の「旅愁」についてはこんなことを言っています。
あの登場人物は、ヨーロッパでは洋服を着てオペラなんぞに行っている。
でも、日本に帰ってきたらちゃっかり和服を着てお能に繰り出す。
あれはおかしいだろう。
本当はヨーロッパにぜんぜん溶け込んでいないだろう。
劣等感のないのがおかしい。ちっとも恥ずかしさがないではないか。
関連して、こういう話もありますね。
ヨーロッパを歩いていたら、向こうから醜い小男がやってくる。
だれかと思ったらガラスに映った自分であった。
夏目漱石の有名な話です。

福田さんの言い分は、
近代のヨーロッパ文学を本当に通過していたら、ああいうものは書けないだろう。
ヨーロッパの近代を経験していないから、あんなものを書くんだ。
近代というのは、自分に厳しい。自己批評が基本としてある。
親や友人、恋人も信じない。
愛、友情、信頼といったものを当てにしない。すべてを疑ってかかる。
疑いぬくことで甘さを排除していく。それが近代文学のありかたではないか。
福田さんはこういうことを言うんですね。
僕はまったくそうだと思いました。横光利一は通俗小説ではないか。

現代は、ものをよく観察することが重要だ。
冷静や観察といったものを志向しなければならない。
こういう風潮があったんでしょうね。
冷静に観察するといえば、チェーホフを思い出します。
チェーホフは厳しい自己批評を持つ、甘さのない作家でした。
しかし、そんなチェーホフにも思いを吐き出している作品があります。
「ワーニャ伯父さん」です。
ここでは大学教授が「インチキだ、空っぽだ」と批判されています。
これはかならずしもチェーホフ自身の考えではないのでしょうが。
批判された大学教授は言い返します。
「このくらいのエゴイズムは許されてもいいんじゃないかな」

一方で言い返さないのは、福田恆存さんの戯曲「龍を撫でた男」です。
この主人公は批判されても、無理もないと思ってしまう。
自分に厳しいのでしょう。ずっと我慢する。
そうして最後に発狂してしまうという話です。
おなじく福田さんの戯曲に「キティ台風」があります。
これは福田さんの「人間は劇的なるものを求める」というテーマを芝居にしたものです。
人間は、劇的に生きようとする。ドラマを生きるのが人間なんだ。
死をもって完結とするような生き方がある。
かならずしも金儲けするだけが生きることではない。
「人間・この劇的なるもの」ですね。
まあ、これは福田さんの「おはなし」なんですが、
「キティ台風」の裏にはこういう人間観があります。
「キティ台風」の物語のすじ道を追うと、最後で人がわけがわからなく死んでしまう。
「チェーホフの手帖」だったか。こういう話がありましたね。
もう処刑されることが決まっている人がいる。
当人もその日に自分が死ぬものだと思っている。
しかし、処刑される数日前に彼はインフルエンザで死んでしまう。
人生は、そんなものだよという。
「キティ台風」もそういったことを書きたかったのではないかと思います、

人間というのは、認識して、それを言語化するものだ。
認識して言語化する。
福田さんとおなじように認識と言語化にこだわったのは大岡昇平です。
福田さんと大岡さんは似ているところがあると思います。
大岡昇平に「武蔵野夫人」という恋愛小説がありますけれど、
これはもう本当に心の動きをすべて説明してしまうのですね。
僕なんかは小説、劇、ドラマといったものは投げ出すものだと思っていますが。
受け手に任せるところがあると言いましょうか。
相手に解釈をゆだねるようなところがあります。
しかし、大岡さんや福田さんは違うんですね。
それだけ認識に対するプライドが強いのでしょう。
思いがけないことなんてない。ぜんぶ認識で封じ込めてしまう。ロマネスクがない。

(山田太一先生が「武蔵野夫人」の一節を朗読する。
その一節に「媚態(びたい)」という言葉があって――)

「媚態」と書かれてしまうと意味が限定されてしまうんですね。
読者の想像する余地が残されていない。
それだけ大岡昇平は、認識を重んじていたのでしょう。福田さんもそうです。
自分の認識で世界を覆(おお)ってしまおうとしている。
それほど認識が強い。
しかし、福田さんはそれだけじゃいけない、とも思っていたようです。
認識だけではいけない。
これは福田さんのお生まれが下町で、そういうところの人とも通じ合いたい、
というような思いがあったからなのでしょう。
理念だけではいけないというような思いがあったのではないでしょうか。
言語化できないものを重んじたいという考えもあったように思います。
ここから平和論批判や国語改革問題につながっていったのではないかと思います。
言語というのは、時代とともに変わっていきますでしょう。
これをあるところで知的に縛ってしまうことは……(以下、聴き手が未熟ゆえ意味不明)。

話は変わりますがサルトルは、いまどきサルトルもないでしょうが、
サルトルなんかも思念の人、理念の人だったように思います。
しかし、そのサルトルが同時に人相学を研究していたというのですね。
どこかで理念ではないものを求めていたのではないでしょうか。
それぞれの美醜のようなものは、
あるいはなにか普遍へとつながっているのかもしれない。
神はいないから、善悪の基準のようなものはない。
しかし、美醜があるではないか。
美醜というのは、内面の美しさを現わしているのではないか。

理念を揺さぶるものを欲していたのかもしれない。理念をくつがえすもの。
たぶん、福田さんがロレンス、ロレンスと言い出したのはこのためではないでしょうか。
ロレンスは神がいないというところからセックスを重んじるようになります。
この影響で、セックスが生きる幸福だというようなことを福田さんはおっしゃる。
たしかにセックスは理念が関係しないですね。
でも、福田さんはセックスが強そうじゃない(場内笑)。
西洋のロレンスとおなじことを言うけれど、しかし福田さんはセックスが強そうではない。

演劇というのもそうなんですね。
お客さんが入ったときに、がらりと変わるものがあります。
あれはたしかに言語化できないなにものかであるような気がします。
僕もわずかながら芝居をやりましたが、
お客が入ったときの芝居というのは本当にすごいのですね。
稽古のときとまるっきりおなじはずなのにまったく異なる。
あれはたしかに理念から外れた強さといったようなものがあります。
理念を超えたもの――ロマネスクですね。
ロマネスクがないと味気ないじゃないですか。
認識の喜びなんてたかが知れていると僕は思う。

ロレンスはセックスと言ったけれども、子どもを産む、育てるというのもそうですね。
子どもを育てるのは、理念とは相容れません。
いくら子どもに正しいことを言ったって、聞いてくれないわけですから。
子育てのようなもので、理念はだいぶ鍛えられるような気がします。
もし本当のものがあるのなら、きっとそういうところにあるんじゃないかなと思う。

まだまだ話すつもりでたくさん準備をしてきたんですが、時間が来てしまいました。
まあ福田さんは膨大な著作のある人ですから、
はじめからこんな短時間で要約できるはずがないのですけれど。

福田さんの晩年の日記が、「某月某日」として掲載されています。
「新潮45」という雑誌です(何年何月号かは聴き取れず)。
脳梗塞で倒れたあとの日記だったのではないかと思います。
すごいことが書いてあるんですね。
大岡昇平の小説「俘虜記(ふりょき)」は、あんなものは嘘である。空々しいことだ。
大岡さんと福田さんは友人でしたから……あれは友人じゃないのかな、
しかしともあれ強いつながりを持っていましたから、
よくこんなことを書くなと思いました。
あれは大岡さんが亡くなっていたから書けたのかもしれませんが。
その「某月某日」の冒頭には、昨今の言葉の乱れへの嘆きが書いてあります。
福田さんは国語改革運動をしましたけれど実らず、
このような帰結に終わったことに対する悲しみがあったのでしょうか。
それから「俘虜記」の批判をするんです。
ご存知でしょうが、あれはレイテ戦の体験を書いた小説です。
主人公の日本人兵がひとりくさむらに潜んでいると米兵が複数やってくる。
はじめのひとりはまだ若い米国人兵だ。
肌の色が美しくて自分はどうしても鉄砲を撃つことができなかった。
自分はこうしてひとりを助けた。だから、彼の祖国の母親に感謝されてもいいだろう。
こういうことが書かれているわけですね。
それを福田さんは「嘘だろう」とやっつけている。
頬のピンク色がどうのときれいごとを言うなよ。
おまえが銃で撃たなかったのは、単に死にたくなかっただけだろう。
というのも、米兵はひとりではありませんので、
撃ったらひとりは殺せても見つけられて逆に殺されるわけですから。
僕は福田さんの「某月某日」を読んで、まったくそうだと思いましたですね。
大岡さんの言い分もわかるんですよ。
あれは時間を経てから書いていますので、
リリシズムで作ってしまったようなところもあるのかもしれません。
しかし、福田さんの批判を読んでまったくそうだと思った。
あれは福田さんの処世で長いあいだずっと黙っていたのでしょうかね。
「俘虜記」が出たとき、みんな感動したんです。僕も感動しました。
しかし、福田さんの批判を読むと、どうしてあんなに感動したのかと思いますですね。

福田恆存さんは、いつもぎらぎらと本当のことを言っていた人という印象です。
いま生きていたらなにを言うか、とても気になります。
福田さんは平和論批判のとき、みんなに悪口を言われました。
僕なんかは福田さんのほうが正しいんじゃないのと思いましたが、
そんなことを言える身分ではなかったので。
しかし、当時の後ろめたさのようなものがいまもありまして、
福田さんに関してなにか話してくれと頼まれたらなるべく出るようにしています。
今回の話はオマージュのようなものです。


(後記)
繰り返しますが、聴き手が未熟なため誤解した部分がかなりあるかと思われます。
先生のお話を書き写しながら話者の意図がわからないところも正直ありました。
ひとえに聴き手の無知、不勉強ゆえです。ここに謝罪いたします。
しかし、山田太一先生の講演を目当てに台風のなか行ったらわずか30分。
お金も交通費をふくめたら2千円以上の出費。
もう少し山田太一先生のお話をうかがいたかったというのが本心です。
ちなみにお偉い学者先生がたのパネルディスカッションは90分でした。