「避暑地の猫」(宮本輝/講談社文庫) *再読

→宮本輝は仏教者である。類いまれな天才仏教文学者である。
仏教には大乗仏教と小乗仏教があるが、天才はどちらの資質も併せ持つ。
大乗仏教というのは、要するに欲望を肯定した宗教である。
宮本輝は徹底的に人間の欲望を肯定する。

「邪淫ほど甘いものが、この世にあろうか」(P43)

「私、お金持ちになりたいわ。
口じゃなくてお金で、何もかも食べてやりたいわ」(P73)

「私は復讐してやる」(P195)


大半の人間は邪淫を味わえない。金持になれない。復讐もできない。
このため、邪淫、金持、復讐を描いた「避暑地の猫」は、
多くの読者から支持されたのである。
これはまさしく大勢の人間を救おうとした大乗仏教精神の発現といってよい。
たぶん、作家は邪淫を経験できなかったことから小説を書いている。
さらに、仏教徒でもある著者が復讐を敢行できたとは思えない。
しかし、お金持になることはできたようである。
大乗仏教の信者ならば、裕福は恥ずべきことではない。
宮本輝の恐ろしいところは小乗仏教的な感覚も持っていたところである。
創価学会員の作家は、小乗仏教の教えを虚無と同一視した。
小乗仏教は「生きることを捨てた」思想と宮本輝は思っていたようだ。

「志津の表情には、自分の母を死に至らしめたぼくへの憎しみが、
ひとかけらもなかった。何かを悟りきった、別の言い方をすれば、
生きることを捨てた人特有の、どこかあっけらかんとしていて、
なおかつある種の粘着力を感じさせる光を、
その垂れ目気味の丸い目にたたえていたのだった。
そして、生きることを捨てたという表現を使うならば、
ぼくとて同じだったのだ」(P146)


この「生きることを捨てた」粘っこい目に引かれてわたしは宮本輝を愛読した。
作者の粘着力のある視線があるため初期小説の「避暑地の猫」はとてもよかった。
だが、どうやら成功を重ねた小説家は後年、小乗仏教精神を完全に捨て去ったようである。
これは断じて善悪や正邪で審判されるべきものではないと強調したいが、
たまたま菩提心のないわたしは宮本輝の過剰な大乗仏教精神に拒否反応を示した。
過剰な大乗仏教精神とは、端的に言えば説教臭いということ。
とはいえ、説教されるのを快く感じる読者もいよう。人それぞれだ。
要はそれだけのことで、だれが正しいわけでも間違っているわけでもないのだろう。
いまでもわたしは「邪淫を味わいたい」し「金持になりたい」し「復讐したい」けれども、
同時に「生きることを捨てた」どうにでもなりやがれという、
投げやりな底知れぬ虚無を有し、自堕落で退廃的な精神もまた失っていないのである。
できましたら、こちらも善悪や正誤で裁いてほしくありません。

「夢見通りの人々」(宮本輝/新潮文庫) *再読

→たいがいの作家なんてものは生涯にひとつふたつ名作を書ければいいものだが、
「錦繍」「青が散る」「優駿」「幻の光」、
そしてこの「夢見通りの人々」という大傑作を書き上げた宮本輝には恐れ入る。
このオムニバス短編小説集は、現代版「日本霊異記」であり、簡易版「法華経」である。
なにより偉大なのは、日本霊異記や法華経よりもはるかにおもしろく、
しかし同時にわかりやすくそのエッセンスを伝えているところである。
ウソばかりの小説である。
設定された商店街も実在しないウソだし、登場人物もウソばかりつく。
人はどうしてウソをつくのだろう。なぜウソを好むのだろう。
いったいなにゆえ宮本輝はこうもウソがうまいのであろうか。
ヒントになるのは、これまた日本霊異記や法華経である。
どちらもフィクションだが書き手は唯一絶対の真実を書いているつもりなのである。

宗教史は、人がウソに救われてきた歴史と言えるのではないかと思う。
ウソをほんとうだと信じるとき人間にある種の救いがもたらされるのだろう。
考えは人それぞれだが、わたしはあらゆる宗教はフィクション(=ウソ)だと思っている。
人生という現実にどれだけ痛めつけられようが、ウソがあれば人は生きていける。
繰り返すが、すべての宗教はフィクションだという考えをわたしは支持する。
もしそうであるならば、創価学会の宮本輝は、
日蓮の仏法(=ウソ)を唯一絶対の真実だと信じていることになる。
このとき宮本輝の書く小説(=ウソ)は果たしてなんになるのだろうか。
ウソをほんとうだと信じる人のつくウソ(小説)はほんとうになるのではあるまいか。
というのも、ほかならぬわたしがこのウソだらけの小説「夢見通りの人々」から
強い真実性を感じたがためである。

この小説に竜一という獣(けだもの)めいた性欲の持ち主が登場する。
あるいは大乗仏教の思想家である龍樹あたりをモデルにしたのかもしれない。
竜一の祖父も、「頭のてっぺんから足の爪先(つまさき)まで、
ぜーんぶ、おちんちんや」と女から言われるほど淫欲が激しく、
昼日中でも催(もよお)すと嫌がる妻を押し倒し事に及んだという。
ところが、その息子は結婚後に妻が次男を産み早世すると不能になってしまう。
子どものころに父親が嫌がる母親を力尽くで犯しているところを盗み見た。
この記憶がよみがえって欲望はあるのに女体を抱けなくなってしまったと物語られる。
さて、その息子の竜一が祖父ゆずりの精力絶倫である。
竜一のなじみにしている淫売(いんばい)の明美は昼はふつうの会社に勤めている。
どうしてか金の関係に過ぎぬのに竜一と明美はお互い惹かれあっている。
ある晩、情事のあと明美がこんなお話をするのである。
自分の母親は、父親が会社に行っている留守に、何人もの男を引っ張り込んでいた。
小学生だった私はそれを盗み見たことがある。
いま私がこんな娼婦めいたことをしているのはお金のためではないと最近わかった。

「死ぬほど嫌いやったお母ちゃんと私とは、おんなじ人間やったんや。
あんたがそれを教えてくれるねん」(P108)


似た宿命の持ち主が惹かれあっていたのである。
どうしようもなくある男とある女は宿命によって出逢ってしまう。
親と子が持って生まれたもので通じているならば、男と女もそうなのではないか。
おのれの宿命の断片を知った明美は竜一に言う。

「私、あんたのおもちゃになってあげるし、
あんたのお母ちゃんにもなってあげるわ」(P108)


3歳のときに母を亡くした竜一は、
明美に自分のなにかを見られたような気がして不快である。
おまえになにがわかるもんか、とも思う。

「男はどいつもええ女とやりたいわい。
なんぼ上品ぶってても、胎(はら)の底はおんなじや。
ただ俺は普通よりもちょっとだけ精が強いんや。
それはしょうがない。生まれつきや」
「私、生まれつきいうのは、人のせいとは違うと思うわ。
それも、あんたに教えてもろたんよ」(P109)


ウソ八百の小説のひとコマなのだが、どうしてかとてもほんとうっぽいのである。
祖父母と両親の顔を思い浮かべ、
さらにこれまで自分が出逢い別れてきた男女を思うとき、
この竜一と明美のようなことが実際に起こっているのではないか、という気がするのだ。
これはそれぞれがおのおのの来歴を凝視するしかないのだが……。
相当程度に持って生まれたものが人生を決めているのではなかろうか。
両親の持って生まれたものと自分のそれは強く結びついている。
ということは、両親と祖父母にも持って生まれたものの類似がかならず見られる。
このため、三代に渡って因果がめぐるようなことが実際にあるのではないか。
いまいち関係ないかもしれないが、
「目は一代、耳は二代、舌は三代」なんてことも言われているでしょう。
三代を経て結実するような因果や宿命もまたあるような気がするのである。
少なくとも、わたしの実人生を見るかぎり存在するとしか言いようがない。
この持って生まれたもの=宿命を宮本輝以上にうまく描く作家はいないのではないか。
宮本輝の創る因縁話はウソなのに、なぜかとてもほんとうらしいのである。

別の章では顔に痣(あざ)があるスナックのママが登場する。
ちなみに、女性の顔の痣を描いた先行作品に井上靖「霧の道」がある。
むろん、パクリなどという低俗なものではなく、尊敬するがゆえのオマージュであろう。
井上靖もまた人間の持って生まれたものに鋭い視線を向けた作家であった。
さて、宮本輝はスナック経営者の因業なママを次のように描写するのである。
生まれたときから顔に痣がある不幸な40歳の女性は奈津という。

「彼女が水商売に入ったのは二十歳のときで、
最初はキタ新地の二流のクラブに勤めた。
彼女の持って生まれた不幸は、ある部分を必要以上に磨(みが)く結果となった。
機知と、人情の機微に通じるということを、知らぬまに身にそなわせたのである。
そして同時に、その二つの美徳を十全に発揮させなかったのも、
持って生まれた不幸によってであった。
痣を隠す特殊な化粧は、奈津を一種の異相の持ち主にしたので、
彼女の真の優しさを伝えるためには、自然な機知に、
余分な演技とか言葉をつけくわえなければならなかった。
それがしばしば機知をずるさに、人情の機微をお節介にと、
取られる結果となった」(P205)


いったい宮本輝はどのような過程を経て、このような宿命観を獲得したのだろう。
井上靖のほかに宮本輝に強い影響を与えた人物がもうひとりいる。
あの男が小説家の宿命思想になにか関係しているのだろうか。
その男とは創価学会名誉会長の池田大作である。
もしや池田大作から宮本輝は宿命を学んだのではないか。
以下はまるで池田大作の持って生まれたものを描写しているようで驚く。

「そのうち奈津は、人格も風貌も立派なその男の、
奇妙な感情の振幅に気づき始めた。
揺らぎようのない自信の底に、理解しがたい不安の翳(かげ)を見、
負ける筈(はず)のない相手への病的とも言える嫉妬に驚き、
何をこれ以上とあきれるほどの
社会的自己顕示欲や名誉心の強さに首をひねった」(P206)


「その男」とは池田大作のことではないか――。
さて、宮本輝は持って生まれたものに強くこだわるが、
これだけが人生を決めるとは思っていない。
持って生まれたものはたしかに大きいが、人生はそれだけではない。
こういう説教をするのは最近の宮本輝の小説ならば、かならず年老いた成功者である。
人生に勝利した年寄りが、
こいつはいったいなにさまなんだと思うくらい偉そうにふんぞり返って、
おごり高ぶり上から目線の極地といったかたちで長々と説教してくる。
ところが、「夢見通りの人々」を書いたとき宮本輝は39歳であった。
「夢見通りの人々」で金言を述べるのはペテン師なのである。
競馬予想の詐欺で食っているいかさま師の男が教えを垂れるのがおもしろい。
本来、新興宗教の教祖なんていうものはみな天才的詐欺師のようなものなのだ。
にもかかわらず、ではなく、このために人は騙され救われるのである。
40にも達していない宮本輝がこの時期、健全な宗教感覚を持っていたことに驚く。
いんちき競馬予想で多くの人を騙して大儲けしている、
まるでどこぞの名誉会長のような人が、なかなかいいことを言うのだから。
「過去は未来ではない」――。

「競馬場に限らず、賭博場というところは、どんなに理性的な人間をも、
神秘的なものに目をくらませる魔力が渦巻いとるんだよ。
過去の結果を突きつけられて、それがそのまま未来の結果につながるという、
じつに人間的な錯覚におちいる。
だが、過去は未来ではない。未来の予兆を孕(はら)んでいるが、
それはあらゆる縁によって変わって行くんだよ」(P139)


「過去は未来ではない」

これは名言だと思うのね。過去は未来ではない。
人間にとって持って生まれたものは大きいが、それでも過去は未来ではない。
しつこいほどに繰り返すが、過去は未来ではない。
これは宮本輝の所属する創価学会をも否定せざるを得ない金言ではないだろうか。
過去に宮本輝という人が創価学会に入って成功したからといって、
未来にあなたがおなじような果報を得られるとはかぎらない。
いくら多くの学会員さんが過去に金持や有名になっていようが病気を治していようが、
「過去は未来ではない」のであなたの未来がそうなるとは言えまへんがな。

わたしは読書しながらメモを取る癖があります。
この小説は本来再読するつもりはなかったのだが、「幻の光」を読んで感涙して、
思わず酒をのみはじめてしまったので、
ならばもうかたい読書はできないということで読み始めたのだった。
読みながらわんわん泣いて、「すごい、すごい」と何度もひとりごちたのでした。
メモには乱れた字で、でかでかとこう書いてある。
「日本でいちばん偉いのは宮本輝」――。
血縁者にひとりでも以下のようなことを言う人がいたら、
たぶんあなたは宮本輝の作品に向いているでしょう。
なぜなら、持って生まれたものが似通っているからであります。

「お父ちゃんはなァ、金が一番大切やと思うてるでェ。
愛やの心やの言うても、金がなかったら何にも出来ん。
金があったうえでの心や。金があったうえでの健康や。
誰に何と言われようが、これがお父ちゃんの本心や」(P77)


よしんばこの文句に息子が反抗しようが、孫は祖父に同意するだろう。
宮本輝が名作「夢見通りの人々」で描いたのは、人間のこのような宿命である。
人間の持って生まれたものを実におもしろくわかりやすく天才小説家は描写した。