「星々の悲しみ」(宮本輝/文春文庫) *再読

→宮本輝の初期短編小説集を読んで思ったことをつらつらしたためる。
宮本輝は井上靖から「さみしさ」を継承しているといえよう。
以下の引用部分など、いかにも井上靖の小説のようである。
浪人生の「ぼく」は星が見たくなり望遠鏡を持つ高校の同窓、勇のところへ行く。

「ぼくは時間も忘れて、望遠鏡にしがみついた。
「さびしいもんやなァ」
ぼくは心からそう感じて呟いた。
「うん、さびしいもんやろ」
勇も同じように呟いて、それきり黙ってしまった」(P47)


しかし、宮本輝は孤独=「さみしさ」を克服するのである。
なんによってか。新興宗教の仲間との連帯からである。
宮本輝の小説は、異常なほど人と人との距離が近い。
いきなりおなじアパートの住人がシュウマイを土産にやってくるのだから。
訪問のみならずズカズカと上がりこんでくる。
これは創価学会の流儀で、戸別訪問や家庭訪問といわれている。
むかしだから人と人との距離が近かったわけではないのである。
宮本輝の描くのは学会員さんで、われわれとは少し頭の回路が異なるのである。

「俺、何をやっても、あいつには勝たれへんような気がしてたけど、
やっぱりそうやったなァ」(P55)


登場人物がいちいち勝ち負けにこだわるのも創価学会の教義と関係している。
宮本輝の小説を読んで感心するのは、どんなときでも金銭をないがしろにしないところだ。
かならずなにをして食べているか異常なまでの執念をもって書き込んでいる。
人になにかを頼むときは絶対といってよいほど金品を差し出すのもおもしろい。
人は金品以外ではなかなか動いてくれぬことを宮本輝は腹の底から知っているのだ。
実際、金がなかったらお話にならないのだから当たり前である。
登場人物が金に執着を見せぬ村上春樹の小説など宮本輝は断じて認めないだろう。
人間は金のために生きるのかもしれない。
金は稼ぐほかに盗むという手もある。
どうしてこんなに宮本輝の小説に窃盗の主題が頻出するのかわからなかったが、
本書を読んであれは前世での借りのイメージになっているのではないかと気づく。
相手から金を盗んだらそれは借りとなるではないか。
宮本輝の信仰に従うならば、現世で不幸なのは前世で借りを作ったからである。
このため現世における貸借の象徴として窃盗行為がたびたび描かれるのかもしれない。
個人的な感想だが、手癖が悪いやつにはかなわないという思いがある。
わたしは育ちが関係しているのか、どうしても盗むことができない。
人のものを平気で盗む宮本輝の世界の住人には生命力でかなわないと思ってしまう。

初期作品ながら早くも創価学会の比喩として病院が取り上げられている。
井上靖から継承した「さみしさ」を創価学会で克服したのが宮本輝である。
結核で入院した寺井は、おなじ病室の戦友ともいうべき患者を見て思う。

「朝食が配られて、みんな思い思いの方向に体を向けて丸椅子に坐り、
無言で食パンを頬張り始めた。二年間、寺井は毎朝、
この味気ないぱさぱさのパンを銀紙に包まれた小さなマーガリンで塗りたくり、
冷たい牛乳で無理矢理飲み下してきたのであった。
高嶋さんは八年間も、二階のおばちゃんは十年間も。そう思った瞬間、
寺井は、いったいこの人たちは誰であろうかという思いにかられた。
自分にとって、金さんやケンちゃんや、ヒデさんやトウホクさんは、
いったいどんな意味を持つ人間なのであろうか。病気にさえならなければ、
決して知り合うこともなかった縁もゆかりもない他人ではあったが、
そのときの寺井には、それが単なる偶然であるとは思えなかったのだった。
同じ病院の一室で、長い辛い日々を暮らすはめになることを、
もうとうから約束しあっていた、深い間柄の人たちに思えて仕方がなかった」(P216)


これは創価学会でいうところの宿命転換が起こった瞬間なのかもしれない。
前世からの因縁があると信じられる仲間たちを得たときの感動はどれほどか。
宮本輝の「蛍川」が芥川賞の候補作になったとき、
関西の創価学会は一丸となって同志の受賞を祈願するお題目を送ったという。
そんな仲間がいてくれたらば、ともに闘ってくれたら、
どんな不幸な境涯にいようが苦しかろうが人生に勝利できるのではあるまいか。
孤独などよりも美しい連帯を書きたいと宮本輝はエッセイで語っている。
しかし、創価学会に入らないと、そのような仲間はめったに得られないのである。
経験したことがあるが、学会員さんは仲間以外にかなり厳しいところがある。
連帯どころか村八分を仕掛けてくるのが学会員さんともいいうる。
とはいえ、創価学会になじめたらこんな幸福なことはないのである。

わたしは宮本輝が好きで好きで、氏の愛読したという小説を片端から読んだ。
最後に創価学会まで行き着き、どうしても入っていけない世界を感じてしまった。
しかし、いま仏教に興味を持っているのもすべて宮本輝の影響である。
わたしは宮本輝にとって、ブッダに反逆したダイバダッタのような存在なのかもしれない。
もしかしたらダイバダッタはだれよりもブッダを愛していたのかもしれない。
ほかのだれよりもブッダを理解していたから、
ダイバダッタはかつての師に反旗をひるがえすことができたのではないだろうか。
いや、いささか妄想が過ぎた。

「幻の光」(宮本輝/新潮文庫) *再読

→宇野千代が小説は話すように書いていると言っていたが、
宮本輝は「幻の光」をまさしく話すように書いている。
女が若くして自殺した亡夫に話しかけるという文体だ。
これはもう恐ろしい小説でありまして、読んでいて嗚咽(おえつ)がとまらず、
本書を読み終えて、なにやら濃いものを身体に入れたくなり、
禁じているまだ明るいうちからの酒に手を出してしまった。
ウイスキーを濃いロックでのむまで神経の昂(たか)ぶりは収まらなかった。
「幻の光」は現代の説経節と言いたいほどの迫力があるのだが、
説経節を知らないとこれがどれだけの賞賛なのかわからないかもしれない。
人間の悲しみと喜び、切なさと愛おしさを、見事に言葉に乗っけている。
われわれは小説を読むというが、
実のところは目で活字をいったん音声化して耳で聞いているのかもしれない。
それほど宮本輝の言葉は音楽のようにわれわれの耳に心に響いてくる。
人生にどうしようもない悲しみは尽きないが、
しかしわれわれ人間はその悲しみを哀切として謡(うた)いあげることができる。
悲しみはどうしようもなく悲しみだが、
心を込めて哀切として謡いあげきったならば、そのとき悲しみは希望になる。
人間の悲哀は希望に通じているということが「幻の光」を読むとよくわかる。
ならば、どうすれば人生の絶望が希望に転換するのか。
物語ることである。お話として絶望を語りきれば、その先にかならず光が見える。

人生で起こることはすべて偶然であると言えなくもない。
だが、人間はたまたまの偶然を主観で物語に仕立て上げることができるではないか。
「幻の光」で主人公「わたし」の祖母は、20年まえ突然失踪してしまう。
ちょうどおなじ時期に、のちに「わたし」の夫となる少年が引っ越してくる。
この夫が結婚後、小さな子どもがいるにもかかわらず自殺してしまう。
みなみな万事が偶然かもしれないのである。
しかし、「わたし」はこう物語る。繰り返すが、このお話に希望が芽生えるのである。
「わたし」は「あんた(自殺した亡夫)」に向かって話しかける。

「そして世にも不思議な消え方で、
この世から去って行ったお祖母ちゃんと入れ変るみたいにして、
あんたがわたしの前にあらわれたことに、
何かぞっとするような恐ろしさを感じてしまうのです」(P36)


あらゆる偶然は偶然ではなく、もしや宿命ではあるまいか。
すべての偶然が物語ろうと思えば宿命として観ずることができるのである。
「正しい」かどうかわからぬが偶然に過ぎぬ人生を宿命として観ずるとき、
拓(ひら)かれてくるものがあるのではないか。
たとえば、顔のそばかすのようなものからして宿命とは考えられないか。
宮本輝が「幻の光」でそばかすを宿命の象徴として描いているのはほぼ間違いないだろう。

「随分昔、まだ二人が二十歳になるかならんかのころ、
わたしの目の下にばらばらに散っているそばかすを見ながら、
あんたがあの独特の、
どこかほかのところを見つめてるような視線を注いでこう言うたことがある。
「ゆみちゃん、まだほかにも、ぎょうさんそばかす隠してるんのと違うかァ?」
それは子どものころから仲の良かったあんたが初めて口にした、
わたしへの何やら怪しげな言葉やった。わたしはその瞬間、
みぞおちのあたりをきゅうんとさせながら、
恥ずかしそうな振りをして笑い返したのやけど、
言葉の意味が判ってたつもりのわたしは、
何の理由もなしに自殺してしもたあんたのことを考えるたびに、
それは女の体のことやなかったと気づくようになった。
ほんとは煩(わずら)わしいてたまらんくせに、
あんたの指にあわせてるうちにその気になってくる自分の女の部分を、
まだ一緒になるまえから言い当てられてたんやと、わたしは思い込んでたのでした。
あのそばかすの意味も、考えれば考えるほどややこしいなって、わたしは、
あんたの自殺の理由が、ますます判らへんようになっていくんです」(P12)


「わたし」は大して魅力もないこぶつきの中年男と生活のために再婚する。
その男から尻(しり)にそばかすがあると指摘されるのは意味深い。
自分で知る宿命ばかりでなく、他人に教えられる宿命もあるのだろう。
いや、他人に教えられたそばかすが宿命であるかはわからない。
ただその新しく知ったそばかすを宿命と思えるかどうかで人生が変わるのだろう。
わたしは断固として宿命を認めずに滅び去ってゆく生き方もあっていいと思うが、
宮本輝は勝利や宿命転換といった荒々しい希望の物語に執着するのである。
しかし、初期作品の「幻の光」では、
滅び去る「あんた」に作者はかぎりない愛惜の念を寄せている。
自殺したものを罰が当たったと裁くような冷たさは「幻の光」にはない。
だから、いい。とてもいいのだ。

「胸の香り」(宮本輝/文春文庫) *再読

→宮本輝はどうしてこうもお話がうまいのだろう。
氏の信仰する創価学会自体のお話といったらたぶん大したことはないのである。
創価学会では末端で座談会という会合が開かれ、日夜体験談が発表されている。
あれらが創価学会のお話といってもよいだろう。
重い白内障でもう目が見えなくなると医者からはいわれていたんですが、
学会に入って身を入れて勤行したら失明せずに済みました。
ひどく貧乏で安酒ばかりのんでいましたが、騙されたと思ってお題目を毎日唱えていたら、
酒をのむ気がなくなり正社員登用されて、いま結婚を考えてる彼女がいます。
みなさん、聞いてください。先日学会をやめたAさん、いたでしょう。
Aさんの息子さん、交通事故に遭って、両足切断ですって。罰が当たったのね。
――まあ、創価学会のお話といったらこの程度なのである。
たしかにこの手の話は日本霊異記にも採録されているから普遍的ではあるのだろうが、
宮本輝の小説のようにおもしろくはない。
なぜなら、しょせんは善因善果、悪因悪果のねつ造に過ぎないからだ。

宮本輝のお話は単純な善因善果、悪因悪果ではない。
小説家の描く不思議なお話を要約したら以下の一文に象徴されるのではないか。

「それにしても、世のなかというものは、
なんと奇妙な因縁に満ちていることだろう」(P89)


宮本輝は「奇妙な因縁」を描くのが絶妙にうまいのである。
作家は宿命を描いているつもりなのだろう。
なぜなら、宿業は「奇妙な因縁」を契機として、その姿をわれわれのまえに現わすからだ。
宿命とはなにかわからなかったら、漢字に注目するといい。
宿命とは、命を宿すということだ。
子どもが生まれるときに、人は宿命の顕現を目の当たりにする。
赤子の誕生は運命ではなく、宿命なのだろう。
宿された命は時間とともに「奇妙な因縁」に導かれてその正体を現わす。
短編小説集「胸の香り」における「奇妙な因縁」は――。
なぜ愛人と別れ話をするためにたまたま泊まった旅先の宿の若夫婦が離婚するのか。
どうして一度しか逢っていない女性と異国の地で再会するようなことがあるのか。
なぜ入院したとき隣のベッドにいた女性の旦那さんが、
あろうことが自分の死んだ夫の隠し子なのか。
いったいどういうわけで浮気をした男の息子は長じて父とおなじ行為をするのか。
これらの「奇妙な因縁」の原因はみなみな宿命(宿業)になるのだろう。
では、なぜ宮本輝にはほかの人には見えぬ宿命が見えるのだろう。
氏の所属する創価学会は現世利益を盛んにうたっているが、それでも仏教団体である。
さて、古い仏典に「ジャータカ(本生経)」というものがあり、
ここでは宿業を以下のように定義している。

「たとい百劫を経ても、行なった業は亡びない。
因縁がたまたま遇うときに、果報はかえって自ら受けるのである」


この教えに従うならば、「奇妙な因縁」がたまたま起こるとき、
それはみずからが無限の過去世で行なった業の報いを受けているのだ。
ジャータカの「因縁がたまたま遇うとき」が宮本輝のいう「奇妙な因縁」だろう。
だとしたら、しっかり宿業を見つめていたら「奇妙な因縁」も見えるのか。
しかし、宮本輝はいったいだれの宿命を見たのだろう。
おそらく自分の宿命を見たのだろう。
なぜ自分という命が宿されたのかを突きつめて考えたのだろう。
そのうち父や母の宿命もまた見えてきたのではないか。
ここから「奇妙な因縁」を描くまでにどんなステップがあったのだろうか。
そこに創価学会がどう関係してくるのか。
底辺庶民の仏教信仰は日本霊異記のむかしから、
仏恩(現世利益)と仏罰に尽きるのである。
創価学会の教えも結局は「金が儲かるで」「病気が治るで」「罰が当たるぞ」だ。
宮本輝はおのれの低俗な仏教観を隠そうとはしない。
以下の引用文など、極めて創価学会的といえよう。

「それにつけても、自分たちは恩知らずだったと思う。
貴女に対して、言葉にするのもおこがましいくらい恩知らずだった。
その罰は、なんとも恐ろしいほどに、母も私も受けつづけた。
母が死んで、ちょうどことしで二十年になる」(P107)


こういう書き出しの手紙から「奇妙な因縁」が物語られるのである。
ある程度の時間が経過しないと因縁は熟さない(この話では二十年)。
ならば、時間をよく見つめていたら宿命や「奇妙な因縁」が見えてくるのか。
しかし、果たして宮本輝の描いているのは「正しい」因縁なのか。
そもそもお話に過ぎぬ因縁に「正しい」や「間違い」があるのか。
もしや因縁話はお話というかぎりにおいてすべて「正しい」のではあるまいか。
宮本輝の書く因縁話は「正しい」かどうかを通り越して、とにかく「おもしろい」のである。

「真夏の犬」(宮本輝/文春文庫) *再読

→宮本輝がいちばん影響を受けた作家は井上靖ではないかと思う。
書斎の写真を見たら、なぜか池田大作の本は見当たらず、
井上靖の全集が重々しく並んでいた。
以前、宮本輝は結局井上靖まで至らなかったと僭越ながら評したことがある。
このたび短編小説集「真夏の犬」を読み返して前言を撤回したく思う。
わたしは井上靖の短編小説も歴史小説以外ほとんどすべて読んでいるが、
宮本輝の短編小説は師匠ともいうべき井上靖を超えていると断言できる。
とくに「真夏の犬」に収録された作品それぞれがよろしい。
おそらく40を過ぎてから書かれたものだからと推測している。
初期の短編小説よりも遊び心が発揮されていてよい。
身もふたもないことをいえば、新人作家は小説で極力改行と会話をカットして、
センテンスの長い文章を書かないと純文学雑誌には掲載されないのだ。
へんてこな表現で風景描写とやらをもったいぶってやらないと純文学でなくなってしまう。
宮本輝もデビュー当時は決まりを守っていた。
しかし、「真夏の犬」の執筆時期はもはや売れっ子作家である。
だれが決めたかわからぬ純文学ルールなど守る必要がない。
この短編小説集で宮本輝の持つ才能が十全に発揮されているゆえんである。

「真夏の犬」収録作品は読みながらどれも熱いものが込み上げてきた。
この人はほんとうに大天才なんだとだれかに向けて叫びたくなった。
小説とは、どこまでもお話なんだと作家が信念を持って描いているのがよくわかる。
だれかのお話が小説なのである。
たとえば旧友と再会して彼(女)の口にするお話が宮本輝の小説なのである。
なぜ宮本輝はお話にこだわるのか。
いまわれわれが苦しんでいるとしたら、それはお話であるからだ。
われわれを幸福にするのも不幸にするのも実はお話なのである。
われわれはお話を生きている。お話に生かされている。
ならば、どうして小説家はお話を書かないのか。もっとお話にこだわらないのか。
お話を多少学問的にいいかえたら物語だが、宮本輝はお話を書く作家だ。
作家はほんとうにあったお話ではなく、ウソのお話を描く。
なぜならたぶんウソのほうがほんとうよりもリアルであることを知っているからだ。
底辺庶民出身の作家は、ウソのおもしろさを熟知していることもある。
まがいもののほうがホンモノよりも価値のあることがある。
ニセモノをホンモノと思ってしまうときがある。

本書収録の「力道山の弟」は、作者の意図はわからぬが、
氏の信仰する創価学会のパロディとしても読めるので驚いた。
実際はニセモノなのだが「力道山の弟」を自称するものが露天でインチキ薬を売る。
ひとりサクラがいて、この人はほんとうの弟だと認めるから、みな騙されるのだ。
実のところ、創価学会の池田大作も「力道山の弟」のようなものだ。
宮本輝をはじめ多くの人(サクラ)が池田大作は偉いとほめるから、
なかには騙されるものも現われるのだ。
しかし、ホンモノとはなんだろうか。
インチキ行商人の「力道山の弟」は果たしてニセモノだったのか。
というのも、ある美しい女をはらませて去っていったのだから。
いままで貞操を守ってきた女性が「力道山の弟」には心を(股を)開いてしまう。
その女性は、(主人公の)父親の親友の元恋人であった。
父親はいわば親友から女性を託されたようなもの。
にもかかわらず、女は「力道山の弟」ごときのインチキ野郎に身を任せてしまう。
うまいこと「ただまん」をされて、子種を残される。
これを知った父親が絶叫するのだが、下品なところが実にいい。

「よりによって、あのどこの馬の骨かわからん香具師(やし)と……。
女はアホか。俺には気が狂うたとしか思えん。
力道山の弟やなんて言うて、わけわからん粉を売ってる、薄汚い男と……。
そんなに男のチンポが恋しかったら、
なんで俺の勧めた男と所帯を持たなんだや」(P143)


創価学会にたいせつな家族を奪われたものもおなじ絶叫をするのだろう。
名誉会長やなんて言うて、わけわからんご本尊を売ってる、薄汚い男に……。
しかし、「力道山の弟」はチンポを突っ込まれた女にはホンモノだったのだ。
ならば、池田大作がホンモノでないとだれがいえようか。
もちろん、宮本輝は池田大作をモデルに「力道山の弟」を書いたわけではない。
だが、そういうふうに読めなくもないのである。
これは宮本輝が信仰と真剣に向き合う才能ある作家であることを証明している。

本書収録の「暑い道」も好きだ。
作者と思しき少年の住む貧民街にある日、同学年の美少女が引っ越してくる。
遠縁の叔父にもらわれてきたという。
少年と仲間は、14歳の少女の美しさに圧倒される。

「栗色の髪、どことなく青みがかった目、高くて形のいい鼻、
知らない者は誰も中学二年生とは思わないだろう胸の隆起と腰のくびれ……。
私たちは生まれて初めて、
日本人とアメリカ人との混血の少女を目にしたのだった」(P42)


貧民窟(ひんみんくつ)に舞い降りてきた混血の美少女はさつきという。
少年をふくめ四人はなんとか美少女のさつきを悪いやつらから守ろうと決意する。
いつしか時は進み、少年は大学受験を間近に控えている。
さつきの美しさは増すばかりだが、いい噂は聞こえてこない。
仲間のひとりがさつきとやったのではないかという話も聞いた。
大学受験も直前に控えたころ、家にひとりでいるとさつきが姿を見せる。
お別れを告げに来たのだという。
「淫売(いんばい)の娘は、やっぱり淫売や。
叔父さん、そう怒鳴って私を殴るのよ」とつぶやいた。

「そして、背を向けたまま、私のことを好きだと言った。
四人の中で、いつも一番好きだったと。
夕陽が落ちてしまったとき、私とさつきは、畳の上に横たわった。
さつきは、私の耳たぶを噛んだ。私は、さつきに言われるままに動いた。
目がかすんで、心臓が破れそうになった。
あっけなく終わったあと、なお乳房に触れつづける私の頭を、
さつきは両手でいつまでも撫でた。
夢心地とは、まさにあのような状態を言うのだと私は思う。
私は、自分がきっと幸福になるような気がして、
何日もさつきの体の感触の中でさまよった」(P48)


最後の一文がとくにいい。「自分がきっと幸福になるような気がして」がいい。
いったいどんな狂気を内に秘めていたら、
宮本輝のようにさらさら経験もしていないことを美しく描写できるのだろう。
狂ってもいなかったら、ウソのお話をああも美しく物語れないと思うのだが。
宮本輝作品には狂人も多く登場する(本書では「赤ん坊はいつ来るか」)。
現実を認められなくなったときに、人は狂気の世界にひた走る。
あまりに現実がひどいと狂気に逃げ込むしかなくなってしまうのだ。
むかしの創価学会は貧乏人、重病人の巣窟だったらしいから、
狂人半歩手前といった底辺庶民が大勢いたのだろう。
なにより宮本輝自身が発狂するのではないかとの恐怖におびえて(不安神経症)、
アル中の母親に導かれ創価学会の門を叩いたのであった。

「俺の兄貴のつれあいが、お産のあと、ちょっとおかしいなったことがあるんや。
どこがどうおかしいっちゅうわけやないんだけど、やっぱりおかしい目になった。
あの女の目は、どう見ても、おかしな目やないんやなァ……(中略)
目を見たらわかるよ。うちの工場の社員の中にも、
いままで五人くらい頭がおかしいなって入院したやつがおる。
ある日突然、いつもの目と違う目になりよる。
妙に吊りあがったり、膜がかかったみたいになったり、
逆に光りすぎるくらい光ってたり……。
うまいこと口では説明できんけどなァ」(P89)


この狂人が過激な新興宗教団体に入ると、集団の狂気のなかでむしろ毒気が取れ、
うまく集団のお話に自身を同化することによって(洗脳されて)、
これまで不可能だった社会生活が営めることがあるのだから、宗教を舐めてはいけない。
しかし、これが可能なのは新興宗教だけである。
宮本輝の所属している創価学会は、ことさら過激なことで知られる新興宗教団体だ。
もし宮本輝が創価学会に入っていなかったら、
十中八九狂人として身を持ち崩していただろう。
だが、たまたま宮本輝がうまくいったからといって、
みなが創価学会に入ればよくなるというわけではない。
とはいえ、創価学会に入ってよくなる人もなかにはいるのだから、
かの団体を壊滅せよなどと決めつけるものでもないと思う。
ともあれ、よくも悪くも宮本輝は創価学会の作家である。