「ラトナーヴァリー」(ナーガールジュナ/瓜生津隆真訳/「原始仏典」筑摩書房)

→ナーガールジュナ(龍樹)が王さま宛に出した仏教講話の手紙。
龍樹の作ではないという説もあるらしいが、
こちらは仏教学者ではないので作者など本音を言うならばどうでもいい。
漢訳仏典は「宝行王正論」という。
龍樹という男は仏教の開祖でもなんでもなく、大乗仏教の立役者に過ぎないのに、
これだけ名前が伝わっているということは、
さぞかし権力者に取り入るのがうまかったのだろう(妄想)。
なにが「正しい」ものとされるかというと、支持者の多いものが「正しい」のである。
このため、真理めいたものを語りたかったら、権力者に取り入るにかぎる。
なぜなら権力者はそれだけ影響力があるからだ。
絶対的真理が存在しないとしたら、権力者の認めたものが当面の真理として通用する。
龍樹が王さまに手紙を書いたということは、真理の仕組みをよく知っていたのかもしれない。
真理とは、しょせん権力なのである。
なぜなら、多数派の意見がその時代その国その地域の真理となるがため。
多数派を味方につけたいのならば
影響力のある権力者に庇護(ひご)してもらうのがいちばんの得策だ。
新興の大乗仏教が伝統ある由緒正しき小乗仏教に勝とうと思ったら、
王さまを味方につけるしかないのである。
龍樹は全力をふりしぼって本書を書いたのだと思われる。
はっきり言って、下層民を百人洗脳するよりも、豪商十人を仲間に引き入れるよりも、
王さまひとりを「落とす」ほうがよほど布教の効率はいいのだから。

驚いたのは、本書で龍樹が業(ごう)の思想をなかば否定していたことである。
正確には否定していないのかもしれないが、
乗り越える思考法のひとつとして業が記述されているのは興味深い。
わたしは龍樹の言っていることを「正しい」とは思わないが、
そういう言い方をするのなら別に釈迦の言葉が「正しい」と思っているわけでもないので、
龍樹の言うことだから「正しい」とおかしな盲信をしている人に
少しばかりの忠告をしたいだけだとどうか思ってください。
龍樹の考え方は「正しい」かどうかはわからないが、それなりに魅力がある。
折伏(しゃくぶく)の手紙である本書で龍樹はなにから話を始めているか。
いくら手紙を書いても読んでもらえなかったら意味がないのである。
勧誘よりもなによりもまず手紙に興味を持ってもらわなければならない。
このためだろう。龍樹は手紙におまんこの話を書き入れるのである。
一説によると、龍樹はおまんこから仏門に入ったというから(女好きの性豪!)、
王さまに読んでもらうためではなく、ただ単に正直者だったのかもしれない。
龍樹はおまんこが好きだったが、のちにおまんこよりも好きなものができたのである。
それが仏教である。ただの仏教ではない。大乗仏教である。
大乗仏教とは、開祖釈迦の教えとは関係ない、龍樹たちが創作した仏法である。
ちなみにインド、シナ、日本、三国伝来の仏教の歴史は、
言うなれば造反劇の繰り返しだから、本家に逆らったという意味において、
創価学会は日蓮正宗よりも「正しく」仏教的だし、
親鸞会は浄土真宗よりも「正しい」のかもしれない(……え?)。
話が脱線してしまったが、龍樹の好きなおまんこの話をしよう。
いや、龍樹におまんこを語ってもらおう。

「48~50 女性に対する頓着は、通常女性の姿を美しいと思うことから生ずる。
しかし、実際には女性の身体には、清らかなものは少しも存在しない。
〔女性の〕口は、汚れた唾や歯垢の不浄な器であり、
鼻は膿汁・粘液・鼻水の器であり、眼は眼脂や涙の器である。
腹は排泄物や尿や肺や肝臓等の器である。
愚かな人は女性をこのように見ず、女性の身体に頓着をなす。(……)
53~55 たとえば、豚が、排泄物や尿にみちたところにある汚物に頓着するように、
欲望のある人は、排泄物や尿を生ずる身体にある汚物の陰所に頓着する。
身体は不浄であり、それを生じる生門(=生殖器官)を、
愚かな人は快楽の対象として追い求める」(P356)


美女=糞袋=尿袋=汚い=おまんこ!

「65 たとえば、女性の身が不浄であるように、
御身みずからの身も同様に不浄である。
従って、内外のものに対する貪欲を離れることが、
どうして正しくなかろうか」(P356)


美女=うんこ=汚い=あなた←離れよう!

「24 この法をよく理解しないならば、我意識が生じる。
それから善・不善の業が生じ、
善・不善の業から善・不善の〔輪廻の〕生存が生じる」(P355)


あなた=我意識→善業・悪業→輪廻の生存=苦しみ

ここまでが釈迦伝来の仏教の考え方である。
この時点で王さまは、とっくにビビッているはずである。
おまんこに釣られて読み進めたら、とんでもない話になってしまったわい!
というのも、金も権力もある王さまが美女に夢中になっていないはずがないのだから(妄想)。
美女をうんこに過ぎぬと言い切るこの坊さんはどれほど偉大なのだろう。
王さまは内心うろたえながら、それでも先を読まずにはいられないはずだ。
きっと王様は何度もこの手紙を読み返したはずである。
以下に紹介するが、龍樹は業の思想を足がかりに独創的な自説を展開する。
善因善果や悪因悪果の有無にとらわれているうちは真理からまだ遠いと言うのである。

「43~45 要約すれば、〔善悪の〕業には果が存在しないというのが、
無見論(=虚無論)である。
これ(=無見)は不善であり、堕地獄であり、邪見である、といわれる。
要約すれば、〔善悪の〕業には果が存在するというのが、
有見(実有論)である。
これは善であり、善趣に生じしめるものであり、正見である、といわれる。
知にもとづいて、無と有〔との二見〕を寂滅し、それによって罪福を超える。
これがかの悪趣と善趣からの解脱である、と諸聖者によって説かれる」(P351)


ものすごくわかりにくいと思う。こういうことを言っているのだと思う。
わかりやすくするためにA、B、Cにたとえる。

1.A対B
2.(A対B)←C
3.(A=×、B=×)→C=○


龍樹もなんとかわかってもらおうと、いろいろたとえを用いている。

「48~49 これがあるとき、かれがある。
たとえば、長があるとき、短があるのと同様である。
これが生ずるとき、かれが生ずる。
たとえば、灯が生ずるとき、光が生ずるのと同様である。
一方また、短がなければ長は自体として存在しない。
また灯が生じなければ、光もまた生じない」(P351)


1.長対短
2.(長対短)←心(主観)
3.(長=×、短=×)→心(主観)=○


1.灯→光
2.(灯対光)←空(くう)
3.(灯=×、光=×)→空=○


因果関係一般に話を広げると、こうなる。

1.因→果
2.(因対果)←空
3.(因=×、果=×)→空=○


言葉で説明すると、因も果も心(主観)で決めているもので実体はない(=空)。
「長い」も「短い」もあなたが心(主観)で決めているだけで実体はない(=空)
いちばん最初の業の問題に戻ると――。

1.「業は存在しない」対「業は存在する」
2.(「業は存在しない」対「業は存在する」)←心、空
3.(「業は存在しない」=×、「業は存在する」=×)→心=○、空=○


だから、なにを龍樹は言いたいのかというと、たぶん――。

1.あなた=我意識→業→輪廻の生存=苦しみ
2.(「業は存在しない」=×、「業は存在する」=×)→心=○、空=○
3.(「あなた=我意識→業→輪廻の生存=苦しみ」=×)→心=○、空=○


おわかりいただけましたか? 大学の先生とか、このへんをどう教えてるんだろう。
言っちゃあ悪いけれど毎晩のように美女とチョメチョメしている(妄想)王さまに、
いくら龍樹が熱心に説いたとしても、こんな教えが通じるとは思わないよな~。
しかし、龍樹は王さまに「究極の真理」とやらを説き続ける。

「5 このように、この世界は究極の真理からすれば、真実と虚妄を超えている。
また、まさにそれ故に、
真実にはこの世界は有にいたることもなく、無にいたることもない。(……)
9~12 実にこの法の深遠性は、凡夫にとってはうかがい知れない。
この世界は幻化のようである、という教えが、諸仏の甘露の教えである。
たとえば、幻化の象に生と滅とを見るとしても、
真実には、いかなる生も滅も存在しない。
それと同じく、幻化のようなこの世界には、
生と滅とが見られるが、真実にはいかなる生も滅もあるのではない。
たとえば、幻化の象はどこからも来ず、どこへも去るのではない。
ただ心の迷妄のみによって存在し、実有としてあるのではない」(P354)


あれえ、これを訳した学者先生、本当に理解していたのかな?
真理と真実をごちゃまぜにして訳しているからよけいわかりにくくなっているような気が。
わかりやすく例の公式に代入しますね。

1.真実対虚妄
2.(真実対虚妄)←究極の真理
3.(真実=×、虚妄=×)→究極の真理=「世界は幻化、世界は心の迷妄」


1.有対無
2.(有対無)←究極の真理
3.(有=×、無=×)→究極の真理=「世界は幻化、世界は心の迷妄」


1.生対滅
2.(生対滅)←究極の真理
3.(生=×、滅=×)→究極の真理=「世界は幻化、世界は心の迷妄」


ここまでご一緒してくださった方が万が一にもいましたら、
たしかに龍樹は哲学者や政治家としては優秀だったのかもしれないけれども、
宗教家としてはほとんど無能だったのでないか、
というわたしの推測に同意してくださるのではないでしょうか?
たとえば、愛する子どもを亡くした母親がいるとします。
龍樹が「正しい」説教をしたとする。

1.生対死
2.(生対死)←究極の真理
3.(生=×、死=×)→究極の真理=「世界は幻化、世界は心の迷妄」


あんた、あたいをバカにしてんのかい、とヒステリックに絶叫されるかもしれない。
龍樹の仏教は、思弁的にはすぐれたところがあるのかもしれないけれど、
とても人間味があるとは言えない。
どうでもいい話だけれども、
「世界は幻化、世界は心の迷妄」はたぶん「色即是空」と呼ばれているやつだと思う。
この記事では説明の便宜上「空(くう)」という用語を使ってしまったけれども、
本書では一回も登場せず、代わりに「幻化」という言葉で表現されている。

しっかし、いきなりこんな手紙を送りつけられた王さまも迷惑だっただろうな。
「美女はうんこに過ぎない」などと下品なことが書かれていると思ったら、
「私は究極の真理を見つけた」とか延々と意味不明なことがつづられているのだから。
でもさ、「わからない」と正直に白状しちゃったら王さまの沽券(こけん)に関わるわけ。
やっぱり王さまとしては、「おぬし、なかなか賢いのう」と応じなければならない。
とはいえ、手紙をいくら読み返しても理解できる部分は極めて少ない。
さてまあ、いったい自分はどうしたらいいのだろう。
困った王さまの目に以下の文章が飛び込んでくるはずである。
あんがい、この手紙で龍樹がいちばん書きたかったのはここではないのだろうか。

「31~34 悪を捨て善を持することが、現世に繁栄するものの法であり、
知によって〔二の〕執着を断つことが、至福を得るものの法である。
仏像・塔・寺・広大な殿堂などを、尊崇の念をもって、
冨豊かなるもの(=王)よ、建立すべし。
仏像はあらゆる宝をもって造って姿美しいものにし、
美しく描かれた〔仏〕は蓮華の上に座するように作るべし。
正法と比丘僧伽(=出家集団)を、あらゆる努力を尽して庇護すべし。
金や宝の飾り網を、みずから諸塔に飾るべし」(P360)


龍樹って金持に因縁をふっかけて金品を巻き上げるヤクザみたいだよな。
相手の弱み(性欲!)につけこんで涼しい顔をして金をゆするところなど、
知能犯のインテリヤクザといったおもむきがあり格好いい(←一応ほめておく)。
そもそも大乗仏教からして、ゴロツキめいたところがある。
歴史的に見たらどう考えたって正統性のある小乗仏教を、
あろうことが新興の大乗仏教は逆にインチキ呼ばわりしているわけだから。
大乗仏教の根本精神を本書で龍樹は(おそらく意図せずに)述懐している。
諸君、これが大乗仏教だ。

「64~65 ある人にはもし毒が役立つのであるならば、
そのものにはたとい毒があっても、それを施すべし。
たとい最上の食物であっても、役立たないならば、
そのものはそれに施すべきではない。
毒蛇にかまれたときには、指を切断して利益をなす、といわれるように、
世尊は利他のためには、不善であってもなすべし、と説かれた」(P361)


たとえ最上の食物(釈迦の教え)であっても、役に立たないならば捨てよ。
利他(衆生救済)のためならば、不善(ウソをつく)であっても行なえ。
だとしたら、日本でいちばん龍樹を理解していたのは蓮如になるのかしら。
まだ存命の新興宗教トップの名前を挙げちゃうといろいろ差し障りがあるから。
「毒でも役に立つのなら施せ」
なんてしゃあしゃあと言える腹黒い人へのあこがれが実のところわたしにはある。
あはっ、生真面目に原始仏典を研究している学者先生よりも、
怪しげな新興宗教の教祖にときめいてしまうと白状してしまいました。

「金剛の針」(中村元訳/「原始仏典」筑摩書房)

→いまから千数百年まえに仏教徒が書いたカースト否定論とのこと。
きっと「人間は平等」とかうそぶいてカーストの底辺層を取り込もうとしたんだろうな。
ちりも積もれば山となるで、小額のお布施でも信者数が多ければ儲かるから。
「金剛の針」をわざわざ日本の読者に紹介するような東大の中村元博士は、
なーんて人格者でお偉い方なんでしょう、と思わせたいのかと思ってしまった。
「人間は平等」なんて嘘八百は、偉い人が言うからありがたいんだよね。
底辺層からの人気もゲットできて、さらに偉くなれるのだから、こんなうまい話はない。
しかし、「人間は平等」なんて真っ赤な嘘をつく厚顔な偉い人こそ、
実際は「人間は平等」なんてちっとも思っていないのである。
「人間は平等」というパフォーマンスを何度も庶民に見せつけたがるけれども、
毎日顔を合わすような部下はきまって奴隷のように扱うわけさ。
それでいいのいいの。人間、そんなもんだから。
往来で汚らしい格好の底辺庶民が「人間は平等」なんて叫んでいても、
だれだって鼻で笑って終わりでしょう。
なーに、バカ言ってんだよ。おまえ、なにさまのつもりだ、おいって話で。
要するに、自分より下の人から「人間は平等(おれとおまえは同格)」
と言われると腹立たしく、反面、自分よりも上の人から
「人間は平等(あなたと私は差がありませんよ)」
と言われるとシッポを振ってワンワンそのお方についていきたくなるってこと。
ああ、いつか温厚な笑顔で「人間は平等」と言えるほど偉くなってみたいもんだ。
このため、「金剛の針」の存在によって、こんな主張をできるほど、
この時代の仏教は偉くなっていたことがわかる。
歴史的事実を述べると、高みから「人間は平等」なんて説教していた仏教は、
カースト制が大好きな人民から見放されインドから消滅してしまうわけだ。
やっぱ最底辺の奴隷から「よお!」とかタメ口をきかれた偉い人が怒ったのかしら。

ちなみに「金剛の針」がカーストを否定する根拠は業(行為)である。
どうしてこうまで仏教は業にこだわるのだろう。
語句の解説をしておくと、シュードラは奴隷階級で、バラモンは司祭階級。

「……シュードラでさえも、バラモンとなり得る」(P343)

その前提となる考え方は――。

「家柄によるのでもなく、生れによるのでもなく、
ただ行ないによってのみ、バラモンとなるべきものである」(P346)


日本のお坊さんだって「人間は平等」なんて思っていないでしょう?
なぜって伝統仏教団体トップはみんな世襲だから、
これって要するに生まれゆえにいい暮らしをしているわけじゃないですか。
この点、新興宗教は生まれと関係なく出世できるのがよろしい。
創価学会くらい古くなるともうダメかもしれないけれども、
新興宗教の成立期から参加すれば、生まれに関係なくどこまでも偉くなれる。
しかし、団体が大きくなり古株になると、本当の正体を知っているがゆえに教祖から疎まれ、
いきなりクビを切られ復讐として暴露本を書くという哀しい人生になるかもしれないけれど(笑)。