「百五十讃」(マートリチェータ/奈良康明訳/「原始仏典」筑摩書房)

→作者は2世紀の仏教詩人らしく、これは「ほとけさまバンザーイ」という讃歌。
いかにも大乗仏教という文句が並ぶ。
学問的なことはさっぱりわからんが、作者が書いていて楽しそうなのがよろしい。
原始仏教は抹香くさくてかなわん。
欲望をなくせ。生に喜びはない。みんな捨てろ。喜びも悲しみも捨てろ。無だ。寂滅だ。
じゃあ、なんだい? 廃人にでもなれって言うのかよ。 
と石あたまの釈迦には舌打ちしたくなる。
比して、大乗仏教的と言われる「百五十讃」は喜びと悲しみを肯定しているのがいい。
ブッダよ、あなたは――。

「17 あなたは人のために生命をすてて
しかも歓喜(よろこび)にあふれていた
それは死から蘇生(よみが)えった人の
歓喜(よろこび)にもまさっていただろう」(P326)


生きているんだから、喜びはあってもいいだろう?
出家して悲喜ともども滅してしまうのでは、せっかく生まれてきた甲斐がないではないか。
歓喜(よろこび)はいいものだ。生命バンザーイ!
ならば、そうであるならば、喜びだけではなく悲しみもまたいいのかもしれない。
喜怒哀楽それぞれに生きている味わいがあるとは考えられないか。
たとえ絶望でさえ、だれかがそばにいてくれたら、その味を堪能することができやしないか。
もしかしたら完全に孤独なときにも、だれかがわれわれのそばにいてくれるのではないか。
いないかもしれないが、だれかがいてくれると思うと救われる。
いや、きっとやさしいほとけさまがいてくださる。
あなたはいらっしゃるはずだ。そして――。

「104 絶望するものがあればなぐさめ
安らかに生きるものには好意を示し
災厄(わざわい)に会うものをあわれみ
すべての人の幸福(さいわい)をねがっていた」(P333)


まるで遠藤周作の描く同伴者イエス・キリストのようだが、
寄り添ってくれる存在というのは、各宗教に共通する絶対者のイメージとしてあるのだろう。
われわれはひとりだけれども、ひとりではない。
孤独なときにも、たとえ絶望していても、きっとだれかが同行してくれている。
だれかが横に影のように寄り添って一緒に歩いてくれている。
そんな自分のことを見守ってくれている存在がいるに違いない。
その人の名をなんと呼ぼうか。
もしそれがブッダだとすれば、実のところブッダは死んでいないのではないか。
味気ない原始仏教が打ち倒されるのはこのときである。
喜びと悲しみはいきいきとした精彩を取り戻し、このとき新たなブッダが誕生したのだ。

「アヴァダーナ」(奈良康明訳/「原始仏典」筑摩書房)

→アヴァダーナは善因善果、悪因悪果を説いた古代インドの仏教説話集だが、
本書に収録された5編のうち、あまりピリッと来るものはなかった。
解説によると、アヴァダーナとジャータカは混合されることもあるらしい。
とはいえ、どちらも現存する全作品を読んだわけではないから、
アヴァダーナよりもジャータカのほうがおもしろいと断言するつもりはない。
アヴァダーナはそれなりに起伏のある物語が進行していき、
途中、あるいは結末部分で業の思想が説かれる。
ブッダにほめられるような聖人になったやつは過去世でいいことをしたから。
罰を受けたかのごとく不幸になったやつは過去世で悪いことをしたから。

なんちゅうか、その、ふてくされてウン十年浮世を見てきたものの述懐だが、
カルマ(業)の思想というのは最強なんじゃなかろうか。
いまでも十分に(信じさえすれば←これが難しいのよ)通用するような気がする。
落ちぶれたおっさんになると何度も年下の成功者を目にしなきゃいけないわけ。
あれら輝いている人たちがみんな自分よりもがんばったとはちょっと思えない。
成功者の二世とかもいるわけだから。
こういうときに、あれは業なんだ。
あいつらは過去世で善業を積んだんだと思うと(自分を騙すと)あきらめがつく。
一方で、本当にたいへんな人に比べたらぜんぜん大したことはないのだけれど、
それなりに生きてきて辛いこともあったわけ。きっとこれからも苦しむはず。
そういうときは、これは自分の過去世の悪業の結果なんだと思うとあきらめがつく。
まあ、ていよく自分をごまかしているわけだけれど、いけませんか?

うん、業の思想は、嫉妬深いおいらにとても役立つ。
難解なインド哲学をお勉強している人は立派だと認めますが(パチパチ♪)、
人生で負けが込んでくると使えない思想(考え方)はもうどうでもいいのね。
この点、仏教の平明な業の思想には心底から慰められる。
かといって、さすがにこっちも鬼じゃないから、
実際に不幸に苦しんでいる知り合いに「それはあんたの業だ」とか言わないよ。
創価学会員じゃないんだから(笑)。
あくまでも業の考え方を適用するのは自分だけ。

年若くして出世したものを目にしたときは、どう考えればいいのか。
過去にならおう。
原始仏教集団でも、ブッダから認められた弟子(出世頭!)がいた一方で、
まったく歯牙(しが)にもかけられなかった落ちこぼれも絶対にいたのである。
比丘(びく=男性出家者)のなかでジュヨーティシカというやつが出世したらしい。
ほかのものが嫉妬したら面倒だからブッダは以下のように説明する。

「比丘たちよ、ジュヨーティシカは前世において行為をなし積み重ねて、
悟りを開くための材料を得、悟りの原因は十分にそなわったので、
ちょうど、洪水の〔止めることが出来ぬ〕ように、
必ずブッダに仕えることになったのだ。
ジュヨーティシカによってなされ積み重ねられた行為〔の結果〕を、
だれか、別の人が受けることが出来よう」(P292)


いまは安手の成功哲学本や自己啓発書ばかり出版されているけれど、
人生で勝てるのなんて1%もいないんだから、
本当はだれか負け方を教えなきゃいけないのに、どこにも書かれていないような……。
勝つまでやれ! 成功するまで挑戦したら失敗はない!
こんなきちがいめいたファイトを燃やすより、しっかり負けを認めましょうよ。
このとき使えるのが業の思想だ。
例外的な成功者はきっと七生まえくらいの過去世から善業を積んでいるのだから、
われわれ凡人がいまからいくらがんばったって無理なものは無理。
レアな不幸に遭遇して地獄の苦しみに煮られているようなときは、
これもまた自分の過去世の業なんだと考えて(=騙して=ごまかして)あきらめよう。

「まことに業は永久にのこり、永久にはたらいているのです。
業が熟した時、その業は現われるのです。
業が熟したればこそ、私の頭上に輪は燃え輝き、
私の生命をほろぼすのです」(P318)


ここで重要なのは、これは前世の業の結果だなどと短絡的に考えないこと。
われわれは「五千回の生れかわり」(P296)の間のどこかで、
行為の結果を報いとして受けるのである。
宮本輝氏の小説のタイトルではないが、われわれは「五千回の生死」を繰り返しているのだ。
いまもしかしたら三千回まえの生における悪業の報いを受けているのかもしれない。
だから、宮本輝氏のご子息二人とわたしは同世代だが、
どうしてあの人たちばかり恵まれているのだろう、なんて嫉妬はしない(ほんとだって)。
宮本輝氏のご令息は「五千回の生死」のどこかで、偉大な善業を行なったのだろう。
わたしは鎌倉時代に日蓮大聖人に石をぶつけたのかもしれない。
もしくは人間ではなく猿で、大聖人さまのおにぎりでも横取りしたのだろうか。
いまの禍福、苦楽は断じて前世のみの結果ではない。
「五千回の生死」の報いがいま結果として現われているのである。
ちなみに以下引用文中の「百劫」は「五千回の生死」よりもはるかに長い時間である。

「百劫を経ても行為〔の結果〕は消えることなく
機縁を得、時がくると肉身あるものに実を結ぶ」(P323)


いま不幸に苦しんでいる人は、業の思想には希望がないといわれるかもしれないが、
それはちょっと早合点しすぎだぞ。だって「五千回の生死」があるんだから。
917回まえくらいの生でもしかしたら善業を積んでいるかもしれないじゃない。
そのとき蜂(はち)で悪いカマキリから団子虫を助けたのだって立派な善業なわけ。
それがいまの生でたまたま機縁が熟して、いい結果が出ちゃうかもしれない(笑)。
これが一見救いのないように見える業の思想である。
「五千回の生死」があるんだから、そんなに現世でガツガツしなくてもよくなってきませんか?
現世で善業を積むのはいいけれど、報われるのは百生後かもしれないから気楽にいこうぜ。
だから、以下のブッダ(世尊)さんの言葉もあんまり真面目に受けとめないこと。

「何となれば、比丘たちよ、完全に黒い所行の結果は黒く、
完全に白い所行の結果は完全に白く、雑色のそれは雑色となるのだ。
それ故に比丘たちよ、完全に黒い所行や雑色のそれを避けて、
完全に白い所行のみを行なうようにつとめなければならぬ、と学ぶべきなのである。
世尊がこう言われると比丘たちはこの言葉に満足し歓喜しました」(P296)


1.黒い業→「五千回の生死」→黒い報い
2.白い業→「五千回の生死」→白い報い
3.雑色の業→「五千回の生死」→雑色の報い
黒と白が入り混じっているから「五千回の生死」は、
遠くから見たらきっとパンダみたいに愛らしいんだろうね♪