「長老の詩(テーラ・ガーター)」(早島鏡正訳/「原始仏典」筑摩書房)

→仏弟子の言葉を集めたもの。
ブッダ没後の弟子の言葉も少数ながら収録されているが、大半は直弟子とのこと。
本書を読むと、仏弟子の悟りは似ているが、また人それぞれでもあるのである。
これはどういうことか。
おそらく、悟りというのは究極を突き詰めれば人それぞれなのだろう。
考えてみれば、それまで送ってきた人生が違うのだから、
Aという人とBという人の行き着いた結論が異なるのは自然である。

いったい悟るとは、どういうことなのか。仏教がわかるとは、どういうことなのか。
大学院でサンスクリット語やパーリ語を勉強して、お偉い教授先生の顔色をうかがいながら、
だれも読まないような重箱の隅をツンツンする博士論文を書けば
仏教を理解したことになるのか。そう思っている人がいることをどうこう言うつもりはない。
しかし、サンスクリット語やパーリ語を読めないものは仏教を理解していないとまで
言われたら、いや、それはそうとも言い切れないのではないか、と反論したくなる。
わたしの考えでは、サンスクリット語もパーリ語も仏教理解とは関係ないと思う。
仏教学が専門の大学教授がかならずしもよく仏教をわかっているとは思えない。
問題は、彼自身がレアな難病にかかったときである。
もしくは彼の子どもが交通事故で死んでしまったときにどうするかだ。
こういう実人生における苦しみの試練に遭遇したとき、どういう対応を取るかだ。
果たしてサンスクリット語の権威は、おのれの生々しい苦しみや痛みを、
彼がふだん教室で鼻高々に披露しているような
四諦や十二因縁の教えで御すことができるのか。
いったい実人生における苦悩や激痛に対して、博士論文や学術論文は有効なのだろうか。

仏教を教わることは可能だろうが、最終的には自分で気づくしかない。
いくら正しい仏教を教わっても本当は大した意味がなく、
本人が自分の一回きりの人生で苦しみと格闘することで得た知見こそ価値がある。
若僧が大仰な物言いをするのをお許しいただければ、
苦しんでいないやつには仏教はわからないのだ。
たしかに難解なサンスクリット語を勉強するのは一種の苦しみだろうが、
そんなものをはるかに凌駕(りょうが)する苦しみに人生は満ちているのである。
たとえば、ある青年がお偉いお坊さんから仏教は業を重んじていると教えられたとする。
へえへえ、そうなのか、とあたまで考えてもほとんど意味がない。
彼が中年になって不幸にも難病にかかり、毎日が激痛の連続だとする。
数年まえに妻とも別れてしまい、たったひとりという孤独で難病と向き合わなければならない。
もし彼が仏教を理解するとしたら、このときをおいてほかにない。
病気の苦しみというものは、当然だがいまから2千年まえにもあったのである。
当時、もっとも嫌われていた、らい病(ハンセン病)にかかった仏弟子がいる。
彼はどういう悟りを得たのか。

「81 その昔、他のいくたの生存において、わたしのなした悪〔業の果報〕を、
わたしはこの世において感受すべきである。
〔しかしながら、次の〕他の〔生存を引き起こす〕根拠は、
もはや〔わたしに〕存在しない」(P178)


要は、苦しみのただなかでこれがおのれの業であると信じられるかどうかだ。
難病を自分の業の結果、すなわち業病と思えるかどうかが問題なのである。
難病にかかってから医者にぐちぐち不満を言うような患者は、
たとえ仏教学専門の大学教授でも、からきし仏教を理解していないと言わざるをえない。
どういうことかと言うと仏教は知識ではなく、信心の問題なのだ。
いざというときに信を取れるかどうかが仏教の要諦で、知識はそれほど問題ではない。
むしろ、知識など慢心(おれは偉い!)の原因になるだけの悪徳なのかもしれない。

らい病の男はどのようにして悟りにいたったのか、
他の仏弟子の信仰告白を参考にしながら見ていきたい。
偉そうな物言いをすれば、いまなにに苦しんでいるかをたずねたら、
彼(女)の信仰のレベルがわかると言ってもいいのかもしれない。
なぜ人は苦しむのか。なぜ地獄のような苦しみがあるのか。

「1112 けだし、欲望は種々であり、甘く美しく、無知の凡人どもは、それに縛られる。
かれら再生を求める人々は、苦しみを〔もたらす欲望を〕欲して、
〔みずからの〕心に導かれ、地獄に投げ込まれる」(P237)


欲望するから苦しまなければならない。
元気に無痛で歩き回りたいという欲望がかなえられないから病気は苦しみなのだ。
自分の子どもが健康で生きていてほしいと願う欲望がかなわないから
苦しまなければならない。いったいこの苦しみの正体はなんなのか。

「422 〔この道は〕業を業だと知り、また〔業の〕報いを報いだと〔知って〕、
縁によって生起した諸事象をありのままに観見し、大いなる安穏の境地に行き、
寂静(じゃくじょう)をえ、究極の善に至らせる」(P201)


苦しみは、業の報いなのである。
言い換えると、苦しみとは、業が「縁によって生起した」結果なのである。
ならば、この苦しみはどこから来たのだろうか。
苦しみは業(行為)だというが、なんの行為がいけなかったのか。

「786 あたかも盗賊が盗みを働いている最中に捕えられ、
自身の行為によって、悪者として処罰されるように、そのように、
人々は死後、他の世界において、
自身の行為によって、悪者として処罰される」(P221)


いまの苦しみは、過去世の悪者としての行為の罰であるということだ。
ならば、救いはどこにあるのか。

「493 およそ、輪廻の存続する限り、無限の苦しみがある。
この身体の破壊と生命の壊滅によって、もはや、わたしに他の再生はない。
わたしは、あらゆるものから解脱しているからである」(P205)


いままでのプロセスを整理してみる。
「業→因縁→欲望=苦しみ=行為(悪業)→死」となる。
輪廻転生で、死んだあとも人は再生するため、ふたつ並べると以下のようになる。
正しくは、これが永遠に続くと思ってください。

「業→因縁→欲望=苦しみ=行為(悪業)→死→再生→業→因縁→欲望=苦しみ=行為(悪業)→死」

一回きりの人生で言えば、「業→因縁→欲望=苦しみ=行為(悪業)→死」である。
このプロセスのうち、われわれの自由になる部分が一箇所あるではないか。

「254 わたしは、あらゆる欲望を捨て、あらゆる生存を破り、
生〔死〕輪廻を断じつくした。
いまや再〔輪廻の〕生存〔をうけること〕はない」(P191)


欲望をゼロ(0)にしたらいいのである。
実際にさっきの簡略図にゼロを投入してみようではないか。
「業→因縁→欲望(ゼロ)=苦しみ=行為(悪業)→死→再生」
結果は、どうなるか。
業=ゼロ、因縁=ゼロ、苦しみ=ゼロ、悪業=ゼロ、死=ゼロ、再生=ゼロ!

ところが、以上のことをあたまで理解しても苦しみは消えないと思われる。
それほどに欲望を消滅させるのは難しい。
周囲が現世の幸福や成功を目指してあくせくしているときに、
自分ひとりだけ無欲になるのは99.99%不可能と言い切ってよいのではないか。
やはりどうしようもなく原始仏教の教えで悟りを得たいならば出家するしかないのだ。
周囲がみんな無欲だったら、われわれももしかしたら無欲になれるかもしれない。
集団で行動していれば、集団催眠(=共同幻想=洗脳)のような状態が発生しやすく、
業が深い(=欲望が強い)人間もおのれの生存から離れることができるかもしれない。

ここからはわたしのとっぴな妄想だが、欲望をなくすには死が手っ取り早いのではないか。
というのも、死んでしまえば欲望がなくなるでしょう。
そもそも生存欲というのは、人間にとってもっとも厄介な欲望なのだから。
この欲望を消せる人、つまり自殺をできる人が、本当の悟りを得たものではないのか。
自殺者は軽蔑されたりあわれまれたりすることも多いが、
実のところ自殺者を批判する欲深い人たちよりもよほど聖人に近いとは思えないだろうか。
仏教の「寂滅為楽(じゃくめついらく)」は「死ねば楽になれる」という意味ではないか。
ちなみに、インドから遠く離れた日本でも似たようなことを言っている坊さんがいて、
踊り念仏で知られる時宗の一遍上人は「とく死なんこそ本意なれ」という名言を遺している。
「とく死なんこそ本意なれ」とは、早く死ぬのがわが本望だという意味である。
法然、親鸞が出た後の最後の念仏者・一遍の教えは、
もしかしたら原始仏教に近いのかもしれない。