「“せんべろ”探偵が行く」(中島らも+小堀純/文藝春秋)

→居酒屋エッセイ。
「うちは大学教授もお忍びで来るんです」なんていう大衆居酒屋は大嫌いだ。
「せんべろ」(千円でべろべろになれる)の飲み屋がいちばんいいではないか。
もっとも中島らもとおなじで日本酒4合程度では泥酔しないわたしには、
「せんべろ」の居酒屋など日本には存在しないのだが(中国ならあります)。
上野の立ち飲み屋「たきおか」が長らくいちばん好きな居酒屋だったけれど、
そういえば経済上の理由でここ数年行った記憶はない。
激安チェーン店「一休」も好きなのだが、まあ、わたしの話はどうでもいい。

中島らもの話をしよう。酒の話をしようではないか。
酒を飲むとなにがいいのかといったら、アホになれることである。
「せんべろ」に行くような客はもともとアホなのだろうが(その発言やばいっす!)、
もっとアホになりたいから安酒をべろべろになるほど飲むのだ。
もとからあたまのいい中島らものような人は
(朝日新聞からも気に入られた売れっ子作家!)
われわれとは異なりアホへの憧憬が尋常ではなかったのではないか。
このため、酒、クスリ、大麻と依存の大道を爆走なさったようだ。

中島らもはアホを目指すうちに最後のほうでは本当のアホになっていたようである。
本書によると晩年、大麻で捕まったときの判決まえの動揺といったらなかったという。
昼日中に一流ホテルの喫茶ラウンジで、
いきなりカバンからバーボンの瓶を取り出しラッパ飲みしたそうである。
もちろん、即座にボーイから注意された。
作家の無頼自慢なんて、どれもこれもしょせんは嘘八百で毎回がっかりさせられるのだが、
こういう証言があるとえらく嬉しくなる。

アホぶった秀才作家のなんと多いことか。頼りないことか。
生まれは金持のぼんぼんなのにアホになりたいと酒やクスリを大量摂取した中島らもは、
晩年に長年夢見ていたほんまもんのアホになることができたのである。
いかに酒が偉大であるかわかるだろう。
中島らものような、お坊ちゃん秀才モテモテ作家を、ただのアホにしよったのやから。
アホの中島らもの酒の見方にはまったく同意する。

「だいたいおれは酒の味がどうの風情がどうのということで飲み始めたのではなく、
ただただ早く酔っ払いたい自失したいために飲み始めたのだ」(P240)


もちろん人気作家の常飲していたのは安酒ではなく、どこぞの高級地酒なのだが、
こういう矛盾することを同一の書に記しているのだからやはり愛すべきアホである。
アホになるとは、なんだってよくなるということではないかと思う。
なんだってよろしい。
浮気してもいいし、不倫してもいいし、本気になってもいいし、大麻を吸ってもいい。
恋愛しなくても結婚しなくても子作りしなくても労働しなくても納税しなくても、いい。
なんだっていいのだから、生きても死んでも構わない。ぜんぜんOK! ぜんぶOK!
なんだってよろしいのだから、大学教授も社長さんもワープアも無職もニートもみな同身分。
しつこいようだが、どうしたらアホになれるのか。なにをしたら、なんだってよくなるのか。
――酒を飲むにかぎる。中島らもを見よ!

「今夜もひとり居酒屋」(池内紀/中公新書)

→浮世離れした学者先生の居酒屋論にうんざりしたこちらはきっと学がないのでしょうね。
以下のようにお偉い先生に具申したら無粋になるのでしょうけれど――。
「居酒屋のお通しはただじゃありませんぜ」(P56)
「おでんは居酒屋常備のつまみってだれが決めたんですか」(P63)
「庶民にはなじみ深いごぼうの唐揚げごときに感動なさるなんて、まあ」(P100)
とまあ、いろいろ先生に申し上げたいことはありますが、
結局これは著者の影響下の発言になってしまいます。
なぜかドイツ文学者の著者は「正しい」ことを言おう言おうとしているように見えます。
ゲスなことを言いますと、
学者先生の定義する「正しい」居酒屋はあんまり居心地がよろしくなさそうで。
さらに、であります。はてまあ、居酒屋や寿司屋での「正しい」作法を
自分は知っていると思い上がるのはいかがなものですかな。
「正しい」(かりにあるとして)飲み方、食べ方をしなくたっていいじゃないですか。
半可通だってお金を払った本人が楽しかったら構わないではありませんか。
そもそも飲むのも食うのも、人間にとって相当お下劣な行為だと思う。
これが「正しい」などと定義された作法に従うのなら、ちっとも楽しくないと思いますが。
本書を「正しく」読解できなかったようで、どうもすんません。

(追記)この記事は昨日酔っ払って書きましたが(恥ずかしくてすぐ消した)、
今日読み返してみるとおれってほんとコンプレックス過剰で偏狭、意固地、
インテリぶったやつを見かけたら石でもうんこでも投げつけたいっていう最低のやつですね。

「避暑地の猫」(宮本輝/講談社文庫) *再読

→宮本輝は仏教者である。類いまれな天才仏教文学者である。
仏教には大乗仏教と小乗仏教があるが、天才はどちらの資質も併せ持つ。
大乗仏教というのは、要するに欲望を肯定した宗教である。
宮本輝は徹底的に人間の欲望を肯定する。

「邪淫ほど甘いものが、この世にあろうか」(P43)

「私、お金持ちになりたいわ。
口じゃなくてお金で、何もかも食べてやりたいわ」(P73)

「私は復讐してやる」(P195)


大半の人間は邪淫を味わえない。金持になれない。復讐もできない。
このため、邪淫、金持、復讐を描いた「避暑地の猫」は、
多くの読者から支持されたのである。
これはまさしく大勢の人間を救おうとした大乗仏教精神の発現といってよい。
たぶん、作家は邪淫を経験できなかったことから小説を書いている。
さらに、仏教徒でもある著者が復讐を敢行できたとは思えない。
しかし、お金持になることはできたようである。
大乗仏教の信者ならば、裕福は恥ずべきことではない。
宮本輝の恐ろしいところは小乗仏教的な感覚も持っていたところである。
創価学会員の作家は、小乗仏教の教えを虚無と同一視した。
小乗仏教は「生きることを捨てた」思想と宮本輝は思っていたようだ。

「志津の表情には、自分の母を死に至らしめたぼくへの憎しみが、
ひとかけらもなかった。何かを悟りきった、別の言い方をすれば、
生きることを捨てた人特有の、どこかあっけらかんとしていて、
なおかつある種の粘着力を感じさせる光を、
その垂れ目気味の丸い目にたたえていたのだった。
そして、生きることを捨てたという表現を使うならば、
ぼくとて同じだったのだ」(P146)


この「生きることを捨てた」粘っこい目に引かれてわたしは宮本輝を愛読した。
作者の粘着力のある視線があるため初期小説の「避暑地の猫」はとてもよかった。
だが、どうやら成功を重ねた小説家は後年、小乗仏教精神を完全に捨て去ったようである。
これは断じて善悪や正邪で審判されるべきものではないと強調したいが、
たまたま菩提心のないわたしは宮本輝の過剰な大乗仏教精神に拒否反応を示した。
過剰な大乗仏教精神とは、端的に言えば説教臭いということ。
とはいえ、説教されるのを快く感じる読者もいよう。人それぞれだ。
要はそれだけのことで、だれが正しいわけでも間違っているわけでもないのだろう。
いまでもわたしは「邪淫を味わいたい」し「金持になりたい」し「復讐したい」けれども、
同時に「生きることを捨てた」どうにでもなりやがれという、
投げやりな底知れぬ虚無を有し、自堕落で退廃的な精神もまた失っていないのである。
できましたら、こちらも善悪や正誤で裁いてほしくありません。

「夢見通りの人々」(宮本輝/新潮文庫) *再読

→たいがいの作家なんてものは生涯にひとつふたつ名作を書ければいいものだが、
「錦繍」「青が散る」「優駿」「幻の光」、
そしてこの「夢見通りの人々」という大傑作を書き上げた宮本輝には恐れ入る。
このオムニバス短編小説集は、現代版「日本霊異記」であり、簡易版「法華経」である。
なにより偉大なのは、日本霊異記や法華経よりもはるかにおもしろく、
しかし同時にわかりやすくそのエッセンスを伝えているところである。
ウソばかりの小説である。
設定された商店街も実在しないウソだし、登場人物もウソばかりつく。
人はどうしてウソをつくのだろう。なぜウソを好むのだろう。
いったいなにゆえ宮本輝はこうもウソがうまいのであろうか。
ヒントになるのは、これまた日本霊異記や法華経である。
どちらもフィクションだが書き手は唯一絶対の真実を書いているつもりなのである。

宗教史は、人がウソに救われてきた歴史と言えるのではないかと思う。
ウソをほんとうだと信じるとき人間にある種の救いがもたらされるのだろう。
考えは人それぞれだが、わたしはあらゆる宗教はフィクション(=ウソ)だと思っている。
人生という現実にどれだけ痛めつけられようが、ウソがあれば人は生きていける。
繰り返すが、すべての宗教はフィクションだという考えをわたしは支持する。
もしそうであるならば、創価学会の宮本輝は、
日蓮の仏法(=ウソ)を唯一絶対の真実だと信じていることになる。
このとき宮本輝の書く小説(=ウソ)は果たしてなんになるのだろうか。
ウソをほんとうだと信じる人のつくウソ(小説)はほんとうになるのではあるまいか。
というのも、ほかならぬわたしがこのウソだらけの小説「夢見通りの人々」から
強い真実性を感じたがためである。

この小説に竜一という獣(けだもの)めいた性欲の持ち主が登場する。
あるいは大乗仏教の思想家である龍樹あたりをモデルにしたのかもしれない。
竜一の祖父も、「頭のてっぺんから足の爪先(つまさき)まで、
ぜーんぶ、おちんちんや」と女から言われるほど淫欲が激しく、
昼日中でも催(もよお)すと嫌がる妻を押し倒し事に及んだという。
ところが、その息子は結婚後に妻が次男を産み早世すると不能になってしまう。
子どものころに父親が嫌がる母親を力尽くで犯しているところを盗み見た。
この記憶がよみがえって欲望はあるのに女体を抱けなくなってしまったと物語られる。
さて、その息子の竜一が祖父ゆずりの精力絶倫である。
竜一のなじみにしている淫売(いんばい)の明美は昼はふつうの会社に勤めている。
どうしてか金の関係に過ぎぬのに竜一と明美はお互い惹かれあっている。
ある晩、情事のあと明美がこんなお話をするのである。
自分の母親は、父親が会社に行っている留守に、何人もの男を引っ張り込んでいた。
小学生だった私はそれを盗み見たことがある。
いま私がこんな娼婦めいたことをしているのはお金のためではないと最近わかった。

「死ぬほど嫌いやったお母ちゃんと私とは、おんなじ人間やったんや。
あんたがそれを教えてくれるねん」(P108)


似た宿命の持ち主が惹かれあっていたのである。
どうしようもなくある男とある女は宿命によって出逢ってしまう。
親と子が持って生まれたもので通じているならば、男と女もそうなのではないか。
おのれの宿命の断片を知った明美は竜一に言う。

「私、あんたのおもちゃになってあげるし、
あんたのお母ちゃんにもなってあげるわ」(P108)


3歳のときに母を亡くした竜一は、
明美に自分のなにかを見られたような気がして不快である。
おまえになにがわかるもんか、とも思う。

「男はどいつもええ女とやりたいわい。
なんぼ上品ぶってても、胎(はら)の底はおんなじや。
ただ俺は普通よりもちょっとだけ精が強いんや。
それはしょうがない。生まれつきや」
「私、生まれつきいうのは、人のせいとは違うと思うわ。
それも、あんたに教えてもろたんよ」(P109)


ウソ八百の小説のひとコマなのだが、どうしてかとてもほんとうっぽいのである。
祖父母と両親の顔を思い浮かべ、
さらにこれまで自分が出逢い別れてきた男女を思うとき、
この竜一と明美のようなことが実際に起こっているのではないか、という気がするのだ。
これはそれぞれがおのおのの来歴を凝視するしかないのだが……。
相当程度に持って生まれたものが人生を決めているのではなかろうか。
両親の持って生まれたものと自分のそれは強く結びついている。
ということは、両親と祖父母にも持って生まれたものの類似がかならず見られる。
このため、三代に渡って因果がめぐるようなことが実際にあるのではないか。
いまいち関係ないかもしれないが、
「目は一代、耳は二代、舌は三代」なんてことも言われているでしょう。
三代を経て結実するような因果や宿命もまたあるような気がするのである。
少なくとも、わたしの実人生を見るかぎり存在するとしか言いようがない。
この持って生まれたもの=宿命を宮本輝以上にうまく描く作家はいないのではないか。
宮本輝の創る因縁話はウソなのに、なぜかとてもほんとうらしいのである。

別の章では顔に痣(あざ)があるスナックのママが登場する。
ちなみに、女性の顔の痣を描いた先行作品に井上靖「霧の道」がある。
むろん、パクリなどという低俗なものではなく、尊敬するがゆえのオマージュであろう。
井上靖もまた人間の持って生まれたものに鋭い視線を向けた作家であった。
さて、宮本輝はスナック経営者の因業なママを次のように描写するのである。
生まれたときから顔に痣がある不幸な40歳の女性は奈津という。

「彼女が水商売に入ったのは二十歳のときで、
最初はキタ新地の二流のクラブに勤めた。
彼女の持って生まれた不幸は、ある部分を必要以上に磨(みが)く結果となった。
機知と、人情の機微に通じるということを、知らぬまに身にそなわせたのである。
そして同時に、その二つの美徳を十全に発揮させなかったのも、
持って生まれた不幸によってであった。
痣を隠す特殊な化粧は、奈津を一種の異相の持ち主にしたので、
彼女の真の優しさを伝えるためには、自然な機知に、
余分な演技とか言葉をつけくわえなければならなかった。
それがしばしば機知をずるさに、人情の機微をお節介にと、
取られる結果となった」(P205)


いったい宮本輝はどのような過程を経て、このような宿命観を獲得したのだろう。
井上靖のほかに宮本輝に強い影響を与えた人物がもうひとりいる。
あの男が小説家の宿命思想になにか関係しているのだろうか。
その男とは創価学会名誉会長の池田大作である。
もしや池田大作から宮本輝は宿命を学んだのではないか。
以下はまるで池田大作の持って生まれたものを描写しているようで驚く。

「そのうち奈津は、人格も風貌も立派なその男の、
奇妙な感情の振幅に気づき始めた。
揺らぎようのない自信の底に、理解しがたい不安の翳(かげ)を見、
負ける筈(はず)のない相手への病的とも言える嫉妬に驚き、
何をこれ以上とあきれるほどの
社会的自己顕示欲や名誉心の強さに首をひねった」(P206)


「その男」とは池田大作のことではないか――。
さて、宮本輝は持って生まれたものに強くこだわるが、
これだけが人生を決めるとは思っていない。
持って生まれたものはたしかに大きいが、人生はそれだけではない。
こういう説教をするのは最近の宮本輝の小説ならば、かならず年老いた成功者である。
人生に勝利した年寄りが、
こいつはいったいなにさまなんだと思うくらい偉そうにふんぞり返って、
おごり高ぶり上から目線の極地といったかたちで長々と説教してくる。
ところが、「夢見通りの人々」を書いたとき宮本輝は39歳であった。
「夢見通りの人々」で金言を述べるのはペテン師なのである。
競馬予想の詐欺で食っているいかさま師の男が教えを垂れるのがおもしろい。
本来、新興宗教の教祖なんていうものはみな天才的詐欺師のようなものなのだ。
にもかかわらず、ではなく、このために人は騙され救われるのである。
40にも達していない宮本輝がこの時期、健全な宗教感覚を持っていたことに驚く。
いんちき競馬予想で多くの人を騙して大儲けしている、
まるでどこぞの名誉会長のような人が、なかなかいいことを言うのだから。
「過去は未来ではない」――。

「競馬場に限らず、賭博場というところは、どんなに理性的な人間をも、
神秘的なものに目をくらませる魔力が渦巻いとるんだよ。
過去の結果を突きつけられて、それがそのまま未来の結果につながるという、
じつに人間的な錯覚におちいる。
だが、過去は未来ではない。未来の予兆を孕(はら)んでいるが、
それはあらゆる縁によって変わって行くんだよ」(P139)


「過去は未来ではない」

これは名言だと思うのね。過去は未来ではない。
人間にとって持って生まれたものは大きいが、それでも過去は未来ではない。
しつこいほどに繰り返すが、過去は未来ではない。
これは宮本輝の所属する創価学会をも否定せざるを得ない金言ではないだろうか。
過去に宮本輝という人が創価学会に入って成功したからといって、
未来にあなたがおなじような果報を得られるとはかぎらない。
いくら多くの学会員さんが過去に金持や有名になっていようが病気を治していようが、
「過去は未来ではない」のであなたの未来がそうなるとは言えまへんがな。

わたしは読書しながらメモを取る癖があります。
この小説は本来再読するつもりはなかったのだが、「幻の光」を読んで感涙して、
思わず酒をのみはじめてしまったので、
ならばもうかたい読書はできないということで読み始めたのだった。
読みながらわんわん泣いて、「すごい、すごい」と何度もひとりごちたのでした。
メモには乱れた字で、でかでかとこう書いてある。
「日本でいちばん偉いのは宮本輝」――。
血縁者にひとりでも以下のようなことを言う人がいたら、
たぶんあなたは宮本輝の作品に向いているでしょう。
なぜなら、持って生まれたものが似通っているからであります。

「お父ちゃんはなァ、金が一番大切やと思うてるでェ。
愛やの心やの言うても、金がなかったら何にも出来ん。
金があったうえでの心や。金があったうえでの健康や。
誰に何と言われようが、これがお父ちゃんの本心や」(P77)


よしんばこの文句に息子が反抗しようが、孫は祖父に同意するだろう。
宮本輝が名作「夢見通りの人々」で描いたのは、人間のこのような宿命である。
人間の持って生まれたものを実におもしろくわかりやすく天才小説家は描写した。

「星々の悲しみ」(宮本輝/文春文庫) *再読

→宮本輝の初期短編小説集を読んで思ったことをつらつらしたためる。
宮本輝は井上靖から「さみしさ」を継承しているといえよう。
以下の引用部分など、いかにも井上靖の小説のようである。
浪人生の「ぼく」は星が見たくなり望遠鏡を持つ高校の同窓、勇のところへ行く。

「ぼくは時間も忘れて、望遠鏡にしがみついた。
「さびしいもんやなァ」
ぼくは心からそう感じて呟いた。
「うん、さびしいもんやろ」
勇も同じように呟いて、それきり黙ってしまった」(P47)


しかし、宮本輝は孤独=「さみしさ」を克服するのである。
なんによってか。新興宗教の仲間との連帯からである。
宮本輝の小説は、異常なほど人と人との距離が近い。
いきなりおなじアパートの住人がシュウマイを土産にやってくるのだから。
訪問のみならずズカズカと上がりこんでくる。
これは創価学会の流儀で、戸別訪問や家庭訪問といわれている。
むかしだから人と人との距離が近かったわけではないのである。
宮本輝の描くのは学会員さんで、われわれとは少し頭の回路が異なるのである。

「俺、何をやっても、あいつには勝たれへんような気がしてたけど、
やっぱりそうやったなァ」(P55)


登場人物がいちいち勝ち負けにこだわるのも創価学会の教義と関係している。
宮本輝の小説を読んで感心するのは、どんなときでも金銭をないがしろにしないところだ。
かならずなにをして食べているか異常なまでの執念をもって書き込んでいる。
人になにかを頼むときは絶対といってよいほど金品を差し出すのもおもしろい。
人は金品以外ではなかなか動いてくれぬことを宮本輝は腹の底から知っているのだ。
実際、金がなかったらお話にならないのだから当たり前である。
登場人物が金に執着を見せぬ村上春樹の小説など宮本輝は断じて認めないだろう。
人間は金のために生きるのかもしれない。
金は稼ぐほかに盗むという手もある。
どうしてこんなに宮本輝の小説に窃盗の主題が頻出するのかわからなかったが、
本書を読んであれは前世での借りのイメージになっているのではないかと気づく。
相手から金を盗んだらそれは借りとなるではないか。
宮本輝の信仰に従うならば、現世で不幸なのは前世で借りを作ったからである。
このため現世における貸借の象徴として窃盗行為がたびたび描かれるのかもしれない。
個人的な感想だが、手癖が悪いやつにはかなわないという思いがある。
わたしは育ちが関係しているのか、どうしても盗むことができない。
人のものを平気で盗む宮本輝の世界の住人には生命力でかなわないと思ってしまう。

初期作品ながら早くも創価学会の比喩として病院が取り上げられている。
井上靖から継承した「さみしさ」を創価学会で克服したのが宮本輝である。
結核で入院した寺井は、おなじ病室の戦友ともいうべき患者を見て思う。

「朝食が配られて、みんな思い思いの方向に体を向けて丸椅子に坐り、
無言で食パンを頬張り始めた。二年間、寺井は毎朝、
この味気ないぱさぱさのパンを銀紙に包まれた小さなマーガリンで塗りたくり、
冷たい牛乳で無理矢理飲み下してきたのであった。
高嶋さんは八年間も、二階のおばちゃんは十年間も。そう思った瞬間、
寺井は、いったいこの人たちは誰であろうかという思いにかられた。
自分にとって、金さんやケンちゃんや、ヒデさんやトウホクさんは、
いったいどんな意味を持つ人間なのであろうか。病気にさえならなければ、
決して知り合うこともなかった縁もゆかりもない他人ではあったが、
そのときの寺井には、それが単なる偶然であるとは思えなかったのだった。
同じ病院の一室で、長い辛い日々を暮らすはめになることを、
もうとうから約束しあっていた、深い間柄の人たちに思えて仕方がなかった」(P216)


これは創価学会でいうところの宿命転換が起こった瞬間なのかもしれない。
前世からの因縁があると信じられる仲間たちを得たときの感動はどれほどか。
宮本輝の「蛍川」が芥川賞の候補作になったとき、
関西の創価学会は一丸となって同志の受賞を祈願するお題目を送ったという。
そんな仲間がいてくれたらば、ともに闘ってくれたら、
どんな不幸な境涯にいようが苦しかろうが人生に勝利できるのではあるまいか。
孤独などよりも美しい連帯を書きたいと宮本輝はエッセイで語っている。
しかし、創価学会に入らないと、そのような仲間はめったに得られないのである。
経験したことがあるが、学会員さんは仲間以外にかなり厳しいところがある。
連帯どころか村八分を仕掛けてくるのが学会員さんともいいうる。
とはいえ、創価学会になじめたらこんな幸福なことはないのである。

わたしは宮本輝が好きで好きで、氏の愛読したという小説を片端から読んだ。
最後に創価学会まで行き着き、どうしても入っていけない世界を感じてしまった。
しかし、いま仏教に興味を持っているのもすべて宮本輝の影響である。
わたしは宮本輝にとって、ブッダに反逆したダイバダッタのような存在なのかもしれない。
もしかしたらダイバダッタはだれよりもブッダを愛していたのかもしれない。
ほかのだれよりもブッダを理解していたから、
ダイバダッタはかつての師に反旗をひるがえすことができたのではないだろうか。
いや、いささか妄想が過ぎた。

「幻の光」(宮本輝/新潮文庫) *再読

→宇野千代が小説は話すように書いていると言っていたが、
宮本輝は「幻の光」をまさしく話すように書いている。
女が若くして自殺した亡夫に話しかけるという文体だ。
これはもう恐ろしい小説でありまして、読んでいて嗚咽(おえつ)がとまらず、
本書を読み終えて、なにやら濃いものを身体に入れたくなり、
禁じているまだ明るいうちからの酒に手を出してしまった。
ウイスキーを濃いロックでのむまで神経の昂(たか)ぶりは収まらなかった。
「幻の光」は現代の説経節と言いたいほどの迫力があるのだが、
説経節を知らないとこれがどれだけの賞賛なのかわからないかもしれない。
人間の悲しみと喜び、切なさと愛おしさを、見事に言葉に乗っけている。
われわれは小説を読むというが、
実のところは目で活字をいったん音声化して耳で聞いているのかもしれない。
それほど宮本輝の言葉は音楽のようにわれわれの耳に心に響いてくる。
人生にどうしようもない悲しみは尽きないが、
しかしわれわれ人間はその悲しみを哀切として謡(うた)いあげることができる。
悲しみはどうしようもなく悲しみだが、
心を込めて哀切として謡いあげきったならば、そのとき悲しみは希望になる。
人間の悲哀は希望に通じているということが「幻の光」を読むとよくわかる。
ならば、どうすれば人生の絶望が希望に転換するのか。
物語ることである。お話として絶望を語りきれば、その先にかならず光が見える。

人生で起こることはすべて偶然であると言えなくもない。
だが、人間はたまたまの偶然を主観で物語に仕立て上げることができるではないか。
「幻の光」で主人公「わたし」の祖母は、20年まえ突然失踪してしまう。
ちょうどおなじ時期に、のちに「わたし」の夫となる少年が引っ越してくる。
この夫が結婚後、小さな子どもがいるにもかかわらず自殺してしまう。
みなみな万事が偶然かもしれないのである。
しかし、「わたし」はこう物語る。繰り返すが、このお話に希望が芽生えるのである。
「わたし」は「あんた(自殺した亡夫)」に向かって話しかける。

「そして世にも不思議な消え方で、
この世から去って行ったお祖母ちゃんと入れ変るみたいにして、
あんたがわたしの前にあらわれたことに、
何かぞっとするような恐ろしさを感じてしまうのです」(P36)


あらゆる偶然は偶然ではなく、もしや宿命ではあるまいか。
すべての偶然が物語ろうと思えば宿命として観ずることができるのである。
「正しい」かどうかわからぬが偶然に過ぎぬ人生を宿命として観ずるとき、
拓(ひら)かれてくるものがあるのではないか。
たとえば、顔のそばかすのようなものからして宿命とは考えられないか。
宮本輝が「幻の光」でそばかすを宿命の象徴として描いているのはほぼ間違いないだろう。

「随分昔、まだ二人が二十歳になるかならんかのころ、
わたしの目の下にばらばらに散っているそばかすを見ながら、
あんたがあの独特の、
どこかほかのところを見つめてるような視線を注いでこう言うたことがある。
「ゆみちゃん、まだほかにも、ぎょうさんそばかす隠してるんのと違うかァ?」
それは子どものころから仲の良かったあんたが初めて口にした、
わたしへの何やら怪しげな言葉やった。わたしはその瞬間、
みぞおちのあたりをきゅうんとさせながら、
恥ずかしそうな振りをして笑い返したのやけど、
言葉の意味が判ってたつもりのわたしは、
何の理由もなしに自殺してしもたあんたのことを考えるたびに、
それは女の体のことやなかったと気づくようになった。
ほんとは煩(わずら)わしいてたまらんくせに、
あんたの指にあわせてるうちにその気になってくる自分の女の部分を、
まだ一緒になるまえから言い当てられてたんやと、わたしは思い込んでたのでした。
あのそばかすの意味も、考えれば考えるほどややこしいなって、わたしは、
あんたの自殺の理由が、ますます判らへんようになっていくんです」(P12)


「わたし」は大して魅力もないこぶつきの中年男と生活のために再婚する。
その男から尻(しり)にそばかすがあると指摘されるのは意味深い。
自分で知る宿命ばかりでなく、他人に教えられる宿命もあるのだろう。
いや、他人に教えられたそばかすが宿命であるかはわからない。
ただその新しく知ったそばかすを宿命と思えるかどうかで人生が変わるのだろう。
わたしは断固として宿命を認めずに滅び去ってゆく生き方もあっていいと思うが、
宮本輝は勝利や宿命転換といった荒々しい希望の物語に執着するのである。
しかし、初期作品の「幻の光」では、
滅び去る「あんた」に作者はかぎりない愛惜の念を寄せている。
自殺したものを罰が当たったと裁くような冷たさは「幻の光」にはない。
だから、いい。とてもいいのだ。

「胸の香り」(宮本輝/文春文庫) *再読

→宮本輝はどうしてこうもお話がうまいのだろう。
氏の信仰する創価学会自体のお話といったらたぶん大したことはないのである。
創価学会では末端で座談会という会合が開かれ、日夜体験談が発表されている。
あれらが創価学会のお話といってもよいだろう。
重い白内障でもう目が見えなくなると医者からはいわれていたんですが、
学会に入って身を入れて勤行したら失明せずに済みました。
ひどく貧乏で安酒ばかりのんでいましたが、騙されたと思ってお題目を毎日唱えていたら、
酒をのむ気がなくなり正社員登用されて、いま結婚を考えてる彼女がいます。
みなさん、聞いてください。先日学会をやめたAさん、いたでしょう。
Aさんの息子さん、交通事故に遭って、両足切断ですって。罰が当たったのね。
――まあ、創価学会のお話といったらこの程度なのである。
たしかにこの手の話は日本霊異記にも採録されているから普遍的ではあるのだろうが、
宮本輝の小説のようにおもしろくはない。
なぜなら、しょせんは善因善果、悪因悪果のねつ造に過ぎないからだ。

宮本輝のお話は単純な善因善果、悪因悪果ではない。
小説家の描く不思議なお話を要約したら以下の一文に象徴されるのではないか。

「それにしても、世のなかというものは、
なんと奇妙な因縁に満ちていることだろう」(P89)


宮本輝は「奇妙な因縁」を描くのが絶妙にうまいのである。
作家は宿命を描いているつもりなのだろう。
なぜなら、宿業は「奇妙な因縁」を契機として、その姿をわれわれのまえに現わすからだ。
宿命とはなにかわからなかったら、漢字に注目するといい。
宿命とは、命を宿すということだ。
子どもが生まれるときに、人は宿命の顕現を目の当たりにする。
赤子の誕生は運命ではなく、宿命なのだろう。
宿された命は時間とともに「奇妙な因縁」に導かれてその正体を現わす。
短編小説集「胸の香り」における「奇妙な因縁」は――。
なぜ愛人と別れ話をするためにたまたま泊まった旅先の宿の若夫婦が離婚するのか。
どうして一度しか逢っていない女性と異国の地で再会するようなことがあるのか。
なぜ入院したとき隣のベッドにいた女性の旦那さんが、
あろうことが自分の死んだ夫の隠し子なのか。
いったいどういうわけで浮気をした男の息子は長じて父とおなじ行為をするのか。
これらの「奇妙な因縁」の原因はみなみな宿命(宿業)になるのだろう。
では、なぜ宮本輝にはほかの人には見えぬ宿命が見えるのだろう。
氏の所属する創価学会は現世利益を盛んにうたっているが、それでも仏教団体である。
さて、古い仏典に「ジャータカ(本生経)」というものがあり、
ここでは宿業を以下のように定義している。

「たとい百劫を経ても、行なった業は亡びない。
因縁がたまたま遇うときに、果報はかえって自ら受けるのである」


この教えに従うならば、「奇妙な因縁」がたまたま起こるとき、
それはみずからが無限の過去世で行なった業の報いを受けているのだ。
ジャータカの「因縁がたまたま遇うとき」が宮本輝のいう「奇妙な因縁」だろう。
だとしたら、しっかり宿業を見つめていたら「奇妙な因縁」も見えるのか。
しかし、宮本輝はいったいだれの宿命を見たのだろう。
おそらく自分の宿命を見たのだろう。
なぜ自分という命が宿されたのかを突きつめて考えたのだろう。
そのうち父や母の宿命もまた見えてきたのではないか。
ここから「奇妙な因縁」を描くまでにどんなステップがあったのだろうか。
そこに創価学会がどう関係してくるのか。
底辺庶民の仏教信仰は日本霊異記のむかしから、
仏恩(現世利益)と仏罰に尽きるのである。
創価学会の教えも結局は「金が儲かるで」「病気が治るで」「罰が当たるぞ」だ。
宮本輝はおのれの低俗な仏教観を隠そうとはしない。
以下の引用文など、極めて創価学会的といえよう。

「それにつけても、自分たちは恩知らずだったと思う。
貴女に対して、言葉にするのもおこがましいくらい恩知らずだった。
その罰は、なんとも恐ろしいほどに、母も私も受けつづけた。
母が死んで、ちょうどことしで二十年になる」(P107)


こういう書き出しの手紙から「奇妙な因縁」が物語られるのである。
ある程度の時間が経過しないと因縁は熟さない(この話では二十年)。
ならば、時間をよく見つめていたら宿命や「奇妙な因縁」が見えてくるのか。
しかし、果たして宮本輝の描いているのは「正しい」因縁なのか。
そもそもお話に過ぎぬ因縁に「正しい」や「間違い」があるのか。
もしや因縁話はお話というかぎりにおいてすべて「正しい」のではあるまいか。
宮本輝の書く因縁話は「正しい」かどうかを通り越して、とにかく「おもしろい」のである。

「真夏の犬」(宮本輝/文春文庫) *再読

→宮本輝がいちばん影響を受けた作家は井上靖ではないかと思う。
書斎の写真を見たら、なぜか池田大作の本は見当たらず、
井上靖の全集が重々しく並んでいた。
以前、宮本輝は結局井上靖まで至らなかったと僭越ながら評したことがある。
このたび短編小説集「真夏の犬」を読み返して前言を撤回したく思う。
わたしは井上靖の短編小説も歴史小説以外ほとんどすべて読んでいるが、
宮本輝の短編小説は師匠ともいうべき井上靖を超えていると断言できる。
とくに「真夏の犬」に収録された作品それぞれがよろしい。
おそらく40を過ぎてから書かれたものだからと推測している。
初期の短編小説よりも遊び心が発揮されていてよい。
身もふたもないことをいえば、新人作家は小説で極力改行と会話をカットして、
センテンスの長い文章を書かないと純文学雑誌には掲載されないのだ。
へんてこな表現で風景描写とやらをもったいぶってやらないと純文学でなくなってしまう。
宮本輝もデビュー当時は決まりを守っていた。
しかし、「真夏の犬」の執筆時期はもはや売れっ子作家である。
だれが決めたかわからぬ純文学ルールなど守る必要がない。
この短編小説集で宮本輝の持つ才能が十全に発揮されているゆえんである。

「真夏の犬」収録作品は読みながらどれも熱いものが込み上げてきた。
この人はほんとうに大天才なんだとだれかに向けて叫びたくなった。
小説とは、どこまでもお話なんだと作家が信念を持って描いているのがよくわかる。
だれかのお話が小説なのである。
たとえば旧友と再会して彼(女)の口にするお話が宮本輝の小説なのである。
なぜ宮本輝はお話にこだわるのか。
いまわれわれが苦しんでいるとしたら、それはお話であるからだ。
われわれを幸福にするのも不幸にするのも実はお話なのである。
われわれはお話を生きている。お話に生かされている。
ならば、どうして小説家はお話を書かないのか。もっとお話にこだわらないのか。
お話を多少学問的にいいかえたら物語だが、宮本輝はお話を書く作家だ。
作家はほんとうにあったお話ではなく、ウソのお話を描く。
なぜならたぶんウソのほうがほんとうよりもリアルであることを知っているからだ。
底辺庶民出身の作家は、ウソのおもしろさを熟知していることもある。
まがいもののほうがホンモノよりも価値のあることがある。
ニセモノをホンモノと思ってしまうときがある。

本書収録の「力道山の弟」は、作者の意図はわからぬが、
氏の信仰する創価学会のパロディとしても読めるので驚いた。
実際はニセモノなのだが「力道山の弟」を自称するものが露天でインチキ薬を売る。
ひとりサクラがいて、この人はほんとうの弟だと認めるから、みな騙されるのだ。
実のところ、創価学会の池田大作も「力道山の弟」のようなものだ。
宮本輝をはじめ多くの人(サクラ)が池田大作は偉いとほめるから、
なかには騙されるものも現われるのだ。
しかし、ホンモノとはなんだろうか。
インチキ行商人の「力道山の弟」は果たしてニセモノだったのか。
というのも、ある美しい女をはらませて去っていったのだから。
いままで貞操を守ってきた女性が「力道山の弟」には心を(股を)開いてしまう。
その女性は、(主人公の)父親の親友の元恋人であった。
父親はいわば親友から女性を託されたようなもの。
にもかかわらず、女は「力道山の弟」ごときのインチキ野郎に身を任せてしまう。
うまいこと「ただまん」をされて、子種を残される。
これを知った父親が絶叫するのだが、下品なところが実にいい。

「よりによって、あのどこの馬の骨かわからん香具師(やし)と……。
女はアホか。俺には気が狂うたとしか思えん。
力道山の弟やなんて言うて、わけわからん粉を売ってる、薄汚い男と……。
そんなに男のチンポが恋しかったら、
なんで俺の勧めた男と所帯を持たなんだや」(P143)


創価学会にたいせつな家族を奪われたものもおなじ絶叫をするのだろう。
名誉会長やなんて言うて、わけわからんご本尊を売ってる、薄汚い男に……。
しかし、「力道山の弟」はチンポを突っ込まれた女にはホンモノだったのだ。
ならば、池田大作がホンモノでないとだれがいえようか。
もちろん、宮本輝は池田大作をモデルに「力道山の弟」を書いたわけではない。
だが、そういうふうに読めなくもないのである。
これは宮本輝が信仰と真剣に向き合う才能ある作家であることを証明している。

本書収録の「暑い道」も好きだ。
作者と思しき少年の住む貧民街にある日、同学年の美少女が引っ越してくる。
遠縁の叔父にもらわれてきたという。
少年と仲間は、14歳の少女の美しさに圧倒される。

「栗色の髪、どことなく青みがかった目、高くて形のいい鼻、
知らない者は誰も中学二年生とは思わないだろう胸の隆起と腰のくびれ……。
私たちは生まれて初めて、
日本人とアメリカ人との混血の少女を目にしたのだった」(P42)


貧民窟(ひんみんくつ)に舞い降りてきた混血の美少女はさつきという。
少年をふくめ四人はなんとか美少女のさつきを悪いやつらから守ろうと決意する。
いつしか時は進み、少年は大学受験を間近に控えている。
さつきの美しさは増すばかりだが、いい噂は聞こえてこない。
仲間のひとりがさつきとやったのではないかという話も聞いた。
大学受験も直前に控えたころ、家にひとりでいるとさつきが姿を見せる。
お別れを告げに来たのだという。
「淫売(いんばい)の娘は、やっぱり淫売や。
叔父さん、そう怒鳴って私を殴るのよ」とつぶやいた。

「そして、背を向けたまま、私のことを好きだと言った。
四人の中で、いつも一番好きだったと。
夕陽が落ちてしまったとき、私とさつきは、畳の上に横たわった。
さつきは、私の耳たぶを噛んだ。私は、さつきに言われるままに動いた。
目がかすんで、心臓が破れそうになった。
あっけなく終わったあと、なお乳房に触れつづける私の頭を、
さつきは両手でいつまでも撫でた。
夢心地とは、まさにあのような状態を言うのだと私は思う。
私は、自分がきっと幸福になるような気がして、
何日もさつきの体の感触の中でさまよった」(P48)


最後の一文がとくにいい。「自分がきっと幸福になるような気がして」がいい。
いったいどんな狂気を内に秘めていたら、
宮本輝のようにさらさら経験もしていないことを美しく描写できるのだろう。
狂ってもいなかったら、ウソのお話をああも美しく物語れないと思うのだが。
宮本輝作品には狂人も多く登場する(本書では「赤ん坊はいつ来るか」)。
現実を認められなくなったときに、人は狂気の世界にひた走る。
あまりに現実がひどいと狂気に逃げ込むしかなくなってしまうのだ。
むかしの創価学会は貧乏人、重病人の巣窟だったらしいから、
狂人半歩手前といった底辺庶民が大勢いたのだろう。
なにより宮本輝自身が発狂するのではないかとの恐怖におびえて(不安神経症)、
アル中の母親に導かれ創価学会の門を叩いたのであった。

「俺の兄貴のつれあいが、お産のあと、ちょっとおかしいなったことがあるんや。
どこがどうおかしいっちゅうわけやないんだけど、やっぱりおかしい目になった。
あの女の目は、どう見ても、おかしな目やないんやなァ……(中略)
目を見たらわかるよ。うちの工場の社員の中にも、
いままで五人くらい頭がおかしいなって入院したやつがおる。
ある日突然、いつもの目と違う目になりよる。
妙に吊りあがったり、膜がかかったみたいになったり、
逆に光りすぎるくらい光ってたり……。
うまいこと口では説明できんけどなァ」(P89)


この狂人が過激な新興宗教団体に入ると、集団の狂気のなかでむしろ毒気が取れ、
うまく集団のお話に自身を同化することによって(洗脳されて)、
これまで不可能だった社会生活が営めることがあるのだから、宗教を舐めてはいけない。
しかし、これが可能なのは新興宗教だけである。
宮本輝の所属している創価学会は、ことさら過激なことで知られる新興宗教団体だ。
もし宮本輝が創価学会に入っていなかったら、
十中八九狂人として身を持ち崩していただろう。
だが、たまたま宮本輝がうまくいったからといって、
みなが創価学会に入ればよくなるというわけではない。
とはいえ、創価学会に入ってよくなる人もなかにはいるのだから、
かの団体を壊滅せよなどと決めつけるものでもないと思う。
ともあれ、よくも悪くも宮本輝は創価学会の作家である。

「五千回の生死」(宮本輝/新潮文庫) *再読

→宮本輝さんはホンモノの底辺階級出身だったんだな。
短編小説なら氏の大好き(でわたしが大嫌い)な説教がないだろうと踏んで
再読(正確には四読目くらい)してみたら……。
ど貧乏で鼻くそを食って育ってきたような人だったとは。
ちょっと現在の日本の作家で宮本輝に勝てる人はいないと思う。
だって、ホンモノなんだもん。この人、本気でやばいぜ。
輝さんのパパもあれな人だから宿命なんでしょうね。
パパがママをがんがん殴って、ママがアル中になるような家庭環境で育った輝さん。
「お父ちゃん、お母ちゃんを殴らんといて」
パパがモデルと思しき人物が子どものまえでママに向かってすてきなセリフを吐くんだ。

「貝塚の嫁はんがうらやましいんか。
あの狐(きつね)みたいな顔を見てみィ。
おしろいつけて紅つけて、おそその横に垢(あか)つけてちゅうのは、
あんな女のことを言うんや」(P69)


いまの若い人のために説明すると、おそそはおまんこちゅう意味ねん。
いやはや、下品ですな~。しかし、これが宮本輝ワールドなのだ。
よくこんな家庭環境で育ってヤクザや泥棒にならず自殺も発狂もせず男色に走らず、
いわゆる真っ当な大人に育ったもんだと感心する。
宮本輝さんの世界にはDVとかパワハラ、モラハラというお上品な言葉がないんだ。
亭主は妻を殴るのが当たり前。
強いものが弱いものを虐げるのがなぜいけない?
泥棒さえしなきゃ、多少の不正くらい食うためにゃしゃあないだろうが!
こういうくそ庶民論理を正義とする、いわば畜生界を長らく生きてきた。

「抵抗出来んやつをいたぶるのは最高や」(P133)

いま生きている小説家のなかでやはり宮本輝がいちばん好きだと再確認する。
輝さんは巨大新興宗教団体、創価学会に入信しているけれど、
かの教えはきっとすごいのだろう。なまくら宗教じゃこの人は救えんもん。
こりゃあ新興宗教にでも入らないといかれちゃうわ。
おれがあの家庭環境で育ったらと考えるとぞっとする。
ふつうなら一生のあいだ父と母を怨みつづけるはずである。
それが輝さんときたら、二親どっちも許しているのだから立派だ。
父親を生涯許さなかったという某カトリック作家よりよほど偉いと思う。
このたび宮本輝の短編小説を一気に再読したけれども、
これでもかとしつこいばかりに窃盗のエピソードが出てくるのには驚いた。
本当の貧乏というのは、人のものを盗みたくなるんだな。
盗みたい心と闘わなければいけないのがリアル底辺ってやつか。
なんとか警察のお世話にならんで社会に出たら重度のノイローゼで失職は辛いよな。
下手をしたら一家心中をせなならんぎりぎりのところで勝って生きてきたのか。
そりゃあ成功したら説教したくなるわ。
われわれの世代なんて輝さんから比べたら「甘い×五千回」くらいだから。
「死ぬ気でやれ」「勝つまでやれ」を生き抜いてきた人なんだな。
「おまえら見たか! おれは人生に勝ったでェ。アホンダラどもが」
輝さん、大勝利、大歓喜、大信心♪ ――の言葉。

「うん、ものすごう嬉しい気分や。死んでも死んでも生まれて来るんや。
それさえ知っとったら、この世の中、何にも怖いものなんてあるかいな」(P94)


きっとこれが信仰ってやつなんだろうな。
創価学会――。
自分に勝利するばかりではなく、相手を打ち負かし蹴落とし勝ち誇るのが目的の信仰。
この作家は成功勝利のむなしさなんて偽善臭いことは死ぬまで言わないだろう。
勝つのが空虚なんてそんなことあるかいな。成功は楽しいでェ。
死んだら終わりなんてそんなことあらへん。死んだら生まれ変わってきてまた勝つでェ。
おれは輝さんの品の悪さ柄の悪さがとても好きだ。
おそらく、おなじものを生まれ持っているからだろう。

「脳死は、死ではない」(梅原猛編/思文閣出版)

→脳死が死であるかどうかは、わからない。
答えは人それぞれでいいような気がする。
もとより、全体としてはそんな悠長なことを言っておられず、
統一的な見解を設ける必要があったがゆえに、
本書の出版当時(1992年)脳死についての議論がわきあがったのでしょうが。
わたしは臓器移植をしてまで長生きしたくない。
そういう疾病にかかったならば、運命や宿命だとあきらめて死んでいくつもりだ。
しかし、これはいまのわたしの考えである。
この先、奇跡が起こってちっぽけな成功でも味わったら、
うってかわって生に執着するかもしれない。
万が一、結婚することになり子どもが生まれ、その子どもが難病だったら、
あっさりと脳死を死と認め、臓器移植を絶対支持するかもしれない。
結局、人間の意見はその人の体験によっていちいち左右されるもので、
かりに時間経過とともに「ぶれても」一向に構わず、
というかむしろ人間なんてそんなものだと思う。そんなものだ。

本書で議論されていることで、まったくそうだと思ったのは、
医学はどうしてああまでに「あきらめ」や「死」を敵とするのかわからないってこと。
子どもが授からない母親というものがいる。
代理母をどうするかという問題が生じる。
ある医師が本書で、これはあきらめるべきだと言っていたが、完全に同意する。
なにゆえ医学は「あきらめ」を毛嫌いするのだろう。
世間的評価の高い医者という職業に就けたのはあきらめなかったから、
と信じるものが多いからだろうか。
あきらめるしかない宿命のようなものは医学とは相容れないのか。
人はみな死ぬわけで、要は早いか遅いかの差なわけである。
なんとしても死を防ごうと考えると、とんでもないことになる。
この国の平均寿命は高いが、いったいどのくらいの割合が寝たきりなのか。
意識もない寝たきり老人は死んだほうがましなのではないか。
なにがなんでも生きていれば、それでいいのだろうか。
しかし、植物だって生きているだろうという本書における梅原猛氏の指摘には一理ある。
可能ならば一律に生と死を定義するのではなく、
それぞれが家族をふくめてそれぞれの決断ができればいちばんいいのだろう。
めいめいがそれぞれの体験から「私の死」「家族の死」を決めるのが本当なのだろう。

結局のところ、意見の相違というのは体験の違いなのかもしれない。
意見が異なっているように見えて、実のところ体験が響いているのである。
やはり重いのは人生体験だが、読書体験程度でも意見の相違には関係する。
とはいえ、読書体験は軽いだろう。
学生の意見がどれも聞くに堪えないのはこのためではないか。
個性的な意見を述べる人は、それだけ自分の体験にこだわっているのだろう。
相手の意見を尊重するとは、他人の人生体験を重んじるということだと思う。
他者の体験したことはわからないと認めることから対話が生じるのかもしれない。

最後に信者の習性として本書からも八方美人の河合隼雄さんの言葉を引いておく。
いまふと気づいたが、河合さんは八方美人というよりも、
逢う人すべての意見=体験を自分の実体験とおなじように重んじていたのではないか。

「文学でも、宮沢賢治のまねをしても、
やはりあれだけのものは書けないということは、
やはりその人のすごい体験が入っていないということなのですね。
体験した人は、なんとなくすごい説得力をもつのですよ。「確かだ」というね。
そういう意味では、臨死体験をした人は、もう死のすれすれまで行っているから、
すごく不思議な体験をして帰ってきたわけで……。
おもしろいのは、そういう意識の状態を変えるためにLSDなど薬を飲んだりすると、
あとそのことを忘れる人がものすごく多いのですよ。
そのときはワーッと思うのですが、忘れてしまうのです。
つまり、体験を体験としてもっていくということはたいへんなことなのですね。
だから、宮沢賢治ではないけれど、
それを文学にするというのは、すごい人だと思うのです」(P125)


「医者が泣くということ」(細谷亮太/角川文庫)

→副題は「小児がん専門医のいのちをめぐる日記」。
子どものうちに病気で死んでしまう人もいるという、いわば常識に打ちのめされた。
この公開日記に子どもの亡くなった記録があるごとに胸の詰まる思いがした。
しかし、わからないと思う。
難病の子どもの気持も、子を亡くした親の気持もわたしにはわからない。
なんとか想像しようとはするけれど、決定的に体験が不足しているのでわからない。
体験というのは、想像力では到達できない迫力がある。
人生にはわからないことがある。
善人気取りのいい気分で読書中に何度も涙ぐんだが、
きっと患者を亡くしたときの細谷医師の無力感さえもさっぱりわかっていないのだろう。
経験してみないとわからない。
いくら想像しようと思って本を読んでもわからないことはわからない。
いまわかりたいがわからないのは、「自分の子ども」はどういうものかという感覚だ。
人生の重たい体験は自由気ままに選ぶことはできない。
体験を決めるのは宿命としか言いようがない不可思議なものである。
繰り返すが、人は体験を選択できない。
だからこそ、自分の実体験をたいせつにしなければならないのだろう。
おのれの宿命をしっかり受けとめなければならないのだろう。

「ナーガーナンダ」(ハルシャ/原実訳/「原始仏典」筑摩書房)

→ハルシャは7世紀、北インドに君臨した王である。
はじめはヒンドゥー教を信仰していたが、のちに仏教に帰依するようになる。
シナから留学に来た玄奘(げんじょう)を歓待したことでも知られている。
やたらと評判のいい王さまだったようで、文化事業に精を出す一方、
みずからも戯曲も執筆し、この「ナーガーナンダ(蛇の悦び)」が代表作である。
代表作とはいえ、サンスクリット文学なぞだれも関心を持たないから、
いまネット検索してみても、ひとつも感想はヒットしなかった。
このため、ひと言、ふた言、感想めいたものをウェブ上に記録しておくのも
多少の意味はあるかもしれない。

まあ、最低レベルのギリシア悲劇よりはおもしろいといったところか。
話は前半と後半で大きくふたつにわかれている。
五幕劇だが、二幕までは王子とお姫さまが結ばれるラブストーリーだ。
お互い一目惚れをするが、それぞれ高貴な身分ゆえ、自由恋愛はままならぬ。
とはいえ、親に決められた結婚相手にそれぞれ反発する。
ふたりがすぐに結ばれたら劇にならないから、
双方が他に好きなものがいるのではないかと誤解しあう。
二幕目の終わりで、誤解が解けるというあんばいである。
実のところ、親が決めた相手にお互い一目惚れをしていたのである。
恋愛は成就し、いったんのハッピーエンドを見る。
冷ややかな目で見るなら、男女がお互いのどこを好きになったかよくわからないが、
美男美女が出逢った瞬間に恋に落ちるのはむかしからの文芸のいわばお約束ゆえ、
そこにあまりねちねちからむとこちらのもてないことがばれてしまうのでやぶ蛇だ。

三幕目から話ががらりと変わる。
王子は利他行したくてたまらない気持で森をふらふら歩いている。
海岸に行き着いたときに、王子は愁嘆場を演じている蛇の母子に出逢う。
なんでも、このへんは怪鳥のガルタが幅を利かせていて、
定期的に蛇を生贄(いけにえ)として差し出さなければならない。
このたび蛇の村から生贄に選ばれたものが母親との別れを嘆いているところであった。
母と子の別れというのは、いつの時代どの国でも人の胸を打つのだろう。
とくに母に先立つ息子という主題は、人のあわれみを誘う筋立てである。
作者ハルシャ王とおなじく仏教に帰依するこの劇の王子は、
蛇の母子に向かって自分が身代わりになろうと提案する。
このへんがいかにも利他をむねとする大乗仏教文学なのだろう。
王子は決心を口にする。

「己が命を投げうって、一尾の蛇救わんと、今われ善根積まんとす。
七生人と生まれては、再び仁を行なわん」(P402)


先ほど結婚した妻のことなどほとんど気にせず、
自分のやりたい利他行に邁進(まいしん)するところは評価がわかれるだろう。
王子はガルタにさらわれ、ついばまれ、もはや半死半生といったていである。
そこに王子の妻と両親が現われる。
ここでまた愁嘆場が演じられるわけである。愛するものとの死別は涙を誘う。
王子は尊い仏法を怪鳥ガルタにも説いたので、
かの悪鳥もすっかり改心していまは自身の行為を後悔している。
いちおう仏教文学という証明に王子の説教でも紹介しておくか。
たぶんハルシャ王は人民にこれを訴えたくてこの芝居を書いたのだろうから。

「これまでの所行を恥じてひたすらに、
悔い改めてこの後は、生類傷つくことなかれ。
一切生類憐みて、善業勤(いそ)しみ、功徳積み、
功徳の暴流(ぼる)のその中に、
これまで犯せし殺生(せっしょう)の、罪を流すにしくはなし。
一塊の、塩の広大無辺なる、池に沈んでうせるごと」(P410)


学者先生が張り切って七五調で訳しておられるが、なかなか味があってよい。
声に出して読むと、訳者の苦労が偲ばれる。
いまにも死にそうな主人公の王子が魂のメッセージを遺しているさなか、
あまりいい読者ではないわたしはあれが来る予感に打ち震えていた。
なぜか古典劇では絶体絶命のピンチに都合よくあれが来るのである。
しかし、ここはギリシアではなくインドだと自分に言い聞かす。
そうそうあれがうまく来るはずがないではないか。
ところが、来てしまうのである。
ギリシア悲劇では、デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)と呼ばれているやつだ。
終幕直前、ガウリー女神とやらが天からやって来て王子の傷を奇跡で治す(けっ!)。
観客はさぞかし一生懸命拍手をしたはずである。
うっかり醒めた退屈そうな顔でもしたら、
作者の国王からなにをされるかわからないのだから。
観客の感想はみんなおなじだったことだろう。
「一切生類を憐み、善業に勤しみ、功徳を積もうと思いました」
この感想を聞いたハルシャ王の満足げにうなずく様子ならば、
やすやすと想像することができる。

「ラトナーヴァリー」(ナーガールジュナ/瓜生津隆真訳/「原始仏典」筑摩書房)

→ナーガールジュナ(龍樹)が王さま宛に出した仏教講話の手紙。
龍樹の作ではないという説もあるらしいが、
こちらは仏教学者ではないので作者など本音を言うならばどうでもいい。
漢訳仏典は「宝行王正論」という。
龍樹という男は仏教の開祖でもなんでもなく、大乗仏教の立役者に過ぎないのに、
これだけ名前が伝わっているということは、
さぞかし権力者に取り入るのがうまかったのだろう(妄想)。
なにが「正しい」ものとされるかというと、支持者の多いものが「正しい」のである。
このため、真理めいたものを語りたかったら、権力者に取り入るにかぎる。
なぜなら権力者はそれだけ影響力があるからだ。
絶対的真理が存在しないとしたら、権力者の認めたものが当面の真理として通用する。
龍樹が王さまに手紙を書いたということは、真理の仕組みをよく知っていたのかもしれない。
真理とは、しょせん権力なのである。
なぜなら、多数派の意見がその時代その国その地域の真理となるがため。
多数派を味方につけたいのならば
影響力のある権力者に庇護(ひご)してもらうのがいちばんの得策だ。
新興の大乗仏教が伝統ある由緒正しき小乗仏教に勝とうと思ったら、
王さまを味方につけるしかないのである。
龍樹は全力をふりしぼって本書を書いたのだと思われる。
はっきり言って、下層民を百人洗脳するよりも、豪商十人を仲間に引き入れるよりも、
王さまひとりを「落とす」ほうがよほど布教の効率はいいのだから。

驚いたのは、本書で龍樹が業(ごう)の思想をなかば否定していたことである。
正確には否定していないのかもしれないが、
乗り越える思考法のひとつとして業が記述されているのは興味深い。
わたしは龍樹の言っていることを「正しい」とは思わないが、
そういう言い方をするのなら別に釈迦の言葉が「正しい」と思っているわけでもないので、
龍樹の言うことだから「正しい」とおかしな盲信をしている人に
少しばかりの忠告をしたいだけだとどうか思ってください。
龍樹の考え方は「正しい」かどうかはわからないが、それなりに魅力がある。
折伏(しゃくぶく)の手紙である本書で龍樹はなにから話を始めているか。
いくら手紙を書いても読んでもらえなかったら意味がないのである。
勧誘よりもなによりもまず手紙に興味を持ってもらわなければならない。
このためだろう。龍樹は手紙におまんこの話を書き入れるのである。
一説によると、龍樹はおまんこから仏門に入ったというから(女好きの性豪!)、
王さまに読んでもらうためではなく、ただ単に正直者だったのかもしれない。
龍樹はおまんこが好きだったが、のちにおまんこよりも好きなものができたのである。
それが仏教である。ただの仏教ではない。大乗仏教である。
大乗仏教とは、開祖釈迦の教えとは関係ない、龍樹たちが創作した仏法である。
ちなみにインド、シナ、日本、三国伝来の仏教の歴史は、
言うなれば造反劇の繰り返しだから、本家に逆らったという意味において、
創価学会は日蓮正宗よりも「正しく」仏教的だし、
親鸞会は浄土真宗よりも「正しい」のかもしれない(……え?)。
話が脱線してしまったが、龍樹の好きなおまんこの話をしよう。
いや、龍樹におまんこを語ってもらおう。

「48~50 女性に対する頓着は、通常女性の姿を美しいと思うことから生ずる。
しかし、実際には女性の身体には、清らかなものは少しも存在しない。
〔女性の〕口は、汚れた唾や歯垢の不浄な器であり、
鼻は膿汁・粘液・鼻水の器であり、眼は眼脂や涙の器である。
腹は排泄物や尿や肺や肝臓等の器である。
愚かな人は女性をこのように見ず、女性の身体に頓着をなす。(……)
53~55 たとえば、豚が、排泄物や尿にみちたところにある汚物に頓着するように、
欲望のある人は、排泄物や尿を生ずる身体にある汚物の陰所に頓着する。
身体は不浄であり、それを生じる生門(=生殖器官)を、
愚かな人は快楽の対象として追い求める」(P356)


美女=糞袋=尿袋=汚い=おまんこ!

「65 たとえば、女性の身が不浄であるように、
御身みずからの身も同様に不浄である。
従って、内外のものに対する貪欲を離れることが、
どうして正しくなかろうか」(P356)


美女=うんこ=汚い=あなた←離れよう!

「24 この法をよく理解しないならば、我意識が生じる。
それから善・不善の業が生じ、
善・不善の業から善・不善の〔輪廻の〕生存が生じる」(P355)


あなた=我意識→善業・悪業→輪廻の生存=苦しみ

ここまでが釈迦伝来の仏教の考え方である。
この時点で王さまは、とっくにビビッているはずである。
おまんこに釣られて読み進めたら、とんでもない話になってしまったわい!
というのも、金も権力もある王さまが美女に夢中になっていないはずがないのだから(妄想)。
美女をうんこに過ぎぬと言い切るこの坊さんはどれほど偉大なのだろう。
王さまは内心うろたえながら、それでも先を読まずにはいられないはずだ。
きっと王様は何度もこの手紙を読み返したはずである。
以下に紹介するが、龍樹は業の思想を足がかりに独創的な自説を展開する。
善因善果や悪因悪果の有無にとらわれているうちは真理からまだ遠いと言うのである。

「43~45 要約すれば、〔善悪の〕業には果が存在しないというのが、
無見論(=虚無論)である。
これ(=無見)は不善であり、堕地獄であり、邪見である、といわれる。
要約すれば、〔善悪の〕業には果が存在するというのが、
有見(実有論)である。
これは善であり、善趣に生じしめるものであり、正見である、といわれる。
知にもとづいて、無と有〔との二見〕を寂滅し、それによって罪福を超える。
これがかの悪趣と善趣からの解脱である、と諸聖者によって説かれる」(P351)


ものすごくわかりにくいと思う。こういうことを言っているのだと思う。
わかりやすくするためにA、B、Cにたとえる。

1.A対B
2.(A対B)←C
3.(A=×、B=×)→C=○


龍樹もなんとかわかってもらおうと、いろいろたとえを用いている。

「48~49 これがあるとき、かれがある。
たとえば、長があるとき、短があるのと同様である。
これが生ずるとき、かれが生ずる。
たとえば、灯が生ずるとき、光が生ずるのと同様である。
一方また、短がなければ長は自体として存在しない。
また灯が生じなければ、光もまた生じない」(P351)


1.長対短
2.(長対短)←心(主観)
3.(長=×、短=×)→心(主観)=○


1.灯→光
2.(灯対光)←空(くう)
3.(灯=×、光=×)→空=○


因果関係一般に話を広げると、こうなる。

1.因→果
2.(因対果)←空
3.(因=×、果=×)→空=○


言葉で説明すると、因も果も心(主観)で決めているもので実体はない(=空)。
「長い」も「短い」もあなたが心(主観)で決めているだけで実体はない(=空)
いちばん最初の業の問題に戻ると――。

1.「業は存在しない」対「業は存在する」
2.(「業は存在しない」対「業は存在する」)←心、空
3.(「業は存在しない」=×、「業は存在する」=×)→心=○、空=○


だから、なにを龍樹は言いたいのかというと、たぶん――。

1.あなた=我意識→業→輪廻の生存=苦しみ
2.(「業は存在しない」=×、「業は存在する」=×)→心=○、空=○
3.(「あなた=我意識→業→輪廻の生存=苦しみ」=×)→心=○、空=○


おわかりいただけましたか? 大学の先生とか、このへんをどう教えてるんだろう。
言っちゃあ悪いけれど毎晩のように美女とチョメチョメしている(妄想)王さまに、
いくら龍樹が熱心に説いたとしても、こんな教えが通じるとは思わないよな~。
しかし、龍樹は王さまに「究極の真理」とやらを説き続ける。

「5 このように、この世界は究極の真理からすれば、真実と虚妄を超えている。
また、まさにそれ故に、
真実にはこの世界は有にいたることもなく、無にいたることもない。(……)
9~12 実にこの法の深遠性は、凡夫にとってはうかがい知れない。
この世界は幻化のようである、という教えが、諸仏の甘露の教えである。
たとえば、幻化の象に生と滅とを見るとしても、
真実には、いかなる生も滅も存在しない。
それと同じく、幻化のようなこの世界には、
生と滅とが見られるが、真実にはいかなる生も滅もあるのではない。
たとえば、幻化の象はどこからも来ず、どこへも去るのではない。
ただ心の迷妄のみによって存在し、実有としてあるのではない」(P354)


あれえ、これを訳した学者先生、本当に理解していたのかな?
真理と真実をごちゃまぜにして訳しているからよけいわかりにくくなっているような気が。
わかりやすく例の公式に代入しますね。

1.真実対虚妄
2.(真実対虚妄)←究極の真理
3.(真実=×、虚妄=×)→究極の真理=「世界は幻化、世界は心の迷妄」


1.有対無
2.(有対無)←究極の真理
3.(有=×、無=×)→究極の真理=「世界は幻化、世界は心の迷妄」


1.生対滅
2.(生対滅)←究極の真理
3.(生=×、滅=×)→究極の真理=「世界は幻化、世界は心の迷妄」


ここまでご一緒してくださった方が万が一にもいましたら、
たしかに龍樹は哲学者や政治家としては優秀だったのかもしれないけれども、
宗教家としてはほとんど無能だったのでないか、
というわたしの推測に同意してくださるのではないでしょうか?
たとえば、愛する子どもを亡くした母親がいるとします。
龍樹が「正しい」説教をしたとする。

1.生対死
2.(生対死)←究極の真理
3.(生=×、死=×)→究極の真理=「世界は幻化、世界は心の迷妄」


あんた、あたいをバカにしてんのかい、とヒステリックに絶叫されるかもしれない。
龍樹の仏教は、思弁的にはすぐれたところがあるのかもしれないけれど、
とても人間味があるとは言えない。
どうでもいい話だけれども、
「世界は幻化、世界は心の迷妄」はたぶん「色即是空」と呼ばれているやつだと思う。
この記事では説明の便宜上「空(くう)」という用語を使ってしまったけれども、
本書では一回も登場せず、代わりに「幻化」という言葉で表現されている。

しっかし、いきなりこんな手紙を送りつけられた王さまも迷惑だっただろうな。
「美女はうんこに過ぎない」などと下品なことが書かれていると思ったら、
「私は究極の真理を見つけた」とか延々と意味不明なことがつづられているのだから。
でもさ、「わからない」と正直に白状しちゃったら王さまの沽券(こけん)に関わるわけ。
やっぱり王さまとしては、「おぬし、なかなか賢いのう」と応じなければならない。
とはいえ、手紙をいくら読み返しても理解できる部分は極めて少ない。
さてまあ、いったい自分はどうしたらいいのだろう。
困った王さまの目に以下の文章が飛び込んでくるはずである。
あんがい、この手紙で龍樹がいちばん書きたかったのはここではないのだろうか。

「31~34 悪を捨て善を持することが、現世に繁栄するものの法であり、
知によって〔二の〕執着を断つことが、至福を得るものの法である。
仏像・塔・寺・広大な殿堂などを、尊崇の念をもって、
冨豊かなるもの(=王)よ、建立すべし。
仏像はあらゆる宝をもって造って姿美しいものにし、
美しく描かれた〔仏〕は蓮華の上に座するように作るべし。
正法と比丘僧伽(=出家集団)を、あらゆる努力を尽して庇護すべし。
金や宝の飾り網を、みずから諸塔に飾るべし」(P360)


龍樹って金持に因縁をふっかけて金品を巻き上げるヤクザみたいだよな。
相手の弱み(性欲!)につけこんで涼しい顔をして金をゆするところなど、
知能犯のインテリヤクザといったおもむきがあり格好いい(←一応ほめておく)。
そもそも大乗仏教からして、ゴロツキめいたところがある。
歴史的に見たらどう考えたって正統性のある小乗仏教を、
あろうことが新興の大乗仏教は逆にインチキ呼ばわりしているわけだから。
大乗仏教の根本精神を本書で龍樹は(おそらく意図せずに)述懐している。
諸君、これが大乗仏教だ。

「64~65 ある人にはもし毒が役立つのであるならば、
そのものにはたとい毒があっても、それを施すべし。
たとい最上の食物であっても、役立たないならば、
そのものはそれに施すべきではない。
毒蛇にかまれたときには、指を切断して利益をなす、といわれるように、
世尊は利他のためには、不善であってもなすべし、と説かれた」(P361)


たとえ最上の食物(釈迦の教え)であっても、役に立たないならば捨てよ。
利他(衆生救済)のためならば、不善(ウソをつく)であっても行なえ。
だとしたら、日本でいちばん龍樹を理解していたのは蓮如になるのかしら。
まだ存命の新興宗教トップの名前を挙げちゃうといろいろ差し障りがあるから。
「毒でも役に立つのなら施せ」
なんてしゃあしゃあと言える腹黒い人へのあこがれが実のところわたしにはある。
あはっ、生真面目に原始仏典を研究している学者先生よりも、
怪しげな新興宗教の教祖にときめいてしまうと白状してしまいました。

「金剛の針」(中村元訳/「原始仏典」筑摩書房)

→いまから千数百年まえに仏教徒が書いたカースト否定論とのこと。
きっと「人間は平等」とかうそぶいてカーストの底辺層を取り込もうとしたんだろうな。
ちりも積もれば山となるで、小額のお布施でも信者数が多ければ儲かるから。
「金剛の針」をわざわざ日本の読者に紹介するような東大の中村元博士は、
なーんて人格者でお偉い方なんでしょう、と思わせたいのかと思ってしまった。
「人間は平等」なんて嘘八百は、偉い人が言うからありがたいんだよね。
底辺層からの人気もゲットできて、さらに偉くなれるのだから、こんなうまい話はない。
しかし、「人間は平等」なんて真っ赤な嘘をつく厚顔な偉い人こそ、
実際は「人間は平等」なんてちっとも思っていないのである。
「人間は平等」というパフォーマンスを何度も庶民に見せつけたがるけれども、
毎日顔を合わすような部下はきまって奴隷のように扱うわけさ。
それでいいのいいの。人間、そんなもんだから。
往来で汚らしい格好の底辺庶民が「人間は平等」なんて叫んでいても、
だれだって鼻で笑って終わりでしょう。
なーに、バカ言ってんだよ。おまえ、なにさまのつもりだ、おいって話で。
要するに、自分より下の人から「人間は平等(おれとおまえは同格)」
と言われると腹立たしく、反面、自分よりも上の人から
「人間は平等(あなたと私は差がありませんよ)」
と言われるとシッポを振ってワンワンそのお方についていきたくなるってこと。
ああ、いつか温厚な笑顔で「人間は平等」と言えるほど偉くなってみたいもんだ。
このため、「金剛の針」の存在によって、こんな主張をできるほど、
この時代の仏教は偉くなっていたことがわかる。
歴史的事実を述べると、高みから「人間は平等」なんて説教していた仏教は、
カースト制が大好きな人民から見放されインドから消滅してしまうわけだ。
やっぱ最底辺の奴隷から「よお!」とかタメ口をきかれた偉い人が怒ったのかしら。

ちなみに「金剛の針」がカーストを否定する根拠は業(行為)である。
どうしてこうまで仏教は業にこだわるのだろう。
語句の解説をしておくと、シュードラは奴隷階級で、バラモンは司祭階級。

「……シュードラでさえも、バラモンとなり得る」(P343)

その前提となる考え方は――。

「家柄によるのでもなく、生れによるのでもなく、
ただ行ないによってのみ、バラモンとなるべきものである」(P346)


日本のお坊さんだって「人間は平等」なんて思っていないでしょう?
なぜって伝統仏教団体トップはみんな世襲だから、
これって要するに生まれゆえにいい暮らしをしているわけじゃないですか。
この点、新興宗教は生まれと関係なく出世できるのがよろしい。
創価学会くらい古くなるともうダメかもしれないけれども、
新興宗教の成立期から参加すれば、生まれに関係なくどこまでも偉くなれる。
しかし、団体が大きくなり古株になると、本当の正体を知っているがゆえに教祖から疎まれ、
いきなりクビを切られ復讐として暴露本を書くという哀しい人生になるかもしれないけれど(笑)。

「百五十讃」(マートリチェータ/奈良康明訳/「原始仏典」筑摩書房)

→作者は2世紀の仏教詩人らしく、これは「ほとけさまバンザーイ」という讃歌。
いかにも大乗仏教という文句が並ぶ。
学問的なことはさっぱりわからんが、作者が書いていて楽しそうなのがよろしい。
原始仏教は抹香くさくてかなわん。
欲望をなくせ。生に喜びはない。みんな捨てろ。喜びも悲しみも捨てろ。無だ。寂滅だ。
じゃあ、なんだい? 廃人にでもなれって言うのかよ。 
と石あたまの釈迦には舌打ちしたくなる。
比して、大乗仏教的と言われる「百五十讃」は喜びと悲しみを肯定しているのがいい。
ブッダよ、あなたは――。

「17 あなたは人のために生命をすてて
しかも歓喜(よろこび)にあふれていた
それは死から蘇生(よみが)えった人の
歓喜(よろこび)にもまさっていただろう」(P326)


生きているんだから、喜びはあってもいいだろう?
出家して悲喜ともども滅してしまうのでは、せっかく生まれてきた甲斐がないではないか。
歓喜(よろこび)はいいものだ。生命バンザーイ!
ならば、そうであるならば、喜びだけではなく悲しみもまたいいのかもしれない。
喜怒哀楽それぞれに生きている味わいがあるとは考えられないか。
たとえ絶望でさえ、だれかがそばにいてくれたら、その味を堪能することができやしないか。
もしかしたら完全に孤独なときにも、だれかがわれわれのそばにいてくれるのではないか。
いないかもしれないが、だれかがいてくれると思うと救われる。
いや、きっとやさしいほとけさまがいてくださる。
あなたはいらっしゃるはずだ。そして――。

「104 絶望するものがあればなぐさめ
安らかに生きるものには好意を示し
災厄(わざわい)に会うものをあわれみ
すべての人の幸福(さいわい)をねがっていた」(P333)


まるで遠藤周作の描く同伴者イエス・キリストのようだが、
寄り添ってくれる存在というのは、各宗教に共通する絶対者のイメージとしてあるのだろう。
われわれはひとりだけれども、ひとりではない。
孤独なときにも、たとえ絶望していても、きっとだれかが同行してくれている。
だれかが横に影のように寄り添って一緒に歩いてくれている。
そんな自分のことを見守ってくれている存在がいるに違いない。
その人の名をなんと呼ぼうか。
もしそれがブッダだとすれば、実のところブッダは死んでいないのではないか。
味気ない原始仏教が打ち倒されるのはこのときである。
喜びと悲しみはいきいきとした精彩を取り戻し、このとき新たなブッダが誕生したのだ。

「アヴァダーナ」(奈良康明訳/「原始仏典」筑摩書房)

→アヴァダーナは善因善果、悪因悪果を説いた古代インドの仏教説話集だが、
本書に収録された5編のうち、あまりピリッと来るものはなかった。
解説によると、アヴァダーナとジャータカは混合されることもあるらしい。
とはいえ、どちらも現存する全作品を読んだわけではないから、
アヴァダーナよりもジャータカのほうがおもしろいと断言するつもりはない。
アヴァダーナはそれなりに起伏のある物語が進行していき、
途中、あるいは結末部分で業の思想が説かれる。
ブッダにほめられるような聖人になったやつは過去世でいいことをしたから。
罰を受けたかのごとく不幸になったやつは過去世で悪いことをしたから。

なんちゅうか、その、ふてくされてウン十年浮世を見てきたものの述懐だが、
カルマ(業)の思想というのは最強なんじゃなかろうか。
いまでも十分に(信じさえすれば←これが難しいのよ)通用するような気がする。
落ちぶれたおっさんになると何度も年下の成功者を目にしなきゃいけないわけ。
あれら輝いている人たちがみんな自分よりもがんばったとはちょっと思えない。
成功者の二世とかもいるわけだから。
こういうときに、あれは業なんだ。
あいつらは過去世で善業を積んだんだと思うと(自分を騙すと)あきらめがつく。
一方で、本当にたいへんな人に比べたらぜんぜん大したことはないのだけれど、
それなりに生きてきて辛いこともあったわけ。きっとこれからも苦しむはず。
そういうときは、これは自分の過去世の悪業の結果なんだと思うとあきらめがつく。
まあ、ていよく自分をごまかしているわけだけれど、いけませんか?

うん、業の思想は、嫉妬深いおいらにとても役立つ。
難解なインド哲学をお勉強している人は立派だと認めますが(パチパチ♪)、
人生で負けが込んでくると使えない思想(考え方)はもうどうでもいいのね。
この点、仏教の平明な業の思想には心底から慰められる。
かといって、さすがにこっちも鬼じゃないから、
実際に不幸に苦しんでいる知り合いに「それはあんたの業だ」とか言わないよ。
創価学会員じゃないんだから(笑)。
あくまでも業の考え方を適用するのは自分だけ。

年若くして出世したものを目にしたときは、どう考えればいいのか。
過去にならおう。
原始仏教集団でも、ブッダから認められた弟子(出世頭!)がいた一方で、
まったく歯牙(しが)にもかけられなかった落ちこぼれも絶対にいたのである。
比丘(びく=男性出家者)のなかでジュヨーティシカというやつが出世したらしい。
ほかのものが嫉妬したら面倒だからブッダは以下のように説明する。

「比丘たちよ、ジュヨーティシカは前世において行為をなし積み重ねて、
悟りを開くための材料を得、悟りの原因は十分にそなわったので、
ちょうど、洪水の〔止めることが出来ぬ〕ように、
必ずブッダに仕えることになったのだ。
ジュヨーティシカによってなされ積み重ねられた行為〔の結果〕を、
だれか、別の人が受けることが出来よう」(P292)


いまは安手の成功哲学本や自己啓発書ばかり出版されているけれど、
人生で勝てるのなんて1%もいないんだから、
本当はだれか負け方を教えなきゃいけないのに、どこにも書かれていないような……。
勝つまでやれ! 成功するまで挑戦したら失敗はない!
こんなきちがいめいたファイトを燃やすより、しっかり負けを認めましょうよ。
このとき使えるのが業の思想だ。
例外的な成功者はきっと七生まえくらいの過去世から善業を積んでいるのだから、
われわれ凡人がいまからいくらがんばったって無理なものは無理。
レアな不幸に遭遇して地獄の苦しみに煮られているようなときは、
これもまた自分の過去世の業なんだと考えて(=騙して=ごまかして)あきらめよう。

「まことに業は永久にのこり、永久にはたらいているのです。
業が熟した時、その業は現われるのです。
業が熟したればこそ、私の頭上に輪は燃え輝き、
私の生命をほろぼすのです」(P318)


ここで重要なのは、これは前世の業の結果だなどと短絡的に考えないこと。
われわれは「五千回の生れかわり」(P296)の間のどこかで、
行為の結果を報いとして受けるのである。
宮本輝氏の小説のタイトルではないが、われわれは「五千回の生死」を繰り返しているのだ。
いまもしかしたら三千回まえの生における悪業の報いを受けているのかもしれない。
だから、宮本輝氏のご子息二人とわたしは同世代だが、
どうしてあの人たちばかり恵まれているのだろう、なんて嫉妬はしない(ほんとだって)。
宮本輝氏のご令息は「五千回の生死」のどこかで、偉大な善業を行なったのだろう。
わたしは鎌倉時代に日蓮大聖人に石をぶつけたのかもしれない。
もしくは人間ではなく猿で、大聖人さまのおにぎりでも横取りしたのだろうか。
いまの禍福、苦楽は断じて前世のみの結果ではない。
「五千回の生死」の報いがいま結果として現われているのである。
ちなみに以下引用文中の「百劫」は「五千回の生死」よりもはるかに長い時間である。

「百劫を経ても行為〔の結果〕は消えることなく
機縁を得、時がくると肉身あるものに実を結ぶ」(P323)


いま不幸に苦しんでいる人は、業の思想には希望がないといわれるかもしれないが、
それはちょっと早合点しすぎだぞ。だって「五千回の生死」があるんだから。
917回まえくらいの生でもしかしたら善業を積んでいるかもしれないじゃない。
そのとき蜂(はち)で悪いカマキリから団子虫を助けたのだって立派な善業なわけ。
それがいまの生でたまたま機縁が熟して、いい結果が出ちゃうかもしれない(笑)。
これが一見救いのないように見える業の思想である。
「五千回の生死」があるんだから、そんなに現世でガツガツしなくてもよくなってきませんか?
現世で善業を積むのはいいけれど、報われるのは百生後かもしれないから気楽にいこうぜ。
だから、以下のブッダ(世尊)さんの言葉もあんまり真面目に受けとめないこと。

「何となれば、比丘たちよ、完全に黒い所行の結果は黒く、
完全に白い所行の結果は完全に白く、雑色のそれは雑色となるのだ。
それ故に比丘たちよ、完全に黒い所行や雑色のそれを避けて、
完全に白い所行のみを行なうようにつとめなければならぬ、と学ぶべきなのである。
世尊がこう言われると比丘たちはこの言葉に満足し歓喜しました」(P296)


1.黒い業→「五千回の生死」→黒い報い
2.白い業→「五千回の生死」→白い報い
3.雑色の業→「五千回の生死」→雑色の報い
黒と白が入り混じっているから「五千回の生死」は、
遠くから見たらきっとパンダみたいに愛らしいんだろうね♪

「長老尼の詩(テーリー・ガーター)」(早島鏡正訳/「原始仏典」筑摩書房)

→尼さんの信仰告白は、おっさん坊主のそれよりもはるかにおもしろいわけである。
思うに、女には観念的なものが通じないからではないか。
女はけだものに近い嗅覚で、
ブッダの説く四諦や十二因縁など空理空論に過ぎぬと見破っていたのではないか。
偉いお弟子さんを色仕掛けで落とそうとした女人もいたらしい。
もちろん、本書(や「長老の詩」)は聖典ゆえ仏弟子勝利の話しか掲載されていないが、
実際には女の美貌に負けて落とされた情けない坊さんも
相当数いたのではないかと思われる。
だから、おかしなことを言うと、仏弟子の世界においては、もてないほうがよほどいいのね。
もてる男女は必然として誘惑が多くなるから修行がしにくい。
はなからもてなかったら淫欲も起こらず
現世に早々と見切りをつけることができるわけだから。
仏弟子と遊女(高級娼婦)さんの対話は、仏教にはじめて生じた宗教戦争だと思う。
あれは本当に落とすか落とされるかの勝負になるはずである。
おのれの美貌を鼻にかけた遊女など古代インドながらまこと勇ましい。
邪念のかたまりのようなわたしは傲慢な美女が大好きだから、
「遊女さん、負けるな! 仏弟子なんか、落としちまえ!」と応援したくなる。
以下は残念ながら仏弟子ごときに落とされた美しい遊女の信仰告白。

「72~76 〔わが身の〕いろ・かたちと運と名声を誇り、かてて加えて、
年の若さをたのんだわたしは、他の人々を見下した。
愚かな男たちに言いよられるこの身を美しく飾って、わたしは、網を張って
〔獲物を待つ〕猟師のように、娼家の門に立った。
秘密の、あるいは露(あら)わの飾りを多く見せ、
多数の男どもを嘲笑いつつ、さまざまの妖術を行なった。
そのわたしは、いまや、頭を剃り、重衣をまとって、托鉢のために出かける。
そして、なんら省察作用もおこさぬ者として、樹の下に坐る。
天界と人間界のすべての軛(くびき)を断ち、すべてのけがれを捨てて、
わたしは、清涼となり、安らぎを得た」(P252)


せっかく年若く美しい女人に生まれたのに、出家するとはなんともったいないことを!
原始仏教も「長老尼の詩」を読むと、カルト的な面があったことがよくわかる。
出家出家とかんたんに言うが、されるほうはたまったものではないのである。
手塩にかけて育て上げたうら若き娘が出家したいと言い出したら親は困るのである。
もう婚約者も決まっているのに、どうしてそんなバカな宗教にはまったのか。
妻も子もいる男が出家したいと言い出し、妻に嘆かれる話も本書に収録されている。
原始仏教は、快楽否定のカルト教団といった側面もあんがい強かったのではないか。
当たり前の常識を述べる人を、仏弟子は悪魔と見なすのである。
わたしなぞは悪魔のような女郎(めろう)ほど美しいものはないと思うが……。
悪魔は口を開いてなんと言うのか。

「190 〔悪魔〕なぜに、あなたは、生を喜ばないのですか?
生ある者は、もろもろの欲望を享受します。欲楽を享受しなさい。
後になって、後悔してはなりません」(P259)


「なぜに、あなたは、生を喜ばないのですか?」

原始仏教は、この問いに真正面から歯向かうのだから大したカルトである。
まだ年若い王女はこのカルト教団に洗脳されて、親に出家したいと言う。
娘よ、「なぜに、あなたは、生を喜ばないのですか?」――。

「450~451 わたしは安らぎの境地を楽しむ者です。
生存のうちにあるものは、たとい天界のものであっても、常住ではありません。
まして、空虚で甘味少なく、悩み多きもろもろの欲望に関してはなおさらです。
もろもろの欲望は、辛苦のもので、蛇の毒にも譬(たと)えられ、
愚者どもは、それらに迷わされます。
かれら〔愚者〕は、地獄に落ちて、長い間、苦しみ、傷つけられます。(……)
489 もろもろの欲望は無常であり、堅固でなく、苦しみ多く毒も大きい。
灼熱した鉄丸のように、痛苦を根本とし、苦悩を結果するものです。(……)
458 生存のうちにあって、堅固でない身体をもつ宿命を、
どうして喜ぶことがありましょうか。
生存にたいする愛執を滅ぼすために、わたしは出家しましょう。
お許しください」(P273)


「堅固でない身体をもつ宿命を、どうして喜ぶことがありましょうか」

「わが身=無常」でそのうえ「欲望=苦悩」なのだから、人生に喜びはない。
王女という高い身分にいる生娘のお嬢さんは、こう答えたわけである。
諸行無常ゆえ人生に喜びなどあるものか。
娘さんの人生を狂わせたこの毒々しい教えは、人生に疲れた女性にとっては薬となる。
人生に喜びがないということは、つまり人生に悲しみもないということなのだから。
ブッダの教えは毒にも薬にもなる激しいものだったのだろう。
「長老尼の詩」には子どもを亡くした母親が複数登場する。
はっきり言って、子を亡くすほどの癒しがたい不幸はなかなかないのである。
王女のように結婚せずに出家していたら、こういう不幸は体験しないで済むのだろうが、
みながみなお姫さまのようなことができるわけではない。
生活のため女は結婚もしよう。子どもも産もう。その愛児が死んだときの悲しみはどうか。
これは男性出家者の哲学的煩悶など比較にならないほどの苦痛であるはずだ。
生々しい描写は実体験をうかがわせるに十分だ。

「133~134 わたしは、子どもの〔死〕を憂えて悲しみ、心が狂い、想いが乱れた。
裸で髪をふり乱して、わたしは、あちこちうろつき歩いた。
四つ辻で塵埃捨場や墓地や大道を、三ヵ年の間、
わたしは飢えと渇きに悩みながら、歩き廻った」(P256)


こうして悲しみに暮れた母親はブッダに逢うわけである。
おそらく医薬品も充実していなかった時代だから、
赤子はひんぱんに死に、亡児を忘れられない母親がたくさんいたことだろう。
経典には3、4の事例しか書かれていないが、裏には百、千の母親の涙があったはずだ。
ここでブッダの説くのが有名な物語である。
亡児をかかえて嘆く母親にブッダが言ったという。
「子どもを生き返らせてあげますから、ひとつのものを持ってきてください」
「なんでしょうか?」
「いまだひとりも死人を出していない家から芥子(けし)粒をもらってきてください」
母親はどこの家からもそんな芥子粒を得られぬことを知ると同時に、
人はだれしも死ぬものだという無常の理(ことわり)を自分で悟り仏門に入った。
ここで重要なのは、実践があることだろう。
なんとかして目的の芥子粒を得ようと尽力したことが結果的によかった。
教えられたのではなく、自分の目で、自分の手で、無常を悟ったのがよかった。

ほかのところでブッダはこのような教えも説いている。
林の中で死んだ娘の名前を呼びながら泣き叫んでいる母親を
ブッダは広大な墓場に連れて行く。
「あなたの娘さんとおなじように幼くして亡くなった子どもは、ここにたくさん眠っています。
あなたは、いったい、だれのことを悲しんでいるのでしょうか?」
母親は、「人は死ぬものだ」という無常の理に気づかされるわけである。
「人は死ぬ」というのはだれもが知っている常識だが、
いざ自分の愛するものが亡くなってしまうと悲しみで盲目になってしまうのだ。
かといって、バカにしたように「人は死ぬんだよ」と正しいことを告げても効果はない。
感情的に深い部分で寄り添ってあげて、当人が気がつくまで待つのが肝心なのだろう。
ブッダは何度も何度も悲嘆に暮れる母親のそばに一緒にいてあげたのだと思われる。
「つらいね、わからんよね、どうしてこういうことがあるんだろうね」と――。
だれかがそばに寄り添ってくれていたらば、
愛児を亡くすという痛ましい不幸をも母親は乗り越えることができる。
ひと晩のうちに二人の息子と夫のすべてを失い狂乱したパターチャラー尼も、
ブッダのやさしさに触れて、のちにはおのれの不幸を信仰に変えている。
あの世から来て、またあの世に去っていった愛児よ――。
自分とおなじように愛する子を亡くした母親に向けてパターチャラー尼は口を開く。

「127~130 来たり、また去りゆく道が知られないのに、
〔なんじのもとに〕やって来たこの子どもを〔失って〕、
なぜに、なんじは“わが子”と言って、悲しむのか?
来たり、また去りゆくかの道が知られなくても、なんじは、それを憂えない。
けだし、このようなことは、生ける者の定めであるからである。
願わないのに、かしこからやって来て、許されないのに、ここから去る。
どこからかやって来て、しばらく止まったのち、
ここから別のすがたをして去り、かしこから他のすがたをしてやって来る。
死者(=餓鬼)は人間のすがたをして、輪廻しつつ行く。
かれは、去ったときのようにしてやって来る。
ここになんの悲しみがあろうか?」(P255)


「このようなこと(=死)は、生ける者の定めである」

「ここになんの悲しみがあろうか?」

人は死ぬものだし、死んでもまたかならず生まれ変わってくる。
どこからなにゆえにやって来て、どうして去っていったのかはわからないけれども、
それは「生ける者の定め」で、
この定めにしたがい命はまたこの世に戻ってくるのだから、なんの悲しみがあろうか?
喜びも悲しみもない――ただ私もブッダのように穏やかに微笑むのみだ。

繰り返すが「長老尼の詩」は、「長老の詩」や「ブッダのことば」よりもよほどおもしろい。
なぜかと考えたら、生々しい不幸がいくつも掲載されているからである。
女は男と違って漠然とした観念的な迷いから出家したりはしないということだ。
リアルな実感的な不幸や辛苦に追われてブッダのところへやってくる。
こういう女性を相手にしたとき、ブッダは女の怖さを知ったことだろう。
男などより女ははるかに手ごわい。
なぜならブッダを独占してやろうと
常に色仕掛け(誘惑)を狙っているのが女というものだから。
みんなが崇拝するブッダを自分ひとりで独占できたらどれほど気持のいいことか。
多少とも自分の美しさに自信のある尼さんならみなこう考えたはずである。
ブッダも男相手とは異なり、尼さんには生半可なことは言えなかったのではないか。
このため「長老尼の詩」はおもしろいのだと思う。
たぶん、後年の仏教を豊かにしたのは男性修行者ではなく尼さんだったような気がする。
表には出てこずとも裏でいろいろ仕組む(噂話、色目、二股)のが女であるからだ。

「長老尼の詩」には激しい生き方をしたあげくにブッダのもとへ来た女が登場する。
たとえば、ある金持のお嬢さんは、捕えられて刑場に行く盗賊を見て恋をする。
恋心ゆえに盗賊を救出して夫婦になるが、男は根っからの悪人で妻を殺そうとする。
ここでかんたんに殺されるような弱い女ばかりではないのだ。
逆にかつては恋した夫を殺し、女は罪悪感から出家してまずはジャイナ教に入る。
しかし、のちに仏弟子との論争に負け、いさぎよくブッダに帰依したというのだから、
なんとも濃い人生である。激しい女だ。
出家した尼さんも激しい。
美貌の尼さんはある日、托鉢をしていると好色漢(助平男)からナンパされる。
男はあらんかぎりの甘い言葉をかけて美しい尼さんを誘惑しようとする。
ヘヘ、どんな聖女面をしていようが女なんて一皮むけばけだもののようなものさ。
お高くとまりやがって、おれが畜生の悦楽汁を身体の穴という穴から注ぎ込んでやるぜ。
尼さんはどうしたかというと、あなたはものが見えていないとぴしゃりと叱る。
そのうえでこの目でものをご覧なさいとその場で自分の目玉をくりぬき男に渡したという。
いきなり眼球を渡されて震え上がり逃げ出す男であった。

悟り方も女は男よりも激しいような気がする。
三度も結婚に失敗した女が出家したという。
三回とも、旦那のほうから離縁を言い渡されたのだから屈辱的である。
離縁の原因は聖典には書かれていないが、いったいなんであったのだろうか。
子どもができない石女(うまずめ)だったという可能性がまず考えられる。
しかし、夫の家族からは嫌われていないことを考えると性生活に問題があったのか。
女は性欲が強すぎて旦那は三人ともギブアップしてしまった。
あるいは潔癖症すぎて性行為を受け入れられなかった。
この後、出家して女は悟るのだが、
その内容から考えると性欲が強すぎたと考えるのが妥当なような気がする。
女は出家して尼になった七日目におのれの過去七生(前世)が見えたという。
むかし自分は資産家の宝石商だったが、若気の至りで他人の妻に手を出してしまう。
死んでから罰として長い間、地獄のなかで煮られた。
今度は牝(めす)猿の胎(はら)に入り、生まれた七日目にボス猿から去勢された。
これは前世で他人の妻と密通した報いである。
ひとたび死んでから次は片目でびっこの牝山羊の胎に宿る。
生まれてからまた去勢されて、12年間子どもの遊び相手をさせられた。
子どもは意地悪で、虫だらけと環境は悪く、病気ばかりして苦しんだ。
これも言わずもがな、他人の妻を奪った報いである。
死んだのちに次は牡牛として生まれ、また誕生直後に去勢される。
農耕用として休みなくこき使われ、病気になり、最後は盲目になって死ぬ。
この苦しみも人様の奥さんと何度も快楽をむさぼった報いである。
次にはようやく人間に生まれたものの、奴隷女の家であった。
そのうえ私は男でも女でもない「ふたなり(半陰陽)」で、
このため見世物としてさんざん好奇の目にさらされ、30歳の若さで死んだのだが、
むろんこれも過去世でよその女房とみだらに交わったがゆえである。
次は貧しい車夫の家に娘として生まれた。
この家の貧しさは桁違いで、私が16歳になったときに借金と引き換えに売られた。
豪商の家に引き取られたのだが、さっそくそこの家の精力絶倫の息子に目をつけられ、
16歳になったばかりで男を知らない生娘の私はまるで性の玩具のように乱暴に取り扱われ、
日夜やむことなく身体中の穴という穴に男の淫汁を流し込まれた。
男には正妻がいて、彼女は美しく家柄もよく賢く、世間の評判も高かった。
もちろん、男が愛しているのは私ではなく正妻のほうである。
このため私は男と妻をひどく憎んだものである。
結局、性奴隷のように仕えていた私はある日突然飽きたという理由で男から捨てられた。
すべては人妻を寝取ったという過去の業の報いである。
憎悪と怨恨を胸に秘めたまま死んだのだが、次に生まれてきたのがいまの私である。

「宝石商→地獄→猿→山羊→牡牛→ふたなり(半陰陽)→性奴隷」→尼さんということか。
最初、過去六生しかないと思ったが、地獄を入れたらたしかに七生になる。
重要なのは、ブッダが尼さんに「あなたの過去七生はこうだよ」と教えたのではないこと。
尼さん自身が出家して悟りを得た結果、「私の過去七生」を明知していること。
これは現代の日本でおかしな新興宗教に引っかからないためにも強調しておきたい。
たいせつなのは教わることではなく、自分で気がつくことである。
原始仏教集団では、かならずしもブッダが絶対的真理を教えていたわけではない。
おそらくブッダは、出家者がそれぞれ「私の真実」を発見するお手伝いをしていたのだと思う。
その「私の真実」が、たとえば「死は生ける者の定め」でも、
延々と物語られる「私の過去七生」でも、ブッダはどちらでもOKとしたのではないか。
だとしたらば、仏教は、お偉い大学教授や名高いお坊さんから真理を教わるものではなく、
われわれおのおのが、めいめい、それぞれの「私の真実」を見つければいいのではないか。
いまが苦しいならば、その苦しみに見合うような、
その苦しみを相殺(そうさい)できるような、
たとえば、先ほど登場した尼さんに負けないほど波乱万丈な
「過去七生」の物語を(人から教わるのではなく)自分で創作すればよろしいのである。
真理は教わるものではなく、きっと自分で発見(創作)するものだ。
われわれはそれぞれの「真実(←発見)=フィクション(←創作)」を生きればいいのだろう。
それぞれの真理(=真実=ウソ)を生きよう。

「長老の詩(テーラ・ガーター)」(早島鏡正訳/「原始仏典」筑摩書房)

→仏弟子の言葉を集めたもの。
ブッダ没後の弟子の言葉も少数ながら収録されているが、大半は直弟子とのこと。
本書を読むと、仏弟子の悟りは似ているが、また人それぞれでもあるのである。
これはどういうことか。
おそらく、悟りというのは究極を突き詰めれば人それぞれなのだろう。
考えてみれば、それまで送ってきた人生が違うのだから、
Aという人とBという人の行き着いた結論が異なるのは自然である。

いったい悟るとは、どういうことなのか。仏教がわかるとは、どういうことなのか。
大学院でサンスクリット語やパーリ語を勉強して、お偉い教授先生の顔色をうかがいながら、
だれも読まないような重箱の隅をツンツンする博士論文を書けば
仏教を理解したことになるのか。そう思っている人がいることをどうこう言うつもりはない。
しかし、サンスクリット語やパーリ語を読めないものは仏教を理解していないとまで
言われたら、いや、それはそうとも言い切れないのではないか、と反論したくなる。
わたしの考えでは、サンスクリット語もパーリ語も仏教理解とは関係ないと思う。
仏教学が専門の大学教授がかならずしもよく仏教をわかっているとは思えない。
問題は、彼自身がレアな難病にかかったときである。
もしくは彼の子どもが交通事故で死んでしまったときにどうするかだ。
こういう実人生における苦しみの試練に遭遇したとき、どういう対応を取るかだ。
果たしてサンスクリット語の権威は、おのれの生々しい苦しみや痛みを、
彼がふだん教室で鼻高々に披露しているような
四諦や十二因縁の教えで御すことができるのか。
いったい実人生における苦悩や激痛に対して、博士論文や学術論文は有効なのだろうか。

仏教を教わることは可能だろうが、最終的には自分で気づくしかない。
いくら正しい仏教を教わっても本当は大した意味がなく、
本人が自分の一回きりの人生で苦しみと格闘することで得た知見こそ価値がある。
若僧が大仰な物言いをするのをお許しいただければ、
苦しんでいないやつには仏教はわからないのだ。
たしかに難解なサンスクリット語を勉強するのは一種の苦しみだろうが、
そんなものをはるかに凌駕(りょうが)する苦しみに人生は満ちているのである。
たとえば、ある青年がお偉いお坊さんから仏教は業を重んじていると教えられたとする。
へえへえ、そうなのか、とあたまで考えてもほとんど意味がない。
彼が中年になって不幸にも難病にかかり、毎日が激痛の連続だとする。
数年まえに妻とも別れてしまい、たったひとりという孤独で難病と向き合わなければならない。
もし彼が仏教を理解するとしたら、このときをおいてほかにない。
病気の苦しみというものは、当然だがいまから2千年まえにもあったのである。
当時、もっとも嫌われていた、らい病(ハンセン病)にかかった仏弟子がいる。
彼はどういう悟りを得たのか。

「81 その昔、他のいくたの生存において、わたしのなした悪〔業の果報〕を、
わたしはこの世において感受すべきである。
〔しかしながら、次の〕他の〔生存を引き起こす〕根拠は、
もはや〔わたしに〕存在しない」(P178)


要は、苦しみのただなかでこれがおのれの業であると信じられるかどうかだ。
難病を自分の業の結果、すなわち業病と思えるかどうかが問題なのである。
難病にかかってから医者にぐちぐち不満を言うような患者は、
たとえ仏教学専門の大学教授でも、からきし仏教を理解していないと言わざるをえない。
どういうことかと言うと仏教は知識ではなく、信心の問題なのだ。
いざというときに信を取れるかどうかが仏教の要諦で、知識はそれほど問題ではない。
むしろ、知識など慢心(おれは偉い!)の原因になるだけの悪徳なのかもしれない。

らい病の男はどのようにして悟りにいたったのか、
他の仏弟子の信仰告白を参考にしながら見ていきたい。
偉そうな物言いをすれば、いまなにに苦しんでいるかをたずねたら、
彼(女)の信仰のレベルがわかると言ってもいいのかもしれない。
なぜ人は苦しむのか。なぜ地獄のような苦しみがあるのか。

「1112 けだし、欲望は種々であり、甘く美しく、無知の凡人どもは、それに縛られる。
かれら再生を求める人々は、苦しみを〔もたらす欲望を〕欲して、
〔みずからの〕心に導かれ、地獄に投げ込まれる」(P237)


欲望するから苦しまなければならない。
元気に無痛で歩き回りたいという欲望がかなえられないから病気は苦しみなのだ。
自分の子どもが健康で生きていてほしいと願う欲望がかなわないから
苦しまなければならない。いったいこの苦しみの正体はなんなのか。

「422 〔この道は〕業を業だと知り、また〔業の〕報いを報いだと〔知って〕、
縁によって生起した諸事象をありのままに観見し、大いなる安穏の境地に行き、
寂静(じゃくじょう)をえ、究極の善に至らせる」(P201)


苦しみは、業の報いなのである。
言い換えると、苦しみとは、業が「縁によって生起した」結果なのである。
ならば、この苦しみはどこから来たのだろうか。
苦しみは業(行為)だというが、なんの行為がいけなかったのか。

「786 あたかも盗賊が盗みを働いている最中に捕えられ、
自身の行為によって、悪者として処罰されるように、そのように、
人々は死後、他の世界において、
自身の行為によって、悪者として処罰される」(P221)


いまの苦しみは、過去世の悪者としての行為の罰であるということだ。
ならば、救いはどこにあるのか。

「493 およそ、輪廻の存続する限り、無限の苦しみがある。
この身体の破壊と生命の壊滅によって、もはや、わたしに他の再生はない。
わたしは、あらゆるものから解脱しているからである」(P205)


いままでのプロセスを整理してみる。
「業→因縁→欲望=苦しみ=行為(悪業)→死」となる。
輪廻転生で、死んだあとも人は再生するため、ふたつ並べると以下のようになる。
正しくは、これが永遠に続くと思ってください。

「業→因縁→欲望=苦しみ=行為(悪業)→死→再生→業→因縁→欲望=苦しみ=行為(悪業)→死」

一回きりの人生で言えば、「業→因縁→欲望=苦しみ=行為(悪業)→死」である。
このプロセスのうち、われわれの自由になる部分が一箇所あるではないか。

「254 わたしは、あらゆる欲望を捨て、あらゆる生存を破り、
生〔死〕輪廻を断じつくした。
いまや再〔輪廻の〕生存〔をうけること〕はない」(P191)


欲望をゼロ(0)にしたらいいのである。
実際にさっきの簡略図にゼロを投入してみようではないか。
「業→因縁→欲望(ゼロ)=苦しみ=行為(悪業)→死→再生」
結果は、どうなるか。
業=ゼロ、因縁=ゼロ、苦しみ=ゼロ、悪業=ゼロ、死=ゼロ、再生=ゼロ!

ところが、以上のことをあたまで理解しても苦しみは消えないと思われる。
それほどに欲望を消滅させるのは難しい。
周囲が現世の幸福や成功を目指してあくせくしているときに、
自分ひとりだけ無欲になるのは99.99%不可能と言い切ってよいのではないか。
やはりどうしようもなく原始仏教の教えで悟りを得たいならば出家するしかないのだ。
周囲がみんな無欲だったら、われわれももしかしたら無欲になれるかもしれない。
集団で行動していれば、集団催眠(=共同幻想=洗脳)のような状態が発生しやすく、
業が深い(=欲望が強い)人間もおのれの生存から離れることができるかもしれない。

ここからはわたしのとっぴな妄想だが、欲望をなくすには死が手っ取り早いのではないか。
というのも、死んでしまえば欲望がなくなるでしょう。
そもそも生存欲というのは、人間にとってもっとも厄介な欲望なのだから。
この欲望を消せる人、つまり自殺をできる人が、本当の悟りを得たものではないのか。
自殺者は軽蔑されたりあわれまれたりすることも多いが、
実のところ自殺者を批判する欲深い人たちよりもよほど聖人に近いとは思えないだろうか。
仏教の「寂滅為楽(じゃくめついらく)」は「死ねば楽になれる」という意味ではないか。
ちなみに、インドから遠く離れた日本でも似たようなことを言っている坊さんがいて、
踊り念仏で知られる時宗の一遍上人は「とく死なんこそ本意なれ」という名言を遺している。
「とく死なんこそ本意なれ」とは、早く死ぬのがわが本望だという意味である。
法然、親鸞が出た後の最後の念仏者・一遍の教えは、
もしかしたら原始仏教に近いのかもしれない。

「本生経(ジャータカ)」(平川彰訳/「原始仏典」筑摩書房)

→仏教のなにに引かれるかといったら、業(ごう)の思想である。
宿業の思想だ。宿命の死生観だ。
ジャータカは、ブッダの本生譚(過去世の物語)で、たぶん世界最初の仏教文学だと思う。
500以上の物語があるらしいが本書ではそのうちの37を収める。
筑摩書房「原始仏典」のなかでもっともおもしろかったのは、このジャータカである。
なぜなら、お話になっているからだ。物語だからである。
ジャータカは主にブッダの業を描いている。
業とは身口意(しんくい)の行為のことだから、
ジャータカはブッダの過去世における行動を物語る。ブッダの宿命とはなにか。

ジャータカにしたがうなら、この世にひとつとして業でないことはないのかもしれない。
あるときブッダが木のトゲで足を傷つけてしまったという。
これはどういう業によるのかと弟子はブッダにおたずねする。
ブッダは問いに答えるかたちでお話しする。過去世の業を物語る。おのれの宿命を語る。
むかし栄えた都市にふたりの商人がいたという。
どちらも船を所有しており、財宝を求めて、大海原に繰り出した。
二艘の船はうまく風に乗り、宝の島に行き着くことに成功する。
ここからの行為がわかれるのである。
ひとりは欲に目がくらんで重量を考えずに宝を船に積み込んだ。
さあ、出航である。宝を山ほど積んだ船は重みで沈んでしまう。
海に放り出された因業欲深な商人は、もうひとつの船に助けを求める。
助けを求められた商人はどうするか。どのように行為するか。
おのれの宝をいくばくか海へ棄ててライバルを救出してあげることにする。
これでめでたし、めでたし、ではない。人間はそういうものではない。
助けられた商人は悔しいわけである。人間はどうしようもなく嫉妬する生き物だ。
どうしておれの宝は海の底に沈んだのに、
あいつだけうまうまと財宝を持ち帰ることができるのか。許せない。
そうだ、この船も沈めてやればいいんだ。
恩知らずにも男は船の底に穴をあけようとする。
「なにをしている? そんなことをしたらどうなるか考えてみろ。
宝を失うばかりではなく、われわれも死んでしまうぞ!」
船主は道理を言い聞かせるが、嫉妬に狂った男は行為をやめようとしない。
こういうときにいったいどうしたらいいのだろう。おめおめと死ぬべきか、それとも。
船主は槍(やり)を持ち出してきて、穴をあけようとしている男を刺し殺したという。
やむをえず殺生の罪を犯したわけである。
ブッダが弟子に向かっていうには、このときの殺人者がほかならぬ私である。
この業によって私は百年、千年と地獄の苦しみを受けた。
ようやくいま悟りを得てブッダとなったけれども、
まだあのときの業が残っていて、先ほど木のトゲで足を傷つけるという災難に遭遇した。
いま私が激痛に苦しまなければならないのは、こういう業のためである。

聖人ブッダは過去世で人を殺していたのである。
ブッダでさえ過去世においてひとり人間を殺しているのならば、
われわれ凡愚のものはいったいこれまで何人殺してきたことだろうか。
何度も何度もわれわれは憎き相手を槍で殺してきたのである。
その業のためにわれわれはいま苦しまなければならないのかもしれない。
つゆ宿業にあらざることなしとは考えられぬか。
料理中に包丁で指をうっかり切ってしまうのも業なのである。
なにもかにも業だ。業ゆえに苦しまねばならぬ。
さて、この物語からわかるように、ブッダでさえ一度は地獄に堕ちているのだ。
われわれのうちひとりとて地獄に縁なき衆生がいるだろうか。
こちらの業が深いためか、船の底に穴をあけようとした男の気持もとてもよくわかる。
あれは自分であるとも思う。もしあの場にいたら、きっとおなじことをしていただろう。
ならば、われわれは過去世で殺されているのかもしれない。
何度も槍で刺され痛みにのたうちまわったのだろう。相手を強く怨んだはずである。
おまえを絶対に許さないと命の恩人を絶命の瞬間、憎悪の目でにらみつけた。
原文には書かれていないが、このとき死んだほうが後世、
ダイバダッタ(提婆達多)として生まれ変わったのではないか。
ダイバダッタとは、最初は仏弟子だったが、のちにブッダを裏切る悪役である。
この悪役はジャータカで何度も登場する。
ある時代には女と共謀して王子(ブッダの過去世)の目玉をくりぬく。
また別の時代には、
善王(ブッダの過去世)を王座から引きずり落とし息子の目の前で惨殺する。
怨みは生々世々(しょうじょうせぜ)に引き継がれ、
決して消えることはなく、いや増すばかりである。
人間にとってプライドを傷つけられるのが、いちばんの相手を怨む理由である。
ダイバダッタは過去世で大臣だったが、賢い青年(ブッダの過去世)に顔をつぶされる。
大臣はこの怨みを晴らすために悪行ではなく善行をするのである。
そのうえでこう誓願するのだから、まこと人間味がある。

「私はいま二万歳中、定光如来および修行僧に、
衣服・飲食・床臥具・病気のための医薬を供養しました。
しかるにかの青年は、私の座席を移動させて、
自ら坐し、私の供養を奪い、私の名誉をこわした。
今この二万歳供養の福の因縁により、これから生々世々に常に
彼を毀(こぼ)ち辱(はずか)しめるであろう。
たとい彼が仏陀になっても、決して離れないであろう」(P99)


生々世々にである。何度生まれ変わってもかならず仕返しをしてやるからな。
いくたび死のうが絶対にまた誕生しておまえのまえに姿を見せてやるぞ。
これほど強く結ばれた因縁は、ある時代には次のような業となって現われる、
業が業を生むのである。業は決して消えることなく永遠に続いていく。
ある時代にダイバダッタは貧しい人間として生まれ、きこりをしていたという。
いつものようにたきぎを取っていると虎に遭遇してしまう。
きこりは慌てて逃げ出し、大木(たいぼく)があったので上に登ろうとした。
ところが、木の上には熊がいるのである。きこりはどうしようか迷う。
実のところ、この熊がブッダの過去世の姿であった。
熊はきこりを守ってやろうと抱きかかえ、木の上の安全なところに避難させてやった。
すると、虎が熊に話しかけて、こういうのである。
「そいつは恩知らずだ。いまにおまえを裏切るぞ。いますぐ投げ捨てろ。
おれが食ってやる。あいつを食うまではおれはここを離れないからな」
熊が答えていうには――。
「この人は私に助けを求めたのです。私は彼を信用します」
虎は木の下から動こうとしない。
それを見た熊はきこりにいう。
「私はあなたを助けて疲れたからしばらく眠りますよ。
どうかそのあいだ自分で気をつけて、それから私を守ってください」
熊が眠り込んでしまうと、虎が今度はきこりに話しかける。
「おまえさん、いつまでそこにいるつもりかい?
おれは腹が減っている。その熊を下に落としてくれ。
そいつを食ったらおれは去る。そうしたら、おまえさんも家に帰れるぞ」
きこりは迷う。このままいつまでも木の上にいるわけにはいかない。
しかし、熊には助けてもらった恩があるではないか。
とはいえ、熊が目を覚ましたら、気が変わっておれを下へ放り投げるかもしれないぞ。
そうなってから後悔しても始まらない。
だったら、やられるまえにやったほうがいいではないか。
なんだかんだといって、いちばん大事なのは自分の命だろう。
きこりは虎の誘惑に負け、寝ている熊を下に落とす。
熊はさすがブッダの過去世である。落とされてもきこりを怨んだ目で見ない。
それどころか落ちるまでのわずかなあいだに熊はありがたい仏法をきこりに説いた。
空腹の虎はうまそうに熊をたいらげると、その場から去っていった。
きこりは完全な悪人ではないから始末が悪いのである。
自分はなんとむごいことをしてしまったのか。熊はこちらを怨んでにらむこともなかった。
むしろ反対にあわれんで、仏法を教えてくれたあの熊の慈悲に満ちた目はどうだ!
熊の慈悲深い目を思い出すごとにきこりは苦しみ、ついに発狂してしまったという。
きこりの家族がなんとか治そうと多くの医者に見せたが、元に戻ることはなかった。
このきこりがダイバダッタの過去世の姿で、
この業のために、この業にうながされて、彼は生々世々にブッダにつきまとわざるをえない。
大恩ある熊を裏切って死なせてしまったという業は永遠に消滅することはないのである。
業が消えないとはどういうことか。

「このように、行なった善と悪に応じて、その報いとして、
禍いと福とが随うのは、影が形に随う如くである。
悪業が熟して、罪がそれに随うのは、ひびきが声に応ずる如くである」(P119)


まったくの同文がわが国最古の仏教説話集「日本霊異記」にもあることを指摘しておく。
業とは、因果が報いるということだ。因果がめぐる。
業を説くのは「日本霊異記」だけではない。
「親の因果が子に報いる」様子を描いた説経節「しんとく丸」もジャータカの子孫だ。
仏教文学は業を描く。仏教でいうところの業は物語として教説される。
現代日本の作家で仏教における宿業をだれよりもうまく描いたのは宮本輝である。
業はたとえ「五千回の生死」を繰り返しても消滅することはない。

「たとい百劫を経ても、行なった業は亡びない。
因縁がたまたま遇うときに、果報はかえって自ら受けるのである」(P166)


最前は熊として生まれ虎に食われたブッダだが、
今度は人間として生まれふたたび虎に食われるのだから、
まさしく「たとい百劫を経ても、行なった業は亡びない」――。
さて、いつの時代だか王子として生まれたブッダは、兄ふたりと森へハイキングに行く。
森林を奥深く分け入っていくと、弱った虎が身を横たえているではないか。
どうやらお産をすました後らしく、母虎のまわりには七匹の赤ちゃん虎がいる。
空腹で動けないようだ。
やさしい心根を持った三人の王子は虎の様子にそれぞれ心を痛める。
いちばん下の王子はある行為を決意して、兄ふたりに帰宅をうながす。
しばらくしてから王子はひとりで虎のところに引き返してくる。
このままでは虎が死んでしまうのではないか。
空腹にたえかねて母がわが子を食らうことなどゆめゆめあってはならぬ。
王子はわが身を差し出そうと決意したのである。
「虎よ、われを食え」と王子は虎のまえに横たわる。
しかし、畜生といえども王子の慈悲に打たれたのか、虎は動こうとしない。
ならばと一計を案じた王子は自ら竹で喉もとを突き刺し、
さらに高所から虎のまえに身を投げた。
血だらけの王子をまえにして本能に目覚めた虎はむしゃむしゃ人肉を食らったという。
嘆きが尽きないのは王子のふたりの兄である。
王子を探して戻ってきたふたりは、きちんとたたんで置かれた弟の衣服を見つける。
すぐそばには生々しい血だまりが、それから王子の骨、髪、爪が散らばっている。
なにが起こったのかを知ったふたりの悲嘆といったらない。
あのやさしい弟は虎にわが身を与えてしまったのか。
こうなることを知っていたら、自分が虎に食われていればよかった。
いや、いまだからそういえるので、われわれは飢えた虎になにもしなかったではないか。
弟が死んだことを城にいる父母に告げたら、どれほど悲しむことだろう。
遺族の苦悶を考えると、
自ら死を選んだ王子は決して善行のみをなしたわけではないのである。
この物語を伝え聞き、やはりブッダは過去世でも偉いと感嘆してばかりなのは大馬鹿だ。
王子は虎を助けはしたが、兄ふたりと父母を絶望の淵に落としているのだから。
ことに育ててくれた恩のある両親を悲しませているのは罪深い。
しかし、これが業というものだ。これが宿業だ。宿命とはこういうものだ。
王子の両親は子どもに先立たれる業を持っていたのである。
愚かにも虎に食われる子の親となるべき業を悲しくも生まれ持っていた。
兄ふたりもそうである。いわば弟を見殺しにしたふたりの自責の念は相当なものだろう。
だが、これもまたふたりの業なのである。
ふたりは過去世で、自らの命ほしさに恩ある熊を裏切り虎に食わせていたのかもしれない。
このため、このような死別の苦しみを味わわなければならなかったとは考えられぬか。
もしくは前々世で強盗に襲われ、正当防衛として逆賊を殺してしまったのかもしれない。
強盗とはいえ生きてゆかねばならぬから仕方なく人を襲うのである。
なにも殺すことはないじゃないか。
殺された強盗に彼をたいへん愛する家族がいて、
生々世々に仕返しを誓われたとは思えぬか。
なんじよ、いいか、愛するものを喪う苦しみを生々世々に味わえ!

ブッダが自殺するのは一度だけではない。
ジャータカのなかでは有名な雪山童子もまた自殺している。
ここには信仰の本来の姿が描かれているように思う。
修行僧である雪山童子はある日のこと、
山奥で羅刹(らさつ=鬼)からわずか二行の仏法を教わる。
「諸行無常 是生滅法」である。
雪山童子は残り二行の教えをどうしても知りたいが、羅刹は交換条件があるという。
「おれは鬼だから人肉を食いたい。おまえを食べてもいいなら教えてやろう」
雪山童子は答える。「いいだろう。教えてくれ」
「生滅滅已 寂滅為楽」を羅刹から教えてもらった雪山童子はどうするか。
いさぎよく身を捨てるのである。高い木の上から投身自殺を遂げる。
捨身=利他=自殺ができるということは、そういう業を持って生まれたということだろう。
信仰とは、生きるか死ぬかぎりぎりのところで身を賭すような行為であることがよくわかる。
死んだらあの世があるのかどうかを知るためには、死んでみるしかないのである。
ブッダの過去世の姿である雪山童子がなした行為はまさしくこれではないか。
ブッダは過去世で何度も自殺を遂げたがために、その功徳として悟りを得たのである。
「仏教では自殺を禁じている」なんていうクソ坊主の言葉は嘘八百である。
むしろ、現代に思い切って自殺してみるような勇気ある坊主はいないものか。
どうせ業にしたがい生まれ変わってくるのだから死を恐れることはないことになる。
少なくとも雪山童子はこれっぽっちも死を怖がっていない。
童子は羅刹からなにを教わったのか。
「諸行無常(みんな無常だよ)
是生滅法(これが生滅の法だ)
生滅滅已(生滅が終わって)
寂滅為楽(死んだら楽になる)」

デタラメばかり書きやがってとお怒りの方もおられるかもしれない。
仏教の真理はそんなものではない、とコメント欄でお叱りを受けるかもしれない。
(まあ、ここまで何人がお読みくださっているか文章に自信はありませんけれどさ)
しかし、ジャータカでもブッダは絶対的真理などないと主張しているのである。
絶対的真理などないのだから、無意味な論争はするな。
実にうまいたとえを用いてブッダは絶対的真理のないことを説明している。
むかしある国でバラモン僧が論争ばかりしてお互いを傷つけあっていた。
王様は絶対的真理など存在しないことを証明するために国内へ布告を出す。
国中の盲人を城へ集めろというのである。
さあ、大勢の盲人が城の広間に集ったが、王様はなにをしようというのだろう。
そこに大きな象が連れられてくる。
「この人たちに象を見せてやりなさい」と王は仰せである。
盲人たちはそれぞれ手を引かれ象に近づいていく。
といっても、目は見えないから触れるのみである。王様はいう。
「いいかな、いまわれわれはみなで象を見た。
はて、象とはどのようなものかな?」
象の足に触れたものは「象は竹筒のようなものです」という。
象の尾に触れたものは「象はホウキのようなものです」という。
象の腹に触れたものは「象は太鼓のようなものです」という。
象の脇に触れたものは「象は壁のようなものです」という。
象の背中に触れたものは「象は机のようなものです」という。
象のキバに触れたものは「象は角のようなものです」という。
象の鼻に触れたものは「象は綱のようなものです」という。
ほかにも触れた部分にしたがい、めいめいおのおのまったく違うことをいう始末である。
それぞれが自分は絶対的真理を述べているつもりなのだからおかしい。
盲人の考え(=「象は○○のようなものです」)はどれもみな真実である。
少なくとも、当人にとっての真実ではあるのだろう。
しかし、どれも絶対的真理かといったら、むろんそうではない。
おそらく、仏教も似たようなものなのではないか。
いろいろ経典によって教えは異なるが、どれも真実で同時にまたみながウソなのである。
飛躍すると、人生も似たようなものとは考えられぬか。
われわれはみなめくらなのだろう。実際は、なにも見えていない。
それぞれ業にしたがい体験することが異なるのは、盲人が象に触れるようなもの。
人の数だけ「私の真実」があるけれども、それらは断じて絶対的真理ではない。
人はとかく「私の真実」を絶対的真理だと思いたがるが、それは違うのである。
絶対的真理のようなものは人間の目には映らないようになっているからである。
たぶん絶対的真理は太陽のようなもので、直視したら目がつぶれてしまうのだ。

もとより不勉強なわたしの仏教観が絶対的真理であるわけがないが、
一応断っておくと、このブログに書かれた仏教思想はすべてデタラメといってよい。
しかし、いま真理とされているものも、おそらくは絶対的真理ではあるまい。
多数派が支持している考えを絶対的真理と見誤り驕(おご)っているに過ぎないのである。
わたしはあらゆる宗教の教える真理を尊重したいが、どれも絶対的真理だとは思わない。
どれかひとつの教えを絶対的真理だと見なし人生を賭けてみるのが信仰であるならば、
残念ながらまだわたしには信仰がないのかもしれない。
しかし、狂信や盲信が本物の信仰なのかは絶対的真理がないためわからないと思う。
仏教も人生もわからないことばかりだと思うが、
わかったと思っている人よりはわかっているという思い上がりがあるので、
決して謙虚とはいえず、むしろこちらの態度を傲岸不遜と思われる方もいるでしょう。
とはいえ、論争しても論破されてもわたしの考えは変わらないような気がする。
考えが変化するとしたら、おのれの宿業にしたがい人生でなにかを体験したときである。
おのれの業を知るために人は生きるのかもしれない。

(注)この記事で扱ったジャータカのタイトルを順に書いておく。
「34 仏陀が刺木にて足を刺された因縁」
「31 きこりを助けた熊」
「6 薩埵太子、身を捨てて飢えた虎を救う」
「26 雪山童子の求法」
「25 鏡面王と盲人」

「経典のことば」(中村元訳/「原始仏典」筑摩書房)

→原始仏教の経典である膨大な阿含経から、中村元博士がお好みの箇所を抜粋したもの。
解説によると阿含経は全72巻の翻訳が出ているらしいが、
そんなもん、いったいだれが読むんだろう。
しかも研究者になると、原文のパーリ語とやらで読むんでしょ。
そんなことしても意味ないじゃんとか思う人は仏教研究など絶対にできないのだろう。

どうでもいい話をすると、わたしの仏教経典初体験は、
8年まえに読んだ岩波文庫「ブッダのことば(スッタニパータ)」。
(ちなみにスッタニパータも阿含経の一部らしい)
芝居っけたっぷりにインドに文庫本を持参して現地で読んだものである。
感想は、インドのくそ暑さのなかで読んだせいもあるのだろうが、つまらないに尽きる。
数ページも読むと、あたまが痛くなるのだから。
ブッダというのはえらくつまらない人だなと思った記憶がある。
朴念仁(ぼくねんじん)、無粋(ぶすい)、野暮天(やぼてん)という言葉がぴったり合う。
もしかしたら紹介者の中村元氏がそうだったのではないかと疑うが、
仏教界の天皇陛下のような人の悪口を書いたら、どこから石が飛んでくるかわからない。
中村博士は池田大作さんのような邪悪な精神を持っていないのだろう。
だから、博士の紹介するブッダは人間味がない。おもしろくない。つまらん。

「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって得たものを失う人がある。
これは破滅への門である」(P69)


おいおい、男ならどれかひとつくらい夢中にならんと人生はわからんだろう。

「過去を追わざれ。未来を願わざれ。
およそ過ぎ去ったものは、すでに捨てられたのである。
まだ未来は到達していない。
そうして現在のことがらを、各々の処においてよく観察し、
揺ぐことなく、動ずることなく、それを了知した人は、その境地を増大せしめよ。
ただ今日のまさに為すべきことを熱心になせ。
誰か明日の死のあるを知ろう」(P78)


最後の一文を除いたかたちで、よく現代の自己啓発書でも見かける文句である。
「明日死んじゃうかもしれないよ」は自己啓発書には書けない。
なぜなら、そのことを理解してしまうと成功なんてどうでもよくなってしまうから。
死を説いているからやはりブッダは宗教家だったのだろう。
まあ、「毒矢のたとえ」や「判断中止」の説で死をごまかしているとも言えるけれど。
わたしがブッダのいちばんの名言だと思うのは以下の抜粋である。

「〔特殊な哲学的〕見解を保持して論争し、「これのみが真理である」
という人々があるならば、汝(なんじ)はかれらに言え、
――「論争が起っても、汝と対論する者はここにはいない」と」(P63)


新興宗教の教祖ならしっかり「おれは絶対に正しい」と言ってほしいところだが、
ブッダは「絶対的真理などない」「論争をするな」と主張しているわけである。
絶対的真理などない――だから、酒や女に狂っても、博打に血眼になってもいいのだろう。
開祖が絶対的真理などないという包容性を有していたからこそ、
後代に相互が矛盾するような経典が多く生まれたのかもしれない。
「絶対的真理がない」というのは本当はどえらい真実を語っているのだろうけれども、
その恐ろしさに気づくものは少数で、
たとえば仏教が専門の大学教授は学生のレポートに軽々しくバツをつけることになる。
絶対的真理がないのなら本当はすべてがマル(真実)になるはずなのだが。
絶対的真理がないのなら本当はすべてがバツ(ウソ)になるはずなのだが。

「仏伝」(中村元訳/「原始仏典」筑摩書房)

→A「仏伝に関する章句」B「偉大なる死」からなる。
どちらも経典全文ではなく抜粋である。
ともあれ、中村元博士を信じるならば、伝説ではなく、
歴史的存在としての人間・釈迦がよく表われているところからの抜粋らしい。
さて、失礼極まりないことを言い放ってしまうと、果たして釈迦は偉いのだろうか。
よく安手の仏教書を読み漁った手合いが訳知り顔で釈迦を引き合いに出して、
創価学会などの新興宗教を否定しているが、あれはどう判断すべきなのか。
たとえば、創価学会の教えは釈迦とほとんどまったく関係ない。
仏教の開祖は釈迦だから、釈迦の教えが正しく、ならば新興宗教は誤りなのか。
こういう論法の根底にあるのは開祖の釈迦が偉く正しいという盲信である。
あまり大きな声では言えないが、もしかして釈迦は大して偉くないのではあるまいか。
仏教は後世に偉い弟子がたくさん出たので広がったとは考えられないだろうか。
古いからただそれだけで偉いというのはおかしくないだろうか。
聖書ではアダムとイブなぞ、バカップルの元祖のようなものでちっとも偉くない。
人間はむかし猿だったという説に従うなら、果たしてお猿さんは偉いのだろうか。
釈迦を持ち上げるのはお約束というか建前程度のもので、
後世釈迦をうまく利用して新しい仏教を創造した人間のほうがもしや偉大なのではないか。

当時の修行者が聞いて感動した釈迦の教えの断片というものがある。
釈迦自身から聞いたのではなく、弟子からの又聞きとのこと。
にもかかわらず深く感動して以後釈迦に帰依するようになったという。

「もろもろの事がらは原因から生じる。
真理の体現者はそれらの原因を説きたもう。
またそれらの止滅をも説かれる。
偉大なる修行者はこのように説きたもう」(P34)


「原因がある」って、そんなもんいまじゃ常識的な思考法じゃないか。
それに言っちゃ悪いけれど、とりたてて真理とも思えない。
現代科学的に考えたら、世の中には原因のない偶然もあるわけだから。
すべてに原因があると考えると精神の安定するのはわかるが(宗教的!)、
決して「もろもろの事がらは原因から生じる」わけではない。
繰り返すが、すべてに原因があると信じるのは個人の自由だけれども。
ならば、どうして「原因がある」ごときが真理として当時もてはやされたのか。
一見、真理を教えられたような錯覚がもたらされるからである。
根本原因がわかってしまったなどと釈迦に騙されたものが大勢いたのだろう。
さて、新興宗教開祖の釈迦は延々と苦しみの原因を追い求めてゆき――。

「……出生によって老いと死、憂い・悲しみ・苦しみ・愁い・悩みが生じる」(P20)

ほ~ら、よい子のみんな、ぼくたちが苦しむのは生まれてきたからだよ!
じゃあ、どうしたらいいのか。
貪欲(とんよく)をなくせばいいんだ。欲望をなくせば、すべての苦しみが消えるのさ。
しかし、そりゃあそうだけど、正論なのは認めるが、だからなに? と言いたくならないか。
ロボトミー手術でも受けろって言うのかよ。
もしくは精神分裂病(統合失調症)になって人格荒廃状態(≒廃人)に行き着くしかない。
亡児を抱き悲嘆に暮れている二親に「それは貪欲だよ」と正しい教えを説いても意味がない。

こういうことを考えてか、もうひとつ釈迦は苦しみの原因を突きとめている。
これも釈迦の教えた真理とされ、ことさら珍重されている。

「およそ生起する性あるものは、すべて滅び去る性あるものである」(P30)

いわゆる無常として教えられている真理である。
人が死ぬのは無常ゆえ、病気になるのも無常ゆえ、老いるのも無常ゆえ。
もっと考えてみれば、ほかならぬあなたやわたしも無常でしょう?
確固たる「我」のようなものは無常ゆえに存在しない。
ならば「我欲」も実体はなく「貪欲」も抱く必要はないと悟ることはできませんか?
ハイ、答えは、「無理無理」。ちょっとそれ無理だって。
しかしさ、大した出世もできずに定年を迎えたような老人には都合のいい考え方ではある。
つまらない人生も、おれはものに貪欲しなかったんだと聖者気取りでいられるかもしれない。

あんまり悪口ばかり言っても詮ないので、ひとつ感心した教えを書きたい。
原始仏典からして、業(ごう)の思考法がしっかり根づいているのには驚いた。
しかし、これは釈迦のオリジナルなのか疑問である。
どういうことかと言うと、釈迦は仏僧ではなかったのである。
金持のぼんぼんだった釈迦は出家してバラモン僧になったのである。
バラモン教とは古代ヒンドゥー教ともいうべき当時支配的だった民俗信仰のこと。
わたしが原始仏典で感銘を受けた業の思想は釈迦の発想ではなく、
当時のバラモン教の世界観だったのではないのだろうか。
とはいえ、仏教にも取り入れられた業の考え方はよろしい。
人は業によって何度も生まれ変わり輪廻転生するという信仰である。
われわれは過去において百の生涯、千の生涯、万の生涯を持っているというのだ。
人生は一回きりと思っているかもしれないが、そうではないというである。
これまで無数の死をわれわれは経験してきたし、これからも誕生して苦しみ続ける。
釈迦は悟ったときに、おのれの過去の生涯を思い起こしたという。
すなわち――。

「一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、
十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、
百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、
幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。
われはそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、
これこれの種姓であり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受し、
これこれの死にかたをした。そこで死んでから、かしこに生れた」(P21)


原始仏典の中部経典にこの記述がなされているという。
果たして釈迦は本当にこんなことを言ったのだろうか。
言っていたとしたら大乗仏教の萌芽は釈迦のこのセリフになるのではないかと思う。
いんちき大乗仏典の法華経や浄土三部経の永遠性の起源はここに求められるはずである。
法華経信仰や阿弥陀仏信仰の発端は釈迦のこの発言ということになろう。
科学では答えられない問いに次のようなものがある。
なぜある人は金持で、別の人は貧乏なのか。なぜある人は美しく、別の人は醜いのか。
どうして幸福な人たちがいる一方で、自分ばかりこうも不幸に苦しまなければならないのか。
釈迦は悟りを開いたときに、この問いの答えを知ったという。

「かくのごとく心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、汚れなく、
柔らかで、巧みで、確立し不動になったときに、
もろもろの生存者の死生を知ることに、われは心を向けた。
すなわちわれは清浄で超人的な天眼をもって、
もろもろの生存者が死にまた生れるのを見た。
すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、
美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、
としてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを見た」(P21)


「業にしたがう」とはどういうことか。釈迦は引き続きおのれの得た悟りを説明する。
業とは行為のことである。行為には善行と悪行がある。

「実にこれらの生存者は身に悪行を為し、
ことばに悪行を為し、こころに悪行をなし、
もろもろの聖者をそしり、邪(あやま)った見解をいだき、
邪った見解にもとづく行為をなす。
かれらは身体が破壊して死んだあとで、悪しきところ、堕ちたところ、地獄に生れる。
また他のこれらの生存者は、身に善行を為し、
ことばに善行を為し、こころに善行をなし、
もろもろの聖者をそしらず、正しい見解をいだき、正しい見解にもとづく行為をなす。
かれらの身体が破壊して死んだあとで、善いところ、天の世界に生れる」(P22)


この発言も先ほどのものとおなじく原始仏典の中部経典である。
本当に釈迦がこんなことを言ったのだろうか。
もしそうだとしたら、これは意外な発見である。
釈迦は穏やかな聖人だと思っていたが、しっかり「地獄に堕ちるぞ!」を言っているのである。

結論として、釈迦は偉人だったのか。
釈迦自身の教えというのは、そう大したものではなかったような気がするのである。
だが、釈迦の生きた古代インド世界に
強く根づいていた業(輪廻転生)の考え方はおもしろい。
ことさら因果関係を重んじた釈迦は、業にも原因的要素を強く求めたのだろう。
それがどこまで釈迦のオリジナルかわからないので評価が定められないのである。
釈迦は「どうして苦しいんでしょう」「なぜ不幸なんでしょう」という問いに、
いったいどう答えたのだろう。
1.「執着するからだよ(貪欲を捨てなさい)」
2・「無常であることを理解しなさい(苦は無常ゆえ生じ、無常ゆえいつか消える)」
3.「過去世の業の結果だよ(善行をしなさい)」
教科書的な釈迦の回答は1か2になるはずだが、どうやら3も説いていたのではないか。
わたしは1や2の教えは出家者にしか有効ではないと思う。
ほとんど出家しろと言っているようなものだからである。
言い方を変えれば、あまり役に立たない教えといってよいのではないか。
3の教えは出家できない下層民のための教えで、このため役に立つ。
すなわち、多くの人を救う教えで、専門用語で言えば大乗仏教的だと思う。
とすると、やはり釈迦本人よりも後世の弟子のほうが偉いと言わざるをえない。
1、2、3とある釈迦の教えのうち3を重んじたものが、
釈迦の権威をうまく利用しながら、お話をふくらませていったわけだから。
1、2はお話というよりも、哲学や思想の類いである。
のちの世の優秀な仏弟子たちは釈迦の哲学よりも、
釈迦を主人公としたお話を創作することに、信仰を賭けていったと言えよう。
釈迦は一風変わったバラモン僧程度の存在で、存命時は仏教などなかったのかもしれない。
いまわれわれになじみのある仏教を創ったのは釈迦ではなく、
後世の多数の信者であったことはほとんど間違いないだろう。
これからゆっくり仏教創造の過程を見ていこうと思う。
できましたらお付き合いのほど、よろしくお願い申し上げます。

とある大学病院での診察を終え表に出たとき、これは毎度のことなのだが、
あと何年生きられるのだろうかと思う。
どうしてか自分が50過ぎまでこの世にいるという実感がないのだ。
平均寿命まで生きるなんてありえないと思っている。
たぶんカモちゃん(鴨志田穣、享年42)くらいではないかと当たりをつけているが、
いまやむかしは軽んじていた(失礼!)鴨志田氏よりもこの世で実績を残す自信がない。
カモちゃんはカメラマン、ジャーナリスト、作家などいろいろ肩書があるけれど
すべて自称のようなもので、
いちばん知られているのは有名漫画家・西原理恵子先生の元旦那としてではないか。
ああいう不思議な夫婦を目の当たりにするとおかしなもので、
大真面目に前世や前々世の因縁といったものを信じたくなる。
歩きながら、夏が終わろうとしていることに気づく。
ひとつの季節が終わるごとにこれが最後ではないかと思っている。
なぜか来年また夏を迎えられるような気がしないのである。

話は脱線するが、自分の死を考えるほど甘い陶酔をもたらすものはない。
どういう死に方をするのが理想か思いを馳せるとうっとりしてくるのである。
いいおじさんがなにをバカなことを妄想しているのかとあきれられてしまうかもしれない。
いまのところ、いちばん熱望している死に方は菩薩的、利他的な死かな。
ほんとうはもっとも利他的な死が、同時に自利的(利己的)な絶命でもあるのだろう。
だれかを助けて死にたいとぼんやり空想することがある。
電車のホームから線路に誤って子どもが落ちてしまう。
とっさにわたしも飛び降り子どもを助け、身代わりとして電車に轢かれる。
これがいまのところわたしにとって最高の死だといえよう。
その子どもは大きくなっても、こんなダメなわたしのことを記憶しているだろうから。
しかし、人生はなかなかうまいこといかない。
さすがにこのような劇的な死を望むのは欲が深すぎるだろう。
ならば、こういう死に方をしたい。
明日でもいいから末期ガンで余命宣告をされたいのである。
余命数ヶ月がもっとも望むところ。
そして、痛み止めのみしてもらいながら、逢いたかった人と再会するのである。
こんなわたしにももう一度逢いたい懐かしい人が少数ながら存在する。
いまは縁が切れていても、死ぬとなったら一回くらいなら逢ってもらえるでしょう。
そのうえで、しみじみと「ありがとうね。あなたと逢えてよかったよ」などと、
いっぱしの愁嘆場を演じてみたいのである。

先日、小児ガン専門医の細谷亮太氏の著書「医者が泣くということ」を読んだ。
成人もしていない子どもが次々に死んでいく現実に胸が詰まる思いがした。
世の中、どこまでも不平等なものなのである。
生きたいと強く願っている子どもが無残にも死んでいく一方で、
多くの五体満足のものが投げやりに死にたいと願っているのだから。
だれかが悪いわけでも間違っているわけでもないと思う。
ただただ世の中とはそういうものなのだろう。矛盾した理不尽なものだ。
不条理のひと言に尽きる。
ブックオフ新宿靖国通り店で大学教授の竹内一郎先生の本を立ち読みする。
大ベストセラー「人は見た目が九割」で成り上がった先生である。
人は(わたしは、といえ!)105円の本でもなかなか買わない。
自戒をたっぷり込めて書くが、
だれかから自分の文章を読んでもらえるだけでどれほどありがたいか。
書いたもので対価を得られるなど、奇跡にも近い僥倖なのである。
竹内教授は不遇の時代が長く、かなりの年月をヒモとして暮らしていたらしい。
ようやく成功者になったので、
いままでの怨念を晴らすべく人生マニュアル本を書いたようだ。
損益分岐点がどうのというタイトルの新書であった。
世の中、結局は「勝てば官軍」なのである。
勝ったらなんとでもいえるが、負けたものがなにをいってもだれも耳を傾けない。
人生の敗北者は妬み深くなるばかりで、たとえ105円でも勝利者の本を買おうとしない。
ブックオフ早稲田店に移動して本を3冊購入する。

「シナリオ対訳 ノッティングヒルの恋」(リチャード・カーティス/照井しずか・荒川良訳/愛育社) 105円
「愛する言葉」(岡本太郎・岡本敏子/イースト・プレス) 105円
「決断なんて「1秒」あればいい」(桜井章一/ソフトバンク文庫) 105円


買った本を見たらその人がわかると思うが、ご覧のようにくだらぬ男である。
チープな本がお似合いのチープな男だ。
早稲田から高田馬場まで古本屋めぐりをしながら、
いわゆる「ババ歩き」をするが収穫はなし。
思えば、この近くの大学に通っていたときが人生のピークだったのだろうか。
あのころは古本などさわる気にもならなかった。
この日、霊感商法や合同結婚式で知られる統一教会のトップが亡くなったからだろう。
高田馬場の芳林堂書店のまえで信者さんが本を配っている。
60前後と思しき女性が多く、みなさんいちように幸福そうでうらやましい。

「平和を愛する世界人として 文鮮明自叙伝」(文鮮明/創芸社) 0円

いただいた本は読むようにしているので、これも近々目を通すと思われる。
ネット検索で知ったのだが、有名ブログの作者には出版社から新刊が贈呈されるらしい。
調べてみたら匿名ブロガー程度にも献本はなされているのである。
「本の山」は実名ブログなのに、一度も出版社から本をもらったことがない。
けっこう検索順位で上に出る自信はあるのだが、
出版社のわたしへの評価はこの程度なのだろう。匿名ブロガー風情にも劣る。
いくらわたしでも献本されたものを酷評するほどあれなやつではないのだが。
これを書いていいのか迷うがブログをやっていていちばんむかつくのは、
作者筋からコメント欄で自著(や寄稿雑誌)の宣伝をされることである。
そんなに読んでほしいのなら送ってくるのが礼儀じゃないか。
表面上は情報感謝といってペコペコしておきながら、
腹の底では絶対に買ってやるもんかといつも憤っている。
そういうことをされると買うどころか立ち読みをする気さえ失せる。
はっきりいうと、立ち読みしてもらえるだけでも書き手は感謝しなければならないのだ。
ほとんどの人が他人の書いた文章になどさらさら興味を持たないのである。
無名のあなたやわたしの書いた文章など、飛ばし読みをする価値さえないのだよ。

ビッグボックス古書感謝市でシッタカブラーと遭遇する。
シッタカブラーとは古本祭などで女子に知ったかぶりをする若年読書男子のこと。
あれは恥ずかしいよね。しかもなかなか場を離れないので迷惑この上ない。
「博士、博士、ちょっとそこいいですか?」
と動かないシッタカブラーに声をかけようと思ったが、
あからさまに喧嘩を売っているようなのでやめる。
女のまえでええかっこしておる男をからかうと殴られる危険さえある。
尊敬する芥川賞作家の西村賢太氏のように逆に恫喝してやればいいのだが、
ぼくはお育ちがよろしいので、いかつい氏のようなハレンチ行為はできない。
ちなみに回り込んで顔を見るとシッタカブラーはイケメンで、女子は一段下であった。
男なんて目を見てハイハイ話を聞いてあげれば、
楽勝で落ちることを女はみな熟知しているのだから油断してはならないぞ。
内心でシッタカブラーに声をかけるが、果たして伝わったであろうか。
ブックオフ高田馬場店に足を向ける。
わたしは新刊でも本を買うが、ごくたまにブックオフに行くこともあるのだ。
断じて出版社の敵であるブックオフのヘビーユーザーではない。ほんとなんだからっ!

「熱帯夜」(早坂暁/大和書房)絶版 105円
「風のとおる道」(井上ふみ/潮出版社)絶版 105円
「“せんべろ”探偵が行く」(中島らも+小堀純/文藝春秋) 105円
「母子寮前」(小谷野敦/文藝春秋) 105円
「人生には好きなことをする時間しかない」(大林宣彦/PHP)絶版 105円
「人生の価値それとも無価値」(ひろさちや/講談社) 105円
「天風先生座談」(宇野千代/廣済堂文庫)絶版 105円


なかなかの収穫であった。上から順に――。
いま早坂暁さんにシナリオを依頼する人っていないよね~。
文豪酒豪の井上靖は、元愛人の暴露本と正妻の美談本、どちらがおもしろいのだろう。
「中島らも酔いどれ紀行」は酒をのみながらしっかり味わいたい。
ひとつ正直に感想を書いていいのか迷う本があるような気がする。
大林宣彦の映画はセンチメンタルなところが学生のころから好き。
ここだけの話、ひろさちや先生のご本を新刊で買ったことはないかもしれません。
中村天風って新興宗教の怪しい教祖みたいなもんだと思っていたけれど、
宇野千代がはまっていたのか。わたしは怪しげな人がチューしたいくらい好き。
なんだかさ、オカルトめいたことをいうと、読むべき本というのは、
どう生きていても、自然に向こうからやってくるような気がする。
本は読みたいものを苦労して探すものではなく、
上のほうから降ってくるような感じとでもいおうか。
本だけではなく人もそうだったらいいな、と高田馬場でわたしは思った。
こんばんは、こんばんは。お久しぶりです。みなさん、お元気ですか?
こうして更新をするのは、変な人がいるため。
ブログを更新しないと、わたしが死んだのではないかと思って、
コメントを何度もくださる御仁がいるのである。
それもふつうのコメントならまあ、ありがたいのだが、いささか珍妙なのだ。
HNを毎回変えてコメント欄に書き込んでくる。
いくらパソコン音痴のわたしだってIPホストくらいはわかるので同一人物だと知る。
心配してくれるくらいならいいのだが、しまいには怒りだすのだから。
自分がこんなに心配しているのに反応を示さないのはおかしいとお叱りまで受けた。
さらには無関係のネット掲示板でわたしの安否を問うしまつ。
この人はさすがに気味が悪くコメントを書き込めない設定にさせていただきました。
埼玉県ご在住だったか。
というのも、そんなに心配ならメールを1本よこしてくれよって話で。
即座に「生きていますが、なんでしょうか?」と返信する。
そちらが本名を名乗るのであれば携帯番号を教えてもいい。
その御仁のなにがいやだったのかといま考えると、
自分は安全地帯にいたいというところかな(もとより、わかりませんが)。
メールの1通も出せないくせに、あなたの心配をしていると言われてもわけがわかりません。

とはいえ、ほかにもいらっしゃるかもしれない。
こんな過疎ブログをわざわざ読んでくださるかたにご心配をおかけしたくない。
そうはいっても、とりたてて書きたいこともない。
というわけで、むかしやっていた買った本の報告でも久々に復活させようかと思う。
最近ではめずらしいことに5千円以上も本を買ってしまったこともあり。
8月11日、東急東横店の渋谷大古本市におもむく。

「大乗仏典」(中村元編/筑摩書房) 1050円

これはいい本を見つけたと思う。
わずか1冊ながら、そのうえ経典も抄訳が少なくないが、
それでも12もの大乗仏教経典を採録しているのだから。
まさにいまこういう本を探していたといってもよい。
ぶっちゃけさ、もう夢とかなーんにもないんだよね。
夢というのは、「○○になりたい」という子どもじみた願望のこと。
そりゃあ、むかしはいろいろありましたよ。
わたしの人生はあきらめの連続だとも言えるのだろう。
結婚をあきらめ、金持になることをあきらめ、長寿をあきらめ……最近は出世することも。
さすがに40近くなると「○○になりたい」という夢はなくなります。

で、なにが残るのかというと徹底的にやってやろうというテロリズムかしら。
なにものにもなれなかった老いぼれだが、しかし一発だけどこかに仕返ししてやりたい。
だから日蓮というのはおかしな話だが、いま創価学会をふくめ日蓮系の新興宗教は多い。
日蓮系団体は決まって大乗仏典の法華経を異様なまでにあがめている。
それがなにゆえかというと、おおむかしのシナの坊さん、智顗(ちぎ)が根拠である。
法華経礼賛は、シナ天台宗の智顗という坊主が、いちばん偉いのは法華経と言ったがため。
これを日蓮業界人は教相判釈(きょうそうはんじゃく)と言っている。
中国人の智顗が多くの仏典を読破した結果、
法華経こそ最高と言ったから、このため、そうなのだというお約束が教相判釈だ。
でもさ、これっておかしいじゃん。
どうして智顗が法華経バンザイと言ったから、それが絶対的に正しいと言えるわけ?
だったら冥土(めいど)の土産にマイ教相判釈をやってやろうじゃないか!
自分の目で複数の大乗仏典を見比べて、フフ、どれがもっとも偉いか決めてやろう。
このたび「大乗仏典」(筑摩書房)を購入したゆえんである。
断っておくと、たぶんこれがわたしの限界。
この本よりもはるかに大部の大乗仏典全集(全10巻以上!)
もかつて出版されたらしいけれど、
さすがにそれは読めない(∴想定寿命、知的忍耐力および経済力)。

「大乗仏典」(中村元編/筑摩書房)1050円はいい買い物をしたと思う。
帰宅して調べたら、いまだ絶版ではなく通常ルートで入手可能らしい。
ただし定価は4千円。むろん定価を払っても十分に元が取れる内容である。
とはいえ、いまのわたしには1050円が精一杯だ。
ついでだからセットでこちらも買っておく。

「原始仏典」(中村元編/筑摩書房) 1050円

いま思っているのは、とりあえず回り道をしたいってことかな。
どこに到達したいという目的地はからきしないけれど、回り道だけはしてやりたい。
非効率的で無駄なことをしたい。バカなことをしたい。アホになりたい。
わかりやすく言うと、くいーん、アッカンベーをしたいのでR♪
どこに行ってもいい、どうなってもいい、だって最後はみんな死んじゃうのですから。
死ぬまで、まあ回り道をしたい。道草を楽しみたい。
こんなことを考えるようになったのは、
40を過ぎてから猛スピードで出世した例の怪物めいた先生の影響か。

「河合隼雄著作集9 仏教と夢」(岩波書店) 500円
「明恵上人集」(岩波文庫) 350円


明恵ちゃんの文庫はたしかいま限定復刊されているけれど、
読むかどうかもわからない本を定価で買いたくない。
しかし、買わなければ絶対に読まないので、いちおうカゴに入れておく。
そういえば、明恵の伝記も積ん読してるしね。
明恵はアキエではなくミョウエと読みます。
どうでもいいけどさ、私淑かつ兄事する芥川賞作家・西村賢太氏の
モトカノ秋恵さんみたいに尽くしてくれる女人がほしいにゃ~。
そうそう秋恵さんは市井の女性だけど、明恵さんは鎌倉時代の聖なる坊さんで男性だから。

「山頭火――句と版画 蛍の母」(小崎侃・村上護/グラフィック社)絶版
「山頭火――句と版画 風の旅人」(小崎侃・村上護/グラフィック社)絶版
「山頭火――句と版画 雑草風景」(小崎侃・村上護/グラフィック社)絶版


全3冊で千円ポッキリ。
それにしても村上護先生はうまく世渡りして山頭火利権を独り占めしたよな、パチパチ。
本物の山頭火を知る老人には下手からすりよる一方で、反面、相手次第では権威者ぶる。
いまや実際の山頭火を知るものは存命していないから先生の独り勝ちといってもよいだろう。
村上先生から学ぶことがあるとすれば、既存の権威に頼るよりも、
自らが自分こそ権威たらんと野望することが出世のこつなのだろう。
よしんば山頭火がこういう処世の知恵を知っていたら、さあ、どうなっていたか。
皮肉なようだが、おそらくは国語便覧に載るような偉人にはなっていなかっただろう。
さてさて、山頭火を好きなのは決まって愚昧(ぐまい)な大衆なのだ。
インテリの学者先生は嫌味たらしく「甘い」だの「おセンチ」だの
さんざん種田山頭火を愚弄した挙句、東大卒の尾崎放哉をベタぼめする(上野千鶴子!)。
大衆でなにが悪いか。インテリなんか大嫌いだ。どうせおれはバカだよ、けっ。

「NHKこころをよむ/河合隼雄・明恵を語る/濱田泰三・道元を語る」品切れ 315円

NHKラジオ講座のテキストのようです。
ろくろく本も読めないようなバカな主婦や定年老人が好むもの。
わたしは河合隼雄さんの痛い信者だが、
たしかこのNHKテキストは書籍に収録されていないはず。
これは貴重なものを手に入れたわい、とホクホクしながらカゴに入れる愚人である。
ときにインテリの学者先生に殺意を抱いたりするあわれなクソ庶民であります。

「NHKこころをよむ/瀬戸内寂聴・最澄を語る/梅原猛・空海を語る」品切れ 315円

本来ならば百円(ないし105円)でしか買わないような本だが、
つい最近両氏の対談本を2冊続けて読んだため、うっかりカゴに入れてしまう。
くうう、カゴが重いぜ。まるでおれさまの脳みそも重くなったようでなんだか嬉しい。
もっと重くなれ! もっと、もっとだ!

「日本思想大系 民衆宗教の思想」(岩波書店)品切れ 500円

この日買ったなかでいちばん分厚い本。
ううん、ええと、なんかさ、
江戸時代末期の黒船来航で弾(はじ)けちゃった人がいろいろ新しい宗教を始めたらしい。
本書は如来教、黒住教、天理教、金光教、丸山教の主要経典を集めたもの。
はっきり言うと、こういうものに興味を抱くほど人生に絶望している。
絶望しているけれど、お勉強欲はある。
関係あるのかないのか、ある人から大学院に行って学者にでもなればと助言された。
わたしは生意気にも傲岸にも不遜にも(ほんとうにごめんなさい!)、
教えを乞いたいと思うような学者はいまの日本にいない、と答えたのだったか。
河合隼雄先生をはじめお逢いしたい学者先生は故人ばかりだし、
たとえ存命でも山田太一先生はインテリ嫌いの庶民で、
なおかつ弟子を取るような人ではない。
申し訳ないけれど、たとえば河合隼雄、山田太一、両先生と比較したら、
ひろさちや、小谷野敦、中島義道、植島啓司、春日武彦、各先生は立派でなおかつ、
現代では最高レベルに優秀であることを否定しないが(大先生!)、
こちらの拙い主観では(バカなんですよ)師事(絶対帰依)するような対象ではない(反省!)。

(注)もっともわたしが知らないだけで、
教わるべきことが山ほどある偉大な先生は日本に数知れずおられるのでしょう。
ほんとうに無知で申し訳ありません。


どこかで恩師は原一男先生ひとりと思い定めているので(それだけ絶対的な経験でした)、
これ以上の師は求めていないこともある。
ちなみにシナリオ・センター講師のUさんは、
読んでもいないアリストテレスを講義するというたいへん笑える芸の持ち主だったが、
作品もなにもない、ただ奥さんがN○K社員であるということだけが誇りの五十男を、
いくら本人が新井某の威光を借りて偉ぶっていようがさすがに先生と呼ぶことはできない。
先生と尊敬するどころかむしろ白状すると軽蔑していて、
いや彼の無知をあわれんでいて、いつか再会して
アリストテレスや劇作について教えてあげなければならないとさえ思っている。
自称先生の無知は罪である。
自称指導者の思い誤りは、きちんと正しておかなければ後世のためによくないではないか。
そうはいっても、たしかに尊敬はさらさらしていないが、わが退屈な人生で
シナリオ・センターのUさんが「忘れえぬ人々」の一員であることは認めているのだ――。
出逢ってしまったのは前世か前々世の因縁とお互いあきらめましょう。

突然、携帯電話が鳴る。
めったにないことなので慌てて出ると、シナリオ・センターの生徒さんからだった。
40間近のおばさんで、メールでたいそう無名のわたしを持ち上げてくれるので逢った。
そうしたら、とんでもない人で、さんざん無礼を働いてくれたのである。
そうそう、その思い出を数日前ブログに書いたのだったか。
女は明日までにブログ記事を消しなさいと高圧的に命令してくる。
自分は強大なバックが守ってくれているというのである。
聞くと、シナリオ・センターが自分の味方だという。
シナセンでチューターをしている某君が、
「うち全体であいつを潰してやる」と息巻いていたとのこと。
でもね、明日までにブログ記事を消すのなら、私がそれをとめてあげるから。
腹が立ったので強く拒絶したのだった。それどころか、売られた喧嘩を買った。
「ゴタゴタ言うならあんたの実名を書くぞ!」
「ストーカー、ストーカーとうるさいが、
だれがあんたのようなおばさんをストーカーするかよ、ハハハ!(←性格最悪だな……)」

電話を先に切ったのは向こうだった。
このことは忘れようと古本がたくさん積まれたカゴを惚れ惚れと見やる。
買い残しはないか会場をうろうろしていると、携帯電話に女からのメールが入る。
読んでみると、これが想像以上にひどいのである。
そのまま引用するとまたワーワー騒ぎそうだから、
当人の心情を想像したうえで、遺憾ながらこちらで無断で改変したものを記しておく。

「バッカじゃないの~。残念でした。
あのとき(逢ったとき)伝えた名前も経歴もぜんぶウソだよ~ん。
もしかして本気にしていたの? バーカ! 私を舐めるなって。
明日までにブログ記事を消さなかったら警察沙汰にするからね!
わかる? 警察ってわかる? あなた逮捕されるよ、ザマアー♪
さあ、大変だ。警察沙汰だよ、警察沙汰。ガクガク? ブルブル?
シナリオ・センターも警察も私の味方。ふふん、どうするの?
いま私は楽しくて仕方がないからね~♪♪♪」

電話番号もメールアドレスも明日変更するからご返信不要というのである。
それどころか、今後連絡してきたらすべて警察に通報する。
やはりシナリオ・センターの生徒さんはすごいと感心する。
もうすぐ40なのに長年専業主婦でテレビドラマばかり見てきたせいで、
本気でいまから売れっ子脚本家になれると信じているのだから。
刑事ドラマを毎日のように見ていたのだろう。
警察がか弱き女性たる美しき自分(おばさーん!)を保護して、
悪人罪人のわたしを捕まえてくれると思い込んでいる。これだけではないのだ。
この後、わたしを陥れるべく女は警察相手にいろいろやらかしてくれたのだから。
この件に関してはまた日を改めて書きたい。
最後にメッセージ。
うちのブログを定期閲覧してくださっているお偉いシナリオ・センター事務局の某君に告ぐ。
シナリオ・センター全体であいつ(=わたし)を潰すもなにも、
とっくのとうにこちらはぺしゃんこになっていますから、アハハ。

帰宅。飲酒。忘却。
買った古本をニヤニヤしながら何度もなでる廃人寸前中年男性でした。
5080円なり。