死ぬときは死ぬ 

雑記 07/11 Wed TB 1  ×   ×  
某所に用事があったので、そのついでに近場の神保町へ久しぶりにおもむく。
よく神田の古本街とかいうけれど、あれは神田ではなく神保町のことだから。
実際の神田はサラリーマンの群集。それに見合う居酒屋しかないようなところ。
神保町でまっさきに足を運ぶのは、懐かしの田村書店ワゴン。ここはむかしから大好き。

「日本霊異記」(新潮日本古典集成) 400円
「日本の原郷 熊野」(梅原猛/新潮社) 200円


まだ本を買うのかと自分でもあきれてしまう。
というのも明日にはブックオフオンラインさんにダンボール6箱の本を
売り払う予約を朝してきたからだ。
1冊10円つけばいいほうだと思っている。
へんな古書店に持ち込んで横柄に断られるより、よほどブックオフのほうがいい。
それから最近(といってもここ数年だが)できた古書店でまた本を買ってしまう。
もう歳だから店名はいちいち覚えていない。

「心の扉を開く」(河合隼雄/岩波書店) 300円

白状してしまうと、へへ、いんちき学者であられる河合隼雄先生の信者なんです。
崇拝しているといってもよい。
ところが、この教祖様のいう真理は「絶対的真理などない」なのだから、
信者としてはまったくどうしたらいいのでしょうか、ぷんぷん。
神保町と九段下の真ん中あたりにある床屋で散髪してもらう。

「おれのあたま」 850円

この床屋でラジオニュースを聞き衝撃を受ける。
とても信じられないので上野へ行って実際に確かめることにする。
マスコミの流す情報よりも、自分の目のほうを信じたいではないか。
節約生活なので神保町から上野くらいまでなら楽々と歩いてしまう。
さあ、上野のどこへ行ったのか。もう夕暮れどきである。

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読めますか? 上野動物園入り口だ。脇に看板が立っている。

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7月11日の朝、
残念ながら
パンダの赤ちゃんが
亡くなりましたので
お知らせ致します。
――ということは、やはりあのニュースは本当だったのか。
告示の下に小さなお花が飾られています。
子どもの死にお父さんパンダ、お母さんパンダはなにを思う?

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どうしてこんなに悲しいのでしょうか。
(有名な)人間が死んでも「あ、そう」「へえ、そう」しか思わないのに、いったいどうして。
これなんて関心をわずかでも寄せているだけまだいいほうで、
たいがいは(有名な)人間の死を「ふうん」としか思えない。
どうして名もなき赤ちゃんパンダが死んだだけなのにこうも胸が詰まるのか。

帰宅してからネット検索すると会見の様子が出てくる。
どうして高学歴高収入のマスコミの方々は原因を追求しようとするのでしょうか。
まるでパンダの赤ちゃんの死んだ原因があるかのようにみなさん思っておられる。
いのちというものは、死ぬときは死ぬもの。
パンダの赤ちゃんが生まれてきたときには
原因なんか追い求めなかったのではありませんか。
いのちが誕生するのにも永眠するのにも、もしかしたら原因などないとは考えられませんか。
わたしは今回の死をとても立派なものだと思う。
上野動物園の人はよくやったと思います。
というのも赤ちゃんはお母さんパンダの胸(腹?)の上で死んでいたから。
人工的な容器のなかで死んだわけではない。
これはとても救いだと思う。

わたしもどうしようもなく至らない人間ゆえ不満を書いてしまう。
NHKの9時のニュースを見ていて違和感を抱く。
動物園の女性職員さんがこういっていました。
「今回は失敗したけれど、次回は成功するようにしたいです」
どうしてパンダの赤ちゃんの死んでしまうのが(人間の)失敗なんでしょうか?
どうして死が失敗なのか? あんたもおれもどいつもこいつもみんな死ぬんだぞ!
いのちは死ぬもの。死ぬときは死ぬ。ひっくり返せば、生きるときは生きる。
生かしたいと思っても死ぬ。死にたいと思っても生きる。それがいのちというもの。
いのちとは、いま生きているということ。
「いま生きているということ」で始まる谷川俊太郎の詩を思い出す。
大学生時代、家庭教師先の学童の教科書で知った詩「生きる」。
その場で感動したわたしは小学生の教科書を書き写したのでした。