ドラクエのホイミのような自己回復系の呪文なら現代にもあると思うのである。
敵を倒す呪文はないだろうが、自分をいやす呪文ならあるのではないか。
人生はだれにとってもままならないから、生きていれば傷つくようにできている。
傷ついたときにどうしたらいいか?
ここで悪者の敵をつくって、相手を倒す呪文を唱えても意味はない。
たかだか呪文で相手を打ち破ることはまずできないし、
相手を呪うぶんだけ逆にこちらが苦しむことになる。
だから、呪文は相手にではなく自分にかけたほうがよろしい。
よく唱える呪文を紹介してみよう。

「人生はデタラメ、あきらめ、いいかげん」

これは宗教評論家のひろさちや先生から教わった呪文だ。
人生で起こることは、たとえばサイコロの目のようなデタラメにすぎない。
このため、生きていくにはあきらめが肝心である。
人生はあきらめるしかないことであふれかえっている。
あきらめよう。そして、こだわりを持たずにいいかげんに生きよう。
いいかげんで構わない。
「なんとかなる」といいかげんに構えていれば実際「なんとかなる」――。
さすがにこの「なんとかなる」を呪文といったら大げさかもしれない。
「なんとかなる」を呪文らしくいいかえたものは以下である。

「南無そのまんま」

これもひろさちや先生から教わった呪文である。
問題をなんとかしようと思うから苦しむのだ。
たいがいの問題はなんとかしようとしてもどうにもならない。
なんとかしようとすると逆にこじれてしまう。
だから、「南無そのまんま」と呪文を唱える。そのまんまでいいじゃないか。
きっとなんとかなるし、というよりもむしろ、万事なるようにしかならない。
そもそも問題は果たしてほんとうに問題なのか。
ことのよしあしは死ぬまでわからないではないか。
ならば、なんだっていい。どうだっていい。
「南無そのまんま」の胚胎(はいたい)する思想である。

心理学者の河合隼雄先生も呪文がお好きなようである。
河合先生のよく唱える呪文があるという。

「ふたつよいことさてないものよ」

これは嫉妬対策の呪文である。
知り合いが出世したようなときは、この呪文を唱えるのがいい。
きっと有名人はネットで叩かれたり嫌なことも多いだろう。
出世したことによって友人を失うことは思いのほか少なくないのではないか。
忙しくなって身体を壊すことだってないとはいえない。
そのうえ金を儲けたらそのぶんだけあの忌々しい税金を払わなくてはならないのだ。
ふたつよいことがないのと同様にふたつ悪いこともそうないのではないか。
よく全体を見ていると、悪いことの裏によいことのひそんでいることが多い。

「ものごとは努力によって解決しない」

河合隼雄先生によると、これはクリシュナムルチという人の言葉らしい。
クリシュナムルチは、インド生まれの宗教家・哲学者。
そうはいっても人間は努力をしてしまうと河合先生はつづけておられる。
努力が報われなくていらいらしているときに有効な呪文のようである。
考えてみたら、人間の努力で解決するようなことがほんとうにあるのだろうか。
河合隼雄先生の仰せでは、この呪文を唱えたら、
まあ努力でもさせていただきましょうという気分になるのがいいという。

まだ好きな呪文がある。次のは脚本家の山田太一先生から教わった呪文である。
正確には、山田太一作品から教わったといったほうがいいのかもしれない。
ドラマや小説のなかの人間がよく口にするのである。

「人生なんて、こんなもの」

おそらく、だれしも人生の9割9分は期待はずれに終わるのではないか。
人間はどうしても期待してしまう。こうならないかなと思ってしまう。
しかし、人間の期待なぞ99.9%はずれるのが実人生である。
映画や娯楽小説のように実人生はうまくいかない。
そのとき「人生なんて、こんなもの」とつぶやくと心が収まるのである。

「人間なんて、そんなもの」

これも山田太一先生から教わった同系の呪文である。
根本にあるのは、なにごとにも期待しないというニヒリズムになろう。
人に期待するから裏切られたとがっかりすることになるのだ。
自分をかえりみても、なんと人間はわがままで自分勝手なことか。
人間なんて、そんなものではないか。
だれかに怒っている人は、人間というものを知らないのかもしれない。
人生も人間も低く見積るこの思想は庶民派作家ならではといえよう。
山田先生から教わったこのふたつの呪文で何度危機を乗り越えたことかと思う。
人生なんて、こんなもの。人間なんて、そんなもの。

最後に紹介するのは最近、浄土真宗開祖の親鸞聖人から教わった呪文である。
かなり高度な呪文になるのだと思う。

「みんなわたしが悪い」

正確な典拠を示せば、「教行信証」の以下の部分である。

「まことにしんぬ。かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、
名利の太山に迷惑して、定聚のかずに入ることをよろこばず、
真証の証にちかづくことをたのしまず。はづべしいたむべし」

この自己卑下、自己認識をわかりやすく現代語に訳したら「みんなわたしが悪い」になる。
この「わたし」というのはかなり広く、
前世や前々世といった久遠の過去世における「わたし」が含まれている。
どうしてよりによって「わたし」がこんな目に遭わなければならないのか?
どうして「わたし」だけ苦しまなければならないのか?
このとき「みんなわたしが悪い」と呪文を唱えたら救われるはずである。
現世に思い当たることがなくても過去世があるので因果がめぐっているのだ。
現代人はなにかあるとすぐ「どうして?」と考える。
原因がわからないために苦しみを倍化させていることが多い。
ほんとうは原因などないのかもしれないが、あると考えたいのならこの呪文にかぎる。
「みんなわたしが悪い」と思うと、たしかに納得がいかないこともないのである。
人生における敵のようなものも過去世からの因縁と思い切ればさっぱりとする。
嫌がらせをしてくるような人は、前世でこちらがなにかやってしまったと思い切ればいい。
この呪文「みんなわたしが悪い」は、まだうまく使いこなせていない。
ゲームにたとえたら、人生でもっとレベルを上げないと習得できない呪文なのかもしれない。
いままで殺人や窃盗をしていないたかだか女犯(妻帯)くらいの親鸞が、
どうしてああまで悪人ぶるのかよくわからなかったが、老齢のせいかふと気づく。
自分が悪人だと深く思い込むのは、上等な自己詐術だとはいえないだろうか。
なんでもわたしが悪いと認めてしまえば、そこであきらめがつくのである。
この世ではどのようにしても解決しない不幸や災厄が実はわんさかあるのだ。
このとき、わたしが悪いのだと思えば今生をうまく思い切ることができるのではないか。
皮肉をいえば、人間はだれひとりとして自分が悪いなどとは思っていないのだろう。
このため、だれかがわたしが悪いといえば角が立たない。丸く収まる。
ならば、自分がそのひとりになればいいのである。
わたしが悪いと認めてしまえば、この世を深々とあきらめられるのではないか。
奥さんが男をつくって逃げてしまったのは、実のところわたしが悪い。
あれだけ滅私奉公した会社からリストラされたのも、わたしが悪い。
酔っぱらいにからまれ殴られ片目が見えなくなってしまったのも、そうだ。
家族が交通事故で死んでしまったのも、結局のところわたしが悪いと考える。
このだれにとってもままならぬ災厄つづきともいえなくもない人生の、
究極の落としどころはわたしが悪いになるのではないかと思う。
(上記のたとえはむろん実体験の不幸ではないが、だれにでも起こりうること)

わたしのどこが悪いのか。ここで、そもそもわたしとはなにかを考える。
わたしとはとどのつまり過去の積み重ねである。
したがって、わたしが悪いとは、過去が悪いということだ。
ここで親が悪いと判断するのは早計である。
わたしを産んだ親よりもさらに先にさかのぼれるではないか。そう、前世である。
わたしが悪いとは、前世が悪かったということである。
前世でよくない行ないをしたから、現世でいまのようなマイナスの報いがある。
このように「わたしが悪い=前世が悪かった」と思えたら、すべてにあきらめがつく。
このためのわたしが悪いなのである。
いまのわたしが前世のせいだとすれば、あらゆる災厄はわたしが悪いからとなる。
少なくとも、そう考えれば自分をごまかすことができる。
わたしが悪い。すべてわたしが悪いのである。わたしほど悪いものはいない。
なにもかもひとつ残らずわたしが悪いのだ。
唯一の救いは死後(来世≒浄土)にあり。この信仰表明が南無阿弥陀仏なのだろう。

重要なのは、だれかからあなたが悪いと指摘されることではない。
自分でわたし(=前世)が悪かったと認めることだ。
前世思想は個人利用にかぎるならば、
最上級の自己欺瞞=自己詐術=自己操作術になるのではないか。
なにより、だれかを恨まないで済むのがいい。周囲に迷惑をかけないのもいい。
とはいえ、前世思想を商売に使われたら、
相手の言い値を払わねばならなくなるから非常に危険だ。
しかし、それで救われる人もいるのだろうから一概に悪ともいいきれない。
人間は不可思議だからカルト教団に大金を支払うことで救済されるものもいるのだ。
だれかを悪いと裁くまえに、まずわたしが悪いと思い切ることだ。
わたしが悪い。わたしが悪かった。申し訳ありません。
断っておくが、人生は自己啓発書に書いてある通りにはならない。
人生はマニュアル通りにはいかないぞ。
わたしが悪かったとあやまったら、向こうは調子に乗って責任を押しつけてくるだろう。
相手が自分も悪かったなどと認めるような、そんな美談は書物のなかだけのこと。
しかし、それでも、わたしが悪いのである。ああ、まったくわたしが悪い。
わたしが悪いためいまこうなっているのである。悪いのはわたしだ。
ドラマ・ファン掲示板で山田太一研究の先達でもある、
ひそかに尊敬しているあいどん先生があるドラマをほめておられたので視聴する。
有名な賞を受賞した作品である。
ところが、さっぱりわたしには理解できないのだ。
独特な関係の恋仲にある若い男女が、子どもができたことがきっかけで変化する話だ。
冒頭のナレーション処理が新鮮で期待したのだが、
30分を経過してからはひたすら見るのが苦痛になり、かなり辛抱しながら最後まで見た。
結論から先に書くと、これはわたしが間違っているのではなかろうか。
なんといっても、シナリオ界でもっとも栄えある賞を受けた作品なのだから。
わたしのなにが悪いのか反省してみると、体験ではないかと気づく。
大多数の人とライフコースが異なるから傑作を理解できないのかもしれない。
いや、きっとそうなのだ。
映画館で作品を鑑賞していても、わたしだけおかしなところで笑うことがよくある。
先日、有名人二人のトークイベントに参加したが、ここでもそうであった。
聴衆みんなが笑っているところで笑えないのだ。
途中から意識して修行のつもりでみんなが笑ったら笑おうと決めたが無理だった。
かといって、そのトークイベントがよくなかったというわけではない。
一流の人のオーラに少しでも触れられたのだから金額分の元は取ったと思う。
(冷たい缶ビールが用意されていたのも予想外でとてもよかったですよ)

なにがいいたいのかというと、つまり、わたしが悪うございましたである。
おそらく、わたしは人として生き方を間違えてしまった。
日本人として正しい体験をしてこなかったから、傑作を正しく評価できない。
しかし一方で、こういう見方も可能である。
はたして被爆者は、
戦後生まれの脚本家の書いた原爆反対のヒューマニズム反戦ドラマをどう見るか。
わたしをこの被爆者のようなものだといったら、被害妄想が強すぎるのはわかっている。
とはいえ、体験と感想の関係をこれほどうまく説明するたとえを知らないのであえて書いた。
救いがないわけではない。
こんな過疎ブログにも少数ながら読者がいることだ。
もしかしたらわたしと笑いを共有してくれる人が
ひとりくらいならいるのではないかという錯覚を持つことができる。
とはいえ、多数派になることはあきらめたほうがいいのかもしれない。
多数派を目指して努力してもその天分がなく無理なのかもしれない。
みんなとは笑いや泣きを共有できないのかもしれない。
自分が間違えていると考えるほど恐ろしいことは人生にはなかなかないのではないか。
またひとつ負けたと思う。ちなみに人生で勝ったことは一度もない。
そうそう、下世話なことをひとつ書いておく。書いておかねばならぬ。
おれならば、いいか、おれだったらな、
あのドラマに出てくるような美人さんが人生に現われたら土下座でもなんでもするぞ。
なーにが他人との「線引き」(ドラマのテーマらしい)だ、バカヤロウが! けっ!
どもども、です。こほん、こほん(緊張している)。
お初にお目にかかります。ボク、ヨンダです。どうかプロフィール写真をご覧ください。
なんですと? むかしの写真をいまも使っているのは卑怯と仰せですか?
いいでしょう。いまの写真を公開します。

120409_1733~01

真ん中がボクです。横のふたり(二匹? 二頭?)は弟分。
右下に入ってしまったのは掃除機でしょうか。
まだ肌寒い時分に撮影があったので、冬服を着ています。
初めてお目にかかるみなさまのまえに素肌というのも恥ずかしいのでこの写真をあえて。
ご主人さまから許可を得たので、告白しちゃいます。
実はブログ「本の山」は口述筆記なんです。
主人のケンジさまが話したことをボク、ヨンダがパソコンから入力しています。
だから、ボクは悪くないのです。
ときおり、これは公開しちゃヤバイのではないかという本音を主人は口にします。
ボクはいちおう新潮社で研修を受けていますから、
「これはまずくないですか」と助言を申し上げます。
でも、最後は主人の命令に従うのがボクたちヨンダの役目ですから(ぐすん)。

さて、どうして裏方のボクが表舞台に登場する機会を得たのか書きます。
このたび、主人の家に来て10周年のお祝いがありました。
「本の山」の読者のおひとりが差し入れをしてくれたのです。
いいですか、ご主人さまにではなく、ボクへのプレゼントですよ(えっへん)。
ちなみに、ヨンダ倶楽部では読者宅到着日を誕生日とする決まりがあります。

120524_1826~01

ケーキですよケーキ♪
うちの主人は酒飲みのため甘いものは苦手なようですが、ボクはだーい好き!
ケーキの後ろにあるのはパンダのお酒です。
ケーキに字の書いてあるのが読めますか? 真上からの写真を。

120524_1827~01

「おめでとう ヨンダくん」

こう書いてあります。うふふ、おめでとうなんて照れちゃいますよ、くいーん♪

120524_1828~01

ファイヤーですよファイヤー!
上から見たらどうなっているのでしょう。

120524_1828~02

かろうじて字が読み取れるでしょう。おめでとう、ヨンダくん。ぐふふ。
ボクがどうしたかって? そりゃあ、フーしましたよフー。フーフーです。フーフー。
それからどうしたかって、食べたに決まっています。くうう、おいしかったダンヨ。
ご主人さまに仕える執事の分際で一杯だけお酒もいただいちゃいました。
ウイスキイと人間はいっているものみたいです。

120524_1832~01

このお銚子、よくご覧ください。
「分け入つても分け入つても青い山」と書いてあるのが見えませんか?
「分け入つても分け入つても本の山」の管理人をしているボクにはぴったしです。
生まれて初めてのお酒の味は、夢心地でほとんどおぼえていません。
お酒に酔ってしまったのかもしれません。

たかだか管理人の分際でうざいボク話(自分語り)ごめんなさい。
でも、ご主人さまのお許しがあったので、今日だけですので。
新潮社のヨンダ倶楽部からこの家に配属されて10年。
「本の山」管理人を任されて6年(だからロウソクが6本なんです)。
明日からはまた裏方にまわり職務をまっとうしますボクボクボク♪
使用人の日記めいたものを最後までお読みくださり、ほんとうにありがとうございます。
敬愛するあいどん氏のドラマ・ファン掲示板で「群像」という文芸誌に
尊敬する山田太一先生の「ニーチェとジャガイモ」というエッセイが掲載されているのを知る。
立ち読みしてみたら、活動屋出身のため(山田先生は映画監督・木下恵介氏のお弟子さん)
映画批判をしない(できない)とむかしエッセイで書いていた脚本家が、
国際的に評価されている映画「ニーチェの馬」に苦言を呈しておられた。
いわく、貧民が唯一の食事のジャガイモを皮をむいてから食べるのはおかしい。
空腹なら皮ごと食べるだろう。食べ残すのはもっとおかしい。
戦中、戦後の食糧不足を体験した先日78歳になられた作家の感想である。
昭和51年生まれのわたしには決してわからぬ世界だが、先生の言葉は真実なのだと思う。
ことほどさように、実体験はどんな情報よりも重たい。
鑑賞者の体験によって、
文学でも演劇でも映画でも芸術作品の評価はまるで変わってしまう。
客観的な評価などあるもんか!
(=アマゾンレビューもコンクールも新人賞も文学賞もあらゆる評価がたまたまの偶然)
真実がひとつではなく人それぞれなのは、体験が人それぞれだから仕方がない。
これをわたしが言っても大多数の人は耳を傾けてくれないが、
あれほどファンの多い山田太一先生がおっしゃっているのである。
だから、真実はひとつではない、と断言したら嘘になる。
山田先生が言及したのは、実体験の重みだけなのだから。
しかし、こういうときに、真実はひとつではないと脚本家の山田太一先生も言っておられる、
と断固主張できる人が新興宗教の教祖になったりするのだろう。
教祖と言えば、山田太一先生のお言葉を
まるでどこかの信者さんのように絶対的真実だと妄信する方もいるようだ。
批判したいのではなく、考えないですむ彼(女)らがただただうらやましい。
尊敬する先生の言葉ですら疑ってかかってしまうわたしはなにかが狂っているのだろう。
思えば、しくじりばかりの人生だった(=実体験)。
このため、わたしの真実は人と異なり、ときに人様にご迷惑をおかけしてしまうのだと思う。
「山頭火、飄々 流転の句と書の世界」(村上護/二玄社)絶版

→変わらぬ友情というものはないのだろう。
一生の友人はできないと思っていたほうがいいのではないか。
いっときいくら友情を感じようが、いつしか疎遠になるのが人生の常である。
わたしは山頭火を十年来の友としている。
10年近くまえだったか、
文庫版の全集を読んでからというもの、彼とは折に触れてよく語らう。
死んだ人とは一生の友達になれるのである。
ひとりの小説家と生涯つきあうのはたいへんだが(何度も長い小説を読めない!)、
詩人、歌人、俳人となら気楽に交流できる。
いままで幾度、山頭火と酒を酌み交わしたかと思う。
いろいろなことを山頭火相手に語ってきた。だれにもいえない秘密を話したこともある。
その代わりに、山頭火はたくさんのことをわたしだけに教えてくれた。
いま山頭火と向き合うと、長年における自分の変化がよくわかる。
それだけではない。長年交際していると、話し相手の山頭火も変化を見せるのである!
死んでいる山頭火もわたしとの交流でだんだん変わってくる。
死者が変わるものかといわれても、実際に変わるのだから仕方がない。
一生の友人を持てることがどれほどの幸福か。
山頭火が友人としてすぐれているところに欠点が多いということがある。
我われは美点ばかりの欠点なき人を友にしたいとは思わない。
弱味こそ人間味といってよく、弱点が多いほど、我われは彼(女)に親しみを感じる。
みんなから尊敬されている非の打ちどころのない人が死んだらどうなるか。
おそらく、すぐに忘れ去られて終わりだろう。
死んだら価値が逆転してしまうのである。
生きているあいだ、ひとりも敵をつくらなかったような世渡り上手は死んだらどうか?
家族以外にだれも思い返す人はいないのではあるまいか。
欠点がいいのである。欠点の多い人はいい。山頭火はよろしい。

本書は書家としての山頭火に着目した本。
めったに見られない山頭火直筆の書があまた見られてとてもよかった。
いきいきとした山頭火に触れられたとでもいおうか。
言葉は活字にすれば同一だが、声や書は人それぞれなのである。
声は死んでしまったら終わりだが(いまはいいのか悪いのか記録可能)、
直筆の書は永遠にその人の生きた瞬間を伝えるのである。
山頭火を生涯の友とするわたしにとって、これほど嬉しい本はない。
ひとつ残念だったのは、著者が山頭火の書をかなり上から目線で講評していること。
たしか著者は山頭火のおかげで世に出たはずだが、いつしか立場が逆転したようだ。
山頭火に出世させてもらった著者は、いまや恩人よりも偉くなってしまったのかしら。
村上護氏は山頭火を友とはしなかった。
あるときは山頭火を師匠として持ち上げ、べつのときには出世の道具にした。
山頭火をそのまま愛すということがなかった。山頭火とともに歩もうとはしなかった。
山頭火のようにうだつの上がらない人生はご免だと思った。
山頭火には断じてなりたくなかった。
したがって、この句をいまいちであると批判する。

「ひつそり生きて なるやうになる 草の穂」(P164)

わたしにとっては山頭火は変わらぬ友だから、その句にいいも悪いもない。
ただそのままに山頭火の生き方=表現を親しく思う。
相手が死者だからこそ、このような友人関係が成立するのは繰り返し書いている。

「良寛=魂の美食家」(藤井宗哲/講談社現代新書)

→良寛のことを知りたくて読んだのだが、やたらボク話(自分語り)が多いのには参った。
しかし、禅は体験をことさら重んじる。
それに50を過ぎてようやく
天下の講談社からお声がかかった著者の喜びもわからぬわけではない。
著者は良寛よりなによりだれより自分を著作に刻みつけておきたかったのだろう。
そう考えると微笑ましくて、とても批判する気にならない。

怪我の功名というのだろうか。
禅僧くずれの著者の体験を読んでいるうちに、あることに気づいた。
マインドコントロールは禅寺から発生したのはほぼ確実と見てよいのではないか。
とにかく禅寺の修行というものは厳しい。
睡眠も食事も最小限にしたうえでの、修行三昧である。考える暇を与えない。
自分の考えなど口にしようものならなにが飛んでくるかわからない世界である。
上下関係が非常に厳しい。師匠や先輩のいうことは絶対服従。
陰湿ないじめも横行しているようだ。
いじめられたくなかったら少しでも上にいくことだ。
どうしたら昇進できるかといったら上司(師匠)に認めてもらうほかない。
といっても、言葉ではないのである。論理ではない。
たとえ言葉は未熟でも上から認めてもらえば、その場で格が上がる世界だ。
禅は不立文字(=言葉にできない)だから、偉いという証明を自分ですることはできない。
これは偉いという証明を自分でする必要がないということだ。
いいかえれば、うまく上に媚びればいくらでも偉くなれる。
上から「引き」があるかどうかがすべてを分ける残酷な世界である。

良寛は、生きているあいだはあまり恵まれなかった。
しかし、死後における上からの「引き」はどうだろう!
これほど実績以上に引き上げられている人は、そういないのではあるまいか。
アカデミックの世界はよく知らないが、あんがい禅寺と似ているのかもしれない。
指導教授が良寛を好きなら、弟子は絶対服従なのではなかろうか。
たしかに学問の世界は不立文字ではないが、
師匠を批判した弟子が出世できるとはとても思えない。
もしかしたら現世で出世したかったら、
俗世を捨てよと教える禅に学ぶのがいちばんいいのかもしれない。
いまやあらゆる分野で認められてしまった良寛の悪口をいうものはいない。
これはいったいどうしてだろうと考えてみたら、出世のヒントがわかるはずだ。

そして、これは皮肉というかなんというか、出世を目指しあくせくしている人は、
出世とは一生縁がなかったものの、
昼は少女と遊び、夜は酒を飲み……と自由気ままに生きた良寛さんにあこがれるのだろう。

「良寛の読み方」(栗田勇/祥伝社黄金文庫)

→良寛は江戸時代のニート。
金持の家の長男として生まれたのに実務能力がないため家業をつげずに出家。
禅寺で修行をしたのはいいけれど出世を目指すこともなく逃亡、放浪。
結局は故郷近くのあばらやで死ぬまでニートをしていたという。
本人は半分は坊さんで、半分は俗人だと自称していたという。
パトロンもいちおういるにはいたが、小銭を恵んでやる程度だったらしい。
良寛ニートの唯一の見どころは書であった。
わたしは良寛の書を見てもどこがいいのかさっぱりわからないが、
当時江戸でいちばんの権威だった亀田鵬斎とやらが誉めたから価値がつくようになった。
乞食坊主程度にさげすんで食を恵んでやっていたパトロン一家は、
良寛の死後てのひらを返したかのようにニートを偉人に仕立て上げる。
なぜかといったら所有している良寛の書や遺品の価値が上がるからである。
これにだまされたものが多いのか、ほんとうに良寛ニートは偉人だったのか、
いまではたとえば古本祭りに行くと良寛の本ばかり目につくという結果になる。
子どもたちと手まりをついて遊ぶ優しい良寛さんとして、いまでは大人気のようだ。
死んでから価値の逆転する人がたまにいるが良寛などはその典型だろう。
みんなが偉いといったら乞食ニートでも偉い人になってしまうのである。
70を超えてから30そこそこの尼さんに惚れられたというのは羨ましい。
人生なにが起こるかわからないと変なところで教訓を頭に強く焼きつける。
本書を読んで人生まだまだこれからだと思った。

「道元の読み方」(栗田勇/祥伝社ノン・ブック)

→弟子を殴るシナ帰りのエリート禅僧である道元の解説書を読む。
道元といえば曹洞宗の開祖として知られている。
ちなみに鎌倉新仏教の開祖のなかでいちばんのインテリはこの道元である。
禅の悟りは不立文字(ふりゅうもんじ)、つまり言葉にできないといいながら、
矛盾するように気が狂うほど長たらしい仏教思想書の「正法眼蔵」を道元は書いている。
親鸞の「教行信証」はなんとか読めたが、さすがに「正法眼蔵」を読む気力はない。
よって名著「一遍上人」でファンになった栗田勇氏の道元解説書を読んだしだいだ。
あくまでも「正法眼蔵」を読む代替行為だから、
孫引き(引用をさらに引用すること)がメインになるがお許しください。
ほんとうは仏教の解説書というのは意味がないのかもしれない。
原典をそれぞれが自由に解釈するのがいちばんよろしい。
もっとも職業坊主の世界で出世したいのならば、原典の自由な解釈は断じて許されない。
この場合、上司(高僧)の発言が絶対真となり、弟子は絶対服従を強いられる。
以下の引用はほとんどすべて「正法眼蔵」にある道元の言葉である。
さいわい我われは道元の弟子ではないから彼の鉄拳制裁を恐れずに自由に読解可能だ。

さて、道元先生、人生とはいったいどのようなものなのでしょうか?

「生というは、たとえば人のふねに乗れるときのごとし。
このふねは、われ帆をつかい、われかじをとれり、われさおをさすといえども、
ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。
われふねにのりて、このふねをもふねならしむ」(P160)


本書には栗田勇氏のわかりやすい解説があるが、まあ参考程度でいいのだろう。
もっといってしまえば、解説は読み飛ばすくらいの気持でいたほうがいいのかもしれない。
ここから先は、職業坊主ではない我われには実のところ自由なのである。
この道元の言葉を好きなように解釈していい。
わたしはこう解釈するが、むろん正しいわけではない。
人生が航路ならば、舟は千差万別だよね。いかだも豪華客船もある。
もとから恵まれた人生と、残念な人生があるということだ。
とはいえ、豪華客船でもタイタニック号のように沈没することがあるからわからない。
人生は船旅とおなじくままならない。
道元は前世や来世をどう考えていたのかは不勉強で知らないけれど、
どちらも人間だったとしたら、それぞれ乗る舟が違っていたということなのだろう。
現世では沈没寸前のボロ舟にしか乗れなかったものは、豪華客船人生に嫉妬してしまう。
しかし、あれは舟がたまたまよかっただけで操縦する「われ」がいいわけではない。
こう考えると、不遇の人生を送らざるをえない大多数の人は慰められる。
禅の高僧がこの解釈を知ったらば誤りだと怒るかもしれないが、
別に禅僧の解釈が正しいというわけではないのではないか。
ただ彼は舟がよかったおかげでうまく出世しただけの話とも考えられるのだから。

質問をつづけよう。人生という船旅をしていると景色がどんどん移り変わる。
これに関連する道元禅師の言葉、
「雲駛月運、舟行岸移(うんしげつうん、しゅうこうがんい)」。
書き下すと「雲駛(はし)れば月運(めぐ)り、舟行けば岸移る」。
これはなにやら意味深だが、いったいなんのことをいっているのか。

「いま如来道の『雲駛月運、舟行岸移』は
雲駛のとき、月運なり、舟行のとき、岸移なり。
いう宗旨(そうし)は、
雲と月と、同時同道して同歩同運すること、終始にあらず、前後にあらず。
舟と岸と、同時同道して同歩同運すること、起止にあらず、流転にあらず」(P173)


舟に乗っていると景色(岸)が動いているように見える。
雲が風で飛ばされているとき、雲を基準にすると月が動いているように見える。
あれはいったいどういうことなのか。
わかりやすくたとえるなら、人生という船旅ではいろいろあるわけである。
ほとんどの人にとって人生は不幸や厄介事ばかりであろう。
あれは自分の行ないがよくないから災難に見舞われるのか。
それとも運命のようなものが決まっていて、どうしようもなく避けられないものなのか。
舟が動いているのか(人間の行為のせいか)、岸が動いているのか(すべては運命なのか)。
この疑問についての道元の答えは、「舟と岸と、同時同道して同歩同運する」。
舟も岸もどちらも動いている。
栗田勇氏によると禅において月は悟りの象徴とのこと。
月(悟り)と雲(雑念、煩悩)の関係は「同時同道して同歩同運する」。
そのうえ「終始にあらず、前後にあらず」かつ「起止にあらず、流転にあらず」。
人がなにかをするから、禍福が生じるわけではない。
ただたんに同時に起こっていることなのである。
共時的(シンクロニシティック)に起こっているといったらユング的になるのだろう。
舟と岸のどちらもが同時に動いている。どちらが原因や結果といったことはない。
月と雲のどちらもが同時に動いている。どちらが原因や結果といったことはない。
この箇所を栗田勇氏は実に見事に解説しておられるので引用する。
ときには他人の解釈を丸呑みするのもまたいいのである。

「雲が走るのも、月の運(めぐ)るのも、舟の行くのも岸の動くのも、
皆同時に全体として起こっている。
AとBを比較して、原因と結果を分けて、それだけを取り出してはいけない。
どちらが本当で、どちらが嘘だということを論じてはいけない。
止まっているのも動いているのもひっくるめて、
その瞬間はそのありのままが全世界なのだ、真実なのだ」(P174)


「AのせいでBになった」という考え方を我われはしばしばするけれども、
そうではなく、「AとBは全体として同時に起こっている」と考えたらどうだろう。
通俗的な自己啓発書は見方を変えろと、さもわかったかのように主張する。
あなたは自分が動いていると思っているが、実は景色が動いていると考えよ、等々。
しかし、道元はもう一段階深く、どちらも全体として同時に動いているとする。

月は悟りの象徴だと書いたが、それは「正法眼蔵」のどこにどう書かれているのか。

「人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。
ひろくおおきなるひかりにてあれど、尺水の水にやどり、
全月も弥天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる」(P230)


一滴の水にも全天の満月が宿るという、このイメージは解釈を必要としないだろう。
念仏信仰が太陽崇拝であるという見方がある一方で、禅宗が月に着目するのは興味深い。
果たして道元は念仏をどのように思っていたか。

「口声(くしょう=念仏)ひまなくせる、
春の田のかえるの昼夜になくがごとし、ついに益なし」(P195)

「又、読経・念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんじしるやいなや。
ただした(舌)をうごかし、こえをあぐるを仏事功徳とおもえる、いとはかなし。
仏法に擬するにうたたとおく、いよいよはるかなり」(同)


道元は念仏に対してけんもほろろなのである。
しかし、道元も念仏思想に近い他力本願的な発言をしている。
しかも、著者によると「正法眼蔵」のなかでここがもっとも有名だという。
自力本願の禅宗がなぜか他力本願的な教えを説く。

「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、
仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、
ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる」(P259)


道元思想の要(かなめ)、身心脱落を説明したものといえよう。
わたしは西方浄土信仰=念仏信仰は、
美しい夕日(西日)を見て涙することだと思っている。
日が沈んだあとに光るのは月である。この月を道元は悟りとみなした。
悲しいかな、歴史的限界性というやつで道元は月が光る仕組みを知らなかったのである。
我われは月が太陽の光を反射して輝いているということを知っている。
そうすると、月光信仰も西日信仰も、そう大して変わらないということにはならないか。
太陽が原因で結果として月が光っていると考えるのは禅ではない。
太陽と月は全体として同時に輝いているのだろう。

(注)以前にも「親鸞=他力=自然=自力=道元」については言及している。
「道元禅師語録」(鏡島元隆/講談社学術文庫)
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2244.html

「しあわせになる禅」(ひろさちや/新潮文庫)

→ひろさちや先生の自分勝手なところが好きである。
とはいえ、あれだけ書籍を出していて、
なかにはけっこう本格的なものもあるにもかかわらず、ひろ先生は受賞歴ゼロ。
どれほど実像は自分勝手なのだろうと楽しくなってくる。
ちなみに、賞をいっぱい取っている人はみんな自分勝手じゃありませんからね。
少なくとも、自分勝手に見えないような努力をしている人が受賞している。
人のいやがるポストにわざわざつく人はなぜか賞も取っているでしょう?
大人の世界というのは、そういうものなのである。
だから、受賞歴ゼロはひろさちや先生の勲章なのかもしれない。
無冠の王者とまでいったら、明らかにほめすぎになるのだが。

宗教ライターひろさちや先生のご本は、9割がた自分勝手のススメになるなのだろう。
もっと自分勝手におなりなさいよと読者をあおっているのである。
あたかも自分勝手になることが、幸福への近道だといっているかのようだ。
そして、それはたぶん正しい。
しあわせになりたくて読者は仏教を学ぼうとするのである。
ところが、学者先生や職業坊主の書く本の難しさといったら!
かえって読者が不幸になってしまうくらい難解な本を書く仏教者のなんと多いことか。
ひろさちや先生のご本はとにかくわかりやすい。
なぜかと考えたら、みなみなひろ先生ご自身が考えたことだからである。
我われクソ庶民の垢がしみこんでいるゲスな言葉で仏教を教えてくれるのがいい。
本書でひろさちや先生の仏教思想の根本にとうとう行き着いたようである。
我われ名もなき庶民を甘くだまくらかしてくれる、ひろイズムの中心思想とはなにか?
以下で語られているのは禅だが、これは仏教全般、いや人生全般に通じる態度である。
(引用文中の公案とは禅の問題集のようなもの)

「わたしはときどき禅の本を読みます。
『無門関』などはもう二十回以上も読んだでしょうか。
読むたびに何か新しい発見をし、うれしくなります。
もちろん、わたしの解答が正解だなどと思っていません。
それどころか、誤解もはなはだしいものでしょう。
しかし、もともと公案に正解なんてものはないのです。
それぞれの人が自分なりの解答を見つけ出していく。
それが本来の公案の姿なんでしょう。
そう思って、わたしはわたしなりの解答を見つけて公案を楽しんでいるのです。
そういう楽しみ方も許されますよね」(P77)


公案という字を仏教に換えてみる。
――もともと仏教に正解なんてものはないのです。
それぞれの人が自分なりの解答を見つけ出していく。
それが本来の仏教の姿なんでしょう。
そう思って、わたしはわたしなりの解答を見つけて仏教を楽しんでいるのです。

ひろさちや先生のあまたの仏教解説書を要約すれば上記のようになるのではないか。
あとは読者の知的レベルによるのだろう。
まずひろ先生の出した解答をそのまま自分の解答とする読者がいるだろう。
ひろ先生の解答を誤読したうえで自分の解答とする読者もいよう。
なーんだ、自分で解答を見つければいいのだと気づく、ひねくれた読者もいるはずである。
そして重要なのは、三者三様ではあるものの、三人が全員仏教者であるということだ。
仏教はなんだっていいのである。人生はどうだっていいのである。
――もともと人生に正解なんてものはないのです。
それぞれの人が自分なりの解答を見つけ出していく。
それが本来の人生の姿なんでしょう。
そう思って、わたしはわたしなりの解答を見つけて人生を楽しんでいるのです。

分刻みのスケジュールで動く、多忙なひろさちや先生は自分勝手である。
ほかの人も自分のように自分勝手になれば幸福になれると思っている。
このため、せっせとアリのように働くひろ先生がキリギリスの思想を説くのである。

「がんばるからいけないのです。
逆に怠けてごらんなさい。そして、
<あーあ、わたしはこんなに怠けていられる。ありがたいことだ。幸せだなあ……>
と呟(つぶや)いてごらんなさい。たちまち幸福になれます。
怠けていて、<怠けていてはいけないんだ>と考えると、ストレスが生じます。
それだと幸福にはなれませんよ」(P225)


うっかりひろさちや先生の解答を正しいと思い、
まったく恥ずかしながら瞬間的にではあるが幸福になってしまったことを白状する。
すぐにこれは危険思想だと気づき、自分の解答を見つけようと思い直した。
でもさ、怠惰って本当の幸福のような気がするけれど、どうなんでしょう?
ひろさちや先生は人として未熟なので怠惰の幸福を味わえないとは考えられないか。
いや、そんな間違った考え方をしてはいけない。
わたしもひろさちや先生のような多忙な高所得者を目指さなければならない。

「対話する生と死」(河合隼雄/だいわ文庫)

→お偉い学者である河合隼雄先生の人生論というのは、なんのことはない、
受賞歴ゼロの怪しげな宗教ライターひろさちや先生とおなじといえなくもない。
このエッセイ集を読んで気づいたことである。
河合隼雄もまた「仏の目から世界を見てみよう」式の主張をしているのだから。
ユング学者が依拠する高僧は明恵上人である。
明恵は親鸞とおなじ時代を生きたマイナーな坊さんで、
(夜見る)夢の日記を書き続けた奇人として知られている。
おそらく、中世において夢はいまよりはるかに実体験として重視されていたのだろう。
たしかに夢でなら死者とも観音菩薩とも逢うことができる。夢で人を殺すこともある。
そして、それは人生にとって決定的な体験となりうる。
わたしの好きな一遍上人も熊野神社での夢告が人生における大きな転機になっている。
最近、余命を意識する年齢になってつくづく思うのは、実体験の重みである。
しかし、人間の体験は残念ながら宿命によって限られている。
なにもかも体験するわけにはいかない。
このとき夢をも実体験に加えてしまうことができたら、
人よりも深くものを知ることができるのだろう。

さて、夢マニアの明恵が華厳宗に帰依していたことから、
河合隼雄もこの仏教思想に興味を持つようになったという。
結果、華厳思想の「事々無礙(じじむげ)」を心理療法家は知るに至る。
いわゆる仏の見方である。
仏の世界から現世を見ると、問題が違うように見えるとのことである。
まず具体例から心理療法家に教えてもらおう。
たとえば不登校や家庭内暴力という問題を仏の世界から見たらどうなるか。

「この人が学校へ行かないのは、母親の過保護が原因である、
この少年が暴力をふるうのは、教師のしめつけがきついからだ、
などと短絡的に原因―結果の連鎖を見いだそうとしないところに、
われわれの専門性がある。
一人の人間はすなわち、世界全体である。
一人の不登校の生徒が登校をはじめるためには、
この子を取り巻く全関係性が変わらねばならない。
短絡的に原因―結果の鎖(くさり)を見いだすのではなく、
共時的な全体構造の把握が大切である。
もちろん、事々無礙は仏の世界から見た世界である。
われわれは人間であるから、全構図は見えないにしても、
できるかぎり広い関係性を見ようと努めることにより、
その変化のありようをうまく読まねばならないし、そのためには、
仏の目から見た世界が語られる華厳経の描きだす多くのイメージは
われわれ深層心理学者に、有益なヒントを与えてくれる」(P182)


さて、明恵がおのれへの訓戒とした言葉は「あるべきやうわ」である。
これは「できるかぎり広い関係性を見ようと努めること」と同義であろう。
問題の全構図は果たしてどうなっているのか見ようと努力することだ。
明恵の「あるべきやうわ」は現代の心理療法家の支えにもなったようである。

「筆者は明恵が「あるべきように」と言わず「あるべきようは」
と言ったところに深い意味があると感じる。
自然にやればよいとか、「あるべきように」と考えるのではなく、
「あるべきようは、とは何か」という問いかけが常に自分に対して
問いかけられているように思うのだ」(P55)


「あるべきやうわ」とは全構図であり、仏の世界のことなのだろう。
目の前の問題にとらわらずに、「できるかぎり広い関係性を見ようと努めること」だ。
では、仏の世界はどうなっているのか。事々無礙とはいかなる見方か。
個と全体の関係性についての世界観だと河合隼雄はいう。
事々無礙とはいかなる思想か直接、心理療法家の言葉に耳を傾けてみよう。

「華厳思想における重要な考えのひとつとして、
「事々無礙(じじむげ)」ということがある。
強引に簡略化して言えば、A、B、Cなどという独立したものは、
それぞれがA、B、Cであって
互いにAがBに、BがCになったりすることもなく、
それ自体として存在しているのだが、自性(それ自体の本質)をもつのではない、
という一見理解に苦しむような説である。
これはどうして可能かというと、Aはそれ自身の自性をもたなくとも、
B、C、およびその他すべてのものとの全体的関係性においてAなのである。
このことはB、Cについても同じであり、
全体的構造を通じてのみ、それ自体でありうる。
このことは、AがAであることは、その内的構造に隠されたかたちで、
B、Cなど他の一切を含むがゆえに可能であると考えられる。
これが華厳でよく言われる、
ひとつの微塵(みじん)のなかに存在世界全体がある、
という考え方につながってくる。ここで大切なことは、
このような全体構造が共時的(シンクロニスティック)に存在しているのであって、
原因と結果という継時的な連鎖によって見られていないということである」(P181)


わかりやすい文章を書くことでは定評がある河合隼雄にもかかわらず、
ここのところはそうとうに難解ではないだろうか。
しかし、一字一句書き写してみるとわからないでもない気がしてくるのである。
要するに、神仏の意思は人間にはわからんということではないだろうか。
人間の目に見えているものの裏になにやら複雑な関係がぎっしり詰まっている。
シンプルな事象の裏にあらゆる因縁が潜んでいるとでもいったらいいのか。
人間には全体図は決して見えないのだが、
明恵上人のように「あるべきやうわ」を心がけていると、ちらりと垣間見られる。
しつこいけれど「できるかぎり広い関係性を見ようと努めること」である。
あまり目に見える原因と結果にとらわれないことである。
そうすると、もしかしたらマイナスのなかにもプラスが見えるのかもしれない。
人間の目からはプラスにしか見えないことのマイナスに気がつくかもしれない。
「あるべきやうわ」における「べき」は仏の「べき」だと知ることだ。
仏が「あるべき」だとしている世界を知ろうとすることだ。考えてみることだ。
仏の目で世界を見るとは、そういうことである。
人間ならぬ仏の目で世界を見てみるのもまたよろしいと河合隼雄はいっている。

「対話で探る新しい科学」(河合隼雄/講談社+α文庫)

→河合隼雄と著名な学者たちの対談集。
とても刺激的な内容だった。わが意を得たりという感も強い。
本書の内容は常日頃からわたしも思っていたことだが、
このように偉い学者の証言があると思うと嬉しくなる。
まずはわたしの言葉で説明すると、科学とはそこまで当てになるものなのか。
というのも、50年前の科学は現在からは否定されるわけでしょう。
つまり、50年前の科学は真実ではない。
ならば、現代の科学でさえ50年後には真実ではないと否定されるのではないか。
そもそも唯一絶対の真実や真理など本当にあるのだろうか。

科学とはいかなるものか河合隼雄の定義に耳を傾けたい。
この定義のなかに科学なるものの特徴と弱点が見事に指摘されている。
さらには本書のテーマとなる「新しい科学」の萌芽まで見られる。
科学的ではないと批判されることの多い河合隼雄はいう。

「私は、科学というものは、やはり観察を大事にしないといけないと考えています。
ただ、これまでは観察というと、自分が入らなかったけれども、
そこに自分が入ってくるような観察。
ただし、自分がどの程度入っていくかは、
できるだけ明らかにすべきだと思っています。
それからもう一つ、
結果として見いだしたことを絶対的真だと主張してはならないということ。
それらは何かで変わる可能性もあるし、また今後変わっていくだろうから。
宗教の場合は教義だから、絶対的真を主張しなくてはならないが、科学は違います。
この二つを最低条件とすれば、
科学というものの範囲が非常に広がるのではないでしょうか」(P23)


わかりやすい定義だが、さらに噛み砕いてまとめるならばこうなる。
従来の科学は、自分を入れない観察の結果である。
さらにその科学的な知見は、まるで宗教のごとくに絶対的真であると主張されてきた。
わかりましたか?
わたしの言葉で猿にも理解できるように説明する。
たとえば、喫煙者は肺ガンになりやすいという科学的知見がある。
これは自分を入れていない観察の結果である(統計処理)。
このため禁煙は絶対正義となり、喫煙者は魔女狩り(宗教的!)のように迫害されている。
でもさ、どれだけタバコを吸っても肺ガンにならない人も少なからずいるわけでしょう?
いくら科学的に正しくないといっても、そういう人がいるのだから仕方がない。
身もふたもないことをいえば、
ヘビースモーカーでも自分さえ肺ガンにならなかったら、科学なんてどうでもいいよね?
もしかしたら数十年後に喫煙と肺ガンは無関係という発表があるかもしれない。
しかし、そうなっても喫煙者で肺ガンになる人は少なからずいるわけである。
要するに、重要なのは「自分が」肺ガンになるかどうかである。
科学がどうであろうが、自分を入れた観察結果がすべてであるといえなくもない。
この地点から従来の科学が疑問視され、オカルトまがいの「新しい科学」が提唱される。
1.自分を入れた観察の結果はどうなるか。
2.科学は絶対的真ではない。
以上2点が「新しい科学」の支柱である。

そうはいっても用心深い河合隼雄はなかなか「新しい科学」に踏み込まない。
なにせ教授になるまでは新しいことをいわなかったと河合は本書で述懐している。
まずは外堀を埋めてから、である。従来の科学は、それほど正しいのだろうか。
ユング学者の言葉なら疑う読者も、科学者の発言には従うことを河合は熟知している。
以下は動物行動学の権威、京都大学名誉教授の日高敏隆の言葉である。
科学のよって立つところは事実である。しかし、京大教授は事実を否定する。

「私は、一つ一つの事実すら、もともとないのではないかと考えているんですよ。
何かがあったとしても、たとえば男が見たときと女が見たときと、
見る人によっては違うはずです。だから、何が事実かは誰にもわからない。
結局のところ、説明しようとする人が、事実をつくりあげているわけです」(P180)


日本の夫婦の特徴は、事実をもとにした科学的調査の結果でわかったような気になる。
しかし、夫婦生活という事実はあるのに、離婚調停のときの物語は男女によって異なる。
ここで、そもそも事実などあるのだろうかと考えるのである。
夫婦喧嘩で明らかになるのは、ふたつの物語(ストーリー)といってよい。
夫婦はそれぞれ事実を指摘するけれど、事実が一致することはない。
科学もこれと似たようなものではないか。ふたたび、京大名誉教授の言葉を引く。

「ですから、科学的事実とは、事実と事実をつなぎあわせてできるのではなくて、
はじめにストーリーがあって、それが事実をつくっていくものなんです。
説得力のあるストーリーをつくれば、一時にせよ、人は納得し、信用する。
それで、その人は学位をとる」(P181)


強調したいが、これはユング学者ではなく動物行動学の権威、つまり科学者の言葉だ。
科学などストーリーに過ぎないと科学者がいっている。
たかだがストーリーに過ぎぬ科学を真理とみなし、
ほかのものをみな誤りと裁くのはいかがなものか。
毎日のように科学は真理とやらを発見して、従来の誤りを完全否定する。
(トマトに~~にいい成分の含まれていることが発見されました=真理!)
みたび、京大教授である科学者の言葉を拝聴しようではないか。

「それほど次々に真理が発見できるものなら、
いまごろはとっくに調べるものなんてなくなってますよ(笑)。
科学は、誰かが嘘の話を一生懸命つくると、
べつの人が、「前にあの人がいったことは間違いだ。これが事実だ」
とべつの嘘をついて学位をとる。
それをまたべつの人が「あれは間違いである」といって学位をとる。
そのようにしてどんどん発展するものなんです」(P183)


こんな本当のことをいってしまっていいのかと怖くなるくらいの本音である。
対談者が問題としているのは、
「真理は一つだから、ほかは間違っている」という考え方だ。
果たして「真理は一つだから、ほかは間違っている」のだろうか。
ソシュール言語学の権威、丸山圭三郎はいう。

「私どもは大東亜戦争という日本の聖戦思想を経験しましたが、
例の湾岸戦争はブッシュの側からいわせれば聖戦で、
もちろんサダム・フセインにとっても聖戦ですが、
真理は一つであるから片方は間違っている、
間違っているものは人類の正義と幸福のために叩いてもいいという論理になりますね」(P237)


日本人の我われはアメリカもイラクも、どっちもどっちであることに薄々感づいている。
再度、問われているのは、果たしてただひとつの真理などあるのだろうか。
もしかしたら、すべてが物語なのではないか。ふたたび、丸山圭三郎。

「たしかに科学のロマンは日常の意識にとってはとても説得的ですが、
一方で、私たちの体の奥から反発というか、どうもおかしいという気がしてくる。
そこでニュートンは偉大な物語作家であり、アインシュタインもガモフもホーキングも、
というふうに考えると、とても気がほぐれます。絶対的真理なんかない、と」(P238)


さて、いままでなにを確認してきたのか。科学は絶対的真ではない、ということだ。
ここから「新しい科学」がスタートするのである。
といっても、1994年刊(原版)の本書で「新しい科学」が直接的に言及されることはない。
ぼんやりと暗示される程度である。
従来の科学は、自分を入れない観察の結果から導かれたものだといえよう。
ならば、「新しい科学」は自分を入れた観察がヒントになるのだろう。
自分を入れない観察は、客観といわれている。
一方で自分を入れた観察は、主観であるとされる。
科学哲学者の村上陽一郎は、以下のようなエピソードを紹介する。
果たして人の体と自分の体はおなじものなのだろうか。客観だけでいいのか。

「江戸時代に、京都では山脇東洋とか、江戸では杉田玄白とか、
いわゆるオランダ医学系の人たちが解剖をはじめましたね。
そのときに、漢方医の吉益東洞やその子の吉益南涯がおもしろいことをいっています。
「解剖したって、相手は死体じゃないか。
医者は生きた人間を相手にしているのであって、
死んでいる人間から得られた知識で生きているもののことがどうしてわかるのだ」と。
解剖反対論を唱えたわけですが、これは滑稽(こっけい)なようで、
一面ではすごいことをいっていると思います。
いまの私の立場からは、もちろん「解剖はいらない」とはいえないわけですが、
では、解剖学的に対象化された人体についての知識を完璧に整えれば
患者が救われるのかというと、救われないところが必ず出てくると思う」(P279)


死んだ人間ならば客観的に見ることができるが、生きた人間はそうはいかない。
生きた人間を客観的に観察するのは、ほとんど不可能といえなくもない。
なぜなら、相性というものがあるからである。
我われは他者に対してまったく平等かつ客観的にはふるまえないようにできている。
わかりやすくいうならば、虫の好かない医者からもらった薬は効かないのである。
どうしてこういうことが起こるのか考えると、人間には主観があるからだ。
どうやら主観にこだわるのが「新しい科学」の取っ掛かりになりそうだとわかる。
河合隼雄はわかりやすく地図をたとえにして説明している。
従来の科学というのは、自分の入っていないマップ(地図)なのである。
対して、「新しい科学」は自分が入ったマップということになる。
知らない町のスーパーの位置はどうでもいいが(従来の科学)、
いま住んでいる町にある商店の場所は自分にとって強い意味を持つ(新しい科学)。
トイレットペーパーを買うならスーパーと薬局のどちらがいいか。
あるスーパーが安売りすると、べつのスーパーも値を下げるのはどうしてなのか。
自分の町のことに限っていえば、共時的に起きていることに気づく。
そう、主観にこだわることで見えてくるのはシンクロニシティ(共時性)である。
おそらく「新しい科学」には共時性がカギになるのだろうと河合隼雄は考えている。
しかし、1994年段階では「シンクロニシティには付かず離れず」。
このため、晩年ほどは突っ込んだ見解を示さない。
ただ意味のある偶然、シンクロニシティには人間の主観が強く関係すると暗示するにとどまる。

「人間というものがかかわらなければ、共時性には意味がないでしょう。
共時的という判断は、人間がするわけですから。
たとえば、火事とニワトリが鳴くという二つのことが同時に起こったとしても、
どちらかを兆候と思ったりするような
人間の判断が入ってこそ共時的になるのであって、
モノとモノとの共時性というのは意味がない。
だから、共時性とは主観的体験のことだと思う」(P296)


ところが、意外や意外、ユング以前にも偶然に目をつけていたものがいた。
社会学者の鶴見和子いわく、南方熊楠(みなかたくまぐす)がいるではないか。
以下は鶴見和子の言葉である。
南方熊楠は「新しい科学」にとって重要な視点を持っていたという。

「一番先に南方の考えにあるのは「因縁」。
これは仏教の言葉だけど、「因」は必然法則をあらわし、「縁」は偶然の出会い。
ただ、「縁」にも「縁」と「起」の二種類があって、
「縁」は出会っても変わらず同じ方向へいく。
「起」は出会ったために違った方向へ行く。
でも、「縁」という一つの言葉でいえば、両方とも偶然。
つまり、仏教は因果律と偶然の出会いとの両方を
同時にとらえる論理をもっているけれども、
近代科学では因果律はわかっても縁=偶然はわからない、南方はそう指摘している」(P119)


なにやら一見すると難しいが、わたしの言葉にいいかえてみよう。
世界には科学(因果律)だけでは説明できないことがある。
それは偶然(縁)を使わないと説明することができない。
この偶然は、二種類にわかれる。
変化を生じさせる偶然(起)と、ただの偶然(縁)である。
おそらく、「新しい科学」にとって大事なのは南方のいう「起」なのであろう。
これは客観的に観察できる対象ではなく、主観で感じ取る生き生きとした偶然のことだ。
1994年段階で河合隼雄が口にするのはここまでであった。
まとめると以下の2点である。
1.科学は絶対的真ではない(=真理はひとつではない)。
2.変化を起こす偶然に注目してもいいのではないか。

「シナリオ キルトの家」(山田太一/「月刊ドラマ」2012年4月号)

→驚いたことがふたつ。
やはり4、5回ドラマを見ているからセリフがほとんどこちらの頭にも入っていた。
このため気づいたのだが、放送でカットされているところがやたら多い。
たしかにカットしているのは秀才のようで、
うまく説明的なセリフを取り除いているように思える。
たぶん山田太一御大は90分ドラマのつもりでシナリオを書いたのではないかしら。
しかし、実際の放送は73分。ちょうどそのくらいシナリオが削られているのである。
台本のカットは、演劇の宿命のようなものだと思う。
たとえば「ハムレット」なら「ハムレット」をぜんぶ上演するケースは少ないのである。
かならず時間的な制約のため(長すぎる!)、どこかをカットしなくてはならない。
とはいえ、天下の山田太一先生でもここまでカットされてしまうのかと驚いた。
山田太一作品のシナリオと放送を見比べたことはまえにもあるが、
「キルトの家」ほど削られているものはちょっと記憶にない。
NHKは民放よりも相当にお偉いということだろうか。

それとこれを書いていいのかいまでも迷っているのだが――。
関係者の目に触れたらいさかいの種ともなりかねないのでぼかして書くけれど、
「キルトの家」でいちばんよかったシーンでシナリオが書き直されているのである。
わずかではあるが山田太一の書いていないセリフを役者が口にしている。
山田太一ファンとしてカットするのはまだ許せるが、書き直すのはどうだか複雑である。
プロデューサーとディレクター、シナリオを書き換えたのはどちらなのだろう。
これがシェイクスピアの作品だったらセリフを付け加えるなどとんでもないのである。
しかし、山田太一なら、まあこの程度だろうと偉い人が判断したのかと思われる。
問題なのは、書き換えられたシーンがそれはそれでよかったことである。
かなりの覚悟を持って書き換えたということがわからないでもない。

とはいえ、山田太一作品でさえ、この扱いなのである。
たまに勘違いをした関係者がテレビドラマの批評がないのはおかしいと主張することがある。
しかし、いっては悪いが、やはりテレビドラマは批評の対象には永遠にならないだろう。
だいいち、だれの作品かわからないというのが致命的である。
テレビドラマはいったいだれの作品なのか?
シナリオは勝手に直されてしまうのだから、少なくとも脚本家のものではない。
「キルトの家」では俳優陣が驚くくらいシナリオに忠実だったが、
こういうのは山田太一作品くらいであることは一般人でも知っている常識である。
俳優がセリフを言い換えるなんてざらなのだから、
ここでも作品は脚本家とあまり関係ないことがわかろう。
かといってテレビドラマのディレクターは時間的および経済的制約のため、
映画監督のようには映像にこだわることができない。
おそらく、テレビドラマは主演俳優の作品なのだと思う。
けれども、俳優の演技をどう批評したところで、それは作品の批評ではない。
しょせん俳優の評価など、個人的な好き嫌いによるところが非常に大きい。
したがって、テレビドラマの批評というのは今後も決して成熟しないだろう。
そもそもまともな大人ならテレビドラマなど見ないのである。
「テレビドラマのように」という形容が示す対象がいいものであった例(ためし)がない。
テレビドラマのように通俗的でわかりやすい――。
テレビドラマのように安っぽい――。

シナリオを読まないとわからないことがある。
ドラマ「キルトの家」で元時計職人の老人が
若夫婦にガラクタをプレゼントするシーンがあった。
あんなもんもらっても迷惑だろうなと同情したものである。
しかし、シナリオによると、あれは断じてガラクタではなく
芸術品レベルのものを作者は期待していたようだ。
だとしたら小道具係のミスなのか、それとも単にわたしの眼力が足らないだけなのか。
たぶん、後者であると思う。

いまもう一度、問題の書き直された箇所を確認してみた。
まあ、この程度だったら、まだシナリオに忠実だといえなくもないのかもしれない。
たしかにセリフを付け足しているけれども、それは直前で削ったものだから、ううん。
書き直していないといえなくもないギリギリのところなのだろう。
疑いえないのは、NHKの偉い人が日本でいちばん偉い脚本家に気を遣っていること。
「キルトの家」は山田太一作品としてテレビドラマではめずらしく批評の対象になること。
温厚な山田太一先生はこの程度のことでは決してお怒りにならないであろうこと。
以上の三点である。

「日本の面影」(山田太一/集英社)

→戯曲。
著者の没後、たいへん不本意ではあるが、これが代表作として取り上げられるのだろう。
来月、俳優座で再演されるらしいので、うっかりしたことを書いたら営業妨害になってしまう。
慎重に言葉を選んで書きたい。
「日本の面影」は山田太一が唯一書いた井上ひさし風の評伝劇といえよう。
井上ひさしが好んで書いた評伝劇は、実のところ日本の芝居としてとてもよくできている。
高額のチケットを買って芝居に来るような観客というのは、
たいがい文化的なものに飢えているといってよい。
彼(女)は文化を金で買っているのである。
だから、登場するのは歴史上の偉人でなければならない。
樋口一葉など典型だろう。
とても文化的な香りがするけれど、芝居の観客はふつうの庶民だから一葉の本は読めない。
文化的なもの飢えているといっても、一葉の入門書を読むのは面倒くさいのである。
こういう観客の代わりに井上ひさしが樋口一葉を読み込み娯楽芝居に仕立て上げる。
学問とは縁のない観客がなにを好むかといったら偉い人の言葉である。
芝居「頭痛肩こり樋口一葉」を観た観客はかならずや深い満足をおぼえることだろう。
一般の観客は高い金を払ったのだから元を取りたいのである。
ちまちました家庭劇など見せられたくない。
偉大というべき人間の悲喜に共感して金額相当の笑いや泣きを味わうことを欲する。

この文脈において、ハーンを描いた山田太一の評伝劇「日本の面影」は傑作である。
ハーンは樋口一葉ほど有名ではないが、比較的知られた明治時代の日本研究者である。
なかには学歴も低く日本語もろくに話せなかったハーンをバカにする識者もいるが、
概してアカデミックの世界では日本びいきであったハーンの評価は高い。
評伝劇「日本の面影」はハーンの生涯、思想をコンパクトに紹介するものとなっている。
繰り返しになるが、芝居に来るような観客はハーンの本を読まない(読めない)のだ。
したがって、山田太一作「日本の面影」からいろいろ教えられることがあるに違いない。
いまはなき(まだあるの?)新劇というのは、観客がお勉強する場だったことを考えると、
「日本の面影」は極めて正統的な日本演劇といえるのではないかと思う。
この芝居を観たら、どこか賢くなったような気分になることは確実である。
このように考えると、芝居は本と映画の中間地点に位置するのかもしれない。
つまり、映画ほど大衆に媚びないが、書物ほどは人を選ばないということだ。

芝居でだれがいちばん楽しいのかといったら役者である。
俳優陣にとっても「日本の面影」はとてもよくできたホンに思えるのではないか。
人間だれしも評価されたいと思うものだ。
どうしてか、ちまちました家庭劇では賞を取れないのである。
ちなみに山田太一脚本のテレビドラマ「日本の面影」は向田邦子賞を受賞している。
では、なぜこの賞が偉いのかといったら、向田邦子が直木賞を取っているからだ。
作品のなかでもなぜか評価されやすいものと、そうでないものがある。
偉い人(ということになっている)のハーンを取り上げた「日本の面影」は、
いうまでもなく前者である。役者の気持になって考えてみればよい。
自己顕示欲の強い彼(女)らは、どこにでもある家庭の夫婦など演じたくはないのだ。
やはりハーンとその妻を演じたいと思うものなのである。
「日本の面影」は山田太一作品のなかでは例外的なものといってよく、
あの謙虚な作家がハーンの口を借りて日本への説教をかましている。
文化的なものに飢えている観客は、偉い人の説教に弱いのである。
この芝居を鑑賞後、友人たちとのあいだで会話も弾むことだろう。
「まったくそうよねえ」「ほんとほんと」と日本人らしい意見の一致が見られるだろう。
メッセージ性の強い芝居は鑑賞の仕方がわかりやすいため庶民には受けるのである。
そのうえ作者のメッセージに共感すれば、自分も多少ましな人間に思えて都合がよい。
このたび「日本の面影」の再演を決めた関係者の劇作を見る目はたしかである。

「時は明治。近代化で姿を消してゆく日本の良きものを惜しんだ
ラフカディオ・ハーン、後の小泉八雲とその妻・セツの愛の物語」――。
今回の再演にあたってのキャッチコピーである。
台本を再読した感想として、この評伝劇を「愛の物語」とまとめてしまうのは
少し強引なような気もするが、それが演出というものなのだろう。
西洋的な愛とは縁のないセツだからこそハーンは妻をいたわったのだろうが、
平成の現代は「愛の物語」の商品価値が高いため致し方ない。
果たして平成の観客は、流されるままで自己主張をしないセツのよさに気づくのか。

山田太一は、ハーンの口を借りて日本人の欠点を長所として紹介する。

「日本人ニハ個人的意見、個人的感情ガナイ。素晴ラシイ」

「ミンナ、同ジ気持同ジ意見、誰モガ、個人的特色ナド超越シテ、
国民的、民族的感情ヲ体現シテイルノデス」

「ソレニ比ベタラ、人ト違ウコトヲ言オウトシタリ、
個人的特色ヲ出ソウ出ソウトスルエウロッパノ人間ハ、
ナント自分ニ捉ワレタ、下品ナ、傲慢ナ人間タチデショウ」(P185)


「自分の意見」がないから日本人は素晴らしいとハーンはいうのである。
自分よりもみんなを重んじ、
常にみんなのためを考える日本人はある面、美しいのではないか。
ハーンと山田太一の主張である。
この直後に山田太一はとても笑えるシーンを書いている。
7千円と高額なためわたしは行けないが、
演出の際はここをうまくやれば客は爆笑するだろう。
元気のないハーンを気遣って同僚と教え子が牛肉を買ってくるのである。
日本びいきのハーンは、自分は質素な日本食が好きだと肉を拒否する。
日本人にあこがれ肉を食べようとしないハーンに、日本人はなんといって肉を食べさせるか。
そして、日本人がなんとみんなでおなじ行動をするか。
ほんとうに日本人というのは個人の意見がないのである。
みんな一緒のことをする。
これはよくよく考えると、我われが批評されているわけで、うまくやればかなり笑えると思う。
「日本の面影」でいちばん好きなシーンである。
肉を食べさせようとする日本人。反抗するハーン。

「西田 ですから、焼いたところから、
 まずヘルン先生に召し上がっていただけばいいんです。
金十郎 そうよ。
ハーン イイエ。
金十郎 ここ、ほれ、ちょんぼし切ってあります。
 これつまんで、焼き具合、いうてくだされ。(と箸で肉片をつまむ)
ハーン オー。
西田 みんなのためです。
小豆沢 お願いします。
石原 お願いいたします。
ハーン ミンナノ――。
西田 そうです。焼き方を御存知なのは先生しかおうません。
小豆沢 どうぞ。
石原 お願いいたします。
信 どうぞ。
ハーン (ひらりと手でつまんで口へ入れる)

      みんな、息をのむ。

ハーン (食べる)
金十郎 外側こげたわりに、中が赤いども。
セツ 赤いですか?
西田 そりゃあ、まだいけんでしょう。
ハーン ノー。(と柔らかい顔になる)
西田 ノーですか?
セツ いけんですか?
金十郎 ノーかね?
セツ そいじゃ、お信さん。
ハーン ノー、オイシイ。
西田 あ。
セツ おいしいですか?
小豆沢 おいしいですか。
ハーン アア。(と味わうようにする。喜びがこみあげ)オイシイ。
金十郎 それは。
小豆沢 よかった。
石原 ああ、よかった。
ハーン オイシイ。

      みんな、なんだか楽しくなって「よかった」「オイシイ」
      と真似をしたりして、わが事のように笑ってしまう。

ハーン アアッ。(と悲しむ声)

      みんな、息止める。

ハーン コゲニ、日本、愛シトルニ、肉、求メテシマウコト。
西田 いいじゃなあですか。(皆に)なあ。

      「はあ」「ああ」「はい」とみんなうなずく。

ハーン 悲シイ。
金十郎 そげんこといわんで、もう一切れ。
ハーン ウーン。(とまた一切れ、口に入れる)

      みんな、息ひそめる。

ハーン オイシイ。

      みんな、またわが事のように喜ぶ」(P187)


たかが西洋人ひとりの意見に日本人みんなが左右され、なおかつ一喜一憂するのが、
あたかもなにかを暗喩しているかのようで、とても知的な笑いを誘うシーンである。
おそらく、このシーンの批評性に気がつかなかった観客も、
周りが笑っているからという理由でみんなと一緒に笑うと思われる。
ここに舞台と観客がひとつになるという演劇の醍醐味が見られるはずである。

以上、だらだらと自分の意見を書いてしまったのでハーンに怒られてしまう。
日本人なら自分の感想などいってはならないのである。
それが、古きよき日本人というものなのだから。
日本人であるならば、芝居を観たらみんなと一緒に笑顔で拍手していればいい。
みんなが笑っているところで笑い、泣いているところでみんなと一緒に泣けばよろしい。
ハーンは指摘していないが、
日本人ほど芝居の楽しみ方を知っている民族はいないのかもしれない。
劇とは、個を捨て全体に身をゆだねることだ。
このような演劇論を説いていたのは青年・山田太一にも強い影響を与えた福田恆存である。
そう考えてみると以下のハーンのセリフはいかにも福田恆存的である。
これはハーンの思想なのか、それとも山田太一のメッセージなのか。
不勉強なためハーンは「怪談・奇談」しか読んでいないのでわからない。

「自分ナドトイウモノハ、取ルニ足ラヌモノデス。
大キナ、日本ノ心、昔々カラ川ノヨウニ流レテイマス。
ギリシャノ心モ流レテイマス。アイルランドノ心モ流レテイマス。
一人一人ハ、ソノ大キナ心ヲ、チョットノ間映シテ消エル、小サナ鏡デス」(P244)


このセリフは最後の別れのシーンの布石でもある。
繰り返すが、福田恆存いわく、劇とは個を捨て全体に身をゆだねること。
これは福田恆存の人生論ともいってよい。
人の死は無意味ではない。死によって完成される大きなもの(≒宿命)がある。
わかりやすくいえば、死は終わりではないということだ。
シェイクスピア劇から福田恆存が学んだ人間の生き方(死に方)である。
山田太一作「日本の面影」の死生観もおなじである。
ハーンとその妻セツの別れのシーンから一部を引く。

「ハーン 私、多分、間モナク、死ニマス。
セツ なんを――。
ハーン (唇に指をあてる)
セツ 悲しいこと、いわんで下さい。(と聞く気だが、静かに一応いう)
ハーン 大キナ、心ノ川ニモドルノデス。
セツ ――――。(仕方なく、うなずく)
ハーン デスカラ、私、死ニマストモ、泣ク、決シテイケマセン」(P260)


シェイクスピア悲劇の偉人のように「日本の面影」のハーンは最後に死ぬ。
とはいえ、ハーンはシェイクスピアの饒舌を好まない。
ハーンは日本人の小泉八雲として、静かに死んでいくのである。

ひとりくらいこのブログを読んで「ようこそ先輩 西村賢太」(再放送)をご覧になりましたか?
わたしも視聴したのだが、あれは再放送ではなく再編集。
オリジナルでおもしろかった部分がことごとくカットされていた。
健康そうな若い女性教師に西村賢太氏が小学生たちと攻め込むところなど最高だったのに。
ダメなところを教えてほしいという質問への女性教師の回答に西村氏がNGを出し、
「もっとどす黒いことを教えてください」とニヤニヤするところとかさ。
NHKらしからぬ不穏さがかなり受けたのにカットするとはけしからん。
最後の私小説朗読もオリジナルはいじめられっ子の男子だった。
同級生からカツアゲされていることを私小説で告発していて相当に不穏で気まずかった。
クラスの空気がうっすら氷結したようでね。やはりあれは放送後に問題になったのかしらん。
NHK教育テレビに期待したわたしがバカだった。
たしかこの会社は就職活動のとき書類選考を通して一次面接まで行かせてくれたから、
なかなか見どころがあると思っておったのだが。
しかし、小学6年生の段階でもうそこはかとなく勝ち負けが出ているね。
こいつは将来勝ちそうだなという少女ばかり再編集ではスポットを浴びていた。
NHKのエリートさんもせめて小学生を撮影するときくらいさ、
生涯脚光とは縁のないような学童を取り上げてやればいいのに。
まあ、早めにガキに現実を教えてやるのも大人のやさしさなのだろう。
ダメなやつは一生ダメ。その逆もまた真なり。
でもごくたま~に西村賢太氏のような例外もあるから、
よい子のみんな、自殺しちゃいけないよ。
明日6月8日、19:25~教育テレビ(っていまはいわないの?)で再放送がある。
伝説の怪奇放送「ようそこ先輩 西村賢太」。
映しちゃいけないものが、いろいろ映っていたような気がする。
こちらの錯覚かもしれない。

(参考)「ようそこ先輩 西村賢太」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2829.html

成り上がり天下人になった芥川賞作家の西村賢太氏の日記をネットで読む。
いくら作家が出世をしても私淑かつ兄事するわが純粋な気持に変わりはないので。
残念ながら5月分しか読めなかった。
思ったのは、意外とお酒をおのみにならないんだなァ。
それからサウナは運動なの? 
不健康な生活で早死にできそうで羨ましい(いや心配だ)。

これをいっていいのかはわからないけれど、あんまり幸福そうじゃないよね。
忙しくて好きな本もまったく読めていない模様。
テレビ局で逢った芸人におべっかを使ったり、賢太兄貴がいじましくなってくる。
結句、人生は成功するまでが楽しいのかもしれないにゃ~。
いつか成功したいと夢見ている生活がもっとも幸せなのかもしれない。
いざ成功しちゃったら忙しくて日々を振り返る暇もない。
といっても、いつ落ち目になるかわからないから多忙な生活から逃れられない。
偉くなると好きなこともいえない。かつてのような不義理もできなくなる。

尊敬する賢太兄貴に聞いてみたい。
成功したいまと、苦役に満ちていた過去とどちらが幸せか。
きっと「秋恵」さんと同棲していた時期のほうが、いまよりよほど生き生きしていたんだろうな。
たとえ「秋恵」さんから絶交された直後の苦悩の時期でも、
いまの浮ついた生活よりは充実していたんでないかい?
それと金はあるんだろうから、もっといいものを召し上がってください。
自堕落に酒をもっとのまなきゃダメ。先生の文学がダメになりますよ。
大酒をのんでたくさん失敗するのが私小説作家の肥やしでしょう?
編集者に敬称なんてつけないで悪口を書いてほしいな~賢太兄貴には。
先日、読んでいない文庫本を本屋で見つけて2冊とも買いましたからね。

あの賢太兄貴もすっかり芸能人になったみたいだ。
こちらは芸能界のことを恥ずかしくなるくらい知らない。
例の次長課長も今回の騒動ではじめて知ったくらいだから。
もちろん、オリエンタルラジオも知らなかった。
これはわたしの努力が足らないよね。
昨日のAKB48総選挙、最後のほうをちょっと見ていたら若い子がいっていた。
名前は忘れちゃったけれど21歳のかわいい女の子が「努力は必ず報われる」って。
すんません。あっし人生で努力が足りませんでした~。
15歳年下の小娘から説教されるおっさんになるとは思わなかったぜ、ふう。

まえにブログのコメント欄で聞かれたけれど答えなかった。
今月15日の山田太一&紺野美沙子トークショーには行きますよ。
予習として昨日、戯曲「日本の面影」を再読しておいた。
おまけにシナリオ「キルトの家」も読む。感想は後日。
そうそう同日、銀座シネパトスで成瀬巳喜男監督「おかあさん」「妻」を見る予定。
水木洋子脚本の「おかあさん」はわたしが選ぶシナリオ・ベスト10に入る傑作なので。
銀座は高確率で道に迷うんだよな。東京でいちばん嫌いな街である。
つぎに嫌いな街、渋谷で最近ようやく道に迷わなくなった。好きな街は池袋と上野。

どうでもいいことを書き連ねると、オウムの高橋克也容疑者は若いよね。
防犯カメラの映像を見たけれど、髪の毛も黒々としているし54歳にはとても見えない。
やはり逃亡生活をしていると生きる張りがあるから老けないのだろう。
以上、だからなに? ということを延々とだべってみました。
どうやらふたつの種類の人がいるようです。教わる人と学ぶ人であります。
どこかに正しい答えがあると信じて、それを効率的に教わろうとする人。
一方で、もしかしたら答えはないのかもしれないと思いながら自分で学ぶ人がいます。
悪質な新興宗教に引っかかるのは前者でしょうね。
経典の解釈でも、だれかが正しい答えを知っていると思ってしまう。
こうなると、だれかに教えてもらった答えを絶対的に正しいと盲目的に信じるしかありません。
ほんとうは経典の解釈なんて人それぞれで、
自分の答えを見つければいいだけの話かもしれないにもかかわらず。
教祖になるタイプはまず後者でしょうね。
たしかに教わりはするのでしょうが、最終的には自分で学んだものを元手にする。

人生や学問において、正しい答えがあるかのどうかの議論はここではやめます。
かりに正しい答えがあったらの話をしましょう。
わたしは自己啓発書の古典カーネギー「道は開ける」「人を動かす」は、
かなり正しいのではないかと経験的に感じています(とうてい実践はできませんが)。
しかし、それは自分があまたの失敗を繰り返して学んだことなんですね。
カーネギーの本自体は10年以上まえから何度も読んでいます。
正しいことならとっくのとうに教わっているのです。
ただし、自分の体験から痛切に学ぶということが少なかった。
あんな恥ずかしい本を読まずとも(あれはとても恥ずかしい本ですよ!)、
経験からうまく人生や他者との折り合い方を学ぶ人もたくさんいるでしょう。
むしろ、そちらの人のほうが魅力的ではないかと思います。

どうしてすぐ教わろうとする人がいるのでしょう。
もしかしたら正しい答えなんかないかもしれないじゃないですか。
それに答えというものは、教わるよりも自分で学んだほうがよほど身につきますよ。
だれかから教えてもらった答えなどほとんど役に立たないといっても過言じゃないでしょう。
自分で苦労して学んだ答えだから意味があるとは考えられないでしょうか。
かんたんに答えに行き着いてしまったら、かえってつまらないとは思いませんか。
旅は目的地に着くまでが楽しいのですから。旅とは過程なのです。
そして、いちばん楽しいのは目的地のない旅です。これは放浪といわれています。

最近、若い人からよく質問をされます。
わが余生のテーマは親切ですから、できるだけ丁寧に答えるようにしています。
せめてブログのコメント欄ではなく、
名前と学校名を名乗ったうえでメールでお願いしたいと思いますが、
そういうことは面倒くさい、楽をしたいという気持はよくわかります。
わたしもむかしはそういう学生でしたから。わたしこそ、そういう怠け者でした。
レポートでお困りの学生さんからメールをいただく。
せっかく頼ってくれたのだからと思い、
こちらで時間をかけ調べて懇切丁寧に質問に答えても、
その後メールの返信が来ないこともあります。
そういうものなんですね。答えさえわかればもういいのでしょう。
しかし、思えばわたしもきっと若いころにそのような不義理を働いていたはずですから、
むかしのご恩をいまようやく返すことができたのだと思っています。

ですから、問題は礼儀うんぬんではありません(わたしのほうが無礼かもしれないので)。
損得の問題です。
自分で調べて、自分で考えたほうがお得なのに、どうしてそうしないのだろう。
それから、ブログのコメント欄で相談を持ちかけられても困ります。
だって、わたしはあなたの名前も顔も知らないのですから。
お住まいの地域も経済状況もわかりません。なら、答えようがないではありませんか。
それに皮肉をいえば、どうせわたしの助言など聞きはしないでしょう。
いえいえ、わたしも人に相談をしても、最後に決めるのは自分だからそれでいいのですよ。
でも、見知らぬ人に相談したりするのはどんなもんでしょうか。
せいぜい往来で道を聞くくらいしか、知らない人には質問できないのではないでしょうか。
そして、道に迷うのもまたいいものですよと助言したい。
もしかしたら目的地に到達する道はひとつではないのかもしれません。
さらに極論を申し上げれば、目的地なんてそもそもないのかもしれない。
前を向いて歩いていればいいのかもしれない。
立ち止まってもいいのかもしれない。振り返ってもいいのかもしれない。
なぜなら、あなたはいま、ほかならぬあなただけの道を歩んでいるのですから。
わたしがそうであるように。そうでありたいと思うように。
「不運のすすめ」(米長邦雄/角川oneテーマ21)

→毀誉褒貶のこれほど激しいものはいまいという将棋勝負師の著作。
一手で勝負が決まる棋士ほど運を考えるものはいないのかもしれない。
プロの棋士の場合、自分の一手で相手の人生を変えてしまうこともあるのだから。
ぎりぎりまで勝負と向き合うと運を考えざるをえない。
運を考えるとは、いったいどういうことか。

「今になって考えると、あれは将棋の神様の配剤だったのかな、と思う」(P69)

運を考え始めると、どうしても神との会話になってしまう。
勝負やギャンブルは神に近づくための道なのだろう。
運とは、結局のところ神と自分の関係なのかもしれない。
全能の神に対して我われはどうしたらいいのか。
こう考えたとき、勝ち負けを超えた自分に思いを馳せるのだろう。

「大切なのは、「自分ならこう指す」「自分はこう思う」と、
自分の頭で考えるクセをつけることだ。
どのような世界でも、強くなるためにはこれを積み重ねていくしかない。
遠回りのように思えるが、結果的にはそれがいちばんの近道なのである」(P112)


神(=運)を見たいのなら、自分を見極めるしかないということか。
自分があっての神=運なのだろう。
自分がまず思うこと、それは直感と言われている。
直感を重んじれば、運(=神)との交流がうまくいくのだろうか。……直感。

「直感、第一感のあるなしが、
その人の棋力や将来性に大きく関係していることは明らかである。
これは、どんなことにも共通して言えると、私は考えている。
たとえば人との出会いでも、ぱっと顔を合わせた瞬間に「信頼できそうだな」
と直感で思ったら、それは当たっていることが多い」(P119)


運がいい人とは、神との関係が良好な人のことなのだろう。
たとえ無神論者でも運によって神との豊かな交流を持つことが可能である。
運を考え始めたその瞬間、人は神仏に捕まっているのではないかと思われる。

「人間における運の研究」(米長邦雄・渡辺昇一/致知出版社)

→結局は人生など運に過ぎぬのでしょうが、
プチ成功者のご両人は自身のささやかな成功を幸運にのみ負わせるわけにはいかない。
本書のような対談本が生まれるゆえんであります。
人生は運なのだが、しかしそれでも自分たちは運を把握していると思いたい傲慢。
あるいは虚勢。この本における両者の主張だ。
したがって、反発したくも共感したくもなるふしぎな書物といえよう。
本書でも言及されているが、現世にこだわらないことが重要なのかもしれない。
現世だけなら、悲惨なことに、不遇のみの底辺人生があるのである。
しかし、前世や来世を考えたら!
前世や来世を念頭に入れたらこの世の事件はみなみな整合性があるのかもしれない。
理不尽も不条理もないのかもしれない。
人間は運を支配できるのか。棋士の米長邦雄は言う。運についての結論だ。

「運は議論しても仕方がない。
合理的で整合性のある結論など出るわけがないのだから。
まさに“運を天にまかせる”です」(P150)


「あきらめる」と「天にまかせる」は違うのかどうか。
わたしはおなじだと思うが、違うと主張するほうが世間の受けはいいのだろう。

「河口」(井上靖/角川文庫)絶版

→いまはもうだれも読む人がいないだろう大衆小説を酒をのみながら楽しむ。
老年に近づいた井上靖が、むかしからの愛人とのゴタゴタに悩んでいた時期の作品だ。
テーマは「本当の愛とは?」ではないか。
やたら金の話題が出てくるのは、
井上靖が愛人との手切れ金問題で悩んでいたからだと思う。
本書のあらすじを書いてもいいが、だれの興味も引かないだろう。

愛の反意語は憎しみではなく金である、とこの小説の書き手が思っていたのがよくわかる。
愛というのは無償の行為だとされている。
愛に溺(おぼ)れているうちはいいのである。
あれほど愛し愛された関係も、結局は金の問題に行き着いてしまう。
本人はさほど恋愛経験がないにもかかわらず、
40近くにできた愛人のおかげで修羅場を味わわせてもらった文豪の言葉は重い。
愛人のおかげで小説を書けるようになったのが井上靖である。

「人生というものは金ですよ。金を持たなくちゃあ」とか、
「恋愛とか愛情とか言ったって、そんなものは結局は何にもなりはしません。
金ですよ、金、金」そんなことを館林は平気で口にした」(P99)


この館林なる男は不能の画商である。
おそらく、この小説を書くまえから井上靖の性欲が減退を始めたのだろう。
いざ性欲がなくなってみると、愛人なぞなんぼのもんか。
性欲が減少したら見えてくる世界が変わる。
これが本書の裏テーマではないかと思われる。
しかし、井上靖はいい。酒をのみながらたいへん楽しく読ませていただいた。
いつか井上靖のように愛人のひとりも持ちたい。
そのためには結婚しなければいけないのだから、まずこれが難題である。

「文章修行」(水上勉・瀬戸内寂聴/岩波書店)

→水上勉と瀬戸内寂聴といえば、ひろさちやの本で三者の鼎談を読んだことがある。
両氏ともに宗教ライターひろさちやを無視して話を進めていたので、
文士というのはなかなかえげつないことをするものだとニンマリしたものである。
たしかにそれは正しく、ライターには失礼だが、人間の格が違うのである。
わたしはひろさちやと向かい合ってもまったく緊張しないと思う。
しかし、もし水上勉(故人)や瀬戸内寂聴と面会する機会があったら震えるかもしれない。
自分という人間を見透かされるのではないかという恐怖がある。
なぜかといえば、ひろさちやはしょせん人の道を歩いてきた秀才に過ぎないからだ。
一方で水上勉や瀬戸内寂聴といえば、どう言ったら失礼にならないのか。
覚悟を決めて言ってしまうと、どこかで人の道を踏み外しているのである。
また、そうでなければ人を感動させる小説など書けるはずがない。
若輩が失礼を承知で言うならば、水上勉や瀬戸内寂聴は人間道ではなく、
修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道を歩まれておられる。
仏教を学ぶのではなく(教えるのでもない)、仏教の世界を生きているのがご両人だ。
晩年の水上勉と瀬戸内寂聴の対談がおもしろくならないはずがないではないか。
本書は文壇ゴシップに満ちている。
むかしはおもしろい人間が大勢いたのには驚かされる。いや、人間ではない。
かつて文壇には魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)していたのである。
そこら中に人間の形をした阿修羅や畜生や餓鬼がうろうろしていた。
彼(女)は人間ではないから、憎しみのみならず人を傷つけた経験まで栄養滋養とする。
ふつうの人なら後悔の種となるものが、彼ら高貴な非人に小説を書かせるのである。
小説とはなにか? 小説こそ真実であると瀬戸内寂聴は言う。

「小説家は嘘つきますよ。ほんとに言いたくないことは書けない。
わたし、伝記を書いているでしょう。
そのとき、日記とか、本人の作った年譜とか、全然信用できない。
嘘が多いし、間違いだらけです。本人の記憶なんて。
歳なんてみんな誤魔化している。やっぱり一番信用できるのが小説ですね。
だから小説をじいっと読んでいたらその作者が全部わかってくる。
小説こそが本音です。だから、真実と事実はちがうんですよ。
小説は真実が浮び上る」(P97)


本書における小林秀雄や福田恆存のエピソードは、
興味のあるものにはしびれるほどおもしろい。
ほかにも逐一この場で紹介したい真実を老男老女は語っている。
どれも人間ならぬ鬼畜たちのとても輝かしい生き様である。
ガキの将来の夢がサラリーマンになっていることを忌まわしく思う人はぜひお読みください。
わたしもたいそう励まされた。
さて、水上勉、瀬戸内寂聴の両氏が最後で強調しているのは小説を書く楽しみである。
まずは瀬戸内寂聴から。小説を書くときの孤独がいいと言う水上勉の言葉に応じて。

「わたしもその誰もいない孤独のなかで書いている、
そのときほんとうに満たされていますね。人間要らないんですよ。
そのときに、ほんとうに孤独ななかで自分の書くものとだけ向かい合っている、
それは醍醐味ですよね。あれは一度味わったらやめられない。
それが売れるとか売れないということは考えていない」(P188)


小説を書く醍醐味を、セックスよりもいい快感と言うのは水上勉である。
そのうえで――。

「それは自分だけの神様との取引というか、自分だけで得心がいくことですね。
だから、人に何を言われてもそれは治らんね。それが醍醐味ですから」(P190)


水上勉は小説創作を、まるで業病かなにかのように言うのが印象的である。
大学の卒論以来、小説は一行も書けないが、
こちらも畜生道を生きる身ゆえ(パンダ!)、
そんな快感があるならぜひ味わってみたいと思った。
人の道よりも獣道(けものみち)にどうしてか強く引かれてしまう。

「人生の鍛錬 小林秀雄の言葉」(新潮社編/新潮新書)

→高校生の山田太一少年を夢中にさせた小林秀雄を読む(以下、文中敬称略)。
本書は全集も手がけた子分編集者が選んだ小林秀雄の名言集である。
酒癖の悪い小林秀雄の言葉に触れるのはこれが初めてだが、さあどうしようか迷う。
本音を言うと、さっぱり文章の意味がわからないのである。
しかし、尊敬する山田太一も宮本輝も酒癖の悪い小林秀雄を認めている。
というかむしろ崇めているところさえある。
わたしは酒癖の悪い小林秀雄の文章をどうしても理解することができない。

こういうとき、いったいどうしたらいいのだろう。
理解できないのは自分が至らないからだと反省すべきなのだろうか。
「人生の鍛錬」が足らないからだと殊勝にもうなだれるべきなのか。
とはいえそうはいっても、
こちらは人並み程度の読書はしてきた四捨五入すれば40にもなるおっさんである。
わからない文章を書く酒癖の悪い小林秀雄を責めてはいけないのだろうか。
晩年の小林秀雄は骨董の鑑定で小遣いを稼いでいたようである。
骨董品になぞらえるなら福田恆存は本物だと思うけれど、
小林秀雄はどちらかといえば……しかし、山田太一も宮本輝も本物と言っているから、
やはり、その、小林秀雄が贋物(にせもの)に見えてしまうわたしは眼力がないのだろう。
みながよいと言っていれば、自分にはわからないものでも一応ひれ伏すのが処世の知恵。
酒癖の悪い小林秀雄をまるで新興宗教の教祖のようだと皮肉るのは大人げない。

以下、わずかでも理解できたところを自分の言葉でリライトする。
もしかしたら多少なりとも小林秀雄を理解できるわたしは(いやわたしも)偉いのでは?

・批評は愛情や感動でするもんだ。
・自分の意見を捨てて対象をありのままに鑑賞するのはとても難しい。
鑑賞していても対象をまったく見ず、自分の意見にのみ執着していることはよくある。
・他人の生活を生きてみたいという通俗的な理由から我われは小説を読む。
・広く浅い読書ではなく、深く狭い読書をしよう。
・歴史から学ぶことがあるとすれは、将来の予想は当たらないということ。
それから各時代のいまを精一杯生きた人が歴史を創ってきたということ。
・独創や個性は既存の思想ではなく、物事にぶつかったときの態度(行動)から形成される。
・なぜ書物を読むのかといえば、それを書いた人間を知るためである。
人間が書いた書物からいかに人間を取り戻すかが読書の技術といってよい。
・小説を読むのも思想書を読むのも、自己の体験を元手にした創作活動でなければならぬ。
・文学者はわからないことがあるから小説を書くのだ。
彫刻家も完成させて初めて自分の創作したかったものがわかり、
またそこから学ぶ、すなわち新たな疑問が生まれる。この繰り返しが芸術である。
・人間って死なないと全体像がつかめんよね。
・偶然に過ぎぬ不幸を必然のように観じ、いったんあきらめるのが命の力である。
・頭は西洋文学で鍛え、眼は日本美術で養うのがよい。
・人生はお芝居だから、俳優の努力、観客の努力というものがそのまま人生論になる。
・絵を見るのは練習と思って、どれだけ退屈でも絵のまえに立っていなさい。
・政治家に必要なのは私の意見・思想ではなく集団のそれである。
・文学作品は(批判や解説ではなく)ただひたすら忍耐力のある愛読者を求めている。
・音楽鑑賞は(言葉に翻訳するのではなく)、ただ音を正確に耳でつまかえるだけでよい。
・言葉は美の本質をゆがめる。我われは言葉のせいで美を見失っている。
・絵や音楽を理解するとは、ひたすらそれを愛することを意味する。
・人間は自然のうちに人間の心のようなものを見るから風景に感動するのだ。
・ゴッホの絵の衝撃は、向こうから見られていると感じたところだ。
・客観的、実証的な研究よりも、どうしてみな対象を愛そうとしないのだろう?
好き嫌いの心の働きには、測り知れないものがあるのではあるまいか。
・歌は意味を知るものではなく、味わうものだ。
作者が歌を作るに至った感情体験を自分も真似て味わってみるのがよい。
・おれは酒癖が悪いので有名だが、ほんとうは独酌がいちばん好きなんだぜ。
・批評とは悪口ではなく、他人をほめる特殊な技術のことをいうのだよ。
・人間の死は肉体が滅びるだけで、もしかしたら精神はそのまま残るのかもしれない。
・固有の思いを外来の漢字でしか表現できなかった矛盾から古事記は生まれた。

さて、どうでしょうか。小林秀雄をわたしの言葉に翻訳したら、はて。
一箇所くらい原文をそのまま引いておこう。

「成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。
其処(そこ)には、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。
何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生む事は出来ない」(P203)


酒癖の悪い小林秀雄の千分の一でいいから人生で成功とやらを味わってみたいもんだ。
そのためには意味のわからない文章を書く努力もたいせつなのかもしれない。
意味不明の文章をまえにした瞬間、
これは参りましたとシッポを振る犬のような読者もなかにはいるようだから。
頭が悪いためか、どうしても読者を突き放すような難解な文章を書くことができない。
泥酔して酒場で同業者にからむくらいならわたしでも真似できそうなのだが。

少年は老いる。山田太一中年は少年時代を振り返ってこんなことを言っている。
小林秀雄は――。

「むずかしくて半分も理解できませんでしたけれど、
読むだけで高校生の虚栄心を満たしてくれた本でしたから(笑)、
いまでも大事にしています」(「本棚が見たい」P94)


(追記)そういえば小林秀雄は10年近くまえ「ドストエフスキイの生活」を読んだかな。
入手可能なドストエフスキー作品をすべて読了したのちのこと。
それがまったくわからなかったので以降ずっと敬遠してきたのでした。

「図解雑学 浄土真宗」(千葉乗隆/ナツメ社)

→記述が事項羅列式で、まるで歴史教科書の文章のよう。
はっきり言って正しいのかもしれないが、まるでおもしろくないのである。
空欄補充問題の対策として読む本といったところか。
なにかを伝えたいという情熱がまったく感じられないのがいけない。
人生に苦しむものが読んでもさらさら残るものはないだろう。
著者は宗教家に必要とされる狂気をつゆ持ち合わせていないように見受けられる。
書き手の肩書がかなり高いためか、編集もうまく口を出せなかったようだ。
せっかくの図解雑学がぜんぜん生かされていない。
浄土真宗内部の人のようだから、皮肉を言えば現在のこの宗教団体を象徴しているとも。

浄土真宗は日本最初のカルト教団だという思いを再確認したしだいである。
創価学会どころではない、政治への介入ぶりに身震いする。
権力者に依頼されて門徒に戦争をするように命令する実如(蓮如の息子)は
果たして仏教者といっていいものか。
一向一揆はカルトの本領発揮といったおもむきがあって笑える。
死んだら浄土に行けると信じている貧農が起こす一揆は最強なのではないか。
怖いものがないとはこのことだろう。死んでも構わないのだから無敵である。
一向一揆を相手にしなければならなかった武士には同情を禁じえない。
トップの権力上昇による生害や後生御免といった新制度もいかにもカルトでおもしろい。
生害とは、教団内で勝手に死刑を執り行ってしまうこと。
オウム真理教のポアみたいで恐ろしい。
もし無実のものを死刑にしてしまっても、
最高権力者が後生御免を発令すれば死者は浄土へ行くそうだ。
どこまで世襲の権力というものは腐敗するものかつくづく思い知らされた。
「親鸞にかえれ」との内部の声から、のちに生害や後生御免は禁止になったという、
どこか誇らしげな記述にはうんざりする。

権力者となった浄土真宗トップが戦国武将や比叡山と交渉するのは、
パワーゲームを見るようで不謹慎な興奮をおぼえてしまった。
江戸時代から葬式ビジネスを一手に引き受ける浄土真宗は、
利権と代わりにすっかり幕府からカルトの毒を抜かれていて、
これを言っていいのかどうかわからぬがザマアミロと思わないこともない。
これほどまで悪く浄土真宗のことを書いた理由は単純に羨ましいからである。
わたしも寺の子どもに生まれて坊主になりたかった。くうう、生臭坊主になりたかった。
いまからでも坊主になることは夢想するが、うまく空き寺へは入れないだろう。
世襲坊主ほどのうまみは味わえないから悔しくなる。
くそお、浄土真宗の坊主になって、この世の快楽をしこたま味わいたかったぜ!
坊さんが羨ましくてしようがなく、こんな悪口三昧を書いてしまった。
ごめんなさい。でも、浄土真宗のお坊さんはやさしいから許してくれると思う。
競争がないと温和な性格の坊主になりむしろいい面もあるのだろう。合掌。

「蓮如上人御一代聞書」の感想を見直していたら、
明白な読み間違えを発見してあわてて訂正をしたところ。
ま、どうせだれも読んでないからいいよね。
ついでに親鸞系某カルト教団の信者さんのサイトを拝見したら、びっくりした。
親鸞は死んだら救われるなんて言っていない。
現世で救われるのが親鸞の教えだ云々と激しく主張しているのだから。
え? え? あれ?

ことの是非はともかく、どうしてみんなそこまで現世にこだわるんだろう。
現世なんてさらっとあきらめちゃえば、けっこう楽になれるかもしれないのにさ。
最近やたらと寛容で、自分としては親切になっているような気がする。
おかしなメールが来ても、ぜんぶ丁寧に返信しているし。
むかしだったらありえないほど温和になっている。
これは現世を半分あきらめたからなんだよね、きっと。
わたしは来世で女子高生になりたいと思っている(美少女限定)。
そのために現世で可能なことって功徳を積むくらいしか思いつかない。
だから、親切を心がけているようなところがある。

でもさ、女子高生になりたいという夢。
これはだれが考えても現世では実現不可能な夢だよね。
いくら努力しても女子高生にはなれない。
努力してもかなわない夢がある。
にもかかわらず、人は作家や脚本家になら努力したらなれると信じている。
努力したらだれでも人気お笑い芸人になれると思っている若者がいる。
これ、おかしいよね? その夢も女子高生と似たようなもんじゃん。

かなり怒りっぽいほうだから、腹の立つことが多い。
でも、ぐっとこらえる。辛抱する。これは来世のための功徳だと自分をだます。
みなさんも真似してくれ、なんて説教はしない。
だって、自分がまだぜんぜんなっていないから。
親鸞系の信者さんって不気味なくらい低姿勢ぶるよね。
ま、日蓮系の信者さんの傲岸不遜な態度よりは好ましい。
べつに新興宗教は嫌いではない。
美少女が勧誘に来たら落ちると思うが、来ないので腹が立つ。ぷんぷんだ。