酔っ払ったいきおいで暴論をおっさんが語っちゃうよ。
これはほんとうは直前の記事「蓮如上人御一代聞書」に書いたことだけれど、
どうせだれも読んでいないっしょ? それで、いいのいいの。
おれだってあんな長文は最後まで読まないから。

新興宗教っておもしろいよね。こちら特定の団体には所属していないけれど。
いわく、蓮如に還れ、親鸞に還れ、法然に還れ、(中略)仏陀に還れ。
でもさ、それおかしいよ。
どうして蓮如、親鸞、法然、(中略)仏陀は正しいの?
しょせん正しいなんていうのは幻想で、
人は多数派が肯定しているものを正しいと錯覚するものなんじゃないかと思う。

ぶっちゃけ、仏陀が正しいなんていうのは嘘だからね。
アフリカの奥地にでも行って原住民に仏陀の話をしてごらんなさい。
だれもまともに聞いてくれないから。

多数派の意見を人は正しいとみなす。

大工の息子のイエスなんかも、だいぶ人民をだまくらかしたようだ。
だから、戦争が絶えないのだとも言いうる。
絶対的に正しいことなんて、ほんとうはひとつもありえないのかもしれない。
もしこのことをイエスや仏陀が言っていたら楽だったのだけど、わたしの言葉じゃね。
貧乏だからほとんど口にしたことはない牛の焼肉はインドではアウト。
なぜならインドでは多くの人が牛を聖なるものと信じているから。
鯨を食うなって勝手に怒っている野蛮な自称先進国もあるわけで。

よって、真実を追い求めるほどの愚行はない。
金を儲けたかったら、どうしたら多数派になれるかを考えるに限る。
百回だって千回だって言いたいが、正しいことなどこの世にひとつとしてないのである。
もっとも無名のわたしがなにを言おうが、だれも耳を傾けてくれないでしょうが。
イエスが偉いのは、没後に多数の人を味方につけたからである。
仏陀しかり、親鸞しかり。
ほんとうは絶対的に正しいことなど、なにひとつないのかもしれない。
だれか権力を持つ人(=支持者が多い=多数派)が、
この愚考に目をとめてくださるといいのですが……。
「蓮如上人御一代聞書」(稲葉昌丸:校訂/岩波文庫)品切れ

→蓮如(れんにょ)という室町時代の坊さんはかなりすごい人なのではないか。
そうとうがんばった人のようである。
もし蓮如が現われなければ、親鸞も法然も歴史の教科書に載らなかったかもしれない。
蓮如がうまく持ち上げたおかげで親鸞ひいては法然の株が上昇しているようなところがある。
法然や親鸞は宗教的天才だったかもしれないが、ぜんぜん人を救っていないのである。
せいぜい来るもの拒まずくらいの精神しか持っていなかったと思われる。
ところが、蓮如は率先して大勢の人を勧誘したのである。
たくさんの人を救った。言い換えたら、あまたの人を上手にだました。
おそらく、日本最初のカルト教団は蓮如の浄土真宗ではないかと思われる。
浄土真宗の開祖は親鸞になっているが、あれは蓮如のでっち上げだろう。
当時のカルト教団・浄土真宗を始めた蓮如は巧みに親鸞を権威づけに利用した。
もちろん、蓮如は親鸞の天才をだれよりも知っていたのである。
しかし、親鸞の教えそのままでは万民救済がかなわぬことも彼は同時に知っていた。
親鸞の教えは親鸞ひとりを救うためのものだった。
学才豊かな蓮如も親鸞の教えに救われた。
だが、このままでは無学なものを救うことはできないのではないか。
「歎異抄」を繰り返し読んだ蓮如の結論である。
「歎異抄」をだれよりも読み込んだ蓮如は、この書を一般には閲覧禁止にした。
このとき蓮如の教えが誕生したのだと思われる。

蓮如は室町時代の池田大作と言ってもよいのだろう。
とにかく勢力拡大がうまいのである。人心を掌握するのが巧みである。
人を引きつけてやまないカリスマ性を持つ。
たぶん、とても人間くさい傑物であったのだろう。
ただの聖人君子ではなく、ほとんど万能とも言うべき金の力を知っていた。
自身が聖俗の王者になろうという野望を持ち、実際に念願をかなえたのが蓮如である。
これから日本初のカルト教団教祖、蓮如の宗教作法を見ていきたい。
「蓮如上人御一代聞書」は弟子がまとめた蓮如の言行録である。

まず蓮如はなにをしたか。だれが偉いのかをはっきりとさせる。
おそらく、親鸞には教団設立の意思はなかったものと思われる。
だが、本願寺8代目の蓮如は親鸞を持ち上げることで自身もまた偉いのだと宣言する。
親鸞が偉いのだから子孫の自分も絶対的に偉いのだという理屈である。
そのうえで教義を整理する。この教団ではなにがもっとも偉いのか。
蓮如は(阿弥陀仏の)木像よりも絵像よりも名号が偉いとする。
「名号>絵像>木像」である。名号とは、南無阿弥陀仏のこと。
繰り返すが、蓮如教団では名号をご本尊とする。
さらに蓮如自身が名号を書き、各地の信者にこれがご本尊だと送ったという。
自分ほど名号を書いたものはいまいという述懐が本書に採録されている。
この権威ピラミッドは実にうまく考えられている。
名号がもっともたいせつだとしたうえで、その名号を自分が書くのだから。
「蓮如>名号>絵像>木像」となるのがわかろう。
蓮如自身の偉さは親鸞に保証させるから、正確には「親鸞>蓮如>名号>絵像>木像」だ。
このうえで蓮如は親鸞の教えをまことわかりやすく説く。
教えとは――念仏すれば死後に極楽浄土に往生できる。これだけである。

「仏法には、よろづかなしきにも、かなはぬにつけても、何事につけても、
後生のたすかるべきことを思へば、よろこび多きは仏恩なり、と云云」(P163)


これは現世なんてどうだっていいじゃないかというカルト的思想である。
世の中は悲しいことであふれている。なにごともうまくいくことはめったにない。
しかし、である。死んだら極楽浄土に往生できるのである。
浄土にはむろん悲哀も苦労もない。
ならば、どうして喜ばない? 死んだら浄土に行けるのだから喜べ!
現世なんてどうだっていいのだ。後生(死後)に助かるのだからなぜ喜ばない?
この教えは、当時の下層民をたいそう喜ばせたことと思う。
この時代は遊園地もファミレスも映画館もないのである。
たぶん貧農レベルになると、生きていることは苦ばかりだったのではないか。
楽しみなど貧しい食事と子作りくらいしかなかったはずである。
医学なんてあってないようなものだから平均寿命も短く人がぽんぽん死んでいく。
ここに死んだら浄土に往生できるという教えがもたらされる。
どうしたら往生できるのか。蓮如は念仏すればいいと説く。
言うなれば、蓮如は死の押し売りをやったわけである。
死後の世界を売り物にしたのが蓮如という男だ。
いわく、死後に往生できるのだから喜んで念仏せよ。

「仰せに、弥陀をたのみて御たすけを決定して、
御たすけのありがたさたふとさよと、よろこぶこゝろあれば、
そのうれしさに念仏申すばかりなり。
すなはちこれ仏恩報謝なり」(P48)


念仏の意味は「阿弥陀仏様ありがとうございます」だと蓮如は言うのである。
よくさ、くっだらないチープな自己啓発本とかで「ありがとう」を言おう、
とかあるじゃん。感謝の気持を忘れないようにしよう、とか。
チープではあるけれども、あれはある面での真理を突いているのだと思う。
だって毎日、ありがとう、ありがとうと感謝していたら、嘆かないで済むから。
なにが不幸かといったら、どうして自分は苦しむのだろうと悲嘆するせいなのだから。
だから、蓮如の言うように、感謝の念仏をしていたら実際問題として救われる。
なぜありがとうかといえば、死後に救ってくれるからである。
現世で苦しい思いをしていたら、みなさんも念仏したくなってきませんか?

「仰せに、自力の念仏といふは、念仏おほく申して、
弥陀にまゐらせて、つみをけしうしなはんとの心也。
御一流には、弥陀をたのみまゐらせて、弥陀にたすけられまゐらせてのち、
御たすけのありがたさありがたさよとおもひまゐらするこゝろを、
口にいだして南無阿弥陀仏と申しまゐらする也。
たゞわれをたすけたまへるすがた、すなはち南無阿弥陀仏なりとこゝろえて、
よろこびまゐらするばかりなり、とかへすがへす仰せ候ひき」(P49)


親鸞の難解な他力思想を蓮如は平易に解説していると思う。
問題なのは念仏の回数ではない、ということだ。
自力でたくさん念仏を唱えて罪を消すから往生できるというわけではない。
念仏をしたら後生は確定しているから、感謝の念仏をしなさいよと蓮如は言う。
これは阿弥陀仏にさせてもらっている(自力ならぬ)他力の念仏になる。
それにしても他力という概念を持ち出してきた親鸞、蓮如はさすがである。
身もふたもないことを言えば、人間は無力なのである。
往生どころか現実生活の些事でさえままならないのが我われ人間である。
とくに室町時代の下層民はいまよりもはるかに無力の自覚が強かったと思う。
この無力を他力と言い換えたのが親鸞、蓮如の功績である。
「人間は無力だ」という絶望を「人間は他力で救われる」という希望に変えた。
蓮如は言う。

「わが方より仏にならうと思ふは、凡夫の計ひあてがひにてはなきか、
たゞ仏におなしやらうずる事のたふとや、とよろこべ、と仰せられ候」(P175)


仏になるのではなく、仏にしてくださるのである。
言い換えたら、人間は死ぬのではなく、死なせてくださる、となるのだろう。
これが他力の思想である。
人間は自身の無力を強く思うことによって、他力を意識するようになるのだろう。

以下、引き続き蓮如による親鸞思想の解説を見ていく。
蓮如はとにかく信者のもてなしがうまかったのである。
本書には酒のふるまい方まで書かれている。
寒い時期に信者が訪ねてきたら熱燗を出せ、暑い時期なら冷酒だ。
不飲酒戒(酒を飲むなかれ)はどこに行ったのだろう、などと疑問に思ってはならない。
南無阿弥陀仏は現世否定の思想なのだから。
つまり現世のことなど、どうだっていいのである。
極論になるが念仏さえ唱えるならば、なんだっていいのである。
この点、親鸞の危険な善悪観を蓮如も正しく継承している。

「よき事をしたるがわろきことあり、わろき事をしたるがよきことあり。
よき事をしても、われは法義についてよき事をしたると思ひ、
我れといふことあれば、わろきなり。
あしき事をしても、心中をひるがへし、本願に帰すれば、
わろき事をしたるがよき道理になる由、仰せられ候。
しかれば蓮如上人は、まゐらせ心がわろき、と仰せられ候」(P124)


自力でよいことをたくさんしようなどと思ってはならない。
たとえ大酒を飲んでも南無阿弥陀仏と唱えればぜんぜんOK!
妻帯、飲酒、肉食のみならず窃盗、殺人まで許しそうな念仏の包容力である。
いまの浄土真宗の僧侶が堕落しきっている原点はこの教えにあるのだろう。
しかし、生きるためには悪いこともしなければならぬ庶民は救われたはずだ。
念仏は太陽のようにあったかい。

「蓮如上人仰せられ候、弥陀の光明は、たとへばぬれたる物をほすに、
上よりひ(干)て下までひるごとくなることなり、これは日の力なり。
決定の心おこるは、これ即ち他力の御所作なり。
罪障はことごとく弥陀の御けしあることなる由、仰せられ候、と云云」(P132)


阿弥陀仏の光明は、太陽がぬれた洗濯物をすっかり乾かしてくれるような作用を持つ。
阿弥陀仏=太陽のイメージはほかでも使われている。
以下の己今当(いこんとう)とは、過去・現在・未来という意味。
阿弥陀仏の光明は――。

「陽気陰気とてあり。
されば、陽気をうる花は早く開くなり、陰気とて日かげの花はおそくさくなり。
かやうに宿善も遅速あり。されば己今当の往生あり。
弥陀の光明にあひて、早くひらくる人もあり、遅くひらくる人もあり。
兎に角に、信不信ともに仏法を心にいれて聴聞申すべきなり、と云云」(P166)


さらに弥陀の光明は、ありがたくも摂取不捨である。
ひとたびお救いくださったら、決して捨てられるようなことはない。
この摂取不捨を蓮如は次のように説明している。うまい比喩だと思う。

「ある人 摂取不捨のことわりを知りたきと、雲居寺の阿弥陀に祈誓ありければ、
夢想に、阿弥陀の今の人の袖をとらへたまふに、にげげれどもしかととらへて、
はなしたまはず。摂取といふは、にぐる者をとらへておきたまふやうなることと、
こゝにて思ひ付きけり。これを引き言(ごと)に仰せ候ひき」(P131)


阿弥陀仏は、どこまでも我われを相手にしてくれるのである。
さて、いままで蓮如の巧みな弁舌を見てきたが、次のものは絶唱である。
ここだけは親鸞よりもレベルが上ではないかと思うくらいである。
日本全土に広まった浄土真宗の故郷は蓮如のこの発言にあるのではないか。
「総別」とは「みなみな」くらいの意味。みなみな他人には――。

「総別人にはおとるまじきと思ふ心あり、この心にて世間には物も仕習ふなり。
仏法には無我にて候うへはひとにまけて信をとるべきなり、
理をまけて情ををるこそ仏の御慈悲なり、と仰せられ候」(P115)


「ひとにまけて信をとるべきなり」

信仰とは、勝ちではなく負けることだ。
世間では人に負けてはならないことになっているが、仏法では負けてもよろしい。
仏の御慈悲によって、理屈を言うことなく辛抱しよう。
この教えは浄土真宗の要のようなものだと思う。飛躍すれば、日本人の心の故郷だ。
浄土真宗が布教の対象にしたのは(勝っている)貴族や武士、商人ではなく、
言うなれば負けたところの下層民である。
浄土真宗が下層民のなにに訴えるかといったら論理ではなく感情である。
本書にしきりに登場する描写に「みなみな涙を流し」というものがある。
蓮如がなにか教えを言うと、その場にいたものがみな落涙するのである。
ひとりで泣くのではなく、みんなで泣くのが浄土真宗なのだ。
みんなで肩を寄せ合って泣くのが南無阿弥陀仏だ。
とんでもない飛躍をすると、これは現代の庶民文化たるテレビドラマにも通じている。
たとえば、山田太一ドラマには「ふたりで泣く」シーンが異様なほど多い。
あれは浄土真宗の世界と言ってもいいのではないだろうか。
庶民文化は「負けるが勝ち」「理屈よりも辛抱」を是とする。
カルト教団、原始浄土真宗の絶対権力者、蓮如は庶民の心をよく知っていたとしか思えない。

ここまで高僧、蓮如の仕事を見てきた。
さて、蓮如には実業家としての面もあるのである。
というのも、蓮如は巨大カルト教団の最高権力者にまで登りつめた男なのだから。
集団は大きくなればなるほど、トップがしっかりしていないと崩壊してしまう。
ここからは蓮如の多少なりとも黒々とした一面に目を向けていく。
蓮如は室町時代の池田大作なのである。
現代の話をすると、浄土真宗系のカルト教団に、とても悪名が高い親鸞会というものがある。
会長の高森顕徹は親鸞をダシに使って巨額の蓄財をしたとのことだ。
わたしは高森顕徹という男をなかなかのものだと思う。
蓮如が偉いのなら、高森顕徹もきっと偉いはずである。
なぜなら高森顕徹は蓮如のしたことをそっくり真似ているからである。
親鸞の権威を借りて自分が偉くなり、なおかつ教団を拡大する。
これが蓮如の行なったもうひとつの仕事である。

どうしたら教団を拡大できるか。
どのようにしたら文盲ばかりの無学な下層民にうまく教えを植えつけることができるか。
ここにいたって蓮如は師たる親鸞を裏切るのである。
親鸞の言っていないことも浄土真宗の教えにしてしまう。
ひとつは仏罰である。親鸞は仏罰なんてことはまったく言っていないが、蓮如は――。

「同じく仰せに云く、聖人の御影を申すは、大事のことなり、
昔は御本寺より外は御座なきことなり、
信なくば必ず御罰をかうぶるべきよし、仰せられ候」(P99)


学がない貧農や被差別民をしつけるには脅すのがいちばんなのだろう。
罰が当たるぞ。仏罰がくだるぞ。
いまのカルトが好んでやることを早くから蓮如はやっていたのである。
聖人の親鸞がやらなかったことも、蓮如はやるほかなかった。
好意的に解釈すれば、万民救済のためにはやむなしと判断したのか。
たしかに念仏往生の信仰に入れば、多くの人が今生で慰めを得ることができる。
そのためには不埒(ふらち)なやからをどやしつける必要があった。
甘い顔ばかりはしていられなかった。
親鸞の言っていない仏罰を蓮如が口にしたのはこのためだろう。
もうひとつ、地獄をも蓮如は布教に活用していたようだ。
いまのカルトが好む「地獄に堕ちるぞ」を早々と蓮如がやっているのである。
親鸞はといえば、自分こそ地獄に堕ちるとまで内省を深めた聖人である。
(歎異抄「とても地獄は一定すみかぞかし」)
ところが、蓮如は違うのである。
当時のお祭り「天王子塔会」に参加している大勢の人を見て蓮如はこう言ったという。

「天王子塔会(を)蓮如上人御覧候て、仰せられ候、
あれほどおほき人ども地獄へおつべしと、
不便(ふびん)におぼしめしつる由仰せられ候。
又、その中に、御門徒の人は仏になるべしと仰せられ候。
これまたありがたき仰せにて候」(P103)


浄土真宗に入っていないものは地獄に堕ちるから可哀相だと蓮如は言った。
この嘆きから「念仏しないと地獄に堕ちるぞ」の恫喝までは半歩もないはずである。
しかし、そういうことをやらないと信者は増えないのである。
悲嘆のうちに死んでいくよりは、ありがとうと感謝しながら死ぬほうがいいではないか。
荒くれ者は「地獄に堕ちるぞ」とまで言わなければ耳を貸さなかったのだろう。
どんな弁明も可能だろうが、それでもやはり蓮如はカルトの教祖と言わざるをえない。
さらに蓮如は教団を維持するための方便を用いている。
僧が食えなくては教団は崩壊してしまうので困る。
蓮如は弟子の法敬にこう言った。

「蓮如上人法敬に対して仰せられ候、まきたてといふもの知りたるか、
と仰せられ給処に、法敬申され候、
まきたてと申して、一度(種を)まきて、手をさゝぬものに候、と申され候。
それよ、まきたてがわろきなり、人になほされまじきと思ふ心なり、
心中をば申出して人になほされ候はでは、心得のなほるといふことあるべからず。
まきたては信をとることあるべからず、と仰せられ候」(P99)


もちろん、親鸞はこんなことを言っていない。
ひとたび信心が決定したら往生は確実というのが親鸞の教えである。
これは極めて個人的な信仰方式と言えよう。
しかし、1回の念仏で往生が決定してしまったら、坊さんはメシが食えないではないか。
信仰がひとりで完結してしまったら教団は儲からない。
このため「まきたて」なる概念を作り、これでは往生できないと脅すのである。
何度も教団の座談会に参加して、坊主や他の信者と意見交換しなければならない。
この流れの行き着く先が蓮如独自の教えである聴聞の重視である。
カルトの教祖である蓮如の後継者は、言うまでもなく息子である。
本書には、蓮如の息子、実如の話も採録されている。
このあたりはかなりいかがわしくて笑えるのだが、
なんでも実如の夢に亡父の蓮如が出てきて「仏法は讃嘆談合に極まる」と言ったという。
この夢のお告げを前提として、実如は意見を開陳する。
ただ蓮如の息子に生まれたというだけで最高権力者の座に着いた男の言葉である。

「仏法は一人居てよろこぶ法なり、
一人居てさへたふときに、二人よりあはゞいかほどありがたかるべき。
仏法をばたゞよりあひよりあひ讃嘆申すべき由、仰せられ候ひき」(P129)


屁理屈と言ってしまえばそれで終わりだが、なかなか巧妙な論理展開だと感心もする。
親鸞の教えでは疑いもなく「仏法は一人居てよろこぶ法なり」が正しい。
蓮如教団は親鸞の教えを否定せずにまずは受けてから、
「一人居てさへたふときに、二人よりあはゞいかほどありがたかるべき」とやる。
それを蓮如にではなく息子の実如に言わせるところもなんとも心憎いではないか。
やるなあ、おぬし、と思わず言わざるをえぬ。

最後に蓮如の死に際を本書から引用する。ここはとても美しい。
浄土真宗の舌ざわりのよい甘さがよく見て取れるところである。
死期を察した蓮如は阿弥陀堂へ参ったのち、
上段に登り大勢の信者に向かってこう語りかける。

「……極楽へ参る御いとまごひにて候、必ず極楽にて御目にかゝり申すべく候、
とたからかに御申しの事にて、諸万人なみだをながしけり」(P71)


極楽で再会しよう!

これが人を引きつけてやまなかった蓮如という男の味である。
極楽での愛する死者との再会ほど、
苦界を生きる我われの胸に甘く響く教えはないのではあるまいか。
愛する亡者との再会を思うとき、涙を流さぬものはいないだろう。
この涙が蓮如の教えである。この涙が蓮如の信仰だ。
この涙が蓮如の南無阿弥陀仏であった。

*このまとまりのない長文を最後までお読みくださった方はいないと思う。
もしおひとりでもいらしたらほんとうにありがとうございます。心より御礼申し上げます。

*宗教問答や論争は嫌いです。
あなたは絶対正義だとわたしも思いますから、どうか議論を吹っかけてこないでください。
個人的には真実はひとつではないと思っていますが、あなたがそう思う必要はありません。

*小心者なので、仏罰が当たる、地獄に堕ちる等の脅し文句はご勘弁くださいませ。

(参考)「蓮如文集」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2133.html