「人生の流儀」(城山三郎/新潮文庫)

→経済小説の大家(らしい)城山三郎の名言集。
たぶん小説というのは、人をいかにうまくだますかなのだろう。
嘘ばかりついていては読者は信用してくれない。
だから、これを言ってしまっていいのかと思うほどの本音をぶちまける。

「サラリーマンというものは、だるまとおなじなのだ。
手をもがれ、足をもがれて行くうちに、最後に円満になって落ち着く。
辛抱して、だるまさんになるんだ」(P15)

「サラリーマンになることは、
「人間関係についてえり好みができぬこと」を承認し、
そうした人間関係に耐えることを約束することだ、と思う」(P39)


思わずギョッとするような本音である。
読者はもしやこの作家は本当のことしか言わないのではないかと思う。
そう思わせたら、今度は嘘で客をもてなす。
出世できなかったサラリーマンはこれらの言葉にどれほど慰められることか。
いや、最後まで出世できないと決まったわけではない。

「当り前のことだが、人間ひとりひとり皆ちがっている。
だから、ひとりひとりの人生がちがうはずである。
早熟の人もあろうし、晩成の人もあろう。
自分がどういう人間であるかをよく見きわめて、毎日の生活においても、
人生の設計においても、自分の時計に合わせて生きて行くことである」(P64)


後輩に出世競争で敗れたサラリーマンにこの言葉がどれほど甘く響くか。
まだまだこれからであると自分をだませ! あなたは間違っていない!

「時代に合わせて生きるのではなく、わが生き方をしかと選び、
根気よく歩み続ける。そうした骨太な人生に、時代の方から頭を下げて、
歩み寄ってくる、という気がしてくる」(P71)


サラリーマンのみなさん、生きていたらかならずいいことがあります!
平社員のあなただって、立派に幸福なのですよ。

「有名になり、人気者になって、注目を浴びることは、決して幸福ではない。
知る人ぞ知るという形で、ひっそりマイペースで暮らすことこそ、
何よりの幸せ、である」(P92)


出世できずに定年を迎えたサラリーマンに贈る言葉はこれである。
あなたは成功者だ! あなたは偉い!

「人生の成功は、どこに行ったというんじゃなくて、
どういう旅をしたかっていうことですね」(P107)


この名言は重く響く。
人生という旅で、みんなが行っている場所に行っていないことがけっこうあるのである。
しかし、その反面、ほとんどの人が行っていない場所に足を運んでいるけれど。
人生と言う旅を目的地で考えたらみなみなひとり残らず「死」がゴールである。
ならば、人生はみんなおなじなのか?
いや、そうではない。ゴール(死)までの道のりが違う。
場所にこだわってはならないのだろう。どこに行ったかではない。どういう旅をしたか。
どれだけ喜び、悲しんだか。どのくらい感動したか。

「人生の持ち時間は限られている。
その中で、時間を忘れるほどの陶酔をどれほど多く持ったかで、
人生の価値が決まるような気がする」(P58)


「植木鉢の土」(水上勉/小学館)

→文豪・水上勉の最晩年のエッセイである。
いまはほんとうに迫力のある作家が少なくなったと思う。
文豪という呼称は、その人の重みと関係しているのかもしれない。
持って生まれた重みである。重い人生というものがあるのである。

本書で水上勉が一遍と説経節を好きだと書いているので驚いた。
偶然わたしもおなじだからである。
宮本輝の敬慕していた作家が水上勉だから、
これはある意味、必然とも言えるのだろうけれど。

死の近づきをなんとなく意識しているのか、水上勉は神について語る。
それも少しボケているのかと思うほど、矛盾した神の見方である。
ときには神を肯定する。

「思いもよらないところで、自分が蒔(ま)いたという意識もないところで、
種が育っている。
神の摂理もこちらに受ける癖ができると、
神様は従順な人ほど声を小さくして語りかけてくれるらしい。
最近は、よく聞こえるようになった。
最近では、どこからか、「そこだよ」「今が大事だよ」
などといって、背中を押してくれる気がする」(P175)


人と人の関係というのは、限りあるものなのだ。
永遠に続く友情というのは、残念ながらありえない。
どこかでどうしようもなく別離が生じる。
家族との関係も、そうである。生別はなくても死別には逆らえない。
しかし、人間には生まれたときから死ぬまで、つきあっている相手がいるのである。
それが神や仏である。
死をまえにして水上勉は神の姿がよりはっきりと見えるようになったのだろう。
あれだけ神を褒め称えたわずか15ページ後に文豪は神を呪う。
眼底出血と網膜剥離に襲われたときのことを思い出している。

「わたしの目から光を奪おうとした神、それは来(きた)るべき運命というか、
これからの定めを握っている人というか、如来様というか、そういう思いがした。
その神とは、わたしの人生のところどころで、小さいときから現れる神だ。
不運のときに、不幸だと思うときに、現れる神だ。
まだ小さくて京都のお寺に入ったときにも、そういう神は現れた。
しかし、わたしがどんなに頼んでも何も聞いてくれなかった。
それからも、障害の子を持ち、その運命を見てきたせいか、
わたしは神を身近に感じてきた。
だが、神はわたしに何をしてくれるわけではなかった。
定めというものをつくった神のしわざは、冷徹に見れば、冷ややかなものである。
決して温かくないのだ。実に淡々とやってくるだけである」(P190)


しかし、神を友と考えたら、終始沈黙している友はなかなかいいものなのかもしれない。
ただただ話を聞いてほしいのに、よけいな助言や説教をされることがどれほど多いか。
しかし、それは仕方なく、助言や説教をしてくれる友はありがたい。
たとえ黙って話を聞いてくれないとしても、友や家族はとてもありがたい。
とはいえ、友とも家族ともいつかは別れなければならぬ。
ひるがえって神はどうだろう? 一生そばに寄り添ってくれるのである。
そのうえ、どんな長たらしい愚痴も黙って聞いてくれる。
神の沈黙は残酷だが、同時に黙っていつまでも話を聞いてくれる神はありがたい。
友人には断じて言えない激烈な言葉も、神に対してなら言えるのだから。
一読したときは水上勉がボケたと思ったが、これはそうではないのだろう。
ときには親友のように神に感謝する。またべつのときには、おれを裏切ったなと恨む。
どんなことを言っても我われから離れない友が神なのだろう。
文豪・水上勉は最晩年に永遠の同行者たる神と会話をするようになった――。

「なぜ生きるんだ。自分を生きる言葉」(坂口安吾/イースト・プレス)

→坂口安吾の名言集。
おそらく「本の山」にもう百回近く書いていることだが、言葉は肩書なのである。
言葉は内容が問題なのではなく、だれの言ったものかがいちばん肝心になる。
話者しだいで、真実にも虚偽にもなるのが言葉というもの。
ときに人を救ったり、殺したりするのも言葉。
言葉が肩書ならば、もし本当にそうなら、
人は肩書に救われたり殺されたりしているのだろう。
無名のわたしが真実などこの世にありえないと絶叫してもだれも信じてはくれない。
しかし、坂口安吾の言葉だったらどうか。

「ただ、われわれは、めいめいが、めいめいの人生を、せい一ぱいに生きること、
それをもって自らだけの信実を悲しく誇り、いたわらねばならないだけだ」(P10)


真実はひとつではなく、人の数だけあるのである。
人生でどんなことを経験したかによって、真実なるものはまったく変わってしまう。
自分だけの真実をどうしてもだれかに伝えたいと思ったとき、人はものを書くのだろう。

「美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。
どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、
ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。
ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。
そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、
美を生むのだ」(P118)


美とはなにか?

「悲しみ、苦しみは人生の花だ」(P53)

うーん、キザだなあ。
でも酒をのみながら読むと、こういう言葉にうっとりしてしまうのだよ。
言葉は酒とおなじように人を酔わせる。
酒が肉体を酔わせるのに対して、人の精神を酔わせるのが言葉だ。
言葉だけで酔えたらどんなにいいことか(なかなかそうはいかない)!

「健全な精神と、健全な肉体は別なものだ。
そして、酒は肉体的には不健康であるけれども、精神にとって不健康だとはいえない。
すくなくとも、私にとっては、そうだ。
私に酒がたのしく、うまく飲めれば、
私はこの上もなく健康に仕事ができるのである」(P94)


いささか私、私とうるさいが、どのみち人生など私にこだわるしかないのだ。
私を休めるには酒を飲むに限るのだろう。