「心という不思議」(春日武彦/角川文庫)

→精神科医の春日武彦のエッセイほど笑えるものはそうないのではないか。
いったいなにを笑っているのだろうかと考えてみた。
なんのことはない、わたしは精神医学的におかしな自分を笑っていたのである。
よく春日武彦の文章は患者をバカにしていると誤解されるが、
あれは実のところ自虐なのだと思う。
春日もまた心を病んだ患者がまるで自分のようなので笑うしかないのではないか。
他者の狂気の中に自身と似たものを見つけ、笑いで相対化する。
つくづく俺って狂っているよな、病んでるよな、と笑い飛ばす。
でもまあ、俺だけじゃないんだなと安心する。
精神科医の春日武彦やその愛読者の好む自虐行為である。
うんざりするが、どいつもこいつもありきたりに狂っているのである。

「実際に精神科医になってさまざまな患者さんと接してみると、
凄い秘密を打ち明けられるなんてことは殆どないことに気がついた。
みんな自分と大差ない。ちっぽけな「わだかまり」や、
いじましい自尊心、余裕を欠くがゆえの被害者意識
といったものに囚われて足掻く人たちばかりなのである。
他人から見れば些細なことであっても、当人にとっては天下の一大事であるという
昔ながらの法則を再確認したに過ぎなかった」(P129)


わたしは春日武彦を好きだが、これはちょっと違うと思う。
すごい秘密を持っている患者は、春日の底の浅さを見抜くから話さないのではないか。
いいのか悪いのかわからないが、
春日武彦は重大な秘密を打ち明けられるほどの器ではないのである。
そのうえ、秘密を話したらよくなるというものでもない。
むしろ、春日の軽薄な態度に救われる。
あれこれ詮索されるよりも、手早く薬を出してくれる医師を好む患者も多いのではないか。
軽い皮肉を言えば、患者の悪口を嬉々として書く医者にだれが秘密を話すかって。
とはいえ、わたしは精神科にかかったことはないが、
もし将来受診するとしたら、春日のようなドライな医者がいい。

「幸福論」(春日武彦/講談社現代新書)

→患者の悪口を書く皮肉屋の精神科医・春日武彦が幸福について口を開く。
幸福なんて結婚式中の男女か、新興宗教にはまっている信者しかありえない。
ほかには重度の精神病後に人格レベルの下がってしまった患者も幸福そうだ。
そもそも我われは幸福を願っているのだろうか?
というのも、幸福は不幸の予兆とも言いうるのだから。
幸福になってしまったら、後は不幸になるしかないのである。
まさか幸福のまま人生を終わることは運命が許してくれまい。
このため、神経症という不幸に居つく患者もいるらしい。
春日武彦ならではの斜に構えた患者描写をご覧ください。春日さん、笑えるよな。

「抑鬱神経症のN氏は、民間療法マニアと化している。
当方を受診しつつ、漢方薬や民間療法を自己流に試してみている。
そしてわたしの外来でいちいち結果を報告してくれる。
話を聞いていると、どうやら当方の治療よりもはるかに効果的な療法を
探し出してわたしを脱帽させることに腐心しているらしい。
だから中途半端に症状が改善してしまっては困るわけで、
意地でもそう簡単には治るまいといった気持が透けて見えて興味深い」(P70)


ほかにもやたら数字にこだわる不幸な強迫神経症患者の例を紹介する。
こういう不幸な神経症患者は果たして治して幸福にしてしまっていいものか。
治ってしまったら、もっとなにかが悪くなるのではないか。
こう考えて、春日医師は患者の不幸をそのままにしておく。

「根源の部分では不安が強いのだから治療の対象となるのだろうが、
まあ強迫症状を治すというよりも、「大変ですねえ」と適度に
ねぎらっておいたほうが本人にとっては負荷が掛からずに済む」(P71)


不幸だと他人から認めてもらいたがる人もいるのである。
こういう人にいちばんいい言葉は「大変ですねえ」なのだろう。
「あなたはまだ幸福ですよ」などと助言したら逆に怒らせてしまう。
ときに精神科医は治すよりもよほど、
「大変ですねえ」と患者をいたわっているほうがいいのかもしれない。
小さな不幸の価値を深々と認めたうえで春日武彦は自身の幸福論に入る。

「(前略)不幸であるという物語を与えられてもまた、
しばしば心が安定するのである。多くの『幸福論』は、
嫉妬や野心や闘争心を捨てて身の丈に合った状況を受け入れよと説く。
それは正論だろうが実現は容易ではない。
困ったことに、全面的な幸福を得るには聖人君子となるか、
さもなければ徹底的に無反省となるしか方法はないのである。
では我々は幸福と無縁に暮らさねばならないのか?
まさかそんなことはない。
レディメイドの幸福ではなく、自分で見つけ出した幸福、
しかも断片としての幸福を得ることで人生を送っていくのが
もっとも妥当な方法論ではないのか。
断片としての幸福を点綴(てんてつ)していくことで、
かろうじて「この世もまんざら捨てたもんじゃない」
と思える境地を目指すしかあるまい」(P140)


春日武彦の説く「断片としての幸福」とはいかなるものか。
「見えないもの」を見ることに人間嫌いの精神科医は幸福を見いだす。
「ああ、そうだったのか」というささやかな発見をたいせつにする。
これは「世界が意味あるものだといった実感」のことだ。
言い換えたら「どんなに卑俗でちっぽけなことであろうと、
すべては詩となり得るだろうという確信のこと」――。

「騒々しい幸福、えげつない快感、安っぽい勝利感
といったものとは違った喜びが、人生には明らかに存在する」(P155)


患者の毒々しい不幸の物語を、自らの毒でもって受け流している精神科医の
よりどころとしているものは、どうやら自分だけの幸福を感じ取る能力のようである。

「不幸になりたがる人たち」(春日武彦/文春新書)

→精神科医の春日武彦は心を病んだ人を治す善意の人ではないのである。
多少毒を込めた言い方をすれば、きちがいウォッチャーとでもいうべきか。
きちがいにうんざりげんなりしながらも、それでもきちがいをどこかおもしろいと感じてしまう。
これは一見すると不謹慎なようだが、
たえず患者を鏡として自分と向き合っているということだ。
だから、ある面とても誠実な医者ということになる。
なぜなら、常にこの疑問を抱いているからである。

「相手がおかしいのか、我われのほうがおかしいのか、
理屈からするとその客観的判断は困難ということになってくる」(P30)


変わり者の精神科医は「不幸になりたがる人たち」がいるのではないかと指摘する。
そう言われたら、たしかにそのような人がいるような気がするのである。
これは「不幸になりたがる人たち」という新語によって見えてきた現実だ。
たとえば、精神科医のもとを訪れる患者も、どうやらそのように見受けられるらしい。
考えてみれば、おなじ環境でも発病する人としない人がいるのである。
どうやら人間というものは、自らを不幸にする業を隠し持っているようだ。
春日武彦医師は、長年の診察経験からその業を特定する。

「わたしが精神科医として沢山の人たちと接しているうちに気づいたことがあって、
それは人間にとって精神のアキレス腱は所詮「こだわり・プライド・被害者意識」
の三つに過ぎないというまことにシンプルな事実である
(それは犯罪の動機の大部分が「色・金・怨恨」の三つに収斂(しゅうれん)
してしまうことに通じているのかもしれない)。
もちろん、こだわりやプライドがなければヒトはなにもなし遂げられまい。
無気力で受動的な人物となり果ててしまうだろう。
だが、過剰かつ非現実的なこだわりやプライドは、
驚くばかりに心の働きを異様なもの(ときにはグロテスク、ときには滑稽、
ときには迷惑千万なもの)に変える。
被害者意識もまた同様であり、これら三要素がもたらすものは業と呼ぶしかない。
三要素のうちでも、殊に被害者意識が厄介なのは、
それが二つのものを求めてやまないからである。
そのひとつは「敵」であり、すなわち自分に被害者意識を抱かせるに至らしめた
悪玉の存在を必要とするということである。(中略)
そして被害者意識が求めるもうひとつのものとは、「特権」である。
ワタシハ弱者デアリ苦シメラレテイル立場ニアル、
ダカラワタシハ世間カラ労(イタワ)ラレ優遇サレルノガ当然デアル!
といった一種の権利要求にほかならない」(P67)


この秀逸な指摘が耳にたいそう痛く響くのはわたしだけではないのではないだろうか。
リピートすると、人間の業は、「こだわり・プライド・被害者意識」である。
とりわけ「被害者意識」が始末に悪いのは、
悪玉をつくるのみならず、鼻持ちならない特権意識を抱かせるからである。
この文脈に冷静に向き合ったら、かなりの「不幸」が緩和を見せるはずである。
しかし、人間は(わたしも含めて)どうしてもこの傾向に気づこうとしない。
なぜなら「こだわり・プライド・被害者意識」は居心地がいいからである。
我われも実際はかなり「不幸になりたがる人たち」なのかもしれない。
「こだわり・プライド・被害者意識」が「不幸」の度合いを強めるにもかかわらず、
なお我われがとりわけ「被害者意識」にこだわるのはそれが甘美であるからだ。
悪い敵に苦しめられている弱者という特権意識はとろけるように甘い。
著者の論述から多少飛躍すると、このために、
なにか事件があったときマスコミは悪玉を早々とつくりあげ、
我われをみな被害者に仕立て上げてしまうのかもしれない。
戦争が終わった瞬間に国民全員が悪い軍部に操られた被害者になったように。
以下は春日武彦の発見した人間法則である。

「人間の業」=「こだわり・プライド・被害者意識(→悪玉+特権意識)」

これは人間だけではなく集団にもあてはまるのではないだろうか。
たとえば、宗教団体がそう。
機関紙で悪玉を徹底攻撃している特権意識の強い日蓮系巨大仏教団体があるでしょう。
わたしはその団体の人間くさいところがどうしても憎めないのだが。
国際政治には無知だけれども、アメリカなんかずっとこれをやっているような気がする。
悪玉をかならずつくるよう一部マニュアルになっているハリウッド映画も、
春日武彦の人間法則に縛られていると言えなくもないだろう。
精神科医は述懐する。

「精神科医として自分の仕事を振り返ってみても、劇的なことは案外少ない。
いやそれどころか「劇的なこと」はファンタジーや妄想、
さもなければ願望充足的な錯誤ないしは虚偽ではないかと疑う姿勢を
いつしか自分が身につけていることに気づく。
幼い頃に心ない人物によって負わされた(と称する)トラウマを自ら開陳し、
雄弁に(ときには得意げにすら見える態度で)
自己の悲惨さについて語りたがる患者がいる。
まるでテレビドラマの脚本のような、明快で説得力に満ちたストーリーなのである。
おそらくその人にとっては、もはやそのストーリーこそが真実であり、
大抵は悪役として親だとか教師といった人びとが登場して
恨みの対象となっている」(P123)


もちろん、春日武彦は自分を省みて「不幸になりたがる人たち」を記述しているのだ。
「不幸になりたがる人たち」=我われはどうしたらいいのか。
では、精神科医は診療室で「不幸になりたがる人たち」にどう接しているか。
春日武彦医師は患者に――。

「(前略)いかに気持ちの上で踏ん切りをつけ、
事態を客観的にクールに眺められるだけの余裕と柔軟性を
持ってもらえるようになるかを工夫することになる。
ところが不思議なことに、明らかに解決法が分かっているにもかかわらず
本人はその解決を拒み、
それがために延々と悩み苦しみつづけているケースが珍しくない」(P114)


自分もみなとおなじ「不幸になりたがる人たち」の一員であると
「客観的にクールに眺められるだけの余裕と柔軟性」を持てばいいのである。
しかし、それはとても難しい。
だから、「不幸になりたがる人たち」と春日武彦は苦々しく命名するのだろう。