「文士の酒 編集者の酒」(村松友視/ランダムハウス講談社文庫)

→いまは風格のある人が少ないよな。
吉行淳之介、山口瞳、開高健、アントニオ猪木らが登場する上質の
酒食エッセイを読んだ感想である。どっしりとした味のある人がめっきり減った。
みんなサラリーマン化してしまった。
無茶をする人がいなくなった。みんなまず最初に損得を計算してしまう。
編集者から直木賞作家に成り上がった著者はアントニオ猪木をこう評している。

「アントニオ猪木さんのおおらかさ、屈託のなさ、天真爛漫さ、いいかげんさ
……つまりはアントニオ猪木ワールドに触れたのもこのときが最初だった」(P93)


風格があるとは、ワールドを作ることができるということなのだろう。
ワールドとは王国のことだ。ワールドには中心がなければならない。
国王になる資格の持つものが風格を帯びるのであろう。
吉行淳之介ワールド、山口瞳ワールド、開高健ワールド。
どうしたら風格を身にまとうことができるのか。
まずは自己を王と信じること。
しかし、断じて周囲に向かって自らは王なりと宣言しないこと。
これが人から王と思われるものの条件ではないかと思われる。

「シナリオ 他人の顔」(安部公房/創林社)絶版

→映画シナリオ。昭和41年公開作品。
新しいものほど古くなるのが早いのがよくわかる作品。
当時最先端のものほど時代が経つと目も当てられない駄作になってしまう。
しかし、映画はいいよね。
テレビドラマで意味不明だとバカヤロウとすぐに消されて終わり。
これが映画だと自分が至らないのかもしれない、
といろいろ観客が勝手に意味づけしてくれるのだから。
いまでも「他人の顔」のような旧・前衛映画を観て感銘を受けている手合いは(いるいる!)、
調子よく自分に酔っているのだろう。
大酒飲みだから酔うのはいいと思う。たとえそれが自己陶酔でも酔うのはよろしい。
本作のテーマは、アイデンティティの喪失やらなんやらだと思う。
庶民の言葉に変換したら、人間は顔か否か。顔を変えたら人生も変わるのか。

「孤独なのはなにも君だけじゃない。
誰だって自分に戻るしかないんだ」(P167)


おいおい、こっぱずかしいセリフをいい大人が……。
わたしは、人間、顔ではないと思っている。
もしわたしの顔がキムタクになっても、絶対にもてる男にはならない自信がある。
シナリオ「他人の顔」を読んで、そんなことを思った。

「シナリオ 砂の女」(安部公房/創林社)絶版

→映画シナリオ。昭和39年度キネマ旬報ベストワン作品。
こんなものが受けた時代があったのかと隔世の感に堪えない。
みんなインテリにあこがれていたのかしらねえ。
難しい顔をして映画「砂の女」の147分(なげえ!)に我慢したら、
知識人の仲間入りができたのかもしれない。
ちょっと現代のプロデューサーの真似をしてみよう(ただし妄想)。
安部ちゃん、シナリオよくないよ~。
なにより暗い! もっと明るくしないとお客さん帰っちゃうよ!
わかりにくい! お客さんは高いお金を払ってくれてるんだからわかりやすくしなきゃ!

そういえば、いまは「インテリ=かっこいい」という図式がすっかり消えたよね。
「インテリ=オタク=きもい」になってしまっている。
考えてみたら、「もてない男」の唯一の救いがお勉強(インテリぶる)ではないか。
インテリに価値があった時代は、付け焼刃の嘘知識で女をだまくらかすことができた。
ところが、いまじゃ結局は顔と性格のよさが肝心とばれてしまった。
けっ、おいらも「砂の女」の時代に生まれたかったぜ!

「なりたい!! シナリオライター」(DAI-X出版編集部・編)

→物書きというけれども、シナリオライターほど怪しいものはないと思う。
だって、いままでろくに本も読んだことのない主婦が、
怪しげな広告にだまされて「決めた、あたし、シナリオライターになる」
とか宣言しちゃうわけで。
ぜったいに小説家や評論家は目指さないのね。なぜかシナリオライター。
うすうす(シナリオ以外は)無理だとわかっているからだと思うけれど。
しかし、シナリオライターくらいならあたしでもなれるとみんな思う。
で、実際になれちゃうものがいるのもこの世界の怖いところ。
なぜかと考えたら、シナリオには歴史がないということが大きいのではないか。
まだ百年の歴史もないのである。
日本映画がサイレントからトーキーに変わったのは1927年。
ここが日本シナリオ史の発端になる。

まあ、だれもシナリオのことをよく知らないのである。
みんな恐々としながら、それでも格下のものには、
さも自分がシナリオをわかっているかのような強気の発言をする。
反対に、格上のものには「おっしゃるとおりです」とぺこぺこ従う。
いったいだれがシナリオをいちばんよくわかっているのだろう。
だって、テレビ局のプロデューサーはたまたまいまドラマ制作に配属されているだけ。
ことさらシナリオを勉強したわけではない。
シナリオ学校の講師の意見が正しいのかといえば、そうではない。
これは実体験だが、知識もプロ経験もない素人が偉そうにシナリオを教えていた。
じゃあ、大学で映画を教えている教授先生がいちばんシナリオに詳しいのか。
しかし、先生方は現場で仕事をしたことがない。
映画はたくさん観ていてもシナリオまで読む映画専門の大学教授はいないだろう。
要するに、ほとんどの人がシナリオのことをまだよく知らないのである。
個人的な好き嫌いが非常に強調される世界である。
このため、無学な主婦でも運よくプロデューサーに気に入られたら出世できるわけだ。
シェイクスピアさえ読んだことのない人が、シナリオ業界にはうようよいるのである。

わたし個人の意見をいえば(たぶん間違えていますよ。ごめんなさい)、
ベテラン脚本家がいちばんよくシナリオを理解していると思う。
なにを理解しているのか。その価値基準のいいかげんさを、である。
ひとたび文学賞でも取ったらプロデューサーの態度がころりと変わる。
おそらく、これがあこがれるもののやたら多いシナリオ世界の実際なのだろう。

「テレビ大捜査線」(君塚良一/講談社)

→人気脚本家による業界の打ち明け話である。
といっても、暴露のようなものではなく業界にあこがれるミーハーが対象読者か。
芸術論からはいちばん遠いところに位置するビジネス本といったおもむきが強い。
本書を読んで学んだのは、いまのテレビドラマは作品ではなく商品ということだ。
ひとりが作品を生み出すのではなく、みなで知恵を絞って売れる商品を作る。
このため脚本家は全体の中で優秀な歯車としての役割を求められる。
連続テレビドラマという商品では、制作途中での改変は当たり前だという。
というよりも、放送後の視聴者の反応を見てからストーリーを決めるのが通常とのこと。
もう視聴率を取るためのマニュアルが完成しているらしい。
テレビドラマを見るのは若い女性が多いから恋愛ものだと視聴率がいい。
人を殺すと視聴率が上がる。わかりやすい物語で感情移入させるのが王道。
とにかく視聴者を気持よくさせることをテレビマンは心がけているのだという。

君塚良一氏はこういった風潮に違和感を感じながらも、
同時に売れるドラマを書くプロとしてのこだわりも捨て切れずにいるようだ。
理想を持ちながらなお現実を見失わない君塚氏は優秀な脚本家なのだと思う。
さて、もうテレビドラマは個々の脚本家が書きたいものを書く時代ではない。
みんなが一丸となって営業戦略として売れるドラマを作るように進化している。
少し我流に表現を変えると、テレビドラマは「わたしの物語」を描くものから、
「わたしたちの物語」を描くものへと進化したのだろう。
「わたしの物語」は小説がやればいいのである。
君塚氏によると、いまのテレビドラマは「わたしたちの物語」を描いている。
すべてのドラマは企画からスタートする。

「数人の考えから一本のテレビドラマが誕生することになり、
企画は、「わたし個人の思い」ではなく、「わたしたちの思い」となる」(P210)


本書はテレビドラマの裏側をわかりやすく教えてくれるのがとてもよかった。
著者にはこれからもいいドラマを書いて「わたしたち」を楽しませてほしいです。
もう「わたし」なんてどうでもいいので。
若い女性ならまだしも、いい歳をしたおっさんはわがままをいいません。

「ドラマを書く」(岡田惠和/ダイヤモンド社)

→シナリオの世界をピラミッドにたとえたら、いま頂点にいるのが岡田惠和さん。
というのも城戸賞選考委員、テレ朝なんたら賞選考委員。
シナリオ以外にもなぜかエッセイコンテストの選考委員としても
お姿を拝見することがちらほらある。とても偉い人なのである。
出世を狙うもののまえに門番として立ちはだかるのが岡田惠和さんである。
本書は岡田惠和氏がドラマ制作の裏側をライトなエッセイにしたもの。
雑誌「テレビ・ステーション」の連載に加筆修正を加えたものらしい。
本書を読みながらさすが一流の脚本家はエッセイを書いてもすごいと感服した。
ひとつ気づいたのは、本書のなかに文学作品がまったく登場しないこと。
お堅い文学だけではなく、そもそも小説の話がぜんぜん出てこないのである。
岡田惠和さんが強い影響を受けたという山田太一氏は文学畑出身といってもよい。
シナリオ世界では岡田惠和氏が山田太一氏の後継者と目されているようだ。
系譜を整理すると以下のようになる。

「海外文学・日本文学→山田太一→岡田惠和」

岡田惠和氏は父(山田太一)の影響は強いが祖父(文学)とは絶交しているのである。
この祖父との不仲が、岡田氏を人気脚本家にしたのだと思う。
シナリオライターは文学者のようなことをいってはならないのである。
おなじ物書きでも脚本家と小説家は大きく異なる。
そもそもシナリオは表に出てくることがない。
言語感覚が鋭い岡田惠和さんはシナリオを「仮想敵」と巧みに表現する。
シナリオは文学作品ではなくスタッフ、キャスト全員の「仮想敵」なのである。
岡田さんはあまり現場に顔を出さないという。

「まあ、現場というのは、シナリオライターが書いた本を基に、
いかに現実化していくか、という場所なので、
その場において脚本というのは、仮想敵であっても仕方ないと思うし、
その仮想敵に対して一致団結することでいいものができる、
という側面もあると思うので、
その敵がやたら顔出すのも……と何か遠慮してしまうわけです」(P21)


文学作品はひとりで書くがシナリオはそうではない。

「まあ、要するに作家が書いていったものに対して、
いろんな人がああでもないこうでもないと意見を言って、
その要求に応えて、本を直していかなければならない。
皆の合意がなければ、たとえ何度稿を重ねても終わらない。
それが本直しです」(P67)


「皆の合意」に向けて空気を読むのが岡田惠和さんは抜群にうまいのだと思う。
くだらぬ自己主張などしてはいけないのだろう。

「よく「演出とかで台本って、変えられちゃったりするわけでしょ?
それについてはどうなんですか?」という感じで言われることが多いんですが、
私は基本的にはOKです」(P112)


この寛容さこそ一流脚本家の才能なのではないかと思う。
わたしは違う世界を覗き見したくて本書を通読したけれど、
もしシナリオライター志願者が読んだら、とても得るものが多いのではないか。
たいへんな名著であった。
やはりどの分野でも一流といわれる才能ある人の文章に触れると刺激になる。