「江戸の味を食べたくなって」(池波正太郎/新潮文庫)

→ふしぎな法則があるのだが、これはわたしだけだろうか。
好きな人が好きな食べ物をこちらも好きになってしまうのである。
嫌いな人の好きなものは、むしろいや増しに嫌いになる。
本書を読んで小鍋、鰻、ポテトフライ、茄子の味噌汁がやたらと食いたくなった。
七味唐辛子と鶏の唐揚げが好きなのは、本書の影響ではない。
周囲に好きな人がいたからである。
肩書より顔より性格より、対人関係は好きな食べ物が重要なのかもしれない。
こいつが好きな食いもんはどうにも好きになれそうもない。
そう判断したら手を引くのも一計だろう。
我われは毎日なにかしら食べている。これは思ったよりも重いはずである。

「ブッダは何を教えたのか」(ひろさちや/パンドラ新書)

→仏教はなんでもありなんだよね。
「仏教ではこう教えています」と書いて、それが間違いのことはほとんどない。
かならず調べたらどこかの経典に書いてある。
書いてなかったら、拡大解釈すればいいだけの話。
とはいえ、ぜんぶの仏教経典に目を通した人はおそらくいないと思われるから、
「それは仏教の教えではない」と断言する人のほうが仏教を知らないということになる。
仏教ではなんだっていいのである。
だから、ひろさちやさんのようにブッダの解説書で、
ほとんど関係ない法華経の教義を出してもいい。
とはいえ、これはあんがい仏教の本質を突いているような気がするのである。
ひろさちや氏は「仏知見(ぶっちけん)」で見ることが肝要だと説く。

「わたしたちは人間(仏教では凡夫といいます)の立場でしか
モノ・コトを見ることができません。それは「人知見」です。人間の物差しです。
「人知見」によるなら、敗者になるのはいやであり、病気はいやなコトです。
そして、戦争も犯罪もないほうがいいのです。
ですが「仏知見」(如来の智慧)で見れば、モノ・コトは違って見えます。
どう見えるか、それは凡夫にはわかりません。
仏にならないと、仏の見方はわからないのです」(P208)


かりそめこの世でマイナスといわれていることも「仏知見」から見たらわからない。
いまの社会でマイナスとされていることも、
もしかしたら「仏知見」から見たら信じられないほどのプラスかもしれない。
だれもが(人間なら)マイナスにしか思えないことも、「仏知見」から見たらさあどうか。
あんがい、とてつもない福徳をもたらすものかもしれない。
この「仏知見」は「永遠」などと訳したらわかりやすいのかもしれない。
浄土や来世(をふくむ永遠)から見たら、現世の禍福など大きく意味を変えるだろう。
どうして早世や障害が不幸でありえようか。
人間の失敗など永遠から見たらホクロほどにも気を引かないのではないか。
人間の物差しを信用するな。これがひろイズムの根本思想になるのだろう。
わかりやすくいえば、「なんだっていい」である。
人間の目にこだわるからマイナスに見えるだけの話なのだろう。
人間ならぬ仏の目から見たら、「なんだっていい」――。
まあ、口でこのようにいうのは楽だけれども、実際にマイナスに遭遇すると難しい。
しかし、この考え方をすると救われる。
この考え方とはしつこく繰り返すが「なんだっていい」である。
「仏知見」から見たら「なんだっていい」のかもしれない。

「人生哲学 阪神タイガース的」(ひろさちや/ソニー・マガジンズ新書)

→ひろさんが、生き生きしてるぜ! 本当に阪神タイガースが好きなのだろう。
内容は、阪神タイガースに学ぶ生きる智恵である。
むかしは仏教に学ぶふりをしていたが、正体を現わしたな、ひろさちや!
もうすぐ死ぬひろ先生にとったら、仏教も阪神タイガースもおなじなのである。
わたしは本書で大好きなひろさんがピチピチしているのがなにより嬉しかった。
プロ野球はよく知らないが、阪神タイガースはとにかく弱いらしい。
そこでひろさちや氏が注目するのは「負ける」という意味だ。
弱いから負ける。しかし、負けるのはそれほどいけないのか。
たとえ負けても楽しかったらいいのではないか。
阪神タイガースが何度も負けようが楽しく応援できたのだからいいではないか。
これは阪神ファンならではの悟りといってよい。
もしかしたらひろ氏の仏教観は阪神タイガースに鍛えられたのかもしれない。
楽しむ野球と正反対なのが勝つための野球である。
ひろさちやは勝つための野球を批判する。
なぜなら、勝つためには選手が滅私奉公して、
チームのために尽くさなければならないからである。
それから勝つためには確率野球をしなければならなくなる。
本書を読んで、バンドをする意味がようやくわかった。
あれは確率を重視していたのか。この歳になるまで知らなかった。

「まず、ノーアウトでランナーが一塁だとします。
このランナーがホームにかえって来て得点になるには、
ヒットが二本続かないといけません。
しかし、二人の三割バッターが二本のヒットを打つ確率は、0.3×0.3です。
それだと約一割の確率です。だが、一塁のランナーをバンドで二塁に送ると、
ワンアウトになりますが、次は三割の確率で点になります。
一割と三割では、はるかに三割のほうがいい。
そこで、ノーアウト、ランナー一塁となれば、
川上(哲治)はバンドで二塁に進める野球を始めたのです。
これが確率野球であり、「勝つための野球」です」(P125)


考えてみれば人生でもそうだ。
いまは確率人生を「勝つための人生」と信じて励んでいるものが少なくない。
野球とは異なり人生ではみなかならず百%負ける(=死ぬ)にもかかわらず……。
確率野球や「勝つための野球」がつまらないとひろさちや氏はいう。
まったくである。野球のことはよくわからないが、
確率人生や「勝つための人生」はどこがおもしろいのかと思ってしまう。
プロ野球ではそうもいかないのだろうが、
人生では勝たなくても楽しめたらいいという草野球精神はたいせつである。
楽しんだもの勝ちのようなところが人生にはある。
勝つよりも楽しむことを重んじるという生き方があるのだろう。

そういえば、近所の荒川土手を散歩していて、いやな光景に出くわすことがある。
少年野球チームの監督やコーチがやたら威張っているのである。
いかにも会社ではうだつの上がらないような冴えないおっさんが、
鬱憤を晴らすように学童を叱り飛ばして練習させている。
どうせプロになんかなれないんだから、もっと野球を楽しませればいいいのにと思う。
楽しむことを罪悪とするような歪んだスポーツ観がどうしてか幅を利かせているのだ。
勝てなくても楽しかったらいいではないか。
関係ないが、このように考える人はたぶんギャンブル依存症にはならないはずである。

「サラリーマン劇薬人生相談」(ひろさちや/ベスト新書)

→まったく期待しないで読んだら、これはすばらしい。
理由は、別のライターが聞き役にまわり構成を担当したからだと思う。
この構成がかなりうまかったのではないか。
さくらい伸という人らしい。
「伸」という名前を読むとすぐに創価学会を連想してしまうが(「人間革命」の山本伸一)、
なにか関係があるのだろうか。
ともあれ、本書の構成はよかったですよ。
ひろイズム炸裂で、最高のひろさちや入門書になっていると思う。
なにか1冊読もうか迷っている人には「サラリーマン劇薬人生相談」をおすすめします。
これでかなりの悩みが消えると思う。
冒頭からひろさちや先生は飛ばしている。こんな明快な人生相談の回答は見たことがない。
悩み多きわたしもひろ氏のこの言葉で吹っ切れた。

「人生、どのように生きたらいいのでしょうか?
そのように問われたら、わたしの答えは簡単です。
「どのように生きたってかまいません。
あなたの好きなように生きればいいのです」(P3)


なるほど、まったくそうであった、そのとおりだと覚醒する。
しかし、どうして我われは迷うのだろう。正解があると思うからだとひろ氏はいう。
それから、なんだかんだいっても他人から褒められたいと思っているのがいけない。

「自分の人生は自分のものです。自分の好きなように生きればいいのです」(P3)

ああ、なんと人生は簡単だったか!
しかし、あれなんだろうね。自分の好きなことがない人も多いのかもしれない。
「好きなように生きればいい」といわれても、
そもそも好きなことがない人は困るのだろう。
好きなことがある人はもう悩むことはない。好きなように生きたらいいのである。
でも、やっぱり人間だからAかBか迷っちゃう。
ひろさちや氏は他人に相談しないほうがいいという。
他人に決めてもらったら、
うまくいかなかったときにその人を恨むようになるというのが理由である。
あれ? ほんとに他人の助言に従う人なんかいるのか~。
相談しても最後に決めるのは自分だと思っていた。
ひろイズムだとほとけさまに決めてもらうのもいいらしい。
サイコロを振って決めるのである。サイコロは1回しか振ってはならない。
一回性に賭ける。ほとけさまに決めてもらう。
これはやったことがないからまだわたしも不信心なんでしょうね。

他人のことは、無関心がいい。これは放っておくというのと同義だろう。
最近ようやく気づいたのだが、かなりのケースで放っておくのがいちばんなのではないか。
悩みは悩むから悩みになる。悩みをどうにかしようと思うから悩みになる。
しかし、たいていの場合、悩みはどうしたって解決しない。
解決しないから悩んでいるのに、どうかしようとしてもどうにもならない。
なら、放っておけばいい。放っておけば、少なくともそのまんまである。
まあ、そうそう悪くはならないだろう。
なにかするともっと悪くなることもなきにしもあらずなのだから。
こじらせる、というやつだ。
しかし、他人を放っておくというのが、まだまだできない。
ついつい他人のことを気にしてしまうのである。

「仏教が教えるのは、無関心です。他人がどうしようと放っておけばいい。
同僚が奥さんに逃げられようが子どもが大学に落ちようと、常に無関心。
たいていの人はそういう話を聞いて、
表面上では「いやあ、お気の毒さまで」などと言っているけれど、
内心は「面白いな」と思っている。
結局、わたしたちは他人に対して関心を持ち過ぎなのです。
同期のヤツが出世した。
二段階飛び越して部長になったとかなんとか仲間が言ってきたときにも、
「自分には関係ないことだ」と言い聞かせる。
日ごろからそういう心構えでいれば、
そのうちあまり他人のことは気にならなくなります。というよりも、
もっと大事な自分のことを一生懸命に考えるようになるからね」(P39)


きっとニュースが好きなわたしはまだ修行が足らないのだろう。
ニュースはやはりおもしろいもんね。
しかし、他人の出世は耳障りなのも事実だから。
いまはネットが世界中に普及したから無理なのかもしれないが、
海外一人旅をするとほんと日本の情報がまったく入ってこなくなる。
はっきりいって、どうでもよくなる。
「どうだっていい」というのがポイントなのだろう。
他人のことは、まあどうだっていい。アハ、どうだっていいや。
うん、もうすぐ死ぬ人でしかいえない過激な発言に満ちている本書はよろしい。

「旅巧者は人生巧者」(ひろさちや/ヴィレッジブックス新書)

→これまためったにないほど質の低い本である。
しかし、ひろ先生から教わった人生態度は、「期待しない」だから構わない。
そもそもあまりひろさちやさんの本なんかに期待していないから。
期待するから裏切られるんだよね。
ま、ひろさんの本なんだから大したことがないさ、と最初から思っていたから平気。
ひろ氏は「期待しちゃいけないよ」と身をもって教えてくれているのである。感謝感謝!
いつものようないいかげんな話が繰り返されるのでとても心地いい。
精神病と強い相関を持つ「こだわり」の反意語は「いいかげん」なのだと思う。
関係ないけど、毎度のごとく高額所得者のくせに庶民ぶる先生もすてきである。

そうそう、飛行機とかで病人が出たとき「お医者さんはいますか?」のアナウンスがある。
医者はあれに名乗り出ないほうがいいらしい。
ろくな薬もないところで間違った医療をしたら逆に責任を問われてしまうとのこと。
それから本書に匿名の高僧批判が書かれていた。
ほら、宗教ライターのひろさんは、日本の高僧と行動を共にすることが多いから。
わがままな高僧がかなりいるそうである。
どのみちもうすぐ死ぬんだから、一度だけ名前を暴露してくれないかしら。
でも、そんなおもしろい本を書いてしまったら、
ひろさちやがひろさちやではなくなってしまうから、まあいいです。
そういえば「あきらめる」という最高の人生作法もひろ先生に教わったのだった。

「人生の「お荷物」を捨てる方法」(ひろさちや/青春出版社)

→人生最大の「お荷物」といえば不安と心配だと思う。
将来のことが心配で不安になる――。
未来のことはどうにもならないのに、この「お荷物」はふくらむばかり。
さらに「どうしよう?」なんて考え出しちゃうと、どんどん不安や心配になる。
でもさ、ひろさちやさんの言っているように、
いざ不安が的中しても経験しちゃえば「こんなものか」になっちゃうんだろうね。
なんだ、こんなものかと。
経験していない状態でいくら心配しても不安が増大するだけ。
実際に経験したら「こんなものか」でおしまい。
結局、経験していない段階での不安や心配がいちばん始末が悪い。
ひろさちや先生のご本の効能は、不安や心配が消えることではないかと思う。
将来への向き合い方は「まあ、なるようになるさ」、
または「ふん、どうせなるようにしかならん」がもっともいいと気づく。
しかし、この不安と心配は大きなビジネスチャンスだから、
世間は大々的にあおってくる。これを買っておけば安心ですよと。

海外旅行に行くときは、心配してあれもこれもと荷物に詰め込むけれど、
現地ではほとんど使わないものばかりである。
まあ、人生も似たようなものなんでしょうね。
考えてみたら、カバンに荷物を入れているときが旅行でもっとも楽しいときだから、
心配性な人というのは人生の楽しみ方をよく知っているのかもしれない。
とすると、わたしはもう少し将来の心配をしたほうがいいのかな。

「あるがままに生きよ」(ひろさちや/ぶんか社文庫)

→やたら誤植が多い本なのだが、いいかげんなひろさちやさんらしくていい。
ひろ氏は著者で禁煙成功自慢をよくする。
本書で知ったが禁煙したきっかけは、危うく子どもを殺しそうになったらしい。
友人の家でマージャンをしていた。タバコを吸うのはひろさんだけだった。
灰皿に山と積まれた吸殻を目を放した隙にその家の小さな子が口に入れてしまったという。
救急車で運ばれて、一命は取りとめたとのこと。
ほんと人生ってなにが起こるかわからんよね。
もし死んでいたら罪悪感で一生苦しんでいたのだから。

自宅にタンス預金していた1億7千万円を泥棒に盗まれたのはひろ先生の勲章。
受賞歴ゼロの売れっ子ライターひろさちや先生にも勲章があった!
1億7千万円の盗難被害か~。なんかマヌケで笑える(ごめんなさい)。
でも、本人はそうとう深刻だったのかも。
いやいや、きっと氏にとっては宗教観を深める最高の機会になったのではないかと思う。
まあ、友人の子どもを死なせちゃうよりは1億7千万円盗まれるほうがいい(のかな?)。
しかし、1億7千万盗まれない代わりに、うっかり子どもを死なせちゃう人生もあるわけだ。
問題は、どっちの人生がいいか人間には選べないということ。
もしそっちの子を死なす人生だったら、
老齢になってからひろ先生は「あるがままに生きよ」といえていただろうか。
ともあれ、幸運な人である。

「ひさしぶりにさようなら」(大道珠貴/講談社文庫)

→読みながら笑いがとまらなかった。大道珠貴(♀)はいいよね。
これはほめ言葉なんだけど、根っからの育ちの悪さがとってもおもしろい。
思想なんか、ぜーんぜんないところがいい。
まじめな人からの「将来お金がなくなったらどうしましょう?」みたいな質問に、
「アハ、盗めばいいじゃん?」と答えそうな登場人物がみんなプリティー。
まじめに恋愛とかしない「怠惰な性分」の人たちにすごく好感を持つ。
ほんとは難しいことなんてなーんにもないんだよね。
ごはん食べたらごろごろだらだら寝て、なにが悪いか、コノヤロッ! だから、コノヤロッ!
あひゃ、怒ったって思った? ウソだぴょーん♪ アッカンベー♪
るんるん、てきとーでOK、ほにょ~という感じがサイコーにすばらしい。
作家は柳美里(大好きです)みたいなあれな人の生態をかわいく描写する。
なぜか柳美里の小説はまじめに難しくなっちゃうんだけど、
大道珠貴にはそういうところがなくて、ふまじめ、ふきんしん、ふけつ。
ま、恋愛も労働も家事も育児も、めんどくさいというひと言に尽きますな、大道さん。
わかります。わたし、大道珠貴がわかります。笑います。大笑いします。

「童話の書き方」(寺村輝夫/講談社現代新書)絶版

→童話作家の著者は、創作の秘訣としてスポーツ新聞をたとえに出す。
前日のプロ野球の結果を伝えるにも各紙違いがある。
見出しに注目したらどうなるか。
一紙は「宮本初勝利!」、一紙は「原8号!」となっていたという。
巨人対ヤクルト戦の結果である。ヤクルトが巨人に一点差で勝利した。
ジャイアンツ系の新聞は読者を不快にさせないように「原8号!」と書く。
これは巨人が負けたという事実をねじまげているわけではない。
きちんと紙面では巨人がヤクルトに敗れたことを伝えている。
しかし、「原8号!」と見出しにすることで明日へ希望のつながるものとしている。
巨人ファンはスポーツ新聞を読んで朝から不愉快な気分になりたくないのである。
そこを察してジャイアンツ系の新聞は「原8号!」をあえて強調する。
この方法が童話創作においても重要だと著者は指摘する。

「童話でも同じだと思います。
問題は、作者がどの「立場」に立つかです。
童話には作者の確固たる立場が要求されます。
その立場は、作者のものの考えかたのはじまり(主観)、
読者の知りたいこと、興味のあることをどううけとめるか(個性)によってつくられます。
つまり、ヤクルト側に立つか、ジャイアンツ側に立つかです。
どっちつかずで純粋客観的なものを書いたのでは、おもしろいものは書けません。
あえていうなら、子どもの側に立つか、大人の側に立つか、ということです」(P144)


童話作家の著者は「迷わず子どもの側に立ちます」という。
「なぜなら童話の第一の読者は、子どもだからです」――。
著者はヤクルトが好きだそうだが、おなじように子どもも好きなのだろう。
どの立場に立つか、が物語創作のポイントなのかもしれない。
これはどんな人を好きになるか、ということなのだろう。

いまはもうまったく見なくなったが、プロレスでもそうである。
かつて雑誌は「週刊ゴング」(廃刊)と「週刊プロレス」があった。
「週刊ゴング」は客観的に試合のレポートをするが、読んでもおもしろくないのである。
「週刊プロレス」は特定レスラーに強く思い入れたレポートをよくしていた。
この仕組みに気づいた大仁田厚はギャンブル好きの編集長に裏金30万を渡したという。
もちろん、翌週の「週刊プロレス」表紙は大仁田である。
これを大仁田厚の立場から見たら、成り上がるためにはやむなし、である。
編集長の立場から見たら……ハハハ、こいつは好きになれん。
このときの「週刊プロレス」編集長はターザン山本という。
しかし、実際は関係者が暴露しないだけで、これはプロレスの世界だけではなく、
世の中はほとんどすべて裏金でまわっているという面があるのだろう。
プロレスだけではなく、マスコミ報道はすべて「童話」なのかもしれない。
犯罪者の立場に立った新聞など読んでみたいが、たぶん一紙もないはずである。
とすると、事実や真実を伝える新聞や雑誌は「大人の童話」と醒めた目で見るべきなのか。
童話創作から話がとんでもないほうにいってしまったようだ。

「だます心 だまされる心」(安斎育郎/岩波新書)

→著者プロフィールがむやみに長い人や、参考文献に自著を書き連ねる人は
怪しいという思い込みがあったけれど、この本は考えさせられる良書であった。
専門がオカルト批判だが、手品師でもある著者は、
だまされる快楽にも言及している。手品とはだまされるのを楽しむものだ。
そう、人間はだまされることに快感を感じるのだから困るのである。
八百長のプロレスほど怪しくはなくても、
基本的に小説も映画もだまされる愉楽を追求しているのだから。

主観と客観の問題を著者はわかりやすく整理する。
だますだまされるは、主観と客観の相違によっているからだろう。
どういうことかというと、主観的にはそう見えても、客観的には異なるということだ。
手品は主観的には魔術のようだが、客観的には仕掛けがある。
主観を過信してはならない。たえず客観をもって検証しなければならない。
オカルト批判が専門の科学者を自称する著者の主張である。

「人間の判断を文章や記号や式で表現したものを、一般に「命題」と呼びます。
a.3に5を足すと8になる、
b.『源氏物語』は紫式部が書いた、
c.一九四五年、アメリカは広島・長崎に原爆を投下した、
d.ピカソの絵は素晴らしい、
e.核兵器は廃絶されるべきだ、
f.人間は生まれながらに平等である、
などはいずれも命題ですが、
このうちabcは「客観的命題」、defは「主観的命題」です」(P132)


「客観的命題」と「主観的命題」を混合するものがいるから厄介なのだろう。
「客観的命題」は、その命題が正しいか正しくないかを
事実や論理に照らして客観的に判断できる命題だという。
一方で「主観的命題」は人それぞれの価値が問題となるので、答えは人によって違う。
これがオカルト批判の先鋒たる著者の明確な立ち位置のようである。
たしかにこれは正しく、たとえば「漱石の『こころ』は名作である」は「主観的命題」だ。
こう見破ったらこれについていくら議論しても(議論自体はそれなりに楽しいのだが)
客観的な答えは出ないことがわかろう。
しかし、「主観的命題」にもいちおう答えらしきものはあるから我われは困るのである。
たとえば、命題を自分で作ると「人を殺してはいけない」「自殺してはいけない」――。
これは「主観的命題」で本来なら答えはないが、
とりあえず法的権威(憲法)、人的権威(偉い人)に従うならば、
正しい答えがあることになってしまう。
そう、本来なら答えのない「主観的命題」の正否は権威者が決定するのである。
ところが、権威者同士で意見が食い違うことがる。
世俗的権威と宗教的権威が対立することもあるだろう。
世俗的権威のあいだでも意見の相違はあるはずである。
宗教的権威とまた別の宗教的権威の衝突がときに戦争になるのだろう。

しかし、と反論したくなるのである。ここからはわたしの意見になる。
本当に「客観的命題」など存在するのだろうか。
具体的にいえば、御しやすいものから「『源氏物語』は紫式部が書いた」。
これはわたしには確かめようがない。わたしが確かめられる問題ではない。
多くの権威者がこの説を支持しているから、そうなのだろうとしかいえない。
もしかしたら「源氏物語」を書いたのは男なのかもしれない、とも思う。
まあ、そういう事実が現われても多数派は揉み消そうとするのだろうけれど。
難易度を上げていくと、「一九四五年、アメリカは広島・長崎に原爆を投下した」。
これも教科書で知った事実というだけで、わたしが経験したわけではない。
多数派がそういっているというだけである。
もしかしたら原爆投下にソ連が関わっていたかもしれない。
もしそうなら「一九四五年、アメリカとソ連は広島・長崎に原爆を投下した」。
これが正しいということになろう。
さすがにこれだけはいかにも正しそうな、「3に5を足すと8になる」。
どうだ、これは疑えるのか。わたしは「3に5を足すと35になる」と思う。
そうではありませんか? 3に5を足したら35でしょう?
数学というルールの範囲内でなら8が正しいが、視覚から見たら35でも悪くない。
本書の有意義な論考をじっくり吟味(ぎんみ)したうえでわたしが主張したいのは、
もしかしたらかなりの「客観的命題」が「主観的命題」なのではないだろうか?
本当は「客観的命題」などないのではないかといいたいが(ああ、いっちゃった!)、
ここまでいってしまうと頭がおかしいのではないかと疑われるのを懸念する。

著者の出した命題から抜粋する(P160)。
「地球は太陽の回りを公転する」。
これは「客観的命題」か、それとも「主観的命題」なのか。
著者は「客観的命題」だという。
わたしは「主観的命題」ではないかと思う。
多数派および権威者は「客観的命題」だと主張するのだろうが、わたしはそう思わない。
なぜだろうと自問すると、あまり多数派や権威者を信じていないからだろう。
なにしろわたしが目にした事実ではない。
「宇宙はビックバンから始まった」はどうか。
多数派や権威者がこれを「客観的命題」にしているのはわかるが、
わたしはこれを「主観的命題」だと思っている。
人によってそれぞれ答えが違ってよい問題だと思う。
「神様が宇宙を作った」でも「宇宙は偶然に始まった」でも構わないと思う。
「霊は存在する」を「客観的命題」にしてしまっていいのだろうか。
もしかしたら「霊は存在する」も「主観的命題」かもしれない。

わたしが主張したいのは、
なにかの命題を「客観的命題」か「主観的命題」かに分けるとき、
まさしくその瞬間に「主観」が入っているのではないだろうか。
まず「主観」ありきで純粋な「客観」など存在しないのではないか。
皮肉をいえば、真理など多数派の意見に過ぎない、となる。
「3+5=8」は真理ではなく多数派の意見に過ぎないのではなかろうか。

新たな命題を作ってみる。「お題目をとなえたら病気が治る」(by創価学会)。
カルト嫌いの著者は、この命題を「客観的命題」と(主観から!)判断するだろう。
で、病気が治らない信者もいることを指摘してカルト宗教団体を批判する。
わたしは「お題目をとなえたら病気が治る」は「主観的命題」だと思う。
価値の問題である。つまり、突きつめれば、好き嫌いになってしまうのではないか。
わたしはお題目をとなえることで病気が治る例もあるのではないかと思う。
まあ、となえたら100%治るというわけではないとわたしは思うが、
そう信じている人をことさら批判するつもりもない。

ポイントは「わたしは思う(=主観)」である。

わたしは「人間は生まれながらに平等である」と思いますが、あなたはどうですか?
わたしは「核兵器は廃絶されるべきだ」と思いますが、あなたはどうですか?
わたしは「ピカソの絵は素晴らしい」と思いますが、あなたはどうですか?
わたしは「一九四五年、アメリカは広島・長崎に原爆を投下した」と思いますが、あなたはどうですか?
わたしは「『源氏物語』は紫式部が書いた」と思いますが、あなたはどうですか?
わたしは「3に5を足すと8になる」と思いますが、あなたはどうですか?