「医薬品クライシス」(佐藤健太郎/新潮新書)

→元製薬メーカー勤務のサイエンスライターの筆なる本書はとてもわかりやすい。
わずか2時間そこそこで業界の裏事情を知ることができるのだから、
たとえこの本を定価で買っていても安いものである。
セミナーが好きな貧乏人はもっと各出版社の新書を有効利用すべきだと思う。
新書はセミナーよりはるかに安い価格で、その数倍の情報を与えてくれるはずである。
以下に本書から知りえた有益な情報を引用ではなく要約する。
みなさんは無料で物知りになれるのだから、ほんとよかったですね。

・製薬メーカーの研究所に勤めている人は高学歴ばかりでたいへん知能も高いが、
それでもその大半は一生新薬を開発できないで終わる。
・それほど新薬開発はギャンブル性が高い。99.9%は失敗する。
そのぶん開発が成功したらものすごい利益が生じる。
とはいえ、開発者は報われない。
売り上げ4千億円の新薬開発者が会社からもらった報奨金は1万5千円だった。
・大ヒットした新薬はほとんどまぐれ当たりのようなもの。
・現代の医学でさえ百年後から見たら呪術やオカルトになってしまうだろう。
・薬の効き目は個人差がかなり強い。だれにでも効く薬はない。
・臨床試験の段階で1/4にしか効能が見られない薬でも商品化される。
患者半分に効く薬でも相当に立派なものなのである。
・以前のマスコミによるタミフル批判は異常。
服用者の全体数を考えたら、薬害は飛行機事故に遭遇するより低い確率である。
リスクがゼロの薬はないと思ってよい。
・健康保険がうまく機能していないアメリカでは一度病気になっただけで、
貧困層にまで転落してしまうことがある。
・旧時代の開発者はオカルトのような非効率的作業で新薬を次々に開発していた。
・いまは研究者がサラリーマン化してこだわりがなくなったため、
新薬開発がうまくいかないという意見もある。
・やはり狂気に近い職人的信念がないと新薬開発には至らない。

感想。日本の医療事情は世界的にも最高レベルではないかと思った。
とくに国民皆保険というのはすばらしい。
いつか高所得者になったら高い保険料でもしっかり払おうと決意する。
でも、80歳を超えた老人に最先端の手術や投薬をする必要ってある?
とりあえずの結論は、製薬会社研究者のみなさん、ご苦労様です。ありがとよ♪

「39歳 女の愛の分岐点」(植島啓司/メディアファクトリー)

→2011年刊。大好きな植島啓司先生の劣化ぶりにあたまが痛くなった。
まっピンクな装丁の本書で植島はアラフォーの女性に媚びを売る男芸者と化す。
もう植島さんは学者を自称するのをやめたほうがいいのではないかと思った。
この本を読んでつくづく思ったのだが、氏は勉強をしなくなっているのである。
失礼ながら、いまやちゃんとした本をほとんど読んでいないように見受けられる。
本人は、自分は遊び人だからこれでいいのだと開き直るのかもしれないが、
しかし発言の根拠としているのは、
もっぱら元学者という権威オンリーなのだから性質が悪いと言わざるをえない。
本書の冒頭で植島啓司はいきなり断言する。

「いまや40代、50代こそが女性をもっとも輝かせる年代で、
39歳をどう通り過ぎるかによって、
その後の人生が大きく違ってくるということが明らかになりつつある」(P27)


はあ? いったいどこで明らかになっているんですか?
明らかになっていません。ぜんぜん明らかじゃないですよ。
そんなもん、マーケティングの宣伝文句に過ぎんでしょうが!
よほどギャンブルの種銭に目がくらんだか、
植島元教授はこの後も女性を甘やかす根拠のない文言を「正しい」ものとして繰り返すのだ。
本書のマーケティングの対象は、ピンクの装丁からわかるよう女子と見て間違いない。
「39歳(付近)女子」に売るものとして、この本は企画されたのである。
このため本書の内容はアラフォー女子の喜ぶようなものばかりとなる。
それを「正しい」こととして主張、あるいは提案するのだから。
「正しさ」の根拠は植島啓司氏の元大学教授という経歴だけである。
ところが、ネットで女子の感想を調べてみたら、どれも好意的なのである。
そりゃあ、ちょいワルふうで顔立ちのよい一見知的なおじさまが、
自分たちに都合のいいことを並べ立ててくれたら悪い気はしないのはわかるけれど、
そこまでアラフォー女子は○○なのかと唖然としてしまった。

このピンク色の本をまさか男は読まないものと植島さんは思ったのか。
いやいや、先生のファンだから「もてない男」にもかかわらず読みましたよ。
男が読まない女子のためのピンク本を、男に向けて公開してみよう。
まず恋愛体質(ぷっ!)の女子を「人を好きになるのは才能」と高く持ち上げる。
それから39歳の女子に浮気のススメをやらかすのである。
というのも、恋愛における最初の決定権は学問的に(え?)女子にあるからだ、
とさらに女子をヨイショヨイショ、高みにあげる植島啓司、元関西大学教授である。
浮気のススメの根拠として、
歴史的および地域的に散見される(いわば例外の)婚外性交の習慣を強調する。
さらにこれは不純異性交遊のススメではなく、
あくまでも「正しい」学問だと主張したいのだろうか。
「フラート」なる横文字の新概念を提出する。
これは脳学者の茂木さんの「クオリア」(もう死語ですか?)みたいなものか。
恋愛体質の女子は「フラート」などと聞くともうダメなのだろう。
うっとりして「フラート、ああ、なんて甘い言葉」などとつぶやくに決まっている。
ちなみに「フラート」とは具体的には、
「たとえば、視線のやりとり、誘惑、男に媚びること(コケットリー)、
ちょっとした接触、人目を忍ぶくちづけ、身体を密着させたダンス、
気取った恋の駆け引き」(P104)のことらしい。
総じて、「相手の注意を引き、欲望をかきたて、嫉妬心を刺激する行為」(同)。

お洒落な「フラート」をわたしの言葉にしたら「お気軽桃色遊戯」になる。
会社と家の単純な往復に疲弊した加齢臭ただようおっさんが、
ローンがまだ残っている自宅で読みさしのこの本を目にしたらと思うとぞっとする。
この学者先生はワイフに「お気軽桃色遊戯」を推奨していやがると激怒するのではないか。
植島先生の顔写真をネットで検索してしまったら、これはもう最悪と言うほかない。
いかにももてそうな苦みばしったいい男だからである。負けた、となるはずだ。

植島啓司先生のこの桃色書籍における結論はこうである。
経済力のあるアラフォー女子よ、もっと恋をしませんか?
なにも生活を壊すことはない。こっそりやればいいのですよ、と背中を押す。
「お気軽桃色遊戯(フラート)」は女子力アップの秘訣とけしかける。
むかしは男が二号、三号というように妾(めかけ)を囲った。
現代はアラフォー女子が二号、三号の男を持ってもいいのではないか。
遊び人、植島啓司先生の提案である。

ここまで一貫して批判的に植島先生の論考を追ってきたが、
最後の最後でわたしは著者と仲良く握手をする(笑)。
まったくそうですよね、植島元教授。女子は二号、三号の男を囲うべきです。
なぜかといえば、おこぼれにあずかれるかもしれないからである。
もうわたしは女性の一号(正式な夫)になるのはあきらめている。
結婚は99%できないだろう。
しかし、恋愛体質の女子が二号、三号を持つのが一般的になれば、
もてないダメ男のこちらにも希望が見えてくるではないか。
二号は無理でも三号くらいならなれるかもしれない。
経済的な負担は一号さんに持ってもらえるのだから、これは都合がいい。
どうやらわたしはあまり独占欲がないようなのである。
おのれのダメぶりを熟知しているから、万が一、億が一にも、
一号にしてくれる女性が現われたとしても、
おそらく「やめておいたほうがいいよ」と助言すると思う。
三号くらいのほうが居心地がよろしい。

やはり植島先生は偉い!

「39歳 女の愛の分岐点」は現代女子必読の名著である。
当方はブックオフで買ったが、女子のみなさんはかならず新刊で買ってください。
どうせいつも男からいろいろ奢ってもらっているんでしょ?
その余ったお金で植島先生の「39歳 女の愛の分岐点」を買うこと。
というのも、いま植島先生はとてもお金にお困りのようだから(年収180万以下とか)。
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「聖地の想像力」(植島啓司/集英社新書)

→出版当時は関西大学教授の肩書があったので本書も説得力があったのだろうが、
著者が年収180万以下の雑文ライターに落ちぶれた(失礼!)いま読むと、
根拠のない断定と思いつきがだらだらと語られただけのトンデモ本に思えてしまう。
聖地の見物記と大学教授(当時)の随想がメインとなっている。
ときたま読んだ小説や一般書の一節が挿入され、
あたかもなにかを論じたかのような体裁を取っている。

内容は失礼ながら大したことがない。学ぶところもあまりない。
著者のファンゆえ期待の大きかったのが逆に災いしたのかもしれない。
下手をするとわたしでも書けそうな本だが、
当方は大学教授のような立派な肩書を持っていないので仕方がない。
要するに、本書で植島教授はなにを言っているのか。
聖地という時間的空間的に特別な場所がある。というのも――。

「そもそも時間や空間が均質であるというのは非常に近代的な考え方であって、
かつては時間や空間にはかなり極端な濃淡があったのではないかと思われる」(P85)


で、聖地に行くとなにがいいのか。

「どちらもわれわれを宇宙的なスケールへと導いてくれる。
いま、ここで、こうしていることが、
単なる偶然だということを改めて教えてくれるのである」(P81)


わたしの言葉に言い換えたら、
聖地に行くことで、宇宙のなかにおける自分の位置を知ることができる、となる。
また本書に引用された岩田慶治氏の言葉を借りてもいいのなら、
聖地で我われは「人間の生命の由来とおのれ自身の所在を確認」(P143)する。
思えば、暇にまかせてインド、東南アジア、中国の聖地にはかなり行った。
聖地はどこかしら永遠に通じているような気がする。
このため「我われはどこから来て、どこへ行くのか」を強く意識するようになる。
あげく、信仰のあるものは聖地で祈るのだろう。
なぜなら人間は生前および死後の世界を知りえないからである。
そこにアクセスしようと思ったら祈るしかない。

*植島啓司氏の年収のソース「日刊サイゾー」
http://www.cyzo.com/2010/10/post_5760.html