思いのほか昨日見た映画が残っているのである。イラン映画の「別離」。
このいやな「もたれ」はかつて経験したことがあるとずっと思っていたが、
ようやく思い出した。
評判の高い映画「別離」は、イタリアのピランデルロ作品によく似ているのだ。
ピランデルロはノーベル賞作家だから(妥当かどうかはよくわかりませんけれど)、
似たような作品が世界中で激賞されるのはあんがい過剰な評価ではないのかもしれない。
ピランデルロは真実はひとつではないことを劇中で証明してしまった作家である。
影響うんぬんはおそらくないだろうが、イラン映画「別離」のテーマもおなじである。

しかし、このうんざりした感じはどうにかならないものか。
人間というものはなんていやなものなのだろう。
熱愛をしてみなから祝福されて結婚した男女とて、
なかには数年もすれば離婚裁判の泥仕合をおっぱじめるものもいるのだから。
あたしは間違っていない。悪いのはあなたよ。みんなあなたのせい。
責任を取ってください。あたしは悪くないってみんな言っているわ。
おかしいのはあなた。あたしはふつうよ。
バカヤロウ。おまえがこんな女だとは思っていなかった。
おれはよくやっているほうだと思うがね。悪いのはおまえだ。おまえのせいだ。
げんなりするけれど、どっちもどっちで、どちらの言い分も正しいのである。
言った言わないの夫婦喧嘩の仲裁をしたら、
ピランデルロ作品や「別離」を見るまでもなく真実はひとつでないことに気づくだろう。

夫婦関係をバカにしているわけではない。
わたしもまるでおなじだからうんざりするのである。
なかなか自分の非を認められない。どうしても最後まで自分が悪いとは思えない。
ついだれかが悪いのだと悪者をつくってしまいたがる。
しかし、その悪者とてこちらとおなじ人間だから、
自分が悪いなどとさらさら思うはずがないのである。
おれは悪くない。悪いのはおまえだ。
いや、それは違う。あんたのせいだ。うちは間違っていない。
あんたがすべて悪い。あんたは間違っている。責任を取れ。
あんたはおかしい。うちは正しい。
そうだ、そのとおり! おまえが正しい! おれが悪い! とは口が裂けても言えない。

ほとんどの人の話も、自分が正しくて相手が悪いということを前提にしている。
私が間違えているはずないじゃないの。相手はこんなにひどいのよ。
ねえ聞いて、私がどれだけの仕打ちを受けてきたか。
みんながみんな、むろんわたしも、こういうふうな思考法しかできないのである。
そのくせ、相手も自分とおなじだと気がつくことができない。
かりに気がついたところでどうすることもできない。
どうしても自分は正しいと言い張ってしまう。相手に譲ることはめったにしかできない。
善人ぶってうまく手柄を相手に譲ったつもりでも、根っこでは恨みに思っていたりする。
どうして自分だけこんな目に遭うのだろうと大抵の人が憤慨している。
そして、言い分を聞く限り、その主張はすべて正当なように思えるのである。
あなたはわたしとまったくおなじように悪くないのに虐げられている。

こういう度し難い人間の現実を突きつけられて、
なおその映画を傑作とほめられる人は度量が大きいのか。
それとも作品の意味を実は理解していないウスノロが賞賛しているのか。
偏屈なのだろうが、わたしは手放しでイラン映画「別離」をほめあげることができない。
ぜひ見るべきですよ、と人にすすめられない(すすめてもだれも見ないでしょうが)。
ともあれ、重たい作品であることは間違いない。