「声の力」(河合隼雄・阪田寛夫・谷川俊太郎・池田直樹/岩波書店)

→2001年に小樽市市民会館で行われたセミナーを収録したもの。
ほんとはさ、こうしなきゃいけないという情報に耳を貸す必要はないんだろうな。
出世のためにはこうしなければならない。
健康のためにはこうしなければならない。
ほかにもあまたある「こう生きるべき」という赤の他人からの助言は気にしないほうがいい。
(家族、友人、恋人からの助言は人生を豊かにすると思うけれど)
そういうさも正しげな他人からの情報を無視するところに生きる味わいがあるのだと思う。
「人間一般の味わい」ではなく「私の味わい」のことである。
つくづく思うのは、人生は一回きりなのだ。やりなおしはきかない。
うまくいく確率の高いほうへ人生を賭けても失敗することはある。
しかし、人生は、そういうことならもう一度賭けなおしましょうというわけにはいかない。
いくら高確率でうまくいくとされる人生の選択肢があったとしても、
あなたやわたしの一回きりの人生でそのとおりになるとは限らないのである。
どんな確率の低い賭けだとしても一回きりならうまくいってしまうこともあるのだ。
熱心にガン検診を受けていたという大御所脚本家が末期ガンでポックリ逝ってしまったが、
人生とはそういうものなのである。
(しんどい闘病のない、ころり往生は最高の幸福だとわたしなどは思うが)

河合隼雄先生のお言葉から――。

「最後に申し上げたいのは、私は先ほども谷川(俊太郎)さんに言われたように、
歌よりも語りのほうで、語り屋さんなんですが、
だからそういう意味で物語というのが大好きで、このごろよく言っていますことは、
自分が生きているということは、自分の人生の物語を生きているんだ。
これは私が主人公で、世界に一つしかない。
しかも過去にもなかったし、未来にもないだろう。
唯一の物語というもの、「河合隼雄の物語」という物語を僕が生きているんだと思うと、
なかなか面白くなってくるんですが、そのときに物語るだけではなくて、
私の人生を語るということのほかに、私の人生を歌う、
実際そういえば、人生を謳歌するなどという表現もあるのですが、
自分の人生ということを語るだけではなくて、
歌うということも考えてみれば面白いのではないか」(P42)


当方、カラオケは嫌いだが、口笛を吹くのはむかしから好きである。
きっと人生で苦しいときは悲しい歌を口笛でピーピー吹いていたらいいのだろう。
そのとき、ほかにない「私の人生」の味わいをしみじみ深く感じ取ることができる。
順風満帆な人生を送っているものには決して奏でられない曲があるのだろう。
「こうすべき」という出世情報、健康情報はしょせん「人の人生」のこと。
なるべくなら「人の人生」よりも「私の人生」を生きたほうがおもしろいはずである。
そう、おもしろい人生はいい。一回きりの人生ならおもしろいほうがよろしい。

「河合隼雄の人生読本」(河合隼雄/潮出版社)

→書評(読書感想エッセイ)を集めて1冊としたもの。
よく河合さんが言う「賭ける」の意味がわかったような気がする。
「人生は賭けてなきゃダメだ」としばしば氏は仰せになる。
人生で岐路に立たされることがある。このときの態度が問題のようだ。
Aにしたらいいか、Bにしたらいいか人は迷う。
たとえば、本当のことを告げようか、それともここは嘘をついたほうがいいのか。
こういう「ふたつにひとつ」の相談がきたとき、
河合隼雄さんは「わかりません」と答えるという。
どうしてなのか。
ここで河合さんが「正しい答え」(そんなものはないのだが、あるとして)を
言ってしまうと、相談者は責任を心理療法家に持たせてしまう。
「京都大学の偉い先生がおっしゃったので」と責任を回避してしまう。
これでは全身で問題にぶつかることができなくなる。
「賭ける」ことから逃げている。
河合さんは二者択一問題の相談者夫婦になんと言ったか。

「それで、私が言ったのは、どちらが正しいかということを考えるのではなくて、
私たちはこのようにしようというふうに考えてください。
ただし、自分たちがこう決めたからには、
全責任をとってその子に会う覚悟をしてほしいのであって、
正しい方法を知ろうとするのではない、ということです」(P135)


これが河合隼雄さんの言う「賭ける」の意味かと思われる。
我われはなにか迷うとすぐに正しい方法を知ろうとする。
だれか偉い人に相談して、意見に従おうとしてしまう。
しかし、それではいけないと河合さんは言うのである。
全責任をとって自分で決めよう。これが「賭ける」ということだ。全身で賭けてみろ。

ふと思ったが、海外一人旅を経験すると「賭ける」ことに慣れるのではないか。
なるべくならガイドブックを持たないほうがいい。
泊まるホテルからレストランまですべて自分で決めると「賭ける」のに強くなる。
行き先もその場その場で決めるともっといい。
バス1本乗り遅れたことで、かえって貴重な出会いに恵まれるのが一人旅である。
そして、おそらく人生も似たようなものだろうという直感が芽生える。
ツアーのパック旅行に参加してしまうと楽ちんで快適で効率的だけれど、
おそらくそのぶんつまらないような気がする(経験がないので推測だが)。
幸運にも海外一人旅をしたことがある。
強く記憶に残っているのは、ガイドブックに載っていない地域を旅したときの光景だ。
いま酒をのみながらたまにじんわり懐かしく思い返したりするのは、
決まってトラブルやハプニングといった当時は不愉快に感じていたことなのだ。
人生にもおなじことが言えるのかもしれない。
もしあの世があるのなら――。
たくさんこの世で「賭ける」経験をしておいたほうが、どうやらあの世では楽しめそうである。

「ココロの止まり木」(河合隼雄/朝日文庫)

→「週刊朝日」連載エッセイ。最晩年の著作である。
運命の力というものを、これでもかと思い知らされることが人生で多い。
人間の無力のまえに絶望的になり、何度も投げやりな気分に落ち込んだ。
運命の力に打ちのめされると河合隼雄さんの言葉にすがりつく。
以下は、ギリシア悲劇「オイディプス王」鑑賞後の感想である。

「現在は科学技術の発展によって、人間は極めて便利で快適な生活を享受できる。
自分の意志と努力によって相当なことが可能になる。
にもかかわらず、運命によって不幸に陥る人も多くある。
私のような心理療法家は運命の力の強さを感じさせられることが多いが、
自分の運命を引き受けて生きる人の姿に輝きを感じさせられる体験もする。
自分の意志や努力を大切にして生きるのは素晴らしいが、
運命の力を感じ取りつつ生きることによって、笙(しょう)の微妙な和音のように、
人生の味が深くなるように思うのである」(P42)


「運命によって不幸に陥」った人は河合隼雄の心理療法を経ることで、
「自分の運命を引き受けて生きる」人になる。
結果として、当人の「人生の味が深くなる」――。
いったい河合さんは心理療法でなにをしているのだろう。

「精神科医の中井久夫の言葉に、病に対する「最大の処方は、希望である」という、
私の好きな言葉がある。確かに、何のかのと言うよりは、
揺るぎのない希望をもって人に接するのが、
われわれ心理療法家の最大の役割ではないかと思う。
とはいっても、「希望つぶし」の名人のような方々とお会いすることが多いので、
こちらも大変である。そんなときに、私は自分がどれほど多くの、
希望に至る心の回路をもっているかが勝負どころかと思ったりする。
ひとつやふたつつぶされても、大丈夫なのだ」(P139)


心理療法家はひたすら希望しているとのこと。
運命の力で不幸になった人のそばに、希望するだれかがいたら、当人は立ち直れる。
どちらかといえばわたしは希望つぶしの名人のほうである。
どうしたら「希望に至る心の回路」が増えるのだろう。
河合さんはシェイクスピア劇を見た感想として、回路が増えたと書いている。
「ペリクリーズ」で「起こりえないこと」が連続して起こっているのを見たという。
たしかに舞台では「あんなにうまくいきゃーしないよ」ということが多く生じる。
人は芝居を見たあとしばらくしたら「現実は……」と落胆するだろう。
ここで「希望に至る心の回路」は通常なら閉じてしまう。
どうして河合さんの回路は閉鎖しないで増加するばかりなのだろう。

「先に「起こりえない」などと書いたが、考えてみると、
心理療法のなかで、立ち直っていった人たちは、
すべて「起こりえないこと」を経験している、と言っていいことに気がつくのだ。
言うならば、「起こりえないこと」は「必ず起こる」のである」(P138)


氏のこの確信の強さに引かれて(騙されて)本をたくさん読んでいるのかもしれない。
さて、「人生の味が深くなる」とはどういうことか。
これに関連するエッセイが本書にある。
言うまでもないが、河合さんの心理療法にくるような人はみな不幸である。
どうにかして幸福になりたいと思っている。そのお手伝いをするのが心理療法家だ。
しだいに河合さんは幸福とはなにかわからなくなってきたという。

「こんな仕事を長く続けているうちに、いったい「幸福」とは何か、
だんだんとわからなくなってきた。というのは、一般に「幸福」というと、
お金がたくさんあって、仕事がバリバリできて、自分の好きなことがどんどんできる、
というようなイメージを抱かれるのではなかろうか。
アメリカのパーティなどに行くと、そんな典型的な人にお目にかかれる。
すべてに自信にあふれている、ということはよく伝わってくるが、
「安心」のほうはサッパリなのである。傍らにいると、
なんとなくこちらまでそわそわしたり、時にはイライラしてくる。
最後には、「立派なものですな。しかし、あなたそれで人生ほんまにおもろいの」
などと言いたくなってくる」(P81)


なるほど、「幸福」はマクドナルドのハンバーガーのように大味なところがある。
「幸福」は、細かい味をケチャップで真っ赤にしてしまうような強引さがある。
「人生の味が深くなる」というとき、
それは「幸福」から一歩離れた立場からの視線が重要になってくるような気がする。
河合さんは「安心」の思想を仏教から知ったという。
そういえば、日本最大の例の仏教団体、
その構成員はみな「安心」から程遠いのではないか。
「お金がたくさんあって、仕事がバリバリできて、自分の好きなことがどんどんできる」
これを目指しているのが多くの創価学会員のように見受けられる。
目的は、とにかく勝つこと、がむしゃらに得ること。勝利! 獲得!
もしかしたら仏教的な「安心」は、負けること、失うことがポイントなのかもしれない。
敗北や喪失が「人生の味が深くなる」のと、あるいはなにか関係しているのかもしれない。

「平成おとぎ話」(河合隼雄/潮出版社)

→京都新聞連載エッセイ。
人間というのはつくづく無力だとこの歳になって思い知っている。
だれもが自分の生きた人生からしか学べないから、
なかには人間は有力でがんばればなんでもできると信じておられる方もいるようだが。
わたしは残念ながら人間の無力を強く味わわざるをえないところに生まれ落ちた。
無力の自覚は、この世では解決できないことの存在を深々と認めることから生じる。
長く生きた人はみなご存知でしょうが、取り返しのつかないことがあるのである。
1回起こってしまったら、もうそれ以前には戻れない悲劇、不幸が人生には多々ある。
どうにかしたくても解決できない問題が、この世にはいくらだってあるのである。
解決できなくても、人は生きていかなければならない。
そのとき重要になるのが「収める」という考え方だと河合隼雄さんは主張する。

「心の葛藤をどう解決するか、という問題は、
私の心理療法家という職業にとって大切なことである。
そのときに、いろいろと考えたり分析したりして解決法を見いだすだけではなく、
ある種の美的判断によって、心を「収める」道を見いだすことも大切ではないか、
などと、この頃は考えている」(P40)


人間は無力だからどうしようもなくこの世では解決できないこともあるが、
しかしそれでも、全体のなかでうまく「収める」ことができるのではないか。
このとき大切なのは美的判断だという。
解決できない問題でも、全体のなかで美しい「収まり」を見せることがある。
心理療法家・河合隼雄が処方する人間の希望である。

さらに人間は無力だからどうしようもないと絶望してばかりではいけない。
人間の無力はまた希望にも通じているのではないか。
河合隼雄さんは、産婦人科で働く臨床心理士の症例報告に感動したという。
出産はままならない。深い心の傷を負った母親に臨床心理士は寄り添うという。
臨床心理士は「すぐに慰めない」。「慰めると終わってしまう」からである。
心をこめてじっと聴き、その悲しみや苦しみを受けとめている。
するといろいろな痛ましい心の葛藤を経て、親が親になっていく。
親の責任に目覚め、立ち直っていく。
この話に河合隼雄さんは深く感動し、そしてこう指摘するのである。

「この話から学ぶことは多い。私が一番感銘を受けたのは、
「無力」ということが媒介になって、心と心が触れ合うところである。
「無力」の自覚が大切なのだ」(P145)


無力であることの自覚から、人と人が通じ合うこともあるのである。
人間は無力だが、無力だからこそふたりの人のあいだに特別な感情が流れる。
心と心の橋渡しを無力がしてくれるのである。
この橋をよりどころにして、人間は立ち直っていくことができる。

この世では解決できないことも、あの世を考えてみると、ときに「収まり」がつく。
河合隼雄さんは、デカセギという言葉に注目する。
デカセギという日本語がブラジルではそのままポルトガル語の外来語になっているという。
多くのブラジル人が日本にデカセギにくるためである。
このことを知った河合さんは、ある「おはなし」を思いつくのである。

「これを読んでいて、ふと思ったのは、
すべての人は実は「デカセギ」に来ているのではないか、ということである。
「あちらの世界」から「こちらの世界」にデカセギに来ているのだ。
滞在期間はさまざま。しかし、こちらに居つくことはできなくて、
必ず「帰国」しなくてはならないのが、このデカセギの特徴である。
ところで、その間に人間は何をどのくらい稼いで、貯めて帰るのか。
財産、地位、名誉などは、こちらで価値をもつとしても、
あちらに持ち帰るのは不可能だろう。
たとい持ち帰ったとしても、あちらでは無価値ではないだろうか」(P67)


おそらく、あちらは永遠というほどの長い時間が流れている。
こちらの世界にデカセギで滞在するのはせいぜい長くても100年である。
そうであるならば、このデカセギの期間にいったいなにを稼いだらいいのか。
もしかしたら金を稼ぐよりも、
功徳のようなものを積んでおいたほうがあちらではいいのかもしれない。
日本にデカセギにくるブラジル人は、本国での職業はいろいろだという。
日本では肉体労働をしているがブラジルでは弁護士というものもいるそうだ。
ここから河合さんは連想する。
我われの同僚や部下のなかにも、あちらの世界では王様というものがいるのではないか。
もしそうなら、こちらであまりいじめると、あちらでまずいことになってしまう。
あちらの世界を考えると、こちらの世界での振る舞いが変わってしまうのである。
こちらの世界では解決できないことも、あちらの世界を前提にして考えると、
ある程度は「収める」こともできるのかもしれない。

こちらの世界でどうしたらあちらの世界をうかがい知ることができるのか。
たとえば、夢や無意識はどうやらあちらの世界に通じているようである。
なぜなら、我われは夜見る夢のなかでなら死者と再会することができる。
この夢には無意識が大きく関係していると考えるのがユング派である。
このため良質の文学作品を読むことの意味を河合隼雄さんは強調する。
以下は著名な心理学者の表明した文学観と見てもよいのだろう。

「文学作品というものは、作者が登場人物の性格や話の道筋を
大体きめて書きはじめると、作中人物が作者の意図と異なって勝手に動きはじめ、
それをどうするかと作者が苦労しつつできあがってくるものだ。
そこには作者と登場人物の格闘がある。このような作品に接すると、
読者も自分の意識を超える存在に触れる実感がして、
時には汗が流れたり、体がふるえたりするほどになる。
桑原武夫先生が、読みながら身体が反応するほどでなかったら、
それはよい本ではない、と言われたことがある」(P101)


名作といわれる文学作品は、無意識つまりあちらの世界に通じているのだろう。
このため我われはある小説に身体もふるえんばかりに感動することによって、
こちらの世界の解決不能の問題をうまく「収める」ことができるようになる。