酔っ払ったいきおいで暴論をおっさんが語っちゃうよ。
これはほんとうは直前の記事「蓮如上人御一代聞書」に書いたことだけれど、
どうせだれも読んでいないっしょ? それで、いいのいいの。
おれだってあんな長文は最後まで読まないから。

新興宗教っておもしろいよね。こちら特定の団体には所属していないけれど。
いわく、蓮如に還れ、親鸞に還れ、法然に還れ、(中略)仏陀に還れ。
でもさ、それおかしいよ。
どうして蓮如、親鸞、法然、(中略)仏陀は正しいの?
しょせん正しいなんていうのは幻想で、
人は多数派が肯定しているものを正しいと錯覚するものなんじゃないかと思う。

ぶっちゃけ、仏陀が正しいなんていうのは嘘だからね。
アフリカの奥地にでも行って原住民に仏陀の話をしてごらんなさい。
だれもまともに聞いてくれないから。

多数派の意見を人は正しいとみなす。

大工の息子のイエスなんかも、だいぶ人民をだまくらかしたようだ。
だから、戦争が絶えないのだとも言いうる。
絶対的に正しいことなんて、ほんとうはひとつもありえないのかもしれない。
もしこのことをイエスや仏陀が言っていたら楽だったのだけど、わたしの言葉じゃね。
貧乏だからほとんど口にしたことはない牛の焼肉はインドではアウト。
なぜならインドでは多くの人が牛を聖なるものと信じているから。
鯨を食うなって勝手に怒っている野蛮な自称先進国もあるわけで。

よって、真実を追い求めるほどの愚行はない。
金を儲けたかったら、どうしたら多数派になれるかを考えるに限る。
百回だって千回だって言いたいが、正しいことなどこの世にひとつとしてないのである。
もっとも無名のわたしがなにを言おうが、だれも耳を傾けてくれないでしょうが。
イエスが偉いのは、没後に多数の人を味方につけたからである。
仏陀しかり、親鸞しかり。
ほんとうは絶対的に正しいことなど、なにひとつないのかもしれない。
だれか権力を持つ人(=支持者が多い=多数派)が、
この愚考に目をとめてくださるといいのですが……。
「蓮如上人御一代聞書」(稲葉昌丸:校訂/岩波文庫)品切れ

→蓮如(れんにょ)という室町時代の坊さんはかなりすごい人なのではないか。
そうとうがんばった人のようである。
もし蓮如が現われなければ、親鸞も法然も歴史の教科書に載らなかったかもしれない。
蓮如がうまく持ち上げたおかげで親鸞ひいては法然の株が上昇しているようなところがある。
法然や親鸞は宗教的天才だったかもしれないが、ぜんぜん人を救っていないのである。
せいぜい来るもの拒まずくらいの精神しか持っていなかったと思われる。
ところが、蓮如は率先して大勢の人を勧誘したのである。
たくさんの人を救った。言い換えたら、あまたの人を上手にだました。
おそらく、日本最初のカルト教団は蓮如の浄土真宗ではないかと思われる。
浄土真宗の開祖は親鸞になっているが、あれは蓮如のでっち上げだろう。
当時のカルト教団・浄土真宗を始めた蓮如は巧みに親鸞を権威づけに利用した。
もちろん、蓮如は親鸞の天才をだれよりも知っていたのである。
しかし、親鸞の教えそのままでは万民救済がかなわぬことも彼は同時に知っていた。
親鸞の教えは親鸞ひとりを救うためのものだった。
学才豊かな蓮如も親鸞の教えに救われた。
だが、このままでは無学なものを救うことはできないのではないか。
「歎異抄」を繰り返し読んだ蓮如の結論である。
「歎異抄」をだれよりも読み込んだ蓮如は、この書を一般には閲覧禁止にした。
このとき蓮如の教えが誕生したのだと思われる。

蓮如は室町時代の池田大作と言ってもよいのだろう。
とにかく勢力拡大がうまいのである。人心を掌握するのが巧みである。
人を引きつけてやまないカリスマ性を持つ。
たぶん、とても人間くさい傑物であったのだろう。
ただの聖人君子ではなく、ほとんど万能とも言うべき金の力を知っていた。
自身が聖俗の王者になろうという野望を持ち、実際に念願をかなえたのが蓮如である。
これから日本初のカルト教団教祖、蓮如の宗教作法を見ていきたい。
「蓮如上人御一代聞書」は弟子がまとめた蓮如の言行録である。

まず蓮如はなにをしたか。だれが偉いのかをはっきりとさせる。
おそらく、親鸞には教団設立の意思はなかったものと思われる。
だが、本願寺8代目の蓮如は親鸞を持ち上げることで自身もまた偉いのだと宣言する。
親鸞が偉いのだから子孫の自分も絶対的に偉いのだという理屈である。
そのうえで教義を整理する。この教団ではなにがもっとも偉いのか。
蓮如は(阿弥陀仏の)木像よりも絵像よりも名号が偉いとする。
「名号>絵像>木像」である。名号とは、南無阿弥陀仏のこと。
繰り返すが、蓮如教団では名号をご本尊とする。
さらに蓮如自身が名号を書き、各地の信者にこれがご本尊だと送ったという。
自分ほど名号を書いたものはいまいという述懐が本書に採録されている。
この権威ピラミッドは実にうまく考えられている。
名号がもっともたいせつだとしたうえで、その名号を自分が書くのだから。
「蓮如>名号>絵像>木像」となるのがわかろう。
蓮如自身の偉さは親鸞に保証させるから、正確には「親鸞>蓮如>名号>絵像>木像」だ。
このうえで蓮如は親鸞の教えをまことわかりやすく説く。
教えとは――念仏すれば死後に極楽浄土に往生できる。これだけである。

「仏法には、よろづかなしきにも、かなはぬにつけても、何事につけても、
後生のたすかるべきことを思へば、よろこび多きは仏恩なり、と云云」(P163)


これは現世なんてどうだっていいじゃないかというカルト的思想である。
世の中は悲しいことであふれている。なにごともうまくいくことはめったにない。
しかし、である。死んだら極楽浄土に往生できるのである。
浄土にはむろん悲哀も苦労もない。
ならば、どうして喜ばない? 死んだら浄土に行けるのだから喜べ!
現世なんてどうだっていいのだ。後生(死後)に助かるのだからなぜ喜ばない?
この教えは、当時の下層民をたいそう喜ばせたことと思う。
この時代は遊園地もファミレスも映画館もないのである。
たぶん貧農レベルになると、生きていることは苦ばかりだったのではないか。
楽しみなど貧しい食事と子作りくらいしかなかったはずである。
医学なんてあってないようなものだから平均寿命も短く人がぽんぽん死んでいく。
ここに死んだら浄土に往生できるという教えがもたらされる。
どうしたら往生できるのか。蓮如は念仏すればいいと説く。
言うなれば、蓮如は死の押し売りをやったわけである。
死後の世界を売り物にしたのが蓮如という男だ。
いわく、死後に往生できるのだから喜んで念仏せよ。

「仰せに、弥陀をたのみて御たすけを決定して、
御たすけのありがたさたふとさよと、よろこぶこゝろあれば、
そのうれしさに念仏申すばかりなり。
すなはちこれ仏恩報謝なり」(P48)


念仏の意味は「阿弥陀仏様ありがとうございます」だと蓮如は言うのである。
よくさ、くっだらないチープな自己啓発本とかで「ありがとう」を言おう、
とかあるじゃん。感謝の気持を忘れないようにしよう、とか。
チープではあるけれども、あれはある面での真理を突いているのだと思う。
だって毎日、ありがとう、ありがとうと感謝していたら、嘆かないで済むから。
なにが不幸かといったら、どうして自分は苦しむのだろうと悲嘆するせいなのだから。
だから、蓮如の言うように、感謝の念仏をしていたら実際問題として救われる。
なぜありがとうかといえば、死後に救ってくれるからである。
現世で苦しい思いをしていたら、みなさんも念仏したくなってきませんか?

「仰せに、自力の念仏といふは、念仏おほく申して、
弥陀にまゐらせて、つみをけしうしなはんとの心也。
御一流には、弥陀をたのみまゐらせて、弥陀にたすけられまゐらせてのち、
御たすけのありがたさありがたさよとおもひまゐらするこゝろを、
口にいだして南無阿弥陀仏と申しまゐらする也。
たゞわれをたすけたまへるすがた、すなはち南無阿弥陀仏なりとこゝろえて、
よろこびまゐらするばかりなり、とかへすがへす仰せ候ひき」(P49)


親鸞の難解な他力思想を蓮如は平易に解説していると思う。
問題なのは念仏の回数ではない、ということだ。
自力でたくさん念仏を唱えて罪を消すから往生できるというわけではない。
念仏をしたら後生は確定しているから、感謝の念仏をしなさいよと蓮如は言う。
これは阿弥陀仏にさせてもらっている(自力ならぬ)他力の念仏になる。
それにしても他力という概念を持ち出してきた親鸞、蓮如はさすがである。
身もふたもないことを言えば、人間は無力なのである。
往生どころか現実生活の些事でさえままならないのが我われ人間である。
とくに室町時代の下層民はいまよりもはるかに無力の自覚が強かったと思う。
この無力を他力と言い換えたのが親鸞、蓮如の功績である。
「人間は無力だ」という絶望を「人間は他力で救われる」という希望に変えた。
蓮如は言う。

「わが方より仏にならうと思ふは、凡夫の計ひあてがひにてはなきか、
たゞ仏におなしやらうずる事のたふとや、とよろこべ、と仰せられ候」(P175)


仏になるのではなく、仏にしてくださるのである。
言い換えたら、人間は死ぬのではなく、死なせてくださる、となるのだろう。
これが他力の思想である。
人間は自身の無力を強く思うことによって、他力を意識するようになるのだろう。

以下、引き続き蓮如による親鸞思想の解説を見ていく。
蓮如はとにかく信者のもてなしがうまかったのである。
本書には酒のふるまい方まで書かれている。
寒い時期に信者が訪ねてきたら熱燗を出せ、暑い時期なら冷酒だ。
不飲酒戒(酒を飲むなかれ)はどこに行ったのだろう、などと疑問に思ってはならない。
南無阿弥陀仏は現世否定の思想なのだから。
つまり現世のことなど、どうだっていいのである。
極論になるが念仏さえ唱えるならば、なんだっていいのである。
この点、親鸞の危険な善悪観を蓮如も正しく継承している。

「よき事をしたるがわろきことあり、わろき事をしたるがよきことあり。
よき事をしても、われは法義についてよき事をしたると思ひ、
我れといふことあれば、わろきなり。
あしき事をしても、心中をひるがへし、本願に帰すれば、
わろき事をしたるがよき道理になる由、仰せられ候。
しかれば蓮如上人は、まゐらせ心がわろき、と仰せられ候」(P124)


自力でよいことをたくさんしようなどと思ってはならない。
たとえ大酒を飲んでも南無阿弥陀仏と唱えればぜんぜんOK!
妻帯、飲酒、肉食のみならず窃盗、殺人まで許しそうな念仏の包容力である。
いまの浄土真宗の僧侶が堕落しきっている原点はこの教えにあるのだろう。
しかし、生きるためには悪いこともしなければならぬ庶民は救われたはずだ。
念仏は太陽のようにあったかい。

「蓮如上人仰せられ候、弥陀の光明は、たとへばぬれたる物をほすに、
上よりひ(干)て下までひるごとくなることなり、これは日の力なり。
決定の心おこるは、これ即ち他力の御所作なり。
罪障はことごとく弥陀の御けしあることなる由、仰せられ候、と云云」(P132)


阿弥陀仏の光明は、太陽がぬれた洗濯物をすっかり乾かしてくれるような作用を持つ。
阿弥陀仏=太陽のイメージはほかでも使われている。
以下の己今当(いこんとう)とは、過去・現在・未来という意味。
阿弥陀仏の光明は――。

「陽気陰気とてあり。
されば、陽気をうる花は早く開くなり、陰気とて日かげの花はおそくさくなり。
かやうに宿善も遅速あり。されば己今当の往生あり。
弥陀の光明にあひて、早くひらくる人もあり、遅くひらくる人もあり。
兎に角に、信不信ともに仏法を心にいれて聴聞申すべきなり、と云云」(P166)


さらに弥陀の光明は、ありがたくも摂取不捨である。
ひとたびお救いくださったら、決して捨てられるようなことはない。
この摂取不捨を蓮如は次のように説明している。うまい比喩だと思う。

「ある人 摂取不捨のことわりを知りたきと、雲居寺の阿弥陀に祈誓ありければ、
夢想に、阿弥陀の今の人の袖をとらへたまふに、にげげれどもしかととらへて、
はなしたまはず。摂取といふは、にぐる者をとらへておきたまふやうなることと、
こゝにて思ひ付きけり。これを引き言(ごと)に仰せ候ひき」(P131)


阿弥陀仏は、どこまでも我われを相手にしてくれるのである。
さて、いままで蓮如の巧みな弁舌を見てきたが、次のものは絶唱である。
ここだけは親鸞よりもレベルが上ではないかと思うくらいである。
日本全土に広まった浄土真宗の故郷は蓮如のこの発言にあるのではないか。
「総別」とは「みなみな」くらいの意味。みなみな他人には――。

「総別人にはおとるまじきと思ふ心あり、この心にて世間には物も仕習ふなり。
仏法には無我にて候うへはひとにまけて信をとるべきなり、
理をまけて情ををるこそ仏の御慈悲なり、と仰せられ候」(P115)


「ひとにまけて信をとるべきなり」

信仰とは、勝ちではなく負けることだ。
世間では人に負けてはならないことになっているが、仏法では負けてもよろしい。
仏の御慈悲によって、理屈を言うことなく辛抱しよう。
この教えは浄土真宗の要のようなものだと思う。飛躍すれば、日本人の心の故郷だ。
浄土真宗が布教の対象にしたのは(勝っている)貴族や武士、商人ではなく、
言うなれば負けたところの下層民である。
浄土真宗が下層民のなにに訴えるかといったら論理ではなく感情である。
本書にしきりに登場する描写に「みなみな涙を流し」というものがある。
蓮如がなにか教えを言うと、その場にいたものがみな落涙するのである。
ひとりで泣くのではなく、みんなで泣くのが浄土真宗なのだ。
みんなで肩を寄せ合って泣くのが南無阿弥陀仏だ。
とんでもない飛躍をすると、これは現代の庶民文化たるテレビドラマにも通じている。
たとえば、山田太一ドラマには「ふたりで泣く」シーンが異様なほど多い。
あれは浄土真宗の世界と言ってもいいのではないだろうか。
庶民文化は「負けるが勝ち」「理屈よりも辛抱」を是とする。
カルト教団、原始浄土真宗の絶対権力者、蓮如は庶民の心をよく知っていたとしか思えない。

ここまで高僧、蓮如の仕事を見てきた。
さて、蓮如には実業家としての面もあるのである。
というのも、蓮如は巨大カルト教団の最高権力者にまで登りつめた男なのだから。
集団は大きくなればなるほど、トップがしっかりしていないと崩壊してしまう。
ここからは蓮如の多少なりとも黒々とした一面に目を向けていく。
蓮如は室町時代の池田大作なのである。
現代の話をすると、浄土真宗系のカルト教団に、とても悪名が高い親鸞会というものがある。
会長の高森顕徹は親鸞をダシに使って巨額の蓄財をしたとのことだ。
わたしは高森顕徹という男をなかなかのものだと思う。
蓮如が偉いのなら、高森顕徹もきっと偉いはずである。
なぜなら高森顕徹は蓮如のしたことをそっくり真似ているからである。
親鸞の権威を借りて自分が偉くなり、なおかつ教団を拡大する。
これが蓮如の行なったもうひとつの仕事である。

どうしたら教団を拡大できるか。
どのようにしたら文盲ばかりの無学な下層民にうまく教えを植えつけることができるか。
ここにいたって蓮如は師たる親鸞を裏切るのである。
親鸞の言っていないことも浄土真宗の教えにしてしまう。
ひとつは仏罰である。親鸞は仏罰なんてことはまったく言っていないが、蓮如は――。

「同じく仰せに云く、聖人の御影を申すは、大事のことなり、
昔は御本寺より外は御座なきことなり、
信なくば必ず御罰をかうぶるべきよし、仰せられ候」(P99)


学がない貧農や被差別民をしつけるには脅すのがいちばんなのだろう。
罰が当たるぞ。仏罰がくだるぞ。
いまのカルトが好んでやることを早くから蓮如はやっていたのである。
聖人の親鸞がやらなかったことも、蓮如はやるほかなかった。
好意的に解釈すれば、万民救済のためにはやむなしと判断したのか。
たしかに念仏往生の信仰に入れば、多くの人が今生で慰めを得ることができる。
そのためには不埒(ふらち)なやからをどやしつける必要があった。
甘い顔ばかりはしていられなかった。
親鸞の言っていない仏罰を蓮如が口にしたのはこのためだろう。
もうひとつ、地獄をも蓮如は布教に活用していたようだ。
いまのカルトが好む「地獄に堕ちるぞ」を早々と蓮如がやっているのである。
親鸞はといえば、自分こそ地獄に堕ちるとまで内省を深めた聖人である。
(歎異抄「とても地獄は一定すみかぞかし」)
ところが、蓮如は違うのである。
当時のお祭り「天王子塔会」に参加している大勢の人を見て蓮如はこう言ったという。

「天王子塔会(を)蓮如上人御覧候て、仰せられ候、
あれほどおほき人ども地獄へおつべしと、
不便(ふびん)におぼしめしつる由仰せられ候。
又、その中に、御門徒の人は仏になるべしと仰せられ候。
これまたありがたき仰せにて候」(P103)


浄土真宗に入っていないものは地獄に堕ちるから可哀相だと蓮如は言った。
この嘆きから「念仏しないと地獄に堕ちるぞ」の恫喝までは半歩もないはずである。
しかし、そういうことをやらないと信者は増えないのである。
悲嘆のうちに死んでいくよりは、ありがとうと感謝しながら死ぬほうがいいではないか。
荒くれ者は「地獄に堕ちるぞ」とまで言わなければ耳を貸さなかったのだろう。
どんな弁明も可能だろうが、それでもやはり蓮如はカルトの教祖と言わざるをえない。
さらに蓮如は教団を維持するための方便を用いている。
僧が食えなくては教団は崩壊してしまうので困る。
蓮如は弟子の法敬にこう言った。

「蓮如上人法敬に対して仰せられ候、まきたてといふもの知りたるか、
と仰せられ給処に、法敬申され候、
まきたてと申して、一度(種を)まきて、手をさゝぬものに候、と申され候。
それよ、まきたてがわろきなり、人になほされまじきと思ふ心なり、
心中をば申出して人になほされ候はでは、心得のなほるといふことあるべからず。
まきたては信をとることあるべからず、と仰せられ候」(P99)


もちろん、親鸞はこんなことを言っていない。
ひとたび信心が決定したら往生は確実というのが親鸞の教えである。
これは極めて個人的な信仰方式と言えよう。
しかし、1回の念仏で往生が決定してしまったら、坊さんはメシが食えないではないか。
信仰がひとりで完結してしまったら教団は儲からない。
このため「まきたて」なる概念を作り、これでは往生できないと脅すのである。
何度も教団の座談会に参加して、坊主や他の信者と意見交換しなければならない。
この流れの行き着く先が蓮如独自の教えである聴聞の重視である。
カルトの教祖である蓮如の後継者は、言うまでもなく息子である。
本書には、蓮如の息子、実如の話も採録されている。
このあたりはかなりいかがわしくて笑えるのだが、
なんでも実如の夢に亡父の蓮如が出てきて「仏法は讃嘆談合に極まる」と言ったという。
この夢のお告げを前提として、実如は意見を開陳する。
ただ蓮如の息子に生まれたというだけで最高権力者の座に着いた男の言葉である。

「仏法は一人居てよろこぶ法なり、
一人居てさへたふときに、二人よりあはゞいかほどありがたかるべき。
仏法をばたゞよりあひよりあひ讃嘆申すべき由、仰せられ候ひき」(P129)


屁理屈と言ってしまえばそれで終わりだが、なかなか巧妙な論理展開だと感心もする。
親鸞の教えでは疑いもなく「仏法は一人居てよろこぶ法なり」が正しい。
蓮如教団は親鸞の教えを否定せずにまずは受けてから、
「一人居てさへたふときに、二人よりあはゞいかほどありがたかるべき」とやる。
それを蓮如にではなく息子の実如に言わせるところもなんとも心憎いではないか。
やるなあ、おぬし、と思わず言わざるをえぬ。

最後に蓮如の死に際を本書から引用する。ここはとても美しい。
浄土真宗の舌ざわりのよい甘さがよく見て取れるところである。
死期を察した蓮如は阿弥陀堂へ参ったのち、
上段に登り大勢の信者に向かってこう語りかける。

「……極楽へ参る御いとまごひにて候、必ず極楽にて御目にかゝり申すべく候、
とたからかに御申しの事にて、諸万人なみだをながしけり」(P71)


極楽で再会しよう!

これが人を引きつけてやまなかった蓮如という男の味である。
極楽での愛する死者との再会ほど、
苦界を生きる我われの胸に甘く響く教えはないのではあるまいか。
愛する亡者との再会を思うとき、涙を流さぬものはいないだろう。
この涙が蓮如の教えである。この涙が蓮如の信仰だ。
この涙が蓮如の南無阿弥陀仏であった。

*このまとまりのない長文を最後までお読みくださった方はいないと思う。
もしおひとりでもいらしたらほんとうにありがとうございます。心より御礼申し上げます。

*宗教問答や論争は嫌いです。
あなたは絶対正義だとわたしも思いますから、どうか議論を吹っかけてこないでください。
個人的には真実はひとつではないと思っていますが、あなたがそう思う必要はありません。

*小心者なので、仏罰が当たる、地獄に堕ちる等の脅し文句はご勘弁くださいませ。

(参考)「蓮如文集」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2133.html

「人生の流儀」(城山三郎/新潮文庫)

→経済小説の大家(らしい)城山三郎の名言集。
たぶん小説というのは、人をいかにうまくだますかなのだろう。
嘘ばかりついていては読者は信用してくれない。
だから、これを言ってしまっていいのかと思うほどの本音をぶちまける。

「サラリーマンというものは、だるまとおなじなのだ。
手をもがれ、足をもがれて行くうちに、最後に円満になって落ち着く。
辛抱して、だるまさんになるんだ」(P15)

「サラリーマンになることは、
「人間関係についてえり好みができぬこと」を承認し、
そうした人間関係に耐えることを約束することだ、と思う」(P39)


思わずギョッとするような本音である。
読者はもしやこの作家は本当のことしか言わないのではないかと思う。
そう思わせたら、今度は嘘で客をもてなす。
出世できなかったサラリーマンはこれらの言葉にどれほど慰められることか。
いや、最後まで出世できないと決まったわけではない。

「当り前のことだが、人間ひとりひとり皆ちがっている。
だから、ひとりひとりの人生がちがうはずである。
早熟の人もあろうし、晩成の人もあろう。
自分がどういう人間であるかをよく見きわめて、毎日の生活においても、
人生の設計においても、自分の時計に合わせて生きて行くことである」(P64)


後輩に出世競争で敗れたサラリーマンにこの言葉がどれほど甘く響くか。
まだまだこれからであると自分をだませ! あなたは間違っていない!

「時代に合わせて生きるのではなく、わが生き方をしかと選び、
根気よく歩み続ける。そうした骨太な人生に、時代の方から頭を下げて、
歩み寄ってくる、という気がしてくる」(P71)


サラリーマンのみなさん、生きていたらかならずいいことがあります!
平社員のあなただって、立派に幸福なのですよ。

「有名になり、人気者になって、注目を浴びることは、決して幸福ではない。
知る人ぞ知るという形で、ひっそりマイペースで暮らすことこそ、
何よりの幸せ、である」(P92)


出世できずに定年を迎えたサラリーマンに贈る言葉はこれである。
あなたは成功者だ! あなたは偉い!

「人生の成功は、どこに行ったというんじゃなくて、
どういう旅をしたかっていうことですね」(P107)


この名言は重く響く。
人生という旅で、みんなが行っている場所に行っていないことがけっこうあるのである。
しかし、その反面、ほとんどの人が行っていない場所に足を運んでいるけれど。
人生と言う旅を目的地で考えたらみなみなひとり残らず「死」がゴールである。
ならば、人生はみんなおなじなのか?
いや、そうではない。ゴール(死)までの道のりが違う。
場所にこだわってはならないのだろう。どこに行ったかではない。どういう旅をしたか。
どれだけ喜び、悲しんだか。どのくらい感動したか。

「人生の持ち時間は限られている。
その中で、時間を忘れるほどの陶酔をどれほど多く持ったかで、
人生の価値が決まるような気がする」(P58)


「植木鉢の土」(水上勉/小学館)

→文豪・水上勉の最晩年のエッセイである。
いまはほんとうに迫力のある作家が少なくなったと思う。
文豪という呼称は、その人の重みと関係しているのかもしれない。
持って生まれた重みである。重い人生というものがあるのである。

本書で水上勉が一遍と説経節を好きだと書いているので驚いた。
偶然わたしもおなじだからである。
宮本輝の敬慕していた作家が水上勉だから、
これはある意味、必然とも言えるのだろうけれど。

死の近づきをなんとなく意識しているのか、水上勉は神について語る。
それも少しボケているのかと思うほど、矛盾した神の見方である。
ときには神を肯定する。

「思いもよらないところで、自分が蒔(ま)いたという意識もないところで、
種が育っている。
神の摂理もこちらに受ける癖ができると、
神様は従順な人ほど声を小さくして語りかけてくれるらしい。
最近は、よく聞こえるようになった。
最近では、どこからか、「そこだよ」「今が大事だよ」
などといって、背中を押してくれる気がする」(P175)


人と人の関係というのは、限りあるものなのだ。
永遠に続く友情というのは、残念ながらありえない。
どこかでどうしようもなく別離が生じる。
家族との関係も、そうである。生別はなくても死別には逆らえない。
しかし、人間には生まれたときから死ぬまで、つきあっている相手がいるのである。
それが神や仏である。
死をまえにして水上勉は神の姿がよりはっきりと見えるようになったのだろう。
あれだけ神を褒め称えたわずか15ページ後に文豪は神を呪う。
眼底出血と網膜剥離に襲われたときのことを思い出している。

「わたしの目から光を奪おうとした神、それは来(きた)るべき運命というか、
これからの定めを握っている人というか、如来様というか、そういう思いがした。
その神とは、わたしの人生のところどころで、小さいときから現れる神だ。
不運のときに、不幸だと思うときに、現れる神だ。
まだ小さくて京都のお寺に入ったときにも、そういう神は現れた。
しかし、わたしがどんなに頼んでも何も聞いてくれなかった。
それからも、障害の子を持ち、その運命を見てきたせいか、
わたしは神を身近に感じてきた。
だが、神はわたしに何をしてくれるわけではなかった。
定めというものをつくった神のしわざは、冷徹に見れば、冷ややかなものである。
決して温かくないのだ。実に淡々とやってくるだけである」(P190)


しかし、神を友と考えたら、終始沈黙している友はなかなかいいものなのかもしれない。
ただただ話を聞いてほしいのに、よけいな助言や説教をされることがどれほど多いか。
しかし、それは仕方なく、助言や説教をしてくれる友はありがたい。
たとえ黙って話を聞いてくれないとしても、友や家族はとてもありがたい。
とはいえ、友とも家族ともいつかは別れなければならぬ。
ひるがえって神はどうだろう? 一生そばに寄り添ってくれるのである。
そのうえ、どんな長たらしい愚痴も黙って聞いてくれる。
神の沈黙は残酷だが、同時に黙っていつまでも話を聞いてくれる神はありがたい。
友人には断じて言えない激烈な言葉も、神に対してなら言えるのだから。
一読したときは水上勉がボケたと思ったが、これはそうではないのだろう。
ときには親友のように神に感謝する。またべつのときには、おれを裏切ったなと恨む。
どんなことを言っても我われから離れない友が神なのだろう。
文豪・水上勉は最晩年に永遠の同行者たる神と会話をするようになった――。

「なぜ生きるんだ。自分を生きる言葉」(坂口安吾/イースト・プレス)

→坂口安吾の名言集。
おそらく「本の山」にもう百回近く書いていることだが、言葉は肩書なのである。
言葉は内容が問題なのではなく、だれの言ったものかがいちばん肝心になる。
話者しだいで、真実にも虚偽にもなるのが言葉というもの。
ときに人を救ったり、殺したりするのも言葉。
言葉が肩書ならば、もし本当にそうなら、
人は肩書に救われたり殺されたりしているのだろう。
無名のわたしが真実などこの世にありえないと絶叫してもだれも信じてはくれない。
しかし、坂口安吾の言葉だったらどうか。

「ただ、われわれは、めいめいが、めいめいの人生を、せい一ぱいに生きること、
それをもって自らだけの信実を悲しく誇り、いたわらねばならないだけだ」(P10)


真実はひとつではなく、人の数だけあるのである。
人生でどんなことを経験したかによって、真実なるものはまったく変わってしまう。
自分だけの真実をどうしてもだれかに伝えたいと思ったとき、人はものを書くのだろう。

「美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。
どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、
ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。
ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。
そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、
美を生むのだ」(P118)


美とはなにか?

「悲しみ、苦しみは人生の花だ」(P53)

うーん、キザだなあ。
でも酒をのみながら読むと、こういう言葉にうっとりしてしまうのだよ。
言葉は酒とおなじように人を酔わせる。
酒が肉体を酔わせるのに対して、人の精神を酔わせるのが言葉だ。
言葉だけで酔えたらどんなにいいことか(なかなかそうはいかない)!

「健全な精神と、健全な肉体は別なものだ。
そして、酒は肉体的には不健康であるけれども、精神にとって不健康だとはいえない。
すくなくとも、私にとっては、そうだ。
私に酒がたのしく、うまく飲めれば、
私はこの上もなく健康に仕事ができるのである」(P94)


いささか私、私とうるさいが、どのみち人生など私にこだわるしかないのだ。
私を休めるには酒を飲むに限るのだろう。

「失敗を恐れないのが若さの特権である」(吉行淳之介・宮城まり子/海竜社)

→顔がいい文壇の人事課長、吉行淳之介の名言集を読む。
吉行淳之介の2号だか3号だかの宮城まり子女史が編集したものだ。
酒をのみながら読んだのだが、女性嫌悪、女性差別の名言が多く採られている。
どうして女はもてる男が女性批判をすると、
「うふん、この人は真実を言っているわ」などと思うのだろう。
もてない男がおなじことを言ったら総スカンなのに……。
もてる男ならば、ここまでのことを言えるのである。びっくりした。

「女性の愛というものは、相手に自分をささげることによって完成され、
男性の愛は相手から奪うことによって完成される、と私は思っている」(P79)


どこまで恵まれた人生を送ったら、こういう迷言を吐けるのだろう。
しかし、自分は恵まれていると思っている人などこの世にひとりもいないのである。
どんな成功者も自分は不遇だと嘆いている。
病弱の美男子はうっとりと口を開く。

「苦しむということは、やはり人間というものについての考えが深くなったり、
人間味みたいなものが出たりするのじゃないかしら。
完全に健康だという人物は、どっか欠けているところがある」(P175)


どの本を読んでも成功したら女にもてると書いてある。
もてる男になったら女の悪口が言いたい放題なのだ。
わたしは女の悪口を公然と言いたいがために成功したいのかもしれない。
しかし、どうしたら成功できるのだろう。

「人間の才能というものは、その人自身も知らないで眠っている場合がある。
眠ったままで一生が終わる場合もあり、
偶然のキッカケでそれが自覚され、みごとに開花することもある」(P10)


この言葉はいちばん最初の名言である。
たぶん2号だか3号だかの宮城まり子女史は、
自分が淳之介の才能を育てたと思っているのだろう。そして、それは正しい。
わたしも淳之介のような自分勝手な「奪う愛」というのをいつか経験してみたいものだ。
いまのところ来世に期待している。
死ぬまで「いつか眠っている才能が開花する」と自分をだまして生きるつもりである。

「だましだまし生きるのも悪くない」(香山リカ/光文社新書)

→「だましだまし生きる」はわたしのライフワークなので、
タイトルに釣られて読んでみた。
本書は成功者・香山リカ氏の自伝(ライターによる聞き書きだが)。
はっきり言って、毒にも薬にもならない内容ですな。
しかし、著者は幅広い年代の女子に人気があるのでしょう?
男にとって女は永遠に理解できない謎だと改めて思ったしだいである。

たいていの人は、自分は要領が悪いと嘆いているはずである。
傍目(はため)には要領よく生きている人でも、自己意識はそうではない。
しかし、なかには自分の要領のよさに悩んでいる人もいるのである。
それが精神科医で大学教授の香山リカ氏である(P110)。
河合隼雄氏も自分が要領がよすぎることをどこかしら恥じていた。
両氏ともに心を病む人を救うお仕事をなさっている。
要領のやたらいい人が、要領の悪い人を助ける。
あんがい世の中はうまくできているのかもしれない。

香山リカ氏は両親、弟と、とにかく家族が好きらしい。
家族というのは、好きか嫌いかしかないのがおもしろい。
徹底的に憎むか、どこまでも許すかしかないのである。
他人のようにドライに接することができない。
絶縁か依存かしかない。
香山リカ氏は自分が家族依存症であることを悩んでいるようだ。
要領のいいことといい、けっこう贅沢な悩みである。
しかし、それは悩みなのである。贅沢な悩みでも、それは悩みだ。
人間にとって悩みはぜったいに必要なものなのだろう。

「ずぼら人生論」(ひろさちや/三笠書房)

→最近ようやく気づいたのは、考えないのがいちばんいいってこと。
ひろさちや氏が超過密なスケジュールを組んで仕事をしているのは、
考えないためだったのである。
人間というのはろくなことを考えないようにできている。
信じるというのは、考えるのをやめることだ。
どうして新興宗教の信者さんがあんなに幸福そうなのかといったら、
考えていないからである。考えないと人間は楽になれるのだ。
ならば、どうしたら考えないでいられるのか。
ひとつは、仕事、家事と働きつづける手がある。
掃除などいくらしてもキリがないから、実に精神健康にはいいのだろう。
掃除に夢中になったら、よけいな考えごとなどしないでいられる。
なにも信じられない人でも、手さえ動かしていたらいいのだろう。

ひろさちや氏の本はとても役に立つのにどこかチープなのは、
考えるのを途中で放棄しているからではないか。
ほとけさまを信じているため考え(=疑い)が徹底せず、なにやらインチキくさくなる。
なんとかチープな感じを消そうと高僧や経典の言葉に頼るひろ氏はいじらしい。
とはいえ、高僧や経典の言葉に頼るとは、信じることである。
考えをそこ(=権威、高僧、経典)で放棄するから人は救われるのだろう。
考えないことで人は救われる。
「人の言葉にまかすと書いて信じると読む」とは、わたしの好きな一遍上人の言葉である。
これは考えるのをやめようと言っているのだろう。
多忙で思考を停止させたひろさちや氏の名言を引用する。

「禅の言葉に「莫妄想(まくもうぞう)」というものがあります。
「妄想することなかれ」、グダグダ、あれこれ考えるなということです。
しかし、これがなかなかできないんですね。
どうしたら悟れる? どうしたら幸福になれる?
いつもそんなふうに
「どうしたら△△になれる(ができる)?」と考えるわけでしょう。
それで、答えが載っていそうなハウツー本の類いを読みあさったりする。
愚の骨頂としか言いようがありません。まず、なすべきは
「どうしたら△△になれる(ができる)?」という発想をやめることです。
病気の人が「どうしたら健康になれる?」と考え抜いたところで、
病気が治るわけではありません。わたしはいつも言うのですが、
病気は治るまで治らないし、治るときには治るんです。
だったら、病気をあまり気にする必要はありません。
医者の言いつけをよく聞いて、ゆったりと養生すればいいのです。
それなのに、あくせく、あれこれ考えるから、
治らないわが身を恨んだり、嘆いたりすることになるんです」(P75)


これって多くの人が望んでいる成功もおなじかもしれない。
凡人が「どうしたら成功できる?」といくら考え抜いたところで成功できない。
人は成功するまで成功者にはなれないし、成功するときは成功するのだ。
それなのに、あくせく、あれこれ考えるから、人を恨んだり嘆いたりすることになる。
ほかにもいろいろ当てはめて使うことができそう。
もてない男が「どうしたらもてる?」といくら考え抜いてももてない。
もてるまでもてないし、もてるときはもてる。
それなのに、あくせく、あれこれ考えるから、人を恨んだり嘆いたりすることになる。
もてないことよりも、もてないことに悩むほうがしんどいということだ。
だったら、すべてに通じる法則として、掃除をしようでいいのかもしれない。
成功したかったら(悩まないように)掃除をしよう。
成功するときが来たら成功するのだから。
もてたかったら(悩まないように)掃除をしよう。
もてるときが来たらもてるのだから。ひろさちやはすげえぞ、おい!

「くよくよしない!」(日下公人・ひろさちや/WAC BUNKO)

→経済評論家と宗教評論家のまったく噛み合っていない対話である。
海外では日本ほど対談が行なわれていないというのはほんとうだろうか。
場の空気がいちばん偉いらしい日本では、対話が出世のための最短経路となる。
先ごろ、私淑かつ兄事する芥川賞作家の西村賢太氏が初の対話集を出したが、
よしよし、順調に出世コースを走っておるなとニンマリした。
実のところ、日本では対談をすることで
格が上がっていくシステムになっているのではないか。
べつに日下公人氏もひろさちや氏もそれほど偉くはないのである。
しょせんブッダや道元、マルクスやケインズの威を借るなんとか。
しかし、なかには騙されてひろさちや氏が偉いと信じ込んでいる人がいる。
そういう人がこの本を読んだら、日下公人氏もおなじくらいに偉いと錯覚するのである。
ちなみに、このシステムをいちばんうまく使ったのは河合隼雄氏ではないかと思う。

対話したら同格程度になるのである。
ほんとうはどちらも偉くないのだが、あいつが偉いならおれも偉いである。
まさか対談で喧嘩(論争)をするバカはいないから、同格の法則はかならず保たれる。
宮本輝氏もデビュー直後に対談をすることで格を上げている。
池田大作氏は井上靖氏が往復書簡に応じてくれたとき、どれほど嬉しかったか。
論争をしても格は変わらないのである(格上は無視するから)。対話が格を上げる。
ベテラン作家は新人作家と対談をすることで、若い読者層からの信頼を獲得できる。
ポイントなのは、ほんとうはだれも偉くないということである。
結局のところ、偉くなるにはブッダ、キリスト、天皇などの絶対的権威に頼るほかない。
そのうえでみんなで仲良く偉さを分け合うのである。
「あいつは偉くない」なんて言い始めるやつは下手をすると村八分にされる。
なぜなら、みんな偉くないことがばれてしまうからである。
本書の対話で両氏はまったく正反対の主張をしているところが何箇所もある。
しかし、論争にはならない。論争したら、どちらかが偉くなくなってしまう。
それはぜったいに困るのである。

癒し効果の高いひろさちや先生の言葉を引いておこう。

「結局、人間の無力さに気づくことが、宗教の始まりだということです。
私たちは、何でもできる、とつい思いがちになりますが、じつはそうではなく、
大部分のものは私たちの思いどおりにならないと思うことが、
宗教の始まりなのです」(P59)

「子供を一日中授業で縛るのは、残虐行為です。
人間の可能性はすべて平等で、
仕込めばみんな秀才になるなどというのはまったくの嘘です」(P157)

「日本では、創価学会などが宗教法人になっているのがおかしい。
もとは小学校の校長をしていた牧口常三郎がつくった創価教育学会です。
たまたま彼は日蓮宗の信者でしたから、自分の教育運動と結びつけて、
日蓮正宗の講をつくった。宗教を支える信者組織のようなものです。
あくまでも親睦団体です。普及団体ではありませんから、
基本的には政治活動をやってもかまわないのですが、
宗教の仮面を被るのはもってのほかです」(P208)


これでは不平等だからおまけに日下公人先生の言葉も引用しておこう。
ひろ先生の言葉が正しいと思う人の目には日下先生の言葉も正しく映るはずである。
逆もまた真なり。

「教団ができて最初の頃の集まりは純粋だが、
教祖が死ぬと二代目、三代目はそれを商売にしてしまう。
教団を維持するための教団になってしまいます。
さらに、それをまとめる番頭役が集まってきて、
俗物のためのイベントをするようになると、精神は俗化するが、
それでもそれが成功すれば、
寄付と信者が集まって社会勢力になるというプロセスです。
儲けるというのは大事なテーマです。最初から儲けるつもりではないが、
いいことをいっているとまわりに信者が集まる。
そして、毎月一回集まることになると教団ができるわけです」(P195)


とすると、清く正しい教祖が死なないと商売はできないのかもしれない。
生きながら教祖商売をやって儲けている評論家のひろ先生、日下先生は立派である。

「仏教が教える人生を楽しむ話」(ひろさちや/青春出版社)

→ひろさちやとはなにか? わたしは偽薬だと思う。ひろさちやは偽薬である。
一瞬、効いたような錯覚があるけれども、すぐに元に戻ってしまう。
だから、ごまかしの偽薬なのだが、どうして偽薬でいけないのだろう。
偽薬でも一生のみつづけたらいいではないか。
自分を死ぬまでごまかすという生き方もあっていいはずである。
きっと真実なんて身もふたもないものなのだろうから。
ひろさちや氏は自分をごまかしつづけているのである。
ほんとうは高級料亭が好きでたまらないのに、
本書の冒頭でまたまたお金がなくてもおいしいものは食べられるとうそぶいている。
金のためにあくせく働くなと主張するひろさちや氏は、
1億7千万も自宅に貯め込む守銭奴である(そしてまぬけにも盗まれる!)。

こういう生き方もあっていいのである。いいかげんに生きてもよろしい。
その場その場でいいかげんな言い逃れをしながら死ぬまで生きたらいいのである。
「なぜ生きるのか?」という深刻な問いは、「生まれてきたついでに生きる」と交わす。
出世できなかったら、もし出世していたら不幸になっていたと思い込む。
災難に遭ったら、かえってよかったと現実逃避する。
なにがいいことか悪いことか10年後、20年後になってみないとわからないと逃げる。
なるべくまじめに考えないようにすればいいのだ。
過去は変えられないのだから反省しない。
未来はどうにもならないのだから思い悩まない。

逃げるというのが、ひろさちや流の生き方である。
問題にぶつかるな。問題から逃げろ。追いつかれても、また逃げたらいいではないか。
過去から逃げろ。未来から逃げろ。すたこらさっさ逃げてしまえ。
みなさんも死ぬくらいだったら、逃げて!
べつにひろさちやに逃げなくてもいい。
まじないでもスピリチュアルでも心療内科でも精神科でも新興宗教でもいい。
逃げる。逃げてもいい。いざとなったら負けてもいいから逃げよう。
現実なんて見るな。現実から逃げろ。全力疾走で逃げよう。
敵を作って闘うよりも、敵が見えなくなるところまで逃げるという生き方がある。

「猿は木から上手に落ちる」(ひろさちや/双葉文庫)

→ひろさちや氏は宗教ライターではあるが、宗教家ではないのである。
この文庫本でも、思わず唖然とするほど人間くさいエピソードを記している。
ある出版社の社長から接待に誘われたという。
ひろ氏はその出版社から3冊書籍を出していた。
ところが、接待先が池袋にある大衆チェーン店だったことで腹を立てるのである。
学生も来るような安居酒屋に自分を呼ぶなんてとんでもない。
こんなところなら自分の金で来ることができるじゃないか。
接待するなら高級料亭に決まっているだろう?
自分は超過密スケジュールのなか時間を割いたのに、この待遇はふざけている。
以降、そこの出版社からの仕事はすべて断ったという(P154「親しき仲こそ礼儀あり」)。

ひろさちやさんはこういう怒りっぽい人なのである。
わたしだったら安居酒屋でご馳走してもらうだけでもたいへん嬉しいが、
多忙なひろさちや氏くらいになると高級料亭でなければダメなようだ。
もしかしたら、その社長さんはひろさんと友人関係になりたかったのではないか。
だから、会社の接待費ではなく、自分のポケットマネーで招待した。
著書から判断して「色即是空」を理解したこだわりのない人だと思っていた。
こういう考えで池袋の大衆居酒屋に誘ったら、ひろ氏から絶交されてしまう!
人間関係はほんと難しいよな。
まあ、本の内容から著者を推測してもたいがいは外れるということか。
本と書き手は違う。書いた文章と書いた人間は異なる。

しかし、こういうことを著書に書いてしまうひろ先生は脇が甘すぎやしないだろうか?
よほど怒り心頭だったということか。
おそらく、ひろ氏もわたしとおなじでとても恨み深い人なのだろう。
ちなみにこの文章を書いたときひろ氏は64歳である。
およそ聖人君子とは程遠い俗臭ぷんぷんたるひろさちや翁は、だから信頼に値する。
関係ないが、高級店が好きというのは、
ひろ氏が最近ネタをぱくっている遠藤周作とおなじだ。
「こだわりをなくそう」と著書では言いながら高級店にこだわりまくりのひろ先生!
「ゆったり過ごそう」と著書では言いながら時間の無駄を毛嫌いするひろ先生!
「いいかげんに生きよう」と著書では言いながら他人のいいかげんは許さないひろ先生!
わたしはひろさちやのファンであることを誇りに思う。

本書でもひろ先生はいいことを言っているのである。
怒りっぽい人にもかかわらず、ではなく、だからこそいろいろなことに気づくのだろう。
ひろさんは人生の万能薬があるという。それはなにか? 「日にち薬」である。
「日にち薬」というネーミングのセンスは抜群である。
ひろ氏はお母様からこの万能薬の名前を教わったという。
悲しみを治すのは「日にち薬」しかない。怒りも「日にち薬」にまかせたらいい。

「人間関係がこじれてしまって、それであなたが悩んでいるときだって、
無理にその解決をあせる必要はありません。
特別に何かしようとせず、ただ自然に成り行きにまかせておけばよいのです。
それが「日にち薬」なんですね。
その意味で、「日にち薬」は万能薬です。いろんなものに効き目を発揮します。
ほとんどあらゆる問題が、「日にち薬」で解決可能だと思います」(P43)


カウンセリングは「日にち薬」を処方しているようなものなのだろう。
ひろ氏は「日にち薬」にも欠点があるという。
それは一度に大量服用できないことである。10年分を1日で服用できない。
しかし、「日にち薬」ならぬ一般薬も大量服用したらよくなるというものではないから、
これは欠点なのかどうか。
考えてみたら、医者の処方する薬にそれほど意味はなく、
あれも「日にち薬」を処方していると言えなくもない。

さて、「日にち薬」はひろ先生に効いたのだろうか。
例の出版社の社長と果たしてその後、和解したのか。
社長さんとしたら、わけがわからない経験だったと思う。
著書の内容を信じて大衆居酒屋に招待したら、いきなり無視されるようになったのだから。
社長さんの傷は「日にち薬」で治ったはずである。
「ああ、ひろさんって、そういう人なのね」と――。
まあ、「人間なんてそんなもの」「人生なんてこんなもの」である。
この呪文もかなりの万能薬なのではないかと思っている。
なにかあってもこの呪文を唱えたら、あきらめがつく。
「人間なんてそんなもの」で「人生なんてこんなもの」なのだから仕方がない。

「健全な肉体に狂気は宿る」(春日武彦・内田樹/角川oneテーマ21)

→精神科医の春日武彦と内田樹(この人なんなの?)の対談集。
おそらくこちらの知力が低いからだろうけれど、
内田樹という人が誇大妄想かなにかを患っている精神病者に見えてしまった。
対談相手が精神科医の春日武彦だから、よけいにそう見えたのかもしれない。
とにかく、内田樹はひとりでしゃべっているのである。
それもカタカナや(笑)がやたら多い。多弁で多笑かつ尊大な態度。
久しぶりに重度の自我肥大を起こした人を見たという気まずさにたじろいだ。
これが純粋な対談なら精神科医と患者にしか見えないはずである。
ところが、内田樹のおつきの女性編集者がときおり対談に口を挟むのである。
それも内田樹をものすごく偉い先生として持ち上げる形で対談に加わる。
このため二対一になり、内田樹の偉さが証明されることになる。
考えてみたら、診療室に自分を師と慕う子分と一緒にふたりで入ったら、
精神科医はかなり診断に戸惑うのではないか。
どうせ皮肉屋の春日武彦のことだから、
対談後には内田樹の病気についていろいろ不穏なことを考えたのだろう。
もちろん、常識人だから公言はしないだろうけれど。

内田樹という人が「願えばかならずかなう」式のオカルトを口にするので苦笑した。
まあ、大衆はこの手の発言を好むから、上手にアカデミズムの権威と接続したこともあり、
内田樹のような人がまんまと子分をたくさん従える偉い人になることに成功したのだろう。
いや、待てよ、ほんとうはわたしが知らぬだけで内田樹はとても偉い先生なのかもしれない。
多数派につくことが精神科の厄介にならない秘訣だと春日武彦も本書で発言している。
前言を撤回する。精神病になりたくなかったら、多数派に従うに限るのだから。
いまこのときからわたしもみなとおなじように内田樹を先生と尊敬することにする。
だから、わたしを狂人あつかいするのはどうかやめてください。
そう思えば、内田樹先生もなかなかおもしろいことを言っているのである。
といっても、へえ、と思ったのはここだけだが、
これはわたしの知能が極めて低いためで、実際は名言がほかにもたくさんあるのだろう。
内田樹先生とファンのみなさん、ごめんなさい。
バカだから内田樹先生のよさがあまりわからないのです。

「でも、過去って取り返しがつくものでしょ。
だって、新しい経験をしただけで、
過去の意味なんて一気に全部変わっちゃうんだから。
すべての行為は文脈依存的ですからね、
新しい行為によって、経験の文脈が変われば経験の解釈も自ずと変わってくる。
あとになって、すでに経験したことの意味が
「ああ、あれはこういうことだったのか」
と解釈が一変することなんてしょっちゅうじゃないですか。
過去は可変的であり、未来は未知である。
だから、過去についても、未来についても、確定的なことは何も言えないというのが
時間の中を生きる人間の健全な姿でしょう」(P63)


さすが人気学者の内田樹先生はいいことをおっしゃる。
でも、「過去は可変的」って要するに「私の物語は変えられる」ということだよね。
だったら、そんなもんは創価学会の宿命転換とおなじとなるわけで、
もしそうだとしたら、内田樹先生の学問的発言はかなりその怪しげな……。
いや、内田樹先生は偉いのである。
だから、春日武彦も内田樹先生の独演会をほとんど無言で傾聴している。
本書でほとんどしゃべる機会を与えられなかった春日武彦先生だが、
精神科医として興味深い発言をしている。
まるでユング学者の河合隼雄のようなことを精神科医の春日先生も言っているのである。
患者の病気が周囲と複層的に絡み合い解決不能になっているときは「待つ」に限るという。
以下は春日武彦先生のご発言。

「こっちで迷ったり、あっちで見落としがないか調べたり、
なんだか孤軍奮闘でぐじゅぐじゅやってるんだけど、そういうのはたいてい駄目で、
複数の人間とディスカッションして、もう現時点では打つ手はない、
どう考えても無理だ、というところまでいくと、
あるとき思いもよらないことが起こって、うまく解決してしまうということがある」(P60)


割愛するが、ここで具体例を公開してしまうのが春日武彦である。
クライアントの秘密は守る河合隼雄とは異なる。
精神科医に守秘義務のようなものはないのだろうか?

「そういう時は、とにかくどこかでコンタクトを保ちながら、
もう「待つ」しかないわけですよ。その「待つ」っていうのが、
つまりは「人事を尽くして天命を待つ」ということで、
こういう状態までもっていければ、
実は案外早く、意外なことが起こってくれたりするんです。(中略)
だから、どうにもならないと思えた問題がどういうふうに解決したのかを見てみると、
けっこうみんなうまい話になっている(笑)。
いいタイミングで交通事故が起こったりしてね。
じゃあ、みんな車道に押し出しちゃえばいいのかっていうと、
そういうことではなくて、とにかく待つところまで待っていれば、
どこかでなんとかなるよ、ということなんです。
だって、いずれは誰かが死ぬわけですから、
最悪でも延々と同じ状態ということだけはあり得ない。
だから、あとから振り返れば、
あそこで死んだことでうまく解決しちゃったなあという話になるわけ。
要するに、「待つ」ということはすごく必要なことなんですね。
もちろん根拠もなく「待て」と言ったって不安でとても無理ですよ。
だからこそ、「人事を尽くして」という部分が大事なのであって、
そのためには複数の人間と協力してやっていくわけですが、これに近いことは、
精神科の治療だけではなく、普遍的にあてはまることなんじゃないかと思います。
腹をくくって待つ、というのは不安なものですよ。
腹をくくったって、どうにかなるという保証はないんだから。
でも、半分居直りみたいな感じで、「やれるだけのことは全部やったんだ。
だからあとはなんとかなると思うしかないんだ」
と言えるかどうかが問題なんですね」(P60)


さすが春日武彦先生はいいことをおっしゃる。内田樹先生もすばらしい。
だから、わたしは精神病でも人格障害でもない。
内田樹先生の偉さをこうして認めているわたしがどうして狂人でありえようか。

「しつこさの精神病理」(春日武彦/角川oneテーマ21)

→精神科医の春日武彦の本を読むと、心底からげんなりする。
ほんと人間ってどうしようもないものだなとやりきれなくなる。
本書のテーマは復讐である。仕返し、報復。
穏やかな顔をしていても、みなさんも復讐したい相手のひとりやふたりいるでしょう?
いや、そんなのはわたしだけかもしれないな。
しかし、このブログの読者でわたしに仕返ししたいという人はかならずいると思う。
そうでなければ、匿名掲示板にあれだけわたしの悪口は書かれないはずだから。
2ちゃんねるで自分の誹謗中傷を読むと、いったいだれに恨まれているのか怖くなる。
見知らぬ人から黒々とした感情をぶつけられるとちょっと怯むようなところがある。
とはいえ、なんとなくその人の気持がわからなくもないのだ。
なぜなら、こちらも結構、いや、かなり恨み深い性質だから。
わたしが嫌いで「本の山」を読んでいるあなた! 
お互いおかしな復讐なんてやめましょうね。
いったいどうして人間は仕返しなどという物騒なことを考えるのか。
自身の黒々とした感情をいささか持て余し気味の精神科医はこう分析する。
前提として世界はどうしようもなく不条理で理不尽という事実がある。

「こんなろくでもないことの横溢(おういつ)する世界に生きていれば、
被害者意識に駆られがちになっても不思議ではない。
わたしの観察するところによれば、ヒトの心はそもそも容易に
被害者モードに切り替わるように出来上がっている。
謙虚に反省したり自分を責める前に、まずは他人を恨み不運を嘆く」(P27)


世の中いかに不条理な災厄にあふれているか。
いきなり理不尽な不運に見舞われるのが人生である。納得がいかない。
どうしてこうなったのかわからない。腹立たしくなる。

「精神科医としての臨床経験から述べると、
自縄自縛で自分を不幸にしていくタイプの人がいる。
彼らには「自分は間違っていない」という信念がある。
論理的で理屈っぽく、何事も収支決算の帳尻が合うことに固執する。
被害的で自分は損ばかりしているといった感情のもとに思考を進めがちで、
また自尊心が高い。
そうした「自分は間違っていない」モードへ常に気持ちを設定しているので、
すぐに「許せない」と苛立つ。あんなことをするなんて信じられない、と憤る。
結果として、正義の名のもとに報復しなければいられない気分に駆られるものの、
実際にはなかなかそうはいかない」(P78)


これはだれのことを言っているのか。まず書き手の春日武彦のことである。
それから、わたしのことである。あなたのことではない。
まさかこれをお読みのみなさんは、こんな毒々しい思考はなさらないでしょうから。
不条理や理不尽に遭遇したとき、ふたつのパターンにわかれる。
明確な復讐対象がいる場合と、そうでないときとである。
後者は神を呪うという形式になり、無差別殺人の発端ともなりうる。
人間はどうしてか不条理や理不尽(と感じること)に遭遇すると報復を誓うようになる。
いったい復讐願望の強い汚れたわたしはどうしたらいいのか。
春日武彦はこの邪心をどう整理しているのか。
医師は仕返しを願う患者にどのような言葉をかけているか。
「報復なんてあんまり上品なことじゃないと思うなあ」
「あなたには復讐なんかよりも、もっと優先順位の高いことがあるんじゃないの?」
「相手と同じ土俵に立ってしまっては自分を貶(おとし)めるだけだ」

「復讐なんて子どもじみたことはさせず、
どうしても当人が子どもじみた状態から抜け出そうとしないのならば、
恨みを、軽蔑という形に集約させる。相手を軽蔑することは、
倫理や道徳や人間観察に根差す最も苛烈で静謐な表現形式だろう。
軽蔑という営みは直接的な暴力ではないが、
考えようによっては遥かに強いダメージを与え得る。
相手の自己愛を直撃しかねない種類のものなのだから」(P80)


なるほど、報復したい相手がたくさんいる春日医師はこう自分に言い聞かせているのか。
「こだわり・プライド・被害者意識」が人一倍強い春日武彦である。
繰り返し著作で患者を軽蔑したことを書く春日の心中を思うと涙ぐましい。
日々患者から腹立たしい思いをさせられている春日武彦は軽蔑に到達したのだ。
恨み深い精神科医の発見した復讐感情対策マニュアルは以下のようになる。

「復讐・仕返し・報復」→(↑自己愛↑)→「↓軽蔑↓」

精神科医の春日武彦は自身がそうとうに大人げないのだろう。
これでも自分の復讐感情を抑えられないときがたくさんあったのではないか。
いくら仕事とはいえ無礼で腹立たしい患者に仕返ししたい。
自著に患者の悪口を軽蔑感情と一緒に書き込むだけではとうてい腹が収まらない。
このとき陰湿だが頭脳明晰な春日武彦医師は次のような思考をするに至る。

「おそらく、復讐が成功しても思ったほどのカタルシスは訪れなかったり、
こんな奴に仕返しをしても自分の心が汚れるだけだと
急に馬鹿馬鹿しくなってしまったり、
反動で空虚感や抑うつ気分に囚われたり、
いったい自分の人生は何のためにあるのだろうと悩んだり、そんな具合に
気持ちはむしろ暗く沈みこむ方向にシフトするのではないだろうか。
復讐に固執していた自分自身に自己嫌悪を覚え、
自分の存在価値について自問自答さえしたくなってしまうのが
「まっとうな」人間ではないか」(P74)


ここに至って春日の黒々とした感情はようやく行き場を見つけるのだろう。
相手を軽蔑することで自己愛を保てばいいと気づく。
幸いにも精神科医の春日武彦は原稿の依頼があり、
患者への強い軽蔑意識を公にできる立場にいた。医師は幸運だった。
ここまで、かなり辛辣(しんらつ)に精神科医を裁いたようだが、
こうでもしないとこちらの自己愛が崩れてしまうので著者にはどうかお許し願いたい。

まったく春日武彦の発見した復讐感情消去法は大したものだと思う。
人の何倍も執念深い春日先生でなければ発明できなかったのではないか。
たしかに春日医師のように考えたら、
なんとかこの世の不条理や理不尽とも折り合いがつけられるような気がする。
復讐感情に苦しむ人は多い。
精神科医の春日武彦は本書でかなりの人を救ったのではないか。
最後に、親愛なる春日さんを真似てちょっとぼやいてみよう。
人を軽蔑してばかりの自己愛の強いお医者さんというのもうんざりだな~。

「心という不思議」(春日武彦/角川文庫)

→精神科医の春日武彦のエッセイほど笑えるものはそうないのではないか。
いったいなにを笑っているのだろうかと考えてみた。
なんのことはない、わたしは精神医学的におかしな自分を笑っていたのである。
よく春日武彦の文章は患者をバカにしていると誤解されるが、
あれは実のところ自虐なのだと思う。
春日もまた心を病んだ患者がまるで自分のようなので笑うしかないのではないか。
他者の狂気の中に自身と似たものを見つけ、笑いで相対化する。
つくづく俺って狂っているよな、病んでるよな、と笑い飛ばす。
でもまあ、俺だけじゃないんだなと安心する。
精神科医の春日武彦やその愛読者の好む自虐行為である。
うんざりするが、どいつもこいつもありきたりに狂っているのである。

「実際に精神科医になってさまざまな患者さんと接してみると、
凄い秘密を打ち明けられるなんてことは殆どないことに気がついた。
みんな自分と大差ない。ちっぽけな「わだかまり」や、
いじましい自尊心、余裕を欠くがゆえの被害者意識
といったものに囚われて足掻く人たちばかりなのである。
他人から見れば些細なことであっても、当人にとっては天下の一大事であるという
昔ながらの法則を再確認したに過ぎなかった」(P129)


わたしは春日武彦を好きだが、これはちょっと違うと思う。
すごい秘密を持っている患者は、春日の底の浅さを見抜くから話さないのではないか。
いいのか悪いのかわからないが、
春日武彦は重大な秘密を打ち明けられるほどの器ではないのである。
そのうえ、秘密を話したらよくなるというものでもない。
むしろ、春日の軽薄な態度に救われる。
あれこれ詮索されるよりも、手早く薬を出してくれる医師を好む患者も多いのではないか。
軽い皮肉を言えば、患者の悪口を嬉々として書く医者にだれが秘密を話すかって。
とはいえ、わたしは精神科にかかったことはないが、
もし将来受診するとしたら、春日のようなドライな医者がいい。

「幸福論」(春日武彦/講談社現代新書)

→患者の悪口を書く皮肉屋の精神科医・春日武彦が幸福について口を開く。
幸福なんて結婚式中の男女か、新興宗教にはまっている信者しかありえない。
ほかには重度の精神病後に人格レベルの下がってしまった患者も幸福そうだ。
そもそも我われは幸福を願っているのだろうか?
というのも、幸福は不幸の予兆とも言いうるのだから。
幸福になってしまったら、後は不幸になるしかないのである。
まさか幸福のまま人生を終わることは運命が許してくれまい。
このため、神経症という不幸に居つく患者もいるらしい。
春日武彦ならではの斜に構えた患者描写をご覧ください。春日さん、笑えるよな。

「抑鬱神経症のN氏は、民間療法マニアと化している。
当方を受診しつつ、漢方薬や民間療法を自己流に試してみている。
そしてわたしの外来でいちいち結果を報告してくれる。
話を聞いていると、どうやら当方の治療よりもはるかに効果的な療法を
探し出してわたしを脱帽させることに腐心しているらしい。
だから中途半端に症状が改善してしまっては困るわけで、
意地でもそう簡単には治るまいといった気持が透けて見えて興味深い」(P70)


ほかにもやたら数字にこだわる不幸な強迫神経症患者の例を紹介する。
こういう不幸な神経症患者は果たして治して幸福にしてしまっていいものか。
治ってしまったら、もっとなにかが悪くなるのではないか。
こう考えて、春日医師は患者の不幸をそのままにしておく。

「根源の部分では不安が強いのだから治療の対象となるのだろうが、
まあ強迫症状を治すというよりも、「大変ですねえ」と適度に
ねぎらっておいたほうが本人にとっては負荷が掛からずに済む」(P71)


不幸だと他人から認めてもらいたがる人もいるのである。
こういう人にいちばんいい言葉は「大変ですねえ」なのだろう。
「あなたはまだ幸福ですよ」などと助言したら逆に怒らせてしまう。
ときに精神科医は治すよりもよほど、
「大変ですねえ」と患者をいたわっているほうがいいのかもしれない。
小さな不幸の価値を深々と認めたうえで春日武彦は自身の幸福論に入る。

「(前略)不幸であるという物語を与えられてもまた、
しばしば心が安定するのである。多くの『幸福論』は、
嫉妬や野心や闘争心を捨てて身の丈に合った状況を受け入れよと説く。
それは正論だろうが実現は容易ではない。
困ったことに、全面的な幸福を得るには聖人君子となるか、
さもなければ徹底的に無反省となるしか方法はないのである。
では我々は幸福と無縁に暮らさねばならないのか?
まさかそんなことはない。
レディメイドの幸福ではなく、自分で見つけ出した幸福、
しかも断片としての幸福を得ることで人生を送っていくのが
もっとも妥当な方法論ではないのか。
断片としての幸福を点綴(てんてつ)していくことで、
かろうじて「この世もまんざら捨てたもんじゃない」
と思える境地を目指すしかあるまい」(P140)


春日武彦の説く「断片としての幸福」とはいかなるものか。
「見えないもの」を見ることに人間嫌いの精神科医は幸福を見いだす。
「ああ、そうだったのか」というささやかな発見をたいせつにする。
これは「世界が意味あるものだといった実感」のことだ。
言い換えたら「どんなに卑俗でちっぽけなことであろうと、
すべては詩となり得るだろうという確信のこと」――。

「騒々しい幸福、えげつない快感、安っぽい勝利感
といったものとは違った喜びが、人生には明らかに存在する」(P155)


患者の毒々しい不幸の物語を、自らの毒でもって受け流している精神科医の
よりどころとしているものは、どうやら自分だけの幸福を感じ取る能力のようである。

「不幸になりたがる人たち」(春日武彦/文春新書)

→精神科医の春日武彦は心を病んだ人を治す善意の人ではないのである。
多少毒を込めた言い方をすれば、きちがいウォッチャーとでもいうべきか。
きちがいにうんざりげんなりしながらも、それでもきちがいをどこかおもしろいと感じてしまう。
これは一見すると不謹慎なようだが、
たえず患者を鏡として自分と向き合っているということだ。
だから、ある面とても誠実な医者ということになる。
なぜなら、常にこの疑問を抱いているからである。

「相手がおかしいのか、我われのほうがおかしいのか、
理屈からするとその客観的判断は困難ということになってくる」(P30)


変わり者の精神科医は「不幸になりたがる人たち」がいるのではないかと指摘する。
そう言われたら、たしかにそのような人がいるような気がするのである。
これは「不幸になりたがる人たち」という新語によって見えてきた現実だ。
たとえば、精神科医のもとを訪れる患者も、どうやらそのように見受けられるらしい。
考えてみれば、おなじ環境でも発病する人としない人がいるのである。
どうやら人間というものは、自らを不幸にする業を隠し持っているようだ。
春日武彦医師は、長年の診察経験からその業を特定する。

「わたしが精神科医として沢山の人たちと接しているうちに気づいたことがあって、
それは人間にとって精神のアキレス腱は所詮「こだわり・プライド・被害者意識」
の三つに過ぎないというまことにシンプルな事実である
(それは犯罪の動機の大部分が「色・金・怨恨」の三つに収斂(しゅうれん)
してしまうことに通じているのかもしれない)。
もちろん、こだわりやプライドがなければヒトはなにもなし遂げられまい。
無気力で受動的な人物となり果ててしまうだろう。
だが、過剰かつ非現実的なこだわりやプライドは、
驚くばかりに心の働きを異様なもの(ときにはグロテスク、ときには滑稽、
ときには迷惑千万なもの)に変える。
被害者意識もまた同様であり、これら三要素がもたらすものは業と呼ぶしかない。
三要素のうちでも、殊に被害者意識が厄介なのは、
それが二つのものを求めてやまないからである。
そのひとつは「敵」であり、すなわち自分に被害者意識を抱かせるに至らしめた
悪玉の存在を必要とするということである。(中略)
そして被害者意識が求めるもうひとつのものとは、「特権」である。
ワタシハ弱者デアリ苦シメラレテイル立場ニアル、
ダカラワタシハ世間カラ労(イタワ)ラレ優遇サレルノガ当然デアル!
といった一種の権利要求にほかならない」(P67)


この秀逸な指摘が耳にたいそう痛く響くのはわたしだけではないのではないだろうか。
リピートすると、人間の業は、「こだわり・プライド・被害者意識」である。
とりわけ「被害者意識」が始末に悪いのは、
悪玉をつくるのみならず、鼻持ちならない特権意識を抱かせるからである。
この文脈に冷静に向き合ったら、かなりの「不幸」が緩和を見せるはずである。
しかし、人間は(わたしも含めて)どうしてもこの傾向に気づこうとしない。
なぜなら「こだわり・プライド・被害者意識」は居心地がいいからである。
我われも実際はかなり「不幸になりたがる人たち」なのかもしれない。
「こだわり・プライド・被害者意識」が「不幸」の度合いを強めるにもかかわらず、
なお我われがとりわけ「被害者意識」にこだわるのはそれが甘美であるからだ。
悪い敵に苦しめられている弱者という特権意識はとろけるように甘い。
著者の論述から多少飛躍すると、このために、
なにか事件があったときマスコミは悪玉を早々とつくりあげ、
我われをみな被害者に仕立て上げてしまうのかもしれない。
戦争が終わった瞬間に国民全員が悪い軍部に操られた被害者になったように。
以下は春日武彦の発見した人間法則である。

「人間の業」=「こだわり・プライド・被害者意識(→悪玉+特権意識)」

これは人間だけではなく集団にもあてはまるのではないだろうか。
たとえば、宗教団体がそう。
機関紙で悪玉を徹底攻撃している特権意識の強い日蓮系巨大仏教団体があるでしょう。
わたしはその団体の人間くさいところがどうしても憎めないのだが。
国際政治には無知だけれども、アメリカなんかずっとこれをやっているような気がする。
悪玉をかならずつくるよう一部マニュアルになっているハリウッド映画も、
春日武彦の人間法則に縛られていると言えなくもないだろう。
精神科医は述懐する。

「精神科医として自分の仕事を振り返ってみても、劇的なことは案外少ない。
いやそれどころか「劇的なこと」はファンタジーや妄想、
さもなければ願望充足的な錯誤ないしは虚偽ではないかと疑う姿勢を
いつしか自分が身につけていることに気づく。
幼い頃に心ない人物によって負わされた(と称する)トラウマを自ら開陳し、
雄弁に(ときには得意げにすら見える態度で)
自己の悲惨さについて語りたがる患者がいる。
まるでテレビドラマの脚本のような、明快で説得力に満ちたストーリーなのである。
おそらくその人にとっては、もはやそのストーリーこそが真実であり、
大抵は悪役として親だとか教師といった人びとが登場して
恨みの対象となっている」(P123)


もちろん、春日武彦は自分を省みて「不幸になりたがる人たち」を記述しているのだ。
「不幸になりたがる人たち」=我われはどうしたらいいのか。
では、精神科医は診療室で「不幸になりたがる人たち」にどう接しているか。
春日武彦医師は患者に――。

「(前略)いかに気持ちの上で踏ん切りをつけ、
事態を客観的にクールに眺められるだけの余裕と柔軟性を
持ってもらえるようになるかを工夫することになる。
ところが不思議なことに、明らかに解決法が分かっているにもかかわらず
本人はその解決を拒み、
それがために延々と悩み苦しみつづけているケースが珍しくない」(P114)


自分もみなとおなじ「不幸になりたがる人たち」の一員であると
「客観的にクールに眺められるだけの余裕と柔軟性」を持てばいいのである。
しかし、それはとても難しい。
だから、「不幸になりたがる人たち」と春日武彦は苦々しく命名するのだろう。

「文士の酒 編集者の酒」(村松友視/ランダムハウス講談社文庫)

→いまは風格のある人が少ないよな。
吉行淳之介、山口瞳、開高健、アントニオ猪木らが登場する上質の
酒食エッセイを読んだ感想である。どっしりとした味のある人がめっきり減った。
みんなサラリーマン化してしまった。
無茶をする人がいなくなった。みんなまず最初に損得を計算してしまう。
編集者から直木賞作家に成り上がった著者はアントニオ猪木をこう評している。

「アントニオ猪木さんのおおらかさ、屈託のなさ、天真爛漫さ、いいかげんさ
……つまりはアントニオ猪木ワールドに触れたのもこのときが最初だった」(P93)


風格があるとは、ワールドを作ることができるということなのだろう。
ワールドとは王国のことだ。ワールドには中心がなければならない。
国王になる資格の持つものが風格を帯びるのであろう。
吉行淳之介ワールド、山口瞳ワールド、開高健ワールド。
どうしたら風格を身にまとうことができるのか。
まずは自己を王と信じること。
しかし、断じて周囲に向かって自らは王なりと宣言しないこと。
これが人から王と思われるものの条件ではないかと思われる。

「シナリオ 他人の顔」(安部公房/創林社)絶版

→映画シナリオ。昭和41年公開作品。
新しいものほど古くなるのが早いのがよくわかる作品。
当時最先端のものほど時代が経つと目も当てられない駄作になってしまう。
しかし、映画はいいよね。
テレビドラマで意味不明だとバカヤロウとすぐに消されて終わり。
これが映画だと自分が至らないのかもしれない、
といろいろ観客が勝手に意味づけしてくれるのだから。
いまでも「他人の顔」のような旧・前衛映画を観て感銘を受けている手合いは(いるいる!)、
調子よく自分に酔っているのだろう。
大酒飲みだから酔うのはいいと思う。たとえそれが自己陶酔でも酔うのはよろしい。
本作のテーマは、アイデンティティの喪失やらなんやらだと思う。
庶民の言葉に変換したら、人間は顔か否か。顔を変えたら人生も変わるのか。

「孤独なのはなにも君だけじゃない。
誰だって自分に戻るしかないんだ」(P167)


おいおい、こっぱずかしいセリフをいい大人が……。
わたしは、人間、顔ではないと思っている。
もしわたしの顔がキムタクになっても、絶対にもてる男にはならない自信がある。
シナリオ「他人の顔」を読んで、そんなことを思った。

「シナリオ 砂の女」(安部公房/創林社)絶版

→映画シナリオ。昭和39年度キネマ旬報ベストワン作品。
こんなものが受けた時代があったのかと隔世の感に堪えない。
みんなインテリにあこがれていたのかしらねえ。
難しい顔をして映画「砂の女」の147分(なげえ!)に我慢したら、
知識人の仲間入りができたのかもしれない。
ちょっと現代のプロデューサーの真似をしてみよう(ただし妄想)。
安部ちゃん、シナリオよくないよ~。
なにより暗い! もっと明るくしないとお客さん帰っちゃうよ!
わかりにくい! お客さんは高いお金を払ってくれてるんだからわかりやすくしなきゃ!

そういえば、いまは「インテリ=かっこいい」という図式がすっかり消えたよね。
「インテリ=オタク=きもい」になってしまっている。
考えてみたら、「もてない男」の唯一の救いがお勉強(インテリぶる)ではないか。
インテリに価値があった時代は、付け焼刃の嘘知識で女をだまくらかすことができた。
ところが、いまじゃ結局は顔と性格のよさが肝心とばれてしまった。
けっ、おいらも「砂の女」の時代に生まれたかったぜ!

「なりたい!! シナリオライター」(DAI-X出版編集部・編)

→物書きというけれども、シナリオライターほど怪しいものはないと思う。
だって、いままでろくに本も読んだことのない主婦が、
怪しげな広告にだまされて「決めた、あたし、シナリオライターになる」
とか宣言しちゃうわけで。
ぜったいに小説家や評論家は目指さないのね。なぜかシナリオライター。
うすうす(シナリオ以外は)無理だとわかっているからだと思うけれど。
しかし、シナリオライターくらいならあたしでもなれるとみんな思う。
で、実際になれちゃうものがいるのもこの世界の怖いところ。
なぜかと考えたら、シナリオには歴史がないということが大きいのではないか。
まだ百年の歴史もないのである。
日本映画がサイレントからトーキーに変わったのは1927年。
ここが日本シナリオ史の発端になる。

まあ、だれもシナリオのことをよく知らないのである。
みんな恐々としながら、それでも格下のものには、
さも自分がシナリオをわかっているかのような強気の発言をする。
反対に、格上のものには「おっしゃるとおりです」とぺこぺこ従う。
いったいだれがシナリオをいちばんよくわかっているのだろう。
だって、テレビ局のプロデューサーはたまたまいまドラマ制作に配属されているだけ。
ことさらシナリオを勉強したわけではない。
シナリオ学校の講師の意見が正しいのかといえば、そうではない。
これは実体験だが、知識もプロ経験もない素人が偉そうにシナリオを教えていた。
じゃあ、大学で映画を教えている教授先生がいちばんシナリオに詳しいのか。
しかし、先生方は現場で仕事をしたことがない。
映画はたくさん観ていてもシナリオまで読む映画専門の大学教授はいないだろう。
要するに、ほとんどの人がシナリオのことをまだよく知らないのである。
個人的な好き嫌いが非常に強調される世界である。
このため、無学な主婦でも運よくプロデューサーに気に入られたら出世できるわけだ。
シェイクスピアさえ読んだことのない人が、シナリオ業界にはうようよいるのである。

わたし個人の意見をいえば(たぶん間違えていますよ。ごめんなさい)、
ベテラン脚本家がいちばんよくシナリオを理解していると思う。
なにを理解しているのか。その価値基準のいいかげんさを、である。
ひとたび文学賞でも取ったらプロデューサーの態度がころりと変わる。
おそらく、これがあこがれるもののやたら多いシナリオ世界の実際なのだろう。

「テレビ大捜査線」(君塚良一/講談社)

→人気脚本家による業界の打ち明け話である。
といっても、暴露のようなものではなく業界にあこがれるミーハーが対象読者か。
芸術論からはいちばん遠いところに位置するビジネス本といったおもむきが強い。
本書を読んで学んだのは、いまのテレビドラマは作品ではなく商品ということだ。
ひとりが作品を生み出すのではなく、みなで知恵を絞って売れる商品を作る。
このため脚本家は全体の中で優秀な歯車としての役割を求められる。
連続テレビドラマという商品では、制作途中での改変は当たり前だという。
というよりも、放送後の視聴者の反応を見てからストーリーを決めるのが通常とのこと。
もう視聴率を取るためのマニュアルが完成しているらしい。
テレビドラマを見るのは若い女性が多いから恋愛ものだと視聴率がいい。
人を殺すと視聴率が上がる。わかりやすい物語で感情移入させるのが王道。
とにかく視聴者を気持よくさせることをテレビマンは心がけているのだという。

君塚良一氏はこういった風潮に違和感を感じながらも、
同時に売れるドラマを書くプロとしてのこだわりも捨て切れずにいるようだ。
理想を持ちながらなお現実を見失わない君塚氏は優秀な脚本家なのだと思う。
さて、もうテレビドラマは個々の脚本家が書きたいものを書く時代ではない。
みんなが一丸となって営業戦略として売れるドラマを作るように進化している。
少し我流に表現を変えると、テレビドラマは「わたしの物語」を描くものから、
「わたしたちの物語」を描くものへと進化したのだろう。
「わたしの物語」は小説がやればいいのである。
君塚氏によると、いまのテレビドラマは「わたしたちの物語」を描いている。
すべてのドラマは企画からスタートする。

「数人の考えから一本のテレビドラマが誕生することになり、
企画は、「わたし個人の思い」ではなく、「わたしたちの思い」となる」(P210)


本書はテレビドラマの裏側をわかりやすく教えてくれるのがとてもよかった。
著者にはこれからもいいドラマを書いて「わたしたち」を楽しませてほしいです。
もう「わたし」なんてどうでもいいので。
若い女性ならまだしも、いい歳をしたおっさんはわがままをいいません。

「ドラマを書く」(岡田惠和/ダイヤモンド社)

→シナリオの世界をピラミッドにたとえたら、いま頂点にいるのが岡田惠和さん。
というのも城戸賞選考委員、テレ朝なんたら賞選考委員。
シナリオ以外にもなぜかエッセイコンテストの選考委員としても
お姿を拝見することがちらほらある。とても偉い人なのである。
出世を狙うもののまえに門番として立ちはだかるのが岡田惠和さんである。
本書は岡田惠和氏がドラマ制作の裏側をライトなエッセイにしたもの。
雑誌「テレビ・ステーション」の連載に加筆修正を加えたものらしい。
本書を読みながらさすが一流の脚本家はエッセイを書いてもすごいと感服した。
ひとつ気づいたのは、本書のなかに文学作品がまったく登場しないこと。
お堅い文学だけではなく、そもそも小説の話がぜんぜん出てこないのである。
岡田惠和さんが強い影響を受けたという山田太一氏は文学畑出身といってもよい。
シナリオ世界では岡田惠和氏が山田太一氏の後継者と目されているようだ。
系譜を整理すると以下のようになる。

「海外文学・日本文学→山田太一→岡田惠和」

岡田惠和氏は父(山田太一)の影響は強いが祖父(文学)とは絶交しているのである。
この祖父との不仲が、岡田氏を人気脚本家にしたのだと思う。
シナリオライターは文学者のようなことをいってはならないのである。
おなじ物書きでも脚本家と小説家は大きく異なる。
そもそもシナリオは表に出てくることがない。
言語感覚が鋭い岡田惠和さんはシナリオを「仮想敵」と巧みに表現する。
シナリオは文学作品ではなくスタッフ、キャスト全員の「仮想敵」なのである。
岡田さんはあまり現場に顔を出さないという。

「まあ、現場というのは、シナリオライターが書いた本を基に、
いかに現実化していくか、という場所なので、
その場において脚本というのは、仮想敵であっても仕方ないと思うし、
その仮想敵に対して一致団結することでいいものができる、
という側面もあると思うので、
その敵がやたら顔出すのも……と何か遠慮してしまうわけです」(P21)


文学作品はひとりで書くがシナリオはそうではない。

「まあ、要するに作家が書いていったものに対して、
いろんな人がああでもないこうでもないと意見を言って、
その要求に応えて、本を直していかなければならない。
皆の合意がなければ、たとえ何度稿を重ねても終わらない。
それが本直しです」(P67)


「皆の合意」に向けて空気を読むのが岡田惠和さんは抜群にうまいのだと思う。
くだらぬ自己主張などしてはいけないのだろう。

「よく「演出とかで台本って、変えられちゃったりするわけでしょ?
それについてはどうなんですか?」という感じで言われることが多いんですが、
私は基本的にはOKです」(P112)


この寛容さこそ一流脚本家の才能なのではないかと思う。
わたしは違う世界を覗き見したくて本書を通読したけれど、
もしシナリオライター志願者が読んだら、とても得るものが多いのではないか。
たいへんな名著であった。
やはりどの分野でも一流といわれる才能ある人の文章に触れると刺激になる。

「江戸の味を食べたくなって」(池波正太郎/新潮文庫)

→ふしぎな法則があるのだが、これはわたしだけだろうか。
好きな人が好きな食べ物をこちらも好きになってしまうのである。
嫌いな人の好きなものは、むしろいや増しに嫌いになる。
本書を読んで小鍋、鰻、ポテトフライ、茄子の味噌汁がやたらと食いたくなった。
七味唐辛子と鶏の唐揚げが好きなのは、本書の影響ではない。
周囲に好きな人がいたからである。
肩書より顔より性格より、対人関係は好きな食べ物が重要なのかもしれない。
こいつが好きな食いもんはどうにも好きになれそうもない。
そう判断したら手を引くのも一計だろう。
我われは毎日なにかしら食べている。これは思ったよりも重いはずである。

「ブッダは何を教えたのか」(ひろさちや/パンドラ新書)

→仏教はなんでもありなんだよね。
「仏教ではこう教えています」と書いて、それが間違いのことはほとんどない。
かならず調べたらどこかの経典に書いてある。
書いてなかったら、拡大解釈すればいいだけの話。
とはいえ、ぜんぶの仏教経典に目を通した人はおそらくいないと思われるから、
「それは仏教の教えではない」と断言する人のほうが仏教を知らないということになる。
仏教ではなんだっていいのである。
だから、ひろさちやさんのようにブッダの解説書で、
ほとんど関係ない法華経の教義を出してもいい。
とはいえ、これはあんがい仏教の本質を突いているような気がするのである。
ひろさちや氏は「仏知見(ぶっちけん)」で見ることが肝要だと説く。

「わたしたちは人間(仏教では凡夫といいます)の立場でしか
モノ・コトを見ることができません。それは「人知見」です。人間の物差しです。
「人知見」によるなら、敗者になるのはいやであり、病気はいやなコトです。
そして、戦争も犯罪もないほうがいいのです。
ですが「仏知見」(如来の智慧)で見れば、モノ・コトは違って見えます。
どう見えるか、それは凡夫にはわかりません。
仏にならないと、仏の見方はわからないのです」(P208)


かりそめこの世でマイナスといわれていることも「仏知見」から見たらわからない。
いまの社会でマイナスとされていることも、
もしかしたら「仏知見」から見たら信じられないほどのプラスかもしれない。
だれもが(人間なら)マイナスにしか思えないことも、「仏知見」から見たらさあどうか。
あんがい、とてつもない福徳をもたらすものかもしれない。
この「仏知見」は「永遠」などと訳したらわかりやすいのかもしれない。
浄土や来世(をふくむ永遠)から見たら、現世の禍福など大きく意味を変えるだろう。
どうして早世や障害が不幸でありえようか。
人間の失敗など永遠から見たらホクロほどにも気を引かないのではないか。
人間の物差しを信用するな。これがひろイズムの根本思想になるのだろう。
わかりやすくいえば、「なんだっていい」である。
人間の目にこだわるからマイナスに見えるだけの話なのだろう。
人間ならぬ仏の目から見たら、「なんだっていい」――。
まあ、口でこのようにいうのは楽だけれども、実際にマイナスに遭遇すると難しい。
しかし、この考え方をすると救われる。
この考え方とはしつこく繰り返すが「なんだっていい」である。
「仏知見」から見たら「なんだっていい」のかもしれない。

「人生哲学 阪神タイガース的」(ひろさちや/ソニー・マガジンズ新書)

→ひろさんが、生き生きしてるぜ! 本当に阪神タイガースが好きなのだろう。
内容は、阪神タイガースに学ぶ生きる智恵である。
むかしは仏教に学ぶふりをしていたが、正体を現わしたな、ひろさちや!
もうすぐ死ぬひろ先生にとったら、仏教も阪神タイガースもおなじなのである。
わたしは本書で大好きなひろさんがピチピチしているのがなにより嬉しかった。
プロ野球はよく知らないが、阪神タイガースはとにかく弱いらしい。
そこでひろさちや氏が注目するのは「負ける」という意味だ。
弱いから負ける。しかし、負けるのはそれほどいけないのか。
たとえ負けても楽しかったらいいのではないか。
阪神タイガースが何度も負けようが楽しく応援できたのだからいいではないか。
これは阪神ファンならではの悟りといってよい。
もしかしたらひろ氏の仏教観は阪神タイガースに鍛えられたのかもしれない。
楽しむ野球と正反対なのが勝つための野球である。
ひろさちやは勝つための野球を批判する。
なぜなら、勝つためには選手が滅私奉公して、
チームのために尽くさなければならないからである。
それから勝つためには確率野球をしなければならなくなる。
本書を読んで、バンドをする意味がようやくわかった。
あれは確率を重視していたのか。この歳になるまで知らなかった。

「まず、ノーアウトでランナーが一塁だとします。
このランナーがホームにかえって来て得点になるには、
ヒットが二本続かないといけません。
しかし、二人の三割バッターが二本のヒットを打つ確率は、0.3×0.3です。
それだと約一割の確率です。だが、一塁のランナーをバンドで二塁に送ると、
ワンアウトになりますが、次は三割の確率で点になります。
一割と三割では、はるかに三割のほうがいい。
そこで、ノーアウト、ランナー一塁となれば、
川上(哲治)はバンドで二塁に進める野球を始めたのです。
これが確率野球であり、「勝つための野球」です」(P125)


考えてみれば人生でもそうだ。
いまは確率人生を「勝つための人生」と信じて励んでいるものが少なくない。
野球とは異なり人生ではみなかならず百%負ける(=死ぬ)にもかかわらず……。
確率野球や「勝つための野球」がつまらないとひろさちや氏はいう。
まったくである。野球のことはよくわからないが、
確率人生や「勝つための人生」はどこがおもしろいのかと思ってしまう。
プロ野球ではそうもいかないのだろうが、
人生では勝たなくても楽しめたらいいという草野球精神はたいせつである。
楽しんだもの勝ちのようなところが人生にはある。
勝つよりも楽しむことを重んじるという生き方があるのだろう。

そういえば、近所の荒川土手を散歩していて、いやな光景に出くわすことがある。
少年野球チームの監督やコーチがやたら威張っているのである。
いかにも会社ではうだつの上がらないような冴えないおっさんが、
鬱憤を晴らすように学童を叱り飛ばして練習させている。
どうせプロになんかなれないんだから、もっと野球を楽しませればいいいのにと思う。
楽しむことを罪悪とするような歪んだスポーツ観がどうしてか幅を利かせているのだ。
勝てなくても楽しかったらいいではないか。
関係ないが、このように考える人はたぶんギャンブル依存症にはならないはずである。

「サラリーマン劇薬人生相談」(ひろさちや/ベスト新書)

→まったく期待しないで読んだら、これはすばらしい。
理由は、別のライターが聞き役にまわり構成を担当したからだと思う。
この構成がかなりうまかったのではないか。
さくらい伸という人らしい。
「伸」という名前を読むとすぐに創価学会を連想してしまうが(「人間革命」の山本伸一)、
なにか関係があるのだろうか。
ともあれ、本書の構成はよかったですよ。
ひろイズム炸裂で、最高のひろさちや入門書になっていると思う。
なにか1冊読もうか迷っている人には「サラリーマン劇薬人生相談」をおすすめします。
これでかなりの悩みが消えると思う。
冒頭からひろさちや先生は飛ばしている。こんな明快な人生相談の回答は見たことがない。
悩み多きわたしもひろ氏のこの言葉で吹っ切れた。

「人生、どのように生きたらいいのでしょうか?
そのように問われたら、わたしの答えは簡単です。
「どのように生きたってかまいません。
あなたの好きなように生きればいいのです」(P3)


なるほど、まったくそうであった、そのとおりだと覚醒する。
しかし、どうして我われは迷うのだろう。正解があると思うからだとひろ氏はいう。
それから、なんだかんだいっても他人から褒められたいと思っているのがいけない。

「自分の人生は自分のものです。自分の好きなように生きればいいのです」(P3)

ああ、なんと人生は簡単だったか!
しかし、あれなんだろうね。自分の好きなことがない人も多いのかもしれない。
「好きなように生きればいい」といわれても、
そもそも好きなことがない人は困るのだろう。
好きなことがある人はもう悩むことはない。好きなように生きたらいいのである。
でも、やっぱり人間だからAかBか迷っちゃう。
ひろさちや氏は他人に相談しないほうがいいという。
他人に決めてもらったら、
うまくいかなかったときにその人を恨むようになるというのが理由である。
あれ? ほんとに他人の助言に従う人なんかいるのか~。
相談しても最後に決めるのは自分だと思っていた。
ひろイズムだとほとけさまに決めてもらうのもいいらしい。
サイコロを振って決めるのである。サイコロは1回しか振ってはならない。
一回性に賭ける。ほとけさまに決めてもらう。
これはやったことがないからまだわたしも不信心なんでしょうね。

他人のことは、無関心がいい。これは放っておくというのと同義だろう。
最近ようやく気づいたのだが、かなりのケースで放っておくのがいちばんなのではないか。
悩みは悩むから悩みになる。悩みをどうにかしようと思うから悩みになる。
しかし、たいていの場合、悩みはどうしたって解決しない。
解決しないから悩んでいるのに、どうかしようとしてもどうにもならない。
なら、放っておけばいい。放っておけば、少なくともそのまんまである。
まあ、そうそう悪くはならないだろう。
なにかするともっと悪くなることもなきにしもあらずなのだから。
こじらせる、というやつだ。
しかし、他人を放っておくというのが、まだまだできない。
ついつい他人のことを気にしてしまうのである。

「仏教が教えるのは、無関心です。他人がどうしようと放っておけばいい。
同僚が奥さんに逃げられようが子どもが大学に落ちようと、常に無関心。
たいていの人はそういう話を聞いて、
表面上では「いやあ、お気の毒さまで」などと言っているけれど、
内心は「面白いな」と思っている。
結局、わたしたちは他人に対して関心を持ち過ぎなのです。
同期のヤツが出世した。
二段階飛び越して部長になったとかなんとか仲間が言ってきたときにも、
「自分には関係ないことだ」と言い聞かせる。
日ごろからそういう心構えでいれば、
そのうちあまり他人のことは気にならなくなります。というよりも、
もっと大事な自分のことを一生懸命に考えるようになるからね」(P39)


きっとニュースが好きなわたしはまだ修行が足らないのだろう。
ニュースはやはりおもしろいもんね。
しかし、他人の出世は耳障りなのも事実だから。
いまはネットが世界中に普及したから無理なのかもしれないが、
海外一人旅をするとほんと日本の情報がまったく入ってこなくなる。
はっきりいって、どうでもよくなる。
「どうだっていい」というのがポイントなのだろう。
他人のことは、まあどうだっていい。アハ、どうだっていいや。
うん、もうすぐ死ぬ人でしかいえない過激な発言に満ちている本書はよろしい。

「旅巧者は人生巧者」(ひろさちや/ヴィレッジブックス新書)

→これまためったにないほど質の低い本である。
しかし、ひろ先生から教わった人生態度は、「期待しない」だから構わない。
そもそもあまりひろさちやさんの本なんかに期待していないから。
期待するから裏切られるんだよね。
ま、ひろさんの本なんだから大したことがないさ、と最初から思っていたから平気。
ひろ氏は「期待しちゃいけないよ」と身をもって教えてくれているのである。感謝感謝!
いつものようないいかげんな話が繰り返されるのでとても心地いい。
精神病と強い相関を持つ「こだわり」の反意語は「いいかげん」なのだと思う。
関係ないけど、毎度のごとく高額所得者のくせに庶民ぶる先生もすてきである。

そうそう、飛行機とかで病人が出たとき「お医者さんはいますか?」のアナウンスがある。
医者はあれに名乗り出ないほうがいいらしい。
ろくな薬もないところで間違った医療をしたら逆に責任を問われてしまうとのこと。
それから本書に匿名の高僧批判が書かれていた。
ほら、宗教ライターのひろさんは、日本の高僧と行動を共にすることが多いから。
わがままな高僧がかなりいるそうである。
どのみちもうすぐ死ぬんだから、一度だけ名前を暴露してくれないかしら。
でも、そんなおもしろい本を書いてしまったら、
ひろさちやがひろさちやではなくなってしまうから、まあいいです。
そういえば「あきらめる」という最高の人生作法もひろ先生に教わったのだった。

「人生の「お荷物」を捨てる方法」(ひろさちや/青春出版社)

→人生最大の「お荷物」といえば不安と心配だと思う。
将来のことが心配で不安になる――。
未来のことはどうにもならないのに、この「お荷物」はふくらむばかり。
さらに「どうしよう?」なんて考え出しちゃうと、どんどん不安や心配になる。
でもさ、ひろさちやさんの言っているように、
いざ不安が的中しても経験しちゃえば「こんなものか」になっちゃうんだろうね。
なんだ、こんなものかと。
経験していない状態でいくら心配しても不安が増大するだけ。
実際に経験したら「こんなものか」でおしまい。
結局、経験していない段階での不安や心配がいちばん始末が悪い。
ひろさちや先生のご本の効能は、不安や心配が消えることではないかと思う。
将来への向き合い方は「まあ、なるようになるさ」、
または「ふん、どうせなるようにしかならん」がもっともいいと気づく。
しかし、この不安と心配は大きなビジネスチャンスだから、
世間は大々的にあおってくる。これを買っておけば安心ですよと。

海外旅行に行くときは、心配してあれもこれもと荷物に詰め込むけれど、
現地ではほとんど使わないものばかりである。
まあ、人生も似たようなものなんでしょうね。
考えてみたら、カバンに荷物を入れているときが旅行でもっとも楽しいときだから、
心配性な人というのは人生の楽しみ方をよく知っているのかもしれない。
とすると、わたしはもう少し将来の心配をしたほうがいいのかな。

「あるがままに生きよ」(ひろさちや/ぶんか社文庫)

→やたら誤植が多い本なのだが、いいかげんなひろさちやさんらしくていい。
ひろ氏は著者で禁煙成功自慢をよくする。
本書で知ったが禁煙したきっかけは、危うく子どもを殺しそうになったらしい。
友人の家でマージャンをしていた。タバコを吸うのはひろさんだけだった。
灰皿に山と積まれた吸殻を目を放した隙にその家の小さな子が口に入れてしまったという。
救急車で運ばれて、一命は取りとめたとのこと。
ほんと人生ってなにが起こるかわからんよね。
もし死んでいたら罪悪感で一生苦しんでいたのだから。

自宅にタンス預金していた1億7千万円を泥棒に盗まれたのはひろ先生の勲章。
受賞歴ゼロの売れっ子ライターひろさちや先生にも勲章があった!
1億7千万円の盗難被害か~。なんかマヌケで笑える(ごめんなさい)。
でも、本人はそうとう深刻だったのかも。
いやいや、きっと氏にとっては宗教観を深める最高の機会になったのではないかと思う。
まあ、友人の子どもを死なせちゃうよりは1億7千万円盗まれるほうがいい(のかな?)。
しかし、1億7千万盗まれない代わりに、うっかり子どもを死なせちゃう人生もあるわけだ。
問題は、どっちの人生がいいか人間には選べないということ。
もしそっちの子を死なす人生だったら、
老齢になってからひろ先生は「あるがままに生きよ」といえていただろうか。
ともあれ、幸運な人である。

「ひさしぶりにさようなら」(大道珠貴/講談社文庫)

→読みながら笑いがとまらなかった。大道珠貴(♀)はいいよね。
これはほめ言葉なんだけど、根っからの育ちの悪さがとってもおもしろい。
思想なんか、ぜーんぜんないところがいい。
まじめな人からの「将来お金がなくなったらどうしましょう?」みたいな質問に、
「アハ、盗めばいいじゃん?」と答えそうな登場人物がみんなプリティー。
まじめに恋愛とかしない「怠惰な性分」の人たちにすごく好感を持つ。
ほんとは難しいことなんてなーんにもないんだよね。
ごはん食べたらごろごろだらだら寝て、なにが悪いか、コノヤロッ! だから、コノヤロッ!
あひゃ、怒ったって思った? ウソだぴょーん♪ アッカンベー♪
るんるん、てきとーでOK、ほにょ~という感じがサイコーにすばらしい。
作家は柳美里(大好きです)みたいなあれな人の生態をかわいく描写する。
なぜか柳美里の小説はまじめに難しくなっちゃうんだけど、
大道珠貴にはそういうところがなくて、ふまじめ、ふきんしん、ふけつ。
ま、恋愛も労働も家事も育児も、めんどくさいというひと言に尽きますな、大道さん。
わかります。わたし、大道珠貴がわかります。笑います。大笑いします。

「童話の書き方」(寺村輝夫/講談社現代新書)絶版

→童話作家の著者は、創作の秘訣としてスポーツ新聞をたとえに出す。
前日のプロ野球の結果を伝えるにも各紙違いがある。
見出しに注目したらどうなるか。
一紙は「宮本初勝利!」、一紙は「原8号!」となっていたという。
巨人対ヤクルト戦の結果である。ヤクルトが巨人に一点差で勝利した。
ジャイアンツ系の新聞は読者を不快にさせないように「原8号!」と書く。
これは巨人が負けたという事実をねじまげているわけではない。
きちんと紙面では巨人がヤクルトに敗れたことを伝えている。
しかし、「原8号!」と見出しにすることで明日へ希望のつながるものとしている。
巨人ファンはスポーツ新聞を読んで朝から不愉快な気分になりたくないのである。
そこを察してジャイアンツ系の新聞は「原8号!」をあえて強調する。
この方法が童話創作においても重要だと著者は指摘する。

「童話でも同じだと思います。
問題は、作者がどの「立場」に立つかです。
童話には作者の確固たる立場が要求されます。
その立場は、作者のものの考えかたのはじまり(主観)、
読者の知りたいこと、興味のあることをどううけとめるか(個性)によってつくられます。
つまり、ヤクルト側に立つか、ジャイアンツ側に立つかです。
どっちつかずで純粋客観的なものを書いたのでは、おもしろいものは書けません。
あえていうなら、子どもの側に立つか、大人の側に立つか、ということです」(P144)


童話作家の著者は「迷わず子どもの側に立ちます」という。
「なぜなら童話の第一の読者は、子どもだからです」――。
著者はヤクルトが好きだそうだが、おなじように子どもも好きなのだろう。
どの立場に立つか、が物語創作のポイントなのかもしれない。
これはどんな人を好きになるか、ということなのだろう。

いまはもうまったく見なくなったが、プロレスでもそうである。
かつて雑誌は「週刊ゴング」(廃刊)と「週刊プロレス」があった。
「週刊ゴング」は客観的に試合のレポートをするが、読んでもおもしろくないのである。
「週刊プロレス」は特定レスラーに強く思い入れたレポートをよくしていた。
この仕組みに気づいた大仁田厚はギャンブル好きの編集長に裏金30万を渡したという。
もちろん、翌週の「週刊プロレス」表紙は大仁田である。
これを大仁田厚の立場から見たら、成り上がるためにはやむなし、である。
編集長の立場から見たら……ハハハ、こいつは好きになれん。
このときの「週刊プロレス」編集長はターザン山本という。
しかし、実際は関係者が暴露しないだけで、これはプロレスの世界だけではなく、
世の中はほとんどすべて裏金でまわっているという面があるのだろう。
プロレスだけではなく、マスコミ報道はすべて「童話」なのかもしれない。
犯罪者の立場に立った新聞など読んでみたいが、たぶん一紙もないはずである。
とすると、事実や真実を伝える新聞や雑誌は「大人の童話」と醒めた目で見るべきなのか。
童話創作から話がとんでもないほうにいってしまったようだ。

「だます心 だまされる心」(安斎育郎/岩波新書)

→著者プロフィールがむやみに長い人や、参考文献に自著を書き連ねる人は
怪しいという思い込みがあったけれど、この本は考えさせられる良書であった。
専門がオカルト批判だが、手品師でもある著者は、
だまされる快楽にも言及している。手品とはだまされるのを楽しむものだ。
そう、人間はだまされることに快感を感じるのだから困るのである。
八百長のプロレスほど怪しくはなくても、
基本的に小説も映画もだまされる愉楽を追求しているのだから。

主観と客観の問題を著者はわかりやすく整理する。
だますだまされるは、主観と客観の相違によっているからだろう。
どういうことかというと、主観的にはそう見えても、客観的には異なるということだ。
手品は主観的には魔術のようだが、客観的には仕掛けがある。
主観を過信してはならない。たえず客観をもって検証しなければならない。
オカルト批判が専門の科学者を自称する著者の主張である。

「人間の判断を文章や記号や式で表現したものを、一般に「命題」と呼びます。
a.3に5を足すと8になる、
b.『源氏物語』は紫式部が書いた、
c.一九四五年、アメリカは広島・長崎に原爆を投下した、
d.ピカソの絵は素晴らしい、
e.核兵器は廃絶されるべきだ、
f.人間は生まれながらに平等である、
などはいずれも命題ですが、
このうちabcは「客観的命題」、defは「主観的命題」です」(P132)


「客観的命題」と「主観的命題」を混合するものがいるから厄介なのだろう。
「客観的命題」は、その命題が正しいか正しくないかを
事実や論理に照らして客観的に判断できる命題だという。
一方で「主観的命題」は人それぞれの価値が問題となるので、答えは人によって違う。
これがオカルト批判の先鋒たる著者の明確な立ち位置のようである。
たしかにこれは正しく、たとえば「漱石の『こころ』は名作である」は「主観的命題」だ。
こう見破ったらこれについていくら議論しても(議論自体はそれなりに楽しいのだが)
客観的な答えは出ないことがわかろう。
しかし、「主観的命題」にもいちおう答えらしきものはあるから我われは困るのである。
たとえば、命題を自分で作ると「人を殺してはいけない」「自殺してはいけない」――。
これは「主観的命題」で本来なら答えはないが、
とりあえず法的権威(憲法)、人的権威(偉い人)に従うならば、
正しい答えがあることになってしまう。
そう、本来なら答えのない「主観的命題」の正否は権威者が決定するのである。
ところが、権威者同士で意見が食い違うことがる。
世俗的権威と宗教的権威が対立することもあるだろう。
世俗的権威のあいだでも意見の相違はあるはずである。
宗教的権威とまた別の宗教的権威の衝突がときに戦争になるのだろう。

しかし、と反論したくなるのである。ここからはわたしの意見になる。
本当に「客観的命題」など存在するのだろうか。
具体的にいえば、御しやすいものから「『源氏物語』は紫式部が書いた」。
これはわたしには確かめようがない。わたしが確かめられる問題ではない。
多くの権威者がこの説を支持しているから、そうなのだろうとしかいえない。
もしかしたら「源氏物語」を書いたのは男なのかもしれない、とも思う。
まあ、そういう事実が現われても多数派は揉み消そうとするのだろうけれど。
難易度を上げていくと、「一九四五年、アメリカは広島・長崎に原爆を投下した」。
これも教科書で知った事実というだけで、わたしが経験したわけではない。
多数派がそういっているというだけである。
もしかしたら原爆投下にソ連が関わっていたかもしれない。
もしそうなら「一九四五年、アメリカとソ連は広島・長崎に原爆を投下した」。
これが正しいということになろう。
さすがにこれだけはいかにも正しそうな、「3に5を足すと8になる」。
どうだ、これは疑えるのか。わたしは「3に5を足すと35になる」と思う。
そうではありませんか? 3に5を足したら35でしょう?
数学というルールの範囲内でなら8が正しいが、視覚から見たら35でも悪くない。
本書の有意義な論考をじっくり吟味(ぎんみ)したうえでわたしが主張したいのは、
もしかしたらかなりの「客観的命題」が「主観的命題」なのではないだろうか?
本当は「客観的命題」などないのではないかといいたいが(ああ、いっちゃった!)、
ここまでいってしまうと頭がおかしいのではないかと疑われるのを懸念する。

著者の出した命題から抜粋する(P160)。
「地球は太陽の回りを公転する」。
これは「客観的命題」か、それとも「主観的命題」なのか。
著者は「客観的命題」だという。
わたしは「主観的命題」ではないかと思う。
多数派および権威者は「客観的命題」だと主張するのだろうが、わたしはそう思わない。
なぜだろうと自問すると、あまり多数派や権威者を信じていないからだろう。
なにしろわたしが目にした事実ではない。
「宇宙はビックバンから始まった」はどうか。
多数派や権威者がこれを「客観的命題」にしているのはわかるが、
わたしはこれを「主観的命題」だと思っている。
人によってそれぞれ答えが違ってよい問題だと思う。
「神様が宇宙を作った」でも「宇宙は偶然に始まった」でも構わないと思う。
「霊は存在する」を「客観的命題」にしてしまっていいのだろうか。
もしかしたら「霊は存在する」も「主観的命題」かもしれない。

わたしが主張したいのは、
なにかの命題を「客観的命題」か「主観的命題」かに分けるとき、
まさしくその瞬間に「主観」が入っているのではないだろうか。
まず「主観」ありきで純粋な「客観」など存在しないのではないか。
皮肉をいえば、真理など多数派の意見に過ぎない、となる。
「3+5=8」は真理ではなく多数派の意見に過ぎないのではなかろうか。

新たな命題を作ってみる。「お題目をとなえたら病気が治る」(by創価学会)。
カルト嫌いの著者は、この命題を「客観的命題」と(主観から!)判断するだろう。
で、病気が治らない信者もいることを指摘してカルト宗教団体を批判する。
わたしは「お題目をとなえたら病気が治る」は「主観的命題」だと思う。
価値の問題である。つまり、突きつめれば、好き嫌いになってしまうのではないか。
わたしはお題目をとなえることで病気が治る例もあるのではないかと思う。
まあ、となえたら100%治るというわけではないとわたしは思うが、
そう信じている人をことさら批判するつもりもない。

ポイントは「わたしは思う(=主観)」である。

わたしは「人間は生まれながらに平等である」と思いますが、あなたはどうですか?
わたしは「核兵器は廃絶されるべきだ」と思いますが、あなたはどうですか?
わたしは「ピカソの絵は素晴らしい」と思いますが、あなたはどうですか?
わたしは「一九四五年、アメリカは広島・長崎に原爆を投下した」と思いますが、あなたはどうですか?
わたしは「『源氏物語』は紫式部が書いた」と思いますが、あなたはどうですか?
わたしは「3に5を足すと8になる」と思いますが、あなたはどうですか?

「まつら長者」(室木弥太郎・校注/「説経集」新潮日本古典集成)

→まったく本当に説経節は怖いくらい被差別者の怨念に満ち満ちている。
ギリシア悲劇の描くのが運命なら、日本の説経節は宿命をうたいあげる。
らい者、不具者、狂人、極貧奴婢、自殺者、売女らによる呻(うめ)きの結晶が説経節だ。
「かるかや」は、発狂して乞食坊主になったものの弁明である。
「さんせう大夫」は、奴婢の主人への逆差別である。
「しんとく丸」は、らい者こそ美しいという逆説に満ちた革命歌ではないか。
「をぐり」において、目耳口のすべてが閉ざされているものが実は英雄なのである。
「あいごの若」では呪われた自殺者たちが高らかに肯定される。

さて、「まつら長者」で美に昇華される対象は売女(ばいた)ではないか。
もちろん、日夜身体を売る汚く賤しい淫売がそのまま描かれるわけではない。
さよ姫は穢(けが)れを知らぬ美しい16歳の少女である。
もとは長者(金持)の娘であったが、父が3歳のときに死んだため、家は困窮している。
どうしてさよ姫が身を売るのかといえば、父の十三回忌のためである。
人買いに金をもらうと、道で拾ったと嘘をついて母に渡す親孝行なさよ姫であった。
のちに真相を知った母親が発狂するところが実にいい。
狂うというのは、穢れが多いが同時にどこか人間ならではの光輝も感じさせるものだ。
母(御台所)はさよ姫と別れてきた。

「いたはしやお御台は、泣く泣く屋形に帰らるる、心の内こそ哀れなり。
持仏堂に参りたまひて、口説きごとこそ哀れなり。
「あら情けなき次第やな。けふはみつ、あすより後の恋しさを、
だれやの者を頼みつつ、さよ姫と名付けつつ慰まぬ」。
ただ世の常のことならねば、心狂気とおなりあり、
屋形の内にもたまらずして、狂ひ狂ひもお出である。
「あらさよ姫恋しや」と、つひに両眼泣きつぶし、奈良の都を迷ひ出で、
かなたこなたと迷はるる、御台所の成れの果て、哀れと問はん人もなし」(P361)


母と別れた孝行娘のさよ姫は人買いと彼の故郷に向かうのだが、
ここの「道行(みちゆき)」はおそらく説経節最長ではないか。読むのに苦労した。
実際はけっこう飛ばし飛ばしやっていたのではないかと思われる。
さて、なぜ商人はさよ姫を買ったのか。故郷にはおかしな風習があったからである。
大蛇の出る池がある。
1年に1回、見目良き姫を大蛇に御供として差し出さなければならない。
今年は男の家がその当番である。だから、人買いに都まで行ったのだ。
さよ姫が生贄としてまつられるシーンはなかなかグロテスクだ。
生娘が蛇に食われるところを見ようと、村民が総出で現われるのである。
人間とは、なんと残酷なものか。
人は穢れを通して非日常や祝祭に通じているのかもしれない。
ふだんは忌み嫌っている穢れ(狂気、不具、淫欲、死)を歓迎するときがあるのだ。
穢多の美少女ほど野郎共の劣情をそそる対象はないのかもしれない。
穢多の美少年などかえって神々しさすら感じるではないか。

さて、さよ姫が人柱になっているのに大蛇は現われない。
がっかりして帰っていく見物客たちであった(……すげえ)。
さよ姫がひとりになるとようやく大蛇が現われる。
父の形見の法華経をさよ姫はとなえる。すると大蛇のうろこが取れ始める。
婦人の姿になった大蛇はさよ姫に因縁話を始める。
実は自分も千年前、急流の川に橋をかけるとき、人柱になったというのである。
そのとき強く恨んだので大蛇になったという。
人間に戻してくれたお礼にと大蛇はさよ姫に「如意宝珠の玉」を贈る。
都に戻ったさよ姫は、盲人乞食の姿の母親と再会する。
蛇にもらった玉を使うと母の目がふたたび見えるようになる。
それからは財産にも恵まれてさよ姫は幸せな人生を送ったという。

これは売女のかなわぬ、しかしどうしてもかなっていなければならなかった夢である。
実際は穢れなき生娘も夜ごと野郎の淫欲に弄ばれ大蛇になっていくのである。
しかし、大蛇も「如意宝珠の玉」を決して手放さなかった。
この輝く玉が「まつら長者」という物語になるのだと思われる。
唐突におかしな断言をするが「源氏物語」など日本文学でもなんでもない。
大半の日本人が読めないインテリのための難解な物語が
国民文学であるはずがないではないか。
国民のほとんどが「源氏物語」など共有していないのである。
しかし、説経節を見よ。被差別者の呻きを聴け。
この虐げられた物語は、加害者である我われの物語にもなっているのである。
血縁をたどればどの家も穢れに通じているはずである。
我われは加害者であると同時に被害者でもあるのだろう。
わたしはおのれの穢れを強く意識しながら、このたび説経節を読了したしだいだ。

「あいごの若」(室木弥太郎・校注/「説経集」新潮日本古典集成)

→説経節を読み込んでいるうちに気づいたのだが、
もしやこれは障害者文学ではなかろうか。
中世の説経節に関してはあまり文献が残っていないらしいので、思いつきに過ぎないが。
当時の賤民が日本中を放浪しながら各地で説経節をやっていたということである。
村落共同体でみなとおなじように集団定住ができていたら放浪などしないはずだ。
とすると、集団定住の共同生活の不可能なものが賤しい説経師になったと考えられる。
そうだとしたら、説経師は現代でいう精神障害者、身体障害者がなっていたのではないか。
精神および身体に障害を持つものは、言い方は悪いが共同生活の邪魔者である。
なぜなら、残酷なようだがはっきり言うと役に立たないからだ。
ギリギリの生活をしていたら、いまのように福祉などないのだから、
身体障害者に食わせるメシはないだろう。
おかしなことを言いふらすきちがい、精神障害者はもっと厄介だったはずだ。
精神障害者がひとりいたら集団定住の共同生活を営むのは困難になる。
家族には悪いが、村落から追放するしかないだろう。
こういう障害を持つ男女の大半は野垂れ死にをしたと思われる。
一部の才能を持ったものがうまく師匠を見つけ説経節を覚えたのではないだろうか。
もちろん、師匠も障害者で優秀な弟子を持つといろいろ融通がきいたはずである。

「さんせう太夫」や「をぐり」はくだらないと書いたが、それは目で文字を読むからだ。
耳で聴いたらぜんぜん違うはずである。声の力を舐めてはならない。
うわ言をつぶやいているような狂女が一変、目をらんらんと輝かせ、
病的な「こだわり、プライド、被害妄想」をたっぷり込めて「さんせう太夫」を語ったら、
それはそれは壮絶な感動を呼んだのではないだろうか。
両腕がなくびっこひきひき、さらに片目の身体障害者が、
おのれの不遇を「をぐり」に託してうたいあげたら聴くものみな涙したのではないか。
考えてみたら、「かるかや」はどこか精神病的である。
ふつうなら妻子もいるような立派な武士がいきなり出家したりはしないのである。
現代でいうところの精神病が発症したとしか考えられない。
「しんとく丸」のテーマは「親の因果が子に報う」である。
奇形者が片輪になりし怨念、不具に生まれついた呪詛を「しんとく丸」に込めたら、
聴衆は身震いがとまらないほど心を揺り動かされるのではないだろうか。
誤解を恐れずに人でなしのようなことを言い放ってしまうと、
障害者が中世で役に立つとしたら、説経節に自身の怨嗟の声を託すしかないのである。
そうしてはじめて障害が生きることになる。
被差別者にしかうたえない唄が中世の説経節だったのではないだろうか。

いまでいうなら各地を巡業してまわるプロレスがけっこう近いのではないか。
詳しくは書かないが(書きたくないが)プロレスラーには被差別者が多いようだ。
そういう虐げられたものが自身の苦悩、葛藤を身体表現するのがプロレスである。
いまのレスラーはサラリーマン化しているが、むかしはそうではなかった。
こん畜生という思い、生まれへの呪いを、
畜生や阿修羅のように見世物にするのがかつてのプロレスであった。
プロレスと説経節の共通点をあげると、どちらも即興芸なのである。
観客の空気を読んで、段取りを変えることのできるのがいいプロレスラーだ。
おそらく、説経師も場の空気を察して、
そのときそのときで説経節の内容を変えていたのではないだろうか。
口承芸能の説経節に定本や正本のようなものはないはずである。
そもそも目で読んで覚えるものではない。耳で覚えるものだ。
もしかしたら毎回、説経節の内容は微妙に変わっていたのではないかと思う。
「さんせう太夫」(安寿と厨子王の物語)は正本ではいまのようになっているが、
どう考えたって安寿の拷問死はもう少し性的な色合いを強めたほうがいい。
たぶん、本には清く正しいものが採録されたが、現場では違っていたはずだ。

ここまできてようやく「あいごの若」になる。
説経節「あいごの若」はかなりおかしな筋立てなのである。
結論から先に書くと、愛護の若はまったく救いがなく自殺する。
それどころか登場人物のほとんどが自殺を遂げる始末である。
ほかの説経節のように観音様が救いに来てくださらない。
およそ近代的知性が受けつけないといってもよいほど不気味で悲惨な物語である。
どうしてこうなったのかと考えて気づいたのだが、
このバージョンはかなり変形された例外的なものだったのではないだろうか。
なにやら最後に観音様が現れて救ってくれるバージョンもあったような気がするのだ。
そして、いや、にもかかわらず、
わたしはこのバージョンの「あいごの若」がけっこう気に入っているのだ。

以下に物語をかんたんに説明する。
子宝に恵まれない夫婦が観音様にお願いしにいくというのはいつものパターンである。
学問における観音菩薩は万民をお救いくださるが、庶民の観音様はそうではない。
「しんとく丸」とおなじで条件を出すのである。
「子が3つになったら父か母に命にかかわる事件が起こるがいいかな?」
こうして生まれたのが男子、愛護の若である。
若が13歳になったときに母親が観音様を舐めた発言をして仏罰が下るのも
「しんとく丸」とおなじである(もちろん学問の観音菩薩は仏罰などやらない)。
母は死に後妻が家に入ってくるのだが、この継母が美少年の愛護の若に一目惚れをする。
これはギリシア悲劇「ヒッポリュトス」やラシーヌ「フェードル」と同型といえよう。
継母は何通もの恋文を下女の月小夜に持たせるが、愛護の若は受けつけない。
若は持仏堂で亡き母の供養をしていたのである。
7通目の恋文が届いたときに若は月小夜にこう告げる。
「この手紙を父上に見せて継母を裁いてもらおうと思うが、どうかな月小夜?」
月小夜はあわててこのことを女主人に報告する。
このときの継母の変貌ぶりがすばらしい。
愛護の若の父親は清平という。以下は炎のような恋をする女のセリフである。

「このこと清平殿に聞えなば、一命失はれんは治定(ぢぢゃう)なり。
こよひ持仏堂に乱れ入り、愛護の若を刺し殺し、自らも自害し、
六道・四生にてこの思ひを晴らさん、月小夜いかに」(P321)


「六道・四生にてこの思ひを晴らさん」というのがいい。
「いかように生まれ変わっても」恋仲になってやるといっているのである。
下女の月小夜は、それならばと悪巧みをそそのかす。
直接手を下すのは失敗するかもしれないから、自分の夫をうまく使えばいい。
恋に狂う女の目にはもうなにも見えない。このセリフもいい。

「一念無量劫、生々世々に至るまで、五百生の苦を受け、
蛇道の苦患を受くるとも、思ひかけたるこの恋を、会はで果てなん口惜しや。
憎き心の振る舞ひ、讒言(ざんげん)をたくめ月小夜。
けさまでは吹き来る風も懐かしくおぼしめさるるこの恋が、
今は引き替へ、難儀風とやいふべし」(P321)


前世の因縁としか思われぬような恋がむかしからあったようである。
こうして継母と下女の悪巧みにより愛護の若は以後延々と苦難を受ける。
細かいところは省略するが、放浪する愛護の若に災難ばかり舞い込む。
結局のところ、絶望した若は父と継母を恨みながら「きりうの滝」に身を投げる。
最後の最後まで観音様は愛護の若を救いには来ないのだ。
死後に若の遺書が父、清平の手に渡る。
真相を知った清平は、後妻と月小夜を殺害する。
ここからがすごいのである。関係者全員が「きりうの滝」に身投げしてしまう。
まずは息子の死骸をかかえた清平である。
「いつまでありてかひあらじ。我も共にゆかん」といって入水する。
つづいて登場したほとんど全員がおなじように入水自殺するのだから。
自殺したのは合計で108人になったという。
このときも一度として観音様はお姿を見せない。

6つ説経節を読んだが、これほど後味の悪いものはほかにない。
どうしてこういう説経節ができたのか。
わたしはこの物語を必要とした不幸な庶民を想像する。
本当に苦しいときはハッピーエンドの物語に耐えられないのである。
たとえば、こんなことを妄想する。村の中ではそれなりに裕福な家に息子が3人いた。
そのうちの二人がどうしてか過去に自殺している。
最後のひとりだけは大丈夫と思っていたら、
結婚相手に反対したのが原因でこの息子までみずから命を絶ってしまった。
こういうことがあって悲嘆に暮れている老夫婦のもとに説経師がやってくる。
村民から事情を聞いた説経師は「あいごの若」をやることに決めるのではないか。
この老夫婦は、異形の説経師による受苦の物語を聴いて深く癒されるはずである。
説経師が人間ならぬ形をしていたら(片輪、不具)そのぶん、
まるで聖(ひじり)から神託を受け取ったように思うだろう。
かならずしも観音様は人を救ってくれるとは限らないのだと深々と納得するはずである。
「救われない物語」に救われてしまうほど不幸な人がいるのである。
このとき説経師と聴衆は受苦という怨念で深く通じ合う。
呪われた人間が一瞬でも救われる奇跡が中世にあった。わたしはそう信じたい。

(付記)プライドが高いため、
これまでよそからあらすじをぜったいに引用しないというこだわりを持っていたが、
以下のものはすばらしいので(いや大いに笑えたので)ルールを破ることにする。
この「あいごの若」の解説はだれが書いたのだろう。東洋文庫所収の解説文だろうか。

★唐崎明神と一つ松、となれば愛護若である。彼に纏わる物語は凄惨極まりない。最後に百八人の縁者が次々淵に飛び込むは御愛敬として、愛護若は極めて美少年であったが継母の讒言により緊縛され責め苛まれ、叔父のもとへ逃れ行けば寄って集って打擲され、帰ろうとして山里を通れば中年女{姥}に罵られ打ち据えられて辱められた。若は屈辱に耐えかね自殺した。とにかく美少年が虐待されまくるだけの話なのだ。救済は一切ない。しかも継母の讒言というのが、若を憎んでのことではない。美しい若に懸想して何度も恋文を送ったが、若が夫に密告せぬための用心であった。継母は猿と戯れる若を見て欲情したのだが、いったい若は猿と何をしていたのであろうか。いや抑も、若は親の命と引き替えに長谷観音から授かった子であった。若が三歳になったとき両親の何連かが死ぬことと引き替えに授かったのである……が、若が十三歳になっても両親は健在であった。実母は長谷観音が嘘を言ったのだと若に話した。長谷観音は怒り狂い、実母を殺した。

愛護若は猿を飼っていた。継母に讒言され緊縛され桜の木に吊られた彼を、猿が助けようとするが果たせない。死んだ母が鼬の姿で一時的に甦り縄を切ってやった。鼬は、叔父のもとへ逃れよと告げて、姿を消した。いや母が生き返ろうとしたとき、適当な人間の屍が見当たらず、あり合わせた鼬の死骸に乗り移ったのであった。もう滅茶苦茶な話なんである。叔父である僧侶を頼って比叡山に登ると、天狗だと疑われて弟子どもに袋叩きにされた。命からがら逃げた若は、穴生を通りかかる。生け垣の桃を取る。姥が現れ、若を杖で打とうとする。若は麻畑に隠れる。ますます怒った姥は若を打ちまくった。これまで男どもに散々打擲されてきた若であるが、姥に打たれたことを此の上ない屈辱に感じた。小指を噛み切って血染めの遺書を認め、淵に身を投げて死んだ。途中で三人ほどの善人に出会い飯を貰うが、殆ど不幸だけに彩られた最期であった。そして愛護若が自殺したと知って関係者が次々同じ淵に身を投げて死に、継母は簀巻きにされて川に沈められた。とはいえ勧善懲悪ではない。若に仇を為した者だけでなく、情けをかけた善人たちも次々に死ぬのである。いったい何が言いたいのか解らない。結局、美少年が理不尽に打擲され陵辱されて自殺するだけの話である{東洋文庫「説教節」}

http://lovekeno.iza-yoi.net/gai20081106n.htm



「をぐり」(室木弥太郎・校注/「説経集」新潮日本古典集成)

→小栗判官の伝説をもとにした説経節「をぐり」はむやみに長いけれど、
「かるかや」や「しんとく丸」のような宗教性がまったく感じられない。
無知蒙昧な下層民にひたすら現実逃避の楽しみを与えるだけの娯楽作品といってよい。
熊野、湯の峰温泉の宣伝PRといった面も強く、商業的な悪臭が鼻につく。
ありがちな伝説的英雄と伝説的美女の恋愛物語である。
好きあう男女(をぐりと照手姫)が結ばれたら物語が終わってしまうという理由から、
ハードルをこれ見よがしに設けているのがバレバレで興ざめしてしまう。

をぐり(小栗)はおのれを嫌う照手姫の家族に暗殺される。
だが、地獄の閻魔様の計らいでこの世に業病「六根かたは」の状態で戻ってくる。
一方の照手姫もすんでのところで殺されるのをまぬかれ、
娼婦として売られていく(とはいえ、雑用係で身体は売らないのだが)。
売春宿で働く清純な照手姫は、亡きをぐりの供養として、
業病にかかった障害者に慈悲をかける。旅の移動を手伝ってやる。
観客はその奇形のものこそほかならぬをぐりであることを知っているが、
照手姫は知らずに人助けをするところにドラマチックな魅力があるのだろう。
(いわゆる、すれ違いというやつである)
のちに湯の峰温泉でもとの姿に戻ったをぐりが出世して照手姫と再会を果たす。
かつての暗殺者に仕返しを忘れないのは、いかにも説経節といったところか。

をぐりが地獄から戻された場所が時宗総本山、藤沢の遊行寺(清浄光寺)。
まえに時宗開祖の一遍上人への関心から行ったことがあるので懐かしかった。
ここから熊野までをぐりは多数の遊行者によって運ばれていく。
熊野にもむかし行ったことがあるため、距離感覚がわかりおもしろかった。
説経節は現世での苦難をやたら強調するようなところがある。
そのあげくの幸運、出世、結婚、さらには仇(かたき)への執拗な復讐である。
いかに下層民が世を恨んでいたか、切なくも幸いを望んでいたかがよくわかる。
ちなみに説経節を全国に広めたのは最下層民である。
観客よりもさらに身分の低い、漂泊する芸能者たちが説経節の担い手であった。
彼らは日本中を旅した一遍上人を開祖とする時宗集団の末裔であるとされている。

「しんとく丸」(室木弥太郎・校注/「説経集」新潮日本古典集成)

→「しんとく丸」は日本の「オイディプス王」ではないか。
むかしギリシア悲劇「オイディプス王」を読み、ただならぬ衝撃を受けたものである。
思わず、ちくま文庫の「ギリシア悲劇全集」を読破してしまったほどだ。
「オイディプス王」を根っこに持つ西洋文化に空恐ろしささえ感じた。
しかし、日本にも「しんとく丸」があったのだ。
説経節「しんとく丸」は「オイディプス王」に匹敵するといっていいほどの
禍々(まがまが)しさを有している。呪われた感覚とでもいおうか。
日本仏教は実のところ上層(学問)仏教と下層(庶民)仏教のふたつが存在する。
「しんとく丸」の物語は下層仏教の精髄といったおもむきがある。
「親の因果が子に報う」「親の罰は子に当たる」「因果はめぐる小車」――。
こういった前時代的な黒々とした教訓が不気味な物語として結晶している。

物語は、大金持(長者)の家から始まる。
金がうなるほどあるところに不幸が忍び寄るのである。
金持の夫婦は莫大な財産があるため、なに不自由ない恵まれた生活をしていた。
金がありさえすれば、そうとうなことが自由になるものである。
唯一の悩みは、夫婦のあいだにどうしても子供ができないこと。
どんなにお金があっても子供だけはどうにもならない。
ここで夫婦があきらめていたら「しんとく丸」の悲劇は起こっていなかった。
しかし、夫婦はなんとかして子宝を得ようと京都東山の清水寺に参る。
どうか我われ夫婦に子供を授けてください、
とご本尊の観音様(観音菩薩、観世音菩薩、観自在菩薩)にお願いしたわけだ。
その晩に夫婦の夢に観音様が出てきて二人に子供ができない理由を教えてくれるのだが、
ここが「しんとく丸」の白眉(サイコー!)であろう。

観音様は夫婦に向かって、前生の因果のため子供ができないのだという。
夫のほうは前世できこり(林業従事者)であった。
仕事の必要からたびたび山林に火をつけて燃やしていた。
ある春のことである。
その地域にキジの夫婦が住み着き、母は巣に12の卵を生んだ。
そこに火が迫る。きこりが火をつけたのである。
キジ夫婦は谷水を口に含み何度も往復して消火しようと試みた。
しかし、火の勢いは強い。卵をなんとか移動させようとしたがままならぬ。
ついに父鳥が逃げ出した。そして、逃げろという。
「逃げろ。子供ならまたできよう。いまは子を捨てるしかない」
母鳥はどうこたえたか。
「情けない父親だ。この12の子供のうち、
一羽が巣立たないだけでも不憫なのに、ましてや子供をみな捨てることなんてできない」
そういうと母鳥は子供もろとも焼死してしまった。
一部始終を見た父鳥は、火をつけたきこりを呪いながら自殺する。
「あいつがまた人間に生まれ変わったら、金持にしてくれ。
貧乏子だくさん、長者に子なしというからだ。
そうしてあいつは明けても暮れても子供がほしいと嘆くのだ。
嘆きながら悩みにつつまれそのまま死んでしまえ」
このため、いま子種がないのだと観音様は言い聞かせる。

また観音様は妻のほうにも前生の因果があるという。
妻の前世は橋の下に住む大蛇であった。
あるときツバメの夫婦が近くに住み着き、12の卵を産み落とした。
夫婦は一生懸命、子供を養育していた。
ところが、ある日のこと、夫婦そろって餌を探しに行ってしまう。
これはいい機会だと大蛇は巣もろとも子供をみな食べてしまった。
戻ってきたツバメ夫婦の驚きといったらない。
これは大蛇に食われたかと気づいたが、それでもあきらめきれない。
せめて一羽でいいから子供を残してくれていたら。
絶望したツバメの夫婦はお互いの胸をくちばしでつつきあい心中した。
大蛇ときたらこの夫婦の遺骸もご馳走だと喜びながら平らげてしまったのである。
このため、いま子種がないのだと観音様は言い聞かせる。

金持夫婦はどちらとも前世で他の生き物を自殺に追い込んでいたのである。
子供ができないのもむべなるかな。
親切にも観音様がこう教えてくださったというのに二人はあきらめようとしない。
まずはあろうことか観音様を呪うようなことをする。
それでもダメなら裏取引である。
もし子種を授けてくれたら、見返りに数々の財宝を奉納しようと誓文を立てる。
観音様ときたら、これに乗ってしまうのだから。
「なら子種を与えるが、その子が7つになったとき、
父か母のどちらかに命にかかわる事件が起こってもよろしいかな?」
子供ほしさにあまり先のことを考えず承諾する夫婦であった。
こうして生まれたのが男子しんとく丸である。

こういう裏事情をまったく知らずにしんとく丸はすくすく成長する。
13歳になったしんとく丸は初恋まで経験する。
相手はおなじく長者の美しい娘、乙姫である。
どこまでしんとく丸は運がいいのだろう。乙姫と両思いになることに成功する。
ところが、ここまでであった。
前世は大蛇だったしんとく丸の母親が不適切、不謹慎な発言をしてしまう。
「そういえばむかし観音様になにかいわれたけれど、
子はもう13になるのに父にも母にも災いは生じていない。
清水寺の観音様でさえ嘘をおっしゃるのだね。
なら我われも世渡りのために嘘をつこうではありませんか」
これを聞き逃す観音様ではない。いままで守ってやっていたのに不届き千万。
さっそく母親に病を与え、その日のうちに死に至らしめてしまう。
これはいってしまえば仏罰である。
もしかしたら仏罰こそ下層仏教、底辺仏教のよりどころなのかもしれない。
学問仏教からは仏罰という考え方は出てこないのである。
仏罰思想は底辺で足を引っぱりあうクソ庶民からしか出てこないはずだ。
かつては病人、貧乏人の巣窟だった底辺庶民派仏教団体S学会も、
仏罰という概念を実にたくみに(恐ろしいことに)嬉々として用いている。

前世はきこりだった父親は早々と後妻をめとる。
母の早い再婚に嘆いたのはデンマークのハムレットだが、
日本のしんとく丸は父のあまりにも早い再婚に嘆く。
我らがしんとく丸はハムレットのように能動的ではない。
父と継母のあいだに息子が誕生すると、あっさりすみに追いやられてしまう。
この後妻が悪い女であった。
しんとく丸がいなければ自分の息子が跡取りになると考え、清水寺に詣でる。
卑劣ここに極まれり。女はしんとく丸を呪うのである。
「観音様、どうかしんとく丸に死を与えてください。そうでなければひどい病気を!」
しんとく丸は業病ともいわれる、みなから嫌われるあの呪われた病気にかかってしまう。
顔や身体が醜く朽ち果てるハンセン病、らい病である。
同時に眼球もつぶれ盲目になってしまう。世界は真っ暗闇だ。
悪妻の助言を聞き入れた前世はきこりの父親は、らい病の息子を捨てることに決める。
このへんは黒々とした因果や宿業がもうもうと煙りながら燃え盛っているようで興味深い。
この父親は前世でキジに子供を捨てさせた張本人なのである。
因果がまわって今度は自分が子供を捨てるに至るわけだ。

清水寺に乞食として捨てられた、らい病のしんとく丸である。
彼としたらなにがなんだかまるでわからなかったはずだ。
いきなり天国から地獄に落ちたようなものである。
金持のお坊ちゃまから、業病をかかえた哀れな乞食に転落してしまったのだから。
我われは「親の因果が子に報う」を知っているが、
しんとく丸本人は事情をなにひとつ知らないのである。
彼は盲目のためなにも見えないが、この身体障害はどこか象徴的でさえある。
さあ、しんとく丸はどうするか。とくになにもしない。
乞食をしていると夢に観音様が出てきて熊野の湯に浸かれば病気が治ると教えられる。
しんとく丸はいわれたとおりに物乞いをしながら熊野に向かう。
この途中で目が見えないためうっかり乙姫のお屋敷に入ってしまう。
かつての自分を知る使用人からさんざんバカにされ、
生き恥にもだえながらその場をあとにするしんとく丸であった。
この噂を聞いた乙姫は心を痛める。
自分もみんなと一緒に笑ったと思っているのではないか。
しんとく丸の姿かたちは変わっていても、乙姫の恋心は変わらなかった。
乙姫は乞食にまで身をやつしたしんとく丸を追いかける旅に出る。
このとき乙姫が道中の安全を考え男装するのは、どこかしらシェイクスピア的だ。

不幸な男を救うのは女であった。しんとく丸を救ったのは乙姫である。
らい病でただれた乞食の身体をお姫様は抱きしめる。
二人で清水寺に参ると、今度は乙姫に観音様から夢のお告げがある。
乙姫は夢の中で観音様から教えてもらう。
しんとく丸がこのような業病に取りつかれたのは継母の呪いのためである。
さらにどんな病気も治す不思議な鳥帚(鳥の羽で作ったほうき)があることを。
乙姫は鳥帚(とりぼうき)を見つけ、しんとく丸の病気を治してやる。
この鳥帚というのが心憎い。
しんとく丸の両親の前世を思い出してください。
父も母も前世で鳥類(キジ、ツバメ)の子供を殺して親の恨みを買っているのである。

さて、前世でキジを殺した父と継母はどうなっているか。
しんとく丸を追放して、うまくいっているのか。
否である。またもや禍々しい仏罰が下っているのである。
しんとく丸の父親は信吉という。

「これはさておき申し、河内の国におはします、
信吉殿にて物の哀れをとどめたり。人を憎めば身を憎む。
半分は我が身に報ひてござあるなり。
継母のかたちへは報はいで、信吉殿に報うてあり。
両眼ひつしとつぶれてに、これはこれはとばかりなり。
もはや御内(みうち)の者までも、思ひ思ひに落ちゆけば、
身は貧凍になりぬれば、河内の国高安にたまられず、
丹波の国へ浪人とぞ聞えける」(P203)


なんと父親の目玉もまた、しんとく丸とおなじようにつぶれてしまったのである。
そのうえ財産をなくし、いまは浮浪者となってしまっている。
親も子も時期は違えども交通事故に遭遇するといった不可思議なことがままあるが、
この眼病もそういった呪われた宿命を見事に描いているように思う。
一方で乙姫と結ばれたしんとく丸はギャクタマに乗ったようなもの。
深い因縁のある父と子は再会する。しんとく丸は鳥帚で父の目を治してやる。
のみならず、しんとく丸は仕返しとして継母と腹違いの弟を殺害する。
いちおうはこれで「めでたしめでたし」のハッピーエンドということらしい。
しかし、校注の室木弥太郎氏の指摘するよう、腹違いの弟に罪はない。
幼い少年は、しんとく丸に殺されるいわれがまったくないのである。
まさしくこれこそ「親の因果が子に報う」ということなのかもしれない。
とりあえずはここで説経節「しんとく丸」は終わっているが、深読みすると恐ろしい。
罪なくして母とともに殺された少年は強くしんとく丸を恨んだのは間違いない。
これはかならずや結婚後のしんとく丸と乙姫の新生児に報いが生じるはずである。
説経節「しんとく丸」は永遠に終わらない因果の連鎖を描いている。

繰り返すが、しんとく丸はどうして自分が苦しまなければならなかったかを知らない。
そう、我われもみな「しんとく丸」なのである。
どう考えても理由のわからない難病や災厄に見舞われるものが現代でも少なくない。
この苦しみへの回答として説経節「しんとく丸」は、
禍々しい前生の因果と毒々しい親の因果を黒々と説くのである。
あまたこの世に存在する致し方ない不幸に対するいわば処方箋である。
前生の因果と親の因果に苦しみ抜いたしんとく丸の生き方から我われも学ぼう。
しんとく丸は親を恨んではいない。
ただただ忍びがたき因果の重みをあるがままに受け入れ、盲目的に観音様を崇拝した。
これでいいのだろう。観音様を信頼するしかない。
いつかあなたやわたしのまえにも優しくて美しい乙姫が現れぬとも限るまい。
観音様(観自在菩薩)は般若心経に登場することでも有名である。
般若心経でもとなえながらわたしも因果の重みを引き受けようかと思う。

(注)もちろん、本稿にハンセン病差別を助長する意図はありません。

「さんせう太夫」(室木弥太郎・校注/「説経集」新潮日本古典集成)

→物語自体は「山椒大夫」や「安寿と厨子王の物語」で、みなさんもよくご存知だと思う。
このたび説経節で物語を再体験してみて、あまりの安っぽさにひるんだ。
これは物語パターンとして、そうとう浅はかなのではないだろうか。
連日のように精神病患者を診察する春日武彦医師の到達したシニカルな人間観に、
「こだわり、プライド、被害妄想」というものがある。
人間なんてどのみち「こだわり、プライド、被害妄想」に拘泥(こうでい)するほかなく、
その程度のひどくなったものが精神科を受診するのだという。
そして、説経節「さんせう太夫」は、
まさしく人間共通の「こだわり、プライド、被害妄想」を甘く刺激する物語となっているのだ。

物語を荒っぽく説明する。
名門武士の子である姉弟が人買いに奴隷として売られる。
同行していた母親は別のところに売られていく。
姉弟は奴隷としてこき使われる。
これはもう奴隷なんだから仕方がないのだが、偏向的に悲惨が強調される。
姉は弟を逃がす。その責任を取らされ姉は責め殺される。
弟は寺の坊さんの慈悲でかくまわれ、うまうまと逃亡に成功する。
のちに家系図のおかげで偉くなった弟が、かつての主人に残忍な仕返しをする。
姉の死を知り落涙し、母との再会に喜ぶ。

この物語を「こだわり、プライド、被害妄想」に当てはめると――。
人間はどいつもこいつも自分は本当は偉いのだと思っている(プライド)。
金で買われた奴隷なんだから仕方がないのに(現代のサラリーマンもそう)、
ことさら自分は他人に比べて苦しい思いをしているという不満でいっぱいだ(被害妄想)。
いつか偉くなったら当時の上司にたっぷり復讐してやるつもりだ(こだわり)。

上記のように考えるとなんだかげんなりしてきませんか?
さて、「かるかや」もそうだが、説経節は泣く描写が極めて多い。
とくに頻出する固有の表現は、「流涕(りうてい)焦がれて泣きたまふ」――。
これは本当によく出てくるので覚えてしまい、
散歩中などふと口をついて出てくるようになってしまった。
説経節の登場人物は人目もはばからずわんわん泣きやがる。
つられて聴衆も泣いたのだろうが、これは健康によかったはずである。

「さんせう太夫」における緊迫シーンは実に大衆娯楽的でよろしい。
奴隷の身分から逃げ出したつし王(厨子王)は寺に逃げ込む。
坊主はつし王を籠(かご)のなかにかくまう。そこに追っ手がやってくる。
「わっぱ」をかくまっていないかと問われる。
坊主が自分のほかだれもいないとうそぶくと、追っ手はなら仏に誓えるかという。
「わっぱはいない」と仏に誓文を立ててみろ。
坊主は「ふたつにひとつ」で迷うが、これは定番である。
住職の心中描写。

「今はわつぱを出さうかよ。又誓文を立てうかよ。
今わつぱを出せば、殺生戒を破るなり。
又わつぱを出さいでに、誓文を立つれば、妄語戒を破るなり」(P123)


少年を差し出したらおそらく殺されるのだから、
そうすると仏教で禁じられた殺生戒を破ることになってしまう。
しかし、誓文を立てたら、
仏教で禁止されている妄語戒(嘘をつくなかれ)を破ることになる。
結局、坊主は妄語戒を破り嘘をつく。
このおかげで後日、出世したつし王から厚遇されるに至る。
冷静に考えたら、ここはおかしいのね。
だって、正義は追っ手にあるのだから。
金で買った商品である奴隷が悪さをしたら厳しく罰するのが当たり前でしょう。
つし王など殺されるのが道理というものなのである。
とはいえ、民衆の願望を描いた「さんせう太夫」ではそうはならない。

まとめると「さんせう太夫」は勧善懲悪の物語である。
人間なんて全員が全員ひとり残らず自分は善人だと信じているから(私は悪くない)、
こういう物語が受けるのである(あいつのせいだ、いつか復讐してやる)。
それから作品のメッセージは「慈悲のすすめ」になるのだろうか。
他人には慈悲をもって接しよう。
そうすれば、つし王を助けた和尚さまのように「いいこと」があるかもしれない。
このへんは現世利益をにおわせていて物語ともどもいやらしいと思う。
しかし、「かるかや」よりも「さんせう太夫」のほうが無知な民衆には受けたのではないか。
観客が「さんせう太夫」の物語を身体中で味わい、
すばらしくいい気持になっただろうことは想像に難くない。

「かるかや」(室木弥太郎・校注/「説経集」新潮日本古典集成)

→説経節は演劇の歴史からも仏教の系譜からもたどり着けるため、
両ジャンルに強い関心を持つわたしが読むのは必然だったのかもしれない。
説経節は大衆芸能のひとつ。
全盛期は安土桃山時代で、町角あるいは寺の境内で大道芸のように行なわれた。
根無し草の賎民が旅をしながら行く地、行く地で小金を稼ぐ手段であった。
江戸初期には劇場に進出するようになった。
(人形)浄瑠璃と関係が深く、影響を与え合った。
書物として刊行されたのは、この江戸初期である。

イメージとしてはいまはなき紙芝居屋さんみたいなものか(わたしも未見だが)。
あれの紙芝居のないバージョンと思えばいいのではないだろうか。
もしくは絵のない音だけの映画みたいなものである。
どういうことかというと、芸術ではなく芸能ということである。
なによりもわかりやすい大衆娯楽なければならない。
それから文盲の百姓たちにも、聞いてよかったなと思わせるものである必要がある。
なぜなら、だれも不快なものにたいせつなお金を払いたいとは思わないからだ。

新潮日本古典集成「説経集」には作品が6つ収録されているが、
そのなかでいちばん「かるかや」が深いように思われる。
いろいろな面から考えさせられるということだ。
「かるかや」におけるもっとも強い主題は現世否定の精神ではないか。
現世で不遇な下層民はかならずや「かるかや」を聞いて感動したはずである。
現世否定とは、現世だけではないという思想である。
現世だけだと思うなよ。かならず現世よりも重要な長い後世があるからな。
ならば、現世なぞどうでもいいではないか。
現世がどんなに辛かろうが、後世のことを思えば辛抱することは可能である。
逆に言えば、現世で恵まれている現代のインテリが「かるかや」を鑑賞しても、
おそらく知的興味の対象程度にしか味わえないだろう。

「かるかや」は物語の発端からして現世否定である。
武士の重氏は散る桜を見て「老少不定」を悟り「後世の種」のために出家する。
このいわば軽率な行為が、のちのさまざまな悲劇の原因となるのだが、
思うにほんものの宗教、信仰というものはそういうものではないか。
信仰したら現世利益があるなんていう宗教はインチキなのだと思う。
むしろ仏道に入ることによって、まさしくそのために、
当人にさまざまな不幸や災いがふりかかる。
なぜかといえば、幸福だと人はものを考えなくなるからである。
あまたの災難に遭遇することによって、修行者は深い智恵に到達するのである。
この意味で「かるかや」は信仰の実相を深いレベルで描いた宗教文学でさえあると思う。

さて、13年が経過する。
重氏は出家して道心と名を変え、法然の弟子になっている。
出家時、道心は妻子に再会しても還俗(俗に戻ること)しないという誓いを立てた。
今度は息子の出番である。
父が出家したときには母の胎内にいた石動丸は母と父探しの旅に出る。
父は女人禁制の高野山にいると聞きつけた石動丸である。
母をふもとに残して石動丸は高野山に分け入る。
ところが、石動丸は父の顔を知らない。
「親子の機縁」が深いためか父子は再会する。
父の道心は石動丸が自分の息子だとすぐに気づくのである。
しかし、父であると名乗ったら親子の情にほだされ、いまの立場ではいられない。
このため道心は石動丸に、父を知っているが彼は死んだと嘘をつくのである。
このあたりはドラマチックで、大衆娯楽の本領発揮とも言うべきか。
下山した石動丸は母親が自分を待ちわびて死んでしまったことを知る。
実の父とは知らぬ道心に母の葬送を依頼する石動丸であった。
このときの道心の気持はいかばかりか。
13年ぶりに妻に再会するのだが、それは哀れにもなきがらなのだから。
出家したことを後悔もしただろう。
仏道修行の意味を深く考えさせられたはずである。

石動丸の不幸はこれだけではなかった。
母の遺品をたずさえ故郷に戻ったら、姉の千代鶴姫もまた死んでいたのである。
それも母と弟を待ちわびての心痛のためというのだから。
家族と死別するほどの悲哀はそうなかなかないのではないか。
どうして石動丸はこうも苦しまなければならないのか。
そう、父の重氏(道心)が出家したためである。
むろん、石動丸は父も死んだと思っている。
父、母、姉に先立たれた石動丸はどうするのか。
石動丸の心中を描写した場面を引用する。

「これは夢かや現かや。父には後(おく)れ、母には後れ、
まして千代鶴姫も、今はこの世にござなうて、死骨を見るぞ悲しやな。
かひなき命長らへて、せんなきこととおぼしめし、
共に果てんとおぼしめすが、待てしばし我が心、
我が身も死するものならば、
あとの菩提(ぼだい)を弔(とむら)ふ人もあるまじや」(P74)


石動丸はいったんは自殺を考えるが思いとどまる。
なんのためか。またもや後世なのである。
現世ではなく後世というのが「かるかや」の世界観だ。
死者のめいふくを祈るために石動丸は現世にとどまることを決意する。
天涯孤独の石動丸は高野山におもむき道心と再会する。
こうまで不幸が続いても道心は父であることを息子に告げない。
石動丸に出家するようにすすめる道心であった。
このとき道心が石動丸にかける言葉が「かるかや」全体のテーマだろう。

「後生大事と願はいの」(P75)

意味は「来世で極楽往生するよう、仏にひたすら頼みなさい」(注釈より)。
「かるかや」を聞いていた下層民はこのセリフに深い慰めを感じたのではないか。
ままならぬ世の中である。生きていても、しんどいことばかりだ。
ろくな薬もないから愛する家族と無残な死別を経験したものも多かったことだろう。
しかし、石動丸はどうか!
父、母、姉を亡くしても(父のみ実は生きているが)健気にも辛抱しているではないか。
まったく「後生大事と願はいの」である。
現世のことなんて、どうだっていいのである。後生が大事である。辛抱しよう。
いい話を聞かせてもらったと観客はたいそう感激したはずである。

最後はハッピーエンドである。
道心、石動丸の父子はその後、長いあいだ別々の場所で仏道修行を続け、
それから50年後の同日同刻に仲良く往生(死去)したというのである。

「この世にてこそ御名乗りなくとも、もろもろも三世の諸仏、
弥陀の浄土にては、親よ兄弟、父・母よと、御名乗りあるこそめでたけれ」(P77)


三世の諸仏の集う弥陀の浄土で家族四人は再会したというのである。
この世では不幸なままだったが、あの世で「めでたしめでたし」になるのだ。
むしろこの世で災難つづきだったそのぶんだけあの世での喜びが深まっている。
これはまさしく南無阿弥陀仏のからくりを絵解きしているといえよう。
南無阿弥陀仏の世界観を「かるかや」がいかに見事に物語として描き切っているか!
現世のことなぞ、どうだっていいのである。
かえってこの世では不幸ばかりのほうが、あの世で報われるのだ。
わたしは「かるかや」に深く感動した。

けっこういい歳をした人まで親を恨んでいるのには驚きます。
しかし、それはふしぎではないのです。
死んでからも悪口がほとんど出てこないほどの人格者だったカトリック作家の遠藤周作氏も、
どうやら最後まで父親を許していなかったふしがうかがえるのですから。
親を嫌っている有名人は多いようです。
恥ずかしながら、かくいうわたしも母親の悪口めいたものを「本の山」に書きつけています。

親のせいでこうなった。親が悪かったから自分はこうなってしまった。
だが、あんがい親のせいではないのかもしれません。
大勢の人がいまの不幸を親のせいにしていますが、
もしかしたら親のせいではないのかもしれない。
というのも、じっくり考えてみてください。
いまのあなたやわたしの不満の原因が親にあったとしましょう。
これが真実だとします。親のせいでこうなった。
だとすると、あなたやわたしの親がそうなったのも親のせいということになりませんか。
つまり祖父母のせいで、あなたやわたしはいま不幸ということになる。
お気づきでしょうが、祖父や祖母にも親はかならず存在します。

このため因果論を究極まで追及すると、
いまのあなたやわたしが満足いかない状態であるのは、神さまのせいになります。
始原が悪いから、現在のあなたやわたしはこうなったのです。
結論が出ました。神さまが悪い。
それでは神さまが悪いとは、どういう意味でしょうか。
神さまの存在を認めているということになるのではありませんか。
あなたやわたしが親を恨むのは筋違いで、本当に悪いのは神だという地点にいまおります。

どうしたら神に抗議できるのか。
我われが神に向き合うには祈るしかありません。黙祷することです。
結局、親を恨んでも仕方がないということになります。
神にアクセスするしかない。人間は祈るしかないということになるのではないでしょうか。
因果論(原因結果)を突きつめると神に祈る(神を憎む)しかなくなる。
なかには神なんか信じないという方もおられるでしょう。
これは因果論を認めないということになります。神はいない。
とすると、すべては偶然ということになりませんか。
あらゆることに原因はなく、すべては偶然に生じているにすぎない。
だとしたら、恨む対象はなくなります。
しいて言うならば「運が悪かった」と苦笑するほかありません。
「医薬品クライシス」(佐藤健太郎/新潮新書)

→元製薬メーカー勤務のサイエンスライターの筆なる本書はとてもわかりやすい。
わずか2時間そこそこで業界の裏事情を知ることができるのだから、
たとえこの本を定価で買っていても安いものである。
セミナーが好きな貧乏人はもっと各出版社の新書を有効利用すべきだと思う。
新書はセミナーよりはるかに安い価格で、その数倍の情報を与えてくれるはずである。
以下に本書から知りえた有益な情報を引用ではなく要約する。
みなさんは無料で物知りになれるのだから、ほんとよかったですね。

・製薬メーカーの研究所に勤めている人は高学歴ばかりでたいへん知能も高いが、
それでもその大半は一生新薬を開発できないで終わる。
・それほど新薬開発はギャンブル性が高い。99.9%は失敗する。
そのぶん開発が成功したらものすごい利益が生じる。
とはいえ、開発者は報われない。
売り上げ4千億円の新薬開発者が会社からもらった報奨金は1万5千円だった。
・大ヒットした新薬はほとんどまぐれ当たりのようなもの。
・現代の医学でさえ百年後から見たら呪術やオカルトになってしまうだろう。
・薬の効き目は個人差がかなり強い。だれにでも効く薬はない。
・臨床試験の段階で1/4にしか効能が見られない薬でも商品化される。
患者半分に効く薬でも相当に立派なものなのである。
・以前のマスコミによるタミフル批判は異常。
服用者の全体数を考えたら、薬害は飛行機事故に遭遇するより低い確率である。
リスクがゼロの薬はないと思ってよい。
・健康保険がうまく機能していないアメリカでは一度病気になっただけで、
貧困層にまで転落してしまうことがある。
・旧時代の開発者はオカルトのような非効率的作業で新薬を次々に開発していた。
・いまは研究者がサラリーマン化してこだわりがなくなったため、
新薬開発がうまくいかないという意見もある。
・やはり狂気に近い職人的信念がないと新薬開発には至らない。

感想。日本の医療事情は世界的にも最高レベルではないかと思った。
とくに国民皆保険というのはすばらしい。
いつか高所得者になったら高い保険料でもしっかり払おうと決意する。
でも、80歳を超えた老人に最先端の手術や投薬をする必要ってある?
とりあえずの結論は、製薬会社研究者のみなさん、ご苦労様です。ありがとよ♪

「39歳 女の愛の分岐点」(植島啓司/メディアファクトリー)

→2011年刊。大好きな植島啓司先生の劣化ぶりにあたまが痛くなった。
まっピンクな装丁の本書で植島はアラフォーの女性に媚びを売る男芸者と化す。
もう植島さんは学者を自称するのをやめたほうがいいのではないかと思った。
この本を読んでつくづく思ったのだが、氏は勉強をしなくなっているのである。
失礼ながら、いまやちゃんとした本をほとんど読んでいないように見受けられる。
本人は、自分は遊び人だからこれでいいのだと開き直るのかもしれないが、
しかし発言の根拠としているのは、
もっぱら元学者という権威オンリーなのだから性質が悪いと言わざるをえない。
本書の冒頭で植島啓司はいきなり断言する。

「いまや40代、50代こそが女性をもっとも輝かせる年代で、
39歳をどう通り過ぎるかによって、
その後の人生が大きく違ってくるということが明らかになりつつある」(P27)


はあ? いったいどこで明らかになっているんですか?
明らかになっていません。ぜんぜん明らかじゃないですよ。
そんなもん、マーケティングの宣伝文句に過ぎんでしょうが!
よほどギャンブルの種銭に目がくらんだか、
植島元教授はこの後も女性を甘やかす根拠のない文言を「正しい」ものとして繰り返すのだ。
本書のマーケティングの対象は、ピンクの装丁からわかるよう女子と見て間違いない。
「39歳(付近)女子」に売るものとして、この本は企画されたのである。
このため本書の内容はアラフォー女子の喜ぶようなものばかりとなる。
それを「正しい」こととして主張、あるいは提案するのだから。
「正しさ」の根拠は植島啓司氏の元大学教授という経歴だけである。
ところが、ネットで女子の感想を調べてみたら、どれも好意的なのである。
そりゃあ、ちょいワルふうで顔立ちのよい一見知的なおじさまが、
自分たちに都合のいいことを並べ立ててくれたら悪い気はしないのはわかるけれど、
そこまでアラフォー女子は○○なのかと唖然としてしまった。

このピンク色の本をまさか男は読まないものと植島さんは思ったのか。
いやいや、先生のファンだから「もてない男」にもかかわらず読みましたよ。
男が読まない女子のためのピンク本を、男に向けて公開してみよう。
まず恋愛体質(ぷっ!)の女子を「人を好きになるのは才能」と高く持ち上げる。
それから39歳の女子に浮気のススメをやらかすのである。
というのも、恋愛における最初の決定権は学問的に(え?)女子にあるからだ、
とさらに女子をヨイショヨイショ、高みにあげる植島啓司、元関西大学教授である。
浮気のススメの根拠として、
歴史的および地域的に散見される(いわば例外の)婚外性交の習慣を強調する。
さらにこれは不純異性交遊のススメではなく、
あくまでも「正しい」学問だと主張したいのだろうか。
「フラート」なる横文字の新概念を提出する。
これは脳学者の茂木さんの「クオリア」(もう死語ですか?)みたいなものか。
恋愛体質の女子は「フラート」などと聞くともうダメなのだろう。
うっとりして「フラート、ああ、なんて甘い言葉」などとつぶやくに決まっている。
ちなみに「フラート」とは具体的には、
「たとえば、視線のやりとり、誘惑、男に媚びること(コケットリー)、
ちょっとした接触、人目を忍ぶくちづけ、身体を密着させたダンス、
気取った恋の駆け引き」(P104)のことらしい。
総じて、「相手の注意を引き、欲望をかきたて、嫉妬心を刺激する行為」(同)。

お洒落な「フラート」をわたしの言葉にしたら「お気軽桃色遊戯」になる。
会社と家の単純な往復に疲弊した加齢臭ただようおっさんが、
ローンがまだ残っている自宅で読みさしのこの本を目にしたらと思うとぞっとする。
この学者先生はワイフに「お気軽桃色遊戯」を推奨していやがると激怒するのではないか。
植島先生の顔写真をネットで検索してしまったら、これはもう最悪と言うほかない。
いかにももてそうな苦みばしったいい男だからである。負けた、となるはずだ。

植島啓司先生のこの桃色書籍における結論はこうである。
経済力のあるアラフォー女子よ、もっと恋をしませんか?
なにも生活を壊すことはない。こっそりやればいいのですよ、と背中を押す。
「お気軽桃色遊戯(フラート)」は女子力アップの秘訣とけしかける。
むかしは男が二号、三号というように妾(めかけ)を囲った。
現代はアラフォー女子が二号、三号の男を持ってもいいのではないか。
遊び人、植島啓司先生の提案である。

ここまで一貫して批判的に植島先生の論考を追ってきたが、
最後の最後でわたしは著者と仲良く握手をする(笑)。
まったくそうですよね、植島元教授。女子は二号、三号の男を囲うべきです。
なぜかといえば、おこぼれにあずかれるかもしれないからである。
もうわたしは女性の一号(正式な夫)になるのはあきらめている。
結婚は99%できないだろう。
しかし、恋愛体質の女子が二号、三号を持つのが一般的になれば、
もてないダメ男のこちらにも希望が見えてくるではないか。
二号は無理でも三号くらいならなれるかもしれない。
経済的な負担は一号さんに持ってもらえるのだから、これは都合がいい。
どうやらわたしはあまり独占欲がないようなのである。
おのれのダメぶりを熟知しているから、万が一、億が一にも、
一号にしてくれる女性が現われたとしても、
おそらく「やめておいたほうがいいよ」と助言すると思う。
三号くらいのほうが居心地がよろしい。

やはり植島先生は偉い!

「39歳 女の愛の分岐点」は現代女子必読の名著である。
当方はブックオフで買ったが、女子のみなさんはかならず新刊で買ってください。
どうせいつも男からいろいろ奢ってもらっているんでしょ?
その余ったお金で植島先生の「39歳 女の愛の分岐点」を買うこと。
というのも、いま植島先生はとてもお金にお困りのようだから(年収180万以下とか)。
まずはここ↓をクリック。それから購入に進む。いいですか!

「聖地の想像力」(植島啓司/集英社新書)

→出版当時は関西大学教授の肩書があったので本書も説得力があったのだろうが、
著者が年収180万以下の雑文ライターに落ちぶれた(失礼!)いま読むと、
根拠のない断定と思いつきがだらだらと語られただけのトンデモ本に思えてしまう。
聖地の見物記と大学教授(当時)の随想がメインとなっている。
ときたま読んだ小説や一般書の一節が挿入され、
あたかもなにかを論じたかのような体裁を取っている。

内容は失礼ながら大したことがない。学ぶところもあまりない。
著者のファンゆえ期待の大きかったのが逆に災いしたのかもしれない。
下手をするとわたしでも書けそうな本だが、
当方は大学教授のような立派な肩書を持っていないので仕方がない。
要するに、本書で植島教授はなにを言っているのか。
聖地という時間的空間的に特別な場所がある。というのも――。

「そもそも時間や空間が均質であるというのは非常に近代的な考え方であって、
かつては時間や空間にはかなり極端な濃淡があったのではないかと思われる」(P85)


で、聖地に行くとなにがいいのか。

「どちらもわれわれを宇宙的なスケールへと導いてくれる。
いま、ここで、こうしていることが、
単なる偶然だということを改めて教えてくれるのである」(P81)


わたしの言葉に言い換えたら、
聖地に行くことで、宇宙のなかにおける自分の位置を知ることができる、となる。
また本書に引用された岩田慶治氏の言葉を借りてもいいのなら、
聖地で我われは「人間の生命の由来とおのれ自身の所在を確認」(P143)する。
思えば、暇にまかせてインド、東南アジア、中国の聖地にはかなり行った。
聖地はどこかしら永遠に通じているような気がする。
このため「我われはどこから来て、どこへ行くのか」を強く意識するようになる。
あげく、信仰のあるものは聖地で祈るのだろう。
なぜなら人間は生前および死後の世界を知りえないからである。
そこにアクセスしようと思ったら祈るしかない。

*植島啓司氏の年収のソース「日刊サイゾー」
http://www.cyzo.com/2010/10/post_5760.html

思いのほか昨日見た映画が残っているのである。イラン映画の「別離」。
このいやな「もたれ」はかつて経験したことがあるとずっと思っていたが、
ようやく思い出した。
評判の高い映画「別離」は、イタリアのピランデルロ作品によく似ているのだ。
ピランデルロはノーベル賞作家だから(妥当かどうかはよくわかりませんけれど)、
似たような作品が世界中で激賞されるのはあんがい過剰な評価ではないのかもしれない。
ピランデルロは真実はひとつではないことを劇中で証明してしまった作家である。
影響うんぬんはおそらくないだろうが、イラン映画「別離」のテーマもおなじである。

しかし、このうんざりした感じはどうにかならないものか。
人間というものはなんていやなものなのだろう。
熱愛をしてみなから祝福されて結婚した男女とて、
なかには数年もすれば離婚裁判の泥仕合をおっぱじめるものもいるのだから。
あたしは間違っていない。悪いのはあなたよ。みんなあなたのせい。
責任を取ってください。あたしは悪くないってみんな言っているわ。
おかしいのはあなた。あたしはふつうよ。
バカヤロウ。おまえがこんな女だとは思っていなかった。
おれはよくやっているほうだと思うがね。悪いのはおまえだ。おまえのせいだ。
げんなりするけれど、どっちもどっちで、どちらの言い分も正しいのである。
言った言わないの夫婦喧嘩の仲裁をしたら、
ピランデルロ作品や「別離」を見るまでもなく真実はひとつでないことに気づくだろう。

夫婦関係をバカにしているわけではない。
わたしもまるでおなじだからうんざりするのである。
なかなか自分の非を認められない。どうしても最後まで自分が悪いとは思えない。
ついだれかが悪いのだと悪者をつくってしまいたがる。
しかし、その悪者とてこちらとおなじ人間だから、
自分が悪いなどとさらさら思うはずがないのである。
おれは悪くない。悪いのはおまえだ。
いや、それは違う。あんたのせいだ。うちは間違っていない。
あんたがすべて悪い。あんたは間違っている。責任を取れ。
あんたはおかしい。うちは正しい。
そうだ、そのとおり! おまえが正しい! おれが悪い! とは口が裂けても言えない。

ほとんどの人の話も、自分が正しくて相手が悪いということを前提にしている。
私が間違えているはずないじゃないの。相手はこんなにひどいのよ。
ねえ聞いて、私がどれだけの仕打ちを受けてきたか。
みんながみんな、むろんわたしも、こういうふうな思考法しかできないのである。
そのくせ、相手も自分とおなじだと気がつくことができない。
かりに気がついたところでどうすることもできない。
どうしても自分は正しいと言い張ってしまう。相手に譲ることはめったにしかできない。
善人ぶってうまく手柄を相手に譲ったつもりでも、根っこでは恨みに思っていたりする。
どうして自分だけこんな目に遭うのだろうと大抵の人が憤慨している。
そして、言い分を聞く限り、その主張はすべて正当なように思えるのである。
あなたはわたしとまったくおなじように悪くないのに虐げられている。

こういう度し難い人間の現実を突きつけられて、
なおその映画を傑作とほめられる人は度量が大きいのか。
それとも作品の意味を実は理解していないウスノロが賞賛しているのか。
偏屈なのだろうが、わたしは手放しでイラン映画「別離」をほめあげることができない。
ぜひ見るべきですよ、と人にすすめられない(すすめてもだれも見ないでしょうが)。
ともあれ、重たい作品であることは間違いない。
親愛なるあいどん氏のドラマファン掲示板で読んだ情報がふとあたまをよぎった。
尊敬する山田太一先生がイラン映画「別離」をほめていたとか。
出先の新宿でチケット屋を10件近くまわり、ようやく1500円の前売り券をゲット。
銀座の次に東京で嫌いな街、渋谷におもむく。
鑑賞後、帰宅して調べなおす。

なんと人々は一つの出来事をそれぞればらばらに生きてしまうのだろう。
そして物語が終わっても人生は終わらない。
 
山田太一 (脚本家・小説家)

http://www.betsuri.com/comment/



これはただの感想で、べつにほめていないよね? ああ、やられたかと思う。
読み間違えたのはわたしのほうであった。
非常に評判の高いイラン映画「別離」の頼りにならない感想を書く。
福田恆存氏にかぶれたことのあるわたしは映画が○○だから、
どうか評価は信用しないでください。

うんざりしながら見ていたが、鑑賞後にげんなりした気分になった。
どいつもこいつも自分の権利ばかり主張して、他人のことをまったく思いやらないからである。
そして、それがまさしくわたしの姿と似通っているからやりきれないのだ。
恥ずかしい告白をすると、いつだったか駅のキヨスクでこんな経験をしたことがある。
漫画雑誌を買いたくて順番を待っていた。
わたしの番が来たと思ったとき、売り子さんは順番を無視するのである。
販売員のおばさんが優先したほうのおじさんは裕福な身なりをしていた。
貧乏くさい格好のわたしは思いがけず大きな声を出してしまった。
「わたしのほうが先です!」
ハイハイとおばさんは応じてくれたが、とても情けない思いをした。
たかだが10秒、20秒にどうしてそうこだわる?
なんて自分は被害妄想が強いんだ!

イラン映画「別離」に登場する面々も被害妄想が強いのである。
著名な精神科医の春日武彦先生が、
人間の正体を「こだわり・プライド・被害妄想」と見切っていたが、まったくそうである。
日本人だけではなくイラン人もおなじであった。
国籍で人間はそう変わらないのだろう。どいつもこいつも「こだわり・プライド・被害妄想」。
イラン映画「別離」に登場する大人たちも「こだわり・プライド・被害妄想」が異常に強い。

映画の事件ともいうべきものは、家政婦の流産である。
雇い主が口論ののちに家政婦を押したのだが、
それが流産の原因かどうかが問われている。
雇い主のひげもじゃイラン人が素敵なのである。
まったく反省をしない。自分の行為を正当だと信じている。
それどころか被害者意識満々で、
ボケた父を虐待した(と妄想?し)家政婦を逆に訴えるしまつである。
自分が胎児を殺してしまったのかも……などと罪悪感を抱くことはつゆないのだ。
家政婦も被害者意識しかない。
自分の都合のためになら、職務を放棄することにさらさら痛痒を感じていない。
これが温厚な人格者の山田太一先生くらいになれば、
「みなさん、自責の念を持ちましょう」などと言えるのだろうが、
至らないわたしは「どいつもこいつもおれみたいだな」とげんなりしてしまう。

おまえらもっとゆとりを持てよ、と思ってしまった。ゆとりだよゆとり。
それから酒でものんで水に流せばいいじゃないか(イランは禁酒国!)。
映画で唯一笑えたのは、被害妄想爆裂のイラン人失業者である。
妻が流産してしまったことを、これでもかと過大に被害妄想に仕立て上げるのである。
「おれには失うものがない!」と叫びながら、
みずからが加害者と信じるところの富裕層を執念深く攻撃する貧民の
「こだわり・プライド・被害妄想」には自分を見ているようで笑いがとまらなかった。
ちなみに映画館で笑っていたのはわたしだけである。
だれかついてきてくれると期待したがシニア富裕層ばかりの観客では無理だった。

映画で繰り返される基本の感情は――。
おれを舐めるなよ! あなたのせいよ! 自分は悪くない! おまえはバカだ!
大人たちはみなみなこの世界の住人なのである。
目にものを見せてやる! おまえのせいだ! おれは悪くない!
結果として「別離」にいたる。全員が不幸になる。
救いはどこにもない。感動も見当たらない。
みなが少しずつ他人の立場を思いやったら、これほどギスギスはしないのである。
しかし、わたしはどこぞの先生ではないから偉そうに意見できない。
自分もまあ、こんなものだろうと苦笑するしかない。

要らん映画、いやイラン名作映画「別離」から学んだこと。
・ひげもじゃのイラン人を怒らせると半端ねえぞ。
・育ちの悪い貧乏人はアグレッシブだ。
・イランの貧民窟はすげえな。
・金持は人として汚い。
・子供は嘘をつくことで汚い大人になる。
・「子はかすがい」ではない。
・悪いのはおまえで、おれは絶対に悪くない。
・映画宣伝文の「衝撃の結末」は信じてはならない。
・山田太一先生は善人。
・お酒は必要悪。
・ボケたら勝ち。
・女子供(おんなこども)は正義。
・「子役は監督の娘」からわかるよう、どこの国もコネは強い。
・ゆとりを持とう。
・でも人間はどうしようもなく「こだわり・プライド・被害妄想」。
・人は幸福よりもあえて不幸を選択するものだ。

ふむ、なかなかの映画でありました。ぜひぜひご覧ください。
「泣き虫ハァちゃん」(河合隼雄/新潮文庫)

→河合隼雄先生の遺作となった自伝的小説とのこと(帯やPRによる)。
これは自伝的小説ではなく、自伝的童話ではないかとも思うが、まあどうでもいい。
遺作のため完結はしていない。
自伝が途中で途切れるというのは、人生そのもののようでおもしろい。
完結する人生などないのである。
どの人生も、どんな偉大な人生も、途中で不本意なままに途切れる。

作品が小説として、あるいは童話として質が高いのかどうかはわからない。
おそらく童話コンテストなどに応募していたら落選したのは疑いえないが、
ひかえよみなのもの、この本は河合先生がお書きになったものだぞえ。
わたしも尊敬する河合先生の本だからということで感じ入る部分があった。

河合先生はとにかく涙もろかったのである。
心理療法の事例報告をしながら、わんわん泣き出すことも少なくなかったようである。
おなじく、事例を聞きながら涙をぽろぽろ流されることもあったそうだ。
だから、「泣き虫ハァちゃん」なのだろう。
泣き虫になったいわれとして紹介されている幼児期のエピソードが興味深い。
幼少時、ハァちゃんの弟が2歳で死んでしまった。
このあとお母さんは仏壇をまえにして泣き暮らしたというが、
そのときおそばで一緒に泣いていたのがハァちゃんだったというのだ。
どれほど母は子に慰められたか。

次のエピソードもおもむき深い。
小学生のときからハァちゃんはとにかく要領がよかったという。
本当のことを書けと教員から指導された遠足の作文で調子よく嘘を書き、
まさにその箇所を先生からべた褒めされたというのだから。
自分はあまりに要領がよすぎるのではないかと悩むハァちゃんであった。
このハァちゃんの悩みは、
おそらく作者である老人河合隼雄の抱いていたものとおなじだったのではないか。
とにかく河合先生は要領がいいのである。
この先生がどうしてか心理療法家になり、要領が悪く苦しんでいるクライアントを多く救った。
わたしも救われつつあるひとりである。

「ウソツキクラブ短信」(河合隼雄・大牟田雄三/講談社+α文庫)

→たぶんお仲間の遠藤周作の狐狸庵(こりあん)ものに影響を受けたのだろう。
遠藤は別人格の狐狸庵をつくりだし、親しみやすいエッセイを多産した。
あるいはユング心理学のペルソナ(仮面)や影という問題意識があったのか。
河合隼雄のつくった狐狸庵が、同一人物の大牟田雄三(おおむだゆうぞう)である。
本書の内容は、お仲間にだけわかる内輪受け狙いの小話とでもいおうか。
有名人がお仲間にだけ通じる符合を使って楽しんでいるようなものである。
はっきり言って、おもしろくもなんともなかった。
これは経歴から消したほうがいい河合隼雄先生の汚点でさえあると思う。
しかし、文庫本の解説だ。お仲間の大御所作家・柳田邦男先生によると――。

「……この本を読んでどこまで笑えるか、その“笑い度”如何(いかん)が、
読者の知的レベルを測る物差しになるかもしれないということだ」(P258)


まったく「お仲間病」の重症患者は困ったものである。
抱腹絶倒した(うそつけ!)自分は知的レベルが高いと誇っているのだから、この先生は。
わたしはこの本を読んでまるで笑えなかった。苦笑さえしなかった。
とはいえ、社会というのは、まあ、こういうものなのだろう。
あらゆるところで「仲間褒め」や「身内褒め」がはびこっている。
そのうえで「このおもしろさがわからないのはおまえがバカだからだ」と脅迫するのである。
よくよく考えてみたら柳田先生の偉さを裏打ちしているのは河合先生である。
ならば、どうして河合先生の愚書を柳田先生がけなす必要があるだろうか。
世の中は、そういうふうにできているのである。大人は、そんなものなのだよ。
救われたのは、河合先生の判断である。
おそらく自著の正確な価値に自身で気づいたのだろう。
河合先生が大牟田雄三名義で本を出すことは以後なかった。さすが河合先生である。

「声の力」(河合隼雄・阪田寛夫・谷川俊太郎・池田直樹/岩波書店)

→2001年に小樽市市民会館で行われたセミナーを収録したもの。
ほんとはさ、こうしなきゃいけないという情報に耳を貸す必要はないんだろうな。
出世のためにはこうしなければならない。
健康のためにはこうしなければならない。
ほかにもあまたある「こう生きるべき」という赤の他人からの助言は気にしないほうがいい。
(家族、友人、恋人からの助言は人生を豊かにすると思うけれど)
そういうさも正しげな他人からの情報を無視するところに生きる味わいがあるのだと思う。
「人間一般の味わい」ではなく「私の味わい」のことである。
つくづく思うのは、人生は一回きりなのだ。やりなおしはきかない。
うまくいく確率の高いほうへ人生を賭けても失敗することはある。
しかし、人生は、そういうことならもう一度賭けなおしましょうというわけにはいかない。
いくら高確率でうまくいくとされる人生の選択肢があったとしても、
あなたやわたしの一回きりの人生でそのとおりになるとは限らないのである。
どんな確率の低い賭けだとしても一回きりならうまくいってしまうこともあるのだ。
熱心にガン検診を受けていたという大御所脚本家が末期ガンでポックリ逝ってしまったが、
人生とはそういうものなのである。
(しんどい闘病のない、ころり往生は最高の幸福だとわたしなどは思うが)

河合隼雄先生のお言葉から――。

「最後に申し上げたいのは、私は先ほども谷川(俊太郎)さんに言われたように、
歌よりも語りのほうで、語り屋さんなんですが、
だからそういう意味で物語というのが大好きで、このごろよく言っていますことは、
自分が生きているということは、自分の人生の物語を生きているんだ。
これは私が主人公で、世界に一つしかない。
しかも過去にもなかったし、未来にもないだろう。
唯一の物語というもの、「河合隼雄の物語」という物語を僕が生きているんだと思うと、
なかなか面白くなってくるんですが、そのときに物語るだけではなくて、
私の人生を語るということのほかに、私の人生を歌う、
実際そういえば、人生を謳歌するなどという表現もあるのですが、
自分の人生ということを語るだけではなくて、
歌うということも考えてみれば面白いのではないか」(P42)


当方、カラオケは嫌いだが、口笛を吹くのはむかしから好きである。
きっと人生で苦しいときは悲しい歌を口笛でピーピー吹いていたらいいのだろう。
そのとき、ほかにない「私の人生」の味わいをしみじみ深く感じ取ることができる。
順風満帆な人生を送っているものには決して奏でられない曲があるのだろう。
「こうすべき」という出世情報、健康情報はしょせん「人の人生」のこと。
なるべくなら「人の人生」よりも「私の人生」を生きたほうがおもしろいはずである。
そう、おもしろい人生はいい。一回きりの人生ならおもしろいほうがよろしい。

「河合隼雄の人生読本」(河合隼雄/潮出版社)

→書評(読書感想エッセイ)を集めて1冊としたもの。
よく河合さんが言う「賭ける」の意味がわかったような気がする。
「人生は賭けてなきゃダメだ」としばしば氏は仰せになる。
人生で岐路に立たされることがある。このときの態度が問題のようだ。
Aにしたらいいか、Bにしたらいいか人は迷う。
たとえば、本当のことを告げようか、それともここは嘘をついたほうがいいのか。
こういう「ふたつにひとつ」の相談がきたとき、
河合隼雄さんは「わかりません」と答えるという。
どうしてなのか。
ここで河合さんが「正しい答え」(そんなものはないのだが、あるとして)を
言ってしまうと、相談者は責任を心理療法家に持たせてしまう。
「京都大学の偉い先生がおっしゃったので」と責任を回避してしまう。
これでは全身で問題にぶつかることができなくなる。
「賭ける」ことから逃げている。
河合さんは二者択一問題の相談者夫婦になんと言ったか。

「それで、私が言ったのは、どちらが正しいかということを考えるのではなくて、
私たちはこのようにしようというふうに考えてください。
ただし、自分たちがこう決めたからには、
全責任をとってその子に会う覚悟をしてほしいのであって、
正しい方法を知ろうとするのではない、ということです」(P135)


これが河合隼雄さんの言う「賭ける」の意味かと思われる。
我われはなにか迷うとすぐに正しい方法を知ろうとする。
だれか偉い人に相談して、意見に従おうとしてしまう。
しかし、それではいけないと河合さんは言うのである。
全責任をとって自分で決めよう。これが「賭ける」ということだ。全身で賭けてみろ。

ふと思ったが、海外一人旅を経験すると「賭ける」ことに慣れるのではないか。
なるべくならガイドブックを持たないほうがいい。
泊まるホテルからレストランまですべて自分で決めると「賭ける」のに強くなる。
行き先もその場その場で決めるともっといい。
バス1本乗り遅れたことで、かえって貴重な出会いに恵まれるのが一人旅である。
そして、おそらく人生も似たようなものだろうという直感が芽生える。
ツアーのパック旅行に参加してしまうと楽ちんで快適で効率的だけれど、
おそらくそのぶんつまらないような気がする(経験がないので推測だが)。
幸運にも海外一人旅をしたことがある。
強く記憶に残っているのは、ガイドブックに載っていない地域を旅したときの光景だ。
いま酒をのみながらたまにじんわり懐かしく思い返したりするのは、
決まってトラブルやハプニングといった当時は不愉快に感じていたことなのだ。
人生にもおなじことが言えるのかもしれない。
もしあの世があるのなら――。
たくさんこの世で「賭ける」経験をしておいたほうが、どうやらあの世では楽しめそうである。

「ココロの止まり木」(河合隼雄/朝日文庫)

→「週刊朝日」連載エッセイ。最晩年の著作である。
運命の力というものを、これでもかと思い知らされることが人生で多い。
人間の無力のまえに絶望的になり、何度も投げやりな気分に落ち込んだ。
運命の力に打ちのめされると河合隼雄さんの言葉にすがりつく。
以下は、ギリシア悲劇「オイディプス王」鑑賞後の感想である。

「現在は科学技術の発展によって、人間は極めて便利で快適な生活を享受できる。
自分の意志と努力によって相当なことが可能になる。
にもかかわらず、運命によって不幸に陥る人も多くある。
私のような心理療法家は運命の力の強さを感じさせられることが多いが、
自分の運命を引き受けて生きる人の姿に輝きを感じさせられる体験もする。
自分の意志や努力を大切にして生きるのは素晴らしいが、
運命の力を感じ取りつつ生きることによって、笙(しょう)の微妙な和音のように、
人生の味が深くなるように思うのである」(P42)


「運命によって不幸に陥」った人は河合隼雄の心理療法を経ることで、
「自分の運命を引き受けて生きる」人になる。
結果として、当人の「人生の味が深くなる」――。
いったい河合さんは心理療法でなにをしているのだろう。

「精神科医の中井久夫の言葉に、病に対する「最大の処方は、希望である」という、
私の好きな言葉がある。確かに、何のかのと言うよりは、
揺るぎのない希望をもって人に接するのが、
われわれ心理療法家の最大の役割ではないかと思う。
とはいっても、「希望つぶし」の名人のような方々とお会いすることが多いので、
こちらも大変である。そんなときに、私は自分がどれほど多くの、
希望に至る心の回路をもっているかが勝負どころかと思ったりする。
ひとつやふたつつぶされても、大丈夫なのだ」(P139)


心理療法家はひたすら希望しているとのこと。
運命の力で不幸になった人のそばに、希望するだれかがいたら、当人は立ち直れる。
どちらかといえばわたしは希望つぶしの名人のほうである。
どうしたら「希望に至る心の回路」が増えるのだろう。
河合さんはシェイクスピア劇を見た感想として、回路が増えたと書いている。
「ペリクリーズ」で「起こりえないこと」が連続して起こっているのを見たという。
たしかに舞台では「あんなにうまくいきゃーしないよ」ということが多く生じる。
人は芝居を見たあとしばらくしたら「現実は……」と落胆するだろう。
ここで「希望に至る心の回路」は通常なら閉じてしまう。
どうして河合さんの回路は閉鎖しないで増加するばかりなのだろう。

「先に「起こりえない」などと書いたが、考えてみると、
心理療法のなかで、立ち直っていった人たちは、
すべて「起こりえないこと」を経験している、と言っていいことに気がつくのだ。
言うならば、「起こりえないこと」は「必ず起こる」のである」(P138)


氏のこの確信の強さに引かれて(騙されて)本をたくさん読んでいるのかもしれない。
さて、「人生の味が深くなる」とはどういうことか。
これに関連するエッセイが本書にある。
言うまでもないが、河合さんの心理療法にくるような人はみな不幸である。
どうにかして幸福になりたいと思っている。そのお手伝いをするのが心理療法家だ。
しだいに河合さんは幸福とはなにかわからなくなってきたという。

「こんな仕事を長く続けているうちに、いったい「幸福」とは何か、
だんだんとわからなくなってきた。というのは、一般に「幸福」というと、
お金がたくさんあって、仕事がバリバリできて、自分の好きなことがどんどんできる、
というようなイメージを抱かれるのではなかろうか。
アメリカのパーティなどに行くと、そんな典型的な人にお目にかかれる。
すべてに自信にあふれている、ということはよく伝わってくるが、
「安心」のほうはサッパリなのである。傍らにいると、
なんとなくこちらまでそわそわしたり、時にはイライラしてくる。
最後には、「立派なものですな。しかし、あなたそれで人生ほんまにおもろいの」
などと言いたくなってくる」(P81)


なるほど、「幸福」はマクドナルドのハンバーガーのように大味なところがある。
「幸福」は、細かい味をケチャップで真っ赤にしてしまうような強引さがある。
「人生の味が深くなる」というとき、
それは「幸福」から一歩離れた立場からの視線が重要になってくるような気がする。
河合さんは「安心」の思想を仏教から知ったという。
そういえば、日本最大の例の仏教団体、
その構成員はみな「安心」から程遠いのではないか。
「お金がたくさんあって、仕事がバリバリできて、自分の好きなことがどんどんできる」
これを目指しているのが多くの創価学会員のように見受けられる。
目的は、とにかく勝つこと、がむしゃらに得ること。勝利! 獲得!
もしかしたら仏教的な「安心」は、負けること、失うことがポイントなのかもしれない。
敗北や喪失が「人生の味が深くなる」のと、あるいはなにか関係しているのかもしれない。

「平成おとぎ話」(河合隼雄/潮出版社)

→京都新聞連載エッセイ。
人間というのはつくづく無力だとこの歳になって思い知っている。
だれもが自分の生きた人生からしか学べないから、
なかには人間は有力でがんばればなんでもできると信じておられる方もいるようだが。
わたしは残念ながら人間の無力を強く味わわざるをえないところに生まれ落ちた。
無力の自覚は、この世では解決できないことの存在を深々と認めることから生じる。
長く生きた人はみなご存知でしょうが、取り返しのつかないことがあるのである。
1回起こってしまったら、もうそれ以前には戻れない悲劇、不幸が人生には多々ある。
どうにかしたくても解決できない問題が、この世にはいくらだってあるのである。
解決できなくても、人は生きていかなければならない。
そのとき重要になるのが「収める」という考え方だと河合隼雄さんは主張する。

「心の葛藤をどう解決するか、という問題は、
私の心理療法家という職業にとって大切なことである。
そのときに、いろいろと考えたり分析したりして解決法を見いだすだけではなく、
ある種の美的判断によって、心を「収める」道を見いだすことも大切ではないか、
などと、この頃は考えている」(P40)


人間は無力だからどうしようもなくこの世では解決できないこともあるが、
しかしそれでも、全体のなかでうまく「収める」ことができるのではないか。
このとき大切なのは美的判断だという。
解決できない問題でも、全体のなかで美しい「収まり」を見せることがある。
心理療法家・河合隼雄が処方する人間の希望である。

さらに人間は無力だからどうしようもないと絶望してばかりではいけない。
人間の無力はまた希望にも通じているのではないか。
河合隼雄さんは、産婦人科で働く臨床心理士の症例報告に感動したという。
出産はままならない。深い心の傷を負った母親に臨床心理士は寄り添うという。
臨床心理士は「すぐに慰めない」。「慰めると終わってしまう」からである。
心をこめてじっと聴き、その悲しみや苦しみを受けとめている。
するといろいろな痛ましい心の葛藤を経て、親が親になっていく。
親の責任に目覚め、立ち直っていく。
この話に河合隼雄さんは深く感動し、そしてこう指摘するのである。

「この話から学ぶことは多い。私が一番感銘を受けたのは、
「無力」ということが媒介になって、心と心が触れ合うところである。
「無力」の自覚が大切なのだ」(P145)


無力であることの自覚から、人と人が通じ合うこともあるのである。
人間は無力だが、無力だからこそふたりの人のあいだに特別な感情が流れる。
心と心の橋渡しを無力がしてくれるのである。
この橋をよりどころにして、人間は立ち直っていくことができる。

この世では解決できないことも、あの世を考えてみると、ときに「収まり」がつく。
河合隼雄さんは、デカセギという言葉に注目する。
デカセギという日本語がブラジルではそのままポルトガル語の外来語になっているという。
多くのブラジル人が日本にデカセギにくるためである。
このことを知った河合さんは、ある「おはなし」を思いつくのである。

「これを読んでいて、ふと思ったのは、
すべての人は実は「デカセギ」に来ているのではないか、ということである。
「あちらの世界」から「こちらの世界」にデカセギに来ているのだ。
滞在期間はさまざま。しかし、こちらに居つくことはできなくて、
必ず「帰国」しなくてはならないのが、このデカセギの特徴である。
ところで、その間に人間は何をどのくらい稼いで、貯めて帰るのか。
財産、地位、名誉などは、こちらで価値をもつとしても、
あちらに持ち帰るのは不可能だろう。
たとい持ち帰ったとしても、あちらでは無価値ではないだろうか」(P67)


おそらく、あちらは永遠というほどの長い時間が流れている。
こちらの世界にデカセギで滞在するのはせいぜい長くても100年である。
そうであるならば、このデカセギの期間にいったいなにを稼いだらいいのか。
もしかしたら金を稼ぐよりも、
功徳のようなものを積んでおいたほうがあちらではいいのかもしれない。
日本にデカセギにくるブラジル人は、本国での職業はいろいろだという。
日本では肉体労働をしているがブラジルでは弁護士というものもいるそうだ。
ここから河合さんは連想する。
我われの同僚や部下のなかにも、あちらの世界では王様というものがいるのではないか。
もしそうなら、こちらであまりいじめると、あちらでまずいことになってしまう。
あちらの世界を考えると、こちらの世界での振る舞いが変わってしまうのである。
こちらの世界では解決できないことも、あちらの世界を前提にして考えると、
ある程度は「収める」こともできるのかもしれない。

こちらの世界でどうしたらあちらの世界をうかがい知ることができるのか。
たとえば、夢や無意識はどうやらあちらの世界に通じているようである。
なぜなら、我われは夜見る夢のなかでなら死者と再会することができる。
この夢には無意識が大きく関係していると考えるのがユング派である。
このため良質の文学作品を読むことの意味を河合隼雄さんは強調する。
以下は著名な心理学者の表明した文学観と見てもよいのだろう。

「文学作品というものは、作者が登場人物の性格や話の道筋を
大体きめて書きはじめると、作中人物が作者の意図と異なって勝手に動きはじめ、
それをどうするかと作者が苦労しつつできあがってくるものだ。
そこには作者と登場人物の格闘がある。このような作品に接すると、
読者も自分の意識を超える存在に触れる実感がして、
時には汗が流れたり、体がふるえたりするほどになる。
桑原武夫先生が、読みながら身体が反応するほどでなかったら、
それはよい本ではない、と言われたことがある」(P101)


名作といわれる文学作品は、無意識つまりあちらの世界に通じているのだろう。
このため我われはある小説に身体もふるえんばかりに感動することによって、
こちらの世界の解決不能の問題をうまく「収める」ことができるようになる。