酔っ払ったいきおいで暴論をおっさんが語っちゃうよ。
これはほんとうは直前の記事「蓮如上人御一代聞書」に書いたことだけれど、
どうせだれも読んでいないっしょ? それで、いいのいいの。
おれだってあんな長文は最後まで読まないから。

新興宗教っておもしろいよね。こちら特定の団体には所属していないけれど。
いわく、蓮如に還れ、親鸞に還れ、法然に還れ、(中略)仏陀に還れ。
でもさ、それおかしいよ。
どうして蓮如、親鸞、法然、(中略)仏陀は正しいの?
しょせん正しいなんていうのは幻想で、
人は多数派が肯定しているものを正しいと錯覚するものなんじゃないかと思う。

ぶっちゃけ、仏陀が正しいなんていうのは嘘だからね。
アフリカの奥地にでも行って原住民に仏陀の話をしてごらんなさい。
だれもまともに聞いてくれないから。

多数派の意見を人は正しいとみなす。

大工の息子のイエスなんかも、だいぶ人民をだまくらかしたようだ。
だから、戦争が絶えないのだとも言いうる。
絶対的に正しいことなんて、ほんとうはひとつもありえないのかもしれない。
もしこのことをイエスや仏陀が言っていたら楽だったのだけど、わたしの言葉じゃね。
貧乏だからほとんど口にしたことはない牛の焼肉はインドではアウト。
なぜならインドでは多くの人が牛を聖なるものと信じているから。
鯨を食うなって勝手に怒っている野蛮な自称先進国もあるわけで。

よって、真実を追い求めるほどの愚行はない。
金を儲けたかったら、どうしたら多数派になれるかを考えるに限る。
百回だって千回だって言いたいが、正しいことなどこの世にひとつとしてないのである。
もっとも無名のわたしがなにを言おうが、だれも耳を傾けてくれないでしょうが。
イエスが偉いのは、没後に多数の人を味方につけたからである。
仏陀しかり、親鸞しかり。
ほんとうは絶対的に正しいことなど、なにひとつないのかもしれない。
だれか権力を持つ人(=支持者が多い=多数派)が、
この愚考に目をとめてくださるといいのですが……。
「蓮如上人御一代聞書」(稲葉昌丸:校訂/岩波文庫)品切れ

→蓮如(れんにょ)という室町時代の坊さんはかなりすごい人なのではないか。
そうとうがんばった人のようである。
もし蓮如が現われなければ、親鸞も法然も歴史の教科書に載らなかったかもしれない。
蓮如がうまく持ち上げたおかげで親鸞ひいては法然の株が上昇しているようなところがある。
法然や親鸞は宗教的天才だったかもしれないが、ぜんぜん人を救っていないのである。
せいぜい来るもの拒まずくらいの精神しか持っていなかったと思われる。
ところが、蓮如は率先して大勢の人を勧誘したのである。
たくさんの人を救った。言い換えたら、あまたの人を上手にだました。
おそらく、日本最初のカルト教団は蓮如の浄土真宗ではないかと思われる。
浄土真宗の開祖は親鸞になっているが、あれは蓮如のでっち上げだろう。
当時のカルト教団・浄土真宗を始めた蓮如は巧みに親鸞を権威づけに利用した。
もちろん、蓮如は親鸞の天才をだれよりも知っていたのである。
しかし、親鸞の教えそのままでは万民救済がかなわぬことも彼は同時に知っていた。
親鸞の教えは親鸞ひとりを救うためのものだった。
学才豊かな蓮如も親鸞の教えに救われた。
だが、このままでは無学なものを救うことはできないのではないか。
「歎異抄」を繰り返し読んだ蓮如の結論である。
「歎異抄」をだれよりも読み込んだ蓮如は、この書を一般には閲覧禁止にした。
このとき蓮如の教えが誕生したのだと思われる。

蓮如は室町時代の池田大作と言ってもよいのだろう。
とにかく勢力拡大がうまいのである。人心を掌握するのが巧みである。
人を引きつけてやまないカリスマ性を持つ。
たぶん、とても人間くさい傑物であったのだろう。
ただの聖人君子ではなく、ほとんど万能とも言うべき金の力を知っていた。
自身が聖俗の王者になろうという野望を持ち、実際に念願をかなえたのが蓮如である。
これから日本初のカルト教団教祖、蓮如の宗教作法を見ていきたい。
「蓮如上人御一代聞書」は弟子がまとめた蓮如の言行録である。

まず蓮如はなにをしたか。だれが偉いのかをはっきりとさせる。
おそらく、親鸞には教団設立の意思はなかったものと思われる。
だが、本願寺8代目の蓮如は親鸞を持ち上げることで自身もまた偉いのだと宣言する。
親鸞が偉いのだから子孫の自分も絶対的に偉いのだという理屈である。
そのうえで教義を整理する。この教団ではなにがもっとも偉いのか。
蓮如は(阿弥陀仏の)木像よりも絵像よりも名号が偉いとする。
「名号>絵像>木像」である。名号とは、南無阿弥陀仏のこと。
繰り返すが、蓮如教団では名号をご本尊とする。
さらに蓮如自身が名号を書き、各地の信者にこれがご本尊だと送ったという。
自分ほど名号を書いたものはいまいという述懐が本書に採録されている。
この権威ピラミッドは実にうまく考えられている。
名号がもっともたいせつだとしたうえで、その名号を自分が書くのだから。
「蓮如>名号>絵像>木像」となるのがわかろう。
蓮如自身の偉さは親鸞に保証させるから、正確には「親鸞>蓮如>名号>絵像>木像」だ。
このうえで蓮如は親鸞の教えをまことわかりやすく説く。
教えとは――念仏すれば死後に極楽浄土に往生できる。これだけである。

「仏法には、よろづかなしきにも、かなはぬにつけても、何事につけても、
後生のたすかるべきことを思へば、よろこび多きは仏恩なり、と云云」(P163)


これは現世なんてどうだっていいじゃないかというカルト的思想である。
世の中は悲しいことであふれている。なにごともうまくいくことはめったにない。
しかし、である。死んだら極楽浄土に往生できるのである。
浄土にはむろん悲哀も苦労もない。
ならば、どうして喜ばない? 死んだら浄土に行けるのだから喜べ!
現世なんてどうだっていいのだ。後生(死後)に助かるのだからなぜ喜ばない?
この教えは、当時の下層民をたいそう喜ばせたことと思う。
この時代は遊園地もファミレスも映画館もないのである。
たぶん貧農レベルになると、生きていることは苦ばかりだったのではないか。
楽しみなど貧しい食事と子作りくらいしかなかったはずである。
医学なんてあってないようなものだから平均寿命も短く人がぽんぽん死んでいく。
ここに死んだら浄土に往生できるという教えがもたらされる。
どうしたら往生できるのか。蓮如は念仏すればいいと説く。
言うなれば、蓮如は死の押し売りをやったわけである。
死後の世界を売り物にしたのが蓮如という男だ。
いわく、死後に往生できるのだから喜んで念仏せよ。

「仰せに、弥陀をたのみて御たすけを決定して、
御たすけのありがたさたふとさよと、よろこぶこゝろあれば、
そのうれしさに念仏申すばかりなり。
すなはちこれ仏恩報謝なり」(P48)


念仏の意味は「阿弥陀仏様ありがとうございます」だと蓮如は言うのである。
よくさ、くっだらないチープな自己啓発本とかで「ありがとう」を言おう、
とかあるじゃん。感謝の気持を忘れないようにしよう、とか。
チープではあるけれども、あれはある面での真理を突いているのだと思う。
だって毎日、ありがとう、ありがとうと感謝していたら、嘆かないで済むから。
なにが不幸かといったら、どうして自分は苦しむのだろうと悲嘆するせいなのだから。
だから、蓮如の言うように、感謝の念仏をしていたら実際問題として救われる。
なぜありがとうかといえば、死後に救ってくれるからである。
現世で苦しい思いをしていたら、みなさんも念仏したくなってきませんか?

「仰せに、自力の念仏といふは、念仏おほく申して、
弥陀にまゐらせて、つみをけしうしなはんとの心也。
御一流には、弥陀をたのみまゐらせて、弥陀にたすけられまゐらせてのち、
御たすけのありがたさありがたさよとおもひまゐらするこゝろを、
口にいだして南無阿弥陀仏と申しまゐらする也。
たゞわれをたすけたまへるすがた、すなはち南無阿弥陀仏なりとこゝろえて、
よろこびまゐらするばかりなり、とかへすがへす仰せ候ひき」(P49)


親鸞の難解な他力思想を蓮如は平易に解説していると思う。
問題なのは念仏の回数ではない、ということだ。
自力でたくさん念仏を唱えて罪を消すから往生できるというわけではない。
念仏をしたら後生は確定しているから、感謝の念仏をしなさいよと蓮如は言う。
これは阿弥陀仏にさせてもらっている(自力ならぬ)他力の念仏になる。
それにしても他力という概念を持ち出してきた親鸞、蓮如はさすがである。
身もふたもないことを言えば、人間は無力なのである。
往生どころか現実生活の些事でさえままならないのが我われ人間である。
とくに室町時代の下層民はいまよりもはるかに無力の自覚が強かったと思う。
この無力を他力と言い換えたのが親鸞、蓮如の功績である。
「人間は無力だ」という絶望を「人間は他力で救われる」という希望に変えた。
蓮如は言う。

「わが方より仏にならうと思ふは、凡夫の計ひあてがひにてはなきか、
たゞ仏におなしやらうずる事のたふとや、とよろこべ、と仰せられ候」(P175)


仏になるのではなく、仏にしてくださるのである。
言い換えたら、人間は死ぬのではなく、死なせてくださる、となるのだろう。
これが他力の思想である。
人間は自身の無力を強く思うことによって、他力を意識するようになるのだろう。

以下、引き続き蓮如による親鸞思想の解説を見ていく。
蓮如はとにかく信者のもてなしがうまかったのである。
本書には酒のふるまい方まで書かれている。
寒い時期に信者が訪ねてきたら熱燗を出せ、暑い時期なら冷酒だ。
不飲酒戒(酒を飲むなかれ)はどこに行ったのだろう、などと疑問に思ってはならない。
南無阿弥陀仏は現世否定の思想なのだから。
つまり現世のことなど、どうだっていいのである。
極論になるが念仏さえ唱えるならば、なんだっていいのである。
この点、親鸞の危険な善悪観を蓮如も正しく継承している。

「よき事をしたるがわろきことあり、わろき事をしたるがよきことあり。
よき事をしても、われは法義についてよき事をしたると思ひ、
我れといふことあれば、わろきなり。
あしき事をしても、心中をひるがへし、本願に帰すれば、
わろき事をしたるがよき道理になる由、仰せられ候。
しかれば蓮如上人は、まゐらせ心がわろき、と仰せられ候」(P124)


自力でよいことをたくさんしようなどと思ってはならない。
たとえ大酒を飲んでも南無阿弥陀仏と唱えればぜんぜんOK!
妻帯、飲酒、肉食のみならず窃盗、殺人まで許しそうな念仏の包容力である。
いまの浄土真宗の僧侶が堕落しきっている原点はこの教えにあるのだろう。
しかし、生きるためには悪いこともしなければならぬ庶民は救われたはずだ。
念仏は太陽のようにあったかい。

「蓮如上人仰せられ候、弥陀の光明は、たとへばぬれたる物をほすに、
上よりひ(干)て下までひるごとくなることなり、これは日の力なり。
決定の心おこるは、これ即ち他力の御所作なり。
罪障はことごとく弥陀の御けしあることなる由、仰せられ候、と云云」(P132)


阿弥陀仏の光明は、太陽がぬれた洗濯物をすっかり乾かしてくれるような作用を持つ。
阿弥陀仏=太陽のイメージはほかでも使われている。
以下の己今当(いこんとう)とは、過去・現在・未来という意味。
阿弥陀仏の光明は――。

「陽気陰気とてあり。
されば、陽気をうる花は早く開くなり、陰気とて日かげの花はおそくさくなり。
かやうに宿善も遅速あり。されば己今当の往生あり。
弥陀の光明にあひて、早くひらくる人もあり、遅くひらくる人もあり。
兎に角に、信不信ともに仏法を心にいれて聴聞申すべきなり、と云云」(P166)


さらに弥陀の光明は、ありがたくも摂取不捨である。
ひとたびお救いくださったら、決して捨てられるようなことはない。
この摂取不捨を蓮如は次のように説明している。うまい比喩だと思う。

「ある人 摂取不捨のことわりを知りたきと、雲居寺の阿弥陀に祈誓ありければ、
夢想に、阿弥陀の今の人の袖をとらへたまふに、にげげれどもしかととらへて、
はなしたまはず。摂取といふは、にぐる者をとらへておきたまふやうなることと、
こゝにて思ひ付きけり。これを引き言(ごと)に仰せ候ひき」(P131)


阿弥陀仏は、どこまでも我われを相手にしてくれるのである。
さて、いままで蓮如の巧みな弁舌を見てきたが、次のものは絶唱である。
ここだけは親鸞よりもレベルが上ではないかと思うくらいである。
日本全土に広まった浄土真宗の故郷は蓮如のこの発言にあるのではないか。
「総別」とは「みなみな」くらいの意味。みなみな他人には――。

「総別人にはおとるまじきと思ふ心あり、この心にて世間には物も仕習ふなり。
仏法には無我にて候うへはひとにまけて信をとるべきなり、
理をまけて情ををるこそ仏の御慈悲なり、と仰せられ候」(P115)


「ひとにまけて信をとるべきなり」

信仰とは、勝ちではなく負けることだ。
世間では人に負けてはならないことになっているが、仏法では負けてもよろしい。
仏の御慈悲によって、理屈を言うことなく辛抱しよう。
この教えは浄土真宗の要のようなものだと思う。飛躍すれば、日本人の心の故郷だ。
浄土真宗が布教の対象にしたのは(勝っている)貴族や武士、商人ではなく、
言うなれば負けたところの下層民である。
浄土真宗が下層民のなにに訴えるかといったら論理ではなく感情である。
本書にしきりに登場する描写に「みなみな涙を流し」というものがある。
蓮如がなにか教えを言うと、その場にいたものがみな落涙するのである。
ひとりで泣くのではなく、みんなで泣くのが浄土真宗なのだ。
みんなで肩を寄せ合って泣くのが南無阿弥陀仏だ。
とんでもない飛躍をすると、これは現代の庶民文化たるテレビドラマにも通じている。
たとえば、山田太一ドラマには「ふたりで泣く」シーンが異様なほど多い。
あれは浄土真宗の世界と言ってもいいのではないだろうか。
庶民文化は「負けるが勝ち」「理屈よりも辛抱」を是とする。
カルト教団、原始浄土真宗の絶対権力者、蓮如は庶民の心をよく知っていたとしか思えない。

ここまで高僧、蓮如の仕事を見てきた。
さて、蓮如には実業家としての面もあるのである。
というのも、蓮如は巨大カルト教団の最高権力者にまで登りつめた男なのだから。
集団は大きくなればなるほど、トップがしっかりしていないと崩壊してしまう。
ここからは蓮如の多少なりとも黒々とした一面に目を向けていく。
蓮如は室町時代の池田大作なのである。
現代の話をすると、浄土真宗系のカルト教団に、とても悪名が高い親鸞会というものがある。
会長の高森顕徹は親鸞をダシに使って巨額の蓄財をしたとのことだ。
わたしは高森顕徹という男をなかなかのものだと思う。
蓮如が偉いのなら、高森顕徹もきっと偉いはずである。
なぜなら高森顕徹は蓮如のしたことをそっくり真似ているからである。
親鸞の権威を借りて自分が偉くなり、なおかつ教団を拡大する。
これが蓮如の行なったもうひとつの仕事である。

どうしたら教団を拡大できるか。
どのようにしたら文盲ばかりの無学な下層民にうまく教えを植えつけることができるか。
ここにいたって蓮如は師たる親鸞を裏切るのである。
親鸞の言っていないことも浄土真宗の教えにしてしまう。
ひとつは仏罰である。親鸞は仏罰なんてことはまったく言っていないが、蓮如は――。

「同じく仰せに云く、聖人の御影を申すは、大事のことなり、
昔は御本寺より外は御座なきことなり、
信なくば必ず御罰をかうぶるべきよし、仰せられ候」(P99)


学がない貧農や被差別民をしつけるには脅すのがいちばんなのだろう。
罰が当たるぞ。仏罰がくだるぞ。
いまのカルトが好んでやることを早くから蓮如はやっていたのである。
聖人の親鸞がやらなかったことも、蓮如はやるほかなかった。
好意的に解釈すれば、万民救済のためにはやむなしと判断したのか。
たしかに念仏往生の信仰に入れば、多くの人が今生で慰めを得ることができる。
そのためには不埒(ふらち)なやからをどやしつける必要があった。
甘い顔ばかりはしていられなかった。
親鸞の言っていない仏罰を蓮如が口にしたのはこのためだろう。
もうひとつ、地獄をも蓮如は布教に活用していたようだ。
いまのカルトが好む「地獄に堕ちるぞ」を早々と蓮如がやっているのである。
親鸞はといえば、自分こそ地獄に堕ちるとまで内省を深めた聖人である。
(歎異抄「とても地獄は一定すみかぞかし」)
ところが、蓮如は違うのである。
当時のお祭り「天王子塔会」に参加している大勢の人を見て蓮如はこう言ったという。

「天王子塔会(を)蓮如上人御覧候て、仰せられ候、
あれほどおほき人ども地獄へおつべしと、
不便(ふびん)におぼしめしつる由仰せられ候。
又、その中に、御門徒の人は仏になるべしと仰せられ候。
これまたありがたき仰せにて候」(P103)


浄土真宗に入っていないものは地獄に堕ちるから可哀相だと蓮如は言った。
この嘆きから「念仏しないと地獄に堕ちるぞ」の恫喝までは半歩もないはずである。
しかし、そういうことをやらないと信者は増えないのである。
悲嘆のうちに死んでいくよりは、ありがとうと感謝しながら死ぬほうがいいではないか。
荒くれ者は「地獄に堕ちるぞ」とまで言わなければ耳を貸さなかったのだろう。
どんな弁明も可能だろうが、それでもやはり蓮如はカルトの教祖と言わざるをえない。
さらに蓮如は教団を維持するための方便を用いている。
僧が食えなくては教団は崩壊してしまうので困る。
蓮如は弟子の法敬にこう言った。

「蓮如上人法敬に対して仰せられ候、まきたてといふもの知りたるか、
と仰せられ給処に、法敬申され候、
まきたてと申して、一度(種を)まきて、手をさゝぬものに候、と申され候。
それよ、まきたてがわろきなり、人になほされまじきと思ふ心なり、
心中をば申出して人になほされ候はでは、心得のなほるといふことあるべからず。
まきたては信をとることあるべからず、と仰せられ候」(P99)


もちろん、親鸞はこんなことを言っていない。
ひとたび信心が決定したら往生は確実というのが親鸞の教えである。
これは極めて個人的な信仰方式と言えよう。
しかし、1回の念仏で往生が決定してしまったら、坊さんはメシが食えないではないか。
信仰がひとりで完結してしまったら教団は儲からない。
このため「まきたて」なる概念を作り、これでは往生できないと脅すのである。
何度も教団の座談会に参加して、坊主や他の信者と意見交換しなければならない。
この流れの行き着く先が蓮如独自の教えである聴聞の重視である。
カルトの教祖である蓮如の後継者は、言うまでもなく息子である。
本書には、蓮如の息子、実如の話も採録されている。
このあたりはかなりいかがわしくて笑えるのだが、
なんでも実如の夢に亡父の蓮如が出てきて「仏法は讃嘆談合に極まる」と言ったという。
この夢のお告げを前提として、実如は意見を開陳する。
ただ蓮如の息子に生まれたというだけで最高権力者の座に着いた男の言葉である。

「仏法は一人居てよろこぶ法なり、
一人居てさへたふときに、二人よりあはゞいかほどありがたかるべき。
仏法をばたゞよりあひよりあひ讃嘆申すべき由、仰せられ候ひき」(P129)


屁理屈と言ってしまえばそれで終わりだが、なかなか巧妙な論理展開だと感心もする。
親鸞の教えでは疑いもなく「仏法は一人居てよろこぶ法なり」が正しい。
蓮如教団は親鸞の教えを否定せずにまずは受けてから、
「一人居てさへたふときに、二人よりあはゞいかほどありがたかるべき」とやる。
それを蓮如にではなく息子の実如に言わせるところもなんとも心憎いではないか。
やるなあ、おぬし、と思わず言わざるをえぬ。

最後に蓮如の死に際を本書から引用する。ここはとても美しい。
浄土真宗の舌ざわりのよい甘さがよく見て取れるところである。
死期を察した蓮如は阿弥陀堂へ参ったのち、
上段に登り大勢の信者に向かってこう語りかける。

「……極楽へ参る御いとまごひにて候、必ず極楽にて御目にかゝり申すべく候、
とたからかに御申しの事にて、諸万人なみだをながしけり」(P71)


極楽で再会しよう!

これが人を引きつけてやまなかった蓮如という男の味である。
極楽での愛する死者との再会ほど、
苦界を生きる我われの胸に甘く響く教えはないのではあるまいか。
愛する亡者との再会を思うとき、涙を流さぬものはいないだろう。
この涙が蓮如の教えである。この涙が蓮如の信仰だ。
この涙が蓮如の南無阿弥陀仏であった。

*このまとまりのない長文を最後までお読みくださった方はいないと思う。
もしおひとりでもいらしたらほんとうにありがとうございます。心より御礼申し上げます。

*宗教問答や論争は嫌いです。
あなたは絶対正義だとわたしも思いますから、どうか議論を吹っかけてこないでください。
個人的には真実はひとつではないと思っていますが、あなたがそう思う必要はありません。

*小心者なので、仏罰が当たる、地獄に堕ちる等の脅し文句はご勘弁くださいませ。

(参考)「蓮如文集」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2133.html

「人生の流儀」(城山三郎/新潮文庫)

→経済小説の大家(らしい)城山三郎の名言集。
たぶん小説というのは、人をいかにうまくだますかなのだろう。
嘘ばかりついていては読者は信用してくれない。
だから、これを言ってしまっていいのかと思うほどの本音をぶちまける。

「サラリーマンというものは、だるまとおなじなのだ。
手をもがれ、足をもがれて行くうちに、最後に円満になって落ち着く。
辛抱して、だるまさんになるんだ」(P15)

「サラリーマンになることは、
「人間関係についてえり好みができぬこと」を承認し、
そうした人間関係に耐えることを約束することだ、と思う」(P39)


思わずギョッとするような本音である。
読者はもしやこの作家は本当のことしか言わないのではないかと思う。
そう思わせたら、今度は嘘で客をもてなす。
出世できなかったサラリーマンはこれらの言葉にどれほど慰められることか。
いや、最後まで出世できないと決まったわけではない。

「当り前のことだが、人間ひとりひとり皆ちがっている。
だから、ひとりひとりの人生がちがうはずである。
早熟の人もあろうし、晩成の人もあろう。
自分がどういう人間であるかをよく見きわめて、毎日の生活においても、
人生の設計においても、自分の時計に合わせて生きて行くことである」(P64)


後輩に出世競争で敗れたサラリーマンにこの言葉がどれほど甘く響くか。
まだまだこれからであると自分をだませ! あなたは間違っていない!

「時代に合わせて生きるのではなく、わが生き方をしかと選び、
根気よく歩み続ける。そうした骨太な人生に、時代の方から頭を下げて、
歩み寄ってくる、という気がしてくる」(P71)


サラリーマンのみなさん、生きていたらかならずいいことがあります!
平社員のあなただって、立派に幸福なのですよ。

「有名になり、人気者になって、注目を浴びることは、決して幸福ではない。
知る人ぞ知るという形で、ひっそりマイペースで暮らすことこそ、
何よりの幸せ、である」(P92)


出世できずに定年を迎えたサラリーマンに贈る言葉はこれである。
あなたは成功者だ! あなたは偉い!

「人生の成功は、どこに行ったというんじゃなくて、
どういう旅をしたかっていうことですね」(P107)


この名言は重く響く。
人生という旅で、みんなが行っている場所に行っていないことがけっこうあるのである。
しかし、その反面、ほとんどの人が行っていない場所に足を運んでいるけれど。
人生と言う旅を目的地で考えたらみなみなひとり残らず「死」がゴールである。
ならば、人生はみんなおなじなのか?
いや、そうではない。ゴール(死)までの道のりが違う。
場所にこだわってはならないのだろう。どこに行ったかではない。どういう旅をしたか。
どれだけ喜び、悲しんだか。どのくらい感動したか。

「人生の持ち時間は限られている。
その中で、時間を忘れるほどの陶酔をどれほど多く持ったかで、
人生の価値が決まるような気がする」(P58)


「植木鉢の土」(水上勉/小学館)

→文豪・水上勉の最晩年のエッセイである。
いまはほんとうに迫力のある作家が少なくなったと思う。
文豪という呼称は、その人の重みと関係しているのかもしれない。
持って生まれた重みである。重い人生というものがあるのである。

本書で水上勉が一遍と説経節を好きだと書いているので驚いた。
偶然わたしもおなじだからである。
宮本輝の敬慕していた作家が水上勉だから、
これはある意味、必然とも言えるのだろうけれど。

死の近づきをなんとなく意識しているのか、水上勉は神について語る。
それも少しボケているのかと思うほど、矛盾した神の見方である。
ときには神を肯定する。

「思いもよらないところで、自分が蒔(ま)いたという意識もないところで、
種が育っている。
神の摂理もこちらに受ける癖ができると、
神様は従順な人ほど声を小さくして語りかけてくれるらしい。
最近は、よく聞こえるようになった。
最近では、どこからか、「そこだよ」「今が大事だよ」
などといって、背中を押してくれる気がする」(P175)


人と人の関係というのは、限りあるものなのだ。
永遠に続く友情というのは、残念ながらありえない。
どこかでどうしようもなく別離が生じる。
家族との関係も、そうである。生別はなくても死別には逆らえない。
しかし、人間には生まれたときから死ぬまで、つきあっている相手がいるのである。
それが神や仏である。
死をまえにして水上勉は神の姿がよりはっきりと見えるようになったのだろう。
あれだけ神を褒め称えたわずか15ページ後に文豪は神を呪う。
眼底出血と網膜剥離に襲われたときのことを思い出している。

「わたしの目から光を奪おうとした神、それは来(きた)るべき運命というか、
これからの定めを握っている人というか、如来様というか、そういう思いがした。
その神とは、わたしの人生のところどころで、小さいときから現れる神だ。
不運のときに、不幸だと思うときに、現れる神だ。
まだ小さくて京都のお寺に入ったときにも、そういう神は現れた。
しかし、わたしがどんなに頼んでも何も聞いてくれなかった。
それからも、障害の子を持ち、その運命を見てきたせいか、
わたしは神を身近に感じてきた。
だが、神はわたしに何をしてくれるわけではなかった。
定めというものをつくった神のしわざは、冷徹に見れば、冷ややかなものである。
決して温かくないのだ。実に淡々とやってくるだけである」(P190)


しかし、神を友と考えたら、終始沈黙している友はなかなかいいものなのかもしれない。
ただただ話を聞いてほしいのに、よけいな助言や説教をされることがどれほど多いか。
しかし、それは仕方なく、助言や説教をしてくれる友はありがたい。
たとえ黙って話を聞いてくれないとしても、友や家族はとてもありがたい。
とはいえ、友とも家族ともいつかは別れなければならぬ。
ひるがえって神はどうだろう? 一生そばに寄り添ってくれるのである。
そのうえ、どんな長たらしい愚痴も黙って聞いてくれる。
神の沈黙は残酷だが、同時に黙っていつまでも話を聞いてくれる神はありがたい。
友人には断じて言えない激烈な言葉も、神に対してなら言えるのだから。
一読したときは水上勉がボケたと思ったが、これはそうではないのだろう。
ときには親友のように神に感謝する。またべつのときには、おれを裏切ったなと恨む。
どんなことを言っても我われから離れない友が神なのだろう。
文豪・水上勉は最晩年に永遠の同行者たる神と会話をするようになった――。

「なぜ生きるんだ。自分を生きる言葉」(坂口安吾/イースト・プレス)

→坂口安吾の名言集。
おそらく「本の山」にもう百回近く書いていることだが、言葉は肩書なのである。
言葉は内容が問題なのではなく、だれの言ったものかがいちばん肝心になる。
話者しだいで、真実にも虚偽にもなるのが言葉というもの。
ときに人を救ったり、殺したりするのも言葉。
言葉が肩書ならば、もし本当にそうなら、
人は肩書に救われたり殺されたりしているのだろう。
無名のわたしが真実などこの世にありえないと絶叫してもだれも信じてはくれない。
しかし、坂口安吾の言葉だったらどうか。

「ただ、われわれは、めいめいが、めいめいの人生を、せい一ぱいに生きること、
それをもって自らだけの信実を悲しく誇り、いたわらねばならないだけだ」(P10)


真実はひとつではなく、人の数だけあるのである。
人生でどんなことを経験したかによって、真実なるものはまったく変わってしまう。
自分だけの真実をどうしてもだれかに伝えたいと思ったとき、人はものを書くのだろう。

「美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。
どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、
ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。
ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。
そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、
美を生むのだ」(P118)


美とはなにか?

「悲しみ、苦しみは人生の花だ」(P53)

うーん、キザだなあ。
でも酒をのみながら読むと、こういう言葉にうっとりしてしまうのだよ。
言葉は酒とおなじように人を酔わせる。
酒が肉体を酔わせるのに対して、人の精神を酔わせるのが言葉だ。
言葉だけで酔えたらどんなにいいことか(なかなかそうはいかない)!

「健全な精神と、健全な肉体は別なものだ。
そして、酒は肉体的には不健康であるけれども、精神にとって不健康だとはいえない。
すくなくとも、私にとっては、そうだ。
私に酒がたのしく、うまく飲めれば、
私はこの上もなく健康に仕事ができるのである」(P94)


いささか私、私とうるさいが、どのみち人生など私にこだわるしかないのだ。
私を休めるには酒を飲むに限るのだろう。

「失敗を恐れないのが若さの特権である」(吉行淳之介・宮城まり子/海竜社)

→顔がいい文壇の人事課長、吉行淳之介の名言集を読む。
吉行淳之介の2号だか3号だかの宮城まり子女史が編集したものだ。
酒をのみながら読んだのだが、女性嫌悪、女性差別の名言が多く採られている。
どうして女はもてる男が女性批判をすると、
「うふん、この人は真実を言っているわ」などと思うのだろう。
もてない男がおなじことを言ったら総スカンなのに……。
もてる男ならば、ここまでのことを言えるのである。びっくりした。

「女性の愛というものは、相手に自分をささげることによって完成され、
男性の愛は相手から奪うことによって完成される、と私は思っている」(P79)


どこまで恵まれた人生を送ったら、こういう迷言を吐けるのだろう。
しかし、自分は恵まれていると思っている人などこの世にひとりもいないのである。
どんな成功者も自分は不遇だと嘆いている。
病弱の美男子はうっとりと口を開く。

「苦しむということは、やはり人間というものについての考えが深くなったり、
人間味みたいなものが出たりするのじゃないかしら。
完全に健康だという人物は、どっか欠けているところがある」(P175)


どの本を読んでも成功したら女にもてると書いてある。
もてる男になったら女の悪口が言いたい放題なのだ。
わたしは女の悪口を公然と言いたいがために成功したいのかもしれない。
しかし、どうしたら成功できるのだろう。

「人間の才能というものは、その人自身も知らないで眠っている場合がある。
眠ったままで一生が終わる場合もあり、
偶然のキッカケでそれが自覚され、みごとに開花することもある」(P10)


この言葉はいちばん最初の名言である。
たぶん2号だか3号だかの宮城まり子女史は、
自分が淳之介の才能を育てたと思っているのだろう。そして、それは正しい。
わたしも淳之介のような自分勝手な「奪う愛」というのをいつか経験してみたいものだ。
いまのところ来世に期待している。
死ぬまで「いつか眠っている才能が開花する」と自分をだまして生きるつもりである。

「だましだまし生きるのも悪くない」(香山リカ/光文社新書)

→「だましだまし生きる」はわたしのライフワークなので、
タイトルに釣られて読んでみた。
本書は成功者・香山リカ氏の自伝(ライターによる聞き書きだが)。
はっきり言って、毒にも薬にもならない内容ですな。
しかし、著者は幅広い年代の女子に人気があるのでしょう?
男にとって女は永遠に理解できない謎だと改めて思ったしだいである。

たいていの人は、自分は要領が悪いと嘆いているはずである。
傍目(はため)には要領よく生きている人でも、自己意識はそうではない。
しかし、なかには自分の要領のよさに悩んでいる人もいるのである。
それが精神科医で大学教授の香山リカ氏である(P110)。
河合隼雄氏も自分が要領がよすぎることをどこかしら恥じていた。
両氏ともに心を病む人を救うお仕事をなさっている。
要領のやたらいい人が、要領の悪い人を助ける。
あんがい世の中はうまくできているのかもしれない。

香山リカ氏は両親、弟と、とにかく家族が好きらしい。
家族というのは、好きか嫌いかしかないのがおもしろい。
徹底的に憎むか、どこまでも許すかしかないのである。
他人のようにドライに接することができない。
絶縁か依存かしかない。
香山リカ氏は自分が家族依存症であることを悩んでいるようだ。
要領のいいことといい、けっこう贅沢な悩みである。
しかし、それは悩みなのである。贅沢な悩みでも、それは悩みだ。
人間にとって悩みはぜったいに必要なものなのだろう。

「ずぼら人生論」(ひろさちや/三笠書房)

→最近ようやく気づいたのは、考えないのがいちばんいいってこと。
ひろさちや氏が超過密なスケジュールを組んで仕事をしているのは、
考えないためだったのである。
人間というのはろくなことを考えないようにできている。
信じるというのは、考えるのをやめることだ。
どうして新興宗教の信者さんがあんなに幸福そうなのかといったら、
考えていないからである。考えないと人間は楽になれるのだ。
ならば、どうしたら考えないでいられるのか。
ひとつは、仕事、家事と働きつづける手がある。
掃除などいくらしてもキリがないから、実に精神健康にはいいのだろう。
掃除に夢中になったら、よけいな考えごとなどしないでいられる。
なにも信じられない人でも、手さえ動かしていたらいいのだろう。

ひろさちや氏の本はとても役に立つのにどこかチープなのは、
考えるのを途中で放棄しているからではないか。
ほとけさまを信じているため考え(=疑い)が徹底せず、なにやらインチキくさくなる。
なんとかチープな感じを消そうと高僧や経典の言葉に頼るひろ氏はいじらしい。
とはいえ、高僧や経典の言葉に頼るとは、信じることである。
考えをそこ(=権威、高僧、経典)で放棄するから人は救われるのだろう。
考えないことで人は救われる。
「人の言葉にまかすと書いて信じると読む」とは、わたしの好きな一遍上人の言葉である。
これは考えるのをやめようと言っているのだろう。
多忙で思考を停止させたひろさちや氏の名言を引用する。

「禅の言葉に「莫妄想(まくもうぞう)」というものがあります。
「妄想することなかれ」、グダグダ、あれこれ考えるなということです。
しかし、これがなかなかできないんですね。
どうしたら悟れる? どうしたら幸福になれる?
いつもそんなふうに
「どうしたら△△になれる(ができる)?」と考えるわけでしょう。
それで、答えが載っていそうなハウツー本の類いを読みあさったりする。
愚の骨頂としか言いようがありません。まず、なすべきは
「どうしたら△△になれる(ができる)?」という発想をやめることです。
病気の人が「どうしたら健康になれる?」と考え抜いたところで、
病気が治るわけではありません。わたしはいつも言うのですが、
病気は治るまで治らないし、治るときには治るんです。
だったら、病気をあまり気にする必要はありません。
医者の言いつけをよく聞いて、ゆったりと養生すればいいのです。
それなのに、あくせく、あれこれ考えるから、
治らないわが身を恨んだり、嘆いたりすることになるんです」(P75)


これって多くの人が望んでいる成功もおなじかもしれない。
凡人が「どうしたら成功できる?」といくら考え抜いたところで成功できない。
人は成功するまで成功者にはなれないし、成功するときは成功するのだ。
それなのに、あくせく、あれこれ考えるから、人を恨んだり嘆いたりすることになる。
ほかにもいろいろ当てはめて使うことができそう。
もてない男が「どうしたらもてる?」といくら考え抜いてももてない。
もてるまでもてないし、もてるときはもてる。
それなのに、あくせく、あれこれ考えるから、人を恨んだり嘆いたりすることになる。
もてないことよりも、もてないことに悩むほうがしんどいということだ。
だったら、すべてに通じる法則として、掃除をしようでいいのかもしれない。
成功したかったら(悩まないように)掃除をしよう。
成功するときが来たら成功するのだから。
もてたかったら(悩まないように)掃除をしよう。
もてるときが来たらもてるのだから。ひろさちやはすげえぞ、おい!

「くよくよしない!」(日下公人・ひろさちや/WAC BUNKO)

→経済評論家と宗教評論家のまったく噛み合っていない対話である。
海外では日本ほど対談が行なわれていないというのはほんとうだろうか。
場の空気がいちばん偉いらしい日本では、対話が出世のための最短経路となる。
先ごろ、私淑かつ兄事する芥川賞作家の西村賢太氏が初の対話集を出したが、
よしよし、順調に出世コースを走っておるなとニンマリした。
実のところ、日本では対談をすることで
格が上がっていくシステムになっているのではないか。
べつに日下公人氏もひろさちや氏もそれほど偉くはないのである。
しょせんブッダや道元、マルクスやケインズの威を借るなんとか。
しかし、なかには騙されてひろさちや氏が偉いと信じ込んでいる人がいる。
そういう人がこの本を読んだら、日下公人氏もおなじくらいに偉いと錯覚するのである。
ちなみに、このシステムをいちばんうまく使ったのは河合隼雄氏ではないかと思う。

対話したら同格程度になるのである。
ほんとうはどちらも偉くないのだが、あいつが偉いならおれも偉いである。
まさか対談で喧嘩(論争)をするバカはいないから、同格の法則はかならず保たれる。
宮本輝氏もデビュー直後に対談をすることで格を上げている。
池田大作氏は井上靖氏が往復書簡に応じてくれたとき、どれほど嬉しかったか。
論争をしても格は変わらないのである(格上は無視するから)。対話が格を上げる。
ベテラン作家は新人作家と対談をすることで、若い読者層からの信頼を獲得できる。
ポイントなのは、ほんとうはだれも偉くないということである。
結局のところ、偉くなるにはブッダ、キリスト、天皇などの絶対的権威に頼るほかない。
そのうえでみんなで仲良く偉さを分け合うのである。
「あいつは偉くない」なんて言い始めるやつは下手をすると村八分にされる。
なぜなら、みんな偉くないことがばれてしまうからである。
本書の対話で両氏はまったく正反対の主張をしているところが何箇所もある。
しかし、論争にはならない。論争したら、どちらかが偉くなくなってしまう。
それはぜったいに困るのである。

癒し効果の高いひろさちや先生の言葉を引いておこう。

「結局、人間の無力さに気づくことが、宗教の始まりだということです。
私たちは、何でもできる、とつい思いがちになりますが、じつはそうではなく、
大部分のものは私たちの思いどおりにならないと思うことが、
宗教の始まりなのです」(P59)

「子供を一日中授業で縛るのは、残虐行為です。
人間の可能性はすべて平等で、
仕込めばみんな秀才になるなどというのはまったくの嘘です」(P157)

「日本では、創価学会などが宗教法人になっているのがおかしい。
もとは小学校の校長をしていた牧口常三郎がつくった創価教育学会です。
たまたま彼は日蓮宗の信者でしたから、自分の教育運動と結びつけて、
日蓮正宗の講をつくった。宗教を支える信者組織のようなものです。
あくまでも親睦団体です。普及団体ではありませんから、
基本的には政治活動をやってもかまわないのですが、
宗教の仮面を被るのはもってのほかです」(P208)


これでは不平等だからおまけに日下公人先生の言葉も引用しておこう。
ひろ先生の言葉が正しいと思う人の目には日下先生の言葉も正しく映るはずである。
逆もまた真なり。

「教団ができて最初の頃の集まりは純粋だが、
教祖が死ぬと二代目、三代目はそれを商売にしてしまう。
教団を維持するための教団になってしまいます。
さらに、それをまとめる番頭役が集まってきて、
俗物のためのイベントをするようになると、精神は俗化するが、
それでもそれが成功すれば、
寄付と信者が集まって社会勢力になるというプロセスです。
儲けるというのは大事なテーマです。最初から儲けるつもりではないが、
いいことをいっているとまわりに信者が集まる。
そして、毎月一回集まることになると教団ができるわけです」(P195)


とすると、清く正しい教祖が死なないと商売はできないのかもしれない。
生きながら教祖商売をやって儲けている評論家のひろ先生、日下先生は立派である。

「仏教が教える人生を楽しむ話」(ひろさちや/青春出版社)

→ひろさちやとはなにか? わたしは偽薬だと思う。ひろさちやは偽薬である。
一瞬、効いたような錯覚があるけれども、すぐに元に戻ってしまう。
だから、ごまかしの偽薬なのだが、どうして偽薬でいけないのだろう。
偽薬でも一生のみつづけたらいいではないか。
自分を死ぬまでごまかすという生き方もあっていいはずである。
きっと真実なんて身もふたもないものなのだろうから。
ひろさちや氏は自分をごまかしつづけているのである。
ほんとうは高級料亭が好きでたまらないのに、
本書の冒頭でまたまたお金がなくてもおいしいものは食べられるとうそぶいている。
金のためにあくせく働くなと主張するひろさちや氏は、
1億7千万も自宅に貯め込む守銭奴である(そしてまぬけにも盗まれる!)。

こういう生き方もあっていいのである。いいかげんに生きてもよろしい。
その場その場でいいかげんな言い逃れをしながら死ぬまで生きたらいいのである。
「なぜ生きるのか?」という深刻な問いは、「生まれてきたついでに生きる」と交わす。
出世できなかったら、もし出世していたら不幸になっていたと思い込む。
災難に遭ったら、かえってよかったと現実逃避する。
なにがいいことか悪いことか10年後、20年後になってみないとわからないと逃げる。
なるべくまじめに考えないようにすればいいのだ。
過去は変えられないのだから反省しない。
未来はどうにもならないのだから思い悩まない。

逃げるというのが、ひろさちや流の生き方である。
問題にぶつかるな。問題から逃げろ。追いつかれても、また逃げたらいいではないか。
過去から逃げろ。未来から逃げろ。すたこらさっさ逃げてしまえ。
みなさんも死ぬくらいだったら、逃げて!
べつにひろさちやに逃げなくてもいい。
まじないでもスピリチュアルでも心療内科でも精神科でも新興宗教でもいい。
逃げる。逃げてもいい。いざとなったら負けてもいいから逃げよう。
現実なんて見るな。現実から逃げろ。全力疾走で逃げよう。
敵を作って闘うよりも、敵が見えなくなるところまで逃げるという生き方がある。

「猿は木から上手に落ちる」(ひろさちや/双葉文庫)

→ひろさちや氏は宗教ライターではあるが、宗教家ではないのである。
この文庫本でも、思わず唖然とするほど人間くさいエピソードを記している。
ある出版社の社長から接待に誘われたという。
ひろ氏はその出版社から3冊書籍を出していた。
ところが、接待先が池袋にある大衆チェーン店だったことで腹を立てるのである。
学生も来るような安居酒屋に自分を呼ぶなんてとんでもない。
こんなところなら自分の金で来ることができるじゃないか。
接待するなら高級料亭に決まっているだろう?
自分は超過密スケジュールのなか時間を割いたのに、この待遇はふざけている。
以降、そこの出版社からの仕事はすべて断ったという(P154「親しき仲こそ礼儀あり」)。

ひろさちやさんはこういう怒りっぽい人なのである。
わたしだったら安居酒屋でご馳走してもらうだけでもたいへん嬉しいが、
多忙なひろさちや氏くらいになると高級料亭でなければダメなようだ。
もしかしたら、その社長さんはひろさんと友人関係になりたかったのではないか。
だから、会社の接待費ではなく、自分のポケットマネーで招待した。
著書から判断して「色即是空」を理解したこだわりのない人だと思っていた。
こういう考えで池袋の大衆居酒屋に誘ったら、ひろ氏から絶交されてしまう!
人間関係はほんと難しいよな。
まあ、本の内容から著者を推測してもたいがいは外れるということか。
本と書き手は違う。書いた文章と書いた人間は異なる。

しかし、こういうことを著書に書いてしまうひろ先生は脇が甘すぎやしないだろうか?
よほど怒り心頭だったということか。
おそらく、ひろ氏もわたしとおなじでとても恨み深い人なのだろう。
ちなみにこの文章を書いたときひろ氏は64歳である。
およそ聖人君子とは程遠い俗臭ぷんぷんたるひろさちや翁は、だから信頼に値する。
関係ないが、高級店が好きというのは、
ひろ氏が最近ネタをぱくっている遠藤周作とおなじだ。
「こだわりをなくそう」と著書では言いながら高級店にこだわりまくりのひろ先生!
「ゆったり過ごそう」と著書では言いながら時間の無駄を毛嫌いするひろ先生!
「いいかげんに生きよう」と著書では言いながら他人のいいかげんは許さないひろ先生!
わたしはひろさちやのファンであることを誇りに思う。

本書でもひろ先生はいいことを言っているのである。
怒りっぽい人にもかかわらず、ではなく、だからこそいろいろなことに気づくのだろう。
ひろさんは人生の万能薬があるという。それはなにか? 「日にち薬」である。
「日にち薬」というネーミングのセンスは抜群である。
ひろ氏はお母様からこの万能薬の名前を教わったという。
悲しみを治すのは「日にち薬」しかない。怒りも「日にち薬」にまかせたらいい。

「人間関係がこじれてしまって、それであなたが悩んでいるときだって、
無理にその解決をあせる必要はありません。
特別に何かしようとせず、ただ自然に成り行きにまかせておけばよいのです。
それが「日にち薬」なんですね。
その意味で、「日にち薬」は万能薬です。いろんなものに効き目を発揮します。
ほとんどあらゆる問題が、「日にち薬」で解決可能だと思います」(P43)


カウンセリングは「日にち薬」を処方しているようなものなのだろう。
ひろ氏は「日にち薬」にも欠点があるという。
それは一度に大量服用できないことである。10年分を1日で服用できない。
しかし、「日にち薬」ならぬ一般薬も大量服用したらよくなるというものではないから、
これは欠点なのかどうか。
考えてみたら、医者の処方する薬にそれほど意味はなく、
あれも「日にち薬」を処方していると言えなくもない。

さて、「日にち薬」はひろ先生に効いたのだろうか。
例の出版社の社長と果たしてその後、和解したのか。
社長さんとしたら、わけがわからない経験だったと思う。
著書の内容を信じて大衆居酒屋に招待したら、いきなり無視されるようになったのだから。
社長さんの傷は「日にち薬」で治ったはずである。
「ああ、ひろさんって、そういう人なのね」と――。
まあ、「人間なんてそんなもの」「人生なんてこんなもの」である。
この呪文もかなりの万能薬なのではないかと思っている。
なにかあってもこの呪文を唱えたら、あきらめがつく。
「人間なんてそんなもの」で「人生なんてこんなもの」なのだから仕方がない。

「健全な肉体に狂気は宿る」(春日武彦・内田樹/角川oneテーマ21)

→精神科医の春日武彦と内田樹(この人なんなの?)の対談集。
おそらくこちらの知力が低いからだろうけれど、
内田樹という人が誇大妄想かなにかを患っている精神病者に見えてしまった。
対談相手が精神科医の春日武彦だから、よけいにそう見えたのかもしれない。
とにかく、内田樹はひとりでしゃべっているのである。
それもカタカナや(笑)がやたら多い。多弁で多笑かつ尊大な態度。
久しぶりに重度の自我肥大を起こした人を見たという気まずさにたじろいだ。
これが純粋な対談なら精神科医と患者にしか見えないはずである。
ところが、内田樹のおつきの女性編集者がときおり対談に口を挟むのである。
それも内田樹をものすごく偉い先生として持ち上げる形で対談に加わる。
このため二対一になり、内田樹の偉さが証明されることになる。
考えてみたら、診療室に自分を師と慕う子分と一緒にふたりで入ったら、
精神科医はかなり診断に戸惑うのではないか。
どうせ皮肉屋の春日武彦のことだから、
対談後には内田樹の病気についていろいろ不穏なことを考えたのだろう。
もちろん、常識人だから公言はしないだろうけれど。

内田樹という人が「願えばかならずかなう」式のオカルトを口にするので苦笑した。
まあ、大衆はこの手の発言を好むから、上手にアカデミズムの権威と接続したこともあり、
内田樹のような人がまんまと子分をたくさん従える偉い人になることに成功したのだろう。
いや、待てよ、ほんとうはわたしが知らぬだけで内田樹はとても偉い先生なのかもしれない。
多数派につくことが精神科の厄介にならない秘訣だと春日武彦も本書で発言している。
前言を撤回する。精神病になりたくなかったら、多数派に従うに限るのだから。
いまこのときからわたしもみなとおなじように内田樹を先生と尊敬することにする。
だから、わたしを狂人あつかいするのはどうかやめてください。
そう思えば、内田樹先生もなかなかおもしろいことを言っているのである。
といっても、へえ、と思ったのはここだけだが、
これはわたしの知能が極めて低いためで、実際は名言がほかにもたくさんあるのだろう。
内田樹先生とファンのみなさん、ごめんなさい。
バカだから内田樹先生のよさがあまりわからないのです。

「でも、過去って取り返しがつくものでしょ。
だって、新しい経験をしただけで、
過去の意味なんて一気に全部変わっちゃうんだから。
すべての行為は文脈依存的ですからね、
新しい行為によって、経験の文脈が変われば経験の解釈も自ずと変わってくる。
あとになって、すでに経験したことの意味が
「ああ、あれはこういうことだったのか」
と解釈が一変することなんてしょっちゅうじゃないですか。
過去は可変的であり、未来は未知である。
だから、過去についても、未来についても、確定的なことは何も言えないというのが
時間の中を生きる人間の健全な姿でしょう」(P63)


さすが人気学者の内田樹先生はいいことをおっしゃる。
でも、「過去は可変的」って要するに「私の物語は変えられる」ということだよね。
だったら、そんなもんは創価学会の宿命転換とおなじとなるわけで、
もしそうだとしたら、内田樹先生の学問的発言はかなりその怪しげな……。
いや、内田樹先生は偉いのである。
だから、春日武彦も内田樹先生の独演会をほとんど無言で傾聴している。
本書でほとんどしゃべる機会を与えられなかった春日武彦先生だが、
精神科医として興味深い発言をしている。
まるでユング学者の河合隼雄のようなことを精神科医の春日先生も言っているのである。
患者の病気が周囲と複層的に絡み合い解決不能になっているときは「待つ」に限るという。
以下は春日武彦先生のご発言。

「こっちで迷ったり、あっちで見落としがないか調べたり、
なんだか孤軍奮闘でぐじゅぐじゅやってるんだけど、そういうのはたいてい駄目で、
複数の人間とディスカッションして、もう現時点では打つ手はない、
どう考えても無理だ、というところまでいくと、
あるとき思いもよらないことが起こって、うまく解決してしまうということがある」(P60)


割愛するが、ここで具体例を公開してしまうのが春日武彦である。
クライアントの秘密は守る河合隼雄とは異なる。
精神科医に守秘義務のようなものはないのだろうか?

「そういう時は、とにかくどこかでコンタクトを保ちながら、
もう「待つ」しかないわけですよ。その「待つ」っていうのが、
つまりは「人事を尽くして天命を待つ」ということで、
こういう状態までもっていければ、
実は案外早く、意外なことが起こってくれたりするんです。(中略)
だから、どうにもならないと思えた問題がどういうふうに解決したのかを見てみると、
けっこうみんなうまい話になっている(笑)。
いいタイミングで交通事故が起こったりしてね。
じゃあ、みんな車道に押し出しちゃえばいいのかっていうと、
そういうことではなくて、とにかく待つところまで待っていれば、
どこかでなんとかなるよ、ということなんです。
だって、いずれは誰かが死ぬわけですから、
最悪でも延々と同じ状態ということだけはあり得ない。
だから、あとから振り返れば、
あそこで死んだことでうまく解決しちゃったなあという話になるわけ。
要するに、「待つ」ということはすごく必要なことなんですね。
もちろん根拠もなく「待て」と言ったって不安でとても無理ですよ。
だからこそ、「人事を尽くして」という部分が大事なのであって、
そのためには複数の人間と協力してやっていくわけですが、これに近いことは、
精神科の治療だけではなく、普遍的にあてはまることなんじゃないかと思います。
腹をくくって待つ、というのは不安なものですよ。
腹をくくったって、どうにかなるという保証はないんだから。
でも、半分居直りみたいな感じで、「やれるだけのことは全部やったんだ。
だからあとはなんとかなると思うしかないんだ」
と言えるかどうかが問題なんですね」(P60)


さすが春日武彦先生はいいことをおっしゃる。内田樹先生もすばらしい。
だから、わたしは精神病でも人格障害でもない。
内田樹先生の偉さをこうして認めているわたしがどうして狂人でありえようか。

「しつこさの精神病理」(春日武彦/角川oneテーマ21)

→精神科医の春日武彦の本を読むと、心底からげんなりする。
ほんと人間ってどうしようもないものだなとやりきれなくなる。
本書のテーマは復讐である。仕返し、報復。
穏やかな顔をしていても、みなさんも復讐したい相手のひとりやふたりいるでしょう?
いや、そんなのはわたしだけかもしれないな。
しかし、このブログの読者でわたしに仕返ししたいという人はかならずいると思う。
そうでなければ、匿名掲示板にあれだけわたしの悪口は書かれないはずだから。
2ちゃんねるで自分の誹謗中傷を読むと、いったいだれに恨まれているのか怖くなる。
見知らぬ人から黒々とした感情をぶつけられるとちょっと怯むようなところがある。
とはいえ、なんとなくその人の気持がわからなくもないのだ。
なぜなら、こちらも結構、いや、かなり恨み深い性質だから。
わたしが嫌いで「本の山」を読んでいるあなた! 
お互いおかしな復讐なんてやめましょうね。
いったいどうして人間は仕返しなどという物騒なことを考えるのか。
自身の黒々とした感情をいささか持て余し気味の精神科医はこう分析する。
前提として世界はどうしようもなく不条理で理不尽という事実がある。

「こんなろくでもないことの横溢(おういつ)する世界に生きていれば、
被害者意識に駆られがちになっても不思議ではない。
わたしの観察するところによれば、ヒトの心はそもそも容易に
被害者モードに切り替わるように出来上がっている。
謙虚に反省したり自分を責める前に、まずは他人を恨み不運を嘆く」(P27)


世の中いかに不条理な災厄にあふれているか。
いきなり理不尽な不運に見舞われるのが人生である。納得がいかない。
どうしてこうなったのかわからない。腹立たしくなる。

「精神科医としての臨床経験から述べると、
自縄自縛で自分を不幸にしていくタイプの人がいる。
彼らには「自分は間違っていない」という信念がある。
論理的で理屈っぽく、何事も収支決算の帳尻が合うことに固執する。
被害的で自分は損ばかりしているといった感情のもとに思考を進めがちで、
また自尊心が高い。
そうした「自分は間違っていない」モードへ常に気持ちを設定しているので、
すぐに「許せない」と苛立つ。あんなことをするなんて信じられない、と憤る。
結果として、正義の名のもとに報復しなければいられない気分に駆られるものの、
実際にはなかなかそうはいかない」(P78)


これはだれのことを言っているのか。まず書き手の春日武彦のことである。
それから、わたしのことである。あなたのことではない。
まさかこれをお読みのみなさんは、こんな毒々しい思考はなさらないでしょうから。
不条理や理不尽に遭遇したとき、ふたつのパターンにわかれる。
明確な復讐対象がいる場合と、そうでないときとである。
後者は神を呪うという形式になり、無差別殺人の発端ともなりうる。
人間はどうしてか不条理や理不尽(と感じること)に遭遇すると報復を誓うようになる。
いったい復讐願望の強い汚れたわたしはどうしたらいいのか。
春日武彦はこの邪心をどう整理しているのか。
医師は仕返しを願う患者にどのような言葉をかけているか。
「報復なんてあんまり上品なことじゃないと思うなあ」
「あなたには復讐なんかよりも、もっと優先順位の高いことがあるんじゃないの?」
「相手と同じ土俵に立ってしまっては自分を貶(おとし)めるだけだ」

「復讐なんて子どもじみたことはさせず、
どうしても当人が子どもじみた状態から抜け出そうとしないのならば、
恨みを、軽蔑という形に集約させる。相手を軽蔑することは、
倫理や道徳や人間観察に根差す最も苛烈で静謐な表現形式だろう。
軽蔑という営みは直接的な暴力ではないが、
考えようによっては遥かに強いダメージを与え得る。
相手の自己愛を直撃しかねない種類のものなのだから」(P80)


なるほど、報復したい相手がたくさんいる春日医師はこう自分に言い聞かせているのか。
「こだわり・プライド・被害者意識」が人一倍強い春日武彦である。
繰り返し著作で患者を軽蔑したことを書く春日の心中を思うと涙ぐましい。
日々患者から腹立たしい思いをさせられている春日武彦は軽蔑に到達したのだ。
恨み深い精神科医の発見した復讐感情対策マニュアルは以下のようになる。

「復讐・仕返し・報復」→(↑自己愛↑)→「↓軽蔑↓」

精神科医の春日武彦は自身がそうとうに大人げないのだろう。
これでも自分の復讐感情を抑えられないときがたくさんあったのではないか。
いくら仕事とはいえ無礼で腹立たしい患者に仕返ししたい。
自著に患者の悪口を軽蔑感情と一緒に書き込むだけではとうてい腹が収まらない。
このとき陰湿だが頭脳明晰な春日武彦医師は次のような思考をするに至る。

「おそらく、復讐が成功しても思ったほどのカタルシスは訪れなかったり、
こんな奴に仕返しをしても自分の心が汚れるだけだと
急に馬鹿馬鹿しくなってしまったり、
反動で空虚感や抑うつ気分に囚われたり、
いったい自分の人生は何のためにあるのだろうと悩んだり、そんな具合に
気持ちはむしろ暗く沈みこむ方向にシフトするのではないだろうか。
復讐に固執していた自分自身に自己嫌悪を覚え、
自分の存在価値について自問自答さえしたくなってしまうのが
「まっとうな」人間ではないか」(P74)


ここに至って春日の黒々とした感情はようやく行き場を見つけるのだろう。
相手を軽蔑することで自己愛を保てばいいと気づく。
幸いにも精神科医の春日武彦は原稿の依頼があり、
患者への強い軽蔑意識を公にできる立場にいた。医師は幸運だった。
ここまで、かなり辛辣(しんらつ)に精神科医を裁いたようだが、
こうでもしないとこちらの自己愛が崩れてしまうので著者にはどうかお許し願いたい。

まったく春日武彦の発見した復讐感情消去法は大したものだと思う。
人の何倍も執念深い春日先生でなければ発明できなかったのではないか。
たしかに春日医師のように考えたら、
なんとかこの世の不条理や理不尽とも折り合いがつけられるような気がする。
復讐感情に苦しむ人は多い。
精神科医の春日武彦は本書でかなりの人を救ったのではないか。
最後に、親愛なる春日さんを真似てちょっとぼやいてみよう。
人を軽蔑してばかりの自己愛の強いお医者さんというのもうんざりだな~。

「心という不思議」(春日武彦/角川文庫)

→精神科医の春日武彦のエッセイほど笑えるものはそうないのではないか。
いったいなにを笑っているのだろうかと考えてみた。
なんのことはない、わたしは精神医学的におかしな自分を笑っていたのである。
よく春日武彦の文章は患者をバカにしていると誤解されるが、
あれは実のところ自虐なのだと思う。
春日もまた心を病んだ患者がまるで自分のようなので笑うしかないのではないか。
他者の狂気の中に自身と似たものを見つけ、笑いで相対化する。
つくづく俺って狂っているよな、病んでるよな、と笑い飛ばす。
でもまあ、俺だけじゃないんだなと安心する。
精神科医の春日武彦やその愛読者の好む自虐行為である。
うんざりするが、どいつもこいつもありきたりに狂っているのである。

「実際に精神科医になってさまざまな患者さんと接してみると、
凄い秘密を打ち明けられるなんてことは殆どないことに気がついた。
みんな自分と大差ない。ちっぽけな「わだかまり」や、
いじましい自尊心、余裕を欠くがゆえの被害者意識
といったものに囚われて足掻く人たちばかりなのである。
他人から見れば些細なことであっても、当人にとっては天下の一大事であるという
昔ながらの法則を再確認したに過ぎなかった」(P129)


わたしは春日武彦を好きだが、これはちょっと違うと思う。
すごい秘密を持っている患者は、春日の底の浅さを見抜くから話さないのではないか。
いいのか悪いのかわからないが、
春日武彦は重大な秘密を打ち明けられるほどの器ではないのである。
そのうえ、秘密を話したらよくなるというものでもない。
むしろ、春日の軽薄な態度に救われる。
あれこれ詮索されるよりも、手早く薬を出してくれる医師を好む患者も多いのではないか。
軽い皮肉を言えば、患者の悪口を嬉々として書く医者にだれが秘密を話すかって。
とはいえ、わたしは精神科にかかったことはないが、
もし将来受診するとしたら、春日のようなドライな医者がいい。

「幸福論」(春日武彦/講談社現代新書)

→患者の悪口を書く皮肉屋の精神科医・春日武彦が幸福について口を開く。
幸福なんて結婚式中の男女か、新興宗教にはまっている信者しかありえない。
ほかには重度の精神病後に人格レベルの下がってしまった患者も幸福そうだ。
そもそも我われは幸福を願っているのだろうか?
というのも、幸福は不幸の予兆とも言いうるのだから。
幸福になってしまったら、後は不幸になるしかないのである。
まさか幸福のまま人生を終わることは運命が許してくれまい。
このため、神経症という不幸に居つく患者もいるらしい。
春日武彦ならではの斜に構えた患者描写をご覧ください。春日さん、笑えるよな。

「抑鬱神経症のN氏は、民間療法マニアと化している。
当方を受診しつつ、漢方薬や民間療法を自己流に試してみている。
そしてわたしの外来でいちいち結果を報告してくれる。
話を聞いていると、どうやら当方の治療よりもはるかに効果的な療法を
探し出してわたしを脱帽させることに腐心しているらしい。
だから中途半端に症状が改善してしまっては困るわけで、
意地でもそう簡単には治るまいといった気持が透けて見えて興味深い」(P70)


ほかにもやたら数字にこだわる不幸な強迫神経症患者の例を紹介する。
こういう不幸な神経症患者は果たして治して幸福にしてしまっていいものか。
治ってしまったら、もっとなにかが悪くなるのではないか。
こう考えて、春日医師は患者の不幸をそのままにしておく。

「根源の部分では不安が強いのだから治療の対象となるのだろうが、
まあ強迫症状を治すというよりも、「大変ですねえ」と適度に
ねぎらっておいたほうが本人にとっては負荷が掛からずに済む」(P71)


不幸だと他人から認めてもらいたがる人もいるのである。
こういう人にいちばんいい言葉は「大変ですねえ」なのだろう。
「あなたはまだ幸福ですよ」などと助言したら逆に怒らせてしまう。
ときに精神科医は治すよりもよほど、
「大変ですねえ」と患者をいたわっているほうがいいのかもしれない。
小さな不幸の価値を深々と認めたうえで春日武彦は自身の幸福論に入る。

「(前略)不幸であるという物語を与えられてもまた、
しばしば心が安定するのである。多くの『幸福論』は、
嫉妬や野心や闘争心を捨てて身の丈に合った状況を受け入れよと説く。
それは正論だろうが実現は容易ではない。
困ったことに、全面的な幸福を得るには聖人君子となるか、
さもなければ徹底的に無反省となるしか方法はないのである。
では我々は幸福と無縁に暮らさねばならないのか?
まさかそんなことはない。
レディメイドの幸福ではなく、自分で見つけ出した幸福、
しかも断片としての幸福を得ることで人生を送っていくのが
もっとも妥当な方法論ではないのか。
断片としての幸福を点綴(てんてつ)していくことで、
かろうじて「この世もまんざら捨てたもんじゃない」
と思える境地を目指すしかあるまい」(P140)


春日武彦の説く「断片としての幸福」とはいかなるものか。
「見えないもの」を見ることに人間嫌いの精神科医は幸福を見いだす。
「ああ、そうだったのか」というささやかな発見をたいせつにする。
これは「世界が意味あるものだといった実感」のことだ。
言い換えたら「どんなに卑俗でちっぽけなことであろうと、
すべては詩となり得るだろうという確信のこと」――。

「騒々しい幸福、えげつない快感、安っぽい勝利感
といったものとは違った喜びが、人生には明らかに存在する」(P155)


患者の毒々しい不幸の物語を、自らの毒でもって受け流している精神科医の
よりどころとしているものは、どうやら自分だけの幸福を感じ取る能力のようである。

「不幸になりたがる人たち」(春日武彦/文春新書)

→精神科医の春日武彦は心を病んだ人を治す善意の人ではないのである。
多少毒を込めた言い方をすれば、きちがいウォッチャーとでもいうべきか。
きちがいにうんざりげんなりしながらも、それでもきちがいをどこかおもしろいと感じてしまう。
これは一見すると不謹慎なようだが、
たえず患者を鏡として自分と向き合っているということだ。
だから、ある面とても誠実な医者ということになる。
なぜなら、常にこの疑問を抱いているからである。

「相手がおかしいのか、我われのほうがおかしいのか、
理屈からするとその客観的判断は困難ということになってくる」(P30)


変わり者の精神科医は「不幸になりたがる人たち」がいるのではないかと指摘する。
そう言われたら、たしかにそのような人がいるような気がするのである。
これは「不幸になりたがる人たち」という新語によって見えてきた現実だ。
たとえば、精神科医のもとを訪れる患者も、どうやらそのように見受けられるらしい。
考えてみれば、おなじ環境でも発病する人としない人がいるのである。
どうやら人間というものは、自らを不幸にする業を隠し持っているようだ。
春日武彦医師は、長年の診察経験からその業を特定する。

「わたしが精神科医として沢山の人たちと接しているうちに気づいたことがあって、
それは人間にとって精神のアキレス腱は所詮「こだわり・プライド・被害者意識」
の三つに過ぎないというまことにシンプルな事実である
(それは犯罪の動機の大部分が「色・金・怨恨」の三つに収斂(しゅうれん)
してしまうことに通じているのかもしれない)。
もちろん、こだわりやプライドがなければヒトはなにもなし遂げられまい。
無気力で受動的な人物となり果ててしまうだろう。
だが、過剰かつ非現実的なこだわりやプライドは、
驚くばかりに心の働きを異様なもの(ときにはグロテスク、ときには滑稽、
ときには迷惑千万なもの)に変える。
被害者意識もまた同様であり、これら三要素がもたらすものは業と呼ぶしかない。
三要素のうちでも、殊に被害者意識が厄介なのは、
それが二つのものを求めてやまないからである。
そのひとつは「敵」であり、すなわち自分に被害者意識を抱かせるに至らしめた
悪玉の存在を必要とするということである。(中略)
そして被害者意識が求めるもうひとつのものとは、「特権」である。
ワタシハ弱者デアリ苦シメラレテイル立場ニアル、
ダカラワタシハ世間カラ労(イタワ)ラレ優遇サレルノガ当然デアル!
といった一種の権利要求にほかならない」(P67)


この秀逸な指摘が耳にたいそう痛く響くのはわたしだけではないのではないだろうか。
リピートすると、人間の業は、「こだわり・プライド・被害者意識」である。
とりわけ「被害者意識」が始末に悪いのは、
悪玉をつくるのみならず、鼻持ちならない特権意識を抱かせるからである。
この文脈に冷静に向き合ったら、かなりの「不幸」が緩和を見せるはずである。
しかし、人間は(わたしも含めて)どうしてもこの傾向に気づこうとしない。
なぜなら「こだわり・プライド・被害者意識」は居心地がいいからである。
我われも実際はかなり「不幸になりたがる人たち」なのかもしれない。
「こだわり・プライド・被害者意識」が「不幸」の度合いを強めるにもかかわらず、
なお我われがとりわけ「被害者意識」にこだわるのはそれが甘美であるからだ。
悪い敵に苦しめられている弱者という特権意識はとろけるように甘い。
著者の論述から多少飛躍すると、このために、
なにか事件があったときマスコミは悪玉を早々とつくりあげ、
我われをみな被害者に仕立て上げてしまうのかもしれない。
戦争が終わった瞬間に国民全員が悪い軍部に操られた被害者になったように。
以下は春日武彦の発見した人間法則である。

「人間の業」=「こだわり・プライド・被害者意識(→悪玉+特権意識)」

これは人間だけではなく集団にもあてはまるのではないだろうか。
たとえば、宗教団体がそう。
機関紙で悪玉を徹底攻撃している特権意識の強い日蓮系巨大仏教団体があるでしょう。
わたしはその団体の人間くさいところがどうしても憎めないのだが。
国際政治には無知だけれども、アメリカなんかずっとこれをやっているような気がする。
悪玉をかならずつくるよう一部マニュアルになっているハリウッド映画も、
春日武彦の人間法則に縛られていると言えなくもないだろう。
精神科医は述懐する。

「精神科医として自分の仕事を振り返ってみても、劇的なことは案外少ない。
いやそれどころか「劇的なこと」はファンタジーや妄想、
さもなければ願望充足的な錯誤ないしは虚偽ではないかと疑う姿勢を
いつしか自分が身につけていることに気づく。
幼い頃に心ない人物によって負わされた(と称する)トラウマを自ら開陳し、
雄弁に(ときには得意げにすら見える態度で)
自己の悲惨さについて語りたがる患者がいる。
まるでテレビドラマの脚本のような、明快で説得力に満ちたストーリーなのである。
おそらくその人にとっては、もはやそのストーリーこそが真実であり、
大抵は悪役として親だとか教師といった人びとが登場して
恨みの対象となっている」(P123)


もちろん、春日武彦は自分を省みて「不幸になりたがる人たち」を記述しているのだ。
「不幸になりたがる人たち」=我われはどうしたらいいのか。
では、精神科医は診療室で「不幸になりたがる人たち」にどう接しているか。
春日武彦医師は患者に――。

「(前略)いかに気持ちの上で踏ん切りをつけ、
事態を客観的にクールに眺められるだけの余裕と柔軟性を
持ってもらえるようになるかを工夫することになる。
ところが不思議なことに、明らかに解決法が分かっているにもかかわらず
本人はその解決を拒み、
それがために延々と悩み苦しみつづけているケースが珍しくない」(P114)


自分もみなとおなじ「不幸になりたがる人たち」の一員であると
「客観的にクールに眺められるだけの余裕と柔軟性」を持てばいいのである。
しかし、それはとても難しい。
だから、「不幸になりたがる人たち」と春日武彦は苦々しく命名するのだろう。

「文士の酒 編集者の酒」(村松友視/ランダムハウス講談社文庫)

→いまは風格のある人が少ないよな。
吉行淳之介、山口瞳、開高健、アントニオ猪木らが登場する上質の
酒食エッセイを読んだ感想である。どっしりとした味のある人がめっきり減った。
みんなサラリーマン化してしまった。
無茶をする人がいなくなった。みんなまず最初に損得を計算してしまう。
編集者から直木賞作家に成り上がった著者はアントニオ猪木をこう評している。

「アントニオ猪木さんのおおらかさ、屈託のなさ、天真爛漫さ、いいかげんさ
……つまりはアントニオ猪木ワールドに触れたのもこのときが最初だった」(P93)


風格があるとは、ワールドを作ることができるということなのだろう。
ワールドとは王国のことだ。ワールドには中心がなければならない。
国王になる資格の持つものが風格を帯びるのであろう。
吉行淳之介ワールド、山口瞳ワールド、開高健ワールド。
どうしたら風格を身にまとうことができるのか。
まずは自己を王と信じること。
しかし、断じて周囲に向かって自らは王なりと宣言しないこと。
これが人から王と思われるものの条件ではないかと思われる。

「シナリオ 他人の顔」(安部公房/創林社)絶版

→映画シナリオ。昭和41年公開作品。
新しいものほど古くなるのが早いのがよくわかる作品。
当時最先端のものほど時代が経つと目も当てられない駄作になってしまう。
しかし、映画はいいよね。
テレビドラマで意味不明だとバカヤロウとすぐに消されて終わり。
これが映画だと自分が至らないのかもしれない、
といろいろ観客が勝手に意味づけしてくれるのだから。
いまでも「他人の顔」のような旧・前衛映画を観て感銘を受けている手合いは(いるいる!)、
調子よく自分に酔っているのだろう。
大酒飲みだから酔うのはいいと思う。たとえそれが自己陶酔でも酔うのはよろしい。
本作のテーマは、アイデンティティの喪失やらなんやらだと思う。
庶民の言葉に変換したら、人間は顔か否か。顔を変えたら人生も変わるのか。

「孤独なのはなにも君だけじゃない。
誰だって自分に戻るしかないんだ」(P167)


おいおい、こっぱずかしいセリフをいい大人が……。
わたしは、人間、顔ではないと思っている。
もしわたしの顔がキムタクになっても、絶対にもてる男にはならない自信がある。
シナリオ「他人の顔」を読んで、そんなことを思った。

「シナリオ 砂の女」(安部公房/創林社)絶版

→映画シナリオ。昭和39年度キネマ旬報ベストワン作品。
こんなものが受けた時代があったのかと隔世の感に堪えない。
みんなインテリにあこがれていたのかしらねえ。
難しい顔をして映画「砂の女」の147分(なげえ!)に我慢したら、
知識人の仲間入りができたのかもしれない。
ちょっと現代のプロデューサーの真似をしてみよう(ただし妄想)。
安部ちゃん、シナリオよくないよ~。
なにより暗い! もっと明るくしないとお客さん帰っちゃうよ!
わかりにくい! お客さんは高いお金を払ってくれてるんだからわかりやすくしなきゃ!

そういえば、いまは「インテリ=かっこいい」という図式がすっかり消えたよね。
「インテリ=オタク=きもい」になってしまっている。
考えてみたら、「もてない男」の唯一の救いがお勉強(インテリぶる)ではないか。
インテリに価値があった時代は、付け焼刃の嘘知識で女をだまくらかすことができた。
ところが、いまじゃ結局は顔と性格のよさが肝心とばれてしまった。
けっ、おいらも「砂の女」の時代に生まれたかったぜ!

「なりたい!! シナリオライター」(DAI-X出版編集部・編)

→物書きというけれども、シナリオライターほど怪しいものはないと思う。
だって、いままでろくに本も読んだことのない主婦が、
怪しげな広告にだまされて「決めた、あたし、シナリオライターになる」
とか宣言しちゃうわけで。
ぜったいに小説家や評論家は目指さないのね。なぜかシナリオライター。
うすうす(シナリオ以外は)無理だとわかっているからだと思うけれど。
しかし、シナリオライターくらいならあたしでもなれるとみんな思う。
で、実際になれちゃうものがいるのもこの世界の怖いところ。
なぜかと考えたら、シナリオには歴史がないということが大きいのではないか。
まだ百年の歴史もないのである。
日本映画がサイレントからトーキーに変わったのは1927年。
ここが日本シナリオ史の発端になる。

まあ、だれもシナリオのことをよく知らないのである。
みんな恐々としながら、それでも格下のものには、
さも自分がシナリオをわかっているかのような強気の発言をする。
反対に、格上のものには「おっしゃるとおりです」とぺこぺこ従う。
いったいだれがシナリオをいちばんよくわかっているのだろう。
だって、テレビ局のプロデューサーはたまたまいまドラマ制作に配属されているだけ。
ことさらシナリオを勉強したわけではない。
シナリオ学校の講師の意見が正しいのかといえば、そうではない。
これは実体験だが、知識もプロ経験もない素人が偉そうにシナリオを教えていた。
じゃあ、大学で映画を教えている教授先生がいちばんシナリオに詳しいのか。
しかし、先生方は現場で仕事をしたことがない。
映画はたくさん観ていてもシナリオまで読む映画専門の大学教授はいないだろう。
要するに、ほとんどの人がシナリオのことをまだよく知らないのである。
個人的な好き嫌いが非常に強調される世界である。
このため、無学な主婦でも運よくプロデューサーに気に入られたら出世できるわけだ。
シェイクスピアさえ読んだことのない人が、シナリオ業界にはうようよいるのである。

わたし個人の意見をいえば(たぶん間違えていますよ。ごめんなさい)、
ベテラン脚本家がいちばんよくシナリオを理解していると思う。
なにを理解しているのか。その価値基準のいいかげんさを、である。
ひとたび文学賞でも取ったらプロデューサーの態度がころりと変わる。
おそらく、これがあこがれるもののやたら多いシナリオ世界の実際なのだろう。

「テレビ大捜査線」(君塚良一/講談社)

→人気脚本家による業界の打ち明け話である。
といっても、暴露のようなものではなく業界にあこがれるミーハーが対象読者か。
芸術論からはいちばん遠いところに位置するビジネス本といったおもむきが強い。
本書を読んで学んだのは、いまのテレビドラマは作品ではなく商品ということだ。
ひとりが作品を生み出すのではなく、みなで知恵を絞って売れる商品を作る。
このため脚本家は全体の中で優秀な歯車としての役割を求められる。
連続テレビドラマという商品では、制作途中での改変は当たり前だという。
というよりも、放送後の視聴者の反応を見てからストーリーを決めるのが通常とのこと。
もう視聴率を取るためのマニュアルが完成しているらしい。
テレビドラマを見るのは若い女性が多いから恋愛ものだと視聴率がいい。
人を殺すと視聴率が上がる。わかりやすい物語で感情移入させるのが王道。
とにかく視聴者を気持よくさせることをテレビマンは心がけているのだという。

君塚良一氏はこういった風潮に違和感を感じながらも、
同時に売れるドラマを書くプロとしてのこだわりも捨て切れずにいるようだ。
理想を持ちながらなお現実を見失わない君塚氏は優秀な脚本家なのだと思う。
さて、もうテレビドラマは個々の脚本家が書きたいものを書く時代ではない。
みんなが一丸となって営業戦略として売れるドラマを作るように進化している。
少し我流に表現を変えると、テレビドラマは「わたしの物語」を描くものから、
「わたしたちの物語」を描くものへと進化したのだろう。
「わたしの物語」は小説がやればいいのである。
君塚氏によると、いまのテレビドラマは「わたしたちの物語」を描いている。
すべてのドラマは企画からスタートする。

「数人の考えから一本のテレビドラマが誕生することになり、
企画は、「わたし個人の思い」ではなく、「わたしたちの思い」となる」(P210)


本書はテレビドラマの裏側をわかりやすく教えてくれるのがとてもよかった。
著者にはこれからもいいドラマを書いて「わたしたち」を楽しませてほしいです。
もう「わたし」なんてどうでもいいので。
若い女性ならまだしも、いい歳をしたおっさんはわがままをいいません。

「ドラマを書く」(岡田惠和/ダイヤモンド社)

→シナリオの世界をピラミッドにたとえたら、いま頂点にいるのが岡田惠和さん。
というのも城戸賞選考委員、テレ朝なんたら賞選考委員。
シナリオ以外にもなぜかエッセイコンテストの選考委員としても
お姿を拝見することがちらほらある。とても偉い人なのである。
出世を狙うもののまえに門番として立ちはだかるのが岡田惠和さんである。
本書は岡田惠和氏がドラマ制作の裏側をライトなエッセイにしたもの。
雑誌「テレビ・ステーション」の連載に加筆修正を加えたものらしい。
本書を読みながらさすが一流の脚本家はエッセイを書いてもすごいと感服した。
ひとつ気づいたのは、本書のなかに文学作品がまったく登場しないこと。
お堅い文学だけではなく、そもそも小説の話がぜんぜん出てこないのである。
岡田惠和さんが強い影響を受けたという山田太一氏は文学畑出身といってもよい。
シナリオ世界では岡田惠和氏が山田太一氏の後継者と目されているようだ。
系譜を整理すると以下のようになる。

「海外文学・日本文学→山田太一→岡田惠和」

岡田惠和氏は父(山田太一)の影響は強いが祖父(文学)とは絶交しているのである。
この祖父との不仲が、岡田氏を人気脚本家にしたのだと思う。
シナリオライターは文学者のようなことをいってはならないのである。
おなじ物書きでも脚本家と小説家は大きく異なる。
そもそもシナリオは表に出てくることがない。
言語感覚が鋭い岡田惠和さんはシナリオを「仮想敵」と巧みに表現する。
シナリオは文学作品ではなくスタッフ、キャスト全員の「仮想敵」なのである。
岡田さんはあまり現場に顔を出さないという。

「まあ、現場というのは、シナリオライターが書いた本を基に、
いかに現実化していくか、という場所なので、
その場において脚本というのは、仮想敵であっても仕方ないと思うし、
その仮想敵に対して一致団結することでいいものができる、
という側面もあると思うので、
その敵がやたら顔出すのも……と何か遠慮してしまうわけです」(P21)


文学作品はひとりで書くがシナリオはそうではない。

「まあ、要するに作家が書いていったものに対して、
いろんな人がああでもないこうでもないと意見を言って、
その要求に応えて、本を直していかなければならない。
皆の合意がなければ、たとえ何度稿を重ねても終わらない。
それが本直しです」(P67)


「皆の合意」に向けて空気を読むのが岡田惠和さんは抜群にうまいのだと思う。
くだらぬ自己主張などしてはいけないのだろう。

「よく「演出とかで台本って、変えられちゃったりするわけでしょ?
それについてはどうなんですか?」という感じで言われることが多いんですが、
私は基本的にはOKです」(P112)


この寛容さこそ一流脚本家の才能なのではないかと思う。
わたしは違う世界を覗き見したくて本書を通読したけれど、
もしシナリオライター志願者が読んだら、とても得るものが多いのではないか。
たいへんな名著であった。
やはりどの分野でも一流といわれる才能ある人の文章に触れると刺激になる。

「江戸の味を食べたくなって」(池波正太郎/新潮文庫)

→ふしぎな法則があるのだが、これはわたしだけだろうか。
好きな人が好きな食べ物をこちらも好きになってしまうのである。
嫌いな人の好きなものは、むしろいや増しに嫌いになる。
本書を読んで小鍋、鰻、ポテトフライ、茄子の味噌汁がやたらと食いたくなった。
七味唐辛子と鶏の唐揚げが好きなのは、本書の影響ではない。
周囲に好きな人がいたからである。
肩書より顔より性格より、対人関係は好きな食べ物が重要なのかもしれない。
こいつが好きな食いもんはどうにも好きになれそうもない。
そう判断したら手を引くのも一計だろう。
我われは毎日なにかしら食べている。これは思ったよりも重いはずである。

「ブッダは何を教えたのか」(ひろさちや/パンドラ新書)

→仏教はなんでもありなんだよね。
「仏教ではこう教えています」と書いて、それが間違いのことはほとんどない。
かならず調べたらどこかの経典に書いてある。
書いてなかったら、拡大解釈すればいいだけの話。
とはいえ、ぜんぶの仏教経典に目を通した人はおそらくいないと思われるから、
「それは仏教の教えではない」と断言する人のほうが仏教を知らないということになる。
仏教ではなんだっていいのである。
だから、ひろさちやさんのようにブッダの解説書で、
ほとんど関係ない法華経の教義を出してもいい。
とはいえ、これはあんがい仏教の本質を突いているような気がするのである。
ひろさちや氏は「仏知見(ぶっちけん)」で見ることが肝要だと説く。

「わたしたちは人間(仏教では凡夫といいます)の立場でしか
モノ・コトを見ることができません。それは「人知見」です。人間の物差しです。
「人知見」によるなら、敗者になるのはいやであり、病気はいやなコトです。
そして、戦争も犯罪もないほうがいいのです。
ですが「仏知見」(如来の智慧)で見れば、モノ・コトは違って見えます。
どう見えるか、それは凡夫にはわかりません。
仏にならないと、仏の見方はわからないのです」(P208)


かりそめこの世でマイナスといわれていることも「仏知見」から見たらわからない。
いまの社会でマイナスとされていることも、
もしかしたら「仏知見」から見たら信じられないほどのプラスかもしれない。
だれもが(人間なら)マイナスにしか思えないことも、「仏知見」から見たらさあどうか。
あんがい、とてつもない福徳をもたらすものかもしれない。
この「仏知見」は「永遠」などと訳したらわかりやすいのかもしれない。
浄土や来世(をふくむ永遠)から見たら、現世の禍福など大きく意味を変えるだろう。
どうして早世や障害が不幸でありえようか。
人間の失敗など永遠から見たらホクロほどにも気を引かないのではないか。
人間の物差しを信用するな。これがひろイズムの根本思想になるのだろう。
わかりやすくいえば、「なんだっていい」である。
人間の目にこだわるからマイナスに見えるだけの話なのだろう。
人間ならぬ仏の目から見たら、「なんだっていい」――。
まあ、口でこのようにいうのは楽だけれども、実際にマイナスに遭遇すると難しい。
しかし、この考え方をすると救われる。
この考え方とはしつこく繰り返すが「なんだっていい」である。
「仏知見」から見たら「なんだっていい」のかもしれない。

「人生哲学 阪神タイガース的」(ひろさちや/ソニー・マガジンズ新書)

→ひろさんが、生き生きしてるぜ! 本当に阪神タイガースが好きなのだろう。
内容は、阪神タイガースに学ぶ生きる智恵である。
むかしは仏教に学ぶふりをしていたが、正体を現わしたな、ひろさちや!
もうすぐ死ぬひろ先生にとったら、仏教も阪神タイガースもおなじなのである。
わたしは本書で大好きなひろさんがピチピチしているのがなにより嬉しかった。
プロ野球はよく知らないが、阪神タイガースはとにかく弱いらしい。
そこでひろさちや氏が注目するのは「負ける」という意味だ。
弱いから負ける。しかし、負けるのはそれほどいけないのか。
たとえ負けても楽しかったらいいのではないか。
阪神タイガースが何度も負けようが楽しく応援できたのだからいいではないか。
これは阪神ファンならではの悟りといってよい。
もしかしたらひろ氏の仏教観は阪神タイガースに鍛えられたのかもしれない。
楽しむ野球と正反対なのが勝つための野球である。
ひろさちやは勝つための野球を批判する。
なぜなら、勝つためには選手が滅私奉公して、
チームのために尽くさなければならないからである。
それから勝つためには確率野球をしなければならなくなる。
本書を読んで、バンドをする意味がようやくわかった。
あれは確率を重視していたのか。この歳になるまで知らなかった。

「まず、ノーアウトでランナーが一塁だとします。
このランナーがホームにかえって来て得点になるには、
ヒットが二本続かないといけません。
しかし、二人の三割バッターが二本のヒットを打つ確率は、0.3×0.3です。
それだと約一割の確率です。だが、一塁のランナーをバンドで二塁に送ると、
ワンアウトになりますが、次は三割の確率で点になります。
一割と三割では、はるかに三割のほうがいい。
そこで、ノーアウト、ランナー一塁となれば、
川上(哲治)はバンドで二塁に進める野球を始めたのです。
これが確率野球であり、「勝つための野球」です」(P125)


考えてみれば人生でもそうだ。
いまは確率人生を「勝つための人生」と信じて励んでいるものが少なくない。
野球とは異なり人生ではみなかならず百%負ける(=死ぬ)にもかかわらず……。
確率野球や「勝つための野球」がつまらないとひろさちや氏はいう。
まったくである。野球のことはよくわからないが、
確率人生や「勝つための人生」はどこがおもしろいのかと思ってしまう。
プロ野球ではそうもいかないのだろうが、
人生では勝たなくても楽しめたらいいという草野球精神はたいせつである。
楽しんだもの勝ちのようなところが人生にはある。
勝つよりも楽しむことを重んじるという生き方があるのだろう。

そういえば、近所の荒川土手を散歩していて、いやな光景に出くわすことがある。
少年野球チームの監督やコーチがやたら威張っているのである。
いかにも会社ではうだつの上がらないような冴えないおっさんが、
鬱憤を晴らすように学童を叱り飛ばして練習させている。
どうせプロになんかなれないんだから、もっと野球を楽しませればいいいのにと思う。
楽しむことを罪悪とするような歪んだスポーツ観がどうしてか幅を利かせているのだ。
勝てなくても楽しかったらいいではないか。
関係ないが、このように考える人はたぶんギャンブル依存症にはならないはずである。

「サラリーマン劇薬人生相談」(ひろさちや/ベスト新書)

→まったく期待しないで読んだら、これはすばらしい。
理由は、別のライターが聞き役にまわり構成を担当したからだと思う。
この構成がかなりうまかったのではないか。
さくらい伸という人らしい。
「伸」という名前を読むとすぐに創価学会を連想してしまうが(「人間革命」の山本伸一)、
なにか関係があるのだろうか。
ともあれ、本書の構成はよかったですよ。
ひろイズム炸裂で、最高のひろさちや入門書になっていると思う。
なにか1冊読もうか迷っている人には「サラリーマン劇薬人生相談」をおすすめします。
これでかなりの悩みが消えると思う。
冒頭からひろさちや先生は飛ばしている。こんな明快な人生相談の回答は見たことがない。
悩み多きわたしもひろ氏のこの言葉で吹っ切れた。

「人生、どのように生きたらいいのでしょうか?
そのように問われたら、わたしの答えは簡単です。
「どのように生きたってかまいません。
あなたの好きなように生きればいいのです」(P3)


なるほど、まったくそうであった、そのとおりだと覚醒する。
しかし、どうして我われは迷うのだろう。正解があると思うからだとひろ氏はいう。
それから、なんだかんだいっても他人から褒められたいと思っているのがいけない。

「自分の人生は自分のものです。自分の好きなように生きればいいのです」(P3)

ああ、なんと人生は簡単だったか!
しかし、あれなんだろうね。自分の好きなことがない人も多いのかもしれない。
「好きなように生きればいい」といわれても、
そもそも好きなことがない人は困るのだろう。
好きなことがある人はもう悩むことはない。好きなように生きたらいいのである。
でも、やっぱり人間だからAかBか迷っちゃう。
ひろさちや氏は他人に相談しないほうがいいという。
他人に決めてもらったら、
うまくいかなかったときにその人を恨むようになるというのが理由である。
あれ? ほんとに他人の助言に従う人なんかいるのか~。
相談しても最後に決めるのは自分だと思っていた。
ひろイズムだとほとけさまに決めてもらうのもいいらしい。
サイコロを振って決めるのである。サイコロは1回しか振ってはならない。
一回性に賭ける。ほとけさまに決めてもらう。
これはやったことがないからまだわたしも不信心なんでしょうね。

他人のことは、無関心がいい。これは放っておくというのと同義だろう。
最近ようやく気づいたのだが、かなりのケースで放っておくのがいちばんなのではないか。
悩みは悩むから悩みになる。悩みをどうにかしようと思うから悩みになる。
しかし、たいていの場合、悩みはどうしたって解決しない。
解決しないから悩んでいるのに、どうかしようとしてもどうにもならない。
なら、放っておけばいい。放っておけば、少なくともそのまんまである。
まあ、そうそう悪くはならないだろう。
なにかするともっと悪くなることもなきにしもあらずなのだから。
こじらせる、というやつだ。
しかし、他人を放っておくというのが、まだまだできない。
ついつい他人のことを気にしてしまうのである。

「仏教が教えるのは、無関心です。他人がどうしようと放っておけばいい。
同僚が奥さんに逃げられようが子どもが大学に落ちようと、常に無関心。
たいていの人はそういう話を聞いて、
表面上では「いやあ、お気の毒さまで」などと言っているけれど、
内心は「面白いな」と思っている。
結局、わたしたちは他人に対して関心を持ち過ぎなのです。
同期のヤツが出世した。
二段階飛び越して部長になったとかなんとか仲間が言ってきたときにも、
「自分には関係ないことだ」と言い聞かせる。
日ごろからそういう心構えでいれば、
そのうちあまり他人のことは気にならなくなります。というよりも、
もっと大事な自分のことを一生懸命に考えるようになるからね」(P39)


きっとニュースが好きなわたしはまだ修行が足らないのだろう。
ニュースはやはりおもしろいもんね。
しかし、他人の出世は耳障りなのも事実だから。
いまはネットが世界中に普及したから無理なのかもしれないが、
海外一人旅をするとほんと日本の情報がまったく入ってこなくなる。
はっきりいって、どうでもよくなる。
「どうだっていい」というのがポイントなのだろう。
他人のことは、まあどうだっていい。アハ、どうだっていいや。
うん、もうすぐ死ぬ人でしかいえない過激な発言に満ちている本書はよろしい。

「旅巧者は人生巧者」(ひろさちや/ヴィレッジブックス新書)

→これまためったにないほど質の低い本である。
しかし、ひろ先生から教わった人生態度は、「期待しない」だから構わない。
そもそもあまりひろさちやさんの本なんかに期待していないから。
期待するから裏切られるんだよね。
ま、ひろさんの本なんだから大したことがないさ、と最初から思っていたから平気。
ひろ氏は「期待しちゃいけないよ」と身をもって教えてくれているのである。感謝感謝!
いつものようないいかげんな話が繰り返されるのでとても心地いい。
精神病と強い相関を持つ「こだわり」の反意語は「いいかげん」なのだと思う。
関係ないけど、毎度のごとく高額所得者のくせに庶民ぶる先生もすてきである。

そうそう、飛行機とかで病人が出たとき「お医者さんはいますか?」のアナウンスがある。
医者はあれに名乗り出ないほうがいいらしい。
ろくな薬もないところで間違った医療をしたら逆に責任を問われてしまうとのこと。
それから本書に匿名の高僧批判が書かれていた。
ほら、宗教ライターのひろさんは、日本の高僧と行動を共にすることが多いから。
わがままな高僧がかなりいるそうである。
どのみちもうすぐ死ぬんだから、一度だけ名前を暴露してくれないかしら。
でも、そんなおもしろい本を書いてしまったら、
ひろさちやがひろさちやではなくなってしまうから、まあいいです。
そういえば「あきらめる」という最高の人生作法もひろ先生に教わったのだった。

「人生の「お荷物」を捨てる方法」(ひろさちや/青春出版社)

→人生最大の「お荷物」といえば不安と心配だと思う。
将来のことが心配で不安になる――。
未来のことはどうにもならないのに、この「お荷物」はふくらむばかり。
さらに「どうしよう?」なんて考え出しちゃうと、どんどん不安や心配になる。
でもさ、ひろさちやさんの言っているように、
いざ不安が的中しても経験しちゃえば「こんなものか」になっちゃうんだろうね。
なんだ、こんなものかと。
経験していない状態でいくら心配しても不安が増大するだけ。
実際に経験したら「こんなものか」でおしまい。
結局、経験していない段階での不安や心配がいちばん始末が悪い。
ひろさちや先生のご本の効能は、不安や心配が消えることではないかと思う。
将来への向き合い方は「まあ、なるようになるさ」、
または「ふん、どうせなるようにしかならん」がもっともいいと気づく。
しかし、この不安と心配は大きなビジネスチャンスだから、
世間は大々的にあおってくる。これを買っておけば安心ですよと。

海外旅行に行くときは、心配してあれもこれもと荷物に詰め込むけれど、
現地ではほとんど使わないものばかりである。
まあ、人生も似たようなものなんでしょうね。
考えてみたら、カバンに荷物を入れているときが旅行でもっとも楽しいときだから、
心配性な人というのは人生の楽しみ方をよく知っているのかもしれない。
とすると、わたしはもう少し将来の心配をしたほうがいいのかな。

「あるがままに生きよ」(ひろさちや/ぶんか社文庫)

→やたら誤植が多い本なのだが、いいかげんなひろさちやさんらしくていい。
ひろ氏は著者で禁煙成功自慢をよくする。
本書で知ったが禁煙したきっかけは、危うく子どもを殺しそうになったらしい。
友人の家でマージャンをしていた。タバコを吸うのはひろさんだけだった。
灰皿に山と積まれた吸殻を目を放した隙にその家の小さな子が口に入れてしまったという。
救急車で運ばれて、一命は取りとめたとのこと。
ほんと人生ってなにが起こるかわからんよね。
もし死んでいたら罪悪感で一生苦しんでいたのだから。

自宅にタンス預金していた1億7千万円を泥棒に盗まれたのはひろ先生の勲章。
受賞歴ゼロの売れっ子ライターひろさちや先生にも勲章があった!
1億7千万円の盗難被害か~。なんかマヌケで笑える(ごめんなさい)。
でも、本人はそうとう深刻だったのかも。
いやいや、きっと氏にとっては宗教観を深める最高の機会になったのではないかと思う。
まあ、友人の子どもを死なせちゃうよりは1億7千万円盗まれるほうがいい(のかな?)。
しかし、1億7千万盗まれない代わりに、うっかり子どもを死なせちゃう人生もあるわけだ。
問題は、どっちの人生がいいか人間には選べないということ。
もしそっちの子を死なす人生だったら、
老齢になってからひろ先生は「あるがままに生きよ」といえていただろうか。
ともあれ、幸運な人である。

「ひさしぶりにさようなら」(大道珠貴/講談社文庫)

→読みながら笑いがとまらなかった。大道珠貴(♀)はいいよね。
これはほめ言葉なんだけど、根っからの育ちの悪さがとってもおもしろい。
思想なんか、ぜーんぜんないところがいい。
まじめな人からの「将来お金がなくなったらどうしましょう?」みたいな質問に、
「アハ、盗めばいいじゃん?」と答えそうな登場人物がみんなプリティー。
まじめに恋愛とかしない「怠惰な性分」の人たちにすごく好感を持つ。
ほんとは難しいことなんてなーんにもないんだよね。
ごはん食べたらごろごろだらだら寝て、なにが悪いか、コノヤロッ! だから、コノヤロッ!
あひゃ、怒ったって思った? ウソだぴょーん♪ アッカンベー♪
るんるん、てきとーでOK、ほにょ~という感じがサイコーにすばらしい。
作家は柳美里(大好きです)みたいなあれな人の生態をかわいく描写する。
なぜか柳美里の小説はまじめに難しくなっちゃうんだけど、
大道珠貴にはそういうところがなくて、ふまじめ、ふきんしん、ふけつ。
ま、恋愛も労働も家事も育児も、めんどくさいというひと言に尽きますな、大道さん。
わかります。わたし、大道珠貴がわかります。笑います。大笑いします。