ふつうどの職業でも求人票に給与額が記載されていると思う。
しかし、この常識が通じない仕事があるのだ。
そう、若いみなさんのあこがれる夢の業界である(出版、映像)。
趣味なのか仕事なのかわからない世界だ。
さきほど小さな、とても小さな仕事をひとつ終えた。
仕事として考えたらまったく割に合わないけれど、趣味として考えたらまあ楽しかった。
むかし映像の仕事をしたことがある(わたしが至らないせいで頓挫しましたけれど)。
時給換算したらこの国ではありえない金額になってしまうが、
いくらだったのか業界を志望する友人に教えたら「そんなにもらえるの?」と驚いていた。
そのときはそれほどとは思わなかったが、
いまは仕事相手がわたくしごときをかなり高く評価してくれていたのだと思う。
ただでもやりたがる人のいる仕事というのがあるようだ。
まさしく夢の仕事である。

お金をいただいた相手の悪口はいくらわたしでも書かない。というか、書けない。
これはみなさんもおなじではありませんか?
だから、批判されたくなかったら権力者に金をばらまけばいいのである。
企業はマスコミに金を渡し(広告料)、マスコミは偉い作家や学者に金を払う(原稿料)。
なにかしら金品を受け取ってしまったら、思ったことも言えなくなるのである。
これを汚いと批判するにはわたしもオッサンになりすぎている。
このルールをうまく利用して一段でも二段でも上のほうに出世できないかしら。
いま気づいたが夫婦喧嘩をできる専業主婦というのは相当なものではないか!
金をもらっているのに言いたいことを言えるのだから。
やはり愛は偉大である。家族という制度には底知れぬ深みがあるようだ。
この1ヶ月近く不穏な沈黙を続けていたのは、文字通り言葉が見つからなかったからである。
ようやく言葉を発見した。

My fate cries out

「ハムレット」1幕4場にあるセリフだ。父の亡霊を見たハムレットが口にする。
もちろん、英語で思いついたわけではない。
福田恆存氏の訳したセリフからたどり着いたのである。日本語訳を覚えていた。
「おのれの宿命がはじめて目をさましたのだ」
原文はなんと書いてあるのかを調べて、「My fate cries out」に到達した。
「My fate cries out」と言えば、おさまりがつく。
いま言うべきセリフは「My fate cries out」である。
他人に言うべきセリフはなにもない。
ただ「Your fate cries out」と思っていればいいのだろう。
そう信じるしかないのだろう。

ちなみに、福田恆存氏以外は「My fate cries out」をどう訳しているか。

「我宿命の促す所ぢゃ」(坪内逍遥訳)
「おれの運命が呼んでいる」(木下順二訳)
「おれの運命が呼んでいるのだ」(小田島雄志訳)
「俺の運命が呼んでいる」(松岡和子訳)
「おれの運命が呼んでいる」(野島秀勝訳)
「俺の運命が叫ぶのだ」(河合祥一郎訳)

「My fate cries out」を「おのれの宿命がはじめて目をさましたのだ」と訳せるのが、
福田恆存氏の天才たるゆえんなのだろう。
原文を直訳すれば、「俺の運命が叫ぶのだ」がいちばん正しい。
大学受験英語では「fate」は運命、「cry out」は叫ぶ、だからである。
しかし、「俺の運命が叫ぶ」と言われても、なんのことだかわからない。
河合氏以外はみなおなじで「おれの運命が呼んでいる」だ。
だが、これも意味がわからない。
運命は人を呼んだり、呼ばれたりするものではない。
坪内逍遥氏のみ「fate」を運命ではなく宿命と読む日本文学能力を持っていた。

「おのれの宿命がはじめて目をさましたのだ」という福田氏の訳はすごい。
これを大学入試でやったら間違いなくバツを食らうからである。
「cry out」には「目をさます」などという意味はない。
「はじめて」という訳語はどこから持ってきたのだろう。
世の英文学者がどうして福田恆存氏をああも無視するのかようやく理解した。
学者から見たら福田氏のあれは誤訳になってしまうはずである。
もちろん、わたしは福田恆存さんの訳を強く支持している。
「My fate cries out」――。
「おのれの宿命がはじめて目をさましたのだ」――。

答えはひとつなのか。大学入試の正解はひとつだが、むろん人生はそうではない。
たとえば、青臭い問題に「人はなぜ生きるのか?」というものがある。
正解はないのだが、正解があると思っている人は多い。
自分は正解を知っていると驕(おご)るものも少なくない。
(たとえば幸福、愛、家族、友、夢、女、肉欲、酒、美食、快楽、地位、名誉、賞賛、金)。
それぞれに答えがあっていい。自分の答えを見つければいい。
このように説くのは河合隼雄氏である。
いちおう書いておくと、河合隼雄さんの答えは、「なぜなしに生きる」らしい。

いまのところわたしの答えは「死ぬために生きる」になろうか。
人は「死ぬために生きる」。わたしは「死ぬために生きる」。
このたび「My fate cries out」というセリフを知ったが、
おなじように人生でぜひとも言いたいセリフがある。
人生の最後にこれを言いたいから生きているような気がする。
「平家物語」の平知盛のセリフ。

「見るべきほどの事をば見つ」

知盛は死ぬまえに「ぜんぶ見てやったぞ」と言うのである。
おのれの宿命をすみずみまでもらさず「見るべきほどの事をば見つ」。
人生は生きてみないとわからない。死なないと人生の全体はわからない。
だから、死ぬまえの「見るべきほどの事をば見つ」なのである。

さて、「My fate cries out」に続くセリフはどうなっているか。
父の亡霊と対面したハムレットのセリフである。

「My fate cries out,
And makes each petty artery in this body
As hardy as the Nemean lion's nerve.」

ああ、懐かしい。「SVOC」と比較級ではないか!
福田恆存氏の訳を書いておく。

「おのれの宿命がはじめて目をさましたのだ。
体内の血管は力に満ち溢れ、ニミニアの獅子の筋のごとく、
それ、このように張りつめている」

ハムレットは「My fate cries out」を言うことで元気になっているのである。
文法的には「My fate」が「artery(血管)」を「hardy(頑丈、勇敢)」にした。
ハムレットは宿命をしかと認識することによって生きる張りを取り戻している。
まずは「My fate」を運命ではなく宿命と読み取ることだ。
わたしも「My fate cries out」を言ったからあとは元気になるだけである。
「見るべきほどの事をば見つ」をいつか言う日まで。
悪名高き食べログとおなじ仕組みなのがアマゾン書籍のレビュー。
ほんとうにあんなものを信用して、
買うか買わないかを決めている人がいると思うとぞっとする。
どうしてアマゾンのレビューなんか信じられるわけ?
わたしはまったく信じていない。
ものすごく傲慢なことを書くと、
レビュアーの90%は自分よりも知的レベルが上なのか疑問に思うからである。
(偉そうでごめんちょ♪←かわいく)
怒られそうなのでもう少し客観的に書くと、
レビュアーさんの90%はこちらよりも読書量が少ないのではありませんか。
アマゾン書籍のレビューがあてにならないというのは実体験でもある。
ブログに読書感想文を書くまえにたいがいアマゾンのレビューを読んでいる。
結論は、ほとんどが信用するに値しない。

評判がいいものは、ほんとうにあなたにもプラスになるのか。
わたしが重んじているのは、毀誉褒貶(きよほうへん)のある人や物。
だれかがヒステリックによくないと批判しているものは、
まず信じられると思っている。価値がある。買ってみてもいいか。
全員からほめられているようなものは、食指が動かず敬遠している。
けちょんけちょんにけなす人がいる対象は、やはりそれだけの魅力があるのである。
たとえば、シナリオ・センター。
わたしはこの学校に通うとき、事前に情報をいっさい調べなかった。
そのときたまたま自由になる金があったから通うのを決めた。
いまシナリオ・センターの評判はよくない。
あのスクールを批判しているのはわたしだけだと誤解している人がいるけれど、
むろんそんなことはないのである。
しかし、これがマイナスになるかはわからない。
もしわたしのような変人がシナリオ・センターの評判を調べたら、
おお、ここはおもしろそうだと入学を決めるはずである。

繰り返すが、みんなから絶賛されているものは胡散(うさん)臭い。
だれかが激烈に批判している人や物は信頼に値する。これがわたしの眼である。
そういえばシナリオ・センターのとても偉い(らしい)所長さんから、
「あんたは作家の眼を持っていない」と厳しく叱責されたな。
これにどう応えたか。「所長さんは作家でもなんでもないでしょ!」
あのときの所長さんのうろたえた顔はいまでも覚えている。
他人の評価だけを支えに生きてきた(他称)偉い人の顔であった。
情報は人を不幸にするという智恵をそろそろ我われも持つべきではないか?
情報は人間を一瞬は快適にはするけれど、決して幸福に向かわせるものではない。
知らないほうがいいことは、いくらだってあるのである。
テレビ局や大手出版社の社員平均年収など知らないほうがよほどいいのである。
この世はコネで成り立っているが(成功者の輪!)、
そういう裏事情はなるべく知らないほうが精神的な健康にはよい。
なぜなら、知ってもどうしようもないからである。
知れば知るほど、おのれの不幸を過剰に意識するようになるという悪循環だ。

だから情報の宝庫、インターネットはとても有害なのである。
ネットは知らなくてもいい情報にあふれている。
たとえばネットで検索すれば、患者は医者よりも病気に詳しくなれる。
2月にある病気にかかり、暇のためもありネットで情報を調べまくった。
その後、お医者に行ったのだが、彼の出す処方薬が間違えだと気づいてしまった。
大人ならこういうとき他人の誤りは指摘しないのだろう(服薬しなければいい)。
しかし、まだ人生修行の足りないわたしはうっかり口にしてしまう。
いたく彼のプライドを傷つけたのだろう。
詳細は書かないが、次回の診察で復讐といってもよい仕打ちを受けた。
ふつうならここで我慢するのだろうが、わたしは人間ができていない。
お互いが大声で怒鳴りあうような口論になってしまった。
カルテにひどい悪口を書かれたのだと思う。
翌週、いつもの女医さんにかかったら、カルテを見て苦笑していた。
しかし、女医さんはにやにやしながら「まえの(カルテ)は読んでいませんよ」。
年下の美人さんだが(わたしは年下の医者と女性の医者は嫌いである)、
この人はとぼけたところがあるのでなぜか好きだ。

話が脇にそれてしまった。
ネットのおかげで正しい薬がのめたのだからいいではないか、と反論されるかもしれない。
しかし、まあ、ほとんどの病気は薬で治るわけではないのである。
薬なんて、ぶっちゃけ、気休め。
時間が経てば放っておいてもかなりの病気が治るのである。
間違った処方薬が逆に効くという例は実際の現場ではいくらだってあるだろう。
そもそもそれほど薬品ごときにちからはない。
医師の出した薬をどれだけ信じてのめるかが病気回復の秘訣なのだと思う。
ネットのせいでどんな薬もかなり効き目を失ったのではないか。

少しまえにインチキで話題になった食べログなんざ、
もうここまで世間は行ってしまったのかとあきれるほかない。
どうしてそんなに他人の評価が気になるのだろう。
ものを食べるのは他人の舌ではなく、自分の舌ではありませんか?
10万もする商品(講座)なら話は別だが、
たかだか食いもんくらいで人の意見にそう左右されるなよ。
わたしは事前に調べて飲食店になど入らない。すべて行き当たりばったり。
かえって、そのほうがいい思い出になる。

たとえば片想いしている女性とはじめてのデートに行く。
失敗がないようにと評価の高いレストランに行こうと考える人がいまは多いのか?
まずい店でいいのである。接客態度が悪ければ、なおのことよい。
なぜなら、ふたりのあいだに共通の敵ができるでしょう?
「あそこはひどかった」と連帯意識さえ生まれるはずである。
レストランの悪口をいうことで話が盛り上がるかもしれない。
とはいえ、そうはいっても、狙って評判の悪い店に行っても思ったようにはならないだろう。
知らないで偶然にたまたま行くからいいのである。
ふたりが結婚したあとに、最初のデートの思い出は宝石のように輝いているのではないか。

情報弱者のことをネットスラングで情弱というらしい。
情弱でぜんぜん構わないのである。むしろ知らないほうが人生はおもしろくなる。
知れば知るほど人生はつまらなくなるようなところがあるのではないか。
わたしは女性の正体を最後まで知らないで死んでいけたらいいと願っている。
こういったら不平等かしら。じゃあ、こういい換えよう。
人間の正体なんて知りたくもない。
ウソをつけとおっしゃるかたが多いでしょうが、これはほんとうのことです。
これまでブログ「本の山」に、
ほんとうではないウソを書いたことは一度もないと断言できます。
ほんとうです。ウソではありません。

AKB48の大ヒット曲「ヘビーローテーション」を、いまになってはじめて聞きました。
これで驚くなかれ。この曲はすばらしいと、すっかりほれこんでしまったのですから。
マジですったら、ガチですったら。
まえにも少し書きましたがAKB48は、一遍上人が開いた時宗の末裔(まつえい)であります。
踊れ、飛べ、昨日を蹴れ、明日も蹴り飛ばせ、今日を踊れ、いまを楽しめ♪
AKB48のやっているのは現代の踊り念仏です。
いやはや、この歳になっても新しいものに胸踊ることがあるんですね。
AKB48の「ヘビロテ」には、
ロシアの困ったちゃん二人組みタトゥーの「200 Po Vstrechnoy」に等しい衝撃を受けました。

どうやらどうしようもなく悪食みたいです。しかし、これはほんとうの感想です。
ヘビロテとタトゥーのあの代表曲って、とても似ていると思いませんか?
そして、ああいう俗なメロディーが恥ずかしくも好きなようです。