「映画の昭和雑貨店」(川本三郎/「Shotor Library」小学館)

→古い日本映画を懐かしみながらあたたかく紹介する。
写真と雑文がちょうど半分ずつ入っている感じで、
どちらかに偏らないところがとてもいい本だった。
無学なので知らなかったが、
なんでも昭和20年代、30年代が日本映画の黄金時代らしく(P80)、
本書でも白黒映画の名作が「引揚者」「下駄」「色街」「女の酒」「銭湯」
といったテーマごとにまとめられ、写真とともに簡潔に紹介されている。
今年に入ってから昭和映画の名作シナリオをちょいちょい読んでいるわたしには、
まさしく関心ど真ん中の書籍である。
感想は、思ったよりもはるかに女優が美しいので驚く。

これは認めたくないのだが、もしや映画は美少女のためのものではないか。
たとえば黒澤明の「酔いどれ天使」はシナリオで読んだことがある。
登場する肺病の女子高生役、久我美子はこのたびはじめて顔を見た。
うーん、胸キュン! まさかこんな美少女とは思ってもいなかった。
この子が映画の冒頭とラストに出てくるのなら、シナリオなど問題ではないとさえ思った。

これを繰り返すと、おそらく際限がなくなるのだろうが、あとひとつだけ。
木下恵介監督の「日本の悲劇」はシナリオから見るかぎり、
そこまでの傑作ではないような気がする(ごめんなさい、素人判断ですよ)。
しかし、本書に掲載されている美少女の桂木洋子を見たら文句をつける気がなくなった。
この子のレイプシーンのある映画なら前後のストーリーなど、どうでもいいではないか。
美少女は見ているだけで楽しい。これはわたしが男性だからなのだろう。
ならば女性も、おなじように美男子を見ているだけで楽しいのではないか。
映画の愉楽とはもしや美男美女の鑑賞によるところがいちばんなのではないかしら。

本書で川本三郎氏は、ことさらストーリー以外の魅力に饒舌であった。
こんな映画の見方があるのかと教えられた部分も多い。
優等生的な感想だが、いろいろ考えさせられ、たいへん有意義な読書であった。
美少女は映画のために、しっかり守ろう、育てよう、愛そうと思う。
美しいものを描くのが映画であるならば、
声色(セリフ)よりも重要なものは数限りなくあるのだろう。
美しいものを舐めてはならない。これをこの記事のつたない結論にしたい。

「がんばっていきまっしょい」(磯村一路/「フォトブック」/ワニブックス)

→映画シナリオ。平成10年公開作品。
おそらく現実にはなにもなかった反動なのだろうが、青春ものが好きである。
恥ずかしながらむかしはロマンティストなところがあって、
映画や小説のようなことが現実にも起こるのだろうとどこかで信じていた。
これがけっこう長くて現実にすっかり見切りをつけたのは最近ではないかと思う。
だれもがそうなのかもしれないけれど、
むかしから現実よりも小説やドラマの世界が好きだった。
他人のことはよくわからないから決めつけるのはいけないのだろうけれど、
みなさん現実は現実、理想(フィクション)は理想と分けて考えているのでしょう?
わたしは幼稚だからか、ずいぶん現実を見誤っていた時期が長かったような気がする。
フィクションは現実を描いているからいいのではなくて、
現実には起こらないようなことを、
いかにもありそうなかたちで、ときに美しく、ときに醜く描いているからいいのだ。

そうフィクションを定義したとき、
あらためて映画「がんばっていきまっしょい」は傑作だと思う。
10年以上まえに映画を観て感動したので、このたびシナリオを読んでみたが、
台本もほどよい抑制が効き、なおかつ叙情を失わずすばらしい。
しかし、この映画は監督が脚本も書いているから、言ってしまってもいいのだろう。
この映画でデビューした17歳の田中麗奈が可憐すぎる。
美少女にかなうものなし! 監督も脚本家も、天から選ばれた美少女には勝てない。
シナリオもたしかにいいが、女優が田中麗奈でなかったら、どうなっていたか。
このシナリオはフォトブック(写真集)の巻末におまけとして付いていた。
ものすごい小さい活字組みで読者のことをまったく考えていなかった。
批判しているのではなく、これでいいのである。
17歳の美少女に比べたら、シナリオなど無価値にも等しい。
なぜなら、シナリオは何年経とうが変わらない。
しかし、美少女は5年も経てば初々しい輝きを喪ってしまうのだから。
それは死といってもよい。
17歳の田中麗奈は翌年には死んでいるのである。
いくらおなじだと主張しようが、18歳の女優は断じて17歳ではない。
17歳の田中麗奈はそれほど貴重なのだ。
このことに青春映画「がんばっていきまっしょい」は自覚的である。
青春とはなにか――17歳の重みを実によくわかっている。

「がんばっていきまっしょい」は田中麗奈が女子ボート部を立ち上げる話である。
時代は現代ではなく、はるかむかしの昭和52年。
男子ボート部はあったが、女子は仲間の勧誘からしなければならなかった。
リー(愛称)は悦子(田中麗奈)から最初に誘われたととき、
運動部は母親から禁じられていると断った。
しかし、悦子の懇願にこたえるかたちで女子ボート部員になるにいたった。
はじめての夏合宿での会話から引用する。ふたりは16歳だった。

○艇庫・台所
リーが野菜を見事に刻んでゆく。
悦子が隣で感心したように覗き込んでいる。
悦子「すごいなぁー、リー、料理得意なんじゃねぇ」
リー「小ちゃい時からしよるけん」
悦子「へぇー……」
リー「アタシな……アタシ母ちゃんおらんのよ」
悦子「(言葉がない)……」
リー「(あっさりと)病気で死んだんよ……」
悦子「ほうなん……」
リー「嘘ついてゴメンね。母ちゃんが運動部はいかんなんて」
悦子「ほうやったっけ……」
リー「ホントは誘われて嬉しかったんよ。けどアタシ下宿しとるし……
大学行くには勉強せんといかんし……無理かもしれんけど」
悦子「お父さん、何しよるん? 仕事」
リー「漁船の船長……アフリカまでいくんよ……
『運動部はいかん』ゆうて誰かに言われたかった……」
悦子「アタシの親なんか、何も言わんし、ほったらかしよ。
姉ちゃんが優秀で京大入って、アタシなんかどうでもええみたい」
リー、悦子が慰めようとする気持ちを察して微笑む。
リー「合宿ってええな……みんな一緒で」
悦子「ウン……」
とリーの寂しい気持ちがよく分かる」(シーン57)


いいシーンだよな。
少女たちの哀しい劣等感と、それを乗り越えようとする相互の思いやりが実にいい。
ひとりではなく、ふたりである小さな喜びを本当にうまく表現している。
これはかんたんそうに見えて、なかなか書けないセリフではないか。
さて合宿が終わってからあるのが新人戦。
高校1年のときの新人戦は大敗であった。ひとつも勝てなかった。
1年が経過する。悦子(田中麗奈)もリーも17歳になっている。
来年は受験だから、ボート部は今年で最後。夏合宿も最後である。
今年は玉川荘に合宿に来ている。

○玉川荘・一室(夜)
灯りが消えている。
布団に入っている悦子達。
悦子「(小声で)リー、寝た?」
リー「起きとる」
ダッコ「寝れんなァ」
ヒメ「アタシも……」
悦子「去年の合宿、思い出すねぇ」
リー「楽しかったなァ……ほんとに」
イモッチ「花火は持ってきとらんよ」
ダッコ「イモッチ、起きとったん?」
ヒメ「花火、トランプ、皆で泳いで……あんな事、二度とないんかなぁ……
何か、なつかしいな」
ダッコ「アタシら、まだ17歳や」
悦子「17も一度だけか……」
リー「20歳になったら、みんなどうなっとるんじゃろ」
ダッコ「30になったら、40になったら……」
イモッチ「やめてや、10年後でも想像つかんわい」
悦子「このまんまでおれたらええのに……」(シーン136)


青春の一瞬の輝きを切り取ったすばらしいシーンだと思う。
2ヶ月のロケでこの映画を撮影したそうだが、
これはまさしく17歳の田中麗奈がこのとき感じていた真実ではないだろうか。
もしかしたらだれもが経験した17歳ではないのか、とさえ思うくらいである。
17歳のわたしも某運動部に所属しており夏合宿で汗を流していた。
「このまんまでおれたらええのに……」
と僭越ながら田中麗奈と似たような感慨を抱いたのを記憶している。
世は無常である。17歳の輝きはかならず消え去る。
しかし、映画にしておけば永遠に残るのである。
いまこの瞬間の輝きを永遠にしたい! 時間に逆らいたい!
才能ある映画監督はこういうことを無意識的に欲望しているのかもしれない。
17歳のみ持ちうるいきいきとした思いは、すぐに消えてしまうからこそ美しいのである。
たとえそれが不安や哀しみ、挫折、敗北感であっても17歳であるならば輝いている。