「1970 ぼくたちの青春」(松原敏春/「ドラマ」1991年7月号/映人社)品切れ

→テレビドラマシナリオ。平成3年放送作品。フジテレビ。
もうギブアップだ。15歳のときにこのドラマを見てガツンとやられた。
だからもうケチな批評どころではないのである。
このドラマははいい。いいとしか言えない。
なにがいいかと言ったら、もうぶちまけてしまうと、シナリオよりもむしろ、
いや、シナリオはもちろんいいのだが、それよりも川越美和がキュートすぎるのだ。
成績優秀で乗馬が趣味のお嬢さま、ブンガクがあだ名の川越美和がいい。
いまからこの文学少女のセリフを引用するが、これは川越美和でなければダメなのだ。
黒髪で清楚なのにどこかしら陰があるこの美少女でなければいけない。
もしかしたら15歳の少年は川越美和に恋をしたのかもしれない。
もうブンガクこと川越美和に降参して宣言してしまうが、
ドラマはシナリオより演出よりなにより女優がいちばん大切なのではないか。

「1970 ぼくたちの青春」の主役は高校3年生のノンポリこと吉岡秀隆。
彼といつもつるんでいるのは同級生のバンチョウこと筒井道隆、
リクソウこと萩原聖人、それからニシキこと永堀剛敏。
バンチョウがブンガクに恋をしたのである。
ノンポリはバンチョウからラブレターを代筆するよう頼まれる。
さて幼児洗礼を受けているノンポリは母親に連れられていやいや教会に行くのだが、
なぜかブンガクも毎回来ている。
ある日、教会の表で吉岡秀隆(誠)は川越美和(恵子)から声をかけられる。
(ちなみにNとはナレーションの意味で吉岡秀隆の声のこと)

恵子「西脇くん」
誠「(振り向いて)えっ?」
  慌てて目をそらして、行こうとする。
N「もう一度、言ってもらいたかった。西脇くん。いい響きだ」
恵子「西脇くん」
誠「なに?」
恵子「変な人ね」
誠「なんだヨ」
N「甘酸っぱい匂いがした」
恵子「ズーッと私の方、見てたでしょ」
誠「まさか」
恵子「いつも、そうなんだから」
誠「自意識過剰」
恵子「見てたくせに」
誠「自惚れるな」
恵子「いやらしい眼して」
誠「バカヤロー」
恵子「もう見ないで」
誠「見てないって」
恵子「(笑っている)」
誠「来なきゃいいじゃないか、教会なんて」
恵子「私の勝手でしょ?」
誠「どこが面白いんだ」
恵子「私、バイブルって好きなの。だって、血の匂いがするでしょ?」
  そう云って駆けて行く。
誠「――?!」
N「傷ついていた。いたく傷ついていた。
 ブンガクはボクの事を、からかっていた」(P122)


なんでもないセリフのやりとりだが、川越美和がやると本当にいいのだ。胸キュンだヨ。
ところが、清純そのもののブンガクに悪いうわさが生じる。
どうやら秘密があるようなのだ。
リクソウがたまたま目撃してしまったのだ。
今晩ブンガクは担任の不良教師マムシ(陣内孝則)とふたりでスキーに行っている。
泊りがけのようだ。するとあの美少女は――。
ブンガクはマムシに食われてしまうのかと4人はうわさする。
いや、ブンガクに片想いしているバンチョウだけはうわさに入らず怖い顔をしている。

N「フザケながらも、ボクらは傷ついていた。
 でも、もっと傷ついていたのばバンチョウだった。
 そんなバンチョウを見るのは初めてだった」(P125)


驚くべきことが起こった。なんとブンガクからラブレターの返事がきたのである。
ノンポリが代筆した文学作品からの引用を並べ立てた恋文の返事だ。
絶対にこない。くるわけないと確信していた返事がきてしまった。
ノンポリはバンチョウから引き続きラブレターを代筆するよう頼まれる。
ちなみに、この恋文代筆の元祖はフランス古典劇の「シラノ・ド・ベルジュラック」。
バンチョウに成り代わったノンポリはブンガクにラブレターを書き続ける。
この恋文交換シーンが青臭くて本当にいい。
ノンポリ=吉岡秀隆(誠)
バンチョウ=筒井道隆(仁)
リクソウ=萩原聖人(昌之)。
ニシキ=永堀剛敏(和夫)。
ブンガク=川越美和(恵子)。

○書店
  本棚を漁る誠。
    ×  ×  ×
  太宰治『人間失格』の文庫本を取ってパラパラとめくる。
誠の声「(文面)恥の多い生涯を送って来ました。
 自分には愛というものが見当つかないのです。また、自分は、
 地方都市に生まれましたので男女の有りようということに初めて気が付いたのは、
 よほど大きくなってからでした」

○高校・教室
  恵子が授業を受けている。
  誠、仁、昌之、和夫もいて誠と仁の視線は恵子に釘づけ。
恵子の声「(文面)恥の多い生涯なんて思っては駄目。
 そんなことを言えば私だって、太陽が眩しいだけでアラビア人を殺した
 ムルソーみたいに『異邦人』なのかも知れないのだもの。
 でも金山くん、可愛いとこあるのね。太宰治だなんて」

○道
  通学の誠が自転車で走る。
誠の声「(文面)アーネスト・ヘミングウェイは『誰がために鐘が鳴る』
 の中でこう書いている」
  和夫の自転車が合流する。
誠の声「もし長い年月とか、人生の残りとか、いまからさきというものがなく、
 ただ、あるのは現在だけだとすると」
  昌之の自転車が合流する。
誠の声「この今というものこそ讃えたたえるべきものであり、
 それをもっているおれはじつに幸福だと思う」
  仁の自転車が合流する。
誠の声「猛烈に愛し、持続的なあるいは永続的な愛がもっているものを、
 その激烈さでおぎなうがいい」

○高校近くの駅・ホーム(夕)
  制服の恵子がベンチに坐って電車の来るのを待っている。
恵子の声「(文面)讃えるべき今なんて私にはないわ。そして、明日も。
 退屈な今。見えない明日。あるのはただ、空虚な日常のくり返し。
 模索。反撥。造反有理」

○高校・男子便所
  誠と仁が並んで小便をしている。
誠の声「明日が見えないのではない。君は明日を見ようとしていないだけだ。
 ボクは今、アンドレ・マルロオのこの言葉を贈ろう。
 人生は何物にも値しない。だが、人生に値する何物も存在しない」
  互いにチラと互いの下半身を見る。

○恵子の家・DK(夜)
  厳格そうな父と母と食事をしている恵子。ただ黙々と――。
恵子の声「(文面)堕落したいの。メチャクチャにして欲しいの。
 人生は恐ろしい冗談のようなものよ。ムラのない人生、平穏な生活からは、
 何も自分がどういうものか見つけることはできないわ」
N「ブンガクの手紙はどんどんエスカレートしてきた。
 ブンガクの中で何か激しいものは、うずまいている様だった」(P133)


ここまで好き勝手な引用をしていると、
もうついてきている読者様はいないと思うので暴論を書いてしまおう。
文学というのは美少女のためにあるのである!
文学は美少女のもの! 
「堕落したいの」なんていう清楚で才媛の文学少女を想像してごらんなさい、あんた!

話を「1970 ぼくたちの青春」に戻す。
というか、夢から現実に戻ろう。
わたしは中学3年生のときに、むかしの18歳が繰り広げるドラマを観たわけだ。
高校生になったら、こんなことがあるのだろうかと胸高鳴ったのをおぼえている。
結局、実際にはなにもなかったわけである。現実はドラマのようではない。
バンチョウ、リクソウ、ニシキのような親友はできなかった。
探したけれども、川越美和のような文学少女はいなかった。
失恋はおろか片想いさえ現実にはほとんどできなかったのである。
友達と殴り合いの喧嘩をするようなこともなかった。
同級生のだれも事故で死んだりはしなかった。
北朝鮮に行く在日の友人もいなかった。
タバコを吸うことも酒をのむこともなかった。
このドラマは演出担当の杉田成道の自伝的ドラマらしいが、まあ一種の虚構であろう。
こういうことが青春時代に起こってほしかったという夢想の類だと思う。
にもかかわらず、ではなく、だから「1970 ぼくたちの青春」はいいのである。

そういえばマムシ(陣内孝則)のような素敵な教師もいなかった。
ドラマでは卒業式のあと教室で陣内孝則(寺沢)がこんな贈る言葉を口にする。
柴田翔の「されどわれらが日々」の一節を朗読したあと――。

「  本を置いてチョークで黒板に大きく『困難』と殴り書く。
寺沢「(字を指し示して)コレと馴れ合うかまともにぶつかるか。
 馴れ合うのはたやすい。ぶつかれば多分、傷つくよな。傷つけば血が出る。
 痛いよな、でも、その痛みを勇気って言うんじゃないか。
 オレはそういう勇気が好きだ。
 但し、死ぬなよ。生きてろ。とにかく、生きてろ。じゃアな」
  出て行く。
N「ボクは、マムシが学校を辞めるに違いないと思った。
 これはマムシがブンガクに宛てた最後のラブレターだと思った」(P150)


このあとの帰路、ブンガクはノンポリと並んで歩きふたつのことを告げる。
「結婚するの」「私、ヴァージン」――。
それからもうひとつ残酷なことを。恋文代筆を知っていたというのである。
本当は自分が書いているのだと白状してくれるのを待っていたというのだから。
完全な青春ドラマと言うほかない。
テーマをしいてあげれば「傷つくこと」になるのではないか。
このドラマの登場人物はみなみな美しく傷ついている。
傷つくのは、もしかしたら青春の特権でさえあるのかもしれない。
若いときの傷が後年なんともいとおしくなるのである。
逆に言えば、傷つかない青春なんてものはつまらないのだろう。
思えば、高校生のわたしは現実がドラマのようではないことに深く傷ついていた――。

*まだまだこのドラマのよさについて語りたいことはありますが、ひとまずこのへんで。
しかし、まとまりのない感想だ。
……ああ、もしかしたら現実にこんなこともあるのかな?

「お父さんの地下鉄」(山田太一/「ドラマ」1981年8月号/映人社)品切れ

→テレビドラマシナリオ。昭和56年放送作品。東芝日曜劇場。
福岡市の交通局で心ならずも一般事務職員をしているお父さん(38)の話である。
かつては路面電車の運転士をしていたが、地下鉄に代わってしまうことになった。
事務職など大嫌い、電車の運転が好きだったお父さんは、
なんとしても新しくできる地下鉄の運転士に選ばれたいと思っている。
そのための職場での苦労、妻と娘がいる家庭内でのいざこざがドラマの主な内容である。

貧乏も人の死も壮大な夢もないのに、実に味わいのあるドラマになっている。
地下鉄の運転士になりたいとは、言い換えれば、ちょっと出世をしたい程度の望み。
ほかの人から見たら、まあ、どうでもいい話なのだが、
実のところ我われはそういうところで生きている。小さなエゴで生きている。
このお父さんにはもうひとつの小さな悩みがある。
これはもう悩みなのか自慢なのかわからない。
奥さんが加賀まりこ(32)なのである。きれいだし、そのうえあたまがいい。
教えるのもうまく、近所の子どもを集めて私塾のようなものまでしている。
いいこと尽くめではないか、と思うのは実生活を知らないインテリの考え。
お父さんの男としての顔が立たないのである。
仕事先では慣れない事務職のため計算や書き仕事でミスを連発。
そのお父さんが家に帰ってきたら、加賀まりこが算数を教えているのだから。
これではまるでダメな亭主と賢妻で、やる瀬がないではないか。
小市民は世間体を気にする。よそからどのような目で見られることか。
脚本家はプラスのなかにひそむマイナスに敏感である。

お父さんの努力は実り、みごと地下鉄の運転士に選ばれた。
東京まで研修に行くお父さんは鼻高々である。
プラスのなかにもかならずマイナスはある。
福岡に戻ってきて、開業前の地下鉄運転準備におお張り切りのお父さん。
しかし、実際は技術が進歩したため、電車を運転する必要がなくなっていた。
運転士の役目はただボタンを押すという、まことやりがいのないものになっていた。
夫の上司からそのことをこっそり教わった加賀まりこは一計を案じる。
もしこのことをお父さんが知ったら、どんなにがっかりすることか。
またお父さんの男としてのプライドが傷ついてしまう。
加賀まりこは「負けた」とウソをつくのである。
自分のためではなく、他人のためにつくウソは優しい。
加賀まりこは夫の顔を立ててやる。
宿直明けでまだ寝床の夫に妻は私塾をやめるという。

朋子「負けたんよ」
勝利「負けた? 誰に?」
朋子「うち、お父さんが、事務とってた頃、なんか頼りのうして。
 仕事でも持たんと、どうなるかっちゅう気のして、はじめたばって」
勝利「どうせ、頼りなかよ、俺は(寝る)」
朋子「そうじゃなか。いまのお父さんには、うちは、とっても対抗出来ん」
勝利「なんも(と照れくさくフンという顔)」
朋子「仕事に打ち込んで打ち込んで、魅力たっぷりや」
勝利「よういうばい(とごろごろする)」
朋子「ほんなことよ。いまのお父さんなら、うち意地はらん。
 頼りきって、可愛か奥さんでいたか」
勝利「おうおう、よか年してェ」
朋子「頼りたかよ。男らしかお父さんに、ズドーンと頼りきって、
 よかお父さんばい、よかお父さんばいって、ただ思うていたかよ」
勝利「なんの事や? 一体?(と起きる)」
朋子「なんのて、ただ、それだけの事ばい(と目を合わせられない)」
勝利「それだけて(どうも割り切れない)」
朋子「うちは、いまのお父さん、ほんな事立派だと思うとる。
 たとえ、その、やったことが無駄になったって、ようやったと思うとる」
勝利「無駄? 無駄ってなんのことや?」
朋子「よう立派に研修受けて、素晴らしかったて、思うとる(ととびついて行く)」
勝利「(ひっくりかえり)なんや、朝から」
朋子「(やたらのしかかって抱きついて)好きや。好きや、好きや」(P34)


数日後、お父さんは妻の言葉のほんとうの意味を知って帰ってくる。
張り切って運転するつもりでいたら、仕事はボタンを押すだけだったのである。
お父さんは一号車の運転士に選ばれ、多くの人に見守られるなか花束をもらう。
一見すると、スポットライトを浴びる華やかな場である。
しかし、栄えある一号車を始動させる際、
ボタンを押すお父さんの胸に去来していたのは喜びよりもむしろ苦渋だったはずである。
山田太一は「お父さんの地下鉄」のなかでプラスにひそむマイナスをうまく描いた。
時代はどんどん進歩して便利になっていく。
しかし、それはプラスばかりではなく、かならずマイナスもあわせもっている。
同様にマイナスのなかにも思いがけないプラスが目をこらせば見えるのではないか。
脚本家・山田太一の社会および人間を見通す眼力である。