「仏の道 絹の道」(山崎脩/京都書院アーツコレクション)絶版

→文庫版の写真集。「仏の道 絹の道」とはご存知、シルクロードのこと。
むかしはシルクロードを旅するとなったら命がけであった。
しかし、いまなら飛行機でひとっ飛び。
金がないならば、わたしのように鉄道やバスで行けてしまう。
1千年まえに人がシルクロードの風物に接したときの感動はいかほどであったか。
現代はパックツアーでだれもがかんたんに行くことができるが、
見る風景はかつて写真でなじんだものばかりではないか(たとえば、この本)。
写真がないとき、旅や放浪、物見遊山はどれほど魅力的だったか。
カメラはともかく、せめてインターネットがない時代に戻れたら。
わたしのように現物よりも写真のほうがいいと言うものさえ現われる時代である。
いまや未知の世界は「死」のみなのかもしれない。
シルクロードからは帰ってこられるが、死出の旅路はいったん歩を進めたら引き返せない。
神秘的なものが求められている時代なのだろう。
いまやすべてがあからさまになってしまった、とも言いうる。
ふと写真家の気持になる。
なにもかもさらされてしまった現代、
彼(女)はいまさらなにを暴こうとしているのだろう?

「仏陀の道 二千四百年」(横山宗一郎/京都書院アーツコレクション)絶版

→文庫版の写真集。副題は「釈迦誕生の地から奈良までを辿る」。
アジア全域に広がる(含日本)仏教関連の名所を写真と解説で追う。
隠れた名著だと思う。
実際に自分でこれらの場所すべてに行こうと思ったら、どれだけ費用と時間がかかるか。
行ったところで疲れているからろくにものを見られないのは、経験から知っていること。
言葉ではなくイメージで仏教に近づくためのいい参考書だと思う。

このイメージというのがわからない。
暇にまかせてかなりの仏教聖地に行ったが、ほとんど感動したということがない。
絵や彫刻を見て感動するためにはどんな能力が必要なのだろう。
恥ずかしいことを告白すると、暑いなか現地で見たときよりも、
この写真集をいまゆっくりと見たほうがよほどいいと思うのだから。
なまの仏像や仏画を見て感動できる人に畏敬の念すらおぼえてしまう。
それにしてもプロのカメラマンが撮影した写真は本当にすばらしい。
わたしが現地で見たものよりも数段本物らしく思えるくらいである。
まったく困ったものである。
本物(現地の体験)よりも模造品(写真)のほうに心ひかれるようではいけない。

この本を読んで、いつかミャンマーとスリランカに行きたいと思ってしまった。
万が一運よく行けたとしても、この写真集で得た満足以上のものを果たして味わえるか。
写真はどうしてこうも実物よりも美しいのだろう。

「新アジア漫遊 」(大村次郷/朝日文庫)絶版

→写真家の著者がアジアを漫遊したときの写真をテーマごとにまとめたもの。
旅行者気分ではなく、いささかなりとも学術的でありたいという野心があったようだ。
たとえば蛇というイメージはアジア各国によってどう変わるか等。
比較対象は手広く西欧も入っている。
二通りの世界認識方法があるのだろう。
言葉で世界をとらえるか、それともイメージで把握するか。
わたしはイメージのちから、美的感覚に極めて乏しいので、
せめてこのような写真集を見ながら劣等感覚を伸ばそうなどと考えている。
なにしろ、まるで写真や絵画といったものがわからないのだから。
いわゆるプロのいい写真を見ることで、少しはそちらも伸びないかと期待している。
写真は基本的に撮るのも撮られるのも嫌いですが。

「クリスマス・キャロル」(ディケンズ/池央耿訳/光文社古典新訳文庫)

→これまた恥ずかしい読書をしてしまった。
かの名作をこの歳まで一度も読んだことがないというのは恥になるのではないか。
言い訳めいたことを書くと、「本の山」をはじめたのは、
世界文学、日本文学の名作を読みあさり、関心が演劇に移ったころ。
なにが言いたいのかと申しますと、いちおう名作はかなり読んでいるつもり。
しかし、なかには「クリスマス・キャロル」のような穴もあるわけでして。

内容は守銭奴のスクルージがクリスマスに自分の死ぬ夢を見たことがきっかけで、
美しい人間愛に目覚め、それまでの態度を一変させる。
つまり、クリスマスを境として偏屈な老人が人に優しく親切になる話である。
まあ本当ならスクルージはふたたび人間の底知れぬ性悪に傷つき、
哀しいかな、またもとの冷血漢に戻るのだろうが、そこは名作文学らしい嘘なのだろう。
悪い人がいい人になって、めでたしめでたしというわけで、こちらも感動した。
「クリスマス・キャロル」を読んで数日はきれいな心でいられるくらい、
まだこちらもすれていないようで我が事ながら安心した。
身もふたもないことを言うと、単なる世間知らずなだけなのだろうが。

しかし、改心するまえのスクルージは笑える。
そうなのだ、だれにも親切でみなから愛される老人は、文学の主人公たりえない。
癇癪もちの冷笑家スクルージは、
あたかも中島義道氏や小谷野敦氏、それから我輩のようである。
なかなかのナイスガイということだ。すばらしい描写がいくつかある。
まず彼、いや我われの好む動作はなにか。せせら笑う!

「へっ」スクルージはせせら笑った。「くだらない!」(P15)

ちなみに、ここで「くだらない!」と彼が見下しているのはクリスマスだ。

クリスマスはくだらない!

ご同感という人がいましたら、おめでとう。あなたも我われの仲間、スクルージだ。
貧乏人への寄付を求められたら、なんと言えばいいか。

「だったら、さっさと死ねばいい」
「余分な人口が減って、世のためというもんだ」
「どうなろうと私の知ったことではない」
「私にはかかわりあいのないことだ」(P23)


うんうんと首肯しているあなた、おめでとう、あなたも今日からスクルージだ!
人が逢いにきたらなんと言えばいいのか。

「はてさて」スクルージは持ち前の冷笑を孕(はら)んで言った。
「何ぞ、私に用でもあるのか?」(P34)


あなたはまだスクルージほど老いていないと言うかもしれない。
なら、若き日のスクルージの描写をお目にかけよう。
ここは本書のなかでいちばん素敵な描写だと思う。

「その顔はまだぎすぎすした後年の皺を刻まず、
知謀と強欲の滑(ぬめ)りが浮きはじめるところだった。
猜疑と我執を宿してせわしなく動く目は、
心に根を降ろした怨念の木が
やがて枝葉を広げて落とすであろう影を予兆していた」(P71)


心に根を降ろした怨念の木!

実にうまい表現だよな、くすくす。
世界中の人びとが「クリスマス・キャロル」を読んで感動するということは、
もしかしたらみんな心にスクルージを宿しているのかもしれない。
だれもが「心に根を降ろした怨念の木」を内に有しているのではないかしら。
だから、「クリスマス・キャロル」という美しいフィクションに救われるのだろう。
よし、今年は邪心を「クリスマス・キャロル」を読むことで浄化した。
いまのところクリスマスに予定は入っていない。
今年は改心したスクルージのように街へ繰り出し、
往来で逢う幸せそうな家族やカップルに向かってメリー・クリスマス!
そう快活に笑顔で挨拶することにしよう。本当だ。まず手始めに――。

諸君、メリー・クリスマスだ!

「新潮日本文学アルバム 泉鏡花」(新潮社)

→鏡花というのは病的なまでの潔癖症だったらしい。
書斎の写真があるけれど、整理整頓が行き届いており、うちとは正反対だ。
腺病質でいかにも旧時代の文士といったていの姿かたちは、
まるで下品な俺様をひっくり返したようである。
なんちゅうかね、まあ平たく言えば、そのだ、土足で鏡花の家に上がりこんで、
つばをペッペと吐き出しながら屋敷中を探索して、
本棚を見つけたら作家の大切な蔵書を汚い手であさってみたいというかね。
いや、鏡花が怒ってもいいわけ。百パーセント喧嘩したら勝てる相手だから。
うっかり殺しちゃうと化けて出てきそうだから、それが唯一怖いところだな。

新潮日本文学アルバムはよろしい。作家は文章ではなく顔だよ顔!
アイドルが歌で勝負するのではなく顔で勝負するようなもの。
ジャニーズのみなさんが演技よりなにより美顔を強調するようなもの。
しっかし、ほんと見れば見るほど鏡花はユーレイみたいな顔をしていますね。
あんがい人間ではなかったのかもしれない。ユーレイ作家、くすくす。
えっと、あまりにも学がないように思われるのも癪に障るから、
もっともらしく本書から水上瀧太郎の鏡花紹介を孫引きしておこう。
うん、これでもこちらいちおう文学部出身なんだから。

「(鏡花は)往来を歩いてゐても、神社仏閣の前を通る時は、
一々眼鏡をはづして礼拝する。
神も仏も、先生にとつては、大好きなお化(ばけ)と共に
あきらかに存在するものであつて、目に見えない存在だから、
一層美しくなつかしく、おもふが儘の信仰の対象となるのである」(P66)


オホホ、あたいも鏡花文学のことはよーくわかっていますことよ♪

「海神別荘」(泉鏡花/岩波文庫)

→戯曲。「海神別荘」は「夜叉ヶ池」「天守物語」とともに鏡花の三大劇とされている。
鏡花三部作として歌舞伎として上演されることもあるらしい。
鏡花の芝居は、言葉の劇というよりもむしろ怪奇な見世物の類だから、
かえって歌舞伎のほうがいいのだろう。
もっとも西欧演劇的だったのは「夜叉ヶ池」で、残り二つはゲテモノ芝居といってよい。
大衆芸能の観客なんか、まああれなわけで、絢爛豪華な衣装を見せられたら、
「あら、すごい」「今日は得したわ」「眼福、眼福」などと、
呆けたように口をあんぐり開けてよだれを垂らしてくれるのだろう。

さて「海神別荘」の話をする。
美女が財宝と引き換えに海神の別荘に行く(まあ竜宮城みたいなものだろう)。
これは人間の側から見たら、大漁のお礼として美女をいけにえにしたことになる。
つまり、漁師一家は娘の美女を海に沈めた。死なせたわけである。
見方を変えると、美女は海の下にある国の公子に見初められた。
さあ、公子と美女の結婚である。
ところが、美女には未練がある。こうして生きていることを家族に伝えたい。
しかし、陸の人間には美女はもう人間ではなく大蛇としか見えない。
絶望した美女は公子に殺してくれるよう頼むが、
直後公子の顔の美しさにのまれ、思わず笑顔を見せてしまう。
公子も美女の笑顔に改めて惚れ直し、結局はめでたしめでたしのハッピーエンドになる。
人間には見えないものが世の中にはあるという、いつもの鏡花ワールドだ。

「人間の目には見えません」(P43)

「勝手な情愛だね。人間の、そんな情愛は私には分らん」(P44)


かりに亡者の住む異界があるとすれば、人の死はそう不幸ではないのかもしれない。
そう信じられたらの話である。

「天守物語」(泉鏡花/岩波文庫)

→戯曲。美丈夫(イケメン)の侍さんと、天守閣に住む魔界の夫人の恋物語。
この魔界夫人はかつて無念の死を遂げた女で城主の妻だった。
鏡花にとって魔物は親しみやすいものだったのだろう。
死んだものは姿は見せないが、魔界できちんと生きているという世界観だ。
もっと言えば、死は終わりではないという考えを鏡花は持っていた。
最後、めくらになった侍と魔界夫人が老賢者によって目を明かされるのは芝居らしい。
ギリシア悲劇のデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神=どんでん返し)に似ている。
死んだ人との恋というのは王道パターンだが、
これからもいくつも同類の恋物語が生まれることであろう。
なぜなら、現実だけではあまりに味気ないからである。

「夜叉ヶ池」(泉鏡花/岩波文庫)

→鏡花の戯曲は小説よりもはるかにいい。
きちんとした見世物=大衆芸能になっていると思う。
「夜叉ヶ池」には喧嘩シーン、エロシーン、笑わせシーンすべてが入っている。
村の鐘楼守りの夫婦の物語である。
夫婦は定時に鐘を撞くことを定めとして課している。
これをやらないと水害が起こるという言い伝えがあるからである。
新参者が現われることで、こういう事情が明らかになる。
夫婦の男のほうは、むかし学者としてこの村に来て、女と知り合い居ついてしまった。
新参者はこの男の旧友である。
男二人は山頂にあるという夜叉ヶ池に出かけた晩、村の長たちが女のもとにやってくる。
雨が降らないので、古くから伝わる雨乞いの儀式をやるというのである。
それがなんとも猥褻(わいせつ)ですばらしい。

「絶体絶命の旱(ひでり)の時には、
村第一の美女を取って裸体(はだか)に剥(む)き……
黒牛の背に、鞍(くら)置かず、荒縄に縛(いまし)める」(P60)


美女を裸にひん剥いて、馬に縛りつけて、どうするか。
この犠牲(いけにえ)を夜叉ヶ池の竜神に捧げるのである。
が、美女の「生命(いのち)は取らぬ」。

「さるかわり、背に裸身(はだかみ)の美女を乗せたまま、
池のほとりで牛を屠(ほふ)って、
角(つの)ある頭(こうべ)と、尾を添えて、これを供える。
……肉は取って、村一同冷酒(ひやざけ)を飲んで啖(くら)えば、
一天忽(たちま)ちに墨を流して、三日の雨が降灌(ふりそそ)ぐ。
田も畠(はた)も蘇生(よみがえ)るとあるわい。
昔から一度もその験(しるし)のない事はない」(P60)


いいな、この焼肉パーティーに参加したいよ、おら。
ああっ、いますごい発見をしてしまった!
これはまさしく「ノーパンしゃぶしゃぶ」の起源ではないか!
これは民俗学的な大発見かもしれないぞ!
むかしから日本人は女性の裸を鑑賞しながら牛肉を食うことを好んだ!

ノーパンしゃぶしゃぶは日本の古き良き伝統文化!

話を芝居に戻すと、この女のピンチに男二人が戻ってくるのである。
ヒロインのピンチにヒーローがやってくるのは大衆受けするいいシーンである。
ここで葛藤が生じるわけだ。
男たちは女を村から救い出そうとする。もちろん、村のお偉いさんたちは反対だ。
女といえば鐘を撞く定めのことを気にしている。
ここでチャンバラになる。チャンチャンバラバラは客のもっとも好むシーン。
最後は女が自殺。男はもう鐘が鳴らせないように、紐を切ってしまう。
すると定めを破った罰として、洪水が起こり、みなのみこまれてしまう。

この洪水を天上から眺めるものがいる。
妖怪たちである。夜叉ヶ池に住む姫様たち御一行だ。
芝居は人間たちのパートと妖怪たちのパートに分かれている。
鏡花は人間世界の裏側に存在する妖怪たちを見る視力を有していた。
鏡花は見えないものを見る作家であったということだ。

「外科室・海城発電」(泉鏡花/岩波文庫)

→はっきり言って鏡花自体はつまらないけれど、小説に出てくる古い言葉がいい。
むかしの言葉はなまの差別感情が体臭のようにこもっているので美しい。
以下引用は憲兵さんが、中国軍の捕虜から帰ってきた軍医をあざけっているところ。
どうしてスパイのひとつもしてこんのか、軟弱者めが!
この軍医は中国軍の負傷兵をたくさん助けたので敵軍から褒賞までされている。
引用部分を読むと、むかしは混血児というのが差別された存在だったのがよくわかる。
いまでいえば「ハーフ」が悪口になるということ。

「へむ畜生、支那(チャン)の捕虜(とりこ)になるやうぢやあ
とても日本で色の出来ねえ奴だ。
唐人の阿魔(あま)なんぞに惚れられやあがつて、この合の子め、
手前(てめえ)、何だとか、彼(か)だとかいふけれどな、
南京に惚れられたもんだから、それで支那の介抱をしたり、
贔屓(ひいき)をしたりして、
内幕を知つててもいはねえんぢやあねえか。
おいらの口は浄玻璃(じょうはり)だぜ」(P183)


浄玻璃は地獄の閻魔さまくらいの意味か。くうう、使ってみてえずら。
「おいらの口は浄玻璃だぜ」――。
妻の浮気が発覚して、悔し涙に暮れながら、女房をこっぴどく折檻したあとで、
どすをきかせた声で「この阿魔が、おいらの口は浄玻璃だぜ」――カーッ!
そのためにはまず結婚だな、うん。

「草迷宮」(泉鏡花/岩波文庫)

→なんかすんごい深そうな小説だで、これで長い評論がいくつも書けそうな。
おらは学がないけん、そういうことはでけんど。
基本は幽霊屋敷が舞台のホラー小説だと思うべさ。

鏡花は幽霊や妖怪が好きだったのだろう。
この作家の世界観を要約するとこうなるのではないか。
「人間(男性)→妖怪・幽霊・物の怪(女性)→畜生(動物・ペット・食肉)」
鏡花は女を(人間ではなく)化け物として見ていたのは疑いもなく、
だから嫌うというのではなく、このためにこそ女人に憧憬を持ったのだと思う。
新しい人間を産んでしまう女性をどうしてもおなじ人間とは思えなかった。
鏡花にとって女性は人間以下の野獣のような、
あるいは人間以上の物の怪のような存在だったのではないだろうか。

「草迷宮」には、母を求める青年が登場する。
死んだ母の歌ってくれた手毬歌(てまりうた)をもう一度聞きたい。
この部分は鏡花の絶唱である。
かの文豪(?)の文章はよくわからないが、
ここだけはたましいがこもった名文だと思った。
わたしにとって泉鏡花は、この絶叫部分しか記憶に残らないかもしれない。
母の手毬歌をもう一度耳にできたら――。

「夢とも、現(うつつ)とも、幻とも……目に見えるようで、口にはいえぬ
――そして、優しい、懐しい、あわれな、情のある、愛の籠った、ふっくりした、
しかも清く、涼しく、慄然(ぞっ)とする、
胸を掻挘(かきむし)るような、あの、恍惚(うっとり)となるような、
まあ例えて言えば、芳(かんば)しい清らかな乳を含みながら、
生れない前(さき)に腹の中で、美しい母の胸を見るような心持の――唄なんですが、
その文句を忘れたので、命にかけて、憧憬(あこが)れて、
それを聞きたいと思いますんです」(P117)


マザコンきんもっ! とか未婚四十代女子に裁かれちゃいますね。
ごめんよ♪ でも男なんてこんなもんだぜ♪

「鏡花短編集」(川村二郎編/岩波文庫)

→人から「薬草取」がまだおもしろいのではないかと教えられ読む。
もちろん貧乏性だから収録された短編はぜんぶ読んでいる。
しかし、意味の取れるのが「薬草取」をふくめ三、四。
鏡花の作品というのは、なんというかその、ポエムに近いのかな。
泉鏡花が好きな黒髪セーラー服の文学少女などいたらゾクゾクするだろう。
しかし、わたしは鏡花が好きではない。
作品を読んだところ鏡花はどうやら乳が好きだったようである。
牛乳ではない。おっぱいのことである。おっぱい、おっぱい! 鏡花、おっぱいだぞ!

「歌行燈・高野聖」(泉鏡花/新潮文庫)

→泉鏡花ってどこがすごいのだろう。
「高野聖」のみちゃんとしたお話があったから読めないこともなかったけれど、
「女客」「国貞えがく」「売色鴨南蛮」「歌行燈」はまったく意味が取れない。
当時の編集者になって、「ダメ、書き直し」と三十回くらい鏡花をいじめてやりたい。
鏡花の顔を見ると、ああ、こいつとは合わないなと思う。
こっちがあっちをいじめるか、逆にいじめられるかの関係になるのは必定。
わたしは文芸評論家の小谷野敦さんから人を顔で判断することを学んだのだった。
「高野聖」がまだ読めたのは物語になっていたからである。
基本、小説なんちゅーのは女子供のための娯楽なんだからお話でよくね?
こんなおもしろいお話がありまっせ、と揉み手をしながら近づいてきてほしいもの。
その点、泉鏡花はなにやら偉そうで不快である。
ああ、やっぱり鏡花をいびって泣かせてやりたい。