「ちょっとした勉強のコツ」(外山滋比古/PHP文庫)

→とどのつまり、よく本を読むというのは、よく書くということなのかもしれない。
よく勉強するというのも、よく書くこと。書くこと、書くこと。
あたまを使うというのは、言葉を用いて自分で書いてみることの意味。
本を読むだけでは、他人の思考をなぞっているだけになってしまう。書くこと、書くこと。
苦しんで楽しんで、言葉を駆使して、ここからどこかへ行くこと。

「本などもただ読みっぱなしにしないで、
あと、かならず感想を書く習慣をつけるようにしたい。
これがどんなにわれわれの精神を大きく豊かにしてくれるか、はかり知れない。
書くことはおっくうであるが、頭脳をよくするもっともよい方法は書くことだ。
とにかく、書いてみることである」(P115)


「男性自身 暗がりの煙草」(山口瞳/新潮文庫)絶版

→結局、人間の一生はどの親から生まれたかですべてが決まるのではないか。
というのも、人の一生を支配するのは当人の好き嫌いである。
学校、就職、結婚からしてみなみな、
「好きだから好き」「嫌いだから嫌い」の感情論で最終的には決定される。
ところが、この好き嫌いというものは絶望的に両親に支配されるのである。
といっても、両親の好みがそのまま遺伝するというわけではない。
親が嫌っていたものを、嫌っていたからという理由で好きになるものも多いだろう。
にもかかわらず、ではなく、だから、人間は生涯両親の影響から逃れられない。
親が嫌いなものを好きになるのも、つまるところ親の影響下にいるのだから。
身近な例で言えば、日に三度三度食うメシだってそうではないか。
おのれの好き嫌いを極限まで「男性自身」で追求した山口瞳氏の言葉から――。

「私のもっとも好きな食物は、
牛肉屋やコロッケ屋で売っている出来あいの野菜サラダである。
ポテトの甘みと芥子(からし)との調和は絶妙であると思う。
母は、こういうものを決して買ってくれなかった。
きっと、腐敗しやすいというのが根拠であったのだろうと思う。
たしかに品のいいものではない。
私は、これを八百グラムばかり買ってきて、冷蔵庫で冷やしてから、
丼をかかえこんで食するのを非常なる快とする。
第一に、やすくって腹にたまるのがいいや。
母に対する積年の復讐をとげているような心持がする」(P70)


いまでいう大人買いなのはわかるが、しかし八百グラムはやはり多すぎる。

「クヨクヨ気分が晴れる本」(ひろさちや/成美文庫)

→ひろさちやさんは老人だからむかしの知恵を知るのに助かる。
むかしの人は、やたら子どもを産んだでしょう。多産である。
どうしてかが本書に書かれていて、なるほどといたく納得した。
たくさん子どもをつくっておけば、なかには成功するものもいるかもしれない。
年金制度や生命保険システムが不確実だったむかし、庶民は不安定に多産で抵抗した。
それに親と子には相性というものがある。
どの子ともうまくいくわけではない。
だから、やはり多産はいいのである。気の合う子に老後の面倒を見てもらえばいい。
金がなかったら、金だけは成功した子どもにお願いすればいい。
もしこれが正しいのなら、少子高齢化対策は年金などなくしてしまえばいいのである。
そうしたら将来が不安だから、みな子どもをたくさん産むようになる。
子どものいない夫婦など、存在意義がなくなるだろう。
実際、本当に多産はいい。
たくさん産んでおけば、ひとりふたりダメでもうまくいくものも現われるのだから。
そうして家族で助け合っていけば、年金も生命保険もいらないのだ。
だから、人生の失敗者ほど子づくりに励むべきである。
自分の人生ではかなわなかった大成功を子どもがしてくれるかもしれないのだから。
貧困は連鎖するというが、どうだろうか。
それはひとりの子どもしか持たなかった場合ではないか。
たくさん産んでおけば、ひとりくらい成功するものが現われそうな気もするが。
そうしたら一族全員、その子におんぶだっこして、楽しく暮らせばいいのである。
もしわたしが将来万が一にも奇跡的に運よく結婚することができたら、
子ども3人を目標にする。ええい、ここに宣言するぞえ。
(ウソもウソ、大法螺でっす。来世でがんばりまっす♪)

講演会も大人気のひろ先生の仏教法話をひとくさり紹介しておこう。
人を救うとは、いかに当人をうまくだますかである。

「浄土にいいお土産を持っていくためにも、
この世の人生ではいっぱい苦しんで、いっぱい泣いたほうがいい。
なぜなら、この世の中で苦しい思い出こそ美しい思い出になるからですよ。
ここで私は、
「この世の中で苦しい思い出ほど美しい」
という逆説を、あえて強調しておきたいのです。
試しに、みなさんの今までの人生の中で、
強烈に残っている思い出とはどんなものか、振り返ってみてください」(P190)


「悩むなら美しく悩みなさい」(ひろさちや/sasaeru文庫)

→ひろさちや先生のこんなタイトルの本を読むなんて、
ある種の人にとっては真っ裸で町を歩くより恥ずかしいのではないか。
しかし、人生は多様で人それぞれ。
ほら、ああいう手合いがいるじゃないですか。あれですよあれ。露出狂。
みずからの恥ずかしいところを出して嬉々とする犯罪者まがいの奇人。
おそらく、わたしは精神的露出狂なのかもしれない。
こんな本を読んだことを人にばらすなんてさ。
自己啓発書を誇らしげに読むようなものである。
とはいえ、ひろさちや氏の説くのは成功本の正反対。
成功本というのは因果論なのである。
果(成功)はなんらかの因(努力や工夫)のおかげと考え、この因をノウハウとして説く。
比して、ひろ先生の訴えるのは仏教的な因縁論。
果(禍福)の因(原因)なんて、かりにあったとしても人間には知りようがない。
なら、なにが果(成功・失敗)を決めるかといったら縁(たまたま)。
果が因のせいではなく縁によるのなら、因に苦悩したり反省するのは意味がない。
高額セミナーに参加して因(ノウハウ)を学んでも、
結局は縁(偶然)なのだから、それは愚かにも金をどぶに捨てるようなもの。

「プロ野球選手でもサッカーでも、ある監督のもとで結果を出せなかった選手が、
別の監督に替わった途端見違えるような活躍をする、ということはよくあります。
私たちは「果」から「因」を推測して、あの人はできるだとか、
別の人はできないだとか判断しがちですが、往々にして、それは間違っているのです。
バブル崩壊後、年功序列、職種別横並び賃金をやめて、
成果主義の人事・給与制度を導入する会社が増えました。
「自己責任」という言葉もはやっています。
結果がすべてで、結果を出せない人間は生きる価値がないような風潮です。
しかし、結果のみで人を評価する態度は、短絡的に過ぎます。
わかりやすいですが、間違っています。
「縁」のない「果」はないのです。
むしろ、「縁」がすべてを決定していると言ってもいいくらいです。
だから、すでに起きてしまったこと、過ぎてしまったことについて、
クヨクヨ思い悩んだり、グチグチ原因を追究してみても、仕方ありません。
私が「反省はするな」というのは、そういう意味なんです」(P41)


原因を考えない!

これを習慣づけるだけでだいぶ人間は苦悩から解放されるのだろう。
原因を考えてくよくすることが悩みの実相なのだ。
原因を考えないとは、「どうして?」を葬り去ること!
「どうして失敗したのか?」「どうして不幸なのか?」などとうじうじ反省しても意味がない。
なぜなら、すべての結果が縁(たまたま・偶然・運)によるのだから。
こう考えたら楽になれるという教えだ。

「子どもと悪」(河合隼雄/岩波書店)

→柳田国男の言を引いてのウソの考察が興味深かった。
もともとウソには虚偽というよりも、面白いお話という意味が強かったという。
で、村々には評判のウソツキ老人がいた。
なぜかというと、ここから先は孫引きだが――。

「とにかくこの人生を明るく面白くするためには、
ウソを欠くべからざるものとさえ考えている者が、昔は多かった」(P125)


しかし近代にはいって虚偽とウソが一緒くたになり、ひとつのウソになってしまった。
あげく、あらゆるウソを悪事と認定するような風潮が強まる。
したがって、人生の面白みを味わう機会が減った、と河合隼雄も柳田国男に同調する。
河合隼雄の言説は虚偽というより、面白いお話という意味でのウソだから、
なるほどまったくそうだとわたしも同感した。
河合隼雄のウソをあたまのどこかに置いて生活していると、
味気ない人生がわずかながらいきいきとしてくるのだ。
たとえば、家族にまつわるこんなウソも面白い。

「きょうだいのなかの誰かが「反抗」の役をしっかり担うと、
他の子どもたちはそんなことをあまりする必要がなくなることがある。
家族はしばしば全体としての運命を背負っているようなところがある」(P20)


家族メンバーそれぞれの幸運や不運はまちまちだけれども、
全体として考えてみるとあちらがプラスのぶんこちらがマイナスというように、
それなりにバランスよくアレンジされていることに気づく。
逆に言うと、家族全員がうまくいくことはめったにないのだろう。
あちらが立ったら、こちらは引っ込むというようなことが家族全体を考えるとある。
というウソ(=面白いお話)を念頭に置くと、いまが不遇でも我慢して待つことができる。
それほど自責の念や罪悪感を感じずに、他の家族の厄介になることができるだろう。
これは他の家族が幸せなら自分はいいという滅私のお話にもつながると思う。

ウソ(=面白いお話)でお金を稼ぐのが作家である。
いったいウソは人間のどこから出てくるのだろう。
たとえば、人間がいちばん最初、
つまり子ども時代にウソを意識するのはどのようなケースが多いか。
河合隼雄は「子どもと性」に着目する。

「性そのものは悪ではない。性ということがなかったら人類は滅亡する。
にもかかわらず、性は常に悪の連想を引き起こす。
これまで話題にしてきた、うそや秘密ということは、
性との関連で生じてくることが多い。
子どもが大人に対して、また、大人が子どもに対して、
うそをついたり、秘密にしたり、ということが性に関してよく生じる」(P155)


そう考えるとすべての作家の創作の源泉はリビドー(性欲)なのか。
これは飛躍しすぎでウソ(=虚偽)になると思う。
とはいえ、性は人間のもっとも隠すべき秘密であることを考えると、
墓場まで持っていく秘密が作家のウソ(=面白いお話)と無関係ではない、
という説はそれほどウソ(=虚偽)ではないような気がする。
河合隼雄はクライアントから聴いたいろいろな秘密を漏らすことなく永眠した。
しかし、その代わりに、こうしてたくさんのウソを我われに遺してくれている。

「未来への記憶(上)(下) ~自伝の試み~」(河合隼雄/岩波新書)品切れ

→ファンだから自伝をまるで娯楽小説のようにして読む。
ユング研究所の打ち明け話は楽しかった。
教える分析家同士でも対立が絶えず、
なかにはユングの悪口を平気で言う先生もいたという。
反面、ユングを大先生として奉ろうというカルト集団的な雰囲気もあったとのこと。
氏が行き先のそのときそのときで変わる行き当たりばったりの人生を歩まれているのに驚く。
河合隼雄の人生は、ほとんど計画性のようなものがなく、
その場で行き先を平気で変えてしまうのだ。
行動基準は「おもしろい/おもしろくない」である。
おもしろくなかったらやらないで、おもしろかったら先を考えずにやってみる。
兄弟に医者が多く金銭的に恵まれていたことも冒険する好条件だったようだ。
なにしろ当時スイスに留学することはたいへんなことである。
河合隼雄は妻と子どもを連れてスイスのユング研究所に行っているのだから。

「兄弟はみんな大賛成でした。それこそやりたいことをやれと。
それで、もし金に困ったら援助してやると言ってくれました。みんな医者ですからね。
しかし、援助してもらうのはスイスから帰ってからのことです。
土地を買ったり家を買ったりするときにね。
スイスへ行くときはあまり頼ることはありませんでした」(下巻P72)


自伝をぜんぶ読んで思うのは、
河合隼雄は河合隼雄になるべく生まれてきたということである。
河合隼雄になりたくて河合隼雄がいろいろと策を弄したというわけではない。
人生で起こる現象は、もしかしたらほとんど因果関係ではないのかもしれない。
どういうことかと言うと、だれかほかの人が河合隼雄になろうと思ってもなれない。
そのくらい河合隼雄は一回かぎりの偶然性を生きている。
河合自身も人生でなにか事件が発生するごとに、
それを裏でアレンジしているなにものかの存在を感じ取っている。

考えてみたら、人生における禍福はどれも一回かぎりと言えなくもない。
風邪をひくことはあるが、狙って風邪になることはできないのだ。
我われは風邪をひいたときに、なにか原因を特定する。
たとえば、昨日寒いなか雨にぬれたのが原因だ。
しかし、狙って風邪をひこうと思って、
雨のなかを薄着でいてもかならずしも思ったとおりにはならない。
精神疾患のアル中だっておなじで、なろうと思ってなれるわけではない。
ふつうは朝目覚めたらまた酒などのみたくなるものではない。
そのくせ依存症患者はアル中になった原因を探し出し特定する。
あれがなかったら自分はアル中になどなっていなかったと。
だが、だれかがアル中になろうと思っておなじことを経験しても、
まずなれないのではないだろうか。
人生で生じるあらゆることは、実のところ再現性がないとは考えられないか。
もう一回おなじことを意図してやろうと思ってもうまくいかないのである。
繰り返すが、狙って病気になろうと思っても、そうなれるものではない。
これはマイナスの話だが、プラスでもおなじなのだろう。
人生における現象の原因など本当はあいまいで、
いくらプラスの努力をしたところで成功したり出世できるものではない。

河合隼雄がスイス留学中にニジンスキー夫人と交わしたという会話が興味深い。
ニジンスキーはロシアの天才的バレエダンサー。のちに分裂病を発症。
河合はニジンスキー夫人から問われたという。
もし自分がニジンスキーと結婚しなかったら彼はこの病気にならなかったか。
というのも、ふたりが結婚するまでにいろいろあったからだ。
夫人は、ニジンスキーを同性愛相手から略奪したという経緯がある。
「自分のせいでニジンスキーは分裂病になったのではないか」
この問いに河合隼雄はこう答え、夫人はいたく安心したという。

「人生のそういうことは、なになにをしたのでどうなるというふうな
原因と結果で見るのはまちがっているのではないか。
ニジンスキーという人の人生は同性愛を体験し、異性愛を体験し、
ほんとに短い時間だけ世界の檜舞台にあらわれて、天才として一世を風靡した。
しかし、ニジンスキーにとっては
非常に深い宗教の領域に入っていったということもできる。
そういう軌跡全体がニジンスキーの人生というものであって、
その何が原因だとか結果だとかという考え方をしないほうが
はるかによくわかるのではないか」(下巻P151)


この挿話に関係して精神科医で哲学者のビンスワンガーの話が出てくる。
ニジンスキーの入院したのがビンスワンガーの精神病院だったのだ。
ビンスワンガーは、息子の自殺ののち「現存在分析」に深く関心を持つようになる。
この「現存在分析」は河合隼雄の考え方、生き方ともおなじなのだろう。

「じつは、そのビンスワンガーの息子の自殺が契機になって、
ビンスワンガーは「現存在分析」ということを言い出すのです。
どういうことか簡単にいってしまえば、
そのときの一回かぎりのこと、存在そのものが非常に大事であって、
いわゆる自然科学的に簡単に説明したりするということはできない、
という考え方ですね。(中略)
要するに、他人のことは分析したり、何が原因で何が結果だとか言えるけれども、
自分のことというのはそんなことではない。
患者さんが自分のことを必死に考えているときに、
他人がとやかくその原因や結果とか言うのはおかしい。
ビンスワンガーはそこから出発したのじゃないかと思ったのです。
つまり、自分の息子の自殺の原因を考え出すと、人はいろいろ言うし、
自分でも考えているでしょうが、そんなものではない。
息子は死んだんだという事実、それがほんとに大事だ、
というふうに思ったんじゃないかとぼくは思う。これはぼくの推察です。
ぼく自身も、自殺した人の「心理」について
原因-結果で説明するのは好きではありません」(下巻P146)


いかに我われが「原因-結果」の思考法に毒されているか、である。
人間に関すること、人生の諸問題は、
「原因-結果」を考えないほうがはるかによくわかる。
たぶん因果的思考を捨てるほうが、世界はいきいきと豊かに見えてくるのだろう。
河合隼雄の人生は一回かぎりのものであった。
そのことはもうこの偉人が亡くなっているから本当によくわかる。
そして、我われの人生もまったくおなじなのだ。