「黄金色の夕暮」(山田太一/小学館)

→芝居台本。温厚に微笑む山田太一さんの裏メッセージを紹介しよう。
あくまでもこれは高名な山田先生のご主張であって、
愚かなわたしごときの考えではない(=慣れない自己保身をやってみた)。
以下「黄金色の夕暮」の裏メッセージ。
――美しい「黄金色の夕暮」なんて一瞬なんだからな。綺麗事を言うなよ。
結局、人生は金じゃないか。企業人は出世がすべて。それから保身。
おい、だから甘ったれた綺麗事を言うなよ。本当は金、出世、保身。
テレビ局のプロデューサーがシナリオ学校でいい気分の主役顔で講演する。
「いいドラマを作りたい」
サラリーマンの綺麗事を真に受けてっと、さらっと足をすくわれるからな。
編集者だってそうよ。「いい小説を世に出したい」
そりゃあ何割かの本心ではあるのだろうが、
人間は綺麗事がすべてだって思っていたら痛い目に遭うと思え。
編集者なんて新人の原稿を勝手に書き直すくらいなんとも思ってないんだからな。
サラリーマンの出世欲の強さ、保身の素早さを舐めたらいけない。
他人に期待するな。人間なんていざとなったらなにするかわからんもんだぞ。

この芝居のなかでいちばんうまいとうなったところを紹介する。
銀行支店長の花岡雅之はあせっている。
総会屋にこっそり渡した裏金のことを東京地検に嗅ぎつけられたからだ。
雅之は検察の家宅捜索を受ける。証拠のフロッピーを持っていかれ万事休す。
翌日、検事の内田隆志が花岡家を訪問する。個人的な用件だという。
脅えつつもなんだろうと思う雅之と妻の睦子である。

「隆志 迷いました。考えました。その上でとうとう、お尋ねしてしまいました。
雅之 はい。
隆志 (くだけて)まいったねえ、まったく。
雅之 (人払いをした方がいいと思い)お茶をやっぱり貰おうじゃない。(と睦子へ)
睦子 (察して)ええ――。(と台所へ)
隆志 (顔を伏せている)
雅之 検事さん。
隆志 内田です。いまは内田といって下さい。
雅之 はい。率直に申します。秘密厳守いたします。いかほど御用立てしましょうか。
隆志 ―――。
雅之 御遠慮なくおっしゃって下さい。
隆志 いかほど――?
雅之 お困りなんでしょう? 誰だって、そういう時はあります。検事さんだからって。
隆志 なにをいうか! なにをいうか、君は。(と立つ)
雅之 はい。
隆志 いやしくも、東京地検の検事を、君は、金で篭絡しようというのかッ!
雅之 決して、そんな――」(P79)


この間合い、このやり取りは山田太一さんにしか書けないとうっとりする。
人払いをするところも芸が細かくて実にいい。
そして、さらりとなんでもないことのように「いかほど御用立てしましょうか」。
「ビジネス心理学の巨人」内藤誼人氏の成功本にも書かれていたが、
賄賂(裏金)をいかにうまく受け渡しするかがビジネスの要諦なのだろう。
賄賂は向こうから言われるまえに渡すのがビジネス成功の秘訣らしい。
その呼吸、間合いをほとんど虚業の山田太一さんがどうしてこうもうまく描けるのだろう。
虚業というのは侮蔑用語らしいので作者にまず失礼をお詫びする。
しかし、虚業家の実業を見透かす視線はまこと本当っぽいので驚く。
もしかしたら脚本家というのは虚実を扱う、いうなれば虚実家なのかもしれない。
山田太一さんが描くのはことさら本当らしく思える嘘なのだから。
「黄金色の夕暮」からいくつかセリフを引こう。

「大きな銀行になれば、株主総会に持ち出されては困ることは、どうしても出て来る。
金銭を動かしてるんだ。なにもかも綺麗というわけにはいかない」(P58)
「物事にはなんでも裏があるのさ」(P59)
「テレビがやらない現実はいくらでもある」(P75)
「人間のやることなんて、どうせそんなもんだもの」(P101)
「たしかに、うちの小さな不正融資が目をつけられたのは不公平だが、
どうせ人生は不公平なもんだ」(P101)
「どこだって、上司と合わなきゃ、そういうめにあうんだよ」(P115)
「悪いことがあると、いいことが沢山ついて来るの」(P139)


最後のひとつだけどちらかといえば嘘に属する言葉である。
本当のセリフの洪水のなかにポイと嘘を放り込むのが、
山田太一さんのドラマ作法なのだろう。つまり、この劇作家の生き方なのだろう。
作家は「金、出世、保身」だけではないと人間の生き方を見ているのだろう。

「壁を破る言葉」(岡本太郎/イースト・プレス)

→もうヨレヨレ。あんま人には言えないけれど、ほんとはこちらボロボロ。
岡本太郎の言葉を入れても丸一日、もたないのだから。
大学生なら1週間、新社会人なら数日はカンフル効果のある岡本太郎の言葉。
四捨五入すると40になるくたびれたオッサンにはダメダメ。
権力者が目の前に現われたら、
土下座して靴の汚れを舌でお取りして差し上げたいくらいヘナヘナ。
繰り返しになるけれど、いまのおれ、ヨレヨレでボロボロでヘナヘナ。
バリバリになんてとてもなれない。

「すらすらといくらでも溢れ出てきて、
無限につくれるような気がするときもある。
壁にとじこめられて、ニッチもサッチもいかない、
悩めば悩むほどいきづまってしまう、絶望の季節もある。
そういうとき、どうするか。焦らない。
自分と向き合うチャンスだ、と思ってじっくり腰をすえて、
自分はほんとうに何がしたいのか、見極めることだね」(P42)

「絵が描けなくたって、いいじゃないか。
音楽を作らなくたって、死ぬわけじゃない。
ぼくだってパリにいって三年間、絵が描けなかった。
そのつらさは、骨身にしみている。
だけど、そこで自分をごまかして、適当なことをやってしまったら、おしまいだ」(P43)


「ウソつきは成功のはじまり」(内藤誼人/徳間書店)

→ブックオフの105円棚で久々にぶっ飛んだ本を見つけてしまった。
山ほど出ている過労死寸前のビジネスマンをだますための成功本だが、
本書はそのなかでも絶妙な味わいを持っているのではないか。
副題がなによりすばらしい。「他人をだますならまず自分をだませ」――。
大多数の成功本の書き手とは異なり、著者は教えを実践しているのがよろしい。
教えとはしつこいが、「他人をだますならまず自分をだませ」――。
著者は自分のことを心理学者と思っているようだ。
巻末のプロフィールでもそうなっている。
この本のなかでも「私は心理学者なので」と誇らしげに書いている。
ところが、著者はとある私大の社会学研究科が最終学歴。
いったいどこで心理学者になったのだろう?
さらに著者はただの心理学者ではないのである。
「ビジネス心理学では、他の追随を許さない圧倒的な巨人として知られる」(巻末)。
だれが著者を「ビジネス心理学の巨人」と称しているのであろう。
ほかならぬ内藤誼人先生ご自身がご自分を「巨人」とほめあげているのである。
まさにこれは「他人をだますならまず自分をだませ」の果敢なチャレンジ。
こうまで壮大なハッタリを使える度胸には感心した。

巻末の参考文献一覧も最高に笑える。
安手の自己啓発書を、さも学問ぶって羅列しているのである。
アメリカの成功ビジネス本は、
しっかり横文字で記載して権威を装うあこぎな手法も素敵だ。
「他人をだますならまず自分をだませ」を本気で実践している著者は本物ではないか。
本物の……これ以上は無駄口をたたかないでおこう。
成功するために必要なのは、「他人をだますならまず自分をだませ」――。
わたしはこの人を成功者だとは思わないが、本人がそう信じているのだから仕方ない。
これはもしかしたら最高の成功ビジネス本かもしれない。
ここにはなにかしら真実のことが書かれているような気がする。
ならば敬意を表して本書から少し引用しておこう。

「ゴールドスタインという説得研究家は、忙しそうにすればするほど、
その人の“希少価値”が高まるというアドバイスをしている。
実際、弁護士などは、事務所に電話がかかってきても、
なかなかコールに応じないことで、
自分の売れっ子ぶりをアピールする作戦を取っているという」(P20)


こう主張した舌の根も乾かぬうちに――。

「オランダのアムステルダム大学の心理学者マイケル・ハンドグラフ博士は、
弱い人間ほど、強い人間に比べて、他人からの援助を受けやすい
ということを確認している。
私たちは、弱者には、助けの手を差し伸べたくなるのだ。
「仕事ができる」ような顔をしていると、
だれもあなたを助けてくれなくなる」(P68)


「忙しいふり(仕事ができるふり)をせよ」と言った直後に、
このビジネス心理学の巨人は「仕事ができないふりをせよ」と説く。
それにさ、あんまり大声では言えないけれど、ゴールドスタインってだれ?
肩書の説得研究家って、読者を笑わせようとしているのかしら。
マイケル・ハンドグラフなんて人も知らないよ。
もしかしたらこの人たちも著者と同類の自称心理学者なのだろうか。
とはいえ、この人は著書百冊を誇る人気作家なんでしょう。
たしかに「他人をだますならまず自分をだませ」の教えは偉大である。
実践できるかはちょっと自信がない。しかし、名著であった。星五つ。

「図解雑学 催眠」(武藤安隆/ナツメ社)

→「騙し騙し生きる」を今後のライフワークにしようかと思っている。
このとき催眠術は程よく怪しく、とてもよろしい。
効率化されたせわしない現代社会を生きるひとりとして、
合理的でないいかがわしさを持つ催眠術になにか郷愁のようなものさえ感じる。
医師の国家資格を持たぬ自称セラピスト(失礼!)の著者は、
本書の冒頭で催眠は科学であると断言しているが、
あえて非科学的なるものにあこがれるわたしのようなものもいるのだ。
本書はとてもわかりやすい催眠の入門書になっていると思う。

催眠とはなにか? 暗示である。言葉は悪いが、騙しである。ウソと言ってもよい。
人間に暗示をかけて(=騙して=ウソをついて)プラスの効果を得るのが催眠である。
かりに悪い状態が少しでもよくなるのであれば、方法は問わないというのが催眠だ。
この考え方はまったくもって正しいと思う。苦痛が取れるならなんでもいいではないか。
本書に説明されている催眠の歴史がとても勉強になった。
催眠の起源をさかのぼると威光暗示に行き着くという。
古くから神官、神父、王様による呪術的行為で人は病から解放されてきたのである。
イエスもブッダも呪術医のようなものだった。
聖職者が儀式の過程で「治る」と暗示するだけで多くの病気が治癒したのである。
必要なのは、患者が医療者の威光を信じて疑わないこと。
いまでいえば新興宗教の教祖が病気を治すようなものである。
本当にこの人は偉大だと崇拝している偉人から暗示をかけられたら(=騙されたら)、
実際にかなりの病気がかんたんに治ってしまうのであろう。
前向きにもなるだろう。
結果として運よく社会的成功をおさめることもあるかもしれない。
現代の催眠がやろうと思っているのは、
過去の聖職者による医療行為とおなじなのである。
だが、現代人はなかなか威光を信じられなくなっている。
このとき暗示をいかにうまく自他にかけるかが催眠のテクニックになるのだろう。
いかにうまく人間を騙すかである。どのように上手なウソをつくかだ。

かつての名医と呼ばれた先生たちも、うまく威光暗示を用いたのだろう。
どの先生の出すお薬かで大きく効き目が違ったのではないか。
いまはインターネットが普及したせいで、どの医薬品も同質になってしまった。
それでも「この薬をのんだら治る」と患者をうまく騙せる医者はいると思う。
万事ネットの現代でさえ名医とヤブがしかと存在する理由だろう。
医者でなくてもいいのである。
キムタクが対面で「きみはいい子だ。かならず伸びる」と真剣に言ってくれたら、
かなりの少女の不登校くらいならあっさり治ってしまうような気がする。
AKB48のおかげで人を殺さず自殺もせず鬱にもならず、
元気に毎日働いているキモオタが大勢いるのではないか。
もし1日だけでも前田敦子がデートにつきあってあげたら、
自信を持ったキモオタが好青年に変わるという奇跡でさえ起こるのではないかと思う。
ふたたび、これが(威光)暗示=催眠のちからなのである。
騙しの威力だ。ウソのパワーだ。

そこらのオッサンが自分は催眠のプロだと主張してもだれも聞く耳を持たない。
この際、必要となるのが催眠(=暗示=騙し=ウソ)のテクニックなのだろう。
この怪しげなオッサンは凄い人なのだと心底から信じられたらテクニックはいらないのだ。
とはいえ、現代人はどうにもこうにも疑い深くなっている。
そう考えると、余談になるが、騙されやすいというのも、ひとつの立派な能力なのだろう。
さて、催眠のプロが効果的に使うテクニックは呼吸とイメージである。
発汗や消化といった自律神経がつかさどっている機能のうち、
ただひとつ意思のちからで操作できるのが呼吸。息を吸う、吐く。
深呼吸を何度もすると(させられると)ボーっとして暗示がかかりやすくなるという。
他人の支配を受けやすくなるということだ。すなわち、騙されやすくなる。
この状態にして、イメージを用いて暗示をかけるとよく効くとのこと。
むかしは悪霊退散のまじないでよくなったらしいが、
いまはそのイメージは使えないだろう。
ありきたりだが、うまくいったイメージを植えつけることになるはずだ。

催眠は自己暗示といった方法も使えるから冗談半分に遊んでいきたいと思う。
本書の終わりのほうで奇跡レベルの事例を著者は紹介していたが、
そこまで期待を抱くと大切なお金を無駄遣いすることになるのではないか。
いや、催眠のプロセスとしては、大きな期待を持つものほどよく効くのだろうが。
ぶっちゃけ、そんなことを言うなら催眠療法ではなく新興宗教でいいのである。
全財産を差し出せるほど教祖様を崇拝できるのなら、
かなりの重病まで治してもらえるのではないかと思う。
みなさんとおなじでわたしも相当に猜疑心の強いほうである。
なんとかうまく自分を騙しながら(催眠をかけながら)生きていこうと決意する。
寿命まで「騙し騙し生きる」ために催眠はなかなか効果的な詐術ではないか。
その点、本書はわかりやすくとても有益であった。
しかし、わたしには著者の催眠はあまり効かないような気がする。
やはりこれからも河合隼雄や山田太一の言葉に騙されていくしかないのだろう。
まだしも威光暗示を得られるのだから(この物言いは著者にたいへん失礼ですが)。

「図解雑学 睡眠のしくみ」(鳥居鎮夫・睡眠文化研究所:監修/小林保著/ナツメ社)

→結局、睡眠とは脳の休息のことらしい。
寝ているあいだに脳は覚醒中に取り込まれた情報の整理(再編成)をする。
このときに見るのが夢だと考えられている。
繰り返すが、睡眠とは脳の休息活動。
長らく不眠症だが、眠れないとなにがいやかといったら翌日よくあたまが働かないことだ。
だから眠るために酒をのんでいるようなところもある(むろん酔うのも楽しいが)。
これは驚くほどによく効き、飲酒した翌日はふつうにあたまが働く。
ということは、アルコールで脳に休息を与えていたということになるのだろう。
うまく脳が休息できないと翌日に脳が働かなくなる。
この症状が不眠症としていちばん困るものなのではないかと思う。

睡眠傾向は人によってさまざまで、長く眠る人、短い睡眠で足りるもの、色々という。
これは持って生まれたもので変えようがないようだ。
一般的に短眠型は外交的、長眠型は内向的とされている。
内省的な人間はストレスを処理するために長い睡眠時間を必要としている。
睡眠を時間の無駄と考える人がいる一方で、またとない滋養や安楽と考えるものもいる。
エジソンは前者で、シェイクスピアは後者であったとされる。

これは愚見だが、睡眠を脳の活動休止と考えるならば、死と睡眠は近似しているのだろう。
なぜならどちらも脳のストップなのだから。
我われは死んだらいったいどんな夢を見るのだろう。
もしかしたらいま見ているこの風景が、だれかの夢なのかもしれない。
さて睡眠を好むものは、比較的に死を恐れないのではないだろうか。
というのも、死はあの安らぎに満ちた眠りのようなものなのだから。
永遠の睡眠を永眠という。ならば死はさして恐れるものではないのかもしれない。
永遠に眠るほどの快楽はないのではないかと、ある不眠症患者は思う。

「メアリー・ステュアート」(ダーチャ・マライーニ/望月紀子訳/劇書房)絶版

→戯曲。イタリア産。
シラーの傑作芝居「マリア・ストゥアルト」を「自由に翻案」したものという。
シラーの「マリア・ストゥアルト」が大好きなので、そのつながりで読んでみたら――。
名作である本家を翻案で台なしにしていた。
まるでシラーの名を汚しているようなものだと思う。
シラーの原作は女性が本分の女々しさを全開にしていがみあうから楽しいのである。
ところが、ダーチャ・マライーニとやらは、なんでもイタリアを代表するフェミニスト作家。
従来とは異なる女性観を、この芝居で打ち出したということである。

バカだからわけわからん。男がそうであるように、女もむかしから女ではなかったのか。
女なら女らしく嫉妬に狂って、嫌いな同性には徹底的に意地悪をしてほしいものだ。
むかしから「女の敵は女」なのだから、女は女らしくしていればよく、
わざわざ「女の腐ったような」男の真似などしなくてもよいのではないか。
男にはない女ならではの醜さを、我われ男性陣はときに美しいと錯覚するのだから。
わたしは女が描く女よりも、男の描く女のほうが好きなようだ。
大好きなシラーを女流に逆レイプされたような不快感だけが残る読書であった。

*ギャグですからね。わたしは本心では女性を太陽のように崇めています。
好きな子に意地悪をしちゃう的な、極めて男の子らしい感想文とご笑納くださいませ。

「ディミトリー」(シラー/宮下啓三訳/講談社「世界文学全集17」)絶版

→戯曲。ドイツ産。絶筆となったシラー最晩年の未完の大作。
とはいえ、全体の1/5しか書かれずに作者が絶命したため作品を論じるのは難しい。
王位継承権をめぐる史劇である。当たり前のようだが、
むかしは親が偉ければ子どもも明々白々に偉かったことに新鮮な驚きをおぼえる。
だれが王位を継ぐかと言ったら、もっとも血統的に「正しい」子孫なのである。
この芝居では死んだと思われていたものが、おのれの素性を主張することから開幕する。
権力は言うなれば甘い蜜に等しいので大勢が群がってくるわけである。
結果として敵と味方にわかれる。裏切りや権謀術策が錯綜しておもしろい芝居になる。

人生で経験できずに終わりそうで悔やまれるが、
大企業の人事にまつわる派閥相互の足の引っぱりあいとか相当におもしろいのだろうな。
本音と建前、裏と表、友情と裏切り、恩と仇、作り笑いと怨恨呪詛――。
いざそういった修羅場を経験したら文学などアホらしくて読めなくなるのだろう。
たいてい文学好きなんていうものは浮き世のことに疎いものだから、
せいぜいシラーの史劇でも読んで出世競争の裏側を想像するしかない。
いつの時代にも男は出世したがり、
そのためにはかなりの汚いことに手を染めなければならないのだと思われる。
そうまでして左遷に追い込んだライバルを嘲笑いながらのむ酒のどれほどうまいことか!
まさしく勝利の美酒!
残念ながら今生ではその美酒を味わうことはなさそうだが、
シラーの傑作史劇を読んでいるとなんとなく想像がつかないこともない。

かりに史劇がおもしろいとすれば、それは人があくどいことをするからなのだろう。
だれもが出世したいのである。偉くなりたいのだ。
そのためにどれだけ悪いことを、良心をかえりみず自己正当化しながらできるか。
そう考えると二代目ではない大企業の社長など、たしかに尊敬に値する偉人である。
おぬしも相当な悪じゃのう~あっぱれ、あっぱれ♪

*これでシラーの劇作をすべて読み終わったことになる(9作品)。

「群盗」(シラー/宮下啓三訳/講談社「世界文学全集17」)絶版

→戯曲。ドイツ産。シラー「群盗」は私撰のベスト10に入る芝居である。
小説は書き言葉だからかならずしもそうではないけれど、
戯曲は要するにセリフ(=話し言葉)だからできるだけ新訳で読んだほうがいい。
まえに「群盗」を読んだのは岩波文庫の久保栄訳でたいへん感動した。
だから、このたび新しい訳で再読したのだが、意外や旧訳のほうがはるかにいいのである。
久保栄は劇作家であるため岩波文庫版はいわゆる豪傑訳ではないかと疑っている。
だが、たとえ豪傑訳であったとしても久保栄訳のほうが断然いいのだから仕方ない。
学者の訳は、口に乗らないところがある。
比して岩波文庫版を読んでいたときは、思わずセリフを口にしてしまったくらいだ。

「群盗」には悪人が登場する。フランツである。
劇作家シラーは自身の内部にある善悪を、きれいに切り取ることに成功している。
悪は実のところ愉楽でもあるのだが、現代作家はなかなか悪の悦楽をうまく描けない。
どんな悪にも善がひそむなどと、つい現代人は訳知り顔で語ってしまう。
したがって悪の陶酔に耽溺することができない。
古典劇「群盗」でフランツは父と兄に悪を仕掛ける。
フランツはなにゆえ悪をなすのか? 悪の根源にはなにがあるのか?

「造化の神をうらむ資格がおれにはたっぷりある。
おれの名誉にかけて、この権利を主張してやるぞ!
――なぜおれは母の胎(はら)から長男として、
いや一人息子として生れなかったのか?
なぜ造物主は醜さという重荷をおれに負わせたのか?
なぜ、おれにだけ?」(P170)


なぜ自分だけ不幸なのだろうとだれもが一回は思ったことがあるのではないか?
どうして自分はこうもブスなのだろう、ブサイクなのだろう。
こういった怨恨は大人になるにつれて穏やかな諦念とともに縮小していく。
「ま、世の中そんなもんだよね」というあきらめを持つにいたるわけだ。
しかし、劇作家シラーは言うだろう。

あきらめるな!

あきらめてはいけない。
なぜなら、あきらめないことから美しい悪行が生じるのだから。
フランツはあきらめない。神を恨むことを忘れない。神と馴れ合わない。
長男だからという理由だけで兄が財産を相続するのは不平等じゃないか?
たまたまイケメンに生まれたという理由で兄が美女を婚約者にするのはおかしかないか?
フランツはあきらめることなく、現実に悪を仕掛けていく。
具体的には、他国を放浪している兄が死んだとウソの情報を広める。
ウソの魅力とは、悪の美を根拠として持つのかもしれない。
ウソは悪いこと。だから、ウソをついてはいけません。しかし、悪いウソは美しい。
フランツは噂を信じて失意に暮れるアマーリアに言い寄る。
そう、アマーリアとは兄の美しい婚約者である。
ブサイクよ、あきらめるな! フランツを見習え!
たとえどれだけ醜かろうが美女をものにしようと狙う悪人フランツは美しい。
ほしいものをあきらめてはいけない。悪を仕掛けろ。悪(わる)になろうぜ!
ブサイクとして生まれたらどだい格好いい主役にはなれないのである。
悪役を神から割り振られたのなら、悪をぞんぶんに楽しめばいいのではないか。
ああ、わたしも人生でフランツの役を演じてみたいものである。
美女に迫る醜男――。

「フランツ (……)髪をつかんできみを礼拝堂へ引きずりこみ、
手に剣をもってきみの心から結婚の誓いをしぼり出し、処女の床を襲って、
きみの誇らしげな操とやらを、それを上回る誇りで征服してやる。
アマーリア (彼に頬打ちをくらわせる) これがあたしの持参金とお思いなさい。
フランツ (腹を立てて) こいつ! 十倍にも二十倍にもしてお返しするぜ!
――正式の妻になどしてやるものか――そんな名誉は棚上げだ
――妾(めかけ)にしてやる、
きみが町に出ると、かたぎの百姓女房どもにうしろ指をさされるように。
歯ぎしりするがいい――殺意に燃える怒りの火を目からほとばしらせるがいい――
女の怒る姿をおれは好きだ、怒るときみはますます可愛く、ものにしたくなってくる。
こい――抵抗されればされるほど勝利の快感がまし、
力ずくの抱擁のたのしみに風味が加わる――
さあ、おれの部屋に――あこがれの思いでおれは燃えている――
今すぐおれについてこい。(むりに彼女をつれていこうとする)
アマーリア (彼の首に抱きついて) ゆるしてちょうだい、フランツ!
(彼が抱きすくめようとする刹那、彼女は彼の腰から剣を抜き、
さっとあとずさる) よくって、悪党さん、生かすも殺すもあたしの心次第だわ
――あたしは女、でも死にもの狂いになってる女よ――
みだらな真似をするつもりであたしの身体にさわろうものなら――
この剣が助兵衛な胸の真ん中をぐっさり」(P229)


「女の怒る姿をおれは好きだ、怒るときみはますます可愛く、ものにしたくなってくる」
人生で一度でいいからこのセリフを口にしてみたいよな~。
話を「群盗」に戻すと、悪はやはり最後には敗れ去る――。邪心は裁きを受けるわけだ。
しかし、中途半端な善人より悪人のほうがよほど芝居を盛り上げる。
そうなのだ、悪人がいたほうが劇はおもしろくなるのである。
ならば悪人は観客の心中でひそかな喝采を受けているのだろう。

もっとほしがれ。欲張れ。悪になれ。それが人間だ。しかし、得たものはかならず失う。
正しくは、得るから失う。得るがために失う。
仕合せなカップルはそのぶんだけ別れのときに苦しまなければならない。
仲のよい家族はたしかに幸いだが、そのぶん死別の苦痛が増すようになっている。
津波に家を流されてよけいに苦しむのは、あばら家の住民ではないということだ。
21歳にしてシラーはこの人生哲学に到達していたのだから恐れ入るほかない。
アマーリアのセリフから抜粋する。

「だれもが、悲しく死ぬために生きていますのね。
私たちが何かに思いを寄せ、手に入れるのは、
ただ苦しい思いとともに失うためなのですわ」(P241)


それでも人間は生きる。悪だくみをする。芝居を仕掛ける。古今変わらず――。

(参考)「群盗」(シラー/久保栄訳/岩波文庫)品切れ
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1079.html

「フィエスコの叛乱」(シラー/野島正城訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。ドイツ産。繰り返しになるが、シラーはゲーテよりもよほどいい。
シラーのよさは激しさにある。熱いんだ。燃えてるんだ。
まるで登場人物それぞれがファイヤーと叫んでいるようなところがある。
火のようなセリフを口から吐くのがとてもいい。
この芝居においてレイプのシーンがあるけれど、ここで説明するのがわかりやすいと思う。
サムライが女郎(めろう)を手篭めにするのとはわけがちがう。
毛唐さんはな、おらおら、どうだどうだ、と言葉責めまで加えて女人を辱める。
ナデシコは手篭めにされても無言で耐えることだろう(……ナムアミダブツ)。
だが、パツキンはレイプされながら大声で泣き叫ぶんじゃないか。
オーマイゴッドと髪を振り乱す女性を勝ち誇りながら野獣のように後ろから犯すよろしさ!
激烈なるシラー劇の長所を説明したらこうなる。うん、こうなるんだ。

シラーさん、劇とはなにか? 人生とはなにか?

「服従か?――支配か?
――この二つのあいだには、目のくらむ深淵が口をあいている」(P112)


男の人生は、服従するか、支配するか、でしかない。
つまり、出世するか否かである。男の人生にとっていちばん重要なのは出世だ。
なんとかして服従の人生から、他人を支配する人生に成り上がらなければならない。
他人を支配することのなんと気持のいいことか。
みんなからチヤホヤされる喜びはどうだ。
だれもがあこがれる美女の身心をことごとく支配するほどの歓喜はないだろう。
みながみな自分にあたまを下げる快感は一度味わったら病みつきになる。
では、どうしたら服従を脱して支配に到達することができるのか。
現在の支配者を打ち破り、引きずりおろすしかない。
あの手この手で足を引っぱるしかないのである。くたばれ、支配者よ!

「フィエスコの叛乱」はおのれの野心に忠実に行動した男の劇だ。
フィエスコは、汚らわしいムーア人(黒人)を手下にして悪だくみを仕掛ける。
「あるがまま」では支配構造は変わらないのだ。
フィエスコはどうするか。現実を変えるためにはどうしたらいいのか。

「――芝居をやるだけだ。
ジャネッティーノ(=政敵)がおれの命を狙った噂が広まることが、
今のいま、どうしても必要なのだ」(P83)


うまく芝居を仕掛け、ライバルの悪評を流せばいいのである。
成り上がるためには、だれかを蹴落とさねばならぬ!
支配者のポストはひとつなのだから、勝つためには相手を負かさなければならない。
ふん、偽善はやめようぜ。勝利は快楽だ。ならば快楽のために他人を陥れろ。
シラー劇の力学である。人間は、断じて勝たなければならぬ!
果たして、この芝居においてフィエスコは支配者になることができたか。
否である。最後の最後で老臣に裏切られフィエスコの野望は潰(つい)える。
しかし、闘いとはいいものだ。
シラーは言うだろう。諸君、闘争せよ。もっと過激に、もっと自由に!

「勝ち誇る」というト書きがシラー劇における最重要の動作になるのだろう。
勝つだけではシラー劇ではない。
勝ったうえで傷心する敗者におのが勝利を見せつけ誇らなければならないのである。
どういうときに人は勝ち誇るか。
妻のいる男性を奪ったときの女性の心理はそうだろう。人のものを奪う喜び!
この芝居では、高飛車な女がフィエスコの正妻に自身の寵愛を勝ち誇る。
ところがどっこいフィエスコも悪いやつじゃのう、うしし。
実のところ悪漢フィエスコはタカビー女に夢中だという芝居をしていただけなのである。
最後でどんでん返しをやらかす。
フィエスコは、自分を愛するようになったタカビーのまえで正妻への愛を告白する。
ここが「フィエスコの叛乱」でいちばん素晴らしい。

「フィエスコ (二三歩退いて彼女の倒れるにまかせ、勝ち誇ったように哄笑する)
それはどうもお気の毒です」(P169)


タカビー女を落として自分にメロメロにさせる。
そのうえでこの高慢ちきな女をさんざん愚弄するのは最高に楽しいことだろう。
くうう、まったくシラーという男は、どこまで下劣なのだろう。
いや、人間がそもそもお下劣にできているのだろう。
ああ、人間は醜い。しかし、だから人間は美しい。
人間の美醜を巧みに描くシラーの芝居が芸術ともてはやされるのはこのためだ。
本物の芸術はむしろ淫猥で、悪徳の美を描くものなのかもしれない。