酒が入っていたせいで、うっかり京浜東北線の網棚に買物袋を置き忘れてしまう。
御徒町にある二木の菓子と多慶屋で衝動買いしたものである。
翌日、JR東日本に電話で問い合わせたら大船駅に届いているという。
なんでも着払いの宅急便で送ってくれるとのことで、捨てる神あれば拾う神ありと感謝する。
先ほど千円の着払い料金とともに、わが購入品たちが戻ってきたのだが、
調べてみると商品がいくつか抜かれているのである。

シェービングクリーム、450円。
焼き鳥缶詰(塩味)、98円。
バウムクーヘン(×2)、200円。
リッツ(×2)、336円。

なんともみみっちいと言うのか。
どうせ盗むならぜんぶ持って行けよ!(……それは違うか)
いったいだれがこれら商品を抜き取ったのだろう。
着払い料金と合わせたら2千円程度の損害になるが、これは運がいいのか悪いのか。

まあ、人生なんてこんなものだよね。
欲を言ったら切りがない。
まだ運がいいほうだと小津映画「東京物語」の笠智衆のようにあきらめよう。
それに、人間なんてそんなもの。
人の目がなかったら盗みでもなんでもやらかすのが人間だ。
しかし、わたしは他人の忘れ物から缶詰やお菓子を抜き取ったりはしないと思うが。
そのセコさに胸が痛み、このブログ記事を書かざるをえなかった。
ブログにいちばん書いちゃいけないのは自己の健康情報なんですよね。
理由は個人情報なんたらではありません。
だれもあなた(わたし)の健康になんか興味がないからです。
だから、医者はやはり偉いのではありませんか?
見知らぬ他人の健康に対する愚痴を延々と聞かなければならないのですから。
ふつうの人にはなかなかできません。
人間は、他人の頭痛、歯痛、腰痛、躁鬱などに、まったく関心を持たないのであります。

ここまで断わったら、もうお読みになる人はいないはずですから、書いちゃおう。
というのも、ブログに健康情報を書いておくと、あとで役立つのですね。
ブログはいわば自己カルテとも言えるわけで。
実際、調べてみたら去年の10月初旬にも風邪を長引かせています。
これで10月はじめはよくないという法則が認識されます。
来年こそはこの時期を無病で乗り切ってやろうと思います。

読んでいる人は極めて少ないと理解しつつも、
やはり書きづらいのは、なんだかんだと無頼を気取っていたからだと思います。
無頼=格好いいという時代遅れの価値基準を内に持っています。
しかしまあ、実像は無頼ではない。
今年に入ってから毎月前半にかならず4日~1週間の連続禁酒期間を設けています。
もちろん、これだけではなくその後も数日は禁酒します。
全盛期(ってなにさ)から比べたら、どれほど禁酒日が増えたことでしょうか。

今月前半はとうとうやりました。
区の35歳検診まえの4日の禁酒を、なんとデパス(安定剤)抜きでやり終えたのですから!
いままで禁酒日にデパスをのまなかった日はほとんどありません。
それなのに4日も連続してこの偉業を成し遂げるとは!
そのうち1日は友人と家でインドカレーを食べましたが、
こういうスペシャルなことがあっても禁酒できるという実績を作ることができました。
山田太一講演会当日も帰宅後、精神は激しく昂揚しているにもかかわらず禁酒。
そりゃまあ、あれから11年も経てば少しはよくなるのが当たり前なのかもしれません。
人はなにかあると原因を考えますが、よくなった理由はとくに見当たらないのです。
新興宗教にも入っていないし、精神科にもかかっていない。カウンセリングも受けていない。
なんとなく自然に時間が過ぎたのがよかったのだと思います。

少しずつよくなるものだ。
しかし、これを一般法則化したくはありません。
わたしが最悪期に「少しずつよくなる」と助言されても腹が立つだけでしたから。
「少しずつよくなる」ことはたまさか(?)あるが、
それは一般法則ではなく、おのおのがそれぞれの人生で気づくこと――なのでしょう。
昨日は風邪を罹患後、二度目の通院。咳が止まらないからです。
お薬をたっぷりもらい(買い)ました。
あれから咳止め薬をのんだのは昼夜朝昼と四度。
いま気づいたら咳をしていません。と書いた瞬間、思い出して咳をゴホゴホ(苦笑)。
なにごとも忘れてしまうのがいちばんなのかもしれません。
しかし、なにかを確実に忘れられるという薬品はありません。
そう考えたとき痴呆症(認知症)は不幸なのか幸福なのか、そのどちらでもないのか。
9月下旬の某日、シナリオの聖地、溝の口にひとりおもむく。
どうして表参道(シナセン!)ではなく溝の口がシナリオの聖地かといえば、
日本ナンバー1の脚本家Y先生のご自宅があるからである。
(エッセイでYさんは溝の口のことを何度もお書きになっているから、
個人情報保護や盗難対策をかんがみてもこの記事は許されるのではないでしょうか)
どうして脚本聖地を巡礼しようと思ったのか?
ぶっちゃけさ、もうやる気がないんだよね。
いままでどれだけ脚本コンクールに落ちたことだろう。
数えるのもいやになるくらい落選しまくっている。
業界最大手の某スクールと大喧嘩したのが理由かもしれないが(ブラックリスト!)、
稀代の善人としてあまねく知れ渡る人格者で社長のKさんに電話でうかがったら、
うちはそういうことはしていないとのことで、ならもっぱらこちらの力不足が原因なのだろう。
とはいえ、見かけに相反して高い気位を持つ我輩がこうまで落ちまくるともうダメよ。
応募シナリオを書く気がなくなってしまう。
だから、脚本聖地巡礼なのである。
Y先生の豪華絢爛なお屋敷(かどうかは見たことがないので知らない)を拝見したら、
少しはやる気が出るのではないかと愚かにも思ったのだ。

ちなみに、こちらはストーカーだからYさんの住所も電話番号も知っている。
Y先生の信者やファンは大勢いるだろうが、
おそらくストーカーはわたしひとりのはずである(ニヤリ)。
家を出るまえにグーグル地図でYさんのご自宅の場所を何度も確認する。
溝の口駅の南口を出て、さびれた商店の並びに出くわしたところで思い出す。
ここはまえにも来たことがある。
旧友のムー大陸さんがたしかむかしここに住んでいたのではなかったか。
母がわたしの目の前で飛び降り自殺をしてから5年も6年も
知己ひとりとていないほど孤独だったわたしに初めてできた友人がかの人物である。
彼の家で酒盛りをした日から、もう何年が経つのだろう。
飲み屋や古本屋の並ぶアーケードを通過したが、どうやらこちらではないようだ。
南口に戻る。
パソコンで見た地図を思い返し、こちらに行けばいいのかと踏切に向き合う。
ああ、この踏切をY先生は何度歩かれたことだろう。
そう思うだけで胸に熱いものが込み上げるのだから立派なストーカーである。
踏切を渡ってからの詳細は個人情報保護のため書かない。
そうではなく、書けないと言ったほうがいいのかもしれない。

たぶん、ここらたりにYさんの家があるのではないかと思うところをひと巡りした。
しかし、どこにもないのである。
ああ、そうだ。たしかYさんは養子だから表札はIで出ているはず。
そう思って今度はIで探してみたのだが、どうしても見つからないのだ。
小さな郵便局があるから、ここに入ってさりげなく
「Yさんの家はどこですか?」と聞けば教えてくれるような気もするが、
訪問したいわけではないのである。
ただファン、いやストーカーとして家を見てみたい。
書き忘れていたが、わたしは溝の口駅の千円カットで髪を切っている。
聖地を訪れるのに失礼があってはならないと思って散髪したのだが、これが失敗だった。
ここまで切られたことはないというほど、髪を短くされてしまったのだ。
メガネをかけて自分の顔を鏡で見た感想は、まるで去勢された性犯罪者!
それほど怪しい面相になってしまったのである。
下作延の坂下を5、6度巡回したあたりで、雨が降り出す。
「不審者を見かけたら110番」の貼り紙を見て怖れをなす。
平日の昼間、こうしてY氏の邸宅を探しているわたしは
不審者以外のなにものでもないではないか。
激安床屋の鏡で見た、受刑者のようなおのれのいかがわしい面相を思い出す。
そこにランドセルを背負った小学生女児が現われる。
逃げ出したのはわたしのほうである!
結局、日本最高峰の脚本家Y先生のご自宅(外観)見学はかなわなかった。
それでも近くのスーパーに入って、感慨にふけったものである。
かならずやここにY先生も足を踏み入れているのだから。
ちなみに脚本聖地の物価は、意外と安かった。
うちの近くより全般的に数十円安いといったところか。

Yさんのお家がある反対側が、いまとても栄えている。
といっても、どこにでもあるようなチェーンの店ばかりである。傘を差しながら歩く。
目を血眼のようにして探す。なにか書くものはないか。
結局、9月末日締切の脚本コンクールに応募する作品は書けなかった――。
10月15日、溝の口の高津市民館大ホールに山田太一先生の講演を聞きに行く。
テーマは「いま生きていること」。
以下に再現する講演会の内容は、すべてを未熟な聞き手の頼りない耳に依っています。
どこかおかしなところがございましたら、あらゆる責任はこの記事の書き手にあります。
とくにこの日は風邪を引いていたため自己の記憶力にあまり自信がありません。
山田太一さんはこの近くにお住まいなのでローカルネタが多く、
地名等あまた誤記があるかと存じます。先にお詫びを申し上げるしだいです。

弦楽四重奏団「タマーズ」のすばらしいご演奏のあと10分間の休憩を挟んで、
お待ちかねの山田太一先生による講演が始まる。

――僕はこの近くに住んでいまして、よくこのへんをふらふらしているんですが、
いつも、その、首を引っ込めて歩いているようなところがあります。
でも、震災がありまして、ほら、「遠くの親戚よりも近くの他人」とか言いませんか。
いざとなったときは助けてもらおうと思って(場内笑)、
今日はこうして断わりきれずに、このような講演をしているわけです。
下作延に小学校があるんですけど、そこの校歌をむかし作詞したことがあります。
その関係から、運動会、入学式と招待状が来るのですね。
何度か行ったこともあります。
すると、このあたりをぶらぶら歩いていますと、小学生から挨拶をされます。
こっちはいろいろ考えごとをして歩いていますから、
うっかり気づかないことがあるかもしれない。
そうしたらせっかく挨拶してくれた子どもを傷つけてしまいますでしょう。
そんなこともあって、僕は、なるべく目立たないよう、気づかれないよう、
この地元で、ほんと首を引っ込めて暮していますですね。

今日お話しするのは「いま生きていること」なんですが、
むかしTBSで「高原へいらっしゃい」というドラマを書いたことがあります。
音楽は小室等さんにお願いしました。
演出家の高橋一郎さんが、こんな提案をするのですね。
音楽に合わせて、毎回違った詩を流してみましょう。
そういうわけで谷川俊太郎さんに、その詩をお願いしました。
「生きる」というのは、そのときの詩のなかのひとつです。
これは「いま生きていること」という一文から始まるのですね。
いま生きているとはどういうことか、ひとつひとつ付け加えられていく。
あれはホットパンツだったかな、いや、ミニスカートだ(場内笑)。
いま生きていること、それはミニスカート。
こういうふうにいまがひとつひとつ増えていくわけです。
いま生きていること――。

3月の地震、それから津波はすごかったですね。
僕なんかは古い人間だから、戦争のころの焼け野原を思い出しました。
津波で、ああいうふうに一瞬ですべてなくなってしまうんですね。
ただこういうことを言うのは不謹慎かもしれませんが、唯一よかったなと思ったのは、
他国からの爆撃ではなかったことです。
もしですよ、あれが、たとえあの1/10だとしても、
他の国の爆弾にやられたのだとしたら、我われはもうその国を許せなくなったでしょうね。
いまの流れを見ていますと、もしあれが爆撃だったら、
もうこの国に戦争への抑止力はないと思う。
やられたらやり返せということで、とことんまでブレーキが利かなかったでしょうね。
津波に続いて原発の問題もありました。
どうなんでしょうかね、原発は。
コストがかかるのがわかってしまったのですから、やめればいいとも思いますが。
しかし、原発でまだ死者は出ていませんが、津波で大勢がお亡くなりになりました。
まったく不平等、無差別に人は死ぬ。津波であらためて気づかされましたですね。
いちばん大切なものはなにか?
この問題を我われは津波から突きつけられたような気がします。
生きていればいい。生きているというのがどのくらいすごいことなのか。
とはいえ、あれからもうだいぶ時間が経ちまして、我われはそうではないのですね。
生きているだけでいいとはあまり思えなくなっている。
どうしていい会社に入れなかったのだろう。うちの子はあの大学に入れたかったのに。
もうこんなことを思っていますですね。
小じわが増えた、あらどうしよう、なんて(場内笑)。
あの震災をテレビでしか体験していないものはとくにそうです。
これが東北の人だとまた話は違うのでしょうが。
テレビ体験は、すぐ熱が冷めると申しましょうか、どうしても我われは、
ただ生きていればいいとは思えなくて、
なんだかんだと虚栄心を問題にしてしまいますですね。
生きていればいいってわけにはいかない。

震災のとき、家族の絆、なんてこともだいぶ言われました。
ああ、家族が生きているということがどれほどありがたいか。
ふだんは、あいつ大嫌い、とか言っているのがですよ。
嫁と姑になると、殺してやりたい、とまで思っているのかもしれない(場内笑)。
それがああいう非常時になれば、がらりと変わってしまう。
非常時というのはそういうものなのですね。
僕なんかは子どものときに終戦を経験しましたが、あれも非常時でした。
爆撃で焼け野原になって、米軍が上陸してくるという。
すると大人は竹やりの訓練をしたりする。竹やりで米軍兵士をやっつけよう。
常識的に考えたら、竹やりなんかで米兵に勝てるはずがないんですけれど、
そんなことを非常時はやっていましたですね。それから、食べるものがない。
非常時というのはぎりぎりのときです。
ここにゴッホの絵がある。ここにお米がある。
どっちが大事かって言ったら、そりゃあお米なんですね(場内笑)。
そういうときはゴッホの絵なんかより、お米のほうがはるかにありがたい。
しかし、ぎりぎりのときは長く続きません。
そうなると、くだらないことを言い始めるんですね。
いま円高だから海外旅行に行こうか、とか。
韓流スターのだれそれが来るから見にいこうか、とか(場内爆笑)。

イギリスの作家がこんなことを言っています。
いや、こういう言い方はよくないな。E.M.フォースターという人です。
「いつも戦争があったら文化なんて育ちようがない」
こういうことを言う背景として、しょっちょう戦争をしているんですね。
しかし、どっかで終わっている。次の戦争までの「間」がある。
この「間」に文化が生まれているとフォースターは言うわけです。
ピカソもそうだし、ダビデやミケランジェロもそうではないか。
生きていれば幸せというのはたしかにその通りです。
しかし、「生きていれば幸せ」だけでは、文化は育たない。
隣のうちのゴミの出し方が最悪でほんと困っちゃう。
知り合いがタナボタで幸福になって、なんだかむしゃくしゃする。悔しい。
あんがい、こういう取るに足らない日常の不満から、
人類の文化なんていう大げさなものが発展しているのかもしれませんですね。
テレビで「なんでも鑑定団」という番組がありますでしょう。
骨董を集めている人がいる。あんなの津波が来たらどうなると思いますか(場内笑)。
いえ、きっと集めている人もわかっているんですよ。
おれ、いったいなにをやっているのだろう、なんて。
でも、集めてしまう。山のように集めてしまう。
これが人類の文化につながるのかもしれません。

震災が起こったとき、日本がひとつになって、
なんとかして被災者を助けたい、助けよう、という気になったでしょう。
あれはとてもいいことだと思いましたですね。
なかにはひねくれて、助けようとなんか思わなかったという人もいるかもしれませんが。
いまはともかく、そのときは、みんなが被災者を助けようと思った。
それはめったにない貴重な経験だったと思います。
テレビのコマーシャルでタレントが、
「みんな、ひとりじゃない」と呼びかけるようなものもありましたですね。
偽善じゃないか、と思った人がいるかもしれません。
それから、こういうこともありました。
スポーツで勝った人が言います。被災地に元気を与えたい。
歌で被災者に勇気を与えたいと言う人もいました。
元気や勇気は人から人へ与えられるものではないのではないでしょうか。
結局は被災した人たちが自分で取り組んでいくしかない。
ですから、元気を与えたい、勇気を与えたい、
ああいうのは、僕は、どこか上から目線のような気がしてむかつきました。
というのも、突き詰めたら人の痛さはわからないでしょう。
歯痛ひとつとっても、いっしょに痛むわけにはいきません。
それに、基本的に好意には文句を言えないというところがあります。
有名人が避難所に物資を持っていって言う。「みなさんを助けに来ました」
もしかしたら、被災者のなかには「どうしておまえにおれが助けられるんだよ」
と思っていた人もいたかもしれません。いや、いないかもしれませんが。
とにかく、避難所の人は「ありがとう」としか言えないのです。

(突如、長い沈黙。スイミングアイ=目が泳ぐ)
(場内ざわざわ)
(おそらく逐一その場で考えながら論理的に順序だててお話になっているから、
わずかな矛盾にもご自身が最初に気づいてしまい、こういうことが起こるのでしょう。
それだけこの問題は難しい=言葉にしにくいのかもしれません)

震災のときのボランティアはとてもいいと思いましたですね。
被災地に行ってボランティアをしたら「ありがとう」って言ってもらえたと喜ぶ。
「ありがとう」って言ってもらいたくてボランティアをした。
こういうボランティアはほんとうにいいと思いました。
どうしてかというとエゴが入っているからです。
漠然と「みんなを助けたい」というわけではない。
だいたい「みんなを助けたい」なんておかしな話ですよね。
「じゃあ、今夜おれを泊めてくれ」と言われたら、どうするのか。
「それは違う」とか逃げるわけでしょう。「そういう意味じゃない」とか。
「まずは日赤を通してくれ」なんて言うかもしれない(場内笑)。
震災があったからなにもしないというのでなしに、
フラメンコでもなんでも文化サークルでやるのはとてもいいと思いますですね。
フラメンコをすることで、広い意味で、社会がうるおっている部分があると思う。

(ここから少し溝の口、下作延界隈のローカルネタ続く)
話はがらりと変わりますが、ねじめ正一さんの書いた小説「荒地の恋」を読みました。
「荒地」というのは戦後、鮎川信夫、田村隆一、北村太郎らが始めた詩の雑誌です。
やはり詩を書く人というのは独特なものがあるのでしょう。
北村太郎が友人だった田村隆一の奥さんを取っちゃうのですね。
一方の田村隆一さんも負けていなくて、新しい恋人をすぐに作るのですが。
この本はほんと見てきたようなことを書いているので驚きましたですね。
で、田村隆一さんは恋人と同棲をするのですが、
それがなんと下作延なのです(近所なので場内どよめく)。
40年(?)まえの下作延になるのでしょうか。
田村さんは下作延をどう言っているのか。「こんなひどいところはない」(場内悲鳴)
そこまで言うことはないと思いますがね(ちなみに山田さんのお住まいもこの界隈)。
その後、田村さんは久方のほうに移ったのでしたか。
そこもよくないと言って、最後は鎌倉のほうに行ってしまいます。
それはちょっとないよな、と僕は思う。
パッと見ただけではわからないけれど、下作延にもいいところはたくさんあります。
近所にふたつ小さな公園があるけれど、あのよさはなかなかわからないでしょうね。
よく見ていると四季おりおり、ハッとするような美しさを見せることがあります。
溝の口駅の近くに踏切があるでしょう。あの踏切なんかもほんとにいい。
お爺さんが孫と踏切でぼんやり電車を見ている風景なんか心からいいと思いますね。
きっと孫が走る電車を見たがっているのでしょう。
「もう一本だけ見たい」なんて孫が言って、いつまでもふたりで踏切のまえに立っている。
こういう光景をいいと思いませんか? 僕は嫌いじゃないですね。
田村さんはわからなかったかもしれないけれど、溝の口のよさがいくらだってあります。

僕の家は、ほら、火葬場が近くにありますでしょう。
小さいころの娘から言われたことがあります。
「お父さんよかったね。死んだらすぐ行けるじゃないって」(場内笑)
溝の口のよさはそれだけではありません。
渋谷からほどほど離れているのもいいと思いませんか?
だって、渋谷に住んでいたら、ドアを開けたらすぐ渋谷になるわけでしょう。
そんなの渋谷に行く楽しみがなくなるじゃないですか。いつも渋谷なんですから。
渋谷に行くのに川を渡るのもいい(二子玉川のこと)。
というのも、川岸は建物がないから、鉄橋を越えるときぱあっと世界が広がる。
僕はもうずっとここに住んでいますが、すごい選んで買った土地ではないんです。
でも、よく言うでしょう。聞きませんか?
買うまえは欠点を探せ、買ってからはいいところを探せ。

多くのことはすぐにはわからないのかもしれない。
この「こと」というのは値打ちのことです。
多くのものの値打ちはすぐにはわからない。
だから、僕は、あれをおかしいと思うんです。
テレビで、タレントがなにかものひと口食べただけで「うまい」と言うでしょう。
あれ、おかしいですよね。そんなにすぐにわかるものか。
いえ、もちろん裏事情はわかりますよ。
「まずい」なんて言ったらディレクターから叱られちゃいますもんね。
とはいえ、ひと口たべただけで「おいしい」と言うのはやはりおかしい。
外国人が納豆を食べたときのことを考えてみたらわかるはずです。
すぐに納豆を「おいしい」と思う人はまずいないでしょうね。
だんだんと、ああ、こういうのも「おいしい」か、
とわかってくるようになるのだと思います。
なかにはいつまで経っても納豆を「おいしい」と思えない外国人もいるでしょうが。

僕は古い人間だからかもしれませんが、チーズ。
チーズなんか初めて食べたときは、なんてまずいもんだと思いましたですね。
こんなもん、ほんとにうまいのか?(場内笑)
そのうち少しずつ、ああ、こういうものなのかとわかってきましたが。
ワインもそうじゃないですかね。
いろいろなワインがありますけれど、最初からなかなかわからないでしょう。
だんだんと区別もわかってくる。違いもわかってくる。
急いでしまうとわからなくなると思いますですね。
どんどん軽薄になるばかりではないでしょうか。
万事がそうで、いまという時代は急ぎすぎる。
なでしこジャパンに国民栄誉賞が与えられましたが、あれは必要だったのですかね。
オリンピックまで待ってもよかったのではないか。
だって、国民栄誉賞なんて最高の賞でしょう。
逆にプレッシャーになるのではないかと思いますがね。
それに、あんなに早く国民栄誉賞を取ってしまったら、その先どうすればいいんです?
王さんといっしょだって、あんな若いうちから言われても、ねえ?
まあ、菅さんが辞めるまえになにか目立つことをしたかったのかもしれませんが。

長持ちしない時代を生きている、と思いますですね。
そうそう、アップルの偉い人が亡くなりました。
あれはスマホでしたっけ? すごい行列をしていました。
あれもこれも、すぐ古くなってしまう。愛している暇がない。
傷がついたりする暇さえないのかもしれません。
タレントの消費もすごいスピードでしょう。
科学技術が商売と結びついてしまっているから、変化がびっくりするくらい早くなっている。
新幹線が開通したとき、伊左衛門さんがこう言ったという話を聞いたことがあります。
新幹線はあっという間に目的地に着いてしまいますでしょう。
伊左衛門さんが言うには、「乗っている時間が短いのにどうして高いのか?」(場内笑)。
電車に乗っている時間が楽しいのに、
どうして時間が短くなったのに反対に高い料金を支払わなくてはならないのか。
価値観の問題なんですね。どこに価値を置くか。

若い人の本をたまに読んでみようと思って本屋に行くとないんですね。
アマゾンで探せばすぐに買えますよ、なんて教えてもらう。
でも、それは違うんです。探したいんです。探すプロセスを大切にしたい。
ある本を探しているうちに思いがけない本を発見することもありますしね。
かえってそっちの本に夢中になってしまって、
目当ての本は読まないで放ってあるということもある(場内笑)。
不便ということは、感情を育てると思いますですね。
食べ物だってそうでしょう。いまはお取り寄せグルメとかいって、なんでも食べられる。
しかし、なかなか食べられないからこそいいんです。
恋愛だってそう。
「好きです。つきあってください」と告白して、相手が「はい、いいですよ」。
これじゃ、つまらなくありませんか。
相手が「ちょっと待って」とか言ってくれたほうが、いろいろ考えますよね。
どうしようか。こうしようか。ああしようか。
こういう過程で感情が育っていくのだと思います。

手に入らないものが、我われをうるおしてくれるのかもしれない。
むかしの白樺派の人たちは、ゴッホの白黒の絵しか見られなかったそうです。
きっと思ったことでしょうね。いつか本物を見たいもんだ。
ところが、いまの我われはどうでしょう。
美術館に行かずともハイビジョン映像できれいに隅々まで見ることができます。
そこまでは見たくもないっていうくらいの細部まで見てしまいます。
実際に本物を見ても見ないようなところまでハイビジョンで見てしまう。
すると、どうでしょう。パリに行っても大して感動しない。
こんなもんか、なんて思ってしまう。
もしかしたら、到達するまでのじれったさがいいのかもしれない。
到達するまでいろいろ考えるのが楽しいのではないか。
たとえば、モナリザはほんとうに美人か? とか(場内笑)。
モナリザは美人なんですかね。
モナリザの微笑とか言いますけれど、あれはほんとうに笑っているのか。
ちょっと得体の知れないところがあると思いませんか。
しかし、わからないところ、得体の知れないところがいいのかもしれない。
いまはなんでもすぐにわかってしまいますでしょう。
わからないほうがかえっていいのかもしれませんね。
お経なんかも意味がわからない。
ただなんだかありがたいものだと思って聞いています。
それでいいのではないでしょうか。
意味なんか知っても、あんがい大した意味がないのかもしれない(場内笑)。
いや、わかりませんよ。意味があるのかもしれませんよ。
しかし、お経には意味を求めていないところがどこかしらありますよね。

わからないものを、わからないまま受け入れる。
人間関係なんかもそういうところがちょっとあるように僕は思いますですね。
ずっと逢わないでいるといい友だちっていませんか?
たまに逢うとすごくいい友だちです。
あんまりコミュニケートしないからいい友だちになっている。
これがひんぱんにコミュニケートすると友だちどころか嫌なやつになってしまう。
本当に言いたいことは言わない、という人間関係はいいと思います。
言いたいことがあるけれども、最後まで言わない。
じゃあ、どうするかというと黙ってそばにいてあげる。
がんばれ、とか言わない。黙っている。
沈黙は成熟した言葉なのかもしれない。
「黙っているけど、こいつ、なに考えてるんだ?」
と思われるだけかもしれませんが(場内笑)。
生身の人間というのは言葉どおりにはいきかせんからね。
ドラマを書くというのは、頭の中でいろいろシュミレーションしてみることです。
たとえば、そう、飲み屋で政治家を批判しているような人がいたとします。
なーに野田(首相)のバカヤロウ、小泉(元首相)のアホンダラ。
しかし、こういう人でもいざ町で小泉さんと向き合うような場面になったら違うんですね。
「ずっと尊敬してました」とか握手を求めたりする(場内爆笑)。
人間ってそういうところがありますよね。

むかしコンビニのドラマを書いたことがありますが、
最近になってまた改めてコンビニを取材したんです。驚きました。
泥棒、強盗、万引はしょっちゅうというんですから。
コンビニは1日に3回レジをしめるんですってね。
でも、ある現金と売っているものが一致しないのが当たり前というんです。
一致したら3人で拍手するというくらいめずらしいと聞きました。
年寄りのお客が警察に通報してくれと来ることもあるらしい。
万引をしていないのに、万引をしたといって警察に通報してほしいとお願いされる。
いちいち万引をするのも面倒だから。こう言われたんですって。
なぜかというと、刑務所に入りたいんですね。刑務所に行けば三食食べられますから。
これを聞いたときにはドラマに使おうと思いました。
こうしてばらしてしまったから興が冷めてしまいましたが(場内笑)。
いまはインターネットの情報が多く、
検索すれば「コンビニの事情」なんてすぐ出てくることでしょう。
でもやっぱり生身の声はすごいと思いましたですね。
生身の人間はちょっと想像の及ばないところがあります。

新しい情報に合わせていこう、合わせていこうとするのはよくないと思います。
これは僕が古い人間だからかもしれませんが。
日常からチョイスをする、ということをおぼえたほうがいいと思う。
僕はいまだに原稿用紙に手書きで書いています。
きっと鉛筆で書いて消しゴムで消すというプロセスが好きなんでしょうね。
適応が早すぎるというのもどうかと思います。
こうしたら効率よく早くできるという方法をどんどん押し進めていくとどうなるか。
仕事が早く終わります。余暇ができる。
今度はその余暇をどう効率的に埋めるか、なんて考え始めるとおかしくなってしまいます。
余暇を埋めるのが大変だ、なんて悩みが出てきてしまうかもしれません(場内笑)。
生身に適したスピードというものがあるような気がします。

いまの日本はどん底じゃないと思いますですね。
みなさんマイナスのことを言い過ぎるのではないでしょうか。
いまがどん底? ぜんぜんそんなことはありません。
病気になったら、病院に行って薬をもらえるでしょう。
病気になっても薬がない時代もあったんです。
むかしフランスでカミュがこういうことを言ったそうです。
「いまのフランスは地獄ではなく天国ではないか?」
というのも、当時の主流派はサルトルなんかで、サルトルはさかんに言うわけです。
いまのフランスは地獄だ、どん底だ、マイナスだ、ダメでどうしようもない。
またそういう意見のほうが大衆に受け入れられるのですね。
これとおなじことがいまの日本でも言えるのではないでしょうか。
震災のとき、コンビニから一斉にものがなくなったことがありましたね。
コンビニに所狭しとものがあるのが当たり前だと我われは思っていたから驚きました。
いまはもうすっかり戻って、お店に行けばなんでもあります。
いますごくいい状態にあると考えてみたらどうでしょうか。
どん底なんてとんでもない話で、むしろ天国に近いほうにいる。
いえ、そのせいでかえって文句を言いたくなるというようなところがあるのでしょうが。
しかし、文句というのは自分を棚に上げて言っているところがあると思います。
常に自分だったらどうか、を考えるべきです。
自分だったらどうかを考えたら、そんなに文句ばかり言えるものではないと思う。
東京電力が槍玉にあげられていますが、
もちろん原発にかかわってきた人は批判されなければなりませんよ。
でも、東電にも罪がない人がいるでしょう。
東電だからということでみんないっしょくたに非難するのはどうかと思いますね。
自分が東電の社員だったら、どうしていたか。

この「自分だったら」を考えることから自責の念というのが生まれると思いますですね。
生きているということは単純ではなく、善も悪もふくんで我われは生きています。
善だけでは生きていけないところがあります。
人の恋人を取った。保身のためにだれかを傷つけた。
どうしようもなくそういうことが人生にはあります。
いまの人はあまりにも自責の念を持たな過ぎるような気がします。
自責の念なんか忘れてしまえ。人間なんて図々しいもんだ。
こう開き直っている人が多く、それが当たり前のようになっている。
しかし、自分の傷つけた人が死んでしまったら、もう取り返しがつかないんですね。
あやまろうと思ってもあやまることができない。
ヘンリー・ミラーの「南回帰線」にこういうシーンがありました。
子どもが複数で石を投げるいじめをしていて、ひとりの子どもが死んでしまうんです。
だれの投げた石が当たったかはわからない。
小さい村のことだからなかったことにされてしまう。
でも、ヘンリー・ミラーとおぼしき少年はずっとこのことに悩んで生きていきます。
大人になってあるとき旧友と再会する。
そこで「むかしあんなことがあったな」と事件の話をするんです。
「あのことだけは忘れられない」と。
けれども、相手はそんなことがあったのをまるで憶えていなかった。
これだけの話なんですが、
自責の念を持っているというのは質のよい生き方だと僕は思います。
自責の念は、人間を知るよすがになるのではないでしょうか。
もちろん、そんな敏感じゃ生きてられないというのも、それはそうなんでしょうが。

(終了時間が近づく)
来年、俳優座で「日本の面影」が再演されます。
紺野美沙子さんがハーンの妻をやるそうです。
だから、いいかなと思って「日本の面影」の本をサイン会用に持ってきました。
本を売ってもいいと言われたので、とりあえず家にあるものから。
(ちなみに、もうひとつは最新小説「空也上人がいた」)

逆転の発想をするといいと思いますですね。
少し反対グセをつけるように意識しているといいのかもしれません。
いつもみんなとおなじように考えていたら、
いざというときにも戦争反対のような声をあげられなくなりますから。
それでは時間が来ましたので――(万雷の拍手)。

聴き手:土屋顕史(Yonda?)

(編集後記)
いつものことですが、山田太一先生がお話になっていないことも、
こちらの思い込みでだいぶ聞き取ってしまったのではないかという危惧を持っております。
もしご本人のお目に触れたら、「僕はこんなことを話していない」と怒られそうです。
そういうものだとご認識のうえ、どうかこの記事をお納めくださいませ。

(参考)過去の山田太一講演会↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2595.html
NHK「課外授業 ようこそ先輩」を視聴する。
今日登場する先生は前科一犯の芥川賞作家・西村賢太氏(44)。
授業のテーマは「私小説を書いてみよう」ということらしい。
兄事する西村先生のことをあまり悪く言いたくないのだが、氏はのっけから嘘をついている。
子ども相手に嘘をつくのは汚い大人だぞ。
私小説の書き方として西村賢太の教えるのが「自分のダメなところを書こう」――。
デタラメを言うな西村賢太よ!
私小説を書くこつは、いかにうまく嘘を書いて読者を騙すかではないか。
具体例を示そうではないか。
この番組で純真な子どもたちと穏やかに触れ合っている西村賢太先生の私小説から。

「ぼくは昔から子供とか小動物とか、そう云う類のものが大嫌いなんだ。
向こうからも好かれたことがないしね。
土台、子供なんてのはまともに話が通じるような手合いじゃないんだから、
殆ど白痴や狂人と選ぶところがないよ。
所かまわず糞小便を垂れるし、怺(こら)えもなく胃液を吐くし、
どうにも小汚くって始末に負えねえ。
甘い顔をみせると、どこまでも厚釜しくつけ上がってくるしな……
あんなにの可愛がって育ててる奴らの気が知れないぜ」(文庫版「小銭をかぞえる」P20)


人間のするマイナスの告白は、どうしてか真実らしく思われてしまうのである。
そこをうまく突いたのが私小説というジャンルだ。
たとえば、サラリーマンが会社に遅刻をしたとする。
「具合の悪そうなお年寄りがいたので病院まで付き添ってあげました」
よしんば、これが本当だとしても、間違いなく上司は信じてくれないだろう。
「うっかり寝坊してしまいました」と答えたら、あんがいおとがめもないものだ。
宿題を忘れた子どももおなじこと。
「宿題はやったけれど、弟がノートを間違えて持って行ってしまった」
こう教師に本当のことを報告しても、言い訳としか思われず、
かえって嘘つきだと軽蔑されてしまう。
反対に「宿題をするのを忘れました」と嘘をついたほうが、
「この次は気をつけるのよ」程度の注意で済むので気が楽だ。
繰り返すが、どうしてかマイナスの告白のほうが本当らしく思える。
これが私小説書きの要諦なのだが、西村賢太はいちばん重要なことを教えない。

「自分のダメなところを書こう」――。
学童たちは先生がたに「ダメなところを教えてください」と聞きに行く。
ここはたいへんおもしろかった。
男性教諭がまごまごして答えるのは、「会議中にときどき居眠りをする」。
えええ、本当にその程度かな。女子生徒を見て、欲情することもあるんじゃないかい。
もしここでこういう告白をしたら、とても本当らしく思えるはずである。
ふたたび、これが私小説の醍醐味なのである。
「先生のダメなところを教えてください」
健康的な若い女性教諭が答えていわく「朝寝坊をやめられない」。
クンニが好きな西村賢太はニヤニヤしながら「もっとどす黒いことを教えてもらおう」。
このように学童を煽るのだから、ここは本領発揮である。
「ゆきずりの男と何度か寝たことがある」
こういうダメな告白をしたら、とても真実めくのだが、彼女は小説家ではなく教師である。
女性の教頭先生は「掃除が嫌いなの。みんなに言わないでね」。
どうして教師は本当のことを言わないのだろう。
「校長が憎らしくて何度か意地悪をしたことがある」
こんなふうにダメなところを告白するのが本当の私小説なのだが。
校長先生にも、純朴な学童たちは質問に行く。
「校長先生のダメなところはどこですか?」
人格者ぶった校長の答えは「禁じられている油ものをつい食べてしまう」。
嘘をつけ。校長まで成り上がるために、どれだけの人をあなたは蹴落としたのだ?
卑怯な手を使ったのも一度や二度ではないのではないか。
お偉い校長先生が、かりにこういう告白をしたら私小説になるのである。
ちなみに、出世するとはどうしようもなく他人を蹴落とすことなのだから、
この校長先生がことさら悪人というわけではない。

こうして江戸川区の小学生たちは西村賢太の指導のもとに
私小説を書くにいたったのだが、申し訳ないけれど、どれもつまらなかった。
西村賢太は私小説の肝心なところを教えていないからである。
私小説のポイントは「自分のダメなところを書くこと」。
もうひとつは「嘘をついても構わない」――先ほど確認したことだ。
三つ目のポイントは、「他人をバカにすること」なのである。
友人や恋人の隠している、人に知られたくないと思っている秘密の欠点を、
これ見よがしに暴き立てるのが芥川賞作家・西村賢太氏の私小説作法ではなかったか!
西村賢太の小説のどこがおもしろいかといったら、
人をバカにするのが天才的にうまいからである。

1.自分のダメなところを書こう。
2.マイナスの嘘ならついても構わない。
3.自分のみならず他人の隠している欠点も暴こう。
以上3点が西村賢太の私小説作法だが、小学校で教えられるのは1のみであった。
私小説を書くメリットはまだあるのだが、これも先生はうまく教えていなかったのではないか。
自分のダメなところを針小棒大にデフォルメして書くとなにがいいのかといったら、
やたらと他人から「いい人」に思われるのである。
私小説の内容を本当だと思って作者に逢うと、実像はそうではないので好きになってしまう。
愛情乞食の私小説書きは、こういうことも計算して創作をしているはずである。
けれども、このテクニックはなかなか小学生に教えられるものではない。
したがって、西村賢太氏の先生としての資質を裁いているわけでは断じてない。
言葉は嘘である。なにかを言葉にした瞬間、それは嘘になる。
おそらく西村賢太や柳美里といった一流の私小説作家は、
この言葉の持つ虚構性を直観的に理解していると思う。
言葉が嘘まみれであるからこそ、辛い体験をあえて書くことによって人は救われる。
であるからして、この真理を私小説書きがみずからおいそれとばらすわけにはいかない。
私小説というジャンルは、言葉が嘘であることに支えられているのだ。
この番組をまとめると、結句、賢太兄貴の教えなぞ(もしあればの話だが)、
はなから人生経験の少ない小学生が、
教室でみんないっしょに仲良く学習できることではない、ということだ。
昨夜の風はそんなに強かったのだろうか?
朝目覚めたらベランダに干しておいた洗濯物がすべて落ちている。
見てみたら、洗濯物干しハンガーの根元から折れているではないか。
そのうえ物干し竿まで落下している始末。
ああ、洗濯すべてやり直しか。
洗濯物干しハンガーも今日買いに行き急いで洗濯をせねば着る服がなくなってしまう。
ひと晩中ゴホゴホ咳込みながらウトウト眠りを繰り返してようやく朝になったらこれか。
最近、お気に入りの言葉を呪文のように繰り返す。
うまくいかないのが当たり前。
あきらめが肝心。
世の中、こんなもの。
人生、そんなもの。
人生にいいことはない。

なーんか意気が上がらんな、と思ったそのとき、
創価学会用語の「転重軽受(てんじゅきょうじゅ)」を思い出す。
「重きを転じて軽く受く」――。
本来の意味は過去世や来世が出てきて、なかなかオカルトちっくで素敵なのだか、
かんたんに言い換えてしまえば、
本来はもっと重い不幸が舞い込むはずだったところを運よく軽い災難で済んだ。
日蓮仏法の教える転重軽受は、世知辛い今生を騙し騙し生きるためのうまい智慧だ。
まあ、階段から転げ落ちて身障者になることに比べたら、このくらいの災難はなんのその。
人生、ついている。わたしはまだ運がいい。映画「東京物語」の世界だ。
笠智衆の声色をまねてゆっくりと口にする。
「欲を言ったら切りがないもんな。わしらはまだ幸せなほうじゃよ、なあ?」
と隣を振り向くが、わたしには同意してくれる愛妻がいなかった。

「ようこそ先輩 課外授業 西村賢太」を見終わったら、
病身を押して大型スーパーまで自転車で走るか。
ついでに洗剤やトイレットペーパーも買っておかなければ。
それから行くのが、高津市民館で行われる山田太一先生の講演会。
しかし、いま宣伝チラシを見たら、山田太一さんの講演はたったの25分か……。
そのまえに室内楽の弦楽四重奏タマーズとやらの演奏が40分もある。
貧乏人だった親の見栄で3歳からバイオリンを習わされたのが悪影響しているのか、
クラッシック音楽ほど嫌いなものはない。
聞いているだけで体調が悪くなることさえときたまある。
とはいえ25分間の山田太一講演会のまえにクラッシック音楽があるのだから聞くしかない。
言っちゃ悪いけれど、たいていのお芝居や演奏会の主役は壇上に上がる人たちだよね。
観客は脇役でしかない。芝居や演奏会を成立させるために必要な大道具のひとつが観客。
とりわけ演劇のお客は、
観客役というエキストラをボランティアでやってあげていると思わないと精神的に辛い。
演劇チケット代金はスリに遭ったと思えば、とこれまた転重軽受を利用するのがいちばんだ。

騙し騙し生きる。

これが三十路半ばまで人生なにひとつ思いどおりにならなかったものが到達した結論だ。
やはり死んではならないような気がする(そのあいまいな表現はやめなさい!)。
ならば、騙し騙しにでも生きるほかないではないか。
なかには成功者の二世や三世で極楽人生をエンジョイするものもいるのだろうが、
ああいう人たちもなってみればいろいろ辛いことがあるはずだ、と自分を騙す。
20代のころは山田太一ドラマを見ても、
「人生、こんなもんじゃない」と不服だったが、いまでは違う。
「人生そうだといいねえ」「そうかもしれないねえ」と自分をうまく騙すための参考にしている。
「人生にいいことはない」と見切ったうえで「人生も捨てたもんじゃない」と自分を騙す。
日本一の山田太一研究家を自称する我輩が、
インドで釈尊が悟ったのおなじ年齢にして、とうとう行き着いたところの人生作法である。
騙し騙し生きる。騙し騙し生きよう。騙し騙し生きるしかない。

(追記)雨まで降ってきやがった。これでは自転車は無理。もうあきらめよう。
午前中病院に行き抗生物質をもらう。診療費1010円、薬代610円なり。
NHK「スタジオパークからこんにちは」を視聴。
今日のゲストは芥川賞作家の西村賢太先生。
小太りの薄汚いオッサンもNHKに出ると、
ひとかどの人格者のように見えてしまうのが不思議。
高学歴・高収入の美人アナウンサーに「生放送は初めてですか?」と聞かれ、
「ナマは好きなんですけど、生放送はね。いや、ナマは好きなんですよ」
と自己のキャラをニヤニヤしながら強調する賢太兄貴は場慣れしており、
まるであたかもタレントのよう。
怪しいのは最初のひとコマだけで、
あとはすっかりNHKの美談力に西村賢太も負けてしまう。
日本のマスメディアの偽善臭さは相当なものだが、
その最たるものはNHKの美談力ではないか
なんでもかんでも美談に仕立て上げてしまうNHKのパワーには恐れ入る。
そういえば不倫大好きでだれとでも寝る
(を真偽はともかく売りにしていた)私小説家・柳美里も、
偉い先生としてNHKによく出ている。
おなじように女をボコボコに殴り蹴飛ばし、借りた金を返さないロクデナシが、
NHKの番組では苦労のあげく成り上がった名士のようになってしまう。
偉大なるかなNHKの美談力!
視聴者からの質問コーナーでも穏当なものばかり。
「NHKの受信料は払っていますか?」なんて質問が取り上げられたらおもしろかったのに。
受信料なんざマジメに優等生然として支払っているのがばれたら、
今後お得意の無頼芸もしょせんは八百長と見透かされてしまうことだろう。
明日朝9:30から西村賢太の「ようこそ先輩 課外授業」が放送されるとの番宣を報じて、
NHKの美しく為になる有意義な午後のひと時は終了する。
大学の同期でNHKに入社した政治家秘書の娘だという美女をふと思い出す。
もう名前は忘れてしまったが、いまごろ出世していい思いをしていやがるんだろうな。
毎日うまいものを食べ、友人にも恵まれ、かならずやだれからも羨まれる結婚をしている。
けっ、おもしろくねえな、とゴホゴホ咳込む。
負け癖のしみこんだ身体がカッカと熱いのは自分を評価しない社会への怒りからではなく、
もっぱら風邪による高熱のためである。
朝から喉が痛くて風邪っぽかった。
歯医者への電話でしくじりをする。
「定期検査をお願いしたいのですが」と言いたかったのだが、
持病のどもりの調子がとても悪く、どうしても「て」が出てこない。
ふふふ、だいぶ怪しまれてしまったよ。
ああ、この不幸の味わいよ、マイナスの感触よ!
常にわが人生につきまとっていたものである。
吃音症に真剣に悩んだら何百万円も業者に吸い取られるはずだ。
心理療法、催眠療法、吃音矯正術、新興宗教――。
こちらはことどもりに限っては完全にあきらめているから、まったく動じるところがない。
「どもりを治す方法がありますよ」に「治らなくてもええがや」と正面から応じられる。
人から誤解される屈辱感、このままならぬ人生の苦味のうまさといったら!
まあ、マゾですな、あはっ。

日本酒の熱燗で夜をはじめる。冗談半分、体温計ではかってみたら38.1℃!
くうう、完全な風邪じゃねえか。
まいったな。15日の土曜日は山田太一先生の講演会があるというのに。
前売り券で買っておいたのを少し後悔する。
調べてみたら当日券でもぜんぜんOKの模様。
だったら、あの振込み手数料はよけいな支出だったのではないか。
百円やそこいらにもマジになれる三十路のオッサン、ちょーカッコイイと思いませんか?
明日は病院へ行って酒も絶ち山田太一講演会に備えるとするか。
いんや、明日のことは明日決めればよろしい。ケセラセラであります。
「掌(てのひら)の酒」(藤本義一/たる出版)絶版

→酒にまつわる短編小説が36編収録されている。
もちろん、お酒をのみながら読んだ。そのうえ――。
あとがきを読んでみたら、どの小説も藤本義一氏は飲酒しながら書いたというのだから。
若輩が偉そうに失礼だが、氏はお酒の味をよくわかっておられると感心することしきり。
どの小説も見事に酒の味わいをさまざまに表現していた。
「人はどうして酒をのむのか」という問いへの無数の解答が小説として描かれている。
むろん、作家は答えがひとつではないことを熟知している。
もしかしたら答えなどないのではないか、というところまで掌編小説に匂わせていた。
どこを引こうか迷ったが、最終回の解答例から。

「さあ、この『掌の酒』も最後になった。
なにを書いて最終にしようかとこの一週間ほど考えていた。
やはり、酒についての話がいいだろうと思い、
あれこれ過去の酒を思い出してみたが、どうも愉快に飲んだ酒のことよりも、
しみじみ飲んだ酒とか、悲しく飲んだ酒のことばかり脳裏に浮かんでくる。
自棄酒は飲まない主義を学生時代から四十年間つづけてきたつもりだが、
愉快酒の記憶は霧散して、酒の底に沈殿している記憶が
小さな気泡になってグラスや盃の底から浮き上がってくる」(P264)


酒は人生のいろいろな味を教えてくれるということである。
悲嘆、悲哀、無念、悔恨、慙愧、失意、絶望にも固有の深い味わいが、しかとある。
もしかしたら愉快酒よりも、その反対の酒のほうが深く人生を味わえるのかもしれない。
だとしたらより人生の味をよく知っているものは、あるいは――。
掌編小説に登場するのは、あまり人生でうまくいかなかったものばかりである。

シナリオ・センターはカルトでしょうか? 答えは、カルトではない。
なぜなら宗教法人ではないからです。
しかし、シナセンにはカルト的なところが少しあるので指摘してみます。
カルト団体に迷惑するのは本人ではなく家族なのです。
シナセンの生徒の家族は迷惑しているかもしれません。

あのスクールは主婦が多い。
旦那さんのなかには「やれやれ」と苦い思いをしている人も多いはず。
なぜなら、主婦が家事をサボるようになるからです。
会社から疲れて帰宅したら、夕飯の準備ができていない。
文句を言ったら、「20枚シナリオを書いていたのよ」と言い返される。
「おいおい、いい歳をして本気でプロになれると思ってんのかよ」と言ったら、さあ大変。
逆襲されてしまいます。
「講師の先生は、あきらめなければかならずプロになれるとおっしゃってるわ」
このくらいならまだいい。
「あなたに夢はないの? フン、夢がないってかわいそうな人生ね」
こんなことを言われたら奥さんを殴りつけてやりたくなりませんか。
20枚シナリオが夫婦喧嘩の原因になるのです。
シナリオのために子育てをないがしろにする主婦もいるでしょう。
「夢に向かってがんばれ!」と叫ぶだけの団体はいい気なもんです。

しかし、このケースはもう立派な大人ですから、まだ許されるのかもしれません。
もっと困るのがシナセンの宣伝を真に受ける学生さんです。
きちんと就職すればいいのに、シナリオライターになると息子は言っている。
「無理なんだからあきらめなさい」と両親は常識的なことを言うでしょう。
「どうせ無理なんだから、就職しなさい」
しかし、子どもはシナセンに洗脳されています。
「夢を追うことの大切さを知らないあんたらは最低だ」
家庭内暴力をふるうお子さんもいるかもしれません。
ご両親はさぞ人の夢をもてあそぶシナリオ・センターを恨むことでしょう。
結局プロになんてなれないで、もうろくな就職先がないということになる。
子どもの人生を壊されたご両親はどれほど悔しいことか。

でもまあ、シナセンは料金が安いためまだいいのでしょう。
とはいえエホバの証人もかかるのは年に6万と聞きますから、
これならシナセンとあまり変わりありません。
もしかしたら、エホバは(輸血禁止の問題を脇に置いたら)
それほど悪徳ではないのかもしれません。
結論としては、プラスだけのことはないということでしょう。
カルト的な団体にもプラスとマイナスがある。
業界最大手のシナリオ・センターにもマイナスがあるように、
人から嫌われるカルト教団にもプラスの要素がある。
なにより夢と仲間が得られるというのはすばらしいことです。
しかし、夢(理想)は現実を台なしにする危険性を秘めています。
難しいとしか表現しようがありません。
「救いの正体 ポスト・オウムの新・新宗教&カルト全書」(別冊宝島461)

→アチャー、いま膨大な感想を書いていたけれど、うっかりミスでぜんぶ消えてしまった。
引用も多かったので、さすがにもう一度書き直すのは面倒である。
ならば、あきらめるしかない。
まあ、特定宗教団体についてもあれこれ論じていたので、もし公開していたら、
カルトの信者さんのお気を悪くしていたかもしれない。
これでよかったのだと思うようにしよう。
本書でライターの米本和広氏がカルトを以下のように説明している。
これがすべてになるのだろう。カルトの楽しさと怖さが、引用文に凝縮されている。

「カルトの最大の特徴は、絶対的真理があって、その真理をつかみ
実践しているのは自分たちだけという強烈な正統派意識でしょう」(P246)


カルト信仰は、本人は楽しいのだろうが、家族がいろいろと迷惑するのである。
異常なほど高額のお布施を要求するカルトがなんと多いことか。
いったいどうしたらいいのか。
信者が家族もカルトに引き込んでしまえばいいのである。……ごめん、冗談。
いや、本書には書かれていなかったが、そういう対処法もあると思う。
まあ、家族がカルトに入ったら本当に不幸だよね。
しかし、その不幸のなかにも味わいがあるだろうから、
うまくあきらめるところは運命や宿命だとあきらめて、
どうにかこうにか人生と折合をつけてくださいな。
結局はあきらめるしかない。
こう教える宗教があったら、そこはあまりお金がかからないでしょう。
いい宗教かどうかは人それぞれだからわかりません。
アー、記事が消えたの悔しいな。でも、あきらめちゃおっと♪

「お念仏とは何か」(ひろさちや/新潮選書)

→キリスト教というのは聖書の解釈をどうするかだから(西洋)学問的だけれど、
仏教はどちらかといえば創作になるのだと思う。
こういう事情があって、仏教には狂ったような量の経典があるのではないか。
正しいひとつの神がいるのに対して、仏は人それぞれで構わない。
どこかに絶対的に正しい仏がいるわけではない。
人それぞれ自分の仏を創作することが、信仰になるようなところがある。
仏教解説者のひろさちや氏はそれをよくわかっていて、
本書のなかでも怪しいことを2回している。

「そういえば、こんな話があります。
何の本で読んだのか忘れてしまったのですが」(P127)


こういう前ふりをもって語られる仏教説話はほとんど創作でしょう?
だからいけないと言っているのではなく、むしろこれが正しい仏教信仰なのだ。
あなたも「そういえばこんな話があります」と自分の話を創ってしまっていい。
というよりも、そうやって自分の仏様のお話を創作することが信仰になる。
本書でひろさちやさんは念仏の正しさの根拠を法然でとめている。
どういうことかと言うと、あれだけ優秀な法然の教えだから正しい。
あの親鸞でさえ慕っている法然が発見した念仏なのだから正しい。
この段階で論考をストップさせている。

わたしに言わせたら法然もまたおなじことをやったのである。
法然いわく「そういえば、こんな話があります。お念仏の話です。
何の本で読んだのか忘れてしまったのですが」――。
学問的には法然は、善導、源信、無量寿経を拠りどころに念仏を創作している。
しかし、それはミックス思考で、
基本は「何の本で読んだのか忘れてしまったのですが」に近い。
マーケティングの言葉で言えば、
法然は自分をブランディング(ブランド化)したということになる。
我われが法然のような偉人になることはできないけれど、
たとえ稚拙でも自分の話を創ってみるようにしたらいいのだと思う。
自分と仏様の関係のお話を創るのが仏教信仰だ。
別に仏様でなくても構わない。阿弥陀仏や法華経と「私」の話でもいい。
自分のお話がうまく創作できたときに、人はある種の救いを感じ取るのだろう。
救いとは騙しである。自分の創作話で自分を騙しながら生きていけばいい。
創った話で他人をも騙せる(救える)ものがときに新興宗教の開祖になったりする。

「図解雑学 構造主義」(小野功生監修/ナツメ社)

→構造主義でも脱構築でもいいけれど、
とどのつまり数値化できないところの思想はしょせん言葉の羅列に過ぎず、
じゃあ言葉が数字のように万能かと言ったらそうではなく(4は万国共通で4!)、
哀しいかな言葉の意味は人によってそれぞれ異なるのだから、
あらゆる現代思想なるものは常に後代から批判されるためにあるものになり、
ということは学問(正誤)ではなく趣味(好き嫌い)の世界なのだと思う。
この国の平均寿命はとても長いので、趣味のジャンルが増えるのはいいのではないか。
なーんか現代思想とかさ、人をバカにするためにある気がする。
いや、それでいいの。人間に他人をバカにするより上の楽しみはそうないのだから。

話はズレるけれど、真理があるということがそもそもフィクションだったらどうする?
きっとなーんにもないんだろうな、あはっ。

「図解雑学 こんなに面白い民俗学」(八木透・政岡伸洋:編著/ナツメ社)

→どうでもいい雑学ばかりと不満だったが、
考えてみれば図解雑学シリーズなのだから、これでよいのだろう。
「うちの父が死んだのは」「うちの雑煮は」「うちの嫁姑は」といったように、
執筆陣の自分語りがたまに挿入されるのでウザッと思った。
とはいえ民俗学は要するに田舎もんの珍妙な行動形式をルポするだけだから、
デタラメだらけの社会提言をやらかす社会学や精神医学に比べたらはるかに無害である。
役に立たないのが文系学問たる証なのだから、
ことさら役に立とうとする社会学や経済学のほうがおかしいのだろう。
よほどジジババの定年後の趣味として使える民俗学のほうが有益である。

呪いは因果関係が証明できないので犯罪ではないというくだりがおもしろかった。
呪いの効果はわからぬが、
コンクールや新人賞の審査員なぞやっているものは健康診断をサボるなよと忠告しておく。
現代は食生活が豊かになったので、
ハレ(非日常)の感覚が持ちにくいという指摘はたしかにそうだと思った。
むかしは自家製のマヨネーズやカレーライスごときで子どもは歓喜昇天したのである。
そう考えたらいまの子どもを非日常的領域まで喜ばそうと思ったら、
そうとうに難しいのではないか。
イスラーム諸国の断食などは胃に直接訴えるから、とても効果的な宗教行為なのだろう。

「図解雑学 裁判員法」(船山泰範・平野節子/ナツメ社)

→裏話のたぐいがまるでなく、建前ともいうべきデータのみなのでつまらなかった。
図解雑学シリーズなんざ新書も読めないような白痴低能のための、
言うなれば大人の絵本なのだから、もっと読者様に奴隷のように尽くしてほしかった。
いまや書籍は上から知識を伝達するためのメディアではない。
なんとかしてご購入いただくための商品なのだ。
正しいことが書いてあっても、おもしろくなかったらダ~メ。

裁判員法に夢のようなものを抱いているものがいるかもしれないので、
退屈しのぎにそれを崩しておこう。
そもそも裁判員に選ばれるのは5547人に1人。
犯罪に巻き込まれる確率とおなじくらいではないか。
選ばれないのは宝くじに当たらないのとおなじ。
そして、あなたの判断で殺人事件の容疑者が無罪になるようなこともないと思ってよい。
いままでの裁判において被告が無罪になるケースは1万件のうち1件。
かならずや裁判員制度においても過去の流儀が踏襲されることだろう。
まあ、裁判なんて法治国家であることの形式的アリバイのようなものかと思われる。
万が一裁判員に当たっても、大したことはないのである。
なにが言いたいのかというと、残念ながら人生に劇的なことはありません。

「損する生き方のススメ」(ひろさちや・石井裕之/フォレスト出版)

→長年のひろさちや氏への疑問が少しばかり解けたという錯覚を持つ、
ひろ氏は経歴を見るかぎり順風満帆というほかない人生を送っているのである、
というのも、だれもが大学教授になんてなれるはずがないのだから。
ひろさちや先生は、結局のところ子育ても成功したようだ。
氏のものを書く基盤はどこにあったのか。
世間知らずで鈍感なわたしも、この本を読んで、いまさらながら事情を理解したしだいだ。
これは邪推かもしれないが、おそらく、
ひろさちやさんの奥さまとお母さまの関係がことさらうまくいかなかったのではないか。
嫁姑の関係に苦しんだことから、ひろさちや氏は一般書を濫作するようになった。
たぶん嫁姑問題はひろ氏のご母堂がお亡くなりになるまで解決しなかったのだと思う。
ひろ先生の恩人であるお母さまが永眠されることで皮肉にも奥さまのお悩みが解消した。
人生、こんなもの。人生、そんなもの。
こういった事情(憶測)から、ひろさちや氏の発言を見るとやけに真実味が感じられる。

「お姑さんのことを一所懸命考えたお嫁さんが、
たとえばウナギをご馳走しようと思って買ってきたり、いろいろな気配りをする。
そうした配慮が過ぎると、
「私はここまで尽くしているのにお義母さんは少しも私のことを分かってくれない」
と腹が立ってくるわけです。だったら尽くさなければいい。
「どうせ、うまくいきっこないんだから」
と思っていれば、案外うまくいくこともあるわけです。
だから私は問題を解決しようとするなといっているわけです」(P50)


多くの人が潜在意識的に他人とは違う生き方をしたいとどこかで願っている。
なら、どうしたらいいのか。そのとき重要なのが「損する生き方」なのだろう。
いまの日本人はみながみな、損をしないように気を配って生きている。
だから、「損する生き方」をすれば、
必然的に人とは異なる自分だけの人生を味わえるのである。

「そんなこと、気にするな」(桜井章一/廣済堂新書)

→むかしの日本人は生まれ落ちたときに親の姿を見て、
まあ自分の人生もこの程度だろうと早々とあきらめたのだと思う。
これは財閥の子として生まれたものにも言えて、
むかしなら名家のお坊ちゃんがニートやヒモになるなどとても許されなかった。
これとは対照的に、いまの日本では建前上はみんな自由で平等ということになっている。
だから、どんな生まれのものも等しく成功競争に参加しなければならなくなる。
ところが、現代日本人の大半は成功しようと努力したあげく成功しないで終わる。
ここからが逆転の発想である。成功しようとがんばっても99%が成功できない。
ならば、あえて失敗しようと生きたらどうなるだろうか?
こちらも狙ったように、思ったとおりに失敗できるのだろうか?
いまわたしは人生でこの実験をしているのかもしれない。
そんなときにベストセラー作家の雀鬼さまの言葉は自分を騙すのに都合がいい。

「もし、あなたが少しでもいまより幸せな人生を送りたかったら、
お金に限らず、あらゆるものを「欲しい、欲しい」と思わないこと。
そして、欲をかかず、「いまが一番幸せだ」と思うことだ。
そうすれば、いつだって、幸せな気分でいられる。
これだけ言ってもまだ不安な人には、こう言えばわかってくれるだろうか。
あなたが欲しいと思っているものは、欲しい時には決して手に入らない。
欲しがらなくなった時に手に入る。だから、欲しがるな、と」(P105)

「願えば願うほど、欲張れば欲張るほど、欲しいものは手に入らない。
逆に、欲しがらなければ入ってくる――。このことをあなたに、
これからの人生を生きるうえで、ぜひ知っておいてほしいのだ」(P133)


毎朝目覚めたときに「ほしがりません」と叫べば人生が少しは好転するのだろうか?

「一私小説書きの弁」(西村賢太/新潮文庫)

→西村賢太はこの随筆集で倉田啓明なる異端作家を「ポジティブな性格破産者」
と評しているが、これは平成の私小説書きにも共通する魅力ではないか。
西村賢太がなぜ好きかと言ったら「ポジティブな性格破産者」だからである。
「ほぼ犯罪者の本性」を隠し持っているのもよろしい。
これはストリンドベリや奥崎謙三にも通じるところだろう。
常識はずれの奇行をして、まったく反省をしない厚顔な人間は笑え、いや美しいと思う。
ナチュラルに変な人を見ると胸のときめきをおさえられないところがある。
本書からたいへんな刺激を受け、こちらも「どうで死ぬ身」ゆえ、
「破滅への道行き」の終わりで華々しく「ラスト・ダンス」を決めてやろうと決意する。

先日両国で行われた藤澤清造の芝居に行った女から
生の西村賢太を目撃した話を聞いたが、
バリバリのビジネスマンのようなパリッとした衣服に身を包み、
横にはインテ~リジェントな編集者らしき男性をお供に従えていたという。
およそ著作からうかがえるイメージとは異なっていたらしい。むべなるかなである。
賢太兄貴にあこがれ「ポジティブな性格破産者」たらんと日夜精を出すこちらとて、
実像は変に明るいところがいささか気持悪いだけのありふれたオッサンなのだから。
しかし、バカヤロウとわたしは怒鳴った。
「このオカチメンコ、おまえの目は節穴だぜ。
はん、おまえさんのような苦労知らずのアマには賢太さんの正体はそらわからんだろうねえ」

「退屈論」(小谷野敦/弘文堂)

→ネットで評判の高い本書を退屈だと感じてしまったのは、
もっぱらこちらの知性が低いためだろうと思う。
おそらく著者を誤解しているのだろうけれど、
小谷野敦さんの文章の魅力はチンピラめいた躍動感にあるのではないか。
「退屈論」は博識自慢がえんえんとつづきおかしな重量感が増すばかりで、だからなに?
とファンにはあるまじき感想を抱いてしまった。ごめんちょ。
もしかしたら体験の差によるところが大きいのかもしれない。
こちらはあまり人生で退屈を感じたことがないのだから。
だから、なんだか皮肉めいて申し訳ないが、
この本を読みながら、ああ退屈とはこういうものだったのかと思い返したくらいである。
しかし、やはり小谷野さんの本は勉強になるとヨイショ、ヨイショ!
わたしが退屈を知らないのは、たぶん知識も経験も足りないからなのだろう。
なにも知らないから、その点幸福で、過度の退屈を味わわないでいられる。
人間は「知る」を無限大に延長、拡大しつづけてきた。

「そして、北極や南極に人が到達した後は、宇宙である。
今度は宇宙に存在する知的生命について、人々はさまざまな想像を巡らしたが、
こちらはほぼ一世紀ほどで、どうやら地球外生命体は、太陽系はもちろん、
銀河系にも存在しないらしいということが分かってしまったのである。
その後に来るのは、本当の退屈である」(P218)


しかし、それでも、人間はどうして生まれ、
死んだらどこに行くかはわかっていないのではないか?
むろん、だから退屈はないというのは詭弁になるが。
いや、小谷野さんくらいの知識人になると、そういうこともわかっているのかもしれない。
他人を自分という巻尺で安易に判断してはならない。
自分からは想像もできないような、偉大な人間だっているのだろうから。

「男にとって出世が最大の楽しみ」とは本書における指摘のひとつだ。
これはまったくつくづくそうだと最近実感している。
インチキ仏教書で自分を騙しながら女、友、富と毎日少しずつあきらめているが、
出世欲だけはどうにもこうにも煩悩の焔(ほむら)が消えないのである。
この煩悩をどうしたらいいかの回答を、
出世している小谷野さんの著作に求めても無理だろう。
宗教書の嘘八百でおのれを洗脳しながら、どうにかして断念していきたいと思う。
退屈よりもうらさびれた悲哀が似合う人生に生まれ落ちたのだから仕方がない。

「トランスパーソナル心理学」(岡野守也/青土社)

→自分を変えたいとは思いませんか? 
トランスパーソナル心理学を実践すれば、あたたもかならず変わることができます。
人間はニヒリズムやエゴイズムにとどまっている存在ではない。
だれもが高次の潜在力を内に秘めているのです。大丈夫。あなたは変われる!
いま苦しんでいるのではありませんか?
それはトラウマのせいですから、セラピーを受ければかならず治癒します。
トランスパーソナル心理学は新しい科学なのです。
この文章を読んでピンと来たあなたは「気づき」に入っています。
いらっしゃい、あなたは私たちの仲間だ。
これから霊的な成長が始まる。
ほら、耳をすませてごらん。
過去世のうめきが聞こえませんか? 宇宙からのメッセージが届きませんか?
さあ、シンクロニシティがあなたの周囲で起こり始める。
あなたは新しい一歩を踏みだす。

とまあ、トランスパーソナル心理学のいかがわしい世界へいざなってみましたが、
まさかこんな稚拙な勧誘に胸がときめいた人がいらっしゃいませんよね。
それ、そうとうヤバイですよ。
しかしまあ、著者のようにトランスパーソナル心理学にうまくはまることができたら、
こんな幸福なことはないのかもしれない。
どんな不幸も試練だなんだのと解釈できるものはサイコーに幸せなのだから。
「気づき」に入っていない人を穏やかに見下す優越感もきっと楽しいことだろう。
わたしは河合隼雄レベルのインチキならOKだが、トラパーは身体中が拒否感を示す。
ああ、「かわいそうな人ね」と霊的人間からあわれまれてしまうが、
こればかりは持って生まれたもののようでどうにもならない。
かなしいかな、ニヒリズムとエゴイズムの汚泥のなかで生きていくほかないのだろう。

「心理療法入門」(河合隼雄/岩波書店)

→いまはガチガチの因果論が日本社会で幅を利かせているわけだ。
因果関係ですべてを説明する風潮が非常に強い。
失敗したら、なにが原因なのだろうかつぶさに渡って検討され、
その原因を排除すれば次こそはかならずうまくいくとみんなが期待する。
しかし、現実はそんなにうまくいかないのが当たり前でまた失敗する。
このときも失敗した原因を強引に導きだし弾劾する。
具体的に言えば、いまの日本は不況だが、毎日のように原因探しがなされている。
そして、なにかいい対策をすれば、
その結果として不況がなくなるはずだとみなヒステリックに思い込んでいる。
しかし、物事の生起基準は本当に百パーセント因果関係だけなのだろうか?
夏が秋になったとき、その原因を発見しようとするのは愚かではないか?
このとき登場するのが因果によらない事と事の関係である。
共時性(またはシンクロニシティ)などと言われているが、とても危険な思想だ。
というのも、河合隼雄以外で共時性を口にする識者は、
失礼だがみなオカルトがかっているからである。精神病と思われる人もいる。
人によっては、河合隼雄でさえアウトと判定するものもいるだろう。

このように厳重に断わっておいてから、
因果によらない共時関係についての河合隼雄の言に耳を傾けよう。
共時関係とは、かんたんに言ってしまえば偶然のことである。
ある事が原因となってその結果ある事が起こるというのが因果関係である。
一方の共時関係とは、どのような事と事の関係なのか?

「何かと何かとが関係づけられる、というとき、
そこには非因果的共時的連関ということもあるはずである。
心理療法のような心の深層がかかわる場面においては、
それがよく生じると言っていいかもしれない。
しかし、ある事象とある事象をどこまで関連づけられるかは難しいことである。
クライアントが泣き崩れたとき、大雨が降ってきたら、それは共時的現象だろうか。
あるクライアントが自殺するかもしれないなどと思いながら電車に乗ると、
座席番号が42番であった。これは共時的現象なのだろうか。
何を馬鹿げたことを言っている、と言われるかもしれない。
しかし、普通の人なら決して注目しないような現象や、
笑いとばしてしまうようなことにまで、
すべてに気を配るほどの態度をもっていないと、心理療法はできない。
ほんの少しの緒から、
解決不能のように思えたことが急激に解決に向かうことがあるのだ」(P101)


共時関係に目を向けながら生きるとは、偶然を生きるということなのだろう。
言い換えれば、「私」の内部の意味関係を重視する。
たとえば、夢といったようなあまり生産性のないものに価値を見出す。
本書では河合隼雄がめずらしく自身のケースを語っている。

「ずっと以前のことであるが、私は何者かに後頭部を鈍器でなぐられて
瀕死の重傷を負う夢を見て、とび起きたことがある。
どうしてそんな夢を見たのか、いろいろと考えてみたが、
なかなか思い当たることがない。
夢の自己分析を断念して、朝刊の新聞を見ると、
原子力潜水艦入港反対のデモをした人の一人が、警官ともみ合っているうちに、
「後頭部をなぐられ重傷」という記事が目に入り、驚いてしまった。
これを見て、私もすぐに原潜反対に駆けつけたわけではない。
しかし、心理療法に入りこみすぎて、社会的状況について考え、
コミットすることを怠っていないかについて検討し、
少し自分の生きる姿勢を変えようとしたことを記憶している。
「後頭部への一撃」は、そのことが私の盲点になっていたのではないか、
ということをよく示していると思ったのである。
社会のことを無視して、心理療法は成立しないのである」(P194)


河合隼雄先生のお茶目なオカルト生活をみなさまはどう思われましたか?
この引用で完全に河合隼雄をアウトとジャッジした人も多いのかもしれない。
わたしはおのれの半生をかえりみて、夢に大した意味はないと結論づけている。
しかし、どのみち、どう転んだところでつまらない人生なのだから、
河合隼雄のまねをして夢といろいろ遊んでみるのもときには悪くない、とも思っている。

「ユング心理学と仏教」(河合隼雄/岩波書店)

→心理療法は受けたことも、受けたいと思ったこともない。
なぜならお金がもったいないからである。
だれかに1時間悩みを聞いてもらうのに、大金を払うという金銭感覚を持ち合わせていない。
ところが、いまようやくにして気づいたのだが、
わたしはこの11年の間いろいろな人に心理療法をしてもらっていたのではないだろうか。
もしかしたら心理療法は、
臨床心理士の資格を持ったものだけが行うものではないのかもしれない。
我われは意外とお互いに心理療法をしあっているのではないだろうか。
このことに気づいたのは、以下の文章を読んだからである。

「心理療法で最も大切なことは、二人の人間が共にそこに「いる」ことであります。
その二人の間は「治す人」と「治される人」として区別されるべきではありません。
二人でそこに「いる」間に、一般に「治る」と言われている現象が
副次的に生じることが多い、というべきなのでしょう」(P53)


一人はよくない。かといって、三人でもよくないのだろう。四人もダメだ。
二人がいいのである。二人がそこに「いる」ことがいい。「いる」だけでいい。
いつもでなくてもいい。たまにでいい。たまに二人で「いる」だけでいい。
これだけで人は治っていくのだろう。

では、「治る」とはなんだろうか?
本書によると河合隼雄のもとに来るクライエントの多くは「死にたい」と言うらしい。
これは経験したから理解できるが、
「死にたい」人といっしょに「いる」のはとても辛いことだ。
多くの女子学生がカウンセラーにあこがれるそうだが、その気持がさっぱりわからない。
「死にたい」人と向き合うのがどれほど苦しい仕事か知らないのではないだろうか。
というのも、臨床心理士は相手になにもしてあげられないのである。
ただひたすら話を聞いてあげるしかできない。これがどれほど苦しいか。
「生きてください」などと正しい助言をしたら、むしろ逆効果になる世界である。
そのうえ死なれてしまっては、本当に取り返しがつかないのだ。
さて、臨床心理士の産みの親、河合隼雄は「死にたい」人とどう接するか。
「治る」とは「死にたい」が「生きよう」に変化することである。
心理療法のただなかで、なにが起こっているのか。どのようにして「治る」のか。

「それ(=心理療法)は言語化することはほとんど不可能ではないかと思いますが、
あえて言語化するならば、たとえば死に急ぐ人に対して、
私の意識は「絶対に駄目」、「その気持はわかる」、「それではお先にどうぞ」
などというのを同時に経験しているのです。
そして、それらは「統合」することなどは不可能であります。
しかし、そのような矛盾をできる限りかかえて待つ姿勢を保つことが、
解決が生まれてくるのにはもっとも有効であると経験的に知るようになりました」(P182)


本当に「死にたい」人の気持がわかってしまうということは、
「お先にどうぞ」とまでときには思ってしまうことなのである。
しかし、同時に「絶対に駄目」とも思っている。
まさしく「一念三千」の世界である。「一念三千」に二人で入っていくのだろう。
そのとき「死にたい」が「生きよう」に変わる。
「生きよう」ではなく「生きるしかない」でも構わない。
一人がもう一人に逢いに行き、二人で「いる」ことで、こんな奇跡が起こる。
この奇跡を、学問として取り扱うのはどだい無理なのだろう。
河合隼雄が晩年ことさらインチキ臭くなるゆえんかと思われる。

「父親の力 母親の力」(河合隼雄/講談社+α新書)

→河合隼雄に逢いに行くクライエントはみな苦しんでいる。
苦しみの実質とはなにか?
思うようにならないこと、思うようにならなかったことである。
クライエントは心理療法家に訴えることだろう。どうしてと。
どうして(他の人ではなく)ほかならぬ「私」が苦しまなければならないのか。
(他の人ではなく)「私」はどうしたらいいのか。
とはいえ、河合隼雄にも正しい答えはわからない。
ただ質問者の正面でなにもしないでいる。「どうして?」にいっしょに向き合う。
弘法大師のように「同行二人」(P126)を体現する。
すると、いつしかクライエントは気づくのであろう。
クライエントは河合隼雄から答えをもらうのではなく、自分で答えを発見する。
その発見を言葉にしてしまえば、まことたわいもないものになるだろう。

「人生とはこんなものだ」(P29)
「人生なんてそんなものだ」(P30)
「しょせん人生なんて思いどおりにいかないもんなんだ」(P135)
「世の中なんて、たいていのことは自分の思いどおりにいかないものさ」(P136)
「人生というのはままならないものだ」(P167)


いまという時代は便利である。それも日に日に便利になっていく。
毎日のように新製品、新サービスが発表される。
便利とは、どういうことか。思いどおりになるということだ。
暑い夏でもエアコンがあれば、暑さを感じないで済む。
冷凍技術が発達したおかげで、いつでも四季おりおりのものが食べられる。
便利になるとは、なんでも思いどおりになるということ。
しかし、思いどおりにならないことも歴然としてあるのである。
それは苦しみではなく、いや苦しみなのだろうが、
まさにその苦しみのなかでしか味わえない楽しさがあるのではないか?
河合隼雄の主張することだ。

「いま、自分の思いどおりにいくことがありすぎる時代です。
お金さえあれば、だいたいのことができます。
ところが、いくらお金があっても、
絶対に思いどおりにならないのが家族であり、とくに自分の子どもです。
たとえば赤ちゃんがワーッと泣きだしたら、いくらお金をやったって泣きやみません。
しかも、赤ちゃんがどうして泣いているのかもわからない。
なんでも思いどおりになるときに、自分の思いどおりにならないことがあると、
それが必要以上のおびえになってきます。
「しょせん人生なんて、思いどおりにはいかないものなんだ」
と達観できていれば、ちょっとくらいのことではびくともしないけれど、
いまの若い人たちは、自分の思いどおりにならないと、なにかがおかしいとか、
とんでもないことが起こっているかのように思ってしまいます。
これは赤ちゃんがおかしいのか、自分がおかしいのか、
自分のやり方がまずいのか……そうやっていろいろと考えているうちに
わけがわからなくなって、赤ちゃんを投げつけたり、
叩いたり、蹴とばしたりしてしまうのです」(P135)


おそらく人生の不幸、不遇、災難も、いきなり泣きだす赤子のようなものなのだろう。
いくらお金を支払ってもどうにもならない。
やり方を変えてもどうしようもない。
「赤ん坊は泣くのが商売だから」と、ひたすら泣く赤子と動じずに向き合う。
すると、いつしか泣きやむものなのだろう。
よけいなことをすると、赤ん坊はさらに大きな声で泣くもの。

ならば、心理療法家のもとに相談に来るクライエントは、
たとえるならあたかも大きな赤ん坊のようなものなのではなかろうか。
そのとき心理療法家のする仕事とはいったいなにか。

「私が行っている心理療法というのは、農作物を育てるのに似たところがあります。
農作物を収穫するまでには、一定の時間が必要です。
こちらがいくら急いでも、その時期がこなければ、けっして結実しません。
私たちは苗を植え、施肥(せひ)、除草などをしたりしますが、
あとはすべて作物自体の力にゆだねるほかありません」(P231)


偶然だが、山田洋次が、脚本を書くという仕事について、おなじようなことを言っている。
なんでも師匠の橋本忍から聞いた言葉だという。
あるとき山田洋次が師匠に言う。
「脚本を書くという仕事は、実は町工場勤めの職人の仕事のような気がしました」
師匠の橋本忍は、弟子の言葉に首肯してから、こう述べたとのことである。

「――他の仕事に例えるなら、むしろ百姓仕事だろうな。
畑を耕す、種を蒔く、肥料や水の具合に気をつけ、天気を心配し、虫を除き、
作物が育っていくのを、祈るような気持でみつめる。要するに忍耐だよ。
脚本家にとって才能というのは、忍耐力のことじゃないかな」(「橋本忍 人とシナリオ」P426)


「銭ゲバ 1・2・5話」(岡田惠和/「月刊ドラマ」2009年4月号/映人社)

→ブックオフで拾ったシナリオ雑誌をトイレでパラパラめくっていて、
軽い気持で第1話を読み始めたらおもしろいので、
あっという間に2話、5話と進んでしまった。
シナリオ・センターの先生がたはプロのシナリオを読まないから、ここに書いておこう。
ふふふ、密告になるのかもしれない。
出身ライターの岡田惠和さんもシナセンのローカル・ルールなんてぜんぜん守っていない。
映像にならないことをがんがん書いている。

最近思うのは、読んでおもしろいシナリオほど映像にならないことがたくさん書いてある。
一流の脚本家はみなけっこう好き勝手に書いているのである。
またそこがおもしろい。シナセンというのは、おかしなスクールでね。
生徒にはやたら高圧的で「あれはいけない」「これもいけない」とルールを押しつける。
しかし、出身ライターには正反対の態度を取るのである。
卑屈に思えるほどペコペコするのだから、まあ、人間臭い学校だ。
立場が上のものには媚びへつらい、下のものにはことさら横柄に接する。
シナセンは人間味があるとも言えなくはないが、客観的に見たらそれ最低じゃね(苦笑)。

おっと、「銭ゲバ」の話をしましょう。テレビドラマの限界というのがあるのではないか。
このドラマの主人公は顔に傷がある醜男という設定なのだと思う。
でも、テレビでやる以上、主役はイケメン俳優でなければならない。
テレビではどうしてもブスやブサイクをメインにすることができないのである。
これはNHKドラマ「下流の宴」を観たときにも思ったこと。
ブスという設定の女性が、きれいすぎて原作とつじつまが合わないのだ。
したがって、このドラマはむしろシナリオのほうが楽しめるような気がする。
こちらはブサイクだから、どうしてもイケメン俳優にあまり感情移入できない――。

シナリオ「銭ゲバ」を読んで、シェイクスピアの「リチャード三世」を思い出した。
かの芝居は身障者の悪人が健常者に復讐をする話である。
とてもいまのテレビには乗せられないはずだ。
岡田惠和さんの「銭ゲバ」から山田太一的な冒険精神を強く感じたものである。
「切腹」(橋本忍/シナリオ作家協会)絶版

→映画シナリオ。生まれて初めて読んだ時代劇シナリオである。
時代物は苦手である。
小説でもなかなか読む気がしないのに、どうして台本のそれを読めるのか。
そろそろ時効だと思って白状するが、
ある事情で読まなければならなかった柏田道夫先生のシナリオ「武士の家計簿」
も実のところ読んでいない(内輪ネタすみませ~ん)。
だから、「切腹」は本当にいやいやページをめくったのである。
限界が来たらすぐに本を閉じる腹づもりであった。
ところが、読んでみたらおもしろくてメモを取るのも忘れたくらいなのである。
目を通した橋本忍シナリオのなかで最高傑作ではないかと思う。

氏に学んだ映画脚本術とは、1.原作があり、2.それを回想でどう映像に変えるか。
映画の主流はむしろオリジナルではなく、原作ものなのだと思う。
人間はいろいろだから映像オンチのわたしのように、
どうしてか頭の構造からして本が読めない人というのがいるのだろう。
そういう活字嫌いの人のためにあるのが映画ではないだろうか。
だから極論を言えば、本が読めるのなら映画は観なくてもいいのである。
現に評論家で劇作家の福田恆存氏は、映画など芸術ではないと言い切っている。
過剰な独白で知られる「ハムレット」の訳者でもある氏には、
言葉を軽んじた映画のおもしろさがつゆ理解できなかったのではないか。

映画脚本家は芸術家ではなく職人なのだろう。
自分から書くのではなく、他人の依頼品を作るものという意味である。
もうひとつ脚本家が芸術家にはなりえない理由がある。
というのは、かりに映画が芸術であるならば、
(映画は監督のものだから)監督が芸術家にならなくてはならない。
脚本家の役割は主人ではなく、あくまでも使用人ということだ。
このため映画監督や原作のちからが強いほど脚本家は職分を発揮できるのではないか。

橋本忍氏の仕事を見ていて、なんだかそのような思いを抱いた。
思えば「砂の器」「真昼の暗黒」のみならず、この「切腹」にも原作がある。
つまり、映画というのはとことんまで共同作業なのだろう。
ひとりではどうしても製作できない。
この性質上、土台となる原作があったほうがよろしいということになる。
なぜなら原作者と脚色者、ふたりの眼がシナリオに現われるからである。
根本にあるのは、所詮ひとりの人間が考えるのはたかが知れているという思想だ。
カメラ、音響、大道具、役者、エキストラ、たくさんの人が集まって映画が完成する。
ならば、土台となる台本もひとりではなく、ふたりで作っていたほうがいいのだろう。
小説、戯曲、絵画、彫刻、音楽――どれも作るのはひとりの芸術家である。
そう考えたら、たしかに福田恆存氏の言うように映画は芸術ではない。
おそらく映画監督は芸術家ではないのだろうし、
それならば、監督よりも下に位置する脚本家が芸術だのなんだの言うのは片腹痛い。

山田太一ドラマの熱狂的なファンがこれを言ってしまっていいのかとも思うが、
脚色の仕事こそもしかしたら脚本家の本分なのかもしれない。
このとき脚色の名職人である橋本忍氏の使う技は回想とカットバックである。
映画「切腹」において回想の使い方が天才的にうまい。
ある浪人風の侍が名門の井伊家を訪れるところから物語は始まる。
そう、この作品はほとんど物語と言ってよい。
侍は庭先で切腹をさせてくれと無茶を言う。
いざ腹を切るまえに侍は身の上話をするのだが、これが回想になるのである。
現在1→過去1(回想)→現在2→過去2(回想)→現在3……(延々と続く)。
とてもテンポがよくリズミカルといっていいほどスムーズに映像が展開してゆく。
小説ではできないことを映像がやってのけるのである。
最後に切腹をわざわざしに来た理由(真相)が物語られ、
時代劇恒例のチャンバラが映画を華々しく締める――。

「真昼の暗黒」」(橋本忍/シナリオ作家協会)絶版

→映画シナリオ。昭和31年度キネマ旬報ベストワン作品。
話は作品から飛ぶが、キネ旬のベストワンというのは相当に権威があるらしいね。
これからどの映画シナリオを読むかの参考にしようと思う。
現代人は膨大な過去作品の頂点にいるわけである。
かといって、すべての作品に目を通せるわけがない。
このとき参考になるのが権威ある賞なのだろう。

「真昼の暗黒」が高評価を勝ち得たのは、
実際の冤罪事件をモデルにしたからだという説もある。
先日とある本で知ったばかりの「八海事件」の再現ドラマ。
まだ裁判所で結審していない事件だったので話題性があった。
この映画のヒットにより、裁判への関心が高まったという。
この世論の後押しもあって後年無罪が明らかになったという事情を考えると、
この映画は世界を変えるという大役を果たした稀有なる作品なのだろう。
むかしの映画は世界を変革することもできたのである(いささか大げさな表現だが)。
いつからマーケティングばかり重視する「売れる映画」製作が盛んになったのだろう。
とはいえ、映像オンチゆえ映画についてなにかを語る資格はわたしにはない。

「真昼の暗黒」のテーマとなるセリフを引用する。
訴えたいことがあるから創作するという作家の純粋なモチベーションが感じられる。
いまはライターになりたいから(ライターでいたいから?)
シナリオを書くというものが多いような気がするので、
「真昼の悪魔」の創作姿勢はまぶしい。

植村(被告)「私達は無罪を立証して貰える材料があるからいいけど、
……世の中には本当は無罪でありながら、それが立証できないために、
無理矢理に地獄へ追い落とされる人間が相当あるんじゃないでしょうか」
近藤(弁護士)「うむ……一旦警察に捕まったらね、
絶対に自分はやっていませんという極め手でも持ってない限りは
助からないからね……しかし、日常の生活の中で
絶えずそういうことを心がけている訳にもいかないしね」(P203)


「砂の器」(橋本忍・山田洋次/シナリオ作家協会)絶版

→映画シナリオ。ふたつのシナリオ作法があるのだろう。
言葉で考えるやりかたと、もうひとつは絵から創作する作法だ。
シナリオは文字で構成されているからといって、脚本家は言葉のプロである必要はない。
絵のプロであれば、彼(女)もまたシナリオを書くことができるのだろう。
山田太一氏は言葉からの発想でシナリオを創作していると思われる。
だからセリフがとびきりうまい。
一方で橋本忍氏は絵からイメージしてシナリオを書いているのではないか。
このため、構成の美にこだわっている。
橋本氏とおなじ資質を持つ映像作家に、たとえば「裸の島」の新藤兼人氏がいる。
要するに、映画とテレビの違いと言ってしまってもいいのだろう。
テレビ脚本家がセリフに力を入れる一方で、映画脚本家は絵こそ命と考える。
シナリオ掲載本「人とシナリオ」に作者の自伝が載っていたが、
シナリオの大家に失礼とは知りつつも、よく意味がつかめないところが多々あった。
脚本家・橋本忍氏は言葉のプロではなく、絵の職人なのだろう。
絵の職人はセリフではなく構成(=映像の順番)に手腕を発揮する。
たとえば、氏のシナリオはとにかく回想処理がうまいのである。

映画「砂の器」は、このシナリオとは異なるものになっているという。
なんでも撮影後に後半部分のセリフを大幅に削ったとか。
おのれの書いたセリフを躊躇もなく消せるところがまこと映画人らしい。
絵のためなら言葉などほとんどどうでもいいと活動屋は考えるのだろう。
映画「砂の器」に、
らい病の父親と幼い息子が故郷を追われて日本各地を放浪するシーンがある。
現在のピアノ演奏とカットバック(=同時進行)になる有名なシーンだ。
シナリオではところどころセリフが入っているが、映像ではすべて捨てられている。
ユーチューブで実際に確認した。
映画ファンには、ここが感動のしどころらしい。
こちらは映像オンチだから、セリフのない動きだけのシーンは観ていて辛かった。
もしかしたら、本当の映画愛好者の評価する作品の台本は、
読んでも大しておもしろくないのかもしれない。
映画は演劇を祖先に持つのではなく、むしろ絵画を父母と見なすのが正しいのではないか。
というのも、映画で好まれるシナリオ作法に小道具がある。
「砂の器」で言えば、浜辺の砂山が小道具(象徴イメージ)になるのか。
砂の山を見て感動するのは、(芝居ではなく)絵画のファンであろう。
美しい絵を見て感動するのが、映画芸術の根本力学なのである。

「ローマの休日」(マガジンハウス)

→映画シナリオ。つくづくドラマとは騙しであると思う。
いかに相手を騙すかを考えるかがドラマ創作のこつのような気さえする。
これはふたつの意味があって、まず作者は観客を騙そうとしなければならない。
それからドラマの登場人物もお互いを騙そうとする。
騙す=嘘をつくというのは、おそらくもっとも人間的な行為なのだろう。
「ローマの休日」でアン王女は、おのれの身分を隠して相手を騙そうとする。
相手の新聞記者も職業を隠して王女と交遊を持つ。
いつ騙し(=嘘)がばれるかでドキドキさせるのが実にうまい。
騙されていたのがばれたあとも、人間は騙されたふりをして相手を騙すのである。
すなわち新聞記者のジョーは真相がわかったあとも、
スクープのために王女の正体に気づいていないように振る舞う。

まえの記事でシナリオ・センターで騙しの技術を学んだと書いたが、
あれは本心からかのスクールを絶賛しているのである。
思えば、シナセンの授業で「ローマの休日」の話を聞いてから、
実際に作品に触れるまで2年もの時間が経過してしまった。
シナリオ・センターはたしかにドラマの技術を知り尽くしていたと思う。
「ローマの休日」の話をしてくださった先生は実のところシナリオ作品がなかったのだが、
我われ生徒は壇上の女性を有名脚本家かなにかのように尊敬していたものである。
この先生と生徒の関係は、まるで「ローマの休日」のアン王女とジョーのようだ。
大人の関係というのは、この騙し合いのことを言うのかもしれない。
ならば「ローマの休日」は大人のドラマと定義することも可能だ。
身分の違いは、どうにもならないのである。
アン王女はジョーから頬と額にキスをされても身を投げ出そうとしない。
「ふたりは静かに離れる。彼女はゆっくりと感情を抑制していく」――。

「They gently come out of their embrace.
Slowly, she regains control of her emotions.」(P158)


「感情を抑制する」とは「あきらめる」「断念する」ことである。
「ローマの休日」は「人生こんなものだ」とあきらめる大人のドラマだ。
アン王女もジョーも、言うなれば勝利ではなく敗北の味を噛みしめる。
観客は人間の限界をアンやジョーといっしょに味わう。ここにこの映画の感動がある。
人生なんて、うまくいかないものだ。しかし、そこにまたとない味があるのではないか。
我われが「ローマの休日」から無意識的に受け取る教訓である。

アンとジョーは最後までお互いを騙し合い「本当のこと」を言わない。嘘をつく。
「本当のこと」を言えば、ドラマが終わってしまうのである。
たとえば「本当のこと」を言うならば、現実にはこんなことはありえない。
王女様とブン屋風情が恋をするわけがないではないか。
しかし、もうひとつ「本当のこと」を言わせてもらえるならば、
我われの現実は退屈でどこまでも味気なく、劇的なことなどなんにもないのである。
映画でもなければ、この砂のような味の人生に我われは耐え切れない。
映画や小説でどうにかこうにか自分を騙し騙し生きていくほかない。

JOE: Anya...there`s something I want to tell you...
PRINCESSS: No...please...nothing.


「いいえ…お願いだから…何も言わないで( No...please...nothing.)」
これは映画芸術の象徴のようなセリフだろう。何も言わないで!
「本当のこと」なんて聞きたくない。ずっと騙されていたい。
ああ、現実に映画のようなことがあると騙されたまま天寿をまっとうできたら!
だって、現実には本当になんにもないんだもの……。
大衆の夢を描くのが映画なのだろう。
しかし、「ローマの休日」は夢を描くばかりではない。
あきらめるという智慧を、それから断念の美を我われに教えてくれるのである。

「毒セールスの殺し文句」(日名子暁/ダイヤモンド社)

→副題は「最強の説得術、「騙し」の仕組みを一挙公開」……。
最近思うのは、人生とは結局のところカネではないだろうかということだ。
いままでいちばん認めたくなかった拝金主義に屈する寸前といってよい。
もし人生でもっとも大切なのがカネであるならば、どうしたらカネになるか?
「本の山」の知恵を結集して出した結論は、カネを得たいならうまく騙せ、である。
身もふたもないことを言うと、人生は騙すか騙されるか。
これは通っていた母校のシナリオ学校の影響も大きい。
もう名前を出してしまうと、シナリオ・センターから学んだのは騙しの技術である。
悪いことだと批判しているわけでは断じてない。
人が人を騙すことでカネを得るのが、おそらく資本主義というシステムなのだろうから。
たとえば就職面接。うまく面接官を騙したものが高給を得るわけだ。
たとえば企業経営者。夢を持とう等とうまく社員を騙せば人件費が安上がりになる。
たとえば営業職。他社と変わらぬ商品をいかに騙して顧客に売りつけるか。
たとえば居酒屋。原価50円程度の焼きうどんが700円でも歓迎される。
たとえば恋愛。いかに相手をうまく騙して自分の欲するものを手に入れるか。
たとえば小説家。現実とは異なるフィクションをうまく描けるのが人気作家だ。

シナリオ・センターをたとえにして騙しの技術を整理してみよう。
・まず無料で差し出す!
かの学校は無料講座や無料雑誌提供を好んでする。
人はなにかを無料でもらうと、どうしてかお返しをしたくなってしまうものなのだ。
・自分を変えたいと思いませんか?
人の悩みにつけこむのが騙し商売の秘訣である。
包茎で悩む男性をカモとする商売を詐欺と批判するなかれ!
シナリオ・センターのカモは人生の退屈や自己実現の問題に悩むアラサー、アラフォー♪
いまのままでいいんですか? 本当にいいんですか?
・いま申し込まないとせっかくの特典が!
これぞシナリオ・センターの常套手段である。
ときには余裕たっぷりの講座にも残席わずかと告知している。
みすみすチャンスを逃すんですか? 損をしてもいいんですか?
最強の騙しの技術である。
・資格をでっちあげる!
公的機関の認めていない資格を作るのがいちばんカネになる。
シナリオ・センターに入ったら、
なにか資格を得られると勘違いした人からコメントをいただいたことがある。
かの学校の最上級クラスの名称は「作家集団」。みなさんは「作家」なんですよ(笑)。
・権威を上手に利用する!
シナリオ・センター関係者が内館牧子氏や鈴木光司氏の写真をどれだけ悪用しているか。
鈴木光司先生と肩を並べている私は偉いんですよ、と経営者は周囲を騙すのである。
・人は一貫した行動をしたがる!
シナリオ・センターの8週間講座は激安だが、これが騙しの技術なのである。
かつて一度この学校を自分は選択したのだから継続しようと一貫性の法則に支配される。
結果ずるずると3年も4年もカネを支払い続けることになる。
・サクラほど有効な騙しの技術はない!
シナセンは「4人に1人はライターになれる」と騙しのブログを作っているとの噂を聞く。

いまはまだやっていないようだが、これをやれば最高に儲かるという方法を紹介しよう。
説明会の後、いま申し込めば割引だと説明する(これは実行済みでわたしも経験した)。
このときサクラをうまく使えばいいのではないか?
「私、入ります」「僕、やる」とサクラに宣言させる。
経営者や講師がその場で「そう、積極性のあるあなたはかならずライターになれる!」。
こう即答したら、勢いに従ってしまう(騙される)顧客が大勢出ると思う。
サクラは古典的だが、これからも十分に通用する騙し=カネ儲けの秘術だと思う。
もっとも効果的な騙しの技術は、たぶんサクラではないか。

さて怨敵(愛すべき母校でもある)シナリオ・センターとは離れて、
みなさまのお役に立つ話をしよう。
こんな情報を無料で提供してしまっていいのだろうか。
返報性の法則でかならずやこちらにも利益がまわってくると信じるがゆえである。
これからさらに儲かるのは健康商法だと思う。

健康商売はカネになる!

ぶっちゃけ、人間はそう簡単に病気にはならないし、死にもしない(確率的にはね)。
だから、健康商法(たとえば健康食品)はいいのである。
はっきり言えば、健康商品を使用しようが未使用だろうが健康は変わらないのである。
だが、使用者はおのれの健康を商品のおかげだと信じて死ぬまで継続してくれるだろう。
病気や死といった不安で脅せるため最初のセールスもそこまでは難しくないと思う。
「このままでは死ぬわよ」は新興宗教勧誘の定番文句だが、
健康商法はここまであくどくはないので売り手も心を病まずに済む。
少子高齢化社会。売れるのは健康。カネを儲けたかったら健康に目をつけるべし!

「わが青春に悔いなし」(久板栄二郎/「日本シナリオ文学全集5」理論社)絶版

→映画シナリオ。黒沢明監督作品。
すさまじいまでの左翼プロパガンダ(=宣伝)ぶりに腰を抜かしそうになったが、
昭和21年公開作品であることを確認して、かろうじてぎっくり腰になるのを防いだ。
おそらく、善と悪はかんたんに入れ替わってしまうものなのだろう。
宗教的な絶対的善悪の感覚にとぼしい日本ではとくにその傾向が強いのではないか。
戦中では悪であった左翼思想が、戦後には完全無欠の善になってしまうのだから。
「善は正しいから、左翼青年は格好いい」――。
これが黒沢映画「わが青春に悔いなし」のテーマである。
ふたつの行動基準がある。それは善悪と正誤のことだ。
「善=正」「悪=誤」と短絡的に結びつけられたところに、
旧時代の表現者の幸運があったように思う。
複雑な現代社会では「善=誤」「悪=正」もまた真実であることは周知ではないか?
この意味で牧歌的に「正しい善人」の美しさを描けた黒沢明は恵まれていたのだろう。
ヒロインの原節子は、正しい左翼活動をしている善なる青年のもとに嫁ぐ。
しかし、善人は官憲に拷問され死んでしまう(さあ、泣いてください!)。
すると、原節子は都会を捨て、夫の実家で清く正しい農作業に励むのだから。
まるで農村への左翼思想啓蒙映画のようである。

汗水流して働く農民は正しい! 
みんなの幸福を目指す左翼活動家も正しい!
原節子は美しいから正しい!
いつも周囲の顔色をうかがいながら生きてきた日本人にとって、
「みんなの幸福(=みんなのため!)」を訴える左翼思想は、
思った以上に親和性が高かったのではないか?
もはや映画とは関係のないコメントをすると、こちらはたいへんなアカ(左翼)嫌いだから、
日本の共産主義を折伏でぶっつぶしてくれた創価学会員に拍手を贈りたい。
日本で共産主義革命が起きなかったのは創価学会のおかげという説を読んだことがある。
底辺貧困者の不満は革命に向かわず、日蓮思想が吸収してしまったという説だ。
ともあれ、映画に話を戻すと、「わが青春に悔いなし」を読んだ感じでは、
この国で共産党革命が起きなかったのが不思議になるくらいである。
それほどこの作品には左翼固有の「真・善・美」が強く巧妙に打ち出されている。
このプロパガンダを大衆娯楽の映画で継続してやられたら、
大して思想などない日本国民はあっさりアカに染まってしまったことだろう。
あたかも戦時中には国民全員が天皇陛下を現人神だと思っていたように、である。

美しい原節子は、どちらの男を愛そうか迷う。
小役人かアカか。ドラマ恒例の「ふたつにひとつ」である。セリフを引く。

「例えばね……あなたの後からついて行けば、平穏無事な……
しかし……御免なさい……少し退屈な生活があると思うの。(……)
野毛さんについて行けば、何かギラギラした、目の眩むような生活がありそうだわ。
……怖いけど魅力よ、これは」(P61)


この部分は身勝手な理由からとてもいいと思う。
現代の日本女子は結婚相手にことさら安定を求めるのはどうしてなの?
年収500万以下はNGなんて、むかしのアカよりも恐ろしい主張をする日本女子!