三十代で気づくのはもしかしたら遅いのかもしれないけれど、
人生についてようやくわかったことがある。
それは――人生にいいことはない!
人生の不遇や不幸に苦悩している人が大勢いらっしゃるわけだ。
「どうして?」と思いながら毎日がんばって生きている。
だが、もしかしたらおおもとから人生を見誤っているのではないだろうか。
実際のところ、人生なんていいことがないのが当たり前なのである。
繰り返すが、人生にいいことはない。
テレビや本を真に受けるからいけないのだろう。というのも――。
テレビに出られる人というのは、めったにいない幸運な少数者なのである。
本を1冊でも上梓できる人間は、相当に恵まれた星回りの持ち主なのである。

人生、うまくいかないのが当たり前なのである。
99%の人間は、人生で成功も勝利も味わうことはない。
むしろ、なんにもないだけでもありがたいことなのである。
いつあなたの大切な人(家族、恋人、友人)が死んでしまうとも限らないのだから。
そもそも大切な人がいるだけでもかなり恵まれていると思ってよい。
家族との関係などうまくいかないほうが圧倒的に多いのである。
ひとりも友人がいない人間はたくさんいる。
恋人がかつてひとりでもいたというだけでも、かなり羨ましがられることなのだ。
いま五体満足でいられるだけでも、身障者から見たら嫉妬の対象になる。
ちなみにこちらは吃音者だから身障者枠に自分を入れている。
恐ろしいことにふつうに話せるだけでも、ある種の人からは嫉妬されてしまうのだよ。

人生にいいことはない。人生、そんなもの。うまくいかないのが当たり前。
おそらく1%以下だろう成功者の人生を夢見てはいけない。
なぜなら、大半の人間は人生でいいことなどないからである。
ほとんどの人間はろくなことがない人生を、自分を騙しながら送らなければならない。
なに夢を見ているんだい? 人生なんて、そんなものだぜ。あきらめようよ。
おっと申し訳ない、うっかり自分に語りかけてしまった。
しかし、みなさまも思いませんか? 人生にいいことはない。
どうしてと思うほうが間違えていて、人生にいいことはないのが圧倒的多数の人間なのだ。

ならば、どうしたらいいのか。
人生に期待しないようにしましょう。
深々とあきらめましょう。
早く見切りをつけませんか。
なぜかというと、そうしたほうが人生で苦しまないで済むからであります。
ブッダは人生の真相を苦と見極めた。
苦と漢訳された原語の意味するところは、思うようにならないこと。
人生は思うようにならない。人生にいいことはない。
なんだかんだと死ぬまで苦しみ続けるのが人生だ。
そう深々とあきらめていたら、小さな喜びにも気づくようになるかもしれませんね。
しつこいけれども最後に繰り返します。
どうして人生にいいことはないのかと思うのは誤り。
なぜなら、人生にいいことはないのが当たり前だからです。
「人生にいいことはない」は、いま忘れられている常識ではないでしょうか?
むかしはみんなが知っている常識ではなかったのではないかと思う。
ナマステ、ナマステ、ナマステ♪
代々木公園で行なわれている「ナマステ・インディア2011」へ行ってきました。
去年も一昨年も行くのをうっかり忘れました。
いつも終わったあとに気がつくんですね。
しかし、今年はバッチグー。ヒンディー語で言うとアチャー。今年はアチャーです。
インドにはインドの臭いというものがあります。
代々木公園の会場に足を踏み入れた瞬間、懐かしい臭いに胸が躍りました。

インドを89日ものあいだ旅したのは調べてみたら7年前でした。
こっそり白状すると死ぬために行ったのですね。
ふつう3ヶ月の旅行となったら保険はかけないものなのですが、
死亡保険目当てに高額の料金を支払った記憶があります。
いやあ、あれから7年も経ってまだ生きているとは……。
死亡保険があるためインドではメチャクチャをやりました。
なにしろ死んでもいいんですから(むしろ死にたい!)怖いものがありません。
いまから考えたら、あれだけ危険なことをしてよく死ななかったと思います。

会場では800円のカレーセットをいただきました。
ホウレン草カレー、バターチキン、ひき肉カレー。
つまみにするのですから、もちろんライスではなくナン。
以上がセットになって800円ポッキリであります。
お酒は持ち込みです。第3のビール500mlを3本。コップも当たり前のように持参。
くうう、アチャーだぜ! インド人はカレーがアチャーなつまみになることを知りません。
インドは最高だと思います。生きてるのってチョー楽しいのであります。
みずから死ぬなんて愚かではありませんか。死にたくなったらゴーゴーインド!

MTR社製のインド・レトルトカレーを4000円分買い込みます。
これは本当におすすめです。
インドカレーの妙味はベジタブルにあります。インドでカレーといったら肉ではなく野菜!
ここのホウレン草カレー、オクラカレーを食べないでカレーを語るのはNG。
インド祭りでは、このレトルトカレーが4つで千円です。
4つ買うとおまけにひとつミックスベジタブル(あまりおいしくない……)がついてくる。
わたしは16個買いました。
本来のルールならミックスベジタブル4つがおまけになります。
しかし、インド人のすばらしいのはテキトーなところ。
不服そうな顔をしているとおまけの4つも自分で選んでいいと言ってくれるのですから。
ブラボー! 
目まいがするほどうんめえインドカレーを20個4000円で買ってしまいました。
1個200円ではないですか! 安すぎる! 幸せだ! アチャーだ!

ナマステ・インディアは明日までやっていますので、
これをお読みになりましたかたは代々木公園へゴーしなければなりません。
インドのルーズな豊かさに、かさかさした精神がアチャーになること請け合います。
お酒は持ち込んだほうが安くなりますよ。
お土産はMTR社製レトルトカレーがおすすめ(ホウレン草とオクラがアチャー!)。
午後7時近くになるとどこも半額セールを始めますのでリーズナブル(極秘事項)。
恥ずかしくなるくらい、いまご機嫌であります。
よおし、こっ恥ずかしいことを叫びましょう。みんな、死ぬなよ!
死ぬのは、インドへ行ってから!
まず手はじめに代々木公園へ行ってみるのもいいかもしれませんぜ、大将!

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(公式サイト)
http://www.indofestival.com/
山へ行きました。埼玉県の鐘撞堂山です。
標高300メートルちょいですから、大したことはありませんけれど。
ガイド本は「2時間登頂ハイキング」(山と渓谷社)。
例によってこのガイドがお茶目なおかげでだいぶ楽しめました。
みなさん、地図は正確なほうがいいと思っていませんか?
ビジネスのときならたしかにそうなのでしょうが、遊びのときは違います。
これをよくよくわかっているのが有名な「地球の歩き方」シリーズ。
いいかげんなガイドで道に迷うことから現地人と交流が生まれる。
このメカニズムを熟知しているのが名著「地球の歩き方」です。
あれを参考にするとトラブルにめぐりあうようになっていて実にいい。
おなじことで現地でガイドを雇うのなら優秀な人よりも、
少し抜けていておっちょこちょいの人のほうが旅のいい思い出ができます。
かなり飛躍しますが、結婚相手もおなじだと思いますね。
欠点のない人よりドジなところのある人のほうがいいのではないでしょうか。

はりきって朝からカレーライスを食べちゃいました。
レトルトのLEEです。朝だから弱めの5倍です。
なんだかんだと最寄り駅の寄居に到着したのは12時寸前。
早くも道がわからなくなります。実によくできた地図です。
人に道を聞きながら進むものの、さあ、わからない。
どこから山に入ればいいのかわかりません。
ここかなと思うところにはロープがはってあり「立入禁止」の告示が。
たまたまタイミングよく人が家から出てきましたのでクエスチョン。
やはり立入禁止のところを進むのが山への入口だそうです。
「でも、入っちゃいけないって書いてありましたけど」
「いいの、いいの」
「はあ……」
もしこのかたと出逢わなかったら、そもそも山へさえ入れなかったのかもしれません。

山道を歩くのは、いつも趣味でしている散歩とはまったく違う。
上り坂を歩くのってきついんですね。すっかり忘れていました。
最後に山へ行ったのはいつかブログを調べてみたら4年前。
ムー大陸さんと行っていましたね。あれ以来ですからほんと久しぶりです。
むかしは夏になるとよくひとりで行っていたんです。
いまから10年、9年、8年くらいむかしの話になります。
あのころは死にとりつかれて、まるで苦行僧のようなものでしたから。
さてさてお山の話に戻します。途中でうすうす気がついてくるのです。
あれ? 道を間違えているんじゃないかしら。
こういうときにふたつの方法があります。引き返す。そのまま進む。
果たしてどちらを選択したか。せっかくここまで来たんだから、まあいっかです。
どうしても鐘撞堂山とやらに行きたいわけでもない。
いちおう道標もあるし、どっかしらには着くでしょう。
歩いているのは明らかにハイキングコース。
正規の道からはズレたようですが決して危険な道ではないと思われます。
いったいどこに着くんだろうと思いながらズンズン先を急ぎます。
というほど健脚ではありません。休み休みポクポクと歩きます。

すると、どうしてだか鐘撞堂山の山頂に着いてしまいます。
いまでも結局のところわかりません。
間違えたと思ったけれども正しい道を行っていたのか。
それとも山頂へ向かう別の道があり、そこを歩いてきたのか。
「道はひとつではない」とか箴言(しんげん)めいていませんか、うふっ。
えっへん、頂上への道はひとつではない。
平日なのでだれもいないのがよかったですね。
ローソンで買ったエビマヨ巻き寿司とイクラおむすびを食べます。
のむのは水筒の烏龍茶です。ええ、ウイスキーを少し混ぜますとも。
どぼどぼ。それから、ごくごく。

おつぎは羅漢山というところへ行くといいらしいのですが、また道に迷う。
あ、道に迷うってどういうことかわかりますか?
右か左かの分かれ道がたまにあるんです。しかし、地図には載っていない。
どちらへ行けばいいか自分で決めるしかありません。
かならずどちらかが正解なわけです。
このときは右を選択したのでした。そうしたら山から出ちゃうのですね。
計算外の里へおりてしまった。民家もある。
またふたつの選択肢があります。
どうしても正しい道にこだわりたいのなら、最前の分かれ道に戻ればいいのです。
で、右ではなく左のほうへ進めばそちらが正解になります。
しかし、こちらはぐうたらなオッサンですから、そんな面倒なことはしません。
まあ、この道でもいいかとなってしまいます。

喉が乾いている。民家。やっぱりありましたね、自動販売機。
嬉しくなってコカコーラの500mlペットボトルを買い求めます。
ところがどっこい賞味期限が(たぶん)半年前に切れていました。
田舎は油断できないと思いながらも、迷わずのみます。
この日は30度オーバーの真夏日でしたからね。
最近好きな呪文を唱えます――どうでもええがや!
手持ちのプラスチックのコップに水筒の氷を入れます。
それからこっそりウイスキーを投入。
最後に賞味期限切れコーラを入れたら青空コークハイの完成です。
小川にかかる橋の欄干に腰かけながらのんだ青空カクテルはおいしかったです。
この道を行けばどこに着くのかわかりませんが先に進みます。
湖に出ます。円良田湖(つぶらだこ)と書いてあります。
さっそく地図を見る。どこをどう迷ったのか理解します。
本来なら湖の東に出るところを西に出てしまったようです。
なんのことはありません。少しばかり遠まわりをしただけの模様。
かえってこっちのほうが円良田湖の風景をよく味わえるのかもしれません。

ほろ酔いのせいか、人生を悟ってしまったような錯覚を持ちます。
道に迷ったってええやん。結局はなんとかなるんやから。
泥酔したのでしょうか。ええやん、ええやんと踊りながら歩きます。
踏切に着いてしまう。
地図によるとここを抜けるともうゴールの寄居駅はすぐです。
おやまあ、羅漢山を通り過ぎてしまいましたね。
そこに「少林寺はこちら」の看板が! このときばかりは引き返します。
少林寺の横から上り坂があり、道の脇に五百羅漢があります。
五百体のほとけさま(羅漢)が道々に並んでいるのです。とてもよかったなァ。

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ほとけさまの絶望していらっしゃるのがわかりますか?
なんだか懐かしいです。
というのも、よく山に行っていたころは、毎日こんな様子でしたからね。
坂道をのぼってゆきます。

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ああ、こんなふうにして神頼みしたこともあったなァ。
助けてください。救ってください。

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もうなにも聞きたくない。だれもなにも言うな。
このほとけさまのように耳をふさいでいた時期もございました。
なにをしていても、なにもしなくても時間は過ぎ去ります。

110916_1547~01

どうでもええがや。
最後はこうなるしかないんでしょうね。よくも悪くも。

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羅漢山の頂上にあるのがこれです。
いままでの4枚に比べると、だいぶレベルが落ちますね。
人間味がないからだと思います。

さて、頂上の看板の説明によりますと、
人は死んだ近親者の顔をかならずや五百羅漢のうちに見出すとのこと。
ここは死者との再会の場だったのですね。
下山する道すがら、逢いたいけれど逢えない人の顔をわたしも探しました。
踏切を渡ると川に出くわす。荒川の上流です。

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玉淀ダム……らしいです。
いま荒川下流域に住んでいるので、
この川がうちのそばまで流れてくると思うとウルッとします。
荒川はいいよなァ。

110916_1645~01

流れにはしたがうしかないかと、こちらもトボトボ家路につきました。
あまりお金のかからない遊びを考えるのが好きだ。
ひとりでもできる遊びならなおいい。
最近やっておもしろかったのは、なにも目的のない散歩。
たとえば鉄道路線図のまえで目をつむりメクラ滅法に人さし指を突き出す。
目をあけて指のたまたまさしていたところに向かう。
ふっと目についたところに気が向くままに行くという方法もある。
肝心なのは、これを家でやらないことだ。きまりとして電車に乗ってからやる。
いまはスイカがあるからかならずしも目的地までの切符を買う必要がない。
なぜこのようにするかと言えば事前に情報を調べないためである。
なにも知らないところを歩くのが楽しいのだ。
先日この方法で歩いたのが新小岩と小岩のあいだであった。
小岩といえば島尾敏雄の小説「死の棘」の舞台になったというイメージしかない。
新小岩から歩いてみたらなんとも楽しい。
気になる店があったらひょいっと入ってみればいいのだ。
買わなくてもぜんぜん構わないではないか。
なにも知らないところを歩くのがどれほど楽しいか。
なんでもないことをいちいち発見するのが新鮮だった。
途中で川があったのでスーパーに寄り道して川岸で水の流れを見ながら一献傾けた。
夕方の小岩も実によかった。
小岩というのは、商店街がやたらたくさんあって飽きないのである。
ものを見ているだけで楽しい。
それからものに集まるたくさんの人を見るのもなんだか楽しい。
知らない町を歩くのがこれほど愉快であるとは思わなかった。
繰り返しになるが重要なのはあえて事前に調べないこと。
これは友だちがいなくてもお金がなくてもだれにでもできる遊びだと思う。
今回は小岩に向けて歩いたが、足の向くままに進むのがいちばんいいのかもしれない。
どこに行っても帰って来れないようなところは僻地以外はないだろうから。
もしよかったらお試しください。
そのときはどうか「新小岩-小岩間」ではなく、あなたの偶然にまかせて――。
なにかものを書くときに、いちばん効果的な方法をご存じでしょうか。
だれかにあなたの書いたものを読みたいと言ってもらうことです。
それが儀礼的ではなく情熱がこもったものであればそのぶんだけ、
書き手はエネルギーを得ることでしょう。よし期待に応えようと。
しかし、こんなことはめったにないのでしょう。
ですから、大半の人間はだれにも頼まれていないものを書きます。
コンクールや新人賞に応募するためです。
そして、その大半はほとんどまともに読まれることなくクズ箱に行きます。
残念ながら、現実はこんなものであります。

だからこそ、たまに奇跡が起こるのでしょう。
編集者が新人を育てるというのは、こういうことを言うのではないでしょうか。
つまり、編集者が新人にどうしてもあなたの書いた新作を読みたい、と依頼する。
現在、有名作家になった先生がたは、おそらく新人時代にこの幸運を経験したはずです。
なかには妻や愛人にこの役をしてもらった先生もいるのかもしれませんが、
やはり金銭が関係する編集者のほうが身内よりも何倍も励まされるのではないでしょうか。
編集者と作家の美しい原風景がここにあるような気がします。

ところがどうやらプロデューサー(以下P)とシナリオライターの関係は違うようです。
きっとPさんは自分のイメージしている作品があるのでしょう。
そのイメージに近づけるのなら、ライターはだれでもいい。
ことによったらPさんが複数のライターに競争させるという方法もあります。
自分のイメージにより近づけたライターを採用する。
どちらがいい悪いの話をしているわけではなく、ジャンルの相違を問題にしています。
おそらく、小説家とシナリオライターの違いはここにあるのではないでしょうか。
小説はその人でしか書けないもの。シナリオはだれでも書けるもの。

たしかに、ひとむかしまえはそうではなかったのかもしれません。
しかし、時代はすっかり変わってしまったのです。よいも悪いもありません。
ただ、いくらかは「シナリオはだれでも書ける」
としきりに宣伝している某シナリオ学校の影響もあったのではないでしょうか。
「だれでも書けるもの」なら、だれかに書いてもらう必要はありません。
いまやシナリオはだれが書いてもおなじようなものに性質が変化したのでしょう。

今日読んだシナリオ――。
「野良犬」「大曽根家の朝」「わが青春に悔いなし」「ローマの休日」
たぶん、どれもまだシナリオがだれでも書けるものではなかったころの作品です。
長生きをするといろいろな経験ができてなかなかおもしろいものです。
今月はじめ拙作を読みたいというブログ読者様からメールをいただきました。
お名前もきちんと入っているので2作品送った次第です。
直後、ご感想を書いたメールをいただいたのですが、とても貴重な体験でした。
おかげで作家の気持がはじめて理解できたからです。
もちろん、読みたいと言ってくださるくらいですから好意的なご感想でした。
しかし、それだけではありません。
ここはおかしいというのも書いてくださるのですね。
ああ、こういうものなのかと思いました。ふむ、なるほど。
というのも、作者は読者の感想に立ち入れないのであります。
正しい感想なんて断じてないのですから。
どの感想もそれぞれに正しい。作者はただもう読者の感想を受け入れるしかない。
作者は読者に「そうですか」としか言いようがないのです。
そのことが実感としてつくづくわかりました。
それから彼(男性でした)の指摘は的を射ていて唸った部分もかなりあります。
ふたたび、ふむ、なるほどと思った次第です。

「本の山」に小説や劇作、シナリオの感想を書き散らしています。
うっかり作者のかたのお目に触れることもあったでしょう。
そのとき作者がどのように感じるか、ようやく実感として身をもってわかりました。
「それは違う(作者の考えとは)」けれども、
「そうですか」と無言でわたしの感想を呑み込むしかないのでしょう。
開き直るようですが、そもそもめったにないことなのかもしれません。
わたしは拙作を読んでくださったかたにとても感謝しています。
通常、人間は他人に関心を持たないのですから。
知らない人の書いた作品など人は読みたがらない。
そのうえ感想など言うのはまっぴらごめんだ。
そのくらい他人に自作を読んでもらい感想までいただくのは稀有なることなのであります。
だれがどんな創作をしようが、大半の人はそんなことに興味がない。
たとえ人気作家の書いた小説でさえ、愛読者以外には紙くずに過ぎないのです。
だれかに読んでもらえるのがどれほどありがたいか。
貴重な感想まで言ってもらえるのはいかほどめずらしいことか。
ですから、どうかご勘弁ください。ここでいきなりお許しを請います。
「本の山」に稚拙な感想を書いておりますが、作者のみなさま、どうかお怒りなきよう。
それからもうひとつ申し上げたいことがあります。
拙文を読んでくださるみなさま、本当にありがとうございます。
「おふくろの夜回り」(三浦哲郎/文藝春秋)

→もう生きていない作家の随筆集を読んで思う。
結局のところ人間は父と母がすべてなのだろう。
プラスであれマイナスであれ、父と母からもらったもので、
どうにかこうにかやりくりしていくほか生きていく道はない。
とんだマイナスをもらったと思っていたらそれがプラスになったり、
いただいたプラスが時を経るごとにマイナスに転化していくこともあるのだろう。
ともあれ、父と母というのはいかにありがたいか。
母がひとりの子を産むのがどれだけ難儀か、どれほど骨折りか。
インチキ宗教家めいた言い草だが、
人がひとり生まれるというのはほとんど奇跡に近いのではないか。
老作家の「ちちははの面影」という短い随筆から最初と最後の一文を引用する。
人はいちばん最初に生まれ、いちばん最後に死ぬ。
なら、人生と文章は似たようなところがあるのかもしれない。
「ちちははの面影」より――。

「仕事部屋の本棚の一隅に亡き両親の遺影を飾り、位牌はないものの
香炉や鉦(かね)などを置いて、お粗末ながらわが家の仏壇ということにしている。
……(中略)……
遺影を見詰める者は日に日に老い、
遺影のなかのちちははは日に日に若返ってくる……」(P130)


「断崖」(井上靖/文春文庫)絶版

→短編小説集。例によって酒をのみながら読む。贅沢な時間である。
「父の愛人」という短編がいちばん印象深かった。
主人公の青年は、少年期にちらりとかいま見た父の愛人を思い返している。
憎しみや嫌悪といった感情からではなく、ただただとても懐かしい。
というのも、大して売れない画家であった父はもう死んでいるからである。
父の愛人の詳細を教えてくれる人がいた。父の親友だった日本画家である。
彼に教えられた情報をもとに調べていくと女は医者に嫁いでいた。
青年が女に逢いたいと電話をすると医者が出て妻は死んでしまったと告げる。
青年と老医師は縁側でビールを酌み交わす。
もちろん、青年は医師の妻がむかし父の愛人だったことは終始隠している。
ただそれだけの物語である。
父の親友だった日本画家の語るセリフがいい。友人の作品をこう評するのである。

「君のお父さんは、あの人のために、画家として、ともかく目が開けたんだ。
いい作品というのを見てごらん。みんなあの人の顔ではないか」(P237)


芸術家はどんな女と出逢うかが勝負になるのだろう。
40歳の井上靖に小説を書かせたのは愛人のS女史であったことを考えると、
この作品はとても意味深い。
おそらく、作家はもし人生でS女史という愛人と邂逅しなかったら、
決して小説家として大成しなかったことを認めていたのだろう。
ひとりの男があまたいるどの女を好きになるかは決定的に母親に支配される。
これは父親に支配されるということでもある。
なぜなら母はまさしく父がかつて愛したその人なのだから。
人生において血の支配するところは思っているよりもはるかに大きいのだろう。
人間は生まれたときから持っているものがふんだんにあるに違いない。
この短編集のタイトルにもなった短編「断崖」から――。
妻子ある男性と心中したものの、ひとりだけ息を吹き返してしまった女性の独白である。

「他人に見せてはならぬようなものを、
私は生れながらにして右手に握りしめて来たのです。
そうした運命を持って生れて来たような気がいたします。
そうした私の持って生れて来たものを何と呼んでいいか知りません」(P11)


おそらく井上靖にとって、この「持って生れて来たもの」に名前をつけてやるのが、
小説を書くという行為であったことだろう。
どうしてか、いや、どうしても、そうしかならないことが人生にはあるのである。
そのことを小説家は何度も繰り返し描いた。実人生よりも美しく描いた。

「これからの日本」(河合隼雄/潮出版社)

→河合隼雄があちこちで行なった講演の再録を集めたもの。
氏は講演会で話したことを文字化されるのを嫌っていた時期があったように思うが、
いつ気持の変化があったのだろう。
本書でいちばんおもしろかったのは、「遠藤周作の思い出」である。
遠藤周作没後1年のころ語られた内容になる。

作家と心理療法家は長いあいだおなじ問題を共有しているようなところがあったという。
カトリック作家の遠藤が晩年、作品のテーマにしていたのが罪と悪である。
罪というものは懺悔したり、またなにかの機縁でよいほうに変わるきっかけとなる。
長い目で見ると罪を犯したからよくなったというようなことがある。
つまり、罪というマイナスのなかにはプラスの種子も入っていると考えられる。
しかし、まったくプラスを含んでいないマイナスの権化のような悪があるのではないか。
罪と悪が違うのは、プラスの種子を有しているかどうかである。
どのようにしても救いようのない悪が人生にはあるのではないか。
たとえばアウシュビッツのような悪のことだ。
この悪をどう考えたらいいのだろうかと遠藤周作は問題にしていた。

少しわかりやすく言い換えると世知長けた老賢者がよくわかったようなことを言うでしょう。
人生のマイナスはかならずプラスになる、とかさ。
山田太一さんも宮本輝さんも似たようなことを訳知り顔で(失礼!)主張している。
コンプレックスがあったから創作ができたとか、その手の話はよく聞きませんか?
どんな不幸も災難も10年、20年、30年待てば福徳に変わる。
かえってマイナスのことがあったおかげで後年人生にプラスがもたらされる。
これに対して、何十年経とうがプラスにならないマイナスというのがあるのではないか?
つまり、この疑問に遠藤周作はとりつかれたわけである。

たとえば、わたしの言葉でいえば、悟り澄ましたような文体で無常とか書いてるじゃない?
常なるものはない。すべてが移ろいゆく。万物流転。あらゆるものが変化する。
でもさ、もしかして無常ではない絶対的な悪があるかもしれないとは考えられない?
どうしようもなく救いのない世界って、考えてみたらありそうじゃない?
河合隼雄もまた遠藤周作とおなじように、
心理療法をしているうちに、この見てはいけない暗部の存在に気づく。

「私は私でいま言いましたように相当無茶苦茶なことを言ったりする人でも、
まあ五年くらい会ってたら少しでも変わってこられる。
ま、十年会ったら変わられるというふうになってるんですがね、
なかなか変わらない人もおられるんですね。
やっぱり、偉大な人というのは必ずいるんです、やっぱり世の中にね。
だから十五年会ってもあまり変わらない人もおられるんですね。
ちょっとこういう場合はどうなるのかなと、
いうことが私としても非常に問題になってくる。
遠藤さんは遠藤さんで書いておられるうちに、それが問題になってきたんでしょうね。
この頃より少し前に私は『影の現象学』という本を書いているのですが、
その時はやっぱりずるいんで、
影でも結局ポジティブになっていくような話を書いてるのが多いんですね。
ところが私はそれを書きながら絶対的なネガティブな影というのはあるじゃないか、
というようなことを思ってて、それがだんだん話題になってきます」(P159)


河合隼雄が言うには、この問題を扱ったのが遠藤の小説「スキャンダル」とのこと。
変わらないネガティブなもの(=マイナス=悪)はあるのか?
わからないけれど、なんかありそうやな、
という地点で遠藤も河合も先に行けなくなったという。
少なくとも河合隼雄はこの講演のなかでそう説明している。
しかしまあ、15年も河合隼雄のカウンセリングを受けた人がいたのか。
にもかかわらず、よくならない(苦笑)。なかなか想像が及ばないどえらい世界だわな。

「人生学ことはじめ」(河合隼雄/講談社)絶版

→そうだ、河合隼雄先生に聞いてみよう、
出しても出しても脚本コンクールに落ちるんですけれど、どうしてなんでしょうか?
3週間丸ごと費やして書き上げた「銀河鉄道の夜」シナリオが落ちたのは地獄でした。
まったくもうほんと死ぬかと思いましたね。
あれ、河合先生の作品解釈を大いに参考にして書いたんですよ!
こんなこと言いたくありませんが責任を取ってもらえませんか?

「現代人は何事にも「原因」とか「理由」とかがあり、
それを見出すことによって、「解決」できると思い込みすぎている」(P141)


うん? どういう意味です? 落ちる原因がないって。
いったいこれからどうしたらいいんですか?
河合隼雄先生に騙されてうっかり生き延びてしまったようなものかもしれないのだから。
しかし、どうしてこうもなにもかもうまくいかないのだろう。

「自分の人生を全部因果論的に考えるのはおかしいんじゃないか。
ただ、共時的に非常にうまくいっているという状況があるというふうに
人生を見たほうがいいと僕は思っているわけですね。
そうでないと、ついつい、この子をよくするためにこうしろとかああしろとかね、
だいたいしないでもいいことをする人が多いんで、
何もしないで見てるほうがよっぽどうまくいくんですよ。
それに、現代人というのは、自分が何かをコントロールすることによってうまく出来る、
そのシステムを上等にすればするほどうまく出来るんだという錯覚を起こして
苦しんでいるんじゃないかと僕は思っているわけです」(P203)


子育ての相談なんてしていませんよ。どうしたら脚本コンクールを取れますか?
大賞でも取って、あるところにオトシマエというかケジメをつけないと先に行けません。
もう年齢的に人生が詰んできているし、ああ、どうしよう、どうしよう、どうしよう。

「日本人は戦争で何も物がなくなった後、
みんなの努力や科学の力でどんどん物質的に豊かになるのを経験してきましたから、
頑張ればできるということを、単純に考えすぎる。
それは物の方であって、心の方はそうはいかない。
ところが面白いことに、なるようにしかならない、
ということが腹に据(す)わると、景色が変わってくるんです」(P209)


はあ? 日本人のことなんて、どうでもええがや!
「なるようにしかならない」って、それが大学者の答えでいいんですか?
あんた、ただの詐欺師ちゃいますか、ほんと!

「嫁ぐ娘、嫁がぬ娘へ」(山田太一編/筑摩書房)絶版

→結婚はしたほうがいいのか、それともしないほうがいいのか。
ふたりのお嬢さんがいらっしゃる父親の立場から、
もし娘にアドバイスを与えるなら、といった前提で編まれたエッセイ・アンソロジー。
しかしまあ、恵まれた人もいろいろたいへんなのだろう。
結婚すべきかどうかさんざん迷わなければならないのだから。
こちらはそんな相手が現われる見込みがないから楽である。迷わないで済む。
「結婚する/結婚しない」ではなく「結婚できない」――。
選択肢の多い恵まれた人生もそれはそれで難儀でございますね~、
と第三者的な冷ややかな心持で読了する。

山田太一さんの流儀(脚本術)のまねをして人の気持になってよくよく考えてみたら、
もてる人は思った以上に人生で苦労を味わうのではないか?
というのも、もてる人は結婚相手の選択肢が多いわけである。
だれを選んでもいいとなると、これはしんどいだろうね、くすくす(←性格わるっ!)。
ふふふ、大勢から選べるのはひとりだけというのは相当に厳しいのではないか。
なぜならもし人生がうまくいかなかったときに、
他の人を選んでいればよかったと過剰に後悔する羽目におちいるからである。
この点、選択肢がひとつしかなかったら仕方がなかったと早々とあきらめることができる。
だれにも聞かれていない自分語りをすると、わたしは向こうありきだからね。
選択肢なんてほとんどないようなもの。
もし好意を持ってくれる異性が現われたら、これは奇跡だと思って飛びつく。
どのみち正体がばれて早晩去っていくのだろうと思いながら。

まあ、これは山田太一さんに教わった人生作法でもあるのだが、期待しない!
なにごともこれに尽きるよね。
いつも最悪の事態になることを考えていたら、
どんな現状にも「ま、こんなものか」とあきらめられる。
思えば、人生なにひとつ思い通りにならなかったけれど、ま、人生そんなもんだよね。
まさか結婚が思うようになるとはこの期に及んで思っていないしさ、ヘヘン。

「博士の愛した数式」(小川洋子/新潮文庫)

→みんなから好かれる小説というのは原理上ありえないと思うけれど、
この超ベストセラー「博士の愛した数式」はかなりがんばっているのではないか?
障害者、子ども、ビンボー、思いやり、数学入門、家政婦は見た――。
これだけプラスのカードを集めて嫌味にならないのは立派だと思う。
批判しようと思っても、とりつくしまがないような気さえする。
優等生の書いた優秀作品といったおもむきがある。
すっかり負け癖が身体になじんでしまった劣等生のわたしは、
こういう非の打ちどころのない小説があるのかと読後なんだか打ちのめされた。

「夜のピクニック」(恩田陸/新潮文庫)

→嫌いな努力をしてみた。
マーケティングリサーチの感覚で、いま売れ筋の物語を読んでみたわけである。
もう無理やり自分を叱咤しないと、こういうベストセラーは読めない体質である。
しかし、脚本コンクールに落ちまくっていると周囲から厳しいことを言われるわけだ。
「1回くらい書きたいものではなく、売れそうな流行のものを書いてみたら?」とか。
冗談じゃねえよ、とは思ったが、
たまには嫌いな努力をしてみるのも悪くないか、とも思う。
本書のようなおまんこ臭い小説を読んだ理由である。

三十代でも四十代でも女子がこういうおまんこ臭い小説を絶賛するのは構わないのだ。
まさか男で「夜のピクニック」を愛している裏切り者はいないよな?
いや、そこまでメス化した男のほうがいまは女子に受けるのを知らないわけではないが。
孤男(=孤独な男性)は間違ってもこの小説を読まないほうがいい。
果てしない空しさに襲われ自殺願望をこじらせるだけだろうから。
男子2人女子2人の高校生が歩行祭とやらでひと晩歩き続ける青春物語である。
けっ、そんな行事があっても、おれはぜったいに参加しないね。
だれと歩くかで揉めるというが、
著者および愛読者ははこういう行事で孤独に苦しむものの存在を知っているのだろうか?

みんなといっしょに歩く一体感? 
ひとつになろう! がんばろう! 思い出! 友情! 愛! 夢! 青春!
そんなもん、みーんな津波か洪水に流されちまえ、
と不謹慎なことを考えるひねくれものもなかにはいるのである。
この小説の主人公たちは、たとえばわたしを毛嫌いするだろう。
「夜のピクニック」が嫌いなのは、
嫌われるまえに嫌っておこうという、こちらの計算があるのかもしれない。
この小説の主人公である男子は、おそらく広範囲にわたる女子の理想なのだろう。
イケメンでクール。女子に媚びないがかえってモテモテで男の親友までちゃんといる。
人気作家の伊坂幸太郎が描くヒーロー像とも共通している(ような気がする)から、
思うに現代女子の萌えパターンの究極形なのだろう(いま小説を読むのは女子!)。
しっかし、「夜のピクニック」のおまんこ臭さはどうにかならないものか。
美形女子高生ふたりの会話を引くとこうである。

「なんだか、虚しいのよね。結局、自己満足で終わって、
せっかくの高校時代に、本物の恋ができなかったなんて」
「そんなあ、高校時代に本物の恋ができる人のほうが、よっぽど少数派だよ」(P350)


一生「本物の恋」などとは縁がないおちんちんの存在を教えるために、
芥川賞作家の西村賢太先生に下半身丸出しになってもらい、
この女子高生二人組を襲わせたいくらいである。
キャーと逃げる女子高生を見ながらケタケタ笑いたい。
その笑いは周囲にだれもいなくなったとき孤独に固まり、彼は深いため息をつく。
彼の背中を見た恩田陸ファンの女子はキモーイと声をひそめてバカにすることだろう。
これに「そうだよな」と同意する裏切り者の男がいまは格好いいということになっている。

「廃疾かかえて」(西村賢太/新潮文庫)

→よく西村賢太の私小説、とくに同棲相手との生活を描いた「秋恵もの」は
飽きるという声を聞くが、当方にかぎりまったくそんなことはない。
作を重ねるごとに磨きがかかっているとさえ思えるし、
小説家がこれから10年20年「秋恵もの」を書き続けたとしても、
わたしは新刊書籍を購入して読んでいきたいと思っている(文庫でならではあるが)。
おなじ作家の私小説を継続して読んでいると読者にも変化があることを知る。
あまり大きな声では言えないが、賢太兄貴にヤバイところで共感してしまうのだ。
そうだよね、たしかに秋恵みたいな女は殴りたくなるよね、わかるわかる!
おっと、いまのはなかったことにしてください。
女を殴る西村賢太は最低の野郎! がんばれ秋恵! それいけ秋恵!

「なによ、またぶつの。
おとなしそうな女の子にはセクハラして、家の中ではあたしにDVするんだね。
そうやって、ずっと弱い者いじめをしてきたんでしょ。
あんたは女子の敵だよ」(P55)


西村賢太が実際にモデルと同棲していた時期には、
まだ広告会社によって「女子ブーム」は作られていなかったと思われるから、
かなり創作が入ったセリフなのだろうが実にいい。
私小説を書く喜びというのは、味わいにあるのだろう。
どんな辛いことでも味わうというかぎりにおいて愉しみがあるのではないか。
人生の不幸にもまた絶妙の味わいがあることを人は私小説を書くことで知るのだろう。
おそらく、読者の喜びもそれに近いのだろうが、
なんといっても愉しいのは書き手ではないかと思う。
だから、幸福や勝利ばかり求めているものは、
人生の味をいくつも知らずに損をしているのである。
自業自得の悶えるような苦しみも、真正面から味わえばウニのような珍味なのかもしれない。
なにをうまいと思うかは人ぞれぞれで、
その個的な領域にこだわり尽くすことも生きる大きな喜びになるのである。

「貫多はそれ(引用者注:缶詰)を無視して、
冷蔵庫から福神漬けの残りと生卵を三個取り出した。
そして自分でスクランブルエッグを作ってその上にケチャップをかけ廻すと、
次に宝焼酎と氷の仕度を始める」(P121)


まずそう! と思わず顔をしかめてしまったが、
賢太兄貴の舌はなんでもうまく感じてしまうのであろう。まさしく私小説作家の舌である。
ところが、この舌は肥えている。

「野菜を煮たのとか魚を煮たのとか、そんな日常のチンケな料理より、
外でお金を出して誂える料理の方が断然うまいのは自明の理。
(中略) だからそこ(引用者注:老舗の鰻屋)では二本のビールを口にしながら、
三千八百円のお重と肝焼き、それに三杯酢の塩梅が絶妙なうざくに舌鼓を打って、
存分に思いを果たしてしまったのである。
すると、貫多はひどく幸福な、満ち足りた気分に有頂天となり、
それでこのまま滝野川の宿へ帰るだけと云うのも何か惜しくなってくると、
久方ぶりに六区へ落語の夜席を聞きにゆくことにした」(P144)


なんとわかりやすく幸福を定義した名文だろうか!
幸福になりたいといって宗教団体の巨大ビルに入っていくのは大馬鹿者なのである。
老舗の鰻屋へ行って昼からビールを2本のみながら3800円の鰻重を食え!
それから落語を聞きにいくのもよろしい。
このとき使った金が同棲相手の女が細々とパートで稼いだものだとなおよろしいのである。
諸君、これを幸福というのだよ、と芥川賞作家はニヤニヤする。
同性ながら彼はとってもかわいい。

「家族はどこへいくのか」(河合隼雄・谷川俊太郎・山田太一/岩波書店)絶版

→本書は1999年に小樽市民会館で行なわれた文化セミナーを再録したもの。
テーマは家族である。
父と母がいない人間はいないのだから家族は普遍的なテーマのひとつ。
山田太一さんによると、
「どうしても自分を棚にあげられないというあたりが家族論の楽しさ」とのこと。
たしかにそうで、本書でいちばんおもしろかったのは、
山田太一さんのプライベートの話である。
親子関係、夫婦関係――(ぶっちゃけ親子喧嘩、夫婦喧嘩です)。
ある文庫本の解説で山田太一さんが河合隼雄さんのプライベートを
覗き見したいと書いていたが、どうして人間は好きな人のことをより知りたがるのだろう。
本書における三人の鼎談で、
まあ、山田太一さんが自分の家族のことをかなりあけすけに語っているわけだ。
へえへえ、そうなんですか、と大笑いしながら読んだ。
ここで紹介してもいいのだが、
最近さすがに寄る年波にはわたしも勝てぬようで分別らしきものが生まれてしまったのだ。
つまり、10年以上もまえの口頭でのご発言をネットでおおやけに晒してしまったら、
山田太一さんのご迷惑になるのではないか。
そのくらいネタとしてはおもしろいのである。
(なんてここまで書くと実際にお読みになってがっかりされる方も出るかもしれませんが、
ファンには山田太一さんとお嬢さんの関係はウヘエというくらいおもしろいのです)
それでもまあ、このくらいだったらご迷惑をかけないだろうというあたりを――。

「僕は、子どもが小さいときに、
パパは電話の声を相手によって変えると言われまして、
それ、すごく刺さったんですよ。
でも、すぐ対抗して、どの人にも同じ態度で対する人の方が愚かな人だと言って、
なんとか切り抜けたのですが、
でもやっぱり目上の人に電話でおじぎしたりしていましたので、
やはり恥ずかしいと思いましたね」(P197)


どんな偉い人も家族のまえではいろいろと隠せないものがあるのだろう。
逆にいえば、外に出たらかなりのことをごまかせるのではないか。
ただし、どんな偉人も天才も、その威光は家族にだけは通用しない。
だから、家族はおもしろいのだろう。
この家族の楽しさを裏表、天井底まで知り尽くした脚本家だからこそ、
数々の名作ホームドラマを書くことができたに違いない。

「私のヰタ・セクスアリスⅡ」(「日刊ゲンダイ」編集部編/河出文庫)絶版

→山田太一さんの「私のヰタ・セクスアリス」とか読みたいけれど、
ぜったいにこの種のインタビューには答えないと思う。
そうなのである。わたしの好きな作家は、結局この2冊に出てこなかった。
性的告白はどうしても自慢話のようになってしまうのである。
複雑な自意識を持った人間ほど、この類の話は敬遠するのではないか。
複雑な自意識を持っていると他人から思われたい人ほどよく話す(苦笑)。
宮本輝さんは「私のヰタ・セクスアリス」らしきものを
初期のエッセイで書いているけれど、あれは嘘なんだろうな。
というのも、本当っぽかったからである。
本当と嘘に区分するなら、性的事項は嘘に振り分けられるような気がする。
反現実といった方向性を性は持っているのではないだろうか。
快楽とは抑制に尽きると山田太一さんが講演会で仰せになっていたな――。

本書の中では、岸田秀氏の性的発言がいちばん本当っぽい。
氏は、いまではインチキ(=嘘)だと(なかば)ばれてしまった精神分析学がご専門。
いちばん嘘くさいから、もっとも本当のような気がするのだろう。
精神分析学者・岸田秀氏のご発言から引用する。氏は1933年生まれ。

「僕らの青春は、性のタブーが強かった時代でしたからね。
だからこそ、欲求不満で、想像力がたくましくなったわけです。
考えてみれば、セックスなんて女性の穴に男性の棒を入れるだけの
単純な行為でしかありませんから、
想像力がないと、面白くもなんともないんですね。
セックスレスなどと問題になっていますけれど、
想像力が貧しい若い人が性に淡白なのは当たり前。
僕らの世代のほうが性に対する執着心が強くて
スケベなのも仕方がないんですよ(笑い)」(P126)


言われてみれば1934年生まれの山田太一さんの書くドラマは、
強烈なリビドーを内に秘めていると思う。だから、とりこになるのである。
このリビドーゆえに現実よりもはるかに山田太一ドラマはおもしろく、
しかしドラマは嘘なのに現実よりも本当らしく感じるのである。

「私のヰタ・セクスアリスⅠ」(「日刊ゲンダイ」編集部編/河出文庫)絶版

→著名人が自身の性的体験を赤裸々に語る。
作家、漫画家のなかでも、いわゆるタレント文化人が取材対象者とされている。
副題に「衝撃のインタビュー」とあるが、それほどでもないのね。
むしろ、想像していたよりもはるかにつまらない。
性的なことは個人の秘密に属することだから覗き見するのはおもしろいだろうと思ったら!
なんだかどの性的体験もどこかで聞いたような嘘くささがあるのである。
まるで三文小説を読んでいるようで真実性があまり感じられない。
たぶん、これはみながけっこう本当のことを喋っているからなのだと思う。
本当のことほどなぜか嘘くさく感じるという法則を本書は証明しているのではないか。
本書のなかでも本当っぽいものは、たいがい女性の告白である。
推測するに、女性の告白はあまり本当のことを語っていないのではないか。
というのも、女性は過去を隠すものでしょう?
このため読み手には反対に本当らしく感じられる。
ありもしなかった真っ赤な嘘を語るものがいたら、いちばん本当らしく聞こえたのだろう。
たかだか日刊ゲンダイ相手にそこまで手の込んだことをする文化人はいなかったようだが。

「<うそ>を見抜く心理学 ~供述の世界から~」(浜田寿美男/NHKブックス)絶版

→著者は心理学者で長年、冤罪裁判に被告の立場から関わっている。
本書の主題は、なぜ冤罪が起こるのか。
どうして冤罪裁判の被告はやってもいない犯罪を告白してしまうのか。

11ページに載っている中国の小説のたとえがおもしろかった。
本当と嘘をめぐるある種の真実を告発しているような気がするので紹介する。
主人公は10歳の少女である。ある日、父親とともにある家を訪れた。
その家の主人はお茶で歓待してくれる。
主人は魔法瓶からお茶を湯飲みに入れると、別の用事を思い出したのか席を立った。
その部屋にいるのは少女と父親だけである。
父親がお茶を飲もうと湯飲みを手に取ると、どうしてか魔法瓶が倒れてしまったというのだ。
父親は手を触れていないのに魔法瓶は倒れてしまった。
それどころか魔法瓶は床に落ち、大きな音を立てて壊れてしまう。
そこに主人が現われて、「いいんです、いいんです」と言う。
少女の父親は「すみません」と謝ったという。
そのうえ「私が触ってうっかり壊してしまったのです」と嘘の告白さえする。
あとで少女が父親にどうしてやってもいない罪を認めたのか尋ねると、
こういう答えが返ってきたというのである。
「弁解をすればするほど信じてもらえなくなるからだ。
世の中には本当のことを言えば嘘に聞こえてしまうということがある」
むしろ、告白が本当であればあるほど、ありえない嘘のように相手に思われてしまう。

このエピソードは虚実にまつわるものすごい真実を語っているように思う。
余談だが、このことをほぼそのまま扱ったドラマに山田太一の「星ひとつの夜」がある。
山田太一さんのテーマ(のひとつ)は「本当と嘘」だから不思議はないのだが。
話を本書に戻すと、冤罪が起こる背景には、こういう事情があるとのことである。
なぜかおなじ告白でも、自分の非を認める告白ほど本当らしく思えるらしい。
なるほど、告白は懺悔とどこかで結びついているからだろう。
マイナスの告白のほうがなぜか本当のように受け取られるのである。

いきなり話は飛躍するが、これは私小説と物語の関係にも通じるのではないか。
たとえば「もてない男」の小谷野敦さんはまだわかっていないようだが、
私小説というのは(本当のことではなく)嘘を書くものなのである。
柳美里や西村賢太の書く私小説は、ほとんど嘘なのだろう(だからおもしろいのだ)。
しかし、マイナスの告白ゆえに本当のことのように受けとめられてしまう。
柳美里の家族なんて本当にいい迷惑だったと思う(苦笑)。
一方で、物語小説というのは一見嘘に見えてかなり本当のことが入っているのだろう。
物語は嘘という前提があるから、かなり本当のことを書いてしまえるのだ。
話はポンポン飛ぶが、河合隼雄は本当にあった事例を書くと嘘に思われると主張する。
このため氏は神話や童話といった嘘を用いて本当のことを書いているのだという。
これなども本当と嘘の関係を知るうえで興味深いことではないかと思う。
さて、これは自身の経験とも微妙に重なってけっこう恥ずかしいのだが、
インターネットにおける女性の書き込みは、男性が行なったほうが女性らしいのである。
女が「私は女だけど」と本当のことを書いてもなぜかネカマ扱いされてしまう。
ところが、男が女のふりをすると、どうしてか本当の女のように思われる。

告白という形式を取るとき、どうしてか嘘のことのほうが本当に思われやすい。
嘘のほうが本当っぽいというおかしな現象が起こる。
沢木耕太郎の「深夜特急」はフィクションだが、なぜか本当の旅行記ということになっている。
芭蕉の「おくのほそ道」とおなじ原理が働いているのだろう。
そして、なぜか本当のことを告白すると逆に嘘くさくなる。
そんな都合のいい話はあるか、となってしまう。
そもそもなにが本当のことかもかなり複雑なのだろう。
本書で述べられていたことだが、夫婦喧嘩の場合を考えてみたらたしかにそうではないか。
夫婦はふたりとも本当のことを語っているのに、
喧嘩の原因が食い違うということは大いにありそうである。
もしかしたら過去は現在が作ることなのかもしれない。
なぜなら、だれも映像や音声を記録していないからである。
過去を再現するのは根本的に不可能なのである。
著者が取り調べ室での様子をすべて記録しろと主張しているのはこのためだ。
本書を読んだかぎりにおいて、わたしも同意する。
警察がその気になればいくらでも冤罪=嘘の物語は作られうるであろう。
なぜなら嘘の告白のほうが、おそらく本当っぽいのだろうから。

冤罪の心理学から身勝手にかなり飛躍してしまった部分はあるが、
これだけいろいろ考えさせられたということは、本書が名著たる証拠ではないか。
読んでよかったと思う。

「懐かしドラマが教えてくれるシナリオの書き方」(浅田直亮・仲村みなみ/彩流社)

→まず編集者に注文をつけたい。
こういった共著の場合、だれがどこを執筆担当したのか明記するのは常識ではないか。
とはいえ三流出版社のボンクラ編集者の無知をあまり責めるものではないのかもしれない。
文体からほとんど浅田直亮氏が書いたことがわかるから、まあいいとしよう。

浅田直亮氏は日本におけるもっとも名誉ある脚本賞S1グランプリの選考委員長。
とても偉い人である。
母校シナリオ・センターの人気講師でもあるので面識はないが先生と呼びたい。
浅田直亮先生は本書で「懐かしドラマ」を例に挙げ、
いかにシナリオが簡単に書けてしまうかを話し口調で講義する。
わたしの専門ともいうべき山田太一ドラマも複数取り上げられており、
その斬新かつ軽薄な紹介の仕方に驚きを覚える。
さすが名門シナリオ・センターのトップ講師は偉大である。
なんでも浅田先生によると、
山田太一ドラマなどすべて「困ったちゃん」キャラで説明できてしまうらしい。
浅田直亮先生のどこがすごいかといったら山田ドラマを見て少しも感動しないところだ。
それどころか、こんなものはだれでも書けると、さも言いたげなのだから。

先生によると、シナリオなどだれでもお気楽に書けるものだという。
これほど勇気ある発言は、たしかにS1グランプリ選考委員長にしかできないと思う。
もしプロの脚本家がこの本を読んだら著者をぶん殴りたくなるのではないか。
なぜならプロのライターはみな命懸けでシナリオを書いているからである。
だれひとりとしてお気楽にシナリオを書いている脚本家などいないだろう。
だいいちお気楽にシナリオを書いているライターに仕事依頼など来るものか!

シナリオ・センター人気講師の浅田直亮先生の講義をひとくさり紹介しよう。

「ストーリーを考えてシナリオを書いていくと、
まだ枚数をたくさん書きたいのにストーリーが終わってしまったり、
逆にもう枚数がオーバーしているのに、
まだまだストーリーが終わらなかったりしがちなんですね。
ええ、初心者の頃の私がそうでした」(P99)


え? え? はあ? 浅田先生はベテランのシナリオ作家なんですか?
調べたところ10年以上前に2、3作シナリオをお書きになったことがあるだけようですが。
まあ本人が「初心者ではない」と言うのだから、きっとすごいシナリオを書くのだろう。
なにせS1グランプリの選考委員長である。
毎年2回、あまたのシナリオの是非を審査して作品を選ぶ側にいるのだから。
経歴を拝見したところ、まだコンクールに作品を出す側におられるような気もするが、
ひかえい、みなのもの、S1グランプリ選考委員長様のお通りだ!
山田太一ドラマだろうが、北川悦吏子ドラマだろうが、
浅田直亮先生にかかれば「だれでもお気楽に書けるもの」になってしまうのである。

シナリオ・センターのトップ講師は本書で読者に語りかける。

「プロのシナリオライターになるのは夢じゃありません」
「プロになるための秘訣をアドバイスしよう」(P136)


まさかS1グランプリ選考委員長に「先生はプロなんですか?」と聞いてはならない。
浅田先生が本気になったら(いや、お気楽にか)
山田太一レベルのドラマならいくらだって書くことができるのである。
シナリオ・センター講師を舐めるなよ!
大学教授にも匹敵する知識と技術と人間的魅力を兼ね備えたのがシナセンの講師だ!
シナセンのテクニックさえ身につけたら、だれでも山田太一くらいにならなれるのだぞ。
迷っているものがいたら、ぜひシナリオ・センターに通うことをおすすめする。
なにしろ講師がいいからである。これは浅田先生を見たらわかるだろう。

記事がいささかシナリオ・センターの宣伝めいたことをお詫びする。
これからは「寄らば大樹の陰」をポリシーに生きていくつもりだ。
業界最大手のシナリオ・センターににらまれたら個人などひとたまりもないのだから。
ようやく母校への愛に目覚めたということだ。
機会があったら浅田直亮先生の名講義を拝聴してみたいと思う。
母校ではオータムセミナーをやるらしいので申し込んでみようかしら♪

「早春」(野田高梧・小津安二郎/「日本シナリオ文学全集3」理論社)絶版

→映画シナリオ。小津信者もたいへんだなと思った。
こんな駄作でも小津先生の作品だからとほめなければならないのでしょう?
ネット検索してみたら、やたらと役者の演技がよかったという声が多い。
当方まるでわからないのが役者の演技をほめちぎる映画の見方だ。
俳優は設計図(シナリオ)にしたがって動く肉体労働者みたいなものではないか。
可能ならばロボットがやればいちばんいいのである。
なぜならロボットだったらセリフもト書きもシナリオ通りに忠実に再現してくれるのだから。
言葉を知るホモサピエンスなら「シナリオ>俳優」は常識としてわかっていると信じたいが、
なぜか「俳優>シナリオ」と錯覚する愚か者が幅を利かせているのである。
演技がうまいってなに? そもそも映画は「おはなし」がすべてでしょう?
退屈な作品なのに「演技がよかった」って、それいったいどういうこと?
バカでもアホでも外見さえよければいいとあなたはご主張なさるのですか?

「東京物語」(野田高梧・小津安二郎/「日本シナリオ文学全集3」理論社)絶版

→映画シナリオ。
さてまあ、さも小津先生の芸術映画を理解しているようなことを書いているが、
まさか騙されている方はいらっしゃいませんよね?
わたしが評価しているのは野田高梧のシナリオで、小津映画にはほとんど言及していない。
こっそり白状するが、小津作品は拷問か罰ゲームみたいなものだと思っている。
忘れられないのは数年前、わが家のプレステ2に「東京物語」のDVDを入れたときのこと。
映像の亀のような進行に加えて、胃もたれを起こしたかのような人物の言動には降参した。
この映画を鑑賞後、仕返しの一環としてしばらく「笠智衆ごっこ」をしたものである。
(こんなバカらしい遊びに付き合ってくれる相手がいたのだ……ありがとう)

シナリオ「東京物語」は「晩春」や「麦秋」に比べるとすうだん落ちるのではないか。
なにより前二者にあった若々しさがまったく欠如しているのがよくない。
しみったれた田舎もんのジイさんバアさんが東京観光に来たはいいが、
息子からも娘からも冷たい扱いを受ける。
ため息をつきながら故郷へ帰ったらババアがぽっくり逝ってしまうというのが物語だ。
唯一、老夫婦に優しくしてくれたのが戦死した次男の嫁の美しい紀子(原節子)。
葛藤(シナセン!)もアクションもカタルシスもロマンスも、なーんにもない。
せめてジイさんバアさんが怒ってくれればまだ救い(=葛藤)があるのだが、
老夫婦は美しく「人間なんて、こんなもの」「人生なんて、そんなもの」とあきらめる。

そう、老夫婦は美しく断念するのである。美しく現実を受け容れるのである。
この点、「東京物語」は極めて日本的な映画である。
「がんばれ! あきらめるな!」と説くアメリカ映画とは生き方が根本からして違うのだ。
生きるとは、断念するということ。庶民は「騙し騙し生きる」しかない。
我われは人生でなにか欠けたものが、よしんばあったら幸福になっていたと夢想するが、
実際には人間はなにがあろうがなにがなかろうが、どのみち幸せとは程遠い存在なのだ。

「――しかし子供いふもんも、をらにゃをらんで寂しいし、
をりゃをるで、だんだん親を邪魔にしよる。
二つえゝこたアないもんぢゃ」(P143)


どうしたって幸福になれない人間が、せめて幸せに近づくためにはどうしたらいいか。
「東京物語」から老夫婦(周吉&とみ)の会話を引く。

周吉「なかなか親の思ふやうにアいかんもんぢゃ……(と二人一緒に寂しく笑って)
――慾ウ云や切りアにゃアが、まアええ方ぢゃよ」
とみ「ええ方ですとも。よっぽどええ方でさ、わしたちア幸せでさ」
周吉「さうぢゃなう……まア、幸せな方ぢゃなう」
とみ「さうでさア。幸せな方でさア……」(P153)


一人で自分を騙すのは難しいが、二人いてお互い相手を騙すのは比較的容易なのだろう。
もしかしたら日本の夫婦はこの光景を祖先に持つおかげで、
どうにかこうにか離婚しないでいられるのかもしれない。
大切なのは人生にも人間にも深く深くあきらめることではないか。
深く深く、そしてできたら美しく、あらゆることを断念していく。
この点、山田太一ドラマは木下恵介の映画よりむしろ小津作品に近似していると言えよう。

「麦秋」(野田高梧・小津安二郎/「日本シナリオ文学全集3」理論社)絶版

→映画シナリオ。
読みながら涙がとまらなかったのを記憶しているが、
いざ感動の詳細を書こうとするとどうにも言葉になりにくいところがある。
なんだかいいのである。
無理やり言語化するなら、自然の変化――つまり無常をうまく描いているところではないか。
実人生というのは、なんだかよくわからないうちに変化していくものでしょう?
いつの間にか変化しているけれども、それがちっとも不自然には感じられない。
こうなるべくしてこうなったような気がする。
もう一回生きたとしても、おそらくおなじことを繰り返すだろう、
といったような自然な流れを我われはときに人生から感じるが、
それとまったくおなじものを観客は「麦秋」のうちに見出すのではないか。
人は老いる。息子は嫁をもらう。孫が生まれる。娘が嫁に行く。
突き詰めれば、人は死ぬということ。だが、人は生まれるということ。
こうして人類は自然に続いていくということ。

すべては自然なのである。子どもは成長する。結婚する。新しい子どもが生まれる。
少年少女が日々成長するように、老人は一歩一歩死へと近づく。
無常ゆえに自然に変わっていく生活のひとコマを「麦秋」は丁寧に描いている。
物語といえば「晩春」とおなじで、またもや紀子(原節子)が嫁に行くだけなのである。
紀子の結婚相手は、戦死した兄の友人で、妻を2年前に亡くしている。
女の子もひとりいるから、
いくら紀子が結婚適齢期を過ぎているとはいえ条件の悪い相手だ。
どうして紀子はそんな相手と結婚するのか。
「なんだか急に幸福になれるやうな気がしたの」と紀子は家族に説明する。
女友達から「どうして結婚する気になったの?」と聞かれた紀子は「偶然よ」と答える。
そう、無常とは、自然の変化とは、偶然としか言いようがないものなのであろう。
このたくまらざる偶然の流れを脚本家の野田高梧は実に巧妙に描いている。
さらにうまいのは女同士の会話である。
紀子と女友達の会話、紀子と兄嫁の会話は本当に生き生きしている。
ぴちぴち飛び跳ねているような華やぎに満ちているのだ。

「麦秋」で紀子は嫁に行く決意を固めた。映画が取り上げるのはここまでだ。
しかし、「麦秋」の観客はかならずや紀子が母になる姿も観るだろう。
映像には映っていないが、紀子が兄嫁とおなじく母になる日が見えてしまうのだ。
人間は自然に変化していく。それは寂しいことでも喜ばしいことでもあるのだろう。
人生は変えようと思っても変わらないが、変わるなと願っても変わってしまう。
紀子の老いた両親(周吉と志げ)は、晴れた日に芝生に座り人生に思いを馳せる。

周吉「早いもんだ……。康一が嫁を貰ふ、孫が生れる、紀子が嫁に行く。
――今が一番たのしい時かも知れないよ」
志げ「さうでせうか……でもこれからだってまだ……」
周吉「いやア、慾を云やアきりがないよ。――あゝ、今日はいゝ日曜日だった……」
志げ「ちょいとあなた――」(と向ふの空をさす)
周吉「ウム?」(と見る)
   糸の切れたゴム風船が空へ上ってゆく。
周吉「どッかで、飛ばした子が、きっと泣いているねえ……。
康一にもあったぢゃないか、こんなことが……」
志げ「えゝ……」
   見上げてゐる老夫婦。
   空高く上ってゆく風船……」(P80)


あっという間に紀子もまた、母親の志げのようになるのだろう。
結婚して子どもが生まれ、その子どももいつしか結婚する――。
人生は一見すると絶え間ない変化の連続のようだが、
実はおなじことを繰り返しているのかもしれない。
それはあたかも春夏秋冬が繰り返されていくのとおなじように。
名作「麦秋」では、夏が秋になるような自然さで紀子が嫁ぎ先を決める。

「晩春」(野田高梧・小津安二郎/「日本シナリオ文学全集3」理論社)絶版

→映画シナリオ。
「晩春」は行き遅れた娘を嫁に出す老父のさみしさとよろこびを描いた作品だ。
とてもいい映画だと思うのだが、どうにもそのよさをうまく説明することができない。
小津映画のテーマのひとつは「幸福とはなにか」であろう。
あんがい人間は自分の幸福を幸福と感じられないものなのかもしれない。
幸福とはなにかを突き詰めてみたら、
家族の幸福が自分の幸福という人が多いのではないか。
日本人はアメリカ人のように短絡的に自己の勝利を喝采することができない。
せいぜい家族のささやかな一歩に涙ぐむくらいが日本人のハッピーなのかもしれない。
逆に言えば、我われにとって家族の不幸ほどこたえるものはないのだろう。
(自分ではなく)家族が不幸になることほど辛く感じられることはない。
またまたひっくり返せば、
だれかの勝利(出世)をまったくの邪心なくよろこんでくれるのは家族のほかいないと思う。
親友の出世(昇進)にはどうしても嫉妬がつきまとってしまうのが我われではないか。

おそらく、古い日本人にとっては家族の幸福こそが自分の幸福なのだろう。
家族が幸福になるためだったら
自己犠牲なんてものともしないのが古い日本人なのかもしれない。
よしんば小津映画がいまもなお評価されているとしたら、
現在の日本人の心象もあまり変わっていないという可能性も考えられる。
自分が不幸になることよりも家族が不幸になることのほうが我慢できない。
自分よりも相手のことをどうしようもなく思ってしまう。
「晩春」の世界の基底をなしている感情だ。
妻に先立たれた周吉は娘の紀子を見合い結婚させるために「一生一代の嘘」をつく。
紀子が自分のことを心配して嫁に行こうとしないからである。
そのシーンを引用する。

紀子「ぢゃお父さん、小野寺の小父さまみたいに……?」
周吉(曖昧に)「うん……」
紀子「奥さんお貰ひになるの?」
周吉「うん……」
紀子(愈々鋭く)「お貰ひになるのね、奥さん」
周吉「うん」
紀子「ぢゃ今日の方ね?」
周吉「うん」
紀子「もうおきめになったのね?」
周吉「うん」
紀子「ほんとなのね? ……ほんとなのね?」
周吉「うん」
紀子「……」(堪へられなくなる)
   そしてさッと立ち上がると、逃げるやうに出てゆく」(P31)


どうでもいいが「うん」の6連発である。
さて、見合い相手との結婚を決めた紀子と周吉は最後の想い出づくりに京都へおもむく。
晩である。紀子はやはり結婚しないと言い出す。お父さんとずっといっしょにいたい。
周吉はそんな紀子を結婚するように説得する。
紀子も自分が嫁に行くことが周吉の幸福なのだと納得する。

紀子(微笑を浮かべた顔に羞ひを見せて)
「すいません……いろいろご心配かけて……」
周吉「イヤ――なるんだよ倖せに……いゝね?」
紀子「えゝ、きっとなって見せますわ」
周吉「うん――なるよ、屹度なれるよ、なるんだよ倖せに」
紀子「えゝ……」
   と明るい笑顔でそっと涙を拭く」(P42)


紀子は自分のためではなく周吉のために幸福になる決意をする。
オー、ジャパニーズ、とってもビューティフル!

「けちのすすめ」(ひろさちや/朝日新聞出版)

→最近のひろさちや氏の発言は過激でおもしろすぎる。
もう老い先短い身の上を美しくあきらめ、思いのたけをぶちまけているのが実にいい。
むかしはおのれの言説の正しさをセコセコと律儀に聖典に求めていたが、
いまのひろさんはまったくそういった処世をしないのがまこといさぎよい。
「おれはこう思うが悪いか?」と吠える受賞歴皆無の宗教ライターは怖れを知らぬ。
ひろさちやさんは大学教員時代、自分勝手だと同僚から毛嫌いされていたという。
だからかどうかはわからぬが、
いまの日本でなかなか否定できないものをばっさり切り捨てている。
それは「仲間」と「友だち」である。
ひろさちや翁は本書で「仲間」も「友だち」も大したものではないと放言している。
まずは仲間だ。コミュニティなどと英語で尊ばれることも少なくない。

「今の日本のコミュニティと呼ばれるものは、
他人を監視する「お目つけ役」だとわたしは思います。
そして、近隣はみな足の引っ張り合いばかりしている。
そしてあなたが「友だち」だと思っている人もその中の一員です」(P63)


ここまで言える人はめったにいないのではないか?
しかし、たしかに仲間など相互監視システムに過ぎない、と言えなくもない。
ひとりを抜けがけをさせないために作られているのが仲間なのかもしれない。
だれかが一歩仲間から飛び抜けようとしたら、すかさずだれかが足を引っ張る。
仲間を「お仲間」と持ち上げるシナリオ学校を知っているが、
その正体はもしかしたらこんなところにあるのかもしれない。突出させない。
だれかひとりを輝かせてたまるか。
あいつが出世しないためになら、あたし(おれ)も出世しなくていい。
そのくせ表面上はやたら友だちを強調するのが仲間依存の日本人だ。
自分勝手と周囲から嫌われまくったというひろさちや氏の友だちの定義は――。

「その人のために、時間を惜しまず、どれだけ駆け回ることができるか。
不眠不休であろうとも、今がどれだけ貴重な時間であろうとも、
その人のためだけに自分の時間を捧げることができるかということです。
もし本当に、そんな人が一生のうちに一人でも現われたとしたなら、
どれだけ幸せなことでしょうね。そのときはきっと、欲も得もなく、
「ああ、友だちっていいもんだな」と思えるんじゃないでしょうか。
わたしは、そんな「友だち」が欲しいと思います。
逆に言えば、そのような「友だち」以外は欲しくありません。
孤独の方がましです」(P66)


ひろさちやさんが友だち自慢をする社交家を嫌っていたのがよくわかる文章だ。
思い返せば、いままで膨大な数の著作を読んできたが、
ひろさんが友だち自慢をしている文章を一度も目にした記憶がない。
おそらく、深く深くそして美しく人間についてあきらめているのだろう。
友だちはできないのが当たり前。一時期でもできたら本当に奇跡のようなもの。
こういった本当のことを表立って言うことのできる賢者はなかなかいないと思う。

「ひろさちやのあきらめ力」(青春出版社)

→あらゆる宗教が信者を洗脳しようとしてくる。
オウム真理教だけではなく、創価学会も親鸞会も幸福の科学も洗脳集団だ。
特定の宗教団体に所属していない我われは、彼(女)らを嘲笑う。
バッカじゃないの。洗脳されちゃって。
しかし、実のところ我われとても洗脳されているのである。
カルト教団信者をちっとも笑えやしないのである。
むしろ、新興宗教メンバーのほうが我われよりも洗脳されていない。
かえって、あの人たちのほうが無垢で純真で親切で、
我われよりもよほど上質かもしれない。人間としてすぐれているのかもしれない。
いったい我われはなにに騙されて(洗脳されて)いるというのか。

「わたしたちは、勝ち組連中に洗脳されてきたのです。曰く、
「世間の役に立つ人こそ偉い」
「何があっても希望を失うな」
「いつも前向きな人こそすばらしい」
……数えあげたらきりがありません。
こういう洗脳をしたほうが、勝ち組連中には都合がよかったのです。
会社でいえば社員が、国でいえば国民が、
疑いも持たず反抗もせずせっせと働いてくれたからです」(P5)


恐ろしいことに、ひろさちやのこの文章もまた洗脳である。
なぜなら、東大卒のひろ氏は売れっ子ライターの高額納税者で、子どもふたりも東大卒。
疑いもなき勝ち組だからである。
しかし、どうしてひろさちや氏に洗脳されてはいけないのだろう?
カルト教団「世間教」の洗脳よりもひろ氏のそれのほうがよほど幸福になれるのではないか。
どだい洗脳されていない人などいないのである。
ひろさちやさんだって自分で自分を洗脳している。
これは法然も親鸞も日蓮もおなじである。
古今東西、幸福に生きるために大切なのは、いかに自分をうまく洗脳するかだと思う。

「いいかげんのすすめ」(ひろさちや/PHP研究所)

→ひろさちやさんは間違いなく仏教学者よりも仏教をわかっている。
だって、そうでしょう? 学者先生の書いた仏教書を読んでだれが救われますか?
信仰なんちゅうのは、いかに自分を騙すかだ。
難解な書物を読解した自分は偉い、と自分を騙せるのは学者先生のみ。
そんな先生の書いた本なぞ読んだところで、我われ庶民は貧しくなるだけ。
というのも、学者先生の自尊心を満たす道具に我われがなってしまうのだから。
ひろさちやさんは仏教とは幸福学だという。
そのうえであろうことか幸福を定式化してしまう(32ページ)。

<幸福>=<充足>÷<欲望>

あなたの年収が手取り200万円だったとする。
ところが、年収1千万円を欲望していると、そのぶんだけ幸福度は下がってしまう。
がんばればいいじゃないかと言われるかもしれない。
がんばってそのうえ運もよく年収1千万円に届いた。
しかし、ちっとも幸福にはならない。
なぜならこのときには年収5千万円を充足(目標)としているからである。
いっぽうで、はなから200万を充足と設定していたらどうか?
運よく300万も稼げれば、彼(女)の幸福指数は急上昇する。
充足指数を低くすれば、それだけ幸福度はアップする。
健康で生きていられたらいい、を目標(充足)にしたら、さてどうなるか?
年収150万でも十分に幸福に感じられるのではないか。
たとえ恋人ができなくても、健康で生きていられるのだからちっとも不幸でもない。
万が一運よく彼女でもできたら、幸福指数は急上昇するはずだ。
これが芸能人なみの美女を恋人にしたいと思っていたらどうか。
いつまで経っても幸福とは程遠い不満だらけの人生を送らねばならなくなる。
「まあ、生きていられたらいいや」を充足値に設定してしまえば、常に幸福でいられるのだ。

すべての宗教は詐欺である。
カルト教団のみならず、仏教もキリスト教もイスラム教も人を騙す詐欺である。
なぜ詐欺が横行するかといえば、人間は騙されている状態が幸福だからだ。
本書からひろさちや氏の詐欺的(=宗教的)発言を引こう。

「日本人は、人事を尽くせば、天命が変わるかのように思っているが、
天命なり神の意志といったものは、まったく人事(人間の努力)と無関係なものだ。
努力しようがしまいが、天命・神の意志は変わらない。
そして、そのような天命・神の意志にすべてをゆだねるというのが宗教の本質である」(P23)

「神仏を信ずることによって、なにか別の救い、よろこびを求めておられる人は、
信心をジョギングと錯覚しているのだ。
ジョギングをすれば、健康になると思っている。
しかし、信心はたとえて言えば散歩である。
散歩は、散歩そのものが楽しいからするのである」(P71)


ひろさちやの本などすべておなじ主張をしているに過ぎない。
なのに、どうして何冊も買ってしまうのか。読んでしまうのか。
わたしの答えは「発見があるから」なのだが、なにゆえこの現象が生じるのか。

「仏教の法話の場合は、聴き手の能力によって、
同じ法話でもちがった理解ができるのである。(……)
わたしたちは一度聞いた話でも、自分の理解力が高まると、
そこからまたちがった教えをひき出せるのである」(P127)


つまり無常ということだ。
我われは毎日少しずつ変化しているのだろう。
同一の「我」など、おそらく存在しないのではないか。
いつ読んだかによって、おなじ読み物でも大きく感想が変わるのはこのせいである。
無常ゆえに、ひろさちや氏の著作は売れているのだろう。

「世間の捨て方」(ひろさちや/青春出版社)

→ひろさちやさんの本を読むと毎回ながら心が安らぐ。
実のところ、ふたつの幸福があるのかもしれない。
世間の(認める)幸福と、自分(だけ)の幸福である。
成功者がよく自著で成功自慢をしているけれど、
あれは自信のなさの裏返しなのかもしれない。
この本を読んで気づいたのは、金と時間が反比例の関係にあること。
つまり、お金が増えればそれだけ自由に使える時間がなくなる。
出世すればするほど忙しくなって自分の好きなことをできなくなる。
なにが幸福かって話なんだよね。
人から幸福と見られることが幸福なのか。
それとも自分の好きなことをやるのが幸福なのか。
成功欲というのは、人から幸福だと思われたいという欲望なのかもしれない。
ひろさちや先生の著書を読むと、
人生の失敗者に過ぎぬ自分がもしかしたら成功者よりも幸福ではないかと思える。
まあ、錯覚なのだろうから、プチ成功者のみなさんはあまり目くじらを立てないでください。
(本当の成功者はこんな無名ブログを見ている時間はないはず!)

「確かに、運良く仕事に成功して、どんどん金が入ってくれば、
金銭的には豊かになるでしょう。
でも、金というものは、もらえばもらうほど、もっと欲しくなる。
それが金銭欲の恐ろしさです。そこで、もっと稼ごうとして、
いっそう仕事にのめり込むことになってしまいます。
その結果、どうなるかといえば、
分刻み、秒刻みのスケジュールで自分が管理されることになるんです。
稼いだ金を使う時間なんてありゃあしません。
時間に振り回されて、いつも「時間がない、時間がない」と、
あっちに言ったりこっちに来たりしているのが金持ちなんです。
いくら金を持っていても買えないのが「時間」です」(P65)


ちなみに、ひろさちや先生の最後のご発言は嘘だから。
お金があれば時間も買えます。
というのも、お金があれば電車ではなく飛行機に乗れるでしょう。
お金があれば、デリバリーでおいしいものが食べられる。
これは料理する時間を買っているということ。
お金で家政婦さんを雇えば、掃除や洗濯をする時間まで買えてしまう。
なによりお金さえあれば、あの忌まわしい労働に時間を取られずに済む。
ただし、以上のことすべてに言えるが、それが幸福かはわからない。
鈍行列車の道行きのほうが幸福かもしれない。
安い食材を買ってきて自炊するのがもしかしたら幸福なのかもしれない。
掃除や洗濯をしたあとの達成感はお金では買えない幸福かもしれない。
労働をすることでかえって余暇の幸福が増すということもありうる。
だいいちほとんどの人間にとって労働時間がなくなってしまったら、
いったいなにをしたらいいかわからなくなり逆に不幸になってしまう。
こういう逆転発想をできるようになったのは、言うまでもなくひろさちや先生のおかげです。

「生きる」(橋本忍・小国英雄・黒沢明/「日本シナリオ文学全集3」理論社)絶版

→映画シナリオ。
映像嫌い(シナリオは好き)のわたしでさえ10年ほどまえだったか。
ビデオをレンタルして観た記憶がある。むろん、感動した。
このたびシナリオを読んでやはりいいとは思うのだが、説教臭さはどうにかならないものか。
物語は、ガンで余命宣告された小役人が人生に目覚め、市民のために公園を作る――。
その過程で、通常なら是とされる親子関係や快楽の味気なさが描かれている。
要は、説教なんだよね。血縁を当てにするな。快楽なんて頼りないものだぞ。
じゃあ、人はどう生きよというのか。利他である。他人のために生きろ。
結局は人から感謝される人生がいちばんすばらしいのだよ、民衆のみなさん!

主人公の生き方に感動した同僚が通夜で絶叫する。

「(怒ったように)しかし、われわれだって何時ぽっくり死ぬか……」(P199)

これは観客の思いを代弁しているとも言いうるわけである。
話を映画に戻すと、通夜ではみな「やるぞ!」と決起する。
ところが、翌日には元に戻ってしまうのである。
いま気づいたことがある。
10年まえ「生きる」を観たときは、鑑賞後に自分もなにかをなそうと思った。
(まあ結局はなにもしなかったけどね)
しかし、いま「生きる」のシナリオを読んでいいとは思ったが、
10年まえのように「よし、生まれ変わろう」とはつゆ思わなかった(苦笑)。
人生、そんなものなんだよね。
あんがい黒沢明のメッセージは「向上せよ!」ではなく、
「人生、そんなもの」だったのかもしれない。
だとしたら、この作品の説教臭さは見かけだけで、本質は皮肉にあるのかもしれない。
人間なんて、こんなもの。人生なんて、そんなもの。

ちなみに、ドラマとは不幸である。ドラマを書くとは、不幸を描くことに近い。
なぜ脚本家は不幸を書かなければならないのか?

「成程、不幸には立派な一面があると云うが本当ですな。
つまり、不幸は人間に真理を教える。
貴方の胃癌は、貴方に人生に対する眼を開かせた。
いや、人間は軽薄なもんですな。
生命がどんなに美しいものかと云うことを死に直面した時、始めて知る」(P165)


「酔いどれ天使」(植草圭之助・黒沢明/「日本シナリオ文学全集3」理論社)絶版

→映画シナリオ。
アル中気味の中年町医者と、結核もちの極道青年の奇妙な友情関係が描かれる。
医者とヤクザはともに命を取り扱う生業である。
というのも、命を救う商売が医者で、命を奪う商売がヤクザなのだから。

ちょうど真ん中で新参者が現われる構成が目を引いた。
人がドラマを持って新登場することで、ドラマに新たな展開をもたらす。
ちなみに、この新参者は刑務所から娑婆に戻ってきたばかりの岡田である。
言うまでもなく、岡田はヤクザの中のヤクザみたいな存在。
このヤクザとと酔いどれ天使=真田医師の会話がおもしろい。

岡田「て、てめえ……命アおしくねえのか」
真田「何言やがる。……一人前の人殺し面をするな。
お前より俺の方がよっぽど人を殺してるよ!」(P134)


おそらく、命が取り返しのつかないものだからドラマが生まれるのだろう。
人生は一回こっきり。死んでしまったら終わり。
だれもがそのことを深く理解しているのに、人間(ヤクザ)はこんなことを口にする。

「やい……俺アな……生命がおしくって……こんな事云ってるんじゃねえンだ。
……どっちみち死ぬんだ……へん……何云ってやんでえ」(P120)


思えば、このシナリオ集の「姿三四郎」「銀嶺の果て」「酔いどれ天使」「生きる」。
共通するのは、どれも劇中で人が死ぬことである。
人生は死によって閉幕する。ならば、人生を描く映画で人が死ぬのは当たり前なのだろう。
人生を描きたかったら、人を殺すことだ。
(硬派の)映画シナリオを書こうと思ったら、
だれをどのように殺すかを考えるといいのかもしれない。
畢竟(ひっきょう)、映画脚本家は(神ではなく)紙の殺人者といった役割なのだろう。

「銀嶺の果て」(黒沢明/「日本シナリオ文学全集3」理論社)絶版

→映画シナリオ。三船敏郎のデビュー作品。
雪山に閉じ込められたパターン。
強盗で大金を手にした三悪人が主人公。もちろん、警察に追われている。
基本設定がハラハラドキドキを含むため、終始緊張感が失われずよろしい。

究極のドラマというのは、命を取り扱ったものなのだろう。
なぜなら人間にとっていちばん大切なものは命だからである。
さて、命の次に大切なものはなにか? 人によって金や女(男)がこれに当たる。
三悪人にとっては言うまでもなく金である。
逃避行の過程で三悪人のうちのひとりは雪崩に呑み込まれ命を落とす。
この作品の見どころは、生き残ったふたりの葛藤である。

ドラマの基本は「葛藤・相克・対立」(シナセンのポリシー!)。
余談になるが、どうしてこう教えるシナセンの先生方がシナリオを書けないのか。
おそらく、人生で命を賭けてなにごとかをなした経験がないからだろう。
真剣に生きようとせず、テクニックでごまかして生きてきたからだろう。
自分の命と真正面から向き合おうとしなかった。
命の中にある善や悪と挌闘してこなかった。
「銀嶺の果て」の登場人物は、それぞれおのれの生命(善悪)に向き合う――。

「二人睨み合う。
その二人の間に置かれた蜂蜜と拳銃」(P85)


悪党ふたりのうちのひとりが、山小屋の娘からもらった蜂蜜ジュースを飲み
改心しかけるのである。小道具の対照が巧みである。
人間の心の中には、常に「蜂蜜と拳銃」があるのかもしれない。
だから、黒沢明はこのシナリオを書く。
だから、映画の観客は作品に触れ、なにかしらの感銘を受ける。

「銀嶺の果て」のクライマックスは、これまた命のやりとりである。
危険な雪山を悪党ふたりは登山家を人質にして進む。
この登山家が命をていして悪人を助けようとするシーンがクライマックスだ。
命は自己防衛のみならず他者救済をも進んでやらかす複雑な存在なのである。
命とはなにか。生きているとはどういうことか。
どの表現者も根本にこのテーマを持っているはずである。