「生きさせろ! 難民化する若者たち」(雨宮処凛/ちくま文庫)

→おそらく根っこがいじけたサブカル野郎だからなのだろうが、
10年以上もむかしから雨宮女史の存在は視野に入っていた。
同世代ながら(いや同世代だからと言うべきか)、
あそこまで痛々しい目立ちたがり屋根性はないだろうとさすがにあきれていた。
目立てばなんでもいい。みんなあたしを見て。あたしあたしあたし!

やったね、雨宮さん!

なにをやっても空回り、だれからも相手にされなかった女史がとうとうついに!
本書によって文化人に成り上がることに成功したようである。
NHKに登場することもあり、いまや我われの世代のオピニオンリーダーといってよい。
文庫版のあとがきを読むと、
うまく時流に乗った雨宮女史の人目もはばからぬ高笑いが聞こえてくる。
あれはドヤ顔(得意顔)ここに極まれり、といった文章で一読に値すると思う。
目立ちたい、有名になりたい、ただそれだけを目標にして生きてきた人間の勝利宣言だ。
本書で雨宮女史は努力の価値をなかば否定しているが、
とびきり痛い自己愛性人格障害のメンヘラ女性が作家先生にまで
成り上がった過程を思うと、あんがい努力も報われるのかもしれない。
努力は嫌いだったが、雨宮女史の大成功をまえにして少し考え方が変わった。

雨宮女史は連帯せよという。なんのためか。祭りを起こしたいのだろう。
ふたたび、なんのためか。女史は神輿(みこし)に乗りたいのである。
雨宮先生は夢追いフリーターの「なんとかなる」思想に疑義を呈している。
なんとかなんてならないぞ! いまこそ立ち上がれ! デモだ! 祭りだ!
神輿のうえに立つあたしをみんなで支えてくれ。そうれ、ワッショイ、ワッショイ!
祭りは神輿のうえの人間がいちばん楽しめる。
さあ、立ち上がれ。さあ、燃え上がれ。すべてはあたしのために! 輝けあたし!
これは本書の記述からだけではわからない。
むかしから女史の存在を苦々しく思っていたいわば同類(!)からの、
たぶんに嫉妬を含めた斜めからの見方である。
客観的に見たら雨宮女史の発言はそれなりに社会貢献をしているのではないか。
なかには神輿をかつぐことに生きがいを見いだすものも大勢いるのだろうから。

勘違いしているものも少なくないのでひとつだけ指摘したい。
いわゆる氷河期世代の識者(ってなに?)で
世代間格差をことさら強調するものがいるでしょう。
いわく、バブル世代はよかったのに、どうしてうちらだけが不遇なのか?
バカかよと思う。
まるで社会や人間全般をわかっていないオピニオンだと言わざるをえない。
世代間の平等もなにも、そもそも人間は不平等ではないか!
氷河期世代でも大企業に就職してうまうまと人生を謳歌しているものは少なからずいる。
同様、バブル世代にも恵まれず非正規雇用に甘んじている人間はきっといることだろう。
これは団塊の世代に言及するにしてもおなじことだ。
世代間格差を言うなら、特攻隊で死んでいったあの世代の若者たちはどうなる?
彼らに比べたらうちら氷河期世代もまだ恵まれているとは言えないか?
世代によって不平等というよりも、人間存在そのものがはなから不平等なのである。
どんな運動をしても人間は決して平等にはならないだろう。
ただし運動の先頭に立つリーダーはそれなりにいい思いができる。
まんまと狙っていたポジションに立つに至った雨宮女史の執念に拍手して本稿を終える。

「内なる声」(フィリッポ/里居正美訳/「現代世界演劇15 風俗劇」白水社)絶版

→イタリア産戯曲。
フィリッポはゴルドーニ、ピランデルロと並ぶイタリア三大劇作家のひとりらしい(解説)。
ひと言でいえば「つまらん」に尽きるのだが、それを言っちゃあ、おしめえってわけで。
「つまらん」と書けないから、多くの人間が読書感想文や書評で骨を折ることになる。
ぶっちゃけ、読書感想文なんざ、「つまらなかったです。」で終わっていいと思うのだが。

――「内なる声」は現代社会の構造と人間の深遠を告発した意欲作である。
ある日、善良なことで広く知られる一家が殺人罪で告訴される。
告訴したのは狂人で、殺人事件など実在しない妄想である。
むろん、無罪の彼らはおとがめなしで釈放される。
ところが、だ。一見すると善人面した一家は相互を疑い始める。
家族のだれかが殺人事件を起こしたと思ってしまうのである。
つまり、お互いの無罪を信用できない。
しまいには告訴をした狂人を殺してしまうことで話がまとまる。
現代における複雑な社会関係と人間関係のありかたを象徴的に提示した芝居だと思う。
……しかし、つまらない。

「事故」(デュレンマット/種村秀弘訳/「現代世界演劇15 風俗劇」白水社)絶版

「貴婦人故郷に帰る」で知られるスイスの劇作家、デュレンマットのラジオ放送劇。
自動車の事故でやむをえず田舎の豪邸に泊まることになった、
やり手セールスマンの悲喜劇。
人里離れた怪しげな屋敷に迷い込んだ主人公がなにものかの手玉に取られる、
というパターンはホラーものの典型ではないか。
身もふたもないことを言うと、まあ、お化け屋敷みたいなものだろう。
事故に遭う→日常からの逸脱→非日常の侵入→現実の異化(……ブレヒトみたいやね)。
観客は現実への新たな視点を与えられるという、
言ってしまえば教育目的を根底に持つドラマだ。
セールスマンは老人たちの「裁判ごっこ」ゲームに巻き込まれることで、
おのれの意識していなかった犯罪を糾弾される。

我われは他人が落とし穴に落ちるのを楽しむ(=笑う)だけではなく、
自分が(=感情移入した主人公が)落とし穴に落ちるスリルもまた
享楽として満悦できる存在なのだろう。
「怖いもの見たさ」とでも言ったらいいのか。
お化け屋敷で不意をつかれ「ぎゃああ」と叫ぶのもまた爽快なのである。

「気をつけて! 罠だ」(P282)

「後生だ、気をつけて!」(P282)


これらのセリフはジェットコースターの上昇部分に近いのだろう。
何度も脅されなければ我われは恐怖でさえも完全には味わえないということだ。
別の視点から言えば、人間は恐怖ですら楽しんでしまう困った生物なのである。

「自尊心」(マルク・カモレッティ/大久保輝臣・小島亢共訳/「現代世界演劇15 風俗劇」白水社)絶版

→フランス産戯曲。
これはよくできている。3千円支払って、この芝居だったら満足するだろう。
ケチだから5千円、6千円出したときにどう思うかはわからない。
コメディの原風景は落とし穴ではないかと思った。
コメディのみならず領域を演劇全般に広げてもいのかもしれない(不条理劇は除く)。
だれかをおとしめようと悪ガキが落とし穴を作る。
さあ、どうなるか? これほど観客がわくわくすることはそうないでしょう?
かといって、人間の思惑がうまくいくかどうかはわからない。
むしろ、思惑通りにいかないことのほうが多いのだと思う。
ふたたび、これが演劇なのであろう。
人間はなにかしらを目標に現実に対していわば罠を仕掛けるが、うまくいかない。
人間の思惑が覆される過程を描写したのが劇であるといってもよいのではないか。
たとえば落とし穴に話を戻すと、悪ガキの恋焦がれる美少女が登場するかもしれない。
このまま先に進んだら憎い教師ではなく好きな子が落とし穴に落ちてしまう。
しかし、落とし穴のあることを伝えたら仲間に片想いがばれてしまうと悪ガキは思う。
このときの葛藤もまた劇なるものの本質のひとつであろう。

倦怠感ただよう夫婦の物語である。
ふとしたことから妻は夫が浮気をしていることを知ってしまう。
問い詰めるとヤブヘビで逆に妻が浮気していたことを指摘されてしまう。
妻は自分がいないことにして、いまからこの部屋に愛人を呼ぶよう夫に強いる(=罠)。
夫も夫で、妻に愛人をいまから呼べばいいと提案する(=さらなる罠)。
そこにたまたま夫婦共通の友人である女性が訪問する。
この偶然から夫と友人の過去の密通を妻は知るにいたる(悔しい!)。
ドアのベルが鳴るたびに、だれが来るのかと人物が右往左往するのがとても楽しい。
茶目っ気のある夫は、なんとか現実を変えようと新しい仕掛けを試みる。
だが、妻は仕掛けを罠と見破り得意気に勝ち誇る。この合戦は芝居の見どころである。
なんのために見苦しい(のが芝居では見目良いのだが)夫婦合戦が繰り広げられるのか?
お互いの自尊心のためである。
人間がなんのために嘘をつくかといったら、たいがいの場合は自尊心が原因だ。
自尊心があるから男女ともに自分はもてることをパートナーに印象づけたがる。
逆に言えば、他人の自尊心を傷つけることで満足するのが、
世界でたったひとつしかない「私」の自尊心というものなのだろう。
「他人を思いやろう」ときれいごとに酔う自称教育者は多いが、
そんなユートピアを舞台にかけても客は満足しないのである。金を返せと怒鳴られる!
意地の悪い劇作家ほど上質な喜劇を観客に提供することができるのだと思う。
夫にとって妻をバカにするほど楽しいことはない。
妻にとって夫をバカにするほど楽しいことはない。
このバカバカ合戦こそ(恋人関係ならぬ)夫婦間における愛のかたちではないか?
というのが傑作喜劇「自尊心」の世界観である。
夫婦愛はストレートな純愛などよりよほど複雑で、
にもかかわらず、ではなく、だから人間的で(人間臭い!)おもしろいのである。
ひとつ、忘れてはならないことを強調しておく。

人をバカにするのは楽しい!

教科書にはなかなか書けない人間の真実である。
けれども、芝居を観にいけばだれでもすぐにわかることである。
それがいい芝居であるなら倍増しに「人をバカにする楽しみ」が理解できよう。

「恋をしている女は、恋と嫉妬に目がくらでいる……
文字どおり、自尊心に目がくらんでいるんだ!」(P239)


「トレヴァー」(ジョン・ボウエン/喜志哲雄訳/「現代世界演劇15 風俗劇」白水社)絶版

→イギリス産戯曲。
願っているのは、知的虚栄でも、芝居ビジネスにおける成功でもない。
ただただおもしろい戯曲を読みたい。そして感動したいのである。
つまり、生きているのもさほど悪くない、と思いたい。
なのに、なかなか名作戯曲には出逢えない。どうしてだろう。
どうして感動する作品にめったに巡りあえないのか――。

ルームシェアしている若い女性が二人。
そのうちの一人が昼日中のバーで見知らぬ青年をひっかけてくる。
部屋まで連れ込みお願いするのである。

「わたしたち、あなたに芝居をしてほしいの。
(「どんな脚本?」)
今日の午後だけのことよ。わたしの両親がお茶に来ることになってるの」(P125)


恋人のふりをしてほしいという臨時アルバイトの依頼である。
偶然が喜劇の糸をもつれさせる。
来る予定のなかった女性のほうの家族がいきなり来てしまったからである。
芝居は喜劇の典型といった進み方をする。
以下の引用は喜劇に共通する動作といえよう。

「ジェインが真青になって戻ってくる」(P128)

予定外のことが起こるから人間は慌てふためくのである。

「ねえ、最初に嘘ついたんだから、続けるよりしようがないのよ。
もしいまばれたら――」(P144)


嘘が嘘を作っていく! 
ひとつの嘘が次の嘘を作り、さらにその嘘が――といったように嘘がふくれあがり、
最後に爆発して本当のことがばれるのが喜劇なのだろう(ばれないこともあるけれど)。
舞台で見ていたらよかったのだろうが、
残念なことに紙の上では人物の動きを追いきれなかった。
すなわち、途中でわけがわからなくなった。
すれ違いや勘違いの連続といったト書きを文字だけで追うのは限界がある。
解説で知ったのだが、二人の女性はレズピアンの関係にあるのだという。
なるほど、だから即興で彼氏を仕立て上げる必要があったのか。
二人の同性愛関係をわたしは最後まで見破れなかった。色恋に疎いのだと思う。

「この夏、突然に」(テネシー・ウィリアムズ/菅原卓訳/「今日の英米演劇1」白水社)絶版

→アメリカ産戯曲。
大きな声では言えないが、もしかしたらウィリアムズは2作品だけの作家ではないか?
つまり、「ガラスの動物園」と「欲望という名の電車」のみの――。
うちには足で(金ではない)買い集めた大量のウィリアムズ未読戯曲がある。
かなり入手困難なものも多い。実際に読んだ日本人は極めて少ないと思われる。
結局のところ、自分で(読んで)確かめるしかないのだろう。
しかし、2作品だけの作家ではないかという予感があるからなかなか手をつけられない。
とはいえ、テネシー・ウィリアムズはおそろしい作家という認識に変わりはない。
もしあらかじめストーリーを知らずに「ガラスの動物園」や「欲望という名の電車」を
観劇したら、一生のあいだ芝居という麻薬から逃れられなくなるのではないか。
テネシー・ウィリアムズの名が広告に入っていたら、
たとえどれほど劇評で叩かれていようがチケットを買い求めずにはいられない。
「ガラスの動物園」と「欲望という名の電車」はそれだけの中毒性があるのである。
(幸か不幸かわたしはウィリアムズ作品を舞台で見たことがない)

「この夏、突然に」は非常にわかりにくい。
意味が取りにくい芝居を芸術的と賞賛するやからに、あるいは受けたのかもしれない。
劇は究極の秘密に向けて、もったいぶってのろのろと進む。
秘密というのはなんのことはない、たかだか同性愛(ホモセクシャル)である。
ウィリアムズが自身の性癖をことさらナイーブに取り扱っていたことがよくわかる。
でもまあ、いまを生きる我われからしたら、ホモなんてめずらしくもない。
「実はね、実はね、実はね」と何度も口ごもりながら、最後にばらされる秘密がホモ。
そういうお芝居である。
時代規範、社会規範(=人間は異性を愛すべき!)の強さに支えられた劇といえよう。

若い狂女が登場する。女は男性と海外旅行に行き、帰国したら気が狂っていた。
その男性が旅先で死んだのとなにか関係あるのではないか。
男性の母親はある秘密を世間から抹殺しようと精神科医を呼び寄せる。
狂女にロボトミー手術を施し、廃人にしてしまおうと狙っているのである。
ある秘密を隠すためにだ。精神科医とのやり取りでわかった狂女の秘密とはなにか?
男性が実のところ同性愛者であった!
狂女にわざと透ける水着を着せ、寄ってきた現地の男を彼は食っていたという。

秘密が芸術を作るのだとしたら、求められているのはタブーなのだろう。
いまインターネットによって、
次々と異常性愛告白、男女性器画像、変態妄想物語のタブーが覆されている。
どんどん秘密が秘密としてのパワーを失っているのだ。
あらゆることが「あ、そう」で片付けられかねない。
だとしたら、テネシー・ウィリアムズという劇作家は、時代が生み出した怪物なのだろう。

「ねずみとり」(アガサ・クリスティー/鳴海四郎訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)

→イギリス産戯曲。世界最長ロングラン記録をいまなお更新中とのこと。
結婚1年の若夫婦がペンションをオープンさせたその日に6人の客が訪れる。
第一幕の終わりで殺人が行なわれ、第二幕からは犯人探しが始まる。
万民から愛される芝居になっていると思う。
この舞台を嫌う人はほとんどいないのではないか?
しかし、反面、何度もこの芝居を観たがるものもいないような気がする。
いや、演劇ファンというのはわからんぞ。
芝居好きは、犯人がわかっているミステリー小説を何度も読むようなおかしさがある。
彼(女)は、ひたすら人間が好きなのだろう。俳優が好きなのだ。

劇構造は極めてオーソドックス。教科書のような典型が随所に見られる。
芝居は、結局のところ人の出し入れがすべてである。
人はいない人の悪口を言う! なんのことはない、これが演劇の基本中の基本だ。
それから人は噂話が大好き! ペンションに集った人たちは噂話に花を咲かせる。
芝居が進むにつれて明らかになるのは、それぞれの秘密である。
商業演劇は、ありきたりな日常を舞台にかけたりはしない。
芝居は十中八九、特別な日に起こった特別な事件である。記念日設定が多い。
本作品では、若夫婦の結婚記念日という特別枠に芝居が収められている。
雪で交通を寸断されたペンションに刑事がやってくる。
お決まりのセリフを発するのがおもしろい。

「いいですか、いま私の目の前にいる六人、この中の一人が人殺しだ!

  沈黙。一同は動揺して、不安そうに互いに顔を見合わせる。

人殺しはこの中にいる! (暖炉に歩く)それがだれなのかはまだわからない。
同時に次の犠牲者もこの中にいるはずだ」(P162)


もっとも犯人らしくない人間が犯人なのは言うまでもない(笑)。