いまさらながらではありますが、愚痴をこぼしますです。
しょぼーん、好きだったタレントさんが結婚してしまいました。
ギャル曽根さんと檀れいさんです。
後者は第3のビール「金麦」を買い支える理由でもありましたというのに。
万物流転ということであります。
常なるものなど無いと思え。世事皆変化するのだから。

よくさ、変わりたいとかいって、がんばっている三十代女子がいるじゃないですか。
三十代は女子ではないのではないか、といいたいわけではない。
ねえ、人生って努力したからといって変化するものではないんじゃあーりませんか。
自然に変わってしまうもの。
しかし、いつもがんばっている人は、その変化を自分の努力の結果と錯覚する……。

世界は無常だから変化してやまない。
なにをしていても、たとえなにもしていなくても、変わるものは変わります。
つまり、南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏もおなじということであります。
人間はなにかをしないではいられない。
そのとき唱えるものが題目でも念仏でも人生は無常だから変化は訪れるということです。

うっかりとんでもない真実をいってしまったのかもしれませんが、
本当のことを主張するものは迫害されるのが歴史の常識なのでどうか読み流してください。
しかし、憶えておいて。変化は起こすものではなく起きるもの!
アメリカドルよりも信用できないのはアマゾンのレビューではないか(書籍)。
ブログに読書感想文を書くため読むこともなくはないが、あれはひどすぎる。
わけのわからないのが「共感する」というレビュアー様の行為である。
内容に共感できたから星いくつ、
共感できなかったから星いくつという愚論がなんと多いことか。
あのさ、どうしてそんなに共感したいの? と言いたくなる。
読んでいてムカムカするような本とか、
かえってこちらのくだらぬ常識を否定されているようでいいと思うけどな。
本の評価は「面白い/退屈だ」しかないのではないか。
なかには「正しい/間違え」で判断する学者先生もいるかもしれないが。
少なくとも本は「共感できた/共感できなかった」で価値判断するものではない。
どうしてあんなに共感にこだわるバカがアマゾンには多いのだろう。
有名人がうっかりこんなことを書いたら「共感できない」と袋叩きに遭うはずである。
マーケティング方法のひとつに禁止があるらしい。
広告であえて買わないでということで買わせようとする商人の知恵のことです。
これを意識してか、たまにブログでも「読まないで」と宣伝文に書いてあるところがあります。
バーカ、なら読まねーよとひねくれたこちらは思う(ごめんなさい、実際本当に読みません)。
きっとみなさんもそうだと信じて言っちゃいます。
ブックオフオンラインでは買わないでください。
あまりにも安すぎます。
注文は3回目ですが、(初回は遅かったけれど)あまりにも注文してから来るのが早すぎます。
商品の状態も概していい。ほとんど新品同様。
みながみなブックオフオンラインを使ったら出版社や書店は潰れてしまう。
だから、みなさん、ネットのブックオフはスルーしてください。
(ええと、ひねくれた読者はマーケティング理論に逆らうはずですから……)
命令をされると消費者は反抗すると思っている宣伝者の逆を行くのが我われ(苦笑)。
それって命令に従うことじゃん? はい、そうなんです。
ブックオフオンラインから買わないのが(たぶん)正しい(のかどうか……)。

「人の心がつくりだすもの」(河合隼雄) ¥300
「心理療法入門 」(河合隼雄) ¥300
「未来への記憶(上)(下)」(河合隼雄) ¥500
「悩むなら美しく悩みなさい」(ひろさちや) ¥100
「捨てちゃえ、捨てちゃえ」(ひろさちや) ¥200
「けちのすすめ 仏教が教える少欲知足 」(ひろさちや) ¥250
「お念仏とは何か」(ひろさちや) ¥350
「クヨクヨ気分が晴れる本 こころがすっと楽になる9つの扉」(ひろさちや) ¥100
「ロマンティックな狂気は存在するか」(春日武彦) \100
「おふくろの夜回り」(三浦哲郎) ¥150


計11冊で2350円。
購入を決めたのは、どうしてかいちばん下の三浦哲郎氏の随筆集です。
こういう心理はぜったいにマーケティングからは理解されないと思う。

またもう、ひろさちやばかりヒロポンのように……と思われるかもしれません。
みなさんはどうしていかがわしい人間の面白味を理解しないのでしょう。
ひろ先生はこういう人物なんですよ↓

http://www.u-canshop.jp/hirosachiya/?cid=ovt170224

インチキ臭いでしょう。ええ、胡散臭いですとも。そこがいいのですよ。
こちらはリンクを張りませんが、もしひろ氏の講演会の写真をご覧になったら……
ごめんなさい、聴衆はいかにも負け組の老いぼればかり(本当にたいへん失礼!)。
先行きのない老人でさえ救う(騙す)教えなのだから、
まだ彼(女)らに比べたら若いわたしへの効き目といったらありません!
こんかいこれだけひろさちや(ヒロポン)を入荷しましたから、
とうぶんはかなりの不運に耐えられるはず!

(追記)書いていないだけで、古書市や古本祭にはかなり行っております。
みなさまに運よくお逢いできましたらこんな幸いはありません。
当方パンダの着ぐるみをまとっておりますので、よろしければお声をかけてください(嘘)。
自戒としてあまりラッキーだったことは人に話さないようにしている。
なんのことはない、天下人・河合隼雄氏の真似だ。
しかし、自身が不景気なときはあえて幸運を公開するのも悪くないのではないかと思う。
これは1ヶ月以上まえに近所のブックオフで経験した話である。

話は脇にそれるが、ネットでしか古書を買わない御仁もいらっしゃるのではありませんか?
ほしい本があるのならネットで買えばいい。わざわざ探すなど時間の無駄。
彼(女)はまったく古書店や古本祭に行かなくなる。
金で(本を探す)時間を買うという方法なのだと思う。
ノー! それはいけませんであります!

わたしもいまブックオフオンラインにはまっているけれど、
基本的にネット古書店ではほしい本しか買えないのだ。
いいではないかと抗議されるかもしれない。ほしい本を短時間で買えればいいと。
ううん、どうでしょうか?
それだとほしい本しか買えないではありませんか? まだわかりませんか?
古本屋めぐりやデパートの古書市は、探してもいない本がたまたま見つかるからいいのだ。
ネットでは探していた本しか買えない。
しかし、ぶらぶら歩きまわれば探してもいない書物との出逢いがあるのである。
効率ばかり追い求めちゃダ~メ♪ 無駄をラ~ブしよう♪

いちばんいい例(なのかわからないが)は「本の山」でいうなら、
「花過ぎ 井上靖覚え書」(白神喜美子/紅書房)だろう。
国民的作家・井上靖氏の元ご愛人による暴露本だ。
たまたま早稲田から高田馬場までふらふら歩いているときに見つけた。
こんな本があったのかと驚いたものだ。
当時、ネットではかの大作家の愛人の存在はほとんど知られていなかったと思う。
井上靖氏もご家族も関係者も、
まさか将来インターネットなるものが幅を利かすなどと思っていなかったのではないか。
弱小版元から出た暴露本など世間は無視するだろうと相手にしなかったはずだ。
たしかに出版当時はそうであった。しかし――。

世は移り変わり無常というほかない。
いま井上靖で卒論を書くものがいれば(いないか……)ネットで検索するだろう。
あるいはリタイアしたお年寄りが覚えたてのパソコンで調べるかもしれない。
そこでうちのブログがヒットしたら、
かならずやかならずや井上靖を見る視線が深まるはずである!

――はあはあ。なにが言いたいのか。足を使え、であります!
指先でクリックして古書を購入するのではなく、足を使って古書と戯れてください。
そうそう、あれは1ヶ月くらいまえだったか。
両手にスーパーの買物袋をぶらさげていました。
最寄り駅近くのブックオフのまえを通りかかる。
「雑誌・児童書半額」のチラシが!
たまたま見かけた広告に釣られてうっかり入ったら、そこには――。
井上靖の新潮社版全集が(第1巻を除き)すべて500円でした。
ブックオフではなぜか箱入りの文学全集は雑誌扱いだから250円!
あのね、たとえば井上靖全集別巻なら定価1万1千円なのよ。それがわずか250円。
暑さのためすでに汗だくでしたが、この光景にさらに汗が出る。
平均価格8500円の好きな作家の全集がどれも250円。目まいがした。

思い出した。この日は禁酒4日目だった。
ぱらぱら立ち読みをして、この全集はエッセイの巻が買いどころと見破る。
小説の巻は、ほとんど文庫で持っている(読んでいる)。
なかなか単行本に収録されないエッセイが全集ではきれいにまとめられている。
結局、買ったのは――。
「7巻(後期短編と初期戯曲収録)」「23~28巻(エッセイ収録)」「別巻」。
定価で買っていたら7万円近くしたものがわずか2千円である。
代金を支払い一度帰宅したあとオロナミンCをのみ自転車で引き取りに行った。
この日も禁酒して無理やりカレーライスを胃に押し込んだあと、
購入した井上靖全集をめくりながらどれほど楽しかったか!
ああ、池田大作との往復書簡まで収録されている(井上靖ぶんのみ)!
めったに読めない講演会内容まで入っている!
井上靖のあらゆる(ほとんどね)雑文を手に入れたということだ。
ここからどんな文壇ゴシップを知ることができるのだろう。
なにせ井上靖が選考委員を務めた新人賞の選評すべてがいまやわが手中にあるのだから。
もしその気になればたったの250円で買ったのだから、
お酒をのみながら大好きな井上靖のエッセイを読むことも可能(汚してもぜんぜんOK)。
そういえば井上靖も酒豪だったな。

だらだら書いてきたが、なにを言いたかったのか。
いやね、アハハ、この記事もお酒をのみながら書き飛ばしているから、
途中でわけがわからなくなってさ。
そうだ、思い出した。古本屋めぐりはいいだ。ブックオフも古本屋だからいい。
うん、たまたまを愛そう。無駄を愛そう。
なんの役にも立たないけれど本を読もう。時間と金の無駄でしかない酒をのもう。
ネットをぶらぶら散歩していたら、もうリタイアしている年下がいるのね。
すでにひと財産を築きあげて、
これからは資産運用しながら余生としてのんびり生きようと決意した年少者がいる。
こっちは一刻でも早く出世したい(世に出たい)と焦っているのに……。
どこに違いがあるのだろうと、しばし年少リタイア組のブログを読みふけったものだ。
なんでも缶ジュースを自動販売機で買ってはいけないらしい。
スーパーでならはるかに安く売っているペットボトルをあの価格で買うバカはいるか!
トホホ、おバカさんで~す。
炎天下にお散歩していて喉がからからに乾いたときなんか、
もうほとんど金額を見ないで自販機から冷たい飲み物を買ってしまう。
だから、金が貯まらないのか、くうう。
しかし、待てよ。
リタイアさんのブログを読んでいると、2千円近くするビジネス本を平気で買っている。
それ、お金の無駄じゃないですか? ブックオフなら、きっとそれ105円あるよ!
暑くて町歩きたくないなら、あるよあるよ、ブックオフオンラインあるよ!

「人生学ことはじめ」(河合隼雄) ¥250
「いいかげんのすすめ」(ひろさちや) ¥150
「世間の捨て方 日本がどうなっても楽しく生きるテクニック」(ひろさちや) ¥250
「ひろさちやのあきらめ力」 ¥250
「捨聖・一遍上人」(梅谷繁樹) ¥200
「恋愛のディスクール」(植島啓司) ¥150
「嫁ぐ娘、嫁がぬ娘へ」(山田太一編) ¥150
「懐かしドラマが教えてくれるシナリオの書き方」(浅田・仲村) ¥150


計8冊で1550円――。
驚くべきは、お盆直前に注文したこれらの本のうちもう6冊を読んでいること。
ネット古書通販が嫌いだったのは、立ち読みができないから。
味見ができないのがいやだったのだ。
このたびネット購入のプラス面もマイナス面も同時に味わう。
河合隼雄の「人生学ことはじめ」は氏の名言集(引用集)で、
まさにこういうものが読みたかった。
どうせ大した本ではないだろうと思っていたので現物を見て嬉しかった。
これは古典的な通信販売の楽しみかもしれない。
失敗したと思ったのは、ひろさちやの「いいかげんのすすめ」。
絶版になった過去の本からの丸写し(焼き直し)だった。
いまのひろさちや氏の奇天烈ぶりが好きなのに――。
現物を見ずにネットに記載された出版年度から判断したらすっかり騙されてしまった。

まあ、ひろ先生の本は騙し(インチキ)に満ちているからいいのである。
「人生は金じゃない」と言いながら印税目当てに新書を粗製乱造する氏の矛盾を愛している。
挫折や失敗という人生の傷にいちばん効くのはヒロポンならぬひろさちや!
このたび買ったヒロポンはもうすべて吸引してしまった。
するとあっという間に痛みは引いた。人生はいかにおのれをごまかすか!
あえて騙されるのがうまく生きるテクニックなのだろう。やはり死んではいけませんよ……。
努力は嫌いと公言しているとよくないらしいね。
なんでも世の人は(なかんずく成功者は)みなみな努力家だから、
努力をしていない人間は応援してくれなくなるらしい。
こつこつ努力をしているのを見て、こいつを引き上げてやるか、と思うとのこと。
あるいは、こいつを男にしてやりたいと(あ、いまでも疑惑は消えませんが当方男性ですよ)。
さて、いいですか?
おい、このブログを見ておれが努力をしていないと思っているやつ、一歩前に出ろ!
なーんちゃって! くすくす。驚いた? ごめん。

努力はよくわからん。自己申告するもんじゃーないと思う。
強制もなるべくならしないほうがいいのではないか。
コンクールに落ちるたびにうっとりするのね。ほうら、努力って報われないでしょと。
おれほど名作シナリオ、名作戯曲を勉強しているものはそういないはず。
しかし、賞は取れない。見たか、見たか、見たか!
山田太一さんさえ知らない人が大勢、脚本コンクールで受賞しているのが現状なのだ。
(ちなみに某シナリオ学校の自己紹介で問うたら半数近くが知らなかった……)

なにかを主張するとき、古典的な裏づけがあると信憑性が高まるのね。
まあ、結局はどのオピニオンもインチキで自己正当化に過ぎないのだけれど(苦笑)。
とはいえ、努力の効果は「オイディプス王」や「ハムレット」でとっくに否定されている。
オイディプスは努力したから不幸になったわけでしょう。
あんなにがんばって真実を知ろうなどとしなければ、のほほんと王様でいられた。
ハムレットだって、よけいな努力ばかりしている。
現状打破や真相究明を目指して努力した結果があの悲劇なのだから。
少なくともハムレットがもしあのようにがんばらなければ、
ポローニアス、オフィーリア、レアティーズ、実母、義父の5人が死なずに済んだ。

まあ、オイディプスやハムレット本人はけっこう楽しかったのではないかと思っている。
しかし、あれは大物役者だけが味わえる人生の歓喜だ。
増収や出世を目標とする小人腹が決して真似をしてはいけないことだと忠告しておこう。
あんまり努力をすると時に「オイディプス王」や「ハムレット」のような悲劇を招くと――。
多くの人が騙されている嘘に公募コンクールは実力というものがある。
コンクールは公正かつ平等だから、
かならず努力したもの、または実力のあるものが獲得するという信仰のことだ。
こういうデマを信じているのはせいぜいティーンエイジャーであってほしい。
いったい、いつの時代のどこの国に正しい審査があったというのか?
どうしてそれほど自分とおなじ人間を信じているのかと嘲笑いたくなるくらいだ。
いいですか、下読みをしているのはあなたとおなじ人間なんですよ!
あなたはご自分をどのくらい信用していらっしゃいますか?
わたくしはまったく自分を信頼できない。
その日の気分によって作品の感想は大きく変わります。
過去の(たとえば脚本コンクール)大賞受賞作品でも、
もし自分が下読みをしていたら一次で落としていたというのが大量にある。
審査=人の感想なんてそもそもいいかげんなものだ。
審査が四次まで渡る場合には、ことさら嫌われない無難なものが選ばれると思う。
ふたたび、公募コンクールのどこが実力の証明なのでしょうか?
あれこそ運の良し悪しが露骨に出る場というほかありません。
どうか落ちても気落ちしないでください。
そして、「こうしたら受賞できる」と宣伝している詐欺商法に引っかからないで。
「人生は努力しだいだから努力しろ」と我われを騙すことで大儲けしている人たちがいます。
彼(女)らを見ていて思うこと。
努力はするものではなく、他人にさせて自分が利益を得るものではないでしょうか?
「がんばれ」「努力しろ」と言う人はまず疑ってかかるのがいいと思う。
これはいつか成功したら披露しようと思っていた私事なのだが、
いつまで経っても成功しないし、今後もハテナだから書いてしまおう。
昨年生まれてはじめて頂いた原稿料で買ったものがあるのだ。
シナリオで手に入れたお金なのだからシナリオに投資しようと思った。
昨夏、新宿京王百貨店で開かれた古本祭で、
うさぎ書林さんから日本シナリオ文学全集全12巻を1万円で購入した。
売れっ子になったら経費でナンタラと怪しげな病的妄想をしながら、である(苦笑)。
こちらの経済感覚からいったら1万円は大金で、
支払ったとき目まいに近い興奮を覚えた。

数日前ふと思いついてこの全集を読み始めた。
裏を返せば1年間、読まないで放っておいた。
黒沢映画のシナリオを読んだらめっぽうおもしろいのである。通俗的で実にいい。
次に小津先生作品のシナリオに手をつけたら天地がひっくり返ったようだった。
読みながらどうしてか涙がとまらないのである。
読書しながらメモする癖があるのだが、いくつも「イイナ、イイナ」と記録した。
いまのところ「麦秋」ほど感動した映画シナリオはないといってよい。
テレビライター山田太一先生の作品以外で、
こうも胸打たれるシナリオがあるとは思わなかった。

重要なのは、自分で自分から読んだということなのだろう。
大学生が芸術学部や映像学科で課題として鑑賞させられたわけではない。
無理やりでない、つまり自然に触れたことがよかったのではないか。
小津作品といえばシナリオ学校の所長さんから「東京物語」だけは観ろ、
と言われて嫌々鑑賞したけれど、感想は「早送りしたい!」でしかなかった。
おそらく名作は他人から強制されたら輝きを剥奪されるのだろう。
古典にとって大切なのは、自分で自分から接すること!
「読みなさい」「観なさい」ではなく、「読んでみようか」「観てみようか」――。
たぶん小津作品など二十代で触れてもまったく価値がわからないと思う。

この個人的体験から一般論を述べるのは飛躍で暴論なのだろうが、
それでも書いておきたいのは、待つことがいかに大事かである。
待つ=あえて読まない時間はどれほど貴重か!
親や教師は名作を名作だからと早い時期に強制的に鑑賞させようとしてくる。
しかし、それでは感動作の味がわからなくなるばかりなのだ。
あえて名作を教えない、見せない、読ませないことが、どれほど若者を育てることか。
自分で自分から経験した真実ほど重いものはないのである。
うさぎ書林さんから買った日本シナリオ文学全集にはいささかラインがあったが、
それでもいい買物をしたと思う。
そもそもどうしてこの全集を買ったかといえば臨時収入があったからなので、
ここ数日に得た深い感動を、
去年お仕事をくださったプロデューサーさんに感謝してこの記事を終えよう。
(名作はガキをおとなにするのか。きれいできたないおとなに!)
有名な文学賞を受賞したある劇作品を読んでみたらひどくつまらないということがあった。
どう考えてもそれは受賞するレベルではない。
ところが、劇作家で文化人の某氏が諸手を挙げてその作品を激賞しているのである。
本の帯のみならず書籍の冒頭にも絶賛する文章を寄せているのでいぶかしく思ったものだ。
劇作家は女性だったので、有名文化人との情事を疑ったが、
最近真相(らしきもの)がわかった。あまりにも世界は透明だった。
なんのことはない、
くだんの女性劇作家は某洋酒会社経営者一族のお嬢さんだったのである。
文化事業にも積極的なその洋酒会社は、漫画「美味しんぼ」とは仲が悪いようだが、
個人的には嫌いな会社ではない。
かつてクレームがついたこともあるし、該当記事をこのたび削除した。
いまさら不平等がどうのと青臭いことを言うつもりはない。
人生は運であると固く思い定めていたら、
あらゆる不平等や理不尽を笑い飛ばすことができる。
人生は努力だと騙されている甘ちゃんが、この種の「お約束」に耐えられなくなるのである。
くだんの女性は権力者の娘に生まれるという運を持っていた。
ただそれだけの話で、持って生まれた運に、
人間の努力ごときでかなうはずがないではないか。

さて、人生は努力しだいだと思っていると、
ひどく心を病むようになる気がするがどうだろう?
おおらかに運という(人間を超える)偉大な存在を認めてしまえれば、
いまお苦しみのかたもずいぶん楽になれると思うのだが。
というのも三十路に深く分け入るとわかることだが、年下の成功者が山ほど出てくるでしょう。
あれがぜんぶ努力のおかげだと考えたら、自分を嫌いになってしまうのではないだろうか。
自分は努力が足らないんだと思ってばかりいては毎日が灰色になってしまう。
ちぇっ、運がいいやつがいるな。
しゃあない。あんなのは1万人にひとり、10万人にひとりだ。
そう自分をごまかしていくのがいちばん健康的な生き方ではなかろうか?
運を認め気楽に生きていたら、心療内科クリニックのお世話になることもないはずだ。
なるべくならテレビを見ないほうがいいのだろう。
なぜなら基本的にテレビに出演しているのは、
万にひとつの競争を勝ち抜いてきた人間ばかりだからだ。
このためなのだろう。テレビの人は「がんばれば夢がかなう」と言いたがる。
自分が蹴落としてきた何万人の人もまた、
必死の努力を(もしかしたら自分以上の努力を!)していたことに哀しいかな気づかない。
そして、それは仕方がないことなのだ。
だれもが自分の人生での体験から唯一の(しかし千差万別の)真実に行き着くのだから。
別の言い方をすれば、そこに生きる楽しみがあるのだろう。
人とは異なる自分だけの真実を発見していく過程が人生なのではないか。
人生は生きてみないとわからないということだ。
「強く生きる言葉」(岡本太郎/イーストプレス)

→おいおい、三十路の四捨五入したら四十のオッサンが岡本太郎だぜ。
再ブレイクした岡本夏生ならまだしも岡本太郎はないよな。
だれかとめてくれないか。
こんな本は高校生でも読んでいることがばれたら周囲からバカにされるのではないか。
だから、そうそう、どうにかしてオッサンらしい断念の言葉を採取しなければなるまい。
人生はあきらめが肝心なのだから。

「人に認められたいなんて思わないで、己を貫くんだね。
でなきゃ、自分を賭けてやっていくことを見つけることは出来ないんだ」(P9)

「成功しなくてもいいということを前提としてやっていれば、
何でもないだろう。思いどおりの結果なんだから。
逆に成功することだってあるかもしれないよ」(P61)

「心の底から平気で、出世なんかしなくていいと思っていれば、
遠くの方でちぢこまっている犬のようにはみえないんだ」(P162)


いえね、ボクはお犬さんではなく、パンダだけどさ♪
パンダは遊ぶのと食べるのと寝るのが大好き……らしいですよ!

「山頭火 漂白の跡を歩く」(石寒太監修・文芸散策の会編/JTBキャンブックス)

→カラー写真と解説で紹介されたこの形式の山頭火本は多々あるが断言しよう。
これが最高峰の山頭火カラー入門書である。なにより金をかけているのがよろしい。
身もふたもないことを言うと、文化とは金なのではないか?
清貧からは豊かな芸術は生まれやしない。文化は金が作るもの!
本書はJTBが版元だからか、とにかく金をかけているのがわかる。プアーではないのだ。
ライターの書く文章にも、山頭火が好きで好きで仕方がないといった気迫が伝わってくる。
逆説的だが、ノーギャラでも書くような人たちに大金を支払うとすごい仕事をするのである。
証拠は、この書籍の文章というほかないが。文化とはたぶん金なのだろう。

ほとんど働かなかった山頭火の生涯賃金などたかが知れたものである。
しかし、(嫌いな言葉なのだが)経済効果を考えたらどうだろう?
山頭火の句によって没後、どれだけの経済効果が日本にもたらされたか!
生前、山頭火の存在はどこまでも無駄でしかなかった。
だが、この無駄が後世の巨大な利益と結びつくなら、無駄の見方が変わりはしないか?
山頭火研究家のM氏など、ほとんど生涯を山頭火に食わせてもらったようなものなのだから。
本書から山頭火の言葉を引こう。

「私は恋といふものを知らない男である、
かつて女を愛したこともなければ、女から愛されたこともない
(少しも恋に似たものを感じなかったとはいひきれないが)、
……女の肉体はよいと思ふことはあるが、
女そのものはどうしても好きになれない」(P17)


若者に恋愛をさせると経済効果が高まるが(=不要なものを買うようになるが)、
山頭火の時代から、ことさら女を好きにならなければならぬという法はなかったのだ。
女ではなく女性と呼べと男を叱るような女に幾人が惚れるのだろう。

「私はただ歩いてをります、歩く、ただ歩く、
歩くことが一切を解決してくれるやうな気がします」(P50)


遊び=消費と刷り込まれた我われは、ただ歩くことの価値をすっかり見失っている。
徹底的に無駄を排し、いま儲かることだけを狙っていたら、
未来の日本は砂漠のようになってしまうのではないか。
無駄なこと。金にならない遊び。非生産的な行為。
もしかしたらこういったことへ投資することが将来への貯金になるのかもしれない。
大げさなようだが、人類全般における貯金である。
この種の行いは死後に成果が実ることも多いから費用対効果はたしかめられようがない。

「絵で読む老子 無為を生きる」(長尾みのる/小学館)

→イラストレーターの草分けの著者が77歳の喜寿にして手に取ったのが老子であった。
原文、書き下し文に墨絵のイラスト。
おまけについているのが、原文からイメージした著者のポエムである。
失礼ながらお歳のせいかポエムを読むと、少しだけもしかしたら著者にボケが……。
批判しているのではない。むしろそこが赤子のような純真を感じさせてよかった。

河合隼雄にも強い影響を与えた老子の教えは結局、このひと言に尽きるのだと思う。

「無為をなせば、すなわちおさまらざるはなし」(P15)

無為をなすという考え方がすばらしいのだろう。
なにか問題が起こったとする。我われは解決策をいろいろと考える。
それはたとえれば入試の三択や五択の問題のようになる。
どの選択肢が正しいのだろうと我われは頭を悩ます。
しかし、もうひとつの選択肢のあることを老子は諭しているのである。
選択肢すべてをやらない。どの選択肢も実行しない。
これが無為をなす、の意味である。自然にまかすという方法である。
ちっぽけな人間の考えた選択肢など信用しないという生き方だ。
とはいえ、白紙答案を出すのにどれだけの勇気がいることか。
無為とは自然にまかすことである。なぜなら――。

「希言は自然なり。ゆえに瓢風は朝を終えず、驟雨は日を終えず。
たれかこれをなす者ぞ、天地なり。
天地すらなお久しきあたわず、いわんや人においてをや」(P55)


自然にまかすとは天に従うということだ。地に立脚しているということだ。
結局のところ、世事人事みなみな決定するのは天地なのである。
やまない雨はない。台風はかならず去っていく。
人間が雨をやませるのではない。人間が台風を除去するわけではない。
さて、無為自然という。どうしたら無為にいたれるのか。

「学をなせば日に益し、道をなせば、これを損してまた損し、もって無為にいたる。
無為なればなさざるはなし。天下を取るは常に事なきをもってす。
その事あるに及びては、もって天下を取るに足らず」(P107)


あえて損をするようにしたら無為にいたると老子は言う。
重要なのは、たぶん得ることではなく失うこと。増やすことではなく減らすこと。
知識を増大するよりも、むしろ忘れること。人とは異なる逆転の発想だ。

「為無為、事無事、味無味」(P137)

ここだけ原文を引いた。なんだか座右の銘にしたいほどである。
書き下し文は、「無為をなし、無事をこととし、無味をあじわう」――。
最後の「無味をあじわう」は山頭火の「へうへうとして水を味わう」の境地だろう。
老子は自己啓発本と正反対である。

「なす者はこれを敗り、とる者はこれを失う。
ここをもって聖人は、なすことなし、ゆえに敗るることなし。
とることなし、ゆえに失うことなし」(P139)


やるから失敗するのである。財産を得るから、それを失う不幸があるのである。
ならば、幸福になろうとするから不幸になるのではあるまいか。
なにもしなくても冬が終われば春が来るが、
いまは自分の努力で春を人工的に作ろうとする愚か者がいかに多いか!
ただ夜が終わり朝が来ただけなのに、それを自分の手柄と誇るものがどれほどいるか!
やるから失敗する。得ようとするから失ってしまう。
なにもしなくても=無為をなしていても、自然に変化は我われにもたらされる。
これが老子の教えであろう。

「作者を探がす六人の登場人物」(ピランデルロ/岩田豊雄訳/「名作集」白水社)絶版 *再読

→イタリア産戯曲。
さすがノーベル賞文学者、ピランデルロの代表作だけのことはあり、
芝居と人生についていろいろな解釈ができるように幾重にも劇が仕組まれている。
7年ぶりに再読してみて、はじめてその深さに気づいた部分も多い。
芝居は不幸な六人の家族=この劇の登場人物が舞台監督を訪ねることから開幕する。
六人の登場人物は自分たちの不幸を芝居にしてくれと舞台監督に頼むのである。
いちばん乗り気なのがもっとも不幸を味わった養女なのが印象深かった。
彼女は貧困から売春婦にまで身を持ち崩し、
あわや母親の前夫に買われようとするという不幸を経験する。
のみならず、弟のひとりの事故死、
さらにもうひとりの弟のピストル自殺という不幸にまで見舞われる。
ところが、なのである。
もっとも事件の舞台化に熱心なのが、この薄幸の養女なのだから!
実人生(=現実)では不幸なことも、舞台上(=虚構)ではむしろ見せ場になる!
この思考法はかならずや多くの苦悩者を救うはずである。
妻がひどい狂人だったピランデルロもこの逆転の法則にどれだけ救われたことか!
不幸は不幸ではないのである。不幸は役者にとっての見せ場だ。

だから、不幸は幸福なのだ!

六人の登場人物は、舞台監督と大勢いる役者のまえで自分たちの不幸を再現する。
このように芝居をしてくれと役者たちに注文を出すのだ。
いや、もう六人の登場人物はままならぬ人生を生きる苦悩者ではない。
再現ドラマを演じるかぎりにおいて彼(女)らはすでに役者である。
繰り返すが、人生での不幸を舞台で再現するとき、
その場を演じる役者は視線が自分に集中するのを感じる。つまり、不幸は見せ場なのだ。
このためもっとも不幸を味わった養女は狂気を疑うほどはしゃいでいる。
演じる喜びを深く知るがゆえだ。養女は舞台監督を急かす。

「養女 (遮って)愚図愚図しちゃいやあよ……早く演(や)らして頂戴よ、
 あたしがどの位あの場を演りたがっているか、よく知っているじゃありませんか。
 あの人さえよければ、あたしはすぐに始めてよ……」(P42)


ところが、養女と舞台監督は衝突してしまう。
養女は真実(ほんと)にこだわるが、
一方の舞台監督はそれでは芝居にならないと拒絶するからである。
真実をそのまま芝居にしたら芝居にはならないという虚実の矛盾である

「養女 だって真実(ほんと)にそう言ったんですの!
舞台監督 真実でも嘘でも、どうでもいいですよ!
 ここでやるのは「芝居」なんですからねえ!
 真実は真実として、或る程度まで認めて置けばいいんですよ!」(P50)


養女は抗議する。真実にこだわらないでどうする!? 真実、真実、真実だ!
実人生では忍耐だけが拠りどころであった養女が舞台では自己主張する。
「あたしは自分のドラマが演りたいんです、自分のドラマを」――。
これに反論する舞台監督のセリフ(演劇論)は、
おそらくほかならぬピランデルロその人の人生論でもあったのではなかろうか?

「舞台監督 (困って両の肩を動かし)自分のドラマをっておっしゃるがね――
 実際を言うと、あなただけのドラマというものは存在しないんですよ!
 まだ他の人のドラマもあるんですから、
 (父親を示し)例えば、あの人のドラマもあれば――
 あなたのお母さんのドラマもある!
 一人の登場人物だけが花形になって舞台の幅を取り、
 他の連中の芝居を食ってしまうなんてことは、慎まなくちゃいけませんからなあ。
 すべての登場人物が一緒になって、しかも自分に許された領分だけを守り、
 一幅の渾然たる画面をつくる――これが芝居の掟なんですよ」(P50)


私の人生(=ドラマ)であなたが脇役であるのと同様に、
あなたのドラマ(=人生)においては私が脇役であるということだ!
長年、狂った妻の脇役(敵役)を演じるほかなかったピランデルロの到達した人生観だ。
ピランデルロの名作芝居から我われはなにを学んだらいいのか。
たとえひどい不幸でもおのれを役者だと考えたらむしろそれは見せ場で演じがいがある!
他者の人生(=芝居)において自己は脇役でしかないという断念を持つこと!
よしんば脇役であっても演じる喜びが皆無ではないことを知ること!
実人生での艱難辛苦を芝居で快楽に変質せしめた天才劇作家の教えである。

「各人各説」(ピランデルロ/梅田晴夫訳/「名作集」白水社)絶版

→イタリア産戯曲。
タイトルは「各人各説」。意見は人それぞれ。
しかし、ピランデルロはさらなる主張をする。
自分の意見、感想、感情だって、日によってまちまちではないか?
「私」なんていうのは、もしかしたら存在しないのかもしれない。
確固たる「私」が存在するものなどいたら手を挙げてくれ!
人は日によってころころ意見を変えるものなのである。
それをおかしいというほうがおかしいのであって、そもそも一貫した「私」など存在しない。
うっとり語る愛情なんかも、その点まこと人間的な感情で、あっという間に消えてしまう。
かと思えば、ひょんなことから再燃するようなこともないとはいえない。
狂人の特徴として挙げられるのが一貫してない発言や行動だとしたら、
もしかしたら我われ全員が狂人なのではないだろうか?
それほどに我われはみな「私」を持たず、にもかかわらず「私」があるように振る舞う。
露悪趣味のあるピランデルロはこの芝居で劇評家を登場させ、
彼らにまさにこの舞台を手厳しく批判させている。
だが、その意見も翌日には変わっていることを示唆する。

ドロという青年が叫ぶ。「僕が気が違ったというでしょう」――。
自分は気が違ってなどいないとドロは説明する。
みなさんは「僕」の言動を狂人だと判断するかも知れないが、それはどうだろう。

「ああ、そりゃあ馬鹿げたことを山ほど言ったこってしょうよ。
僕がその時何を言ったか憶えているとお思いですか?
言葉は次から次へと出てくるものですからね。
しかしまァいずれにせよ、人間は誰しも、
ある出来事に対して自分の思うままに考える権利を持っているはずです。
誰でも一つの事実を自分にそう思えるように解釈しても差支えないはずです。
今日はこんな風に、そして明日になればまた違った風にね」(P346)


ピランデルロはきっと狂った妻を最大限に理解しようと努めたのだろう。
結果得られた真実は「各人各説」である。
事実はひとつなのだろうが、真実は人の数だけあるのではないか?
なぜならそこには不思議極まりない人間の解釈というやつが介在するからである。

「未知の女」(ピランデルロ/中田耕治訳/「名作集」白水社)絶版

→イタリア産戯曲。
テーマは「御意にまかす」とおなじで、真実なんてあるんだろうか?
ピランデルロがおなじことを何度も書いているのは、
それが書かざるを得ないことだったからなのだろう。
正気の世界の馴れ合いが、狂気の侵入によっていかにかんたんに壊されるか!
本当のところは、みなが不確かななにかを盲目的に信じていることで世は回っている。
しかし、真実に存在しているものなど本当はなにもありはしないのかもしれない。
多数派が目配せしあって在ることにしている現実など実はもろいものなのだ。
我われは狂人と立ち向かうと正常がかくも弱かったことにショックを受けるはずだ。
なにかが正しいというのは、
所詮多数派の幻想に過ぎないのではないかという真実をピランデルロは舞台に上げる。
かのノーベル賞作家の示す真実は、真実などどこにもないという劇世界である。

この芝居でいちばん問題になっていのは金である。遺産相続問題だ。
戦時中の10年前、複数の敵兵にレイプされて失踪した新妻がいた。
旦那はあきらめず10年後に見つけ出したのが「未知の女」である。
彼女は異国でダンサーをしていた。いまは人気作家の愛人になっている。
説得されて実家の別荘に戻った「未知の女」だが、自分かだれかわからない。
記憶を喪失しているのだから仕方がない。
たしかに外見は疑いもなくそっくりなのである。
とはいえ、財産問題がからんでくるので、彼女を偽物ではないかと疑うものもいる。
決定的に疑いが生じるのは、かつての愛人が本物を連れてきたからである。
愛人の作家は、本物の失踪女性は精神病院にいるこの狂人だという。
狂女は哀れなことにひどく落ちぶれた様子でほとんど廃人同然だ。
容貌もむかしとは似つかぬものとなっている。
さて、この狂女と「未知の女」のどちらが本物の失踪女性なのか?
旦那や妹は二人を見比べる。本当にレイプされたとしたら、
むしろ狂人になるほうが本当ではないかという説はもっともらしい。
しかし、外見から見たら「未知の女」が本物としか思えないのである。

おそらくピランデルロはこう言いたかったのかもしれない。
あらゆるものは偽物で多数派がそのときたまたま支持するものがかりそめの真実となる。
本物とはただ多数の人間がそう信じているだけで、いわば幻想のようなもの。
本当はすべて偽物なのではないだろうか。
紙幣など紙くずに過ぎぬのだが、みんなが信じているからそれは商品と交換可能になる。
価値の象徴とも言うべき金(きん)でさえ、
多数派の幻想によって成り立っているはなはだ頼りない存在ではないか。
いざ食べ物がなくなったら、いくら金を差し出しても交換などしてもらえるものか!
ましてや人間など、本物も偽物もあったものではない。
あなたがあなたである証拠も、私が私である証拠もない。
あなたの正気も私の正気もたまたまの幸運で、
いつ少数派の狂人に仲間入りさせられるかわかったものではない。
皮肉屋のピランデルロは芝居の裏側でいつも悪魔的な哄笑をしているのである。
「あっはっは! あっはっは! あっはっは!」――。
笑いの意味するところは、いいか、なんにもないんだぞ、すべてが嘘だからな!

人生など猿芝居に過ぎぬことを「未知の女」はよく知っている。

「未知の女 ほらね、伯父さま、これは喜劇よ、私が演技しようってお芝居。
 私がどんなふうにあなたに見えたり、どんなふうにレナに見えたりするか、
 十年も行方不明で、敵兵の全部に犯されたかも知れない女を、
 ひとがどんなふうに見出すか、――そういった喜劇。
 今にわかりますわ――今に」(P283)


「本日は即興劇を」(ピランデルロ/諏訪正訳/「名作集」白水社)絶版

→イタリア産戯曲。
高いお金を支払ってこんな芝居を見せられたら1週間は不愉快になると思う。
けれど、うーん、イタリア人はこういう悪ふざけを許容する胆力があるのかしら。
こちらの心が狭いだけなのかな。
コンメディア・デッラルテなんていう即興劇が生まれた国のことはわからない。
開幕すると演出家が出てきて、これから即興劇を始めますと宣言するわけだ。
もちろん、実際は即興劇ではなくピランデルロが台詞も動きもすべて指定している。
そのくせ、見せ場を削られそうになった俳優が不貞腐れたりするという最新演劇(苦笑)。
まあ、しかし考えてみたら日本のバラエティ番組の先取りをしていると言えなくもない。
ああいうくっだらない脳味噌がすかすかになりそうなバラエティ番組、
実は即興劇(アドリブ)ではなく構成作家がほとんど書いてるって聞くしね。
「やらせ」問題にも通じる根本的な劇世界におけるひずみを劇作家は取り上げた。
しかし、壮絶に退屈である。
こういう劇世界を許せますかとみなさんに問いたい。ったく、学芸会かよ!

「演出家 どうしたんだ?
父親 われわれは失敬しますよ、先生。……
演出家 失敬するってどこへ?
父親 家にですよ。……
俳優 芝居はとりやめ。……
ヴェリ あなたがここにいるかぎりはね。……
他の俳優たち あなたが出ていくか、われわれが出ていくか、二つに一つだ!……
演出家 最後通牒かね……とんでもない……
俳優たち それじゃあ、結構、さよなら。
 ええ、行きましょう。
 あやつり人形じゃないんだから。
 さて行くとするか。

  彼らは退場しかける。

演出家 君たち、説明してくれ給え。
 ……それに、お客さんのことをまずよく考えてみてくれ。
 少くも、入場料を払ってお出でになった皆さんのことを。……」(P232)


おい、ほんとに客のことを考えてんのか、こらっ!

「ヘンリイ四世」(ピランデルロ/内村直也訳/「名作集」白水社)絶版

→イタリア産戯曲。
おととし日本で上演されたときは事前に史実説明のためのチラシが配られたらしい。
正直、読み始めてから最後までよく意味がわからなかった。
解説を読んで、ああ、そういうことなのかと気づく。
20年まえの仮装パーティーでヘンリイ四世になった男が落馬したとさ。
落馬のショックで男は気が狂い、自分をヘンリイ四世だと思うようになる。
この男の姉が資産家だったから、本当のヘンリイ四世のような生活を以後送る。
つまり、お城で古い衣服を着て、バイトで雇われた家臣にかしずかれながら。
だれかが来ないとドラマは始まらない。
男を治すために20年ぶりに逢いに来たものがいる。
かつての恋人とその娘である。それからむかしの恋敵、精神科医。
ドラマの過程で男が8年まえには正気に戻っていたことが露見する。
閉幕直前、男は自分がきちがいであることを証明するために恋敵を剣で刺す。
要するに、現実ではなく「ヘンリイ四世」という虚構を生きることを選択したのである。

俳優が舞台やテレビドラマで織田信長を演じるのは精神医学的にセーフ。
ところが、俳優ではない一般人が自分は織田信長だと言ってしまうとアウト。
いつ人を殺してしまうかわからないから精神病院へ措置入院かもしれない。
だけど、考えてみたらおかしいとも言えるわけである。
というのも、やっていることはおなじなのだから。
俳優は織田信長をやるなら、その役になりきらなければならない。
だとしたら、自身は織田信長だと語る狂人は最高の俳優ということにならないか?
だれか別の人になるというのはどういうことなのだろう。
おそらく「あるがまま」を拒否するということなのだと思う。
ならば、それは人間の根本的な生き方にも通じる。
「あるがまま」に満足できない人間がいっぱいいて成長を目指しているのだから。
しかし、とも思う。「あるがまま」の自分なんて本当にあるのだろうか?
我われはたえずなにかの役割を演じているだけではないだろうか?
もしそうだとしたら、自分の役を拒絶した狂人にはどういう意味があるのだろう。
このような筋道をたどってピランデルロは「ヘンリイ四世」を書いたのではないか。
芝居として成功したかはわからないが、
いかにもノーベル文学賞と縁がありそうな難しい劇作品になっていると思う。

「君がその役をうまく演じてくれればいいんだ」(P134)

「考えてみれば、一体われわれは誰なんだ?……これは仮りの名前にすぎない」(P134)


「御意にまかす」(ピランデルロ/岩田豊雄訳/「名作集」白水社)絶版

→ピランデルロ(1868-1936)はイタリアの劇作家。
1934年にノーベル文学賞を受賞している。
ゴルドーニもいるにはいるが、
このピランデルロをイタリア最大の劇作家と言ってしまっていいのではなかろうか。
芝居の特徴は哲学的なところ。まあ、難しいわけである。
観客を「さあ、どうだ?」と挑発するような煽るような芝居を書いた。
当然、好き嫌いが大きくわかれる劇作家である。
一貫してテーマにしたのは狂気。
つまり、正常とはなにか? 本当は真実などないのではないか?
というのもピランデルロの妻は狂人で、
劇作家は彼女の激しい嫉妬妄想、迫害妄想に長く苦しめられたからだ。
このため作品は哲学的だが同時に(私小説ならぬ)私戯曲といった面も強い。
「作者を探す六人の登場人物」で有名だが、私見では「御意にまかす」が最高傑作。
私選の海外戯曲ベスト10にはかならず入れたい名作である。

スウェーデンの劇作家、ストリンドベリは自身が狂人だった。
ピランデルロは逆に狂人との長期にわたる苦痛に満ちた生活を余儀なくされた。
すなわち、なんどきも正常人であることを強いられた。
ひたすら狂人から謂れのない攻撃を受けた正常人ピランデルロの生活は地獄であったろう。
才能ある人間は地獄を書くことで救いを見いだす。
狂熱地獄と正面から向き合ったという点でピランデルロとストリンドベリは共通している。

入手困難な作品だし訳も古い。あらすじを説明しようと思う。
新参者が現われることで舞台は開幕する。
県庁にポンザという男が新しく赴任してきた。ところが、この男の評判がよくない。
なんでも妻を塔のような住居に監禁しているというのである。
そのうえ、もっとひどいことには、妻の母を虐げている。
ポンザは義理の母、フロオラ夫人を別居させている。
のみならず、二人の対面を妨害しているというではないか。
ポンザは妻と義母のフロオラ夫人を逢わそうとしない。
フロオラ夫人は毎日のように娘に逢いに行き、庭から塔の頂上にいる娘と顔を合わすという。
会話のやり取りはない。手紙をやり取りするだけである。

おなじ県庁に勤める課長のアガジとその妻は憤っている。
なぜなら近所に住んでいるフロオラ夫人が挨拶に来ないからである。
こちらから挨拶に行っても、あろうことかポンザに門前払いされてしまった。
部下の分際で失礼極まりないではないか。
そこにフロオラ夫人がやって来て事情を説明する。
どうか娘の婿、ポンザを責めないでくれとアガジに懇願するのである。
ポンザは嫉妬深い性質なので、あれはもうあきらめている。
自分は毎日、娘の顔が見られるだけで満足している。
どうかポンザを許してあげてくれないか、と頭を下げるのである。
アガジと妻、噂好きの主婦連中はすっかり可哀相なフロオラ夫人に同情してしまう。

ところが、である! 直後にポンザがアガジの家を訪れる。
ポンザはみなにこう説明するのである。フロオラ夫人は4年前、気が狂ってしまった。
あれは狂人(きちがい)なのである、と。どういうことか。
実はフロオラ夫人の娘は4年前のコルシカ大地震で死んでしまった!
ポンザは後妻をもらったが、
ふとしたはずみで狂人のフロオラ夫人は後妻を自分の娘であると勘違いしてしまった。
そのときの喜びと言ったらなかった。妄想に救われたのだろうとポンザは思った。
とはいえ、後妻はたまらない。見知らぬ老女に娘と呼ばれるのだから!
このためそれぞれを守るためにいまのような関係性ができている。
ポンザの説明を聞き、一同は納得する。

ところがところが、ポンザが去ったら、またフロオラ夫人が現われるのだから!
夫人は言う。ああ、婿のポンザはなんと可哀相な人なのだろう。
いまポンザは自分のことを狂人と言っていたのではないか?
毎回、どの地域に赴任してもこうなのだという。
ポンザは自分を狂人だと言いふらして回る。
本当のところはこうなのである。ポンザはたいへんな激情家である。
新婚当初は激しい愛情のあまり娘にきつく当たるようなところもあった。
このままでは娘がおかしくなってしまうとフロオラ夫人は娘を入院させた。
おりしもコルシカの大地震である。ポンザは錯乱して妻は死んだと思ってしまった。
その後ポンザもだいぶ落ち着きを見せてきたので娘を退院させた。
しかし、どうしてもポンザは妻が生きているということが認められない。
仕方なく、周りが調子を合わせ再婚したということで同居させた。
この話を聞いていた噂好きの主婦が「じゃあ、狂人はあの男のほうなの?」と聞く。
愛情あふれるフロオラ夫人は首を振る。
ポンザは娘を愛しているがために一連の異常行動をしているのである。
自分はポンザに感謝している。不満に思ったことはない。
その場にいたものはみな慈悲深いフロオラ夫人に同情してしまう。

さあ、ポンザとフロオラ夫人、どっちが狂人なのだろう!
真実はどちらなのだろう?
人間はこの状態に耐えられないようにできている。
しかし、まさにこの状態に観客をいざないたいがために、
ピランデルロは悪魔的な微笑を浮かべながら劇を仕組むのである。
毎日のように狂人の妻から攻撃された劇作家はかならずやおのれの正常を疑ったはずだ。
もしかしたら妻のほうが正しいのではないかと何度も思ったのではないか。
ふたたび、ポンザとフロオラ夫人である。どちらが狂っているのか?
ひとつだけ確かめる方法があるのにお気づきになったかたはいますか?
そう、ポンザ夫人を呼んで問うたらいいのである。
後妻なのか。それともフロオラ夫人の娘なのか。
しかし、劇的構成を熟知しているピランデルロはもったいをつける。
焦らすのである。うまいと拍手したね!
そのまえにポンザとフロオラ夫人が一同のまえで対決するシーンを作る。
ポンザは激昂する! お義母さんたら、また嘘を言いふらして!
周りを味方につけているフロオラ夫人は、ほらね、と余裕の目配せをしている。
目配せの意味するところは――。。
「おかしいのは婿のほうなの。でも可哀相な人だから許してあげて」
そこにとうとう覆面をしたポンザ夫人が現われる!
本当のことが暴かれる恐怖に、敵対していたポンザとフロオラ夫人はおののき、
仲良くいたわりあって退場する。

妻は退場する夫のポンザに「心配することはありません」と声をかける。
いったいどういうことなのだろう。

ポンザ夫人 (ゆっくり、冷やかに)一言? 
 真実を申せと仰しゃるんでございますね?
 真実と申すのは、ほかでもございません――わたくしは、
 たしかにフロオラ夫人の娘なのでございます。
一同 (満足の吐息をついて)ああ!
ポンザ夫人 (続けて)そうしてまた、ポンザの二度目の妻に相違ございません。
一同 (びっくりし、呆気にとられ、低い声で)ええっ! そりゃなにごとです?
ポンザ夫人 (続けて)そうなんでございますの……それから、
 わたくしにとってわたくしは……誰でもない、誰でもない人間なのでございます。
知事 いや、そんなことはありません!
 あなた御自身は、奥さん、二人の中の一人である筈です!
ポンザ夫人 いいえ、皆さん、わたくし自身は、
 人が信じてくれる、その人間なのでございます!」(P128)


最後にピランデルロを思わせる皮肉屋のロオジンが高笑いして閉幕する。

ロオジン どうです、皆さん、これが真実って奴ですよ!
 (皮肉な軽侮の目を投げ)これでざそ気が済んだでしょうな?
 (笑の爆発)あっはっは! あっはっは! あっはっは!」(P128)


どちらが狂っているかの判定は観客それぞれ「御意にまかす」というわけである。
ピランデルロは真実がひとつではないことを劇的に証明してしまったわけである。
絶対的に正しいひとつの答えはなく観客それぞれの答えがあるのみである。
ちなみにわたしは全人生経験を賭けて、狂人はフロオラ夫人だと断言する。
フロオラ夫人の娘は死んでしまっているのだと思う。
ポンザと後妻は優しいからフロオラ夫人の妄想につきあってあげているのだと思う。
しかし、この正しさは本文からは証明できないので絶対的ではない。
もしポンザが狂人だと主張する人がいたら、その誤りを証明することはできない。
ただピランデルロ夫妻の家庭環境に近似した生活を子どものころ経験しているから、
その実体験に賭けて狂っているのはフロオラ夫人のほうだと言い切ることができる。
とはいえ、どこまでも正答は「御意にまかす」でしかない――。

青空文庫にあるので、お気が向きましたらあなたの答えを見つけてください。
まあ、パソコン画面からあの分量は読めないでしょうけれど。

ピランデルロ「真実は銘々に」
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person887.html


古い戯曲を読み漁っていると、こういう大傑作と出逢えるからよろしい。
実のところ、新しいものなどもうないのかもしれない。
すべてが書かれてしまっているのかもしれない。
自分のテーマと似通った先行作品を発見すると嬉しくなる。
ああ、この人も、ピランデルロも自分とおなじように苦しんだのだな、とわかるからである。
ストリンドベリやユージン・オニールがそうであるように、
ピランデルロもまた「わたしの作家」である。

「売れないのは誰のせい? 最新マーケティング入門」(山本直人/新潮新書)

→とてもよくできた本。よく名前を聞くけれど
実態がよくわからないマーケティングについてわかりやすく書かれている。
2時間強でマーケティングの基礎知識が得られ満足度は極めて高い。良書だと思う。

マーケティングとはなにか? 効率的に商品を売る仕組みである。
どこをマーケティングはいじるか? 4Pだ。
製品(Product)――いまなにが求められているか?
価格(Price)――安いほうがいいのか? 高いほうがいいのか?
流通(Place)――どこで売ればいいのか?
プロモーション(Promotion)――消費者への告知=宣伝をどうしたら売れるか?

「マーケティング活動をおこなうためには、
四つのPの観点でもっとも効果的な手を打っていく。
そして、どのような手が効果的かを見極めるためには
集積・体系化された知恵を具体的事例に即して学ぶことが重要になる」(P21)


著者の主観によると、
あらゆる業種でマーケティング信仰(失礼!)が始まったのはバブル崩壊以降らしい。
マーケティングが重視されるようにいたった背景は以下である。
1.競争が激化した(規制緩和、安売り合戦)。
2.社会が成熟した(大衆が広告に騙されなくなった)。
3.情報環境が激変した(インターネットの普及)。

おそらくマーケティングとは(個人ではなく)企業の成功マニュアルなのだろう。
この小著でマーケティングが理解できたという錯覚のもとに、
とんでもない発言をしようと思う。マーケティングってインチキじゃないですか?
いわば経済学と心理学の実践版がマーケティングなわけでしょう。
つまり、過去の知恵の集積のもとに売れる新商品を4P各分野で打ち出す。
「こうしたらかならず売れる」という(自称)科学的=学問的な成功法則。
そんなもんあるわけないじゃん、バーカ!
――と人生経験豊富なお年寄りなら醒めた目で見破れるのではありませんか?

どういうことかと言うと――。
「たまごっち」が売れた理由は後付けでいくらでも説明できるけれども、
その理論からは「たまごっち」のような新商品を生み出すことができない!
せいぜい「たまごっち」の模倣品、後発商品を売り出すくらいが関の山!
つまり、マーケティングで得られるのは小さな成功で大ヒットではない!
失敗は減らせるかもしれないが(それもどうだか……)大成功は望めない!
まあ、大ヒットした商品というのは言うなれば偶然なのね。たまたま売れた。
計算して作れるものではない。むしろ計算度外視から大ヒットは生まれる。
人生が思うようにいかないのに、どうして商売でなら思うようにいくと思うのか?

ところが、こういった常識=世間知に欠けるものがいまは多いのだろう。
新しい学問(正しい!)という触れ込みに、
どの業界も自分(たち)の勘よりもマーケティングの情報を信じるようになっている。
あたかも新興宗教のように、である。みんなしてマーケティングに騙されている。
失敗しても、もしマーケティングをしていなかったらもっと大失敗していたと思う(笑)。
そのごまかしは新興宗教が信者に使うテクニックだからな!
いまあらゆるジャンルで均一化が進んでいるような気がするが(おなじ歌、顔、ドラマ)、
あれはマーケティングのせいではないか(=正しい売れる商品がある)?
いいかい、正しい商品が売れるんじゃないぞ! 売れた商品が正しいんだ!

いえいえ、本書はとてもいい本なのだ。マーケティングの思想が気に食わないだけ。
どうかそのことをご了承ください。この本を読んで得たものはずいぶん多い。
広告=騙しのテクニックは、どの学問よりも生活に密着していて興味深い。
繰り返すが、本書は名著である(マーケティングは怪しいけれど)。

「消費の促進は、あくまでも「消費によって幸せになる」
という図柄があることで、成立してきたのである」(P89)


あらゆる広告が(本来なら定義できない)幸福を売っているということだ。
「これを買えば幸せになる」といかに消費者を騙すかが広告である。

「マーケティングは常に社会の変化を見つめながら企画を立てるが、
企業は消費者に明るい未来を提示しようとする」(P89)


企業がスポンサーとなるテレビや映画において、
マーケティング信仰が盛んな現代「暗い話」はご法度になってしまった。

最新のマーケティングではテレビCMの非効率性が論じられているらしい。
でも、庶民の常識で考えたら「いまごろ~?」という話じゃないか。
だって、みなさんテレビのCMを見てなにかものを買ったことなんてありますか?
ぶっちゃけ、どう考えたってテレビCMなんか意味ないでしょ?
最新の(自称)学問=マーケティング様がようやく庶民の知恵に追いついたようである。
しかし、これがばれてしまうとテレビ局社員の超高収入が維持できない。
いま流行に敏感なフジテレビさんが迷走しているゆえんであろう(苦笑)。

おまけとして書くが、本書によるとダメな経営者ほどブランド信仰に陥るらしい。
安売り合戦を克服できる唯一の手段とされているのがブランドである。
自社のブランドをいかに高めるか。
ブランド力があれば消費者は高くても買ってくれる。
このブランド信仰にすがりつき、
現実を見ないでロゴやマークにばかりこだわるのがダメな経営者という。
思えば、母校のシナリオ学校もなにやら新たなロゴを……。
著者によると、マーケティングの要諦は「他者を知るということ」に尽きるらしい。
顧客の立場になる。
このブログでも顧客の感想を書いているので、
例のスクールにはぜひマーケティングの参考にしてもらいたい。
あ、でも、マーケティングなんかに頼ると、下手すると潰れるとわたしは思うがね。

この本のタイトルはマーケティングを要約していてとてもいいと思う。
「売れないのは誰のせい?」――誰のせいでもないんじゃないかな?
もう物はとっくに行き渡って、きっとみんな欲しいものがないんだと思うけど、どう?

「快楽は悪か」(植島啓司/朝日文庫)絶版

→95年に朝日新聞夕刊に連載されていたエッセイ。
たいへんな名著だと思いながら楽しく読了した次第である。
文庫版あとがきによると、連載中に著者を非難する読者からの投書が集中したという。
たしかにそう言われてみればよくもまあ、これだけ反道徳的、反社会的な内容のエッセイを
社会の木鐸たる夕刊紙に載せられたものだと感心する。
おそらく、新聞社内部に熱心な植島啓司氏のファンがいたのではないか。
当時、関西大学教授だった植島啓司はさらりと言ってのける!
(先生いまは無職じゃないかな、アハ)

「われわれは働くために生きるのではなく、快楽のために生きる」(P19)

「どうせ人間死ぬんだから遊んだほうが勝ち」(P157)


東大卒の学者先生なら「本当のこと」を言っても許されると思ったのか?
しかし、朝日新聞読者(なかでも主婦!)は植島を許さなかった。
遊ぶなんてとんでもない! 遊んでいる暇があったら勉強しなさい!
遊んでばかりいないで働きなさい!
どうして? 理由なんかないの! むかしから決まってるの!
遊んでばかりいちゃダメ!
大麻? とんでもない! でも合法な国もあるよ? ダメなものはダメ!
赤信号では止まれ! どうして、車来ないじゃん? 決まりは決まりだからダメ!

こうして考えると、もしかしたら社会というのは禁止で成り立っているのかもしれない。
お互いの欲望を監視して制御しあうことで社会という幻想が維持されている。
ぬけがけは許さない。あいつを遊ばせないためになら、おれも遊ばないでいい。
みんな一緒に苦しもう。他人に好きなことなんてさせてたまるか。
人生、甘かない。遊んでばっかいられると思うなよ。もっと苦しめ苦しめ苦しめ!
好きなことはやっちゃいけないの! 苦しみなさい! 人生は苦しむためにあるの!
ふむ、たしかにみながこの幻想を共有していることで、
社会ピラミッドの上層部にいる富裕層は安心していられる仕組みになっている。
ところが、日本の場合、支配者層も遊ばないのだから!
出世欲とそれに付随する仕事に追いまくられて、
私は有能だ、多くの人から必要とされている、
と多忙自慢をしているやからのなんと多いことか!

「もてない男」の小谷野敦氏は「退屈論」で「快楽は悪か」をこう批判している。

「植島は、快楽を追及するのが悪だと思われている、
と思っていて、その快楽というのは、
セックスとか競馬とか麻雀とかそういうものだと思っているらしいが、
実は、たいがいの男にとっては、出世が最大の楽しみなのである」


おそらく、小谷野氏は正しいのだろう。
正直、鳩山兄弟とかわけがわからない。
数世代働かなくてもいい金があるのに、どうして政治なんかやっているのか!
彼らにとっては出世のほうが快楽よりもよほど重要なのだろう。
そもそも東大卒の学者が「快楽は悪か(=快楽は悪ではない)」と言うと
もっともらしく聞こえるが、実は快楽肯定論など、
意味するところは「DQNのすすめ」に過ぎない、と言えなくもないのである。
頭の中にあるのはセックス、ギャンブル、酒!
いつも思っていることは、楽をしたい(怠けたい)、ケンカは楽しい。
ちなみに学者の言う強度、祝祭、ハレとは、DQNのケンカ程度で十分得られるものだ。
たまに「やれやれ、やっちまえ! 殺しちゃえ、ぶっ殺せ!」
というレベルのケンカがあると人生って刺激的で楽しくね?
学者先生の言う祝祭理論など、もしかしたらこの程度のことなのかもしれない。

植島啓司氏に惹かれる読者はわたしも含めてどうしようもなくインテリなのだろう。
植島はインテリにはなかなか理解できない「DQNの生態および人生方針」を、
名著「快楽は悪か」でうまく解き明かしたのではないだろうか。
インテリのなかにはDQNにあこがれるものが出てきてしまう。
いや、あんがいDQNのような生き方がいちばん幸福なのではないだろうか。
どうしたらDQNのように生きられるか東大卒の植島教授(当時)は解説する。
少し長い引用になるが、できましたらお読みください。
震災後という環境が似ているので、それなりに意味深いのではないかと思う。

「阪神大震災で再認識させられたのは、
家(マンション)を買えば一生安心だとか、
アパートを建てて家賃収入で暮らすとか、
銀行利子当てにするとかいう考え方が、いかにダメかということである。
人生では何が起こるかわからない。
そして、起こるかどうかわからないことに対しては、だれも備えることができない。
銀行の利率や株価の上下に一喜一憂したのは、
この世の中がそう大きくは変化しないだろうという信頼が根底にあったから。
明日から紙切れだと言われる紙幣を集めるバカはいない。
イソップに有名な「アリとキリギリス」の童話がある。
暑い夏にキリギリスが歌って踊ってうかれている時、
アリは一生懸命に冬に備えて働き続ける。
そうして冬になり、キリギリスが寒さに震えながらアリを訪ねると、
アリは暖かい家の中で食料に囲まれ幸せそうにしている、という話。
かつて、ビートたけしは最後をちょっと変えて
「キリギリスが冬にアリを訪ねると、アリは過労で死んでいた」とした。
キリギリスはそこにあった食料で寒い冬を凌ぐのである。
ぼくはこのたけしヴァージョンが大好き。
常々、何よりも「まず先に楽しむこと」の大切さを教訓としている。
そして、それは世の道徳家にはどうにも我慢できないことらしい。
なにしろ、彼らはいまのこの世の中が永遠に続くと
信じたがっている人間だからなのである」(P61)


まず先に楽しむこと!

うーん、実に香ばしい。まことDQNというほかない。
わたしは実のところDQNにあこがれていたのかもしれない。
そして、おそらく多数のインテリの本心がそうなのではないか。
まとまりがないが、再度これまたインテリの小谷野敦氏による「快楽は悪か」批判を引く。
当時「もてない男」は40歳である。

「私が言いたいのは、「遊びが大切だ」とか「快楽を肯定せよ」とか言われると、
もうごく単純な疑問が沸いてくる、ということなのである。
それは、つまり、
「飽きないか」
ということなのだ」(「退屈論」より)


文学者の「もてない男」はフィールドワークをする必要があるのではないか。
競馬狂いの目が血走ったオッサンに「飽きませんか」と聞いてみたらどうだろう(笑)。
たぶん本物のDQNは遊びに飽きたりはしないのだろう。
遊べば遊ぶほど遊びの奥深さがわかり、遊びの底に道のようなものさえ発見するのだ。
この一行はちょっぴり実感を込めたが、そこは深く追求しないでいただきたい。

「生きさせろ! 難民化する若者たち」(雨宮処凛/ちくま文庫)

→おそらく根っこがいじけたサブカル野郎だからなのだろうが、
10年以上もむかしから雨宮女史の存在は視野に入っていた。
同世代ながら(いや同世代だからと言うべきか)、
あそこまで痛々しい目立ちたがり屋根性はないだろうとさすがにあきれていた。
目立てばなんでもいい。みんなあたしを見て。あたしあたしあたし!

やったね、雨宮さん!

なにをやっても空回り、だれからも相手にされなかった女史がとうとうついに!
本書によって文化人に成り上がることに成功したようである。
NHKに登場することもあり、いまや我われの世代のオピニオンリーダーといってよい。
文庫版のあとがきを読むと、
うまく時流に乗った雨宮女史の人目もはばからぬ高笑いが聞こえてくる。
あれはドヤ顔(得意顔)ここに極まれり、といった文章で一読に値すると思う。
目立ちたい、有名になりたい、ただそれだけを目標にして生きてきた人間の勝利宣言だ。
本書で雨宮女史は努力の価値をなかば否定しているが、
とびきり痛い自己愛性人格障害のメンヘラ女性が作家先生にまで
成り上がった過程を思うと、あんがい努力も報われるのかもしれない。
努力は嫌いだったが、雨宮女史の大成功をまえにして少し考え方が変わった。

雨宮女史は連帯せよという。なんのためか。祭りを起こしたいのだろう。
ふたたび、なんのためか。女史は神輿(みこし)に乗りたいのである。
雨宮先生は夢追いフリーターの「なんとかなる」思想に疑義を呈している。
なんとかなんてならないぞ! いまこそ立ち上がれ! デモだ! 祭りだ!
神輿のうえに立つあたしをみんなで支えてくれ。そうれ、ワッショイ、ワッショイ!
祭りは神輿のうえの人間がいちばん楽しめる。
さあ、立ち上がれ。さあ、燃え上がれ。すべてはあたしのために! 輝けあたし!
これは本書の記述からだけではわからない。
むかしから女史の存在を苦々しく思っていたいわば同類(!)からの、
たぶんに嫉妬を含めた斜めからの見方である。
客観的に見たら雨宮女史の発言はそれなりに社会貢献をしているのではないか。
なかには神輿をかつぐことに生きがいを見いだすものも大勢いるのだろうから。

勘違いしているものも少なくないのでひとつだけ指摘したい。
いわゆる氷河期世代の識者(ってなに?)で
世代間格差をことさら強調するものがいるでしょう。
いわく、バブル世代はよかったのに、どうしてうちらだけが不遇なのか?
バカかよと思う。
まるで社会や人間全般をわかっていないオピニオンだと言わざるをえない。
世代間の平等もなにも、そもそも人間は不平等ではないか!
氷河期世代でも大企業に就職してうまうまと人生を謳歌しているものは少なからずいる。
同様、バブル世代にも恵まれず非正規雇用に甘んじている人間はきっといることだろう。
これは団塊の世代に言及するにしてもおなじことだ。
世代間格差を言うなら、特攻隊で死んでいったあの世代の若者たちはどうなる?
彼らに比べたらうちら氷河期世代もまだ恵まれているとは言えないか?
世代によって不平等というよりも、人間存在そのものがはなから不平等なのである。
どんな運動をしても人間は決して平等にはならないだろう。
ただし運動の先頭に立つリーダーはそれなりにいい思いができる。
まんまと狙っていたポジションに立つに至った雨宮女史の執念に拍手して本稿を終える。

「内なる声」(フィリッポ/里居正美訳/「現代世界演劇15 風俗劇」白水社)絶版

→イタリア産戯曲。
フィリッポはゴルドーニ、ピランデルロと並ぶイタリア三大劇作家のひとりらしい(解説)。
ひと言でいえば「つまらん」に尽きるのだが、それを言っちゃあ、おしめえってわけで。
「つまらん」と書けないから、多くの人間が読書感想文や書評で骨を折ることになる。
ぶっちゃけ、読書感想文なんざ、「つまらなかったです。」で終わっていいと思うのだが。

――「内なる声」は現代社会の構造と人間の深遠を告発した意欲作である。
ある日、善良なことで広く知られる一家が殺人罪で告訴される。
告訴したのは狂人で、殺人事件など実在しない妄想である。
むろん、無罪の彼らはおとがめなしで釈放される。
ところが、だ。一見すると善人面した一家は相互を疑い始める。
家族のだれかが殺人事件を起こしたと思ってしまうのである。
つまり、お互いの無罪を信用できない。
しまいには告訴をした狂人を殺してしまうことで話がまとまる。
現代における複雑な社会関係と人間関係のありかたを象徴的に提示した芝居だと思う。
……しかし、つまらない。

「事故」(デュレンマット/種村秀弘訳/「現代世界演劇15 風俗劇」白水社)絶版

「貴婦人故郷に帰る」で知られるスイスの劇作家、デュレンマットのラジオ放送劇。
自動車の事故でやむをえず田舎の豪邸に泊まることになった、
やり手セールスマンの悲喜劇。
人里離れた怪しげな屋敷に迷い込んだ主人公がなにものかの手玉に取られる、
というパターンはホラーものの典型ではないか。
身もふたもないことを言うと、まあ、お化け屋敷みたいなものだろう。
事故に遭う→日常からの逸脱→非日常の侵入→現実の異化(……ブレヒトみたいやね)。
観客は現実への新たな視点を与えられるという、
言ってしまえば教育目的を根底に持つドラマだ。
セールスマンは老人たちの「裁判ごっこ」ゲームに巻き込まれることで、
おのれの意識していなかった犯罪を糾弾される。

我われは他人が落とし穴に落ちるのを楽しむ(=笑う)だけではなく、
自分が(=感情移入した主人公が)落とし穴に落ちるスリルもまた
享楽として満悦できる存在なのだろう。
「怖いもの見たさ」とでも言ったらいいのか。
お化け屋敷で不意をつかれ「ぎゃああ」と叫ぶのもまた爽快なのである。

「気をつけて! 罠だ」(P282)

「後生だ、気をつけて!」(P282)


これらのセリフはジェットコースターの上昇部分に近いのだろう。
何度も脅されなければ我われは恐怖でさえも完全には味わえないということだ。
別の視点から言えば、人間は恐怖ですら楽しんでしまう困った生物なのである。

「自尊心」(マルク・カモレッティ/大久保輝臣・小島亢共訳/「現代世界演劇15 風俗劇」白水社)絶版

→フランス産戯曲。
これはよくできている。3千円支払って、この芝居だったら満足するだろう。
ケチだから5千円、6千円出したときにどう思うかはわからない。
コメディの原風景は落とし穴ではないかと思った。
コメディのみならず領域を演劇全般に広げてもいのかもしれない(不条理劇は除く)。
だれかをおとしめようと悪ガキが落とし穴を作る。
さあ、どうなるか? これほど観客がわくわくすることはそうないでしょう?
かといって、人間の思惑がうまくいくかどうかはわからない。
むしろ、思惑通りにいかないことのほうが多いのだと思う。
ふたたび、これが演劇なのであろう。
人間はなにかしらを目標に現実に対していわば罠を仕掛けるが、うまくいかない。
人間の思惑が覆される過程を描写したのが劇であるといってもよいのではないか。
たとえば落とし穴に話を戻すと、悪ガキの恋焦がれる美少女が登場するかもしれない。
このまま先に進んだら憎い教師ではなく好きな子が落とし穴に落ちてしまう。
しかし、落とし穴のあることを伝えたら仲間に片想いがばれてしまうと悪ガキは思う。
このときの葛藤もまた劇なるものの本質のひとつであろう。

倦怠感ただよう夫婦の物語である。
ふとしたことから妻は夫が浮気をしていることを知ってしまう。
問い詰めるとヤブヘビで逆に妻が浮気していたことを指摘されてしまう。
妻は自分がいないことにして、いまからこの部屋に愛人を呼ぶよう夫に強いる(=罠)。
夫も夫で、妻に愛人をいまから呼べばいいと提案する(=さらなる罠)。
そこにたまたま夫婦共通の友人である女性が訪問する。
この偶然から夫と友人の過去の密通を妻は知るにいたる(悔しい!)。
ドアのベルが鳴るたびに、だれが来るのかと人物が右往左往するのがとても楽しい。
茶目っ気のある夫は、なんとか現実を変えようと新しい仕掛けを試みる。
だが、妻は仕掛けを罠と見破り得意気に勝ち誇る。この合戦は芝居の見どころである。
なんのために見苦しい(のが芝居では見目良いのだが)夫婦合戦が繰り広げられるのか?
お互いの自尊心のためである。
人間がなんのために嘘をつくかといったら、たいがいの場合は自尊心が原因だ。
自尊心があるから男女ともに自分はもてることをパートナーに印象づけたがる。
逆に言えば、他人の自尊心を傷つけることで満足するのが、
世界でたったひとつしかない「私」の自尊心というものなのだろう。
「他人を思いやろう」ときれいごとに酔う自称教育者は多いが、
そんなユートピアを舞台にかけても客は満足しないのである。金を返せと怒鳴られる!
意地の悪い劇作家ほど上質な喜劇を観客に提供することができるのだと思う。
夫にとって妻をバカにするほど楽しいことはない。
妻にとって夫をバカにするほど楽しいことはない。
このバカバカ合戦こそ(恋人関係ならぬ)夫婦間における愛のかたちではないか?
というのが傑作喜劇「自尊心」の世界観である。
夫婦愛はストレートな純愛などよりよほど複雑で、
にもかかわらず、ではなく、だから人間的で(人間臭い!)おもしろいのである。
ひとつ、忘れてはならないことを強調しておく。

人をバカにするのは楽しい!

教科書にはなかなか書けない人間の真実である。
けれども、芝居を観にいけばだれでもすぐにわかることである。
それがいい芝居であるなら倍増しに「人をバカにする楽しみ」が理解できよう。

「恋をしている女は、恋と嫉妬に目がくらでいる……
文字どおり、自尊心に目がくらんでいるんだ!」(P239)


「トレヴァー」(ジョン・ボウエン/喜志哲雄訳/「現代世界演劇15 風俗劇」白水社)絶版

→イギリス産戯曲。
願っているのは、知的虚栄でも、芝居ビジネスにおける成功でもない。
ただただおもしろい戯曲を読みたい。そして感動したいのである。
つまり、生きているのもさほど悪くない、と思いたい。
なのに、なかなか名作戯曲には出逢えない。どうしてだろう。
どうして感動する作品にめったに巡りあえないのか――。

ルームシェアしている若い女性が二人。
そのうちの一人が昼日中のバーで見知らぬ青年をひっかけてくる。
部屋まで連れ込みお願いするのである。

「わたしたち、あなたに芝居をしてほしいの。
(「どんな脚本?」)
今日の午後だけのことよ。わたしの両親がお茶に来ることになってるの」(P125)


恋人のふりをしてほしいという臨時アルバイトの依頼である。
偶然が喜劇の糸をもつれさせる。
来る予定のなかった女性のほうの家族がいきなり来てしまったからである。
芝居は喜劇の典型といった進み方をする。
以下の引用は喜劇に共通する動作といえよう。

「ジェインが真青になって戻ってくる」(P128)

予定外のことが起こるから人間は慌てふためくのである。

「ねえ、最初に嘘ついたんだから、続けるよりしようがないのよ。
もしいまばれたら――」(P144)


嘘が嘘を作っていく! 
ひとつの嘘が次の嘘を作り、さらにその嘘が――といったように嘘がふくれあがり、
最後に爆発して本当のことがばれるのが喜劇なのだろう(ばれないこともあるけれど)。
舞台で見ていたらよかったのだろうが、
残念なことに紙の上では人物の動きを追いきれなかった。
すなわち、途中でわけがわからなくなった。
すれ違いや勘違いの連続といったト書きを文字だけで追うのは限界がある。
解説で知ったのだが、二人の女性はレズピアンの関係にあるのだという。
なるほど、だから即興で彼氏を仕立て上げる必要があったのか。
二人の同性愛関係をわたしは最後まで見破れなかった。色恋に疎いのだと思う。

「この夏、突然に」(テネシー・ウィリアムズ/菅原卓訳/「今日の英米演劇1」白水社)絶版

→アメリカ産戯曲。
大きな声では言えないが、もしかしたらウィリアムズは2作品だけの作家ではないか?
つまり、「ガラスの動物園」と「欲望という名の電車」のみの――。
うちには足で(金ではない)買い集めた大量のウィリアムズ未読戯曲がある。
かなり入手困難なものも多い。実際に読んだ日本人は極めて少ないと思われる。
結局のところ、自分で(読んで)確かめるしかないのだろう。
しかし、2作品だけの作家ではないかという予感があるからなかなか手をつけられない。
とはいえ、テネシー・ウィリアムズはおそろしい作家という認識に変わりはない。
もしあらかじめストーリーを知らずに「ガラスの動物園」や「欲望という名の電車」を
観劇したら、一生のあいだ芝居という麻薬から逃れられなくなるのではないか。
テネシー・ウィリアムズの名が広告に入っていたら、
たとえどれほど劇評で叩かれていようがチケットを買い求めずにはいられない。
「ガラスの動物園」と「欲望という名の電車」はそれだけの中毒性があるのである。
(幸か不幸かわたしはウィリアムズ作品を舞台で見たことがない)

「この夏、突然に」は非常にわかりにくい。
意味が取りにくい芝居を芸術的と賞賛するやからに、あるいは受けたのかもしれない。
劇は究極の秘密に向けて、もったいぶってのろのろと進む。
秘密というのはなんのことはない、たかだか同性愛(ホモセクシャル)である。
ウィリアムズが自身の性癖をことさらナイーブに取り扱っていたことがよくわかる。
でもまあ、いまを生きる我われからしたら、ホモなんてめずらしくもない。
「実はね、実はね、実はね」と何度も口ごもりながら、最後にばらされる秘密がホモ。
そういうお芝居である。
時代規範、社会規範(=人間は異性を愛すべき!)の強さに支えられた劇といえよう。

若い狂女が登場する。女は男性と海外旅行に行き、帰国したら気が狂っていた。
その男性が旅先で死んだのとなにか関係あるのではないか。
男性の母親はある秘密を世間から抹殺しようと精神科医を呼び寄せる。
狂女にロボトミー手術を施し、廃人にしてしまおうと狙っているのである。
ある秘密を隠すためにだ。精神科医とのやり取りでわかった狂女の秘密とはなにか?
男性が実のところ同性愛者であった!
狂女にわざと透ける水着を着せ、寄ってきた現地の男を彼は食っていたという。

秘密が芸術を作るのだとしたら、求められているのはタブーなのだろう。
いまインターネットによって、
次々と異常性愛告白、男女性器画像、変態妄想物語のタブーが覆されている。
どんどん秘密が秘密としてのパワーを失っているのだ。
あらゆることが「あ、そう」で片付けられかねない。
だとしたら、テネシー・ウィリアムズという劇作家は、時代が生み出した怪物なのだろう。

「ねずみとり」(アガサ・クリスティー/鳴海四郎訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)

→イギリス産戯曲。世界最長ロングラン記録をいまなお更新中とのこと。
結婚1年の若夫婦がペンションをオープンさせたその日に6人の客が訪れる。
第一幕の終わりで殺人が行なわれ、第二幕からは犯人探しが始まる。
万民から愛される芝居になっていると思う。
この舞台を嫌う人はほとんどいないのではないか?
しかし、反面、何度もこの芝居を観たがるものもいないような気がする。
いや、演劇ファンというのはわからんぞ。
芝居好きは、犯人がわかっているミステリー小説を何度も読むようなおかしさがある。
彼(女)は、ひたすら人間が好きなのだろう。俳優が好きなのだ。

劇構造は極めてオーソドックス。教科書のような典型が随所に見られる。
芝居は、結局のところ人の出し入れがすべてである。
人はいない人の悪口を言う! なんのことはない、これが演劇の基本中の基本だ。
それから人は噂話が大好き! ペンションに集った人たちは噂話に花を咲かせる。
芝居が進むにつれて明らかになるのは、それぞれの秘密である。
商業演劇は、ありきたりな日常を舞台にかけたりはしない。
芝居は十中八九、特別な日に起こった特別な事件である。記念日設定が多い。
本作品では、若夫婦の結婚記念日という特別枠に芝居が収められている。
雪で交通を寸断されたペンションに刑事がやってくる。
お決まりのセリフを発するのがおもしろい。

「いいですか、いま私の目の前にいる六人、この中の一人が人殺しだ!

  沈黙。一同は動揺して、不安そうに互いに顔を見合わせる。

人殺しはこの中にいる! (暖炉に歩く)それがだれなのかはまだわからない。
同時に次の犠牲者もこの中にいるはずだ」(P162)


もっとも犯人らしくない人間が犯人なのは言うまでもない(笑)。

ひとつまえの記事で新興宗教、自己啓発セミナー、創作スクールに触れたが、
勘違いされては困る。決して批判しているわけではないのである。
どのみち人間はなにかしらで自分を騙しながら生きていくほかない。
新興宗教や自己啓発セミナーに救われるのもたいへん結構だと思う。
平均寿命80歳の長い人生なのだから、
そのうち数年を創作スクールで暇つぶしするのもあんがい有意義なのかもしれない。
なにが正しくて、なにが本当なのか人間は究極的には知りえない。
あるいは、ある新興宗教の教義がたったひとつの真実ということもありうるのである。
少なくとも信者さんはそう思っているわけでしょう?
死ぬまで信仰を続けられるのなら、
新興宗教に入信するのが最上の生き方なのかもしれない。
仲間がいるというのはなにより心強い。
そのうえ死への不安までなくなるのなら、
いくら高い金を払っても惜しくはないのではなかろうか。
金があるなら自己啓発セミナーもとても効果的だと思う。
半年に一度元気をもらえるのなら百万くらい安いというビジネスパーソンも大勢いるはずだ。

生きていくのなら、なにかで自分を騙していくしかないのだろう。
いつかいいことがある、と自分を騙して生きている人は結構多いのではないか。
いつか素敵な異性が現われ自分を好いてくれると信じているのもいいと思う。
ことさら現われなくてもいいのである。ぜんぜん構わない。
死ぬまでそう信じていれば(=自分を騙していたら)絶望せずに生きられる。
これは「もてない男」におすすめの生き方だ。
元祖「もてない男」の小谷野敦さんは人もうらやむ売れっ子ライターで、
なおかつ東大卒のお美しい若奥さままでお持ちなのに(フェミよ怒るな!)、
「自分は正直者のため不遇である」と信じて生きておられる。
ああいう自分の騙し方もあるのである。ふつうとは逆の騙し方だ。
たぶん、そう信じていたほうが生きていくファイトがわいてくるのだろう。
ならば、それは妄想ではない。これまた正しい生き方のひとつである。
他人のことばかり言うのは卑怯なので迷惑かもしれないが自分語りをすると、
わたしは自分を遅咲きなのだろうと騙しながら生きている(苦笑)。
大酒呑みだから、もしかしたら40で死んでしまうことがないともいえない。
このとき、たとえ成功とは無縁でも自分は遅咲きなのだと絶命まで信じていたら幸いだ。

正しいひとつだけの現実なんて、もしかしたらどこにもないのかもしれない。
それぞれの騙し方があってよい。
そのうち多数派をしめる幻想(妄想)を、我われは現実と仮定しているのだろう。
わたしは「人生は運」だと思って生きている。
おのれの星回りを確かめたいから死なないでいるようなところがある。
運の行く末を見てみたいのだ。
人生でなにが起こるかすべてあらかじめ決まっているのではないか、
とさえ正直に白状するとどこかで思っている。
しかし、「人生は努力」だと信じて生きているほうがおそらく多数派だろう。
少数派は多数派から「もっとがんばれ!」「努力しろよ!」と攻撃される。
ときおり多数派のなかからうつ病になるものが現われる。
少数派は心中でこっそりザマアミロと思ったりするかもしれない。
「人生は運」「人生は努力」のどちらが正しいのかはわからない。
きっとどちらも正解でどちらも不正解なのだろう。
要はどちらで自分を騙すかである。
失敗したときには「人生は運」、うまくいったときには「人生は努力」。
こういう使い分けをしても、むろん構わない。

イエス、釈迦、法然、親鸞、日蓮、道元、一遍といった宗教上の偉人は、
まず自分を騙すことから始めたのである。
自分をも騙せないような教えで他人を騙せるものか!
彼らは自分を騙すのが天才的にうまかったのだ。
どう自分を騙したらデタラメな――
つまり理不尽で不平等極まりない人生を破綻なく生きられるか。
これがおそらく信仰なるものの始原であろう。
強力な詐欺方法を思いついたものが、教団の教祖になったのではないかと思われる。
そのためには狂人のようにこれが絶対に正しいとまず信じ込む必要があった。
キリスト教の死後の裁きなんたらは、言ってしまえば狂人の妄想に過ぎない。
しかし、多くの人間が信じたから世界宗教になったのである。
死後の裁きが正しいのかどうかはわからない。もしかしたら正しいのかもしれない。
おなじくらいに、お題目をとなえたら夢がかなうというのも正しい。
他者を巻き込むほど強く信じたら本当に夢がかなうことも結構あるのではないか。
100%ではないだろうが、100%と信じ込む熱狂は絶対に必要だ。
たとえ報われずに死んだとしても、
最期まで南無妙法蓮華経と口にしていたら幸福だろう。
それほど悪い生き方ではないと思う。
どの宗教が正しいかはわからない。
わからなくても人間は信じることができる。信じるとは、賭けることだ。
生きるとは、賭けることなのだろう。
踊り念仏の一遍上人は「信じるとは、人の言葉に任すこと」と言っている。
だれの言葉に任すかは人それぞれである。
なにを信じてもいい。どこに賭けてもいい。おそらく、どう生きてもいいのだろう。
これはだれかへのメッセージではなく自戒なのだが、夢の奴隷にだけはなりたくない。
夢というのは、そもそもかなわないものである。
むしろ、かなわないことそのことに、
強調するがまさにその部分に夢の意義があるとさえ言ってもいいのではないか。
いったい夢がかなう人というのはどのくらいいるのだろう。
夢は人によってさまざまだから正確な統計は取れない。
なかには結婚や正規雇用が夢というまっとうな常識人もいるのだろうが、
さすがにこれはカウントしないことにする。
老人に聞いてみたらどうなるだろう? むかしのあなたの夢はかないましたか?
だれに聞いても夢などかなわなかったと言われるのではないかと思う。

夢に向かってアクション(努力とは言いたくない)していると、
夢とは異なる形で人生が開かれることがたまさかある、というのが実際なのだろう。
願っていた夢の通りにはならなかったけれども、ある地点に到達してしまった。
行きたかったところとは違う場所に着いてしまったが、まあ、そこも悪くない。
なぜならまさにその場所を目的地(=夢)にしている人が大勢いるのだから――。
これで不満を言ったら申し訳ない、と老いた彼(女)は思う。
そのほどんどがかなわない夢の、実効的な面があるとすればこのくらいだろう。

本当は夢などなくてもいいのである。
夢なんかないほうがよほど幸福なのかもしれない。
というのも夢を強く意識すると、夢がかなっていない現在が不幸に感じられるでしょう。
夢がなければいまの幸いを味わえるのに、夢のせいで不幸になってしまう。
いまもさほど悪くないのに、夢を持ってしまったがために現在が辛くなる。
だったら、はなから夢なんて持たないほうがいいと思いませんか?
夢は取り扱い注意の危険物であることをもっと広くに知らせるべきではないだろうか。
なぜなら、新興宗教、自己啓発セミナー、創作スクールの餌食になるからである。
ああいうのは言ってしまえば、夢を売る商売なのだ。
人の夢を食い物にしている。
夢がかなわない? ならこれをしてみなさい、とちゃっかり請求書を差し出す(苦笑)。
ひどいところは夢を無理やり売りつけようとしてくる。
さほど大した職業でもない作家やライターをバラ色の夢世界のように洗脳してくる。
こんな洗脳をされたら、現在の不遇感が強まるばかりでしょう?
だいいち作家やライターになれるのは極めて少数なのだから(事実として)。
夢を売っている商人連中は、同時に不幸も売っていることに果たして気づいているのか。
いまのままでも十分に幸福なのに(あるがままでいい!)、
おかしな宣伝文句のせいで「作家になれない不幸な私」が作られてしまう。

ほとんどの夢はかなわない。だったら、夢を持つのは不幸でしょう?
人気俳優になりたい=人気俳優になれない不幸な私。
お笑い芸人になりたい=お笑い芸人になれない不幸な僕。
お金持になりたい=お金持になれない不幸な人たち。
いまどれほど多くの日本人が夢の奴隷になって苦しんでいることか!
夢のためにしなくてもいい我慢や苦労を背負い込んでいる。
我慢自慢や苦労自慢を見ると、その奴隷根性にむしろ怖れさえ抱くくらいである。
どうしてかないもしない夢のために、多数の人間が苦しんでいるのか。
何度も繰り返すが、夢はかなわないもの! 人生、思うようにはいかないぞ!
願った通りの夢がかなう人など、いったいどのくらいいるのか。
1万人にひとりくらいではないか。
もっと多く見積もって、かりに千人にひとり夢がかなうとする。
これがどのくらいの確率かご存じか?
35歳男性が1年後に死亡している確率とおなじである。
わたしが1年後に死んでいると思う人はどのくらいおられますでしょうか?
夢というのは、このくらいかなわないものなのである。0.1%とはこういうことだ。

しかし、どうしようもなく人間は夢を持ってしまう。
これはもしかしたら不幸をも味わえるふところを
人間は持っているということなのかもしれない。
持つまい持つまいと思っていても、人間存在は夢を欲してしまう。
あえて苦しむようなところが人間の生き方にはある。
逆に言えば夢を持っていない人間などいないでしょう?
人はみな(本物の聖人や賢人は除く)どうしようもなく夢を持っている。
このとき、夢をどうするか? 
夢の奴隷にはならず、うまく夢と戯れたらいいのではないかと思う。
上手に夢と遊んでいきたい、とわたしは思っている。