これは本当だとみなが強調することほど、
本当のところ嘘ではないかと疑ってかかると新しい世界が見えてくるような気がする。
「本の山」がさんざん欺瞞を論じてきたのは、努力したら報われるの嘘。
あきらめなければ夢はかならずかなう、という嘘である。
これが嘘だと心底理解したら生き方ががらりと変わると思う。
つまり、人間の無力を知ったら!
あらゆる不幸を、運が悪かった、と片付けることが可能になる。
不幸は不幸でも国が賠償してくれるような災いは、
大きな声では言えないがまだ運がいいのだ。
だれかのせいにすることができ、代わりにお金をもらえるような不幸はまだ運がいい。
どこからも償いがもたらされないような災禍はいくらだってあるのだから。

正義は勝つ。これも本当は嘘でしょう。
だからテレビは刑事モノのドラマをしきりに放送するわけだ。悪は裁かれる、と。
テレビ局の人たちがたぶんそれをいちばんよくわかっているからだと思う。
だって、ぶっちゃけテレビ番組を実際に制作しているのは下請け会社の末端AD。
奴隷さんの血涙が大量に流れる制作の現場では正義もなにもないのだろう。

こうして論を進めていくと、どこまで嘘を許容できるかという我慢比べ大会の様相を呈する。
努力の嘘、正義の嘘を直視できる人間でも次の嘘を看破できるだろうか。
こっぱずかしいことを書くけれど、愛も嘘だよね。
愛が嘘だからキリスト教が生まれたという事情を考えれば、これは納得できるのではないか。
いい歳をして親から愛されなかったことを嘆いているものは多い。
だが、彼(女)は愛の幻想に縛られているのである。
親は子を愛すべきだという道徳律はかならずしも真ではない。
けれども、このことを認めないほうが生きやすい面がたぶんにあるから、
嘘ほど人生にとって大切なものはないということが逆説的にわかろう。
厳しいことを言うと、愛された人間ほど実は愛が嘘であることを認められるように思う。

助け合い精神の虚偽を嘲笑うあなた(わたし)はどこまで本当に耐えられるか。
しきりにテレビが強調するメッセージがあるのを、さてお気づきか。
人生は金じゃない!
これほどテレビというマスメディアが信じていることはないのではないか。
超高給取りのテレビ局社員が
視聴者にもっとも訴えたいことはこれではないかと思うくらいだ。
繰り返すが、人生は金じゃない。
人生は金ではない、金は幸福ではない、金より貴重なものはある。
だから高給取りの正社員が、
スズメの涙ほどのギャラでADやライターを使い捨てにしてもいい(笑)。
やりがいや生きがいを訴えるのはたいがいブラックな世界。
人生は金じゃないよと上司が部下に説教する会社ほど気持悪いものはないのではないか。
相対的に富者よりも貧者のほうがはるかに多いから、
この嘘を流しておいたほうが共益になるという世間の事情があるのである。
あれな人間ほど人生は金ではないと信じている。
ちなみに「本の山」の過去ログでも、たびたび人生は金ではないと叫んでいる。
恥ずかしいからどうかお読みにならないでくださいませ。

最後の嘘に迫ろう。死んだら終わりという世間に流布している通説があるよね。
あれはどうなのだろう。つまり、本当なのだろうか? それとも嘘なのか?
死んだら終わり、死んではいけない、は本当か嘘か!
ほとんどの宗教が死んだら終わりを否定している。
なぜならすべての宗教が嘘だからである! 
……と言い切ってしまっていま後悔している。
あからさまに本当のことを言ってしまっていいのか、と。
しかし、宗教のどこに価値があるかといったら真っ赤な嘘であるところではないか。
だから、宗教はいいのである。人は宗教に救われる。
小声で白状するが、死は終わりではないとわたしは思っている。
たしかに努力は報われない。だが、それは現世の話。
死後に、すなわち来世に報われる努力というのがあるのではないかと思っている。
前世や来世を考慮に入れたら、あんがい正義は勝っているのではないか。
現世では報われない愛も、来世になにかが生じる機縁となるのではないか。
いま手にしている財宝は死後すべてそのまま罪悪の証として裁かれるのではないか。

本当は嘘である。嘘は本当である。
努力はかならず報われる。がんばれ、がんばれ、がんばろう、がんばろう!
正義はぜったいに勝つ。不正を憎もう、政治家を許すな、マスコミは正しい!
愛ほど美しいものはない。人を愛そう、老人子供女性を大切にしよう、敵を許そう!
人生は金じゃない。募金をしよう、ボランティアをしよう、おれに金くれ、おれに奢れ!
禁を破る。とうとうネット通販のブックオフからも本を買ってしまう。
店舗のブックオフで本を買うだけでも罪悪感があったのに、
よもやネットでもお世話になってしまうとは。
賢明なみなさんはとっくのとうにご存じでしょうから、
いまさらボンクラ大学文学部出身のわたくしめが語るのは気恥ずかしいのですが、
ものを安く買うというのは合法的殺人行為をなしているに近い。
激安価格の裏側には多くの人間の血と汗と涙、
つまり辛苦、不満、絶望があることを忘れてはならないと思う。
我われがものを安く買うことで(たぶん相当数)自殺している人がいる!

当たり前のことですが、ブックオフで本を買っても著者には1円も印税が入らない。
出版社にも同様。
本来なら買ってもらえるはずだった新刊書店の収益も大幅に減少する。
かといって、ブックオフが一人勝ちしているのかといったら、もうわからないのではないか。
いまではつぶれるブックオフ店舗もちらほら見られる。
かの新古書店も安く人件費を買い叩いているがために本を安く売れるのだ。
コンビニ店長の地獄は広く知られるところだが、果たしてブックオフはどうなのか。

ブックオフオンラインさんから買った本は以下の7冊で計1550円。
ブックオフのネット通販のどこがすごいかといったら、
わずか1500円以上の買物で送料が無料になってしまうところ。
そのうえブックオフ総本山だから在庫量が半端ない。
ネット古書店のデメリットは送料のせいで相場よりも高くなってしまうこと。
このマイナス点をネットのブックオフは完全に解消している。
いまさら言っても遅いのだろうが、
ネットのブックオフをどうにかしないと
さらにさらに新刊書店や出版社の斜陽化は進むのではないか。
毛唐のだれだったかの言った「見えざる手」は日本の書籍文化をどうしようというのか。

「家族はどこへいくのか」(河合隼雄、谷川俊太郎、山田太一) ¥450
「鈍獣」(宮藤官九郎) ¥150
「山頭火 漂泊の跡を歩く」(石寒太) ¥150
「山頭火と歩く」(村上護、吉岡功治) ¥250
「これからの日本」(河合隼雄) ¥150
「日本人の心のゆくえ」(河合隼雄) ¥250
「快楽は悪か」(植島啓司) ¥150


サイトの検索欄にうっかり「山田太一」と入れたのがよくなかった。
罪を告白することを懺悔という。どうか懺悔させてください。ごめんなさい。
まったくふざけたことに、これでも不満を抱いてしまうのですから。
・注文確認から送付まで丸2日かかった。
・「山頭火と歩く」にラインがあり、中の汚れがひどかった。
しかし、ねえ? ぜんぶでわずか1550円でしょう? 送料まで入れて。
S急便はいったいいくらで配送を請け負っているのでしょうか?
1500円以上送料無料というのはふつうに考えたら恐ろしいことなのだ。
S急便の人が朝から晩まで休みなく酷使されていることのみならず、
劣悪な労働環境のせいで自殺者が出ていることさえネット社会では暴露されている。

安いからうっかりブックオフのネット通販を利用してしまった。
我われが安くなにかを買うことで、おそらくだれかが自殺している。
もっと早く送ってほしい願うことで、たぶんだれかが過労死している。
快適ではなかったとクレームを入れることで、だれかが上司から罵倒されている。
「安く早く快く」をここまで突き詰めた国は日本だけではないかと思う。
もっと安くしろ。もっと早くしろ。もっと快適にしろ。
もしかしたら年間自殺者3万人の背景にあるものは「安く早く快く」なのかもしれない。
しかし、我われは、いやわたしはだ。
このたび少なくとも「安さ」には逆らうことができなかった。
この買物をすることで、だれかを殺したのだろう。
殺してはいないのかもしれない。しかし、間違いなくだれかを泣かせたはずである。
「山頭火と歩く」(村上護、吉岡功治/とんぼの本/新潮社)

→僕に一大野心あり。僕は世界を――少なくとも日本を飛び歩きたし。
風の吹く如く、水の流るゝ如く、雲のゆく如く飛び歩きたし。
而して種々の境を究め、種々の人に会ひ、種々の酒を飲みたし。

文章が古いのでばれてしまったと思うが、
これは本書から引用した山頭火29歳時の文章である(P37)。
いまの言い方に変えたら、あなたやわたしの本心になるのかもしれない。
あらゆる文学作品の解説におそらく意味はないのだろう。
ひたすら作品を読み返すに限る。横文字のテクストではなく、古くからの作品を。

山頭火は存命時、世間師と呼ばれるゴロツキのひとりであった。
世間師とはいかがわしい生業をしながら日本各地を旅してまわるもの。
栗田勇氏によると、踊り念仏で知られる一遍上人につきしたがったのも、
このいまはなき世間師の群れだったという。
世間師の人生作法を山頭火の日記から紹介する。

「世間師に明日はない(昨日はあつても)、今日があるばかりである、
今日一日の飯と今夜一夜の寝床とがあるばかりだ。
腹いっぱい飲んで食つて、そして寝たとこ我が家、
これが彼等の道徳であり、哲学であり、宗教でもある」(P57)


ということは、これがおなじ世間師である山頭火の人生論だったのだろう。
成功哲学の古典、カーネギー「道は開ける」と共通する思考法なのがおもしろい。
今日1日だけがんばろう、と思うのがいいのだろう。
すなわち、明日死んでしまうかもしれない。なにが起こるかわからない。
だから、とりあえず、今日1日生きていられたらいいや、と思う。
後先を考えない、その場しのぎの、いきあたりばったりの生き方である。
この生き方から山頭火の句は生まれた。
山頭火は表現とはいかに生きるかであることをつゆ疑っていなかった。

「ポケット詩集」(童話屋)

→有名な詩のアンソロジー。
白状すると、音楽と映画と詩はわからない(絵画や彫刻、ファッションも)。
正確には楽しめない(ものが多い)。
だから、感想の書きようがないのである。
批判するときにも、根底にはジャンルへの愛がなければならないのではないか。
ただ、金子光晴の「奴隷根性の唄」の一節が長く記憶に残った。

「奴隷というものには、
ちょいと気のしれない心理がある。
じぶんはたえず空腹でいて
主人の豪華な献立のじまんをする」(P138)


母校シナリオ・センターの会報誌「月刊シナリオ教室」を思い出す。
ここでは頻繁に新人ライターが喜色満面でおのれの奴隷環境を自慢している。
「夢がかなった」と決まって笑顔である。
奴隷になるのが夢の人がいるのかと不思議で仕方がなかった。
「奴隷根性の唄」を読んでなにかがわかった気がしたが、錯覚なのかもしれない。

「贈るうた」(吉野弘/花神社)

→短絡的な決めつけはよくないのだろうが、
吉野弘さんの詩はマイホーム主義によっていると言ってしまってもいいのではないか。
要するに、ありふれた幸福のなにが悪いか、と啖呵を切っているのである。
逆に言えば、ふつうの結婚、ふつうの子育てというのがあった時代の詩だ。
吉野弘さんの作品は、ありふれた生活の価値をことさら称揚しているところがあると思う。
いまのわたしにとって結婚は難関である。なかばあきらめている。
ましてや子作りまでできたら、これはありふれた幸福どころか奇跡といってよい。
最近の座右の銘は「人生、あきらめが肝心」である。
悪く言う人のいない吉野弘さんの作品をみなとおなじように「正しく」評価できないのは、
こういった私的な事情があるからなのかもしれない。
詩「四つ葉のクローバー」から一部抜粋。

「四つ葉は奇形と知ってはいても
ありふれて手に入りやすいものより
多くの人にゆきわたらぬ稀なものを幸福に見立てる
その比喩を、誰も嗤うことはできない」(P52)


「アジア飯店」(岡崎大五/青春文庫)

→お酒をのみながらたいへん楽しく読ませていただいた。
おもしろい旅行記を書くためには、まずなによりおもしろい旅をする必要がある。
どうしたらおもしろい旅になるのか本書を読んで気がついた。
なるべく後先を考えないことである!
たとえば著者は、いきなりバスを降りてしまう。
インド山奥の聖地ガンゴトリーに向かうバスに乗っていたときのことだ。
著者は自分の目的地はみなと違うと感じ、その直感にしたがいバスを下車する。

「まったくあと先のことも考えず、これは癖だが、
いつか身を滅ぼしそうな癖でいやになる。
バスを降りたのは山間の小さな村であった」(P158)


著者は身を滅ぼすこともなく、なんとかなってしまうのである。
かえって、この冒険をしたことで旅のよい思い出ができたようだ。
旅行記の名著を読んでいつも驚くのは、
相当に危険なことをしてもなんとかなってしまうことである。
逆に言うと、そう簡単に窮地には追い込まれないのだ。
本当に窮地に追い込まれたら、不思議とどこかから助けが差し向けられる。
思ってもいなかった道が開かれる。

本書にインドのマプサが出てきたので懐かしくてうるっときた。
むかしインドのゴアに行ったとき、シーズンオフのせいかつまらなくてね。
昼から酔っぱらった勢いで、適当なバスに乗って終点まで行ったことがある。
バスの中で眠ってしまい、目が覚めたらマプサというところにいた。
マプサには大きな市場があり、薄暗い酒場を見つけて変な地酒をのんだものである。
とてもいい思い出になっている。

旅のみならず人生でも効率や快適を狙うのではなく、
いい思い出を作ろうと考えたら、あるいは少しだけ生き方が変わるのかもしれない。

「格安エアラインで世界一周」(下川裕治/新潮文庫)

→なんでもいまは世界中にローコストキャリア(LCC)というものがあるらしい。
これは格安エアラインのことで、とんでもなく安い価格で飛行機に乗れるという。
その代わり、旅行代理店を通さず直接、航空会社と英語でやり取りしなければならない。
これが可能になったのはインターネットが普及したため、とのこと。
もういい歳の著者は果敢にもノートパソコンをたずさえ約2週間での世界一周を企てる。
下川裕治氏のような大御所にこんな新しいことをやられたら、
新人ライターの出番はなくなってしまうのではないかといささか心配した。
いや、それは違うのかもしれない。
物書きは最初にあるジャンルを開拓した人がとにかく偉いのだろう。
著者はアジア格安旅行のパイオニアのひとり。
既得権益にしがみついているという言い方をフリーのライターに当てはめるのは失礼だ。

この世界一周旅行を要約していると思われる箇所を引用する。
旅の感想はどうしてか人生論にもつながってしまうのが不思議なところである。

「旅の先々で、その先のLCC航空券を手配していく……
それはたしかに、僕らの旅だった。しかし選択肢が多すぎた。
かつて、長距離バスや列車の片道切符で旅を続けていたとき、
次のバスや列車探しは、実にシンプルに決まっていた。
現地の言葉にも疎く、いろいろ調べることも難しかった。
もっといい路線もあったのかもしれないが、それもわからず、
ものの二、三分でいちばん安いクラスを選び、
次のバスや列車の切符を買いに走っていた。
知らないということは、幸せなことなのだ。
心穏やかに旅を続けることができるのだ。
それに比べれば、ネット社会は膨大な情報を与えてくれる。
言語は英語になってしまうという現実はあるが、
LCCはさまざまな母国語をもつ人を対象にしているから、
使う英語もシンプルで、ときどき辞書で調べていけば、
なんとかついていける。それは大変な変化なのだ。
しかし疲れるのだ」(P167)


「ショットガンと女」(藤原新也/集英社インターナショナル)

→うまくいく、というのは実はものすごくつまらないことなのかもしれない。
というのも、うまくいい学校に入って、うまく就職して、うまく結婚する。
そのままうまく子育てを終え、うまく死んでしまったときのことを考えてみよう。
死後(があったとして)自分の人生を思い返したとき、
「なんにもなかった」と思うのではないだろうか。
ただほかの人とおなじように生きただけで、
自分だけの思い出というものがなんにもないではないか。
だからといって、無名の身で成功者の藤原新也氏のように言い切ることはできないけれど。

「旅先でちょっとしたトラブルに巻き込まれるなどしたとき、
その国の人々が歓迎のキスをしてくれたのだと思うことにしている。
トラブルはマイナス面ばかりではなくその旅を活性化する場合もあるからだ。
のっぺりとした日常に活を入れるという意味で、
逆にちょっと危ない橋を渡ってみるということもある」(P38)


大衆娯楽のテレビや映画では、結局はうまくいく物語が好まれる。
マーケティングが経済効果やらなんやらと物語に圧力をかけるのだろう。
しかし――。

「物語というものは、それがかりにその人を励ますようなものでなくとも、
その人の今現在の姿と共振するなにかがあれば、
それもまた生きようとする気持ちになにがしかの力を与えるものだ」(P206)


むしろ、うまくいかない物語が人を励ますこともあるのだろう。
なでしこジャパンに励まされたと浮かれる人たちばかり日本にいるわけではない。
いま失意のただなかにいるものは、かえってうまくいく物語に傷つけられるのではないか。
相対的に人生がうまくいっているテレビ局や広告代理店の人たちにはなかなか理解できないことだ。

「世逃げのすすめ」(ひろさちや/集英社新書)

→ひろさちや先生はおかしいよな~。
1ヶ月に1冊のペースで本を出している超売れっ子ライターなのに受賞歴がない。
どこかの教祖様みたいにおカネで勲章を買おうとしないところがおかしい。
無理やりやせ我慢しているようなところがまことにおかしいのである。
このおかしいにはふたつの意味がある。狂っている(失礼!)と面白い。
ひろさちや先生は狂っているから面白いのである。

ひろ先生はいつもサイコロをふたつ持ち歩いているらしい。
なにかに迷ったらサイコロを振って決めるというのである。
一見するとバカバカしいように思えるこの行為は実のところ革命的ではないか。
生きるというのは、選択するということだ。
昼食をなんにするかに始まり、就職退職、結婚離婚まで人生には選択がつきまとう。
我われはどの選択肢にすればいいか迷いに迷うのである。
このとき、自分ではなくサイコロに決めさせるという方法があるのである!
偶数が出たら結婚しようという選択の仕方がある!
ひろ先生いわく、仏様に決めていただく生き方だ。
しかし、おかしい。いつもサイコロをふたつ持ち歩いているひろ氏は最高におかしい。
もちろん、ほめているのである。絶賛している。わたしはおかしな人が大好きだ。

ひろさちや氏は読者からの人生相談の手紙に返事を書かないという。
これは(自分ではなく)サイコロに決めてもらえばいいのではないか。
そう思ってのことらしい。
サイコロでなにが出るかは偶然である。偶然を神仏の意思とひろ氏は見る。
これはすべての偶然を必然と見なす究極の宗教的思考法でもある。
だれよりも宗教をわかっているのは受賞歴なしのライター、ひろ先生なのかもしれない。
代表作も受賞歴もないひろさちやをバカにするのは簡単である。
しかし、釈迦もイエスも存命時は世間からバカにされる存在だったのではないか。
もちろん、これはひろさちやを神仏に比する偉大な存在と主張しているわけではない。
そんなことをしたらひろ氏はせっせと穴を掘って自分から入るように思う。

たぶん著作の極めて多い宗教ライターのひろさちやさんは、
すべての著作でおなじ主張をしているのだと思う。
なぜ何冊も買い込む人がいるのかといえば、人間は忘れっぽいからではないか。
重要なことほど忘れやすいものなのだろう。
年輪を重ねると著者のみならず読者も変化する。
このとき、いままで何度もひろ先生が書いていたことを、読者はようやく気づくのだ。
「世逃げのすすめ」を読んで、苦に対する認識が変わったような気がする。
仏教における苦の原義は「思うようにならないこと」「思うがままにならないこと」。
これはひろさちや氏に教わったことである。
おそらく、苦への対処法もいままでの著作で読んでいたのだろうが、
いまようやく理解する。
苦とは思うようにならないことである。人生は思うがままにはならない。

さて、仏教ではなにを苦と見るか。
生(生まれる=どの親の下に生まれ落ちるか)
老(老化する)
病(病気になる)
死(死んでしまう)
愛別離苦(愛する人と生別・死別する)
怨憎会苦(嫌いな人と出逢う)
求不得苦(あらゆる求めるもの――名誉・財産・友好・愛情――が得られぬ)
五蘊盛苦(きたないものをも感じ取ってしまう)
以上の八苦である。

この思うがままにならないことをどうしたらいいか。
苦はどうしたって思うようにはならないのである。だから苦なのだ。
ならば、「あるがまま」にしておくほかないとあきらめる。
これが唯一の苦への対処法なのだろう。
苦はどのみち思うようにならないのだから「あるがまま」にしておく。
「あるがまま」にするほかないとあきらめる。これが仏教の実践である。
どうしたら出世できるのでしょうか? 
愛する人と別れて苦しいのですが、どうしたらいいのでしょうか?
答えは、「あるがまま」にしておくしかない。
なぜなら、どのみち思うようにはならないのだから。

これから先も苦しむのだろうが、苦の正体を見極めたというような錯覚を持つ。
「苦しいのですが、どうしたらいいのでしょう?」
「その苦しみはどうにもなりません。あるがままにしておきましょう」
「どちらにしたらいいか苦悩しています。どちらにしたらいいでしょう?」
「サイコロを振って決めなさい」
これが学問的成功と縁のない、しかし売れっ子宗教ライターであるひろ氏の人生作法だ。

最後に大好きなひろさちや先生の脱力法話を少しばかり紹介して終わろう。

「努力して成功した人は自慢できます。
しかし、努力に努力を重ねたのですが、運が悪くて落ちこぼれになった人が、
「努力したってだめだ。わたしは努力したが成功しなかった」
と文句を言っても、「それはあなたの努力が足りなかったからだ」と、
軽くいなされてしまいます。世間とは、そういうものです。
しかし、努力したが成功しなかった。
そういう人のほうが、きっと圧倒的多数ですよ。
だって、あなただって、これまで一所懸命やってきたではありませんか。
すごい努力をした。にもかかわらず、あなたはその程度です(失礼!)。
努力の馬鹿々々しさは、あなたがいちばんよくご存じだと思います」(P150)


ひろさちや先生の本があれば、
どれだけ人生で負けつづけても生きていけそうな気がする。
みなさんもいざとなればひろさちやに逃げてください。
おカネがなくても、ブックオフに行けば105円で落ちています。
あとはひろ氏を拾うだけ!

「偶然ベタの若者たち」(関沢英彦/亜紀書房)

→いい本だと思うけれども、版元が弱いせいか、
若者批判風のタイトルがよくなかったのか、あまり話題になっていないようである。

――といったように、我われはすぐに原因を考えてしまう。
物事にはかならずひとつの原因があるのだという思い込みからなかなか逃れられない。
成功した人がいたら、なんの努力(工夫)がその原因なのだろうか、と知りたがる。
原発がアボーンしたら原因を突き止めずにはいられない。
でもさ、ぶっちゃけ、すべて偶然かもしれないわけじゃん。
なでしこジャパンが強い相手に勝っちゃったのも、大声では言えないけどたまたまでしょ?
まあ、偶然なのよ。成功と失敗の分かれ目は偶然。自然災害も偶然。
だったら、この偶然を有効活用しない手はないじゃあーりませんか! 
というのが本書の内容だと思う。

インターネットは偶然の敵なのね。ネットで事前に調べないほうがいい。

「いきあたりばったりで、店を選ぶ。(……)
事前調査をすれば、大失敗は防げるかもしれないが、
いつも「想定どおり」の日常になってしまう。(……)
たとえ失敗しても、そのこと自体が「思い出」になる。
先回りをする技術が身近にあることで、偶然を楽しむ機会を失っている」(P32)


ふといま思ったけれど、ネットの普及で道に迷うということがなくなったよね。
わたしは携帯電話からネットに接続できないから(アハハ、ホントっす)、
いまだにけっこう道に迷ったりするのだが。
そして、道に迷ったらすぐ近くの人に聞いちゃう。
道に迷った不安感や目的地に到着したときの達成感は失うにはもったいない味がある。

道だけではなく、偶然に間違えるというのは、とても豊かなことなのだと思う。
仏教思想史を見ると、
ほとんど先師の教えを誤解するところから新しいものが生まれていることに気づく。
著者も偶然間違えることに価値を見出している。

「会話のショートバウンドや大暴投は、おしゃべりを楽しくするだけではない。
偶然の誤解が、偶然の気づきにつながっていく。
その意味で、誤解は最強の発想法ともいえる」(P182)


いま偶然は飼いならされていると著者はいう。なんによってか。統計学である。

「統計学は、偶然によるばらつきをうまく扱うことを可能にした。
たまたま、そうなっていることをたくさん集めたときに、
そのばらつきの特性を見ていくことで、意味のある情報を抜き出すのである。
(……) 偶然を飼いならしてきた私たちは、
ばらつきの特性とか、平均値というものを使いこなすようになった。
一方、ばらつきのなかでも、やけに遠いところにポツンといるようなものは、
「異常値」として排除する」(P150)


著者はこの「異常値」を野生のままの偶然と名づけ重要視する。
さらに野生のままの偶然に気づくには、現場に行くことが肝心だと主張する。
たしかにそうだと納得する。
ものすごい偶然が実際におきても、統計上はなかったことにされてしまうのだろう。
だとしたら、信じられないような偶然も現場ではけっこう起こるのかもしれない。
10回試合をしたら9回負ける相手にでも、我われは一発勝負なら勝てるのである。
付け加えると、もし輪廻転生がないとしたらば、おそらく人生は一発勝負だ。
このとき偶然は弱い人間の味方なのだろう。

「フローズンナイト」(武上純希・野島伸司/「ドラマ」1989年8月号)品切れ

→テレビドラマシナリオ。平成元年8月12日放送。フジテレビ。
全4話のオムニバスで第3話を野島伸司が書いているので興味を持って読んだ。
ちなみに、この「フローズンナイト」が発展して「世にも奇妙な物語」になった。
プロデューサーは遠藤竜之介氏。遠藤周作の息子さんである。
晩年の遠藤周作はだいぶオカルトにはまっていたけれど、
息子さん発案のドラマとなにか関係があるのかは不明。

さて野島伸司作品「私だけのあなた」は独特の味が出ている。
ストーリーは妻のある男性が、不倫相手の夢の中に閉じ込められてしまうというもの。
別れようとしたのが逆に、女の夢の家に捕まってしまうのである。
いかにも野島ドラマ的なシーンを引用してみる。

翠「ここは、あなたと私の家よ」
高橋「オレは帰る。自分の家があるんだ。
出せ。この化物屋敷から出せ!(翠につかみかかる)」
翠、微笑して逃げる。
高橋、翠をつかまえる。
翠、微笑している。
高橋、翠の首を締める。
高橋「ドアはどこだ?」
翠、微笑し、両手を高橋の背に回す。
高橋、殺意を込めて、力を入れる。
翠、恍惚の表情になる。
高橋、目をつぶって、渾身の力を込めて締める。
翠、その場に倒れこむ」(P78)


野島さんが若いころから屈折した恋愛観を持っていたのがよくわかる(苦笑)。
邪推するに、彼はイケメンだから女性からの愛が信じられないのではないか。
自分のどこが好きなのだろう。本当の愛とは? なんてふうに突き進んじゃう。
本来ならもてるのは幸福なのだが、幸福の不幸を過剰に意識してしまう。
正義、平等、愛情、幸福といった概念の持つ偽善性を小児的に告発するのが、
一世を風靡した野島ドラマの特徴だったように思う。

「より道 わき道 散歩道」(河合隼雄/創元社)

→情報化社会は、えらいことになっている。情報ばかりが先走っている。
こうしたら成功できるでえ、金儲けできるでえ、長生きできるでえ。
この種の情報が毎日いや毎時間のように大量に山ほど発信されている。
なかにはまったく正反対の情報もあり、どちらが正しいのかわからなくなる。
どうせ死んでしまうと斜に構えていても、どうやら明日には死なないようだ。
ということは、やはり生きなければならない。
では、どの情報を頼りにして生きるべきなのか。
そもそも自分とは異なる他人の真実であるところの情報を鵜呑みにしてもいいのか。
そうだ、情報とはしょせん他人にとっての真実に過ぎないのではないか。
他人の真実を生きるよりも、自分にとっての真実を発見するほうが楽しいのではないか。
河合隼雄さんは、人生とは実験の連続だという。

「あの人に会うべきか会うべきでないか、これを受けるべきかどうか、
などと迷いつつ、どちらかに決定するとき、
われわれはひとつの実験をしているのだ。
もちろん、人生にまったく同じことは二度と起こらない。
しかし、類似のことは起こり、
前の「実験」の結果を次に生かすことは大いにあり得るのではなかろうか。
人生は実験に満ちていると思うと、自分なりの発明や発見があって面白い」(P87)


この「実験」のことを河合さんは別のところでは「賭け」と言っている。
実験するとき、賭けるとき、なにを根拠にして行なうか。
ふつうはもっとも信用されている自然科学の知見=情報を頼りに行なう。
しかし、自分の過去の実験結果(=発見)を元手に生きてみたら面白いのではないか。
どうして、みなみなそう自然科学を妄信するのだろう。
河合隼雄さんがすすめる個性的な生き方は、科学に疑問符をつけることから始まる。

「自然科学は個というものを無視し、普遍的に通じる法則を見出すものである。
だからこそ、それは適応範囲も広く、
どこでも誰にでも通用するところに強みをもっている。
これに対して「ある個人にとってある時にのみ意味をもつこと」というのがあり、
それは個人の人生にとって大きな意味をもつ。
人生の問題はできるかぎり普遍的な法則に照らして考えねばならないが、
個人が決定的な決断を下したり、
まったく新しい領域に足を踏みいれようとするとき、
一般法則はほとんど役に立たない」(P105)


河合隼雄さんの人生論の根拠となっているのは心理療法の臨床体験である。
以下に引用するような述懐を読むと、
この人はいったいなにを見、なにを聞いてしまったのだろうと空恐ろしくなる。
河合隼雄はなにを墓場までもっていったのだろう。
守秘義務のある心理療法家は見聞きした本当のことを決して口にできないのである。

「心理療法をしているとつらい話を聴くことが多い。
それを外には出さず一人でかかえていることが大切なのだが、
なかなかそれはできないので、スーパーバイザーという人がいる。
その人に話を聴いてもらう。それによって支えられて仕事ができる。
ところが、スーパーバイザー自身も耐えられないときがある。
そうなると、その人がもっと器量の大きいスーパーバイザーを尋ねてゆく。
私はそんな玉突きゲームのいちばん後に立っているような役割なので、
「先生のスーパーバイザーは誰ですか」と訊かれるときがある」(P166)


自分は器量が大きいとこっそり語っているようなものだが、そこを突くのはやめよう。
ちなみに河合さんのスーパーバイザーは、バッハやモーツァルトだという。
なかでもランパルの奏するバッハのフルートソナタが最高のものらしい。

「テレビの大罪」(和田秀樹/新潮新書)

→複雑な構造のもとにある本のように思います。
本書の影響を受けたいわゆる田舎紳士は勢いづいてテレビを批判するでしょう。
1ヶ月に数冊の読書で日本社会を大仰に論じる手合いのことです。
しかし、早稲田スーフリならぬ東大の和田さんの書いたご本は、
いわゆる読書家からしたら大衆向けの通俗書として軽蔑の対象となるのでは?
「目くそ鼻くそを笑う」の図式が見えてしまうのですね。
たとえば田舎紳士は以下のような指摘を見て我が意を得たりと思うかもしれません。

「テレビ業界は下請けプロダクションなどは別にして、
キー局の正社員ともなればみな一流大学の出身で、たいへんな高給取りです。
誤解を恐れずに言えば、テレビというメディアのもっとも罪深いところは、
知的レベルの高い人たちが、
自分たちより知的レベルの低い人たちをだまくらかして、
社会を悪くしていることでしょう」(P110)


わたしは読書家というほど本を読んでいません。
しかし、おそらく本当の読書家から見たら、
東大の和田さんの書いたご本もおなじように見えるのではないでしょうか。
つまり、「知的レベルの高い人」が、その……。
わたしは田舎紳士以下の知的レベルですから、本書はたいへん勉強になりました。
以下のご指摘は、まったくそうだとうなった次第です。

「医療というものは、一定の確率で失敗が起きうるものです。
そして、医療過誤は刑事罰の対象にならないことが世界の常識です。
そういう大前提を、テレビは決して報じてくれません。
完全な成功でないと許さない上に、自信がないからと患者を断われば、
今度はたらいまわしだと非難する。
いったい医者に、どうしろと言うのでしょうか」(P74)


批判しつつもけっこうテレビが好きな自分がいたりします。
もしかしたら「大罪」を含めてテレビが嫌いではないのかもしれません。
むかし「噂の真相」というガセ情報だらけの雑誌がありました。
けっこうなファンがいたのではないでしょうか。
東大の和田さんも知らない新しいテレビの愛しかたかもしれません。
デタラメは楽しい。インチキは面白い。テレビも悪くない。
以上、知的弱者の読書感想文ですので、どうか生意気をお許しください。多謝。

「出会いの不思議」(河合隼雄/創元社)

→河合隼雄さんにとって「正しい」ものはいったいなんだったのか?
我われはいろいろな数字を正しいものと考えて生きているような気がする。
すなわち、平均寿命から現在いる位置を確認する。
年齢別男女別の平均年収より上であれば、とりあえずよしと満足する。
河合隼雄はこういう態度を逆に病気であると指摘する。

「現代人は統計が好きである。
背が高すぎる人は高すぎることを気に病んでいる。低すぎる人も同様だ。
そして、平均的な人は目立たないのを残念がっている。
何のことはない。統計や平均値がすべての人を悩ませているのだ。
「魂」なんてものがあるのかないのかわからない。
しかし、それがあるとして考えると、「平均病」とは縁が切れる」(P41)


じゃあ、その「魂」とやらはなんなのか?
これを河合隼雄は明言していない。なぜなら目に見えるものではないからである。
目に見えるものは、みなみな統計=数字に捕えられてしまう。
だから、「魂」などというおよそ非科学的なものを持ち出してくるのだろう。
河合隼雄のいう「魂」とは、死後も残るものという意味合いが強いと個人的には思う。
死後も永続的に残るものがあるとすれば、
わずか百年にも及ばぬ人生は様相をがらりと変えるはずである。
「魂」のがわから見ると、なにが正しいのかわからなくなる。

ふたたび、河合隼雄さんの「正しい」に戻る。
氏はめったに断言をしない。絶対的な真実はこれだと決めつけるようなことがない。
しかし、なにかを真実だと思わないと人は生きていけない(=選択できない)。
河合隼雄は、なにを真実だと思っていたのか。
どうやら氏は「その場の真実」の存在を信じていたようである。
心理療法家は講演を勝手に録音されたり、無断で出版されるのを嫌悪していたという。
「話すこと」は「書くこと」とは異なる領域にあるという認識のためだ。

「私にとっては、書くことと話すこととは大分異なっている。
書くのも「おはなし」調で書く、と述べたが、それは形の上ではそうだが、
内容的には、誰がいつどこで読んでもいい、ということを前提にして書いている。
これに比して講演は、
顔が見えるし、自分の言ったことに対する反応が感じられるので、
そこにひとつの特定の場ができてくる。これは明らかに事情が異なる。
「その場の真実」というものがある、と私は思っている。
せっかく足を運んでその場に来られたのだから、書物とは異なって、
「その場の真実」を伝えられるような話しかたが必要ではないか。
このように思うので、私は講演というときは、
だいたい何も準備せずに行くことにしている。
聴衆を前にして話しはじめると、聴衆からの反応があり、
それによって話がどちらへ行くかわからない。
この方法は、スリルもあるし、聴いているほうも面白いのではないかと思う」(P125)


だとしたら、河合隼雄の講演はいわゆる事実の報告ではなくむしろ創作ではないか。
しつこいが氏が講演で語るのは普遍的な真実ではなく「その場の真実」である。
この「その場の真実」はときにウソと呼ばれるものなのだろう。

「ドライリップスなんてカプスケイシングに追っ払っちまえ」(トムソン・ハイウェイ/佐藤アヤ子訳/而立書房)

→戯曲。カナダ産。これはほんと苦しんだ。
不条理劇も前衛劇もなんとか読み通してきたが、これは途中でギブアップ。
最後まで読めなかった戯曲は、岸田賞劇作家・岡部耕大先生の作品以来である(苦笑)。
かなり忍耐強いほうだと思っているが無理だった。
まず登場人物の性別がわからないので困った。
開幕してなにかを説明しているらしいのだが、まるで意味がわからない。
しかし、この作品の翻訳者や編集者を傷つけてはいけない。
この実験的な芸術作品を理解できないのは、
おそらくこちらの知力が足らないからだろう。謝罪する。
とはいえ、うっかりどこかの劇団が上演してしまうと迷惑するものが大勢出てしまうので、
いちおう感想めいたものをウェブ上に残しておくことにする。

「芝居は最高!」(フランツ・モルナール/三田地里穂訳/而立書房)

→戯曲。モルナールはハンガリーの劇作家。
自分の生まれる50年もまえに遠い異国でこれほどの傑作芝居が上演されていたのか。
もう世界の広さに呆然とするほかない。
戯曲を読みながら何度も笑ったから実際に芝居を観たらどれほど楽しかったことか。
日本人は役者にしか関心がないようだが、芝居は結局のところ台本なのだと思っている。
ここが永遠に日本人には理解されないのだろう。
芝居は台本に尽きるという共通認識がないから怖くて観劇に金を賭けることができない。
そう、お芝居を観にいくのは賭けなのである。
4千円、5千円も支払って、ひどい作品だったら1週間は立ち直れなくなる。
なら、戯曲で先に読んで名作とわかっているものを観ればいいと言われるかもしれない。
しかし、芝居はなんのかんのといっても筋が勝負でしょう?
あらかじめストーリーを知っていると楽しみが半減するのである。
わたしには役者目当てにおなじ芝居を何度も観にいく人種がどうしても理解できない。
そして、筋を知らない芝居に何千円も賭けることはいまや金銭上の理由で不可能。
日本の演劇人は戯曲をあまり読まないから上演作品の質をなかなか信じられない。
こうして観劇とは縁遠くなったわけである。

「芝居は最高!」は演劇の演劇である。芝居の芝居だ。
かといって退屈な前衛作品ではなく、上質のウェルメイドプレイになっている。
主役の劇作家が観客に向かって芝居を意識したセリフを何度も放つのが楽しい。
たとえば、開幕すると劇作家はこんなことを話す。
芝居は書き出しがいちばん難しい。
手早く場所と人物の紹介をしなければならないからだ。
そんな面倒臭いことはもうやめようじゃないか――と劇作家は自己紹介を始める!
作品に一貫する英国流とでもいうべき乾いたユーモアセンスには脱帽する。
このユーモアをどう説明すればいいのか。
「まったく生きていくのは大変なもんさ、ねえ?」と微苦笑をもらす感覚か。
その問いに「ああ、まったくだ」と答える余裕のある人生態度とでも言ったらいいのか。
真似したいが下手をすると村上春樹の「やれやれ」になってしまうので困る。

「まったく生きていくのは大変なもんさ、ねえ?」――。
劇作家のかわいがっている甥が婚約したのはいいけれど、その相手の女優が問題だ。
妻子もちの中年俳優とまだ縁を切っていないからだ。
劇作家とその甥は、禁じられた恋のやりとりを盗み聞きしてしまう。
婚約者の不貞にショックを受ける純情な甥である。さあ、どうするか?
劇作家は旧知の間柄の二人に提案する。
女優と不倫相手は芝居の稽古をしていたということにしたらどうか!
劇作家は甥のために一肌脱いで芝居のなかで新作芝居をでっちあげる。

「ファンタスティックス」(トム・ジョーンズ、ハーヴィー・シュミット/勝田安彦、山内あゆ子訳/劇書房)

→ミュージカル台本。世界最長ロングラン記録を持つ古典的作品。
さすがによく出来ているよなと感心する。

「平凡な人生は イヤよ 夢を 夢を!」(P59)

ヒロインのセリフだが、ミュージカルを観にくる客の欲望をストレートに表現している。
まことアメリカーンなセリフだと思う。
やはりミュージカルとはいえドラマであることには変わりない。
ドラマとは仕掛けである。ふたりの父親はあえて両家のあいだに壁を作る。
さらに仕掛ける。チンピラに金を渡しヒロインを誘拐させる。

「シイッ! ダメダメ」(P111)

ドラマは秘密である。仕掛けたことは秘密になっている。口にしてはならない。
ところが、ドラマにおける禁止はほとんどの場合破られる。
劇作家からしたら破らせるために約束や禁止という設定を作るのだろう。
この点、あえて若い男女のあいだに壁を設ける父親たちはドラマの象徴である。
ドラマは意外な展開を見せる。恋人たちはかならず一度別れなくてはならない。
なんのためか? 最後に再会するためだ。

「この世で一番厳しい教師、そう、時間の、
慈悲深い手に預けることにしましょう」(P124)


「ファンタスティックス」において問題を解決するのは実人生とおなじで時間である。
なんだかんだいって、美男美女が結ばれるのは我われの目を喜ばす。
ちょっとした教訓を盛り込むのが作品を長生きさせるこつなのかもしれない。
「ファンタスティックス」ではテーマをセリフに出してしまっている。

「なぜ人は、傷ついてはじめて成長できるのか」(P149)

多くのドラマがこのテーマで書かれているが、
どれも「ファンタスティックス」のようにバカ売れするかといったら、そんなことはない。
おそらく、これからもおなじテーマの作品が生み出されることだろう。
そして、その大半がヒットしないまま、あくびとともに消費され忘れられてゆく。

「正法眼蔵随聞記」(懐奘/山崎正一:全訳注/講談社学術文庫)

→若かりし懐奘(えじょう)が師と仰ぐ道元禅師の教えをまとめたものである。
だから、禅における「歎異抄」と考えてよい。
宗教で重要なのはもしかしたら開祖ではなく弟子なのかもしれない。
かりに偉人がいたとしても、
その存在や教えをうまく伝えるものがいなかったら宗教にならないのだ。
こう断言していいのかわからないが、踊り念仏の一遍上人は弟子に恵まれなかったようだ。
一方で、親鸞上人とこの道元禅師は弟子に恵まれていた、とされる。
「正法眼蔵随聞記」は「歎異抄」同様、
師の難解な思想を簡明に説明したものとして評判が高い。
なかには座右の書にまでまつりあげているものもいると聞く。

だが、しかし――。
私見では「正法眼蔵随聞記」がそれほどすぐれた宗教書とは思えないのである。
少なくとも「道元禅師語録」にあった深さはみじんも感じられない。
あとで詳しく説明するが、本書が伝える道元の姿はまるで怖い野球部の先輩のようなのだ。
とても人生に熟達した高僧には思えない。
この理由をわたしは年齢に見る。
「正法眼蔵随聞記」は懐奘が道元に出逢った直後に書かれたものである。
したがって道元35~38歳の思想を伝えている。
弟子の懐奘は道元よりも2歳上。とはいえ、いまだ40にもならぬ身だ。
懐奘が道元の正体を把握するまで成熟していなかった可能性がまず考えられる。
あるいは、道元自身がまだ完成には程遠い状態だったのかもしれない。
ともあれ、「正法眼蔵随聞記」は「歎異抄」と比べたらかなり価値が落ちるのではないか。
これが未熟なわたしの現在における評価である。

先にも触れたが、この時期の道元は本当に野球部の怖い先輩そのものなのだ。
先輩は後輩に素振り千回を命じる(只管打坐=ひたすら座禅せよ!)。
後輩が理屈を述べようものならボコボコにされてしまう(暴力礼賛!)。
「いいか、身体で覚えろよ!」の世界なのである(P185)。
ケツバットをされて「ありがとうございます!」と最敬礼する世界だ。
とはいえ、この先輩(=道元)には狂人が持つ魅力はない。
どこまでも果てしなく常識人なのである。
繰り返し善行をすすめるが、彼が善悪の基準を疑うことはない。
「善いから善い、悪いから悪い」と鉄拳で訴えるのが若き道元である。
道元の留学先シナにおける師匠、如浄はとにかく弟子を殴るのが好きだったらしい。
座禅中に弟子が居眠りをしようものなら、徹底的にグーパンチを入れたとか。
如浄はわざわざ靴を脱ぎ、その靴で弟子を打ちすえるのも好んだとされる。
そういう師匠を目の当たりにした道元先輩が後輩を殴らなかったとはとても考えられない。
おそらく道元もまた弟子を足蹴にしたことだろう。
弟子が少しでも反抗を見せたら、迷わず鼻に蹴りを入れるような怖さが道元にはある。
いや、正しくは「正法眼蔵随聞記」から、そのような道元像が見て取れる。
親鸞上人の名言に「ひと千人ころしてんや」がある(殺人のススメ!)。
一遍上人は「とく死なんこそ本意なれ」と言い放っている(自殺のススメ!)。
さて、道元禅師はなんと言っているか。

「一切私を用るべからず」

「一切私を用るべからず(一切、自分勝手に考えてやってはいけないのだ)」(P44)。
師匠に絶対服従せよ。
「おい、白いカラスが飛んでいるぞ」「はい、そうですね」――。
「あのひきがえるやみみずは仏だよ」「はい、そうですね」――(P90)。
「一切私を用るべからず」とは上記のような師弟の会話を理想とするのである。
これが懐奘がマスターしたところの、若き道元の思想だ。

少し悪ふざけが過ぎたかもしれない。
「正法眼蔵随聞記」から道元思想の基礎を見ていきたい。
道元は我われになにをしろと言っているのか。只管打坐(しかんだざ)である。
ただひたすら正しい仏道修行であるところの座禅をしなさい!
なにゆえか。どうして座禅をしなければならないのか。

「外典に云(いはく)、「朝に道を聞かば夕に死すとも可也」[と。]
たとひ、飢死、寒死すとも、一日一時なりとも、仏教に随ふべし。
万劫千生、幾回(いくたび)か生じ幾回か死せん。
皆是(みなこれ)、かくのごときの世縁妄執也。
今生一度仏制に順(したがっ)て飢死せん、
是、永劫の安楽なるべし」(P97)


これが基本である。おなじことを別のところでこう言っている。

「夜話に云、古人云、『朝に道を聞かば、夕に死すとも可也』。
今、学道の人、この心あるべき也。
広劫多生の間、幾回か徒(いたづら)に生じ、徒に死せん。
まれに人界に生れて、たまたま仏法に逢ふ時、
何(いか)にしても死行くべき身を、心ばかりに、
惜しみ持(たもつ)とも、かなふべからず。
遂に捨て行く命を、一日片時(へんし)なりとも、
仏法の為にすてたらば、永劫の楽因なるべし」(P161)


一回きりではないと道元禅師は言っておられるのである。
この人生は一回きりではない。死んだら終わりなのではない。
前世は猫だったのかもしれない。来世はパンダになるのかもしれない。
いずれにせよ、一回きりと思うなよ。
このたび幸運にも人間に生まれ落ちたのに、どうして修行をしようとしない?
修行するぞ、修行するぞ、修行するぞ!
まだわからぬ愚かものがいるのか! 一歩前に出ろ! 鉄拳制裁だ!
なぜ修行しようとしないのか! 道理を知れ!

「たとひ、走り求めて、財をもちたりとも、
無常忽(たちまち)に来らん時、如何(いかん)。
故に学人は、只、宜しく余事に心を留めず、一向に道を学ぶべき也」(P134)

「念々に留まらず、日々に遷流して無常迅速なる事、眼前の道理也。
知識経巻の教へを待つべからず。念々に、明日を期することなかれ。
当日当時ばかりと思ふて、後日は甚だ不定也。
知り難ければ、只、今日ばかりも身命の在らん程、
仏道に順(したが)はんと思ふべき也」(P115)

「たとひ、七旬八旬(=七十歳、八十歳)に、命を期すべくとも、
遂に死すべき道理有らば、其の間の楽み悲み、恩愛怨敵を思ひとけば、
何(い)かにてもすごしてん。
只、仏道を思て、衆生の楽を求むべし」(P155)


どうせ死んでしまう!

無常とは、どうせ死んでしまうということである。どうせ死んでしまう。
さらにその死は終わりだと思ったら大間違いだぞ!
延々と我われは六道を輪廻するのである。生死の苦界から永劫に逃れられぬ。
来世にはネズミに生まれ変わり猫にもてあそばれる生が待っているのである。
いまよりもっともっと苦しい生命が未来永劫まで続くのである。
馬に生まれ変わったら仏道修行などできないぞ。まさに馬の耳に念仏だ!
おぬしはいま幸いにも人間である。もう迷うな。
さあ、修行するぞ、修行するぞ、修行するぞ!
だから、もう考えるな! 「一切私を用るべからず」だ!
無心で師匠に随え! なにか考えそうになったら、師匠に頼むがよろしい。
グーパンチごっちゃんです♪ サッカーボールキックごっちゃんです♪
「正法眼蔵随聞記」からうかがえる道元禅師の主張である。

以上のことを理解したら本当は言ってはならないのだが、
実のところ「正法眼蔵随聞記」の記載は矛盾に満ちている。
暴力に屈することなく、逐一矛盾を指摘したい。
道元は人に迷惑をかけてはいけない、傷つけてはいけないと教えている。

「大小の事につけて、人をわづらわし、
心を傷(いたます)ことあるべからざる也」(P201)


ところが、仏道修行のためなら世間の人など気にするな、とも言っている。

「世間の人、何とも謗(ほうず)とも、仏祖の行履(あんり)、
聖教の道理にてだにもあらば、依教すべし」(P216)


師の教えには絶対に従えというのが道元の主張だったはずである。
ところが、こんなエピソードを説いている。
道元の師匠の明全がシナに留学する前のことである。
恩師が重病で渡航をしばらく待ってくれと弟子の明全に頼んだ。
しかし、明全は師の懇願を拒絶しシナに渡ったという。
道元は明全の恩知らずとも言うべき行為を絶賛するのである(6の13)。
懐奘はこのエピソードの次に再び師匠の教えは絶対との教えを記している。
おそらく懐奘もこの矛盾に意識的だったと思われる。
道元の矛盾に気づいたからこそ、あえてこの配列にしたのだろう。
鉄拳制裁を恐れてか懐奘は道元の矛盾を指摘しなかった。

まだ矛盾はある。道元は人の忠言は聞けと教えている。

「書に云、「忠言は耳にさかふ」と、
我が為に忠なるべき言ば、耳に違(い)する也。
違すれども強て随はば、畢竟じて益あるべき也」(P308)


直後に正反対の教えが書かれている。
他人からの非難を耳に入れるべきではない、と。

「人の毀謗をきかず、人の不可を云はざれば、よく、我が事を成ずる也」(P316)

道元は「死ぬ気で戦え!」「死ぬなよ!」と同時に命令する上官のようなものである。
鬼軍曹というイメージが強い。
いま気づいたが、もしかしたらこれが禅的な思考なのかもしれない。
「死ぬ気で働け!」「過労死はするなよ!」の矛盾は禅なるものの象徴かもしれない。
正反対のふたつの命令を同時になされたときにどうするかが禅の教えではないか。
たとえば自殺しようと思っている男がいたとする。
ところが、ナイフを持った暴漢が迫ってきたら、男は思わず逃げてしまう。
人間におけるこのような矛盾を道元は見すえていたのかもしれない。

のちに展開する道元思想の萌芽も「正法眼蔵随聞記」から見て取れる。
この部分が道元後半の人生で開花していったのではないか。
竹の音を聞いて悟るものがいる。
花が咲く瞬間に悟りを得るものがいる。どちらも自然である。
自力の道元も他力の親鸞も行き着いたのは自然であった。

「竹の響き妙なりと云へども、自(おのづから)の縁を待て声を発す。
花の色、美なりと云へども、独(ひとり)開(ひらく)るに非ず。
春の時を得て光を見る」(P231)


関係ないが、ふと気づいたので書いておこう。
自由律俳人の山頭火が出家したのは、自殺した母の供養のためだという。
おそらく「正法眼蔵随聞記」のここに注目したのだろう。

「一子、出家すれば、七世のをや(=親)、得道すと見へたり」(P221)

ひとりでも子が出家したら七代までさかのぼって祖先に善報がある!

さて若書きとも言うべき「正法眼蔵随聞記」から現代を生きる我われはなにを学ぶべきか。
「正法眼蔵随聞記」には注意しろ、だ!
この本を愛読している教師は生徒を躊躇せずに殴るだろうから。蹴りもするだろう。
会社員がこんな本を愛読し始めたら過労死へまっしぐらではないだろうか。
「一切私を用るべからず」――滅私の思想である。

まえにも書いたことがあったと思うが、いまもって事態は変わっていない。
やたら犬から吠えられるのである。
なぜかとずっと疑問に思っていたが、もしかしたら喜ぶべきではないか。
というのも畜生のお犬さまが(人間ではなく)お仲間と認めてくれたのだから。
パンダたる(プロフィール写真参照されたし)我輩としては実に光栄ではないか。

野生の勘で生きているところがある。
内部から生じる根拠のない危険信号をかなり信用している。
この人とは関わらないほうがいい、と思ったときはまず逃げることにしている。
危険には立ち向かうのではなく、逃げる!
犬やパンダといった畜生の持つ知恵である。
そうそう、たまには「もてない男」の小谷野敦先生に関係する話も書いておこう。
先生は極度のさみしがりやだから、万が一お目に触れたら喜ばれるかもしれない。
これは禁煙ファシズムと闘っておられる猫猫先生には朗報かもしれない。
大学者で国民的好感度も非常に高い河合隼雄先生は喫煙肯定派だよ。
ソースは雨宿りのため入った図書館で暇つぶしに飛ばし読みした対談集。
「心理療法対話」の30ページか31ページに喫煙礼賛が書いてある(はず)。
もっとも河合隼雄さんは酒はやるけどタバコはやらないのではなかったかな。
ともあれ、タバコは無駄で無為だからよろしい、ということらしい。
アメリカ原住民(?)の建国神話に喫煙行為が大いに関与していることを、
タバコ礼賛の証拠として挙げている(笑)。
まあ、神話に書いてある「から」正しいという学説はインチキなのだろうけれど。

あと、もうタバコとは関係ない話。
久しぶりに中に入った図書館で学んだこと。
河合隼雄さんは治療中ものすごい偶然に遭遇することがよくあったらしい。
けれど、決してその偶然を事例として書籍では公開しないという。
なぜか。ふたつ理由があるとのこと。
1.どうせ信じてもらえないから。
2.自分の流儀でおまじないのようなもの(げんをかつぐ!)。
ブログのコメント欄で助言されることが多い。迷惑している。
よくもまあ、顔も知らない人間に助言できるものだとあきれる。
顔がわからない人間の人生相談などできるか! と言ったのは福田恆存である。
これなんか当たり前のことだが、この当たり前を理解できぬ人がやたらと多い。
わたしに助言したかったら、実際に逢ってからにしてくれよと毎回思う。
相手の面前では決して言えないこともネットならば(だから?)言える。
それにしても「あなたのためを思って」と助言する人たちはいったい何様なのか?
ここには自分は「あなた」のことをわかっているという鼻持ちならぬ傲慢がある。
顔もわかっていないくせになにを言っておるか!

「人の気持を考えなさいよ」は大概「私の気持を考えろ」ということだ。
だとしたら、「あなたのためを思って」は「私のためを思って」なのだろうか。
だが、わたしは顔も知らない「あなた」のことはわからないのである。
これはある承認していないコメントへの回答として書いている。
わたしは「あなたのためを思って」助言しようとは思わない。
なぜなら、「あなた」のことはよく知らないし(だから)関心もないからだ。
なのに、どうして「あなた」はこちらに干渉してくるのか。
顔も知らない他人のことはほっといてくれよと思う。
わたしも顔も知らない他人に深く関与しようとは思わない。
それに求められていない助言をしてもご迷惑ではありませんか?
作家の村上龍先生がエッセイ集でこんなことをおっしゃっていらした。
例によってソースは立ち読み。
編集者から「先生はいまどきめずらしい肉食系ですね」と言われたという。
作家は3時間ほど不愉快でならなかったと告白している。
自分に向かってそのような下卑た言葉を使う編集者を軽蔑しているとも書いている。
先生によると、いまや勝ち組負け組という言葉も死語で、
作家のまえでは使ってはならないらしい。
人気作家というのはどえらいことを書きやがるとたじろいだ。

もしさ、もしの話だよ。
くだんの編集者氏がそのエッセイを読んだらどれほど傷つくだろうか。
もしかしたら人を傷つけても平気でいられるのも才能なのかもしれない。
いや、現実を甘く見てはいないよ。編集者もこの才能を持っているのだから。
このエッセイを読んだ編集者は新人をいびるのにこの例を用いるのだろう。
新人作家が小説やエッセイに肉食系などという言葉を使おうものなら、
そんな言語感覚では現代じゃ通用しないよと彼(女)を手厳しく傷つける!

実のところ、村上龍先生を批判したいのではなく肯定したいのだ。
人は生きているだけでどうしようもなく他人を傷つけてしまう。
他人を傷つけたくないのなら死ねという話なのだが、
だれかが死んだら傷つく近親者がいるだろうから死んでもいけない。
だが、生きているかぎり、他人を傷つけるのは避けようもない。

たとえば人気脚本家が自死遺族をテーマにしたドラマや芝居を書く。
自死遺族のわたしはそれを見て自分の気持をわかってくれていないと傷つく。
ブログにそのことを書いてしまう。
もし万が一、人気脚本家がその記事をうっかり目にすることがあったら、
脚本家氏もまた傷つくことだろう。他人を傷つけたことに傷つく。

おそらくなにかを書くということは、だれかを傷つけるということなのだろう。
人気作家の村上龍先生がそのことを知らないはずがないではないか。
あえてやっているのだろう。
数日前ブログに「いまのテレビドラマはつまらない」とうっかり書いてしまった。
抗議するコメントをいただいた。
わたしはその人の賞賛するドラマを見たことがなかった。
「自分は俗物なのですか?」と皮肉を書いていらした。
悪いことをしたと思う。該当記事は削除しましたので、どうかお許しください。
絶対的に正しいことなどあるのだろうか?
あったとしたらそれは「人はみな死ぬ」くらいではなかろうか?
ほとんどのことがたぶんウソで、
多数派の信じているフィクションを便宜上「正しい」としているのではないだろうか?
「人を思いやる」ことは正しい。
「長生きする」ことは正しい。
「勤勉に働く」ことは正しい。
「学者の言っている」ことは正しい。
「苦労人の言っている」ことは正しい。
かなりの「正しい」がおそらく信仰(=盲目的価値判断)のようなもので、
にもかかわらず、ではなく、だから虚構性を指摘すると感情的な反発を受けるのだろう。

そうだとしたら、わたしに信仰はないのだろうか?
というのも、いくら法華経信者に念仏の悪口を言われても腹が立たないのだから。
ことさら南無阿弥陀仏を正しいと思っていないからそうなのか。
それとも一遍上人のように念仏=題目と思っている(信じている?)からなのか。
南無阿弥陀仏は「人はみな死ぬ」程度のことと理解している。
ならば、やはりわたしの念仏は正しいのだろうか?
「努力したら報われる」のウソと双璧をなすのが恋愛のウソではないか?
自分が相手に関心を持ったら、相手も自分に関心を持ってくれるという信仰のことだ。
ところが、どれほどだれかのことを思おうが相手はこちらに無関心ということがある。
これはもうどうしようもない。あきらめるほかない。
好かれているほうはただひたすら恐怖なのだろう。いわゆるストーカーなのだから。
「自分はあなたに興味がない」とどれだけ伝えても、
いやそれは間違っている、「そんなことはないそんなことはない」と批判されるのだから。
いつ彼(女)は自分のあやまちを知るか? 相手の立場になったときである。
自分がつゆ関心を持っていない相手から何度も求愛されてはじめて、
人はこの行為がいかほどに迷惑かを思い知る。
だから、なんのかんのといって、もてるやつもいろいろたいへんなのだろう。
とくにやさしい性格のものは人を傷つけるのに耐えられないのではないか?
ザマアミロ(苦笑)! ――はいわないほうがよかったかしら。
サマージャンボ宝くじを1枚買う。結果発表までしばらく夢を楽しめそうである。
3億円当たったらいったいなにをしよう。
宝くじというのは1枚買うのがいちばんいいのだと思う。
というのも、購入が1枚でも千枚でも(3億円)当選確率は変わらないのだから。
すなわち、ほとんどゼロである……。

宝くじを買っている人に「どうせ当たらないよ」と指摘するのは無粋でしょう?
これとおなじことを過去にやってしまったのかもしれない。
「宝くじを当てる正しい方法」を教えるシナリオ学校を批判したことがある。
自分たちも当てていない宝くじを当てる方法で商売するのはあんまりじゃないか?
そういう思いがあった。
しかし、意識的に夢を買っていた人にはいささか悪いことをしてしまったのかもしれない。

とはいえ、本気で宝くじに当たる方法があると信じているのはやはり問題ではないか?
それはノウハウといった類ではなく、もはや信仰の領域だと思う。
なら新興宗教としてやってくれ、と言いたくなる。
たしかに夢を見るしかない人生というのもあるのだろう。
わたしだってある種の夢を見ていることは自覚している。かなわぬ夢を見ている。
だとしたら、「努力したら報われる」という夢はいちばん「正しい」フィクションなのだろう。
小説でもドラマでも、この成功物語、出世物語のパターンはどうしても好きになれない。
どこまでも少数派なのだと思う。
まさかテレビ局関係者がこんなブログをご覧になってはいないと思うが、
人生にはいろいろな不思議現象があるので冗談半分に書いておく。
多忙で高収入、高学歴、友人も多い(と自身は信じている)自信家のテレビマンには、
とうてい受け入れられない思想というのは書くまえからむろんわかっているのだが。

さてさて、数字(視聴率、売上、顧客数)がほしかったらどうしたらいいのか?
いまのテレビドラマがどうしてあれほどつまらないのかといえば、
大半の制作サイドが視聴率20%を狙っているからではあるまいか?
20%を狙っているから視聴率が1桁になってしまう。
実のところ20%の人間など存在しなく、
ひとりひとり様々な考え方をする人が(たとえば)1千万人いるだけなのに、
高偏差値から高収入に移行したエリートにはこれが見えない。
想像することもできない。人間というものがまったくわかっていない。
だからマーケティングリサーチとやらの情報を鵜呑みにして20%を狙う。
結果として1桁になってしまうことも多い。
責任は使い捨てのライターやタレントに押し付けて自己の正当性はつゆ疑わぬ。

もしかしたら20%を求めているから視聴率が8%になってしまうのではないだろうか?
あんがい10%の視聴率を狙ったら15%くらい行ってしまうとは考えられないか?
要はこういうことである。
大勢の人間の嗜好から離れ、少数の人間の好き嫌いに目を向ける!
数字を無視する作法である。失敗して元々と開き直る作法だ。
たとえ失敗したとしても制作サイドのやりたかったことだから仕方がないと冒険する。
極端なことを言えば、たったひとりの人間に向けてドラマを創作する。
一般的なレベルに引き上げれば、ひとりの顧客のために商品を開発する。

わたしのいちばん好きなテレビドラマは山田太一脚本の「ありふれた奇跡」である。
あれは視聴率1%以下を狙ったとしか思えない。
さて、平均視聴率がいくつだったかは数字に興味がないので各自お調べください。
しかし、1%以下ということはなかったはずである。
どうして全体におもねるのだろう? 多数派に媚びるのだろう?
わたしはこの文章をほとんどたったひとりに向けて書いているのかもしれない。

(追記)上記の文章は、すべてのドラマを見ているわけではないのに失礼しました。
「みんな」のためを考えて、
懸命にドラマを制作しているスタッフ、キャストのみなさまには頭が下がります。
勝手なことを申し上げたことを深くお詫び致します。
笑うのは健康にいいよね。泣くのもそうだけど。
いわゆる鬱病の患者さんというのは、笑ったり泣いたりできなくなった人なのでは?
医者でもないのに、おかしな定義をしてみた。
さて、2ちゃんねる某所でのこのやりとりに大笑いしたので紹介する。

136 :名前は誰も知らない:2011/06/26(日) 22:57:05.09 ID:ynzkw0MpO
考え方をポジティブにするために、
前向きな本を読んでみるか
これ以上暗くなったらお先真っ暗

137 :名前は誰も知らない:2011/06/27(月) 00:53:14.77 ID:z6IgUtIS0
>>136
それを現実逃避っていうんだよ。



ここ数年2ちゃんでいちばんのお気に入りは「孤独な男性」板。
といっても、書き込みはいっさいしていない。
そもそもなにかの巻き添えをくらっていて、うちのIP?ホスト?からは書き込めない。

よく文学史で登場する専門用語、近代的自我ってさ、要は「孤独な私」という意味では?
もっとわかりやすく言い換えたら「さみしい」ってこと。
だけど、お偉い文学者が「さみしい」なんて言えないから「近代的自我」が生まれた。
隠れインテリの我輩も日曜日の本日、近代的自我の問題に苦しんでおるわい(笑)。