教育、育児、人間関係全般において、いちばん難しいのは静かに見守ることなんですね。
これがあまりにも難業なので、つい我われは助言や激励をしてしまいます。
「がんばれ」と言ってしまう。「がんばろう」と言ってしまう。
うっかりものは助言や激励を善行だと勘違いしていますから手に負えません。
実のところ助言や激励にほとんど意味はありません。
意味があるとしたら助言者や激励者の精神安定に役立つくらいではないでしょうか。
ほんとうに悩み苦しんでいる人は助言や励ましを迷惑に感じます。
そんなことはないと主張なさる人がいらっしゃるかもしれません。励まして感謝されたと。
しかし、苦悩者の「ありがとう」を真に受けてはいけませんよ。
内心では「こちらの苦労も知らないくせに」と思っているかもしれない。
「善人気取りでいい気分だな」と恨まれているかもしれない。
人間、他人の気持はわかりません。他人の苦しみはどうしようもなく理解できない。
この限界を知っている人は、安易な助言や激励を慎む謙虚さを持っているように思います。

それに比べたら金品を渡すのははるかに実効的な面があります。
けれども、なかなか人間は黙って他人に金品を差し出せないでしょう。
いくら身内とはいえ、です。
どうしても金品を提供するときに要らぬ助言や激励をしてしまいます。
金品に見合った自己主張をしようとする。
仕方がないとはいえ、みっともないことです。
被災者への募金額を自社サイトで大々的にPRしている企業がありますでしょう。
なんとさもしいことかと顔をしかめたくなりますが、
こういう繊細な感覚のわからない厚顔な人にしか企業経営は務まらないのかもしれません。
それだけ金品を黙って差し出すのは難しい。
ですから、宮沢賢治のお父さんというのは相当な人物だったと思いますね。
ひたすら放蕩をする息子に対してあのように寛大にはなれませんもの。
あれはめったにできることではありません。稀有なる芸術も生まれるわけです。

金品を提供しないで助言や激励だけするのは、だから偽善と言われてしまうことがあります。
果たして偽善かどうかは不勉強なため断言できませんが、
助言や激励をする自分にうっとり酔っている人はとてもじゃないけど見ていられません。
しかし、助言や激励をしたことで満足している人がどれほど多いことでしょう。
一方それをされたほうは取り残されたような孤独感を味わっているのではないでしょうか。
励ましたからもう終わりか、とがっかりしてしまう。まあ、そんなもんなんですが。
助言や激励に比べて、いかに静かに見守ることが難しいか。
しかし、人生の苦悩者がいちばん望んでいることはこれなのだと思いますね。
自分の苦しみを聞いてほしい。助言や激励はせずに、ただただ聞いてほしい。
無料でこのボランティアのできる人はたぶん釈迦やイエスくらいだったのではないでしょうか。
鎌倉新仏教の開祖もそれをできたのかもしれない。
助言や激励をしないでひたすら他人の苦しみを聞くほど難しいことはありませんから。
高額のカウンセリング料金を徴収して、やっと河合隼雄氏ができたことです。

助言や激励はだれにでもできる。静かに見守るのがどれほど困難か。
だから、と最後にオベッカのようなことを言います(笑)。
だから「本の山」の読者様にはほんとうに感謝しています。
ふつう更新のとまったブログは見ないようになります。しだいに閲覧しなくなる。
しかし、アクセス数を見るとまったく減少していません。
静かにこのブログを見守ってくださっているかたが多くいるということでしょう。
これほどありがたいことはありません。
もとより、あえて、わざと、意識的に、いま「本の山」で沈黙しているのです。
アクセス数目当てに更新頻度を高めたいのなら、
今日食べたものでも報告すればいいのですから、こんな楽なことはない。
ブログなんていうのは、(暇人にとっては)更新しないほうが難しいのでしょう。
あえて沈黙をするのと、あえて助言や激励をしない(=静かに見守る)のとには、
なにかしら共通した人生態度があるように思います。
読者様に恵まれていることをなにものかに感謝して記事を終えます。
静かに見守られていることほど勇気づけられることはありませんから。
――やるぞ!

(追記)いま集中していることがありますので、
緊急ではないご用件は来月にお知らせいただけますと嬉しいです。ありがとうございます。
「魂は千の風になりますか?」(ひろさちや/幻冬舎)

→みな人生の主役は「私」だと思っているが、本当は「時間」が主役なのかもしれない。
人間の苦しみは「先生」=「カウンセリング、精神医学、宗教」によって癒されるのではなく、
もしかしたら「時間」が解決しているのかもしれない。
あらゆる偉業は人間が成し遂げたのではなく「時間」がもたらしたとは考えられないか。
こんなことを思ったのは、本書であるインド神話を知ったからである。
どうして嘘であるはずの「おはなし」が真実を言い当てているように我われは思うのだろう。
ひろさちや氏の語るインドの「おはなし」に耳を傾けてみよう。

「インド神話に出てくる、夜の起源のお話を紹介しましょう。
インドでは、ヤマという男性とヤミーという女性、
この双生児が最初の人間とされています。
このふたりが結婚して子供を産む。インド版のアダムとイブです。
その後、夫であるヤマが亡くなるんです。
「今日、ヤマが死んだ、今日ヤマが死んだ」
妻のヤミーは、ずっと涙を流して嘆いている。
天界の神様たちは、なんとかしてヤミーを立ち直らせようと、
いろいろなアドバイスをしました。
しかしヤミーはまったく聞き入れません。
どうしたらヤミーをなぐさめることができるのか、神様たちは会議を開きました。
「夜をつくろう」
当時は昼間しかありませんでした。
そこで、神様たちは夜をつくることにしたのです。
一夜明けて、ヤミーはこう言いました。
「昨日、ヤマが死んだ」
もう一夜明けると、嘆きはこう変わりました。
「おととい、ヤマが死んだ」
一か月経ち、一年経ち、
徐々にヤミーはヤマの死を忘れていくことができたのです」(P87)


もちろん言うまでもなく、ヤマもヤミーも実在しない。
神様などいるわけがないし、ましてや会議を開くなどバカバカしい。
夜は神様がつくったものでもなんでもない。
地球誕生のときから夜は間違いなくあったはずである。
これは現代科学が証明してきたことである。

しかし、本当にヤマとヤミーはいなかったのだろうか?
科学は神話(宗教)を疑うことからスタートした一種の「おはなし」である。
いま科学は行き着くところまで行ってしまった感がある。
たとえば、科学に従えば、どんな人間も長生きすればいいということになる。
とはいえ病室で生命維持装置をつけられ生かされているだけの老人は幸福だろうか?
少なくとも科学は、この老人とその家族を救ってやる思想を持ち合わせていない。
ならば、神話をして科学を裁かせたらどうだろうか。
かつて科学が神話(宗教)を裁いたのと正反対のやりかたである。

科学は数字の思想である。
時計の知らせる「時間」を信じることから、科学的な技術革命が開始された。
だが、本当に時計は正しい「時間」を伝えているのだろうか?
時計は「時間」の本質を我われから隠しているとは考えられないか。
もし「時間」は数字ではないとしたらどうなるのだろう。
こんな突飛なことを考えられるのは、インド神話を足がかりにしているからである。
科学的に考えたら時計の示す数字を疑うなどキチガイ沙汰であろう。
しかし、芸術家はみな本能的に「時間」が時計で示されないことを知っているはずである。
20歳で死んだ青年が100歳まで生きた老人よりも多く「時間」を持っていた、
というようなこともありえない話ではないことを芸術家は薄々気づいている。
科学を疑うとは、数字を疑うことなのだろう。
さらなる飛躍をすれば、いつだって今日しかなく、明日は永遠に来ないということである。
明日は存在しないのかもしれない。

「臨床とことば」(河合隼雄・鷲田清一/朝日文庫)

→河合隼雄の信者だからだいぶ著作は読んできたが、
氏の対談集には当たりと外れがある。
ほかならぬその相手と話していたからこそ出てくる言葉の多い対談集が当たりだ。
いつもとおなじことを繰り返している対談集はまるで意味がない。
残念ながら、本書は外れである。対話ならではの魅力を発揮しているとは言いがたい。

さて、話は変わるがどうして河合隼雄は偉いのだろう?
もし多数のクライエントを救ったから、
というのであればもっと偉い人はほかにいると思う。
たとえば創価学会の池田大作はどれほど多くの底辺庶民を救ったことだろうか。
時代別の人口を考えるなら(むかしは人口が少なかった!)、
もっとも多くの日本人を救済したのは、あの悪評高き池田大作になるのかもしれない。
ちなみに平安時代の人口は550万人、明治初期は3500万人、いまは1億オーバー。
ただし池田大作の弟子筋は周囲に多大なる迷惑をかけているから、
かの名誉会長の存在の是非を軽々しくは論じられないのだろう。

それにしても河合隼雄はユング学者であることによって、どれだけ恵まれているか。
ユングなんて日本人はだれも知らないし著作も難解すぎてだれも読めないからこそ、
河合隼雄は日本で大活躍をしたのではないだろうか。
いざとなればユングという印籠を出せばいいのは、水戸黄門とおなじなのだから。
たとえユングがインチキでも救われている人がいるならばOKというのがわたしの考えだ。
創価学会の存在も(わたしに迷惑を及ぼさない限りにおいて)高く評価している。

現代において宗教を真剣に語ろうとするならば、
どうしてもインチキ臭くなってしまうのだろう。
ここに河合隼雄と池田大作に共通する危うさがあるように思う。
かりにあなたやわたしが救われるのであれば、インチキでもデタラメでもいいのである。
そして、人生では統計や確率からはとても信じられない「一回だけのこと」が生じる。
この偶然的なデタラメの「一回だけのこと」に賭けようというのが、
河合隼雄や池田大作といった宗教家のすすめる人生作法ではないだろうか?
99%起こらないとされていても、
1%の確率で起こってしまう「一回だけのこと」が人生にはあんがい多くあるような気がする。
「一回だけのこと」を計測から予想することはできない。
例を挙げれば、先頃の地震による原発危機もそうだったのではないかと思う。

「現代社会においては、下手をすると、「計測不能」なものは、
すなわち「存在しない」という烙印を押されそうなのである」(P15)


しかし、それにもかかわらず、「一回だけのこと」は起こってしまうのである。
だから人生は怖いし、だから人生はおもしろいのだと思う。

「母を訪ねて山頭火」(松原泰道/佼成出版社)

→著者の松原泰道は臨済宗の偉い僧侶だったらしい(故人)。
なぜ偉いかといえば、以下の3つの理由が挙げられるのだろう。
1.臨済宗妙心寺派教学部長。
2.「般若心経入門」(祥伝社刊)が記録的ベストセラーになる。
3.受賞歴――1989年仏教伝道文化賞受賞、1999年禅文化賞受賞。

山頭火も(道元を開祖とする)曹洞宗の僧侶であった。
僧侶になるとは、どういうことか?
既存の僧侶に師事して、師匠から僧であることを認められたら自称できるようだ。
臨済宗と曹洞宗は、どちらも禅宗である。
本書の内容は、山頭火がいかに禅僧として偉かったか、である。
山頭火のいわゆる禅境(悟りのレベル)がどれほど深かったか、が書かれている。
山頭火の偉さがわかるから著者の松原泰道も偉いと主張したいふしがうかがえる。

ところが、なのである。
本書の口開け3行を読んで、著者が偉いのか疑問に思った。
辟易したといってもよい。「はじめに」から引用する。

「私がはじめて種田山頭火の作品を知ったのは、
私が早稲田大学文学部に在学中の昭和のはじめで、山頭火の晩年です。
当時、山頭火の心酔者も多かったのですが、
私はなぜか彼の自由律の句にあまり好感を持てませんでした」(P1)


とても禅僧の書いた文章のようには思えないのである。
「私が」「私が」「私は」――。この過剰な自己顕示欲はどうだろう?
「私」などぜんぶカットしたほうがよほどまともな文章になろう。

「はじめて種田山頭火の作品を知ったのは、
早稲田大学文学部に在学中の昭和のはじめで、山頭火の晩年です。
当時、山頭火の心酔者も多かったのですが、
なぜか彼の自由律の句にあまり好感を持てませんでした」(P1)


十分意味が通じるし、このほうがすっきりしていいとは思いませんか?
最初の引用文はおよそ禅僧とは思われぬ、我欲のかたまりという気がする。
しかし、著者の松原泰道は偉い禅の僧侶であることになっている。
彼によると山頭火は実のところ俳人のみならず禅僧としても偉く、
そのことを発見した自分も偉いということらしい(後者は匂わせているにとどまる)。
松原泰道によると、山頭火のこの句がいいらしい。
破れかぶれの乞食坊主が曹洞宗の総本山、永平寺に詣でたときに作った句である。

「法堂あけはなつ明けはなたれている」

著者は、禅のレベルの低い人間にはこの句のよさがわからないだろうとうそぶいている。
正直白状すると、どこがいいのかほとんどわからない。
とすると、こちらの禅境は浅いのだろうか?
しかし、山頭火とおなじようにぼろぼろになるまで大酒をのむ煩悩を持っているぞ。
悟り澄ました松原泰道は、おそらく道徳的で面白味に欠ける人物かと思われる。
どうして松原泰道の判断する禅レベルが正しいということになるのだろう?
なるほど、松原泰道は世間的に見て偉いということになっているからである。
だが、禅境の深浅はそういう肩書の問題ではなかろう。
いったいどの感覚器官で禅境の上下、高低、深浅は測られるのだろうか?
禅における悟りとは、果たしてだれがどこに着目して判断するのか。
あたかも狂人のように「悟った!」と自称したら偉いようなところがあるのではないか?

しかし、それは山頭火もおなじようなところがある。
この俳人は生きているあいだ、とにかく周囲のものに迷惑をかけつづけた。
山頭火の正体は、アル中で借金をしても返さない人格破綻者である。
ところが、日記を読むと松原泰道とおなじで悟り澄ましたようなことが書いてある。
たぶん山頭火はインチキの偽物だったような気がする。
しかし、インチキだからこそ本物であるような気が「わたしは」するのである。
松原泰道にはインチキめいたところがまるでなく、おそらく本物なのだろう。
ところが、それゆえにこの高僧がインチキ臭く思えてしまうのは、いったいどういうことか。
山頭火は存命時にまるで偉くなかった。バカにするものも多かった。
比して松原泰道はとにかく偉いということになっていた。
どうして死んでしまうと偉かった人間がくだらなく思えるのだろう。
逆にインチキめいた生臭坊主の山頭火が偉いように思えてしまうのだろう。

「怪談・奇談」(小泉八雲/平川祐弘:編/講談社学術文庫)

→ラフカディオ・ハーンが学者として偉いのかはわからないが、作家としては偉いと思う。
なぜかというと「怪談・奇談」がエンターテイメントとしておもしろかったからである。
「怪談・奇談」ほど難しい物語はめったにないのではないか?
いくら話者が幽霊を克明に描写しようが聞き手はまったく怖くないのだから。
重要なのは、語る順番=物語である。
書き手は最後まで知っていることを、どの順番で小出しにしていくか。
これは職人的な技術が必要とされることだと思う。
日本人妻の助けもあったのだろうが、ハーンの語り口は極めて巧妙である。

怪談の基本構造はこうである。
まず、なにか不思議なことが起こる。
どうしてそれが生じたかを順を追って説明していくのが怪談といってよいのではないか。
このため怪談が死にまつわる「おはなし」ばかりになるのは当然である。
あらゆる時代の人間にとって死ほど不可解なことはないのである。
死ほど理不尽で説明のつかないものはない。
だから、この不思議をめぐって怪談が物語られるのだろう。
大半の怪談をおおざっぱにくくるならば、「死んだ人が実は死んでない話」になると思う。
怪談の物語る内容は、死は終わりではないということだ。
考えてみると、実際どうして死が終わりであろうか。
たとえば我われは夜見る夢でいくらだって死者と逢えるのだから。

死は終わりではないということは、現在の生の実質をも変化させる。
なぜなら前世という考えが生まれるからである。
現在こうなのは、もしかしたら前世が関係しているのかもしれない。
これもハーンの怪談で多いパターンである。
我われはわからない。どうして生れて来たのか。死んだらどこに行くのか。
これはハーン存命時のみではなく、いまもってわかっていない。
生死(しょうじ)の不可思議である。
怪談はこの謎を解く。前世の因縁で人間はまったく不平等に生まれ落ちる。
人間が死んだ後も消えないものはあり、それは来世へとつながっていく。
この生死の物語の正誤は科学ではわからないけれど、
そう考えたら現在のかなりの不幸が納得のいくものとなる。
前世や来世がなかったとしたら、今生はやりきれないばかりではないか。
この不平等はどうだ! どうしてこんなと叫びたくなるような不幸が浮世には多すぎる!
不遇のまま死んでいったものたちの呻きをハーンは怪談として聞いたのだろう。
聞いた後に書いたのだろう。怪談は死者の物語である。
怪談で生者と死者を取り次ぐのはもっぱら和尚である。
和尚の「おはなし」に耳を傾けてみよう。

「あなたは今、大変危ないめに遭うておられる。
これはあなたが前世で犯した罪の報い。
かの死霊に祟られるのも、業に因るので、この業は相当に深い。(中略)
あの女性(にょしょう)は、あなたが憎うて、
仇(あだ)をなそう害をなそうと付きまとうているのではない。
そうではなくて、恋しい慕わしいの一念で執着しておるのだ。
可哀そうに、あの娘は今生の遥か以前から、おそらく三世も四世も前から、
あなたに焦がれつづけている。生まれかわり、死にかわり、
転々と生を変え、姿を変え、それでもなお、あなたを思い切れんものと見える。
これはよくよくの悪因縁で、逃れることは容易でないぞ」(P125)


たとえば躁うつ病患者の狂的な異常行動は、
この「おはなし」でしか説明できないほどの理不尽さがあるように思う。
逆にいえば、こういう「おはなし」を想定すれば、どんな不遇も腹に収まる。
あらゆる不幸は結局のところあきらめるしかないのだが、
どうしたら今生の無念を断念することができるのか?

「あれは、まことに悪い因縁でな。萩原様もずいぶんお苦しみになったろう。
それにまた、ああ悪い奴が側に仕えていてはな。
それもこれも、仕方のないことで、萩原様の命運は、
生まれる前から、こうなるものと定まっていたのだ。
お前もこのことで悔やまぬほうがよいぞ」(P134)


5月8日に再放送された山田太一ドラマ「鳥帰る」を視聴する。
田中好子追悼特集。NHKアーカイブス。平成8年放送作品。

朝の通勤電車に乗る。満員である。人と人の距離は不愉快になるほど近い。
しかし、物理的な距離はどれだけ近かろうが、心理的な距離は果てしなく遠い。
電車のなかのほうは比較的、空いているのである。
少しだけでも詰めてくれたら、入口付近の乗客はどのくらい助かることか。
ひと言いえばいいのである。「ちょっと詰めてください」
「ああ、いいよ」「おっと、おねえちゃんよく逢うね」
「おじさん、今日のネクタイいいですよ」
「わかる? 娘にプレゼントしてもらったんだ」「へえ、娘さんおいくつ」――。
というふうにはならない。どうしてかならない。なればどんなにいいと思うが、ならない。
だれもが満員電車で押し合いへし合いしながら沈黙している。
帰りの電車もおなじである。車内で思う。どうしてこんなに人が多いのだろう。
帰宅して夕飯を食べ、ふとまた思う。
どうしてあんなに人がいるのに、自分はひとりなのだろう。孤独なのだろう。
翌朝の通勤電車はうまくもぐり込むことができた。
今日の混雑もひどい。
ドアの閉まるアナウンスが流れているのに、まだ乗車できない人が入口付近に大勢いる。
昨日の自分である。ひと言いえばいいのである。
「こっち空いてますよ。みなさん、少し詰めてください」
だが、いうことはできない。困っている人を助けられない。
孤独から逃れることができない。孤独な人と孤独な人が交流することはない。

たしかに通勤電車ではそうだろうが、旅先だったら違うのではないか?
日常はそんなものだろうけれど、非日常の旅先だったら声をかけられないか?
孤独な人間がいっとき救われるようなこともあるのではないか?
ないといわれたらないのだろうが、それでもあったらどんなに気持が救われるか!
山田太一がドラマ「鳥帰る」に込めた願いである。

初老の杉浦直樹は旅先で田中好子に声をかける。
「余計なお節介かもしれないけれど」
「余計な口出しだろうが」
「迷惑だろうけど、気になってね」
なぜかといえば「人の役に立ちたい」と思ったからである。
学芸員の仕事を定年退職したら、60歳になる妻は認知症になっていた。
だれも識別できないのに、夫の杉浦直樹だけはわかるのである。
美談ではない。夫だけ毛嫌いして自分のそばに近づけようとしない。
自分の人生はいったいなんだったのだろう。杉浦直樹は思う。

田中好子も孤独である。一緒にスナックを経営していた夫は女を作って逃げていった。
「ひとりっきり。だれかにすがりつきたい」のである。
だれかとは故郷の母親(香川京子)だ。
田中好子は結婚に反対する母親を文字通り突き飛ばして東京へ出ていった。
それがこのざまである。「ほうらやっぱり」なんていわれたら悔しくて仕方ない。
しかし、東京にはだれも友人はいない。耐え切れないほど孤独である。
娘に出て行かれた香川京子もまた孤独なのだから。
二階を若夫婦に激安で貸したのはいいが、なんのかんのと世話を焼いて嫌われている。

美しい田中好子にカメラを向けるものがいる。
カメラマン志望の青年(村上淳)は、パチンコ屋で働きながらいいかげんに生きている。
このままではいけないと思い、カメラを持って旅に出たのである。
知らない人をカメラで撮影するというのは、人の迷惑を考えない非常識な行為である。
このため杉浦直樹は村上淳をとがめる。
しかし、知らない人に関わっていくというのは、そういうことである。
杉浦直樹が田中好子に声をかけたのと、カメラを向けるのと、どこに違いがあるのだろう。
知らない人にカメラを向けられて怒るのは先進国の人間だけである。
東南アジアやインドへ行こうものなら、カメラを向けたらニッコリ微笑んでくれる。
田中好子はいいという。構わないという。自分の写真を撮ってもいいと村上淳にいう。
こうして3人の旅は始まった。孤独な人間が3人集まった。
どこに行くのか? おなじように孤独な香川京子のところへである。

孤独な人間は嘘をつく。孤独な母子はお互い「ひとりでもさみしくない」といい張る。
田中好子「幸せだけ」
香川京子「幸せだけ」
「いまがいちばん幸せ」「ひとりで幸せ」「うーんと幸せ」「こっちもうーんと幸せ」
母子の対面はわずか20分で終わる。
孤独な人間同士が気持の交流を持つことはなかった。
母と子という絆で結ばれたふたりも孤独なまま救われなかった。
おそらく現実はこんなものだろう。
しかし、「鳥帰る」は現実ではなくドラマである。それも山田太一ドラマである。
寒々とした孤独地獄を開放するお節介を焼く人物が決まって現われるのである。
「鳥帰る」では杉浦直樹がお節介マンの役どころを務める。

逢ったばかりの女性の、それも母親に杉浦直樹はいい放つのである。
失礼と紙一重な行為である。
もしかしたらカメラマンの青年に勇気をもらったのかもしれない。
見知らぬ人にカメラを向けるのは、そんなにいけないことだろうか?
杉浦直樹はいきなり香川京子を訪問して問うのである。
「本当にお幸せですか?」
家族や親友にも向けない刃(やいば)を突きつける。
「おかしいですよ。見ず知らずの人の心配をするなんて」」
「ほんとおかしいですね」
「見ず知らずじゃないかもしれないけど」
「いいえ、見ず知らずです」
「――」「実は――」
杉浦直樹は妻が認知症になったいきさつを香川京子に告白する。
「私という人間は元々冷酷なところ、人を傷つけるようなところがあったのかもしれない」
もちろん常識人は「勝手な話でご迷惑ですよね」と失礼を詫びる。
しかし、「お互い求めているんなら素直にならなくちゃ」と主張する。
認知症になってしまったら、気持の交流どころではないのである。
「お互い求めているんなら素直にならなくちゃ」――。

香川京子もおのれの孤独を告白する。
「おんなじ。私もひとりじゃけ。時々、さみしくなって。
時々、だれかに首を突っ込みたくなる」
娘が自分に逢いたがっていたことを香川京子は杉浦直樹から教えてもらう。
それから、しみじみと孤独な老女はもらすのである。
「逢いたい(といわれる)。嬉しいもんですね」
杉浦直樹はうなずく。逢いたいというのなら、こちらから逢いに行こう。
香川京子は杉浦直樹に連れられ娘に逢いに行く。
今度は香川京子のほうが強く娘に逢いたがるのである。
「早う、娘に逢いたい」――。
たいがいのお節介は失敗に終わるのだが、「鳥帰る」では奇跡的にうまくいく。
孤独な人がそれぞれ少しだけ救われる。
それぞれ孤独な母子は涙の再会を果たす。

再会というのは本当にまったくドラマの原型といってもよいのではないか。
再会があるかもしれないから、人は生きていけるのかもしれない。
生きていたら再会することがあるかもしれないのである。
どうして死んではならないのかといったら、再会がかなわなくなるからである。
逢いたい人がいる。いまは逢えないけれど、もう一度逢いたい人がいる。
いつか逢えるかもしれないと思って生きている。
これはわたしだけではないはずだ。
だから、再会のドラマ「鳥帰る」は観る人の胸を打つのだろう。
孤独な人間は山田太一ドラマになにかしらの希望を見いだすのだろう。
ふたつの書評があると思う。タイトル通り、生かす書評と殺す書評である。
プロのライターが商業誌に書く書評は、
かならず対象書籍を生かすものでなければならない。
内容を批判するにしても、本当かどうか読者に確かめさせるよう導く書き方が必要だ。
わたしもあるプロのライターさんの書評ブログを読んで買った本が何冊もある。

一方で「本の山」がやっているのは殺す書評なのだ。
むかしからコメント欄でよく言われた。
「本の山」を読むと、本を読んだ気になってしまい読書する気がなくなると。
とても嬉しい感想である。してやったりと思う。
どういうことかというと、わたしは書評家ではなく、あくまでも読者なのだ。
読者は本の著者と一対一の勝負をしている。勝つか負けるか、である。
「負ける」というのは、詳しくは本書を読んでください、で締める感想文のこと。
「勝つ」というのは、もう本書の内容はわかったから読まなくてもいい、
とまで満足していただく感想文のことである。

アフィリエイト(金儲け)のことを考えたら生かす書評のほうがいいのは当たり前だ。
プロのライターが殺す書評をやってしまったら出版業界のつまはじきものになる。
言うまでもなく、お金がまわらなくなってしまうからだ。
しかし、素人の趣味ブログであったら、殺す書評をやってもいいのではないか。
基本的にアル中のせいか物忘れが激しいから、読書しても内容をすぐに忘れてしまう。
けっこう書き手は「本の山」の記事を読み返したりしているのである。
そのたびに発見があったりするのだから、
自己愛の強さを告白してしまったようで恥ずかしい。
殺すというのは、完全に自分のものにしてしまうということなのだと思う。
もうこの本は読む必要はない、と思えるまで内容を書評(感想文)で奪ってしまう。

たいがいの大人は忙しいでしょう。余談だが、これをわからずよく失敗をするのだが。
読書する暇のない忙しい人のための「本の山」なのである。
うちの記事を読めば、本を1冊読んだのとおなじ効果(満腹感?)がある。
なかには手を抜いて書いた書評もあるが、そういうのは読書でも肩の力を抜いている。
仏教書や古典文学の書評こそ、実のところ評価していただきたいのである。
(実際はそういう記事ほど読まないで飛ばされているのでしょうが、アハハ)
あんなものはふつうに生活していたら、とても読めたものではない。
世捨て人にしか読めないのが仏教書や古典なのだろう。
しかし「本の山」をお読みくだされば、原典を読んだのに極めて近い読後感を得られる。
なぜなら、書き手がいち読者として古典を殺そうと思っているからだ。

ふたつの書評がある。生かす書評、殺す書評。
競争社会を生きる日本人は、ふたつのものがあるとすぐに優劣をつけたがる。
だが、どちらの書評が勝っているというわけではない。
どちらの書評にも一定程度の役割があるのである。一長一短があると言い換えてもよい。
生かす書評、殺す書評、ふたつに共通しているのは、
どちらも本当に対象書籍を理解していないと書けないということである。
アマゾンのレビューと比べてもらっては困るという話だ。
まずは肩のちからを抜いていただくために軽い裏話から始めます。
だれも傷つけない笑い話ですが、笑えなかったらごめんなさい。
ふとしたきっかけからアマゾンのアフィリエイト結果を調べたらおもしろくて。
結構ね、うちのブログから「もてない男」の小谷野敦さんの本を買っている人が多いの。
だけど、みなさんぜったい定価では買っていないのですよ。
新品でも買えるのに、どうしてかマーケットプレイスの1円本を購入しています。
それでも配送料の250円はかかるのですが定価では買わない。
ほんと小谷野さんは読者から好かれているのか嫌われているのかわからない。
なにがなんでも印税を著者にやりたくないという読者がいるということですから。
もちろん1円で購入されてもうちには1銭も入ってきません。ご安心ください。

あれを知りたいのよね。贈呈本の裏事情を知りたい。
だれがだれに自著をどの程度の頻度で送っているのか。
「考える人」の連載エッセイで知りましたが、
「男性自身」の山口瞳さんは本をすべて山田太一さんに贈呈していたという。
反対に脚本家は謙遜(悪遠慮)から、自著を直木賞作家に送らなかったらしい。
たまに感想を書いた礼状を書くくらい。
山口瞳さんは自分の気持をきっとわかってくださる。
失礼な若輩とは思わないはず、と山田太一さんは信じていたとのこと。
どちらも好きな作家ですから、ふたりのそういう関係は驚きました。

さて、現代はだれとだれが書籍を贈呈しあっているのでしょう。
世渡り下手を自称する小谷野敦さんもけっこう贈呈しているとか。
だったら、なんて甘えを恥ずかしくも思い上がって書いてしまうと、
もし住所氏名をお伝えしたらご本を贈呈してくれるのかしら……。
「母子寮前」とか読みたいのですが、経済上の理由でちょっと。
図書館に行く習慣はありません。
「クレクレ乞食」が主張したいことではなく、もし贈呈されたらの話。
万が一、小谷野さんにご著作を贈呈してもらったら、ぜったいに悪口は書かない。
さすがに好きな作家からいただいたご本を批判できるほど強心臓ではありませんから。
(念のために書いておくと贈呈依頼はもちろん冗談ですよ!)

この手をうまく使えば、派閥ができるのではないでしょうか。
あんがいむかしの文壇も贈呈本の輪で閉じていたのかもしれません。
もらった本の悪口を書ける人はそういないでしょう。
つまらないと思っても、かならずや表現をやわらげるはずです。

だとしたら、そもそも本の感想などいいかげんなものではありませんか。
いま宮本輝さんの最新小説「三十光年の星たち」が本屋に積まれています。
上下巻3000円以上支払っては買えません。
もし定価購入したとしたら、ひどく厳しい書評を書くことになります。
おそらくいつものように勝ち誇った説教に満ちあふれているでしょうから。
しかし、もし万が一、宮本輝さんから贈呈されていたら――。
基本的にはファンですから光栄に思い、書評で激賞することでしょう。
S学会の人から寄贈されたらどうするか?
このときもプレゼントしてくれた人の顔を立てて表現をやわらげます。
ブックオフにて210円で買ったときの感想と定価購入時の感想も異なるでしょう
結論を書きますね。
もしかしたら本の感想などすべていいかげんなものではないでしょうか?
学問的(客観的)な評価(感想)などありはしない。
読書感想文はすべて主観も主観、わたしわたしわたしの偶然的物語である。

すべての感想がいいかげんなら、コンクールや新人文学賞の当落も偶然になります。
その日の気分によって感想なんていくらだって変わるのではないでしょうか。
どういう順番で応募作を読んだかで評価などいくらでも変化するはずです。
さらに飛躍しましょう。
すべての感想がいいかげんだから、マスメディアの戦略でベストセラーを生み出せる。
テレビで取り上げられたら、くだらぬ本が国民的感動作になってしまう。
それがおかしいと批判しているのではなく、そもそも人間の感想はいいかげんだ。
好きなタレントが帯で推薦していたら、思わず泣いてしまう読者もバカではない。
なぜなら、すべての感想はいいかげんだからです。

まえにも書いたことのあるような気がしますが、去年の1月でしたか、
山田太一さんと極めて近い席でお話できるかもしれないというチャンスがありました。
尊敬する作家の姿が見えたとき、
どうしてかわたしは「失礼します」と仲介のかたに挨拶してその場を去りました。
そのあと人気作家とファンふたりはファミレスでビールをのんだそうです。
もしあのとき山田太一さんにビールをご馳走になっていたら――。
最新小説「空也上人がいた」の感想文をあのようには書かなかったでしょう。
それがよいことなのか悪いことなのかはわかりません。
ただし芥川賞の選考委員が候補者と授賞式以前に馴れ合うのは、あまり感心できません。
あれはよくないことではないでしょうか。
しかし朝吹真理子さんとセットでなければ
西村賢太兄貴はまず芥川賞を取れなかったでしょうから、
これも一概には是非をいえないのでしょう。
この時期に賢太兄貴が天下の芥川賞作家に成り上がったのも、
将来的に見たらよいのか悪いのかわかりません。
朝吹真理子さんの若年での幸運も、死ぬまでプラスかマイナスかはわからないでしょう。
いまさらしつこいのは十分に承知していますが、シナリオ・センターは商売がうまい。
たとえば、なぜシナセンの先生が偉いかといえば、
生徒の実績があるからと向こうは主張するかもしれない。コンクールの入賞実績。
しかし、嘘つけって話なのね。だって、そうでしょう。
1500人が応募したコンクールで1、2人大賞や佳作を取ったとする。
だから、シナリオ・センターの教育はすばらしい? とんでもない!
なぜなら応募した1500人のうちにシナセンのお客はどのくらいいるか。
あの学校はとにかく安さで大量集客しているわけね。
2ヶ月通った生徒も、1回も課題を出さなかった通信生も出身者としてカウントしている。
へたをすると応募者中、シナセンのお客は半数から2/3いるのではないか?
だとしたら750~1000人が名門のシナリオ・センターに通ったにもかかわらず、
落ちたということになるわけでしょう。そうなりませんか? なら、どこがすごいのよ。

ここの学校で教わったのは、シナリオは紙くずだということ。
所長さんが講義で繰り返し仰せになっていたのを思い出す。
「どうせあんたたちの書いたシナリオなんか、若手ディレクターが撮るのよ」
「あんたたち新人の書いた3行以上のセリフを
俳優さんがそのまましゃべってくれると思う?」
わたしはこの教えを聞きながら、
壇上の所長さんは何十本もドラマを書いた元脚本家なのだとすっかり騙されていた。
ゼミの講師も(あの人だけかもしれないが)生徒のシナリオを紙くずのように扱うのね。
読むのがいやなのはわかるけど仕事でやってるんだから、もう少しどうよ?

同様、シナリオは紙くずだから、執筆経験のない代表さんでも教えることができる。
1回くらい応募してみればいいのになぜか書かない。
そのくせ人間教育の一環として大学や小学校でシナリオを教えているのだから。
このまえ電話で代表さんと話したときに聞いたのね。
「どうして自分はシナリオを書かないのですか?」
「書きたいことがないから」
「じゃあ、どうして人には書け書けとすすめるのですか?」
「人それぞれだからいいでしょう。私の勝手でしょう」
「矛盾していませんか?」
「あなた、そういうことを言うのなら(電話を)切るわよ!」
すごい剣幕で叱られてしまった。偉い人を怒らせると怖い。
まあ、「金を儲けたいから」「先生と尊敬されたいから」とは言えないよね。

「あなたが落ちるのはうちのせいじゃないから、
これからもがんばってぜひコンクールを取ってください。授賞式で逢いましょう」
電話の最後で、人格者の代表さんから励ましていただいたので感謝している。
世の中には元から(生まれながらに)授賞式に参加できる人と、
血の汗、血の涙を流しながらがんばらないと表彰台にのぼれない人がいるのである。
「がんばってコンクールを取って代表さんと再会するのを人生の目標にします」
健気にもこう答えたわたしを、もしかしたらシナリオ・センターの代表さんは
「あいつも少しは大人になったか」と認めてくださったのかもしれない。
みなさまも大小を問わず突然の不運に見舞われることがあるのではないでしょうか。
そういうとき、どう考えたらいいのか。
最近のわたしは「人生、こんなもの」と念仏のように唱えるようにしています。
人生、こんなもの。
そう考えてみたら、人生なんてうまくいくほうがめずらしいのですね。
浪人したけれども東大に落ちた。
でも、いまから考えたら、まあ、わたしの頭では無理だったろうなと。
女性からいきなり絶縁される。
でも、よく考えてみたら、こんなわたしでしょう。
かえって、相手の幸福を思うならばこのほうがよかった。
入社試験やコンクールに落ちるのも、お見合いでダメだしされるのもおなじ。
人生、こんなもの。こんなものですって。

だれもが、うーん、だれを例に出しましょうか。身近なところから。
だれもが宮本輝さんや山田太一さん、小谷野敦さんのように成功できるわけがない。
人生、こんなものであります。
宮本先生は、入信している宗教団体の教義にしたがい、
だれでも長い時間をかけて努力すればかならず勝利できるとおっしゃることでしょう。
山田先生は、おのれの限界を見極め程よい断念をすることが幸福だと主張しています。
小谷野先生は、自分はまだ成功していない、もっと上がいると言い張るのかしら。

しかし、だれもが小谷野さんのように多数の女性と交際できるわけではありません。
ほとんどの男性は彼のように自分よりもはるかに若い東大卒の美人とは結婚できない。
大半の人間にとっては、
自著を商業出版で1冊上梓できるだけでも泣くほど嬉しいことなのです。
たとえ大して売れなくても。
しきりに不遇自慢をしている「もてない男」と自分を比較しても苦しむだけです。
ならば、どうしたらいいのでしょうか。
人生、こんなもの。そう割り切るしかありません。
成功者の二世(ぶっちゃけ三世までかな)は、結構簡単に自著を出せます。
有名人の娘や息子というだけで陽の目を見ている人が大勢います。
しかし人生、こんなもの。自分と比較してはいけません。見なければいいのです。
念仏のように唱えましょう。人生、こんなもの。

ここまではある程度の共感を得られるのではないかと思います。
さて「人生、こんなもの」の発展形「人生、そんなもの」はどうでしょうか。
テレビのニュースで見ました。
避難所のおばさんが土下座する某電力会社の社長に罵声を浴びせていました。
そうするしかない女性の気持はよくわかります。
しかし、「人生、そんなもの」という小さな声が喉を出かかっています。
先のことはだれにもわかりません。明日のことはわからないのです。
想定外のことの起こるのが人生ではないでしょうか。
息子が津波で流された母親が自動車教習所を訴えるというニュースを見ました。
避難させなかった教習所のせいで息子は死んだ。
しかし、あの津波が来ることは、まあ、ちょっと無理だったのではないでしょうか。
行き場のない怒りにお苦しみなのはとてもよく理解できますが。同情もしますが。
「人生、そんなもの」かもしれません。わかりませんが。

いいです。「人生、そんなもの」は忘れてください。
しかし「人生、こんなもの」は生きるうえで役立つ呪文になるかもしれません。
だれもが人生うまくいくわけにはいかないのです。
だれかがコンクールで入賞したら、その裏側では大勢が落選しているのです。
だれかにテレビドラマ脚本の執筆依頼がくるということは、
もしかしたらほかのライターが食い詰めるということなのかもしれません。
ひとりが勝利したら、かならずだれかが負けているのです。
人生の勝負はトーナメント方式ですから、敗者は勝者よりも圧倒的に多いのです。
人生、こんなもの、と思うしかないではありませんか。
こうして何度も書いているのは、なにより自分に言い聞かせたいからです。
人生、こんなもの。人生、こんなものであります。人生、こんなものだぞ。
わたしのストリンドベリが復活してしまうかもしれない。
白水社、書物復権のプロジェクトで5月20日「ストリンドベリ名作集」の復刊が決定した。
ここで商売上手のブロガーならアフィリエイトへリンクを張って、
絶対必読と叫び回ることだろう。
だが、「本の山」はもっと硬派なのである。
4725円は高すぎる。ストリンドベリはえらく読者を選ぶ作家だから、
この高値を払って冒険する価値があるかどうかわからないと助言するにとどめる。
でもまあ、世の中にはお金持がいるんでしょう?
考えたらお芝居なんて5000円以上がざらである。
そのことを考えたら新品「ストリンドベリ名作集」は高くないかもしれない。
以前、買いダブった「ストリンドベリ名作集」を
友人にプレゼントしたことがあって(いまでは)後悔している。
自分の好きなものを人も好きになるとは限らないのだから。
とくに女性蔑視主義者のストリンドベリは好き嫌いが大きくわかれる作家である。
購入に当たっては注意が必要である。
ちなみに、だれかがここで1冊買ってくれたらうちに150円入ります(笑)。
小声でやっぱりお薦めしておきます。
文学研究者、演劇従事者ならストリンドベリくらい読んでおかないと、なーんて♪



しかし、どうして原稿依頼が来ないのだろう。
疑うべくもなく、いま日本でいちばんストリンドベリに詳しいのはわたしである。
狂ったようにストリンドベリを愛している男がここにいるのになぜ無視するのか?
復刊にあたって「ストリンドベリの今日的意味」など、
拙稿を付け足してもよかったのではないか。
とはいえ、肩書はなんになるのだろう?
書評家? ライター? ブロガー? 
いいや、正々堂々、ストリンドベリ研究家でいいではないか!
ううう、もう高飛車になるのはやめよう。お願いします。
白水社さんでも、どこぞの雑誌社でも構いませんから、原稿を依頼してください。
商業誌に署名入り記事が掲載されたらもう一生額に入れて飾りますから。
原稿を編集者から大幅にリライトされても笑顔でぐっとこらえますから。
どうかどうか、わたくしめにどなたか原稿を依頼していただけませんか?

いかん、いかん。ストリンドベリ愛読者ならぬ弱腰を見せてしまった。
もう歳なのかもしれないな。
しかし、ストリンドベリの狂気は年を経るごとに増していったではないか。
そういえば村上春樹がどこかでストリンドベリに言及していたようである。
いいか、だれにもストリンドベリ利権は渡さないぞ。
ストリンドベリはわたしの作家である。
お知らせで書こうと思っていたのに忘れてしまいました。
感謝しなければなりません。ありがとうございますです。
うちのアマゾン、アフィリエイトでお買物をしてくださっているかたに敬礼しまっす。

(`・ω・́)ゝ

紹介比率、ご存知ですか? 多いのか少ないのか、うーん、3.5%なんです。
たとえば250円の古本を買ってくださいますと約10円がこちらに入ります。
昨年ですと毎月数百円くらいでした。百円台のときもありましたね。
アフィは殺風景なブログの飾りでつけているという面もありますから、
金額は気にしていませんでした。
しかし、先月が過去最高で663円もいただいちゃいました。
で、ついでだからと気になって調べてみたら1~3月で1465円も!
合計すると今年で2000円もの金額になります。
激安の居酒屋なら行けちゃいますね。あ、本でも買えって話ですか?

どこのどなたか存じませぬが、本当にご馳走様であります♪
つまらぬ文章でお目汚しするだけでも申し訳ないのに、ただもう感謝であります♪

(さらに追記)もしかして知りたい人もいらっしゃいますか?
先月の検索キーワードのトップ10を公開してみます。

1 宮本輝 創価学会 274
2 宮本輝 175
3 本の山 157
4 教行信証 154
5 シナリオセンター 97
6 山田太一 72
7 わけいってもわけいっても本の山 60
8 往生要集 59
9 道元禅師 58
10 苦役列車 52



人間から認められることはあまりないのですが、
どうしてかグーグル先生からは気に入られているようです。
願わくば、もう少し人からの評価を高めたいところです。がんばりまっす♪
こうまで人生というものは思うようにならないのか。
ほかならぬわたしがわたしの人生で発見した真実である。
もう年齢を言いたくないほどオッサンになってしまった。
人生は、本当にまったく思うようにならない。
いくらコンクールに出しても落とされる。好きな人は去っていく。
人生これままならぬものよ! 苦ばかりぞ!
しかし、ひとつだけ功徳があって、仏教書が読めるようになるのである。
ここまで思うようにならなかった人生だからこそ、
たとえば一遍上人の書いた言葉をいま結構すいすいと読めてしまうのかもしれない。
西洋の哲学書は知的虚栄心だけで読めてしまうところがある。
けれども、仏教書だけは見栄で読めないのではないか。
人生苦こそ仏教書の難解を溶かす秘薬なのであろう。

と、なんだかわかったようなことを書いてきたが、
そこまで人生苦を味わったという感覚はもうない。
10年まえなら世界でいちばん不幸だとどこかで思っていたけれども、いまは違う。
ありていに言えば、宗教に救われてしまったのかもしれない。
南無阿弥陀仏に癒されたのだろう。宗教はすごい。
わたしのような人間でも10年間、精神科のお世話にならずに済んだのだから。
メンタルなお悩みをお持ちのかたに宗教が意外と効くことを教えてあげたいくらいである。
どの宗教がいいのかを自分で決めなければならないところが難しいのだろう。

いままでの人生でのピークは、ちょうど「ありふれた奇跡」が放送されていたころである。
2009年の1~3月か。これと前後して1年半、幸福だった時期がある。
過去ログをお読みになられても(まあ、そんな面倒をする人はいないでしょうが)、
どのように幸福だったのかはさっぱりわからないだろう。書いていないからである。
かりに明日死んだとしても、あの楽しい1年半があったから悔いはない。
といっても人並みの基準からしたら、そう幸福な1年半でもないのかもしれない。
ただそれまでひどく孤独だったわたしがそう感じただけである。
こう書いてみると、自分があまり人生に期待しないようになっていることに気づく。
まあ、この程度だろうな、というあきらめの境地に年齢とともに達したのか。
上を見たらキリがないけれど、下を見てもキリがない。
最近、徳川家康が「瓢箪(ひょうたん)から駒」を座右の銘にしていたことを知る。
いい言葉だと感心する。
34歳。趣味は念仏。好きな言葉は「瓢箪から駒」。うん、まあ、この程度の男だろう。
最近やたらとさみしい。人恋しい。今日からしばらく禁酒をするつもりである。
「本の山」はFC2という会社の運営するブログ・システムを借りています。
FC2ブログには訪問者履歴というサービスがあるのですね。
おなじFC2ブログを訪問したら履歴を残せるというものです。
1ヶ月ほどまえから履歴を残さないように設定を変えました。
基本的に履歴を残してくださったブログは読んでおりますが、
こちらの履歴は残しておりません。
5、6年は訪問者履歴を残しておりましたけれど。
理由は厄介ごとから逃れるため。
うちのブログは少し常識外れのことが書かれていますでしょう。
ほかのブログの記事で正反対の主張がなされていることがあります(「がんばろう」とか)。
とすると、訪問者履歴を残すとまるで喧嘩を売っているみたいではありませんか?
べつに「がんばろうニッポン」でも「ひとつになろうニッポン」でもいいんです。
なにがいやかというと議論や論争です。
顔の見えないところで言い争いをしても時間の無駄です。
知らない人のブログに反対意見を書き込む人っていったいなんなのでしょう?
そういうトラブルをできるだけ防ぐために履歴の設定を変えました。
どうか関係者はご了承ください。見てますから。読んでますから。

それと、今年のあれは2月ごろでしたか。
「本の山」過去ログの大掃除をしました。
手厳しい他者批判の記事をあらかた削除しています。
(いまでも残っているのはある程度の覚悟のうえです)
吉野弘さんの詩集を読んで「正しい」ことを言う恥ずかしさに目覚めたと申しましょうか。
もちろん、出世のためという打算もありました。
「本の山」を閉鎖する予定はありません。
ということは、いずれ実名ブログ化するということになります。
まあ、いまでもちょちょっと検索したらわたしの名前くらい見つかるでしょう?
みっともないのは、それと一緒に誹謗中傷が2ちゃんねるに書き込まれていること。
あれを書き込んだのはシナリオ・センターOBのSさんなんですね。
なんで知っているかというと本人が懺悔・謝罪してきたからです。
善人なんでしょうね。こちらが驚くほど後悔していました。
変わった名前ですから、今後たとえばわたしが最終選考に残ったりする。
検索すると、あれが出てきちゃうのですね。
就職面接でもふつう志望者の名前くらい検索するでしょう。
だから、Sさんがあれだけ猛省していたのも理由がないわけではないのかもしれません。
少しでも彼の罪悪感を消すことができたらと池袋でお酒をご馳走になりました。
2ちゃんに悪口を書き込んだ相手と実際に逢っちゃうなんて、おれ、器が大きくね?
という自慢話でした(苦笑)。

無名人のやる実名ブログは売名意識のフルチン状態で恥ずかしくはないでしょうか?
作家で畏友の工藤伸一先生や白石昇先生のようなイケメンでしたら話は違うのでしょうが、
こちらは少しばかり薄気味悪いどこにでもいるオッサンですからね。
まだYonda?くんのかわいい写真を貼りつけておいたほうが好感度は高まるかと。

それから先月末、ノンフィクションライターの某氏から、
「漫画原作をいっしょにやりませんか」というお誘いを受けました。
この某氏の名前で検索したら、呆然としてしまうくらい悪評が高いのですね。
わたしは携帯の番号くらいでしたら、ほいほいお伝えします。
で、お話したのですが、わけがわからないんです。
ブログ「本の山」をほとんど読んでいないのには困りました。
それとわたしを女性だと思っていたらしいのです。
「他人は自分に関心を持たない」のだから仕方ないとあきらめました。
わたしも数々の失敗経験から多少は大人になっています。
その晩に三回も電話があり一方的になにか話していました。
今月はやりたいことがありますから来月お願いしますとお伝えしました。
にもかかわらず、翌日またお電話が。
「知り合いに女性ライターがいたら紹介してほしい」
もうわけがわからないので、関わりあいたくないと電話を切りました。
今月に入ってまた着信がある。生まれて初めて着信拒否をしました。
でもどうしてか、携帯がオンボロだからか、また電話がかかってくる。
「着払いでもいいからあなたの書いたシナリオを送ってください」とのこと。
素人の(本音ではプロのも)書いたシナリオなんてだれも読みたがらないのが普通。
そこまで言ってくださるならと昨日拙作をメール便で送りました。
本来ならこういう仕事の話はブログに書きません。なぜ書いたのか。
これを某氏がご覧になって流れるような話でしたら、流れてしまえ。
こんなところでつまずくようなら、かならず近いうちにトラブルになります。
漫画原作はシナリオよりはるかにギャラがいいという話を聞いているので
興味がないわけではありませんが、
しかしそんな「うまい話」はまず疑ってかかるべきでしょう。
果たしてこの先、どうなることやら。主義としてボランティアはやりません。
ちなみに、この件に関しまして守秘義務らしきものは堅持しております。

いまから考えてみると、の話です。
二度ほど映画シナリオのお仕事をやらせていただいたことがあります。
あのときの待遇は新人にはありえないほどよかったのだとしみじみ思います。
しっかり契約書も作られていて、こういうものなのかと勉強になりましたね。
たいがいは映像業界も出版業界も契約書を交わさないものなのでしょう?
口約束でやるのが通例で、トラブルの温床となっている。
契約書で踏み絵を踏んだのは苦い思い出です。明文化されているのですね。
わたしの書いたシナリオは映画関係者がだれでも書き換えることができる!
これにサインしてしまっていいのか、だいぶ迷いました。
結局は流れてしまいましたから、あんなに悩むことはなかったのでしょうが。
ともあれ、あのとき踏み絵を踏みましたから。サインしました。
シナリオが作者に無断で書き換えられるというのは、
実のところ山田太一さんが助監督をやっていた大昔からの慣例なんですね。
(最近、山田太一さんの雑誌連載エッセイを古本屋で立ち読みして知りました)
プロデューサーさんはこちらが新人だから、
業界の暗黙の了解を知らないだろうとわざわざ明文化してくれたのでしょう。
たいへんお世話になりました。わずかな期間、ライターでいられましたから。
確定申告で職業欄にライターと書き入れたとき、こそばゆかったです。
いつか恩返しをしたいとは思っておりますが、今生では無理かもしれません。

山田太一さんに関してのお知らせもありました。
「ドラマ・ファン」掲示板のあいどん氏の書き込みで知ったのですが、
5月8日(日)13:05~14:45 NHK総合 で山田太一ドラマ「鳥帰る」が再放送されます。
そうそう、大御所の山田太一先生の近年のドラマでさえ、
シナリオと映像を丹念にチェックしたら書き換えられているところがあるのですね。
ほかの脚本家のドラマでライターがどういう扱いを受けているかがわかるでしょう。
だから、たとえテレビドラマや映画がつまらなかったとしても、
それをシナリオライターのせいにしてしまうのはいささか残酷なような気がしませんか?
と問題提起をして、いろいろなお知らせを終えます。